もう誰も苦しまない世界が、きっと来ると信じている。
用意した三枚絵をはぎ取りながら、私は願う。
一人じゃないと思っていた。でも結局、私は一人だった。――今はそれでもいい、と思った。
(もし……もしも、次代の古代魔術の後継者が同じ考えを持ってくれるなら)
私は私の知り得た全てを、知識を、贈ろう。
他の守護者達と考えを違えても、私一人でも、信じて邁進するに値する希望だと思っているから。
だからこそ、願わずにはいられない。
この時代の悲劇と悲しみを、どうか探して、と。
30
『近頃、アンの容体が落ち着いてきた。
一時期は衰弱しきっていたが、最近では話せるようになり、少しずつ笑えるようになった。
週に一度、返事が来なくても構わないと俺は手紙を送り続けている。返事はまちまちだが、この間、一片の花びらが手紙に添えてあった。色は分からないが柔らかくて、もうすぐ春なのだと思った。
そういう、アンらしい気遣いが見えて嬉しかった――』
カリカリと、地下聖堂の木箱の上で手紙に羽ペンを走らせる。
アンへ宛てた手紙は既に自室で書いた。俺の梟は、いつも通り一声だけ鳴いて窓から羽ばたいて出ていった。
これは、セバスチャンへの手紙だった。
『彼が癒者を目指すらしい。
不可能を可能に変えてしまう不思議な彼のことだから、アンの呪いの解き方も、いずれ見つけてきてくれるかもしれない。
ゴブリンはハイランド地方から撤退を始めている。
俺の目には見えなくても、きっと、君がいつも語ってくれた穏やかなフェルドクロフトに戻っていくのだろう』
毎日話していたのだ。書きたいことは、とめどなく湧いて出た。
台にしている木箱の中には、数十枚の手紙が溜まっている。
31
地下聖堂に降りると、オミニスとすれ違った。
彼の杖を上げた右手から、すんとインクの匂いがする。
(セバスチャンへの、手紙)
以前たまたま見つけてしまって、見なかったことにした、木箱の中身。
一言、二言交わしながら、気付かれないようにさりげなく観察する。
彼の顔色は、あの事件の頃と比べて、もう悪くない。
オミニスは弱くない。最初から最後まで正しくて、悲しみを受け止められる器があった。
「癒者を目指すんだってな」と尋ねられて、みんな耳が早いと思いながら素直に頷くと、オミニスはなぜか礼を言った。
「お礼なんていいよ。オミニス。だってこれは、セバスチャンとの約束だから」
「ああ。だからさ。セバスチャンを忘れないでいてくれて、ありがとう」
セバスチャンの一番の親友。いつでも正しくて、実は心が強くて、いつでも彼を思っている。
オミニスに返してあげたい。アンも。セバスチャンも。出来ることなら。
(せめて、アンを)
この友人の親友を、谷底に向かって突き落とした僕に、他にいったい何ができるだろう。
オミニスと別れて、三枚絵の前に立つ。
こうしてみると、肖像画ではなく、何の変哲もないただの風景画だ。
三枚絵の額縁は、イシドーラの家にあった燃やされた肖像画と同じ作りだった。やはりこのキャンパスは、わざわざ三枚絵として、肖像画の額縁をしつらえたのだ。
(どうして三枚絵だったのか。やっとわかったよ、イシドーラ)
そっと正面の絵をなぞる。
すっかり乾いた油絵は、少しくすんではいたものの、恐らく当時とそんなに変わらない発色を保っていた。
誰の声も聞こえないとわかっている。でも、もしも声が聞こえたのならば。
(君は一人じゃないと思ってて、けれど、一人になってしまったんだね)
――イシドーラのほかに、"誰"と"誰"の声が、聞こえたのだろうか。
32
久しぶりに星座の観測に行こうと、箒でピット・アポン・フォードの方へ向かっている途中、この辺りでもひときわ高い塔の上で望遠鏡をのぞく彼を見つけた。
木組みの張り出しに即席の観測所を作っている。勝手にいいのかと思ったが、既に何百年もの間ここは廃墟であって、確かに彼を咎めるような人は居ない。
少し悩んで、けれどやはり楽しそうだったから、僕は声をかけることにした。
「やあ」
「――やあ、アミット」
急に話しかけられたせいか、ぽかんとした彼は少し遅れて挨拶を返した。
箒から降りて横に立つと、古びた板が不満を言うように軋んだ鈍い音を立てる。足元に目をやるが、壊れてしまう様子はなさそうだった。
「そうだ、よかったらお茶でもどう?」
「ここにあったものじゃないよね?」
「違うよ!僕がちゃんと持ってきたものだよ」
心配になって尋ねるとすぐに慌てて否定した彼に、声を出して笑う。
じゃあ貰おうかなと受け取ったカップに入っていたのは、華やかな香りのアールグレーだった。
そういえば一年前も、マルワンウィームで、こうやって彼と星を見ながらお茶を飲んだなあなんて考える。あの時には、こんなに仲良くなれるとは少しも思っていなかった。
でも、彼が一年前と同じ憂いを抱き続けていることは、きっと変わらない。
「……ねえ。セバスチャンには、会いに行けないの?」
尋ねると、覗き込んでいた望遠鏡から顔を離し、彼はゆっくりこちらを向いた。
今は学生だから会いに行けないのだろうか。
セバスチャンに何があったのか、それに興味があるわけではなく、なぜ彼が会いに行くことが出来ないのかが気になった。
けれど彼は、「うん」と短く頷いただけで、全く違うことを僕に問いかけた。
「あのさ、アミット。君は、イシドーラは悪だったと思う?――もちろん、僕から聞いた話と、一緒に行ったいくつかの遺跡や鉱山で得られた断片的なことしかわからないと思うけど」
彼と訪れたいくつかの遺跡。彼に見せてもらったイシドーラ・モーガナークの手記。なんとなく読み取れる、当時の時代背景と彼女の立場。
彼の言う通り、僕が知っていることはあまりにも断片的だ。それでも、もし答えを出すならば。
「結局、という意味で言えば。許されないことだったんだろうなと、僕は思うよ」
「……そっか」
返した言葉に、辛そうに視線を下げ、彼はそのまま俯いた。
33
イシドーラは許されないのだろうか。古代魔術の守護者たちは正しかったのだろうか。
セバスチャンは確かに許されないことをした。でも、アズカバンに入れたのは本当に友人として正しかったんだろうか。
ランロクも、ルックウッドも許せなかった。だけど、僕と彼らは一体何が違うんだろう。
「以前ね」と、知性のレイブンクローのローブを夜風になびかせながら、黙り込んでしまった僕の代わりにアミットは言葉を続けた。
「善と悪とは、それを決める人の立場によるという話を読んで、僕はその考えがとてもしっくりきたんだ」
「立場……」
善悪は表裏一体だという意見を聞いたことはある。片方から見て善であっても、一方では悪なのだと。もしくは、最後に勝ったものが善や正義を名乗れると。そういうことだろうか。
僕には、その考えはどこか腑に落ちない。
首をかしげると、いつも早口なアミットが、ゆっくり考えながら言葉を選んでいた。
「悪というものを考えるとき、それを決めるのは果たして誰だと思う?」
「誰って言われても。その、勝手に決まってるものじゃないの?」
「うーん……僕はね、悪というものを決めるのはいつだって”被害者”の立場だと思うんだ。たとえ被害者の側に、被害を受けるだけのどんな理由があろうともね。被害者自身からすれば理由なんて知ったことじゃない。――犯罪だってそうじゃないか。犯罪が犯罪として成立するのは、被害者の立場から物事を見るからだよ」
だからこそ復讐はなくならないし連鎖するんだと、歴史を学ぶアミットは悲し気に呟いた。
「じゃあ、善は?」
「概念としての絶対的な善悪は別としてさ。例えば、正義としての善であれば、単純な対義語だよ。悪を決めるのは"被害者"だ。じゃあ、善を決められるのは。――知っての通り、被害者の対義語は"加害者"だよ」
アミットの言葉に、ずんと胸に下げた古代魔術の飾りが重さを増した気がした。
イシドーラの古代魔術を使う姿を思い出す。
セバスチャンの放った死の光を思い出す。
(僕はいつも、誰の立場で、その光景を考えているだろう)
飲み終わったカップを魔法でしまい、アミットは僕から視線を外し空を仰ぐ。
「もしあの時代にいれば、僕や僕の大切な人は、古代魔術を"かけられる"立場になる可能性が非常に高い。だから僕は、あの行為を許されないことだと認識している。これからも生きていかないといけない人を、空っぽにして良いわけはないってね。――でも、君の立場は違う」
はっきりと言い切ったアミットの声には、いつもの甘さはなかった。
(僕は、古代魔術の術者だから)
それでもその言葉は、どこか突き放すようで、寄り添うようだ。
ああ。やっぱり彼はレイブンクロー生なのだ。答えは自分で考えろと、真摯に訴えていた。
「……わかった。僕も、僕なりにきちんと考えて、いつか答えを返すよ」
悩むんじゃなくてねと誓うと、アミットは、夜の星空を見つめたまま嬉しそうに笑った。
34
死ぬ間際に夢を見た。
鬱蒼とした森の向こうに、キラキラと光る満天の星が見え、少し離れたところから汽笛の音が響いた。
ここは?と独り言のように呟くと、いつの間に隣にいたのか、ミリアムが楽しげに笑いかけ言った。
「――ホグワーツよ、ロドゴク」
さあ、と差し出された細い手を取ったその瞬間、ほんの少しの浮遊感に思わず目を閉じ、そうして開いた瞳の前に広がったのは、荘厳な石造りの古城だった。
促され門をくぐると、一気に日が昇った。
ああ。夢だから、何でもありなのか、とやけに冷静に思った。
朝の陽に彩られた廊下は、開放的で明るく温かだった。
ステンドグラス、大きな窓ガラス、吹き抜け、贅沢な建築だ。たくさんの光と声が重なり合っている。
足を踏み出すと階段が現れる大階段。おしゃべりな絵画達。いつか、隣の魔女に聞いたままだった。
「ロドゴク、こちらへ」
彼女に案内されるままについていった先、木の扉を開けた部屋には、恐らく学生用の机と教卓、そして教卓の上にたくさんの本が積み重なっていた。
ぱたぱたと生徒たちが入ってくる。私が出会った魔法使いよりも小さな子供たちだ。それでもゴブリンの私より体は大きい。
授業が始まるとミリアムが囁いたと同時に、一人のゴブリンが教室に入ってきて、教卓の本の上に立った。
「彼は?」
「いつかホグワーツを卒業して、この授業を受け持つ、ゴブリンを祖先に持つ教授よ」
その言葉に驚いて振り向くと、悪戯が成功したように彼女はウィンクした。
授業を始めると号令をかけた教卓の彼は、当たり前だが杖を持っていた。
どの生徒も、真面目に授業を聞いている。そこには、目の前の教授を差別するような視線は少しもなかった。
(ゴブリンが)
いつか――と言った彼女の言葉の意味は、今ではないということ。
それでも、いつかは、このような光景の日常が来るのだ。そう思うと、言葉に表せないほどの激情が胸を覆った。
そんな、願いの叶う、夢を見た。
(眠る君が祈る夢・完)
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