巡る季節とキミ私
春
まだ着なれない制服に袖を通し、鏡の前でその姿をチェックする。
前髪もよし。最後に胸元のリボンを付けてスクールバッグを肩にかける。
「お母さん行ってきまーす。」
「ちょっと美桜、お弁当忘れてるわよー。」
ダイニングキッチンからお母さんが顔を覗かせて呼びかける。
いけないいけない。楽しみのお昼を台無しにするところだった。
「ありがと、じゃあ今度こそ行ってくる!」
お母さん特性のお弁当をスクールバッグの中にしまうと、私は玄関を出た。
外はすっかり過ごしやすい季節だ。
この春から高校生の私は、中学で3年間通った道とはまた違う道を歩き出す。
入学式が先週終わったばかりの高校生の卵だ。
家から高校までは歩いてだいたい10分くらいかな。
私の偏差値じゃ頭のいい高校には入れないから地元のそこそこの高校にした。
国道の交差点まで来たところで赤信号に捕まる。
絶対お弁当を忘れなければいけたのにと心の中で文句を言う。
「美桜ー!おはよー!」
後ろからガバっと抱きつくように中学からの友人の玲奈が挨拶してきた。
「もー、せっかく前髪いい感じだったのにー。」
「あはは、ごめんて。」
玲奈は気さくでいつもこんな感じで一緒にいて明るい気分になれる。
「そう言えば美桜は入る部活決めた?」
「部活?うーん私は帰宅部かなー。」
玲奈は溜息をつきながら、やれやれと言わんばかりのリアクションを取ってくる。
「そんなんじゃ今しかない青春の機会を逃しちゃうよー?」
「そんなこと言って、またバスケ部に勧誘したいだけでしょもう。」
「やっぱバレた?」
「バレバレ。」
2人でそんな軽口を叩きあっていると、いつの間にか学校に着いていた。
「じゃあ私、職員室に入部届出してくるから教室でね。」
「うん。」
廊下を元気に走って玲奈はその場からいなくなった。
廊下、走っちゃダメなんだけどなあ。
「おい吉川!廊下は走るなと言っているだろう!」
遠くで先生に怒られている声が聞こえた。そりゃそうなるって。
私が下駄箱で靴を取り替えているともう1人の友人が来た。
「おはよ、菜々。」
「おはよ~美桜~。」
いつもの挨拶をし菜々が下駄箱を開けると1枚のラブレターらしき封筒が入っていた。
「またかぁ~。」
菜々はおしゃれで男子達からモテる様で中学の頃からこの手の展開が多かった。
「高校生になってもそれは相変わらずだね。」
「こういうのあんま興味ないからこまるんだよねぇ~。」
溜息をつきながら、菜々はそれをスクールバッグの中にしまう。
「相手の気持ちを無碍にはできないから、呼び出し場所に毎回行ってお断りするのが段々作業になってきてる自分がいるよ...。」
「あはは...なんだかんだ優しいね。」
2人で教室に入ると、まだまばらにしか生徒が登校していなかった。
席に座って予鈴を待っている間、色んな部活が新入生を獲得しようと教室や廊下で部の宣伝をしていた。
別に私も入りたくないわけではない。
寧ろ興味はあるが、入りたいと思える部活がなかった。
何故か自分の中でピンとくるものがないのだ。
そうこう思案していると、担任の先生が教室に入ってきてホームルームが始まった。
「皆、席に着くように。ホームルームを始めるぞ。」
内容はありきたりなもので、頭の中では別のことを考えていた。
さっきのラブレターの事だ
恋か...私もそんなことを覚える日が来るのだろうか。
今まで誰かを好きになったことがない。
中学生になった頃から周りは誰が誰のことが好きだとか、あの2人がイイ感じだとかの話が女子の中でよく飛び交うようになった。
興味がなかったわけじゃない、これも自分の中でピンとくる事がなかったのだ。
これは私が変なだけなのかな、そんな疑問すら浮かんでくる。
きっと私にもいつかその日が来ると自分に言い聞かせ、頭の中のこのモヤモヤを消した。
「ところで桐島、いつになったらそのプリントを後ろの席に回してくれるんだ?」
担任の先生の一言で我に返った。
「え?あ、すみません。」
教室では笑いが起きた。
考え事をしていて全く気が付かなかった。
恥ずかしくて俯いてしまう。
まだ入学して1週間なのにそういうキャラ付けされたらどうしよう。
今日1日その不安が頭をよぎり続けて午前が終わった。
やっと、お昼休みだ。
午前中の授業の内容は正直まったく頭に入ってこなかった。
「お弁当食べて元気だそ。」
美桜は玲奈と菜々がいるであろう屋上へと歩を進めた。
階段を上がり屋上のドアに手をかけて開けると、春一番が美桜に吹きさらしてきた。
「もう、前髪いい感じだったのに今日は最悪だー。」
前髪をいじりながら2人がいるベンチに腰をかける。
「お待たせ。」
「来たなーじゃあ、食べよっか!」
3人はそれぞれお昼ご飯を取り出して各々食べ始める。
「そういえば聞いたよ、また告られたんだって?」
「そうなの、これ食べ終わったら中庭のところ行かなきゃなのよ~。」
「中学生の頃から一緒にいる身からすると、最早いつもの光景になりつつあるなー。」
「そうだね、私はすごいと思う。」
素直な感想だった。
私も貰ったことがないわけではないが、ここまで頻繁にということはない。
思えば私からあげたことはないかも。
それもそうか、ピンと来たことがないんだから。
そうこうしてると2人ともお昼を食べ終わったようだ。
「食べ終わったし、私は校庭で男子に混ざってサッカーしてくるわ!」
「私はお断りの返事してくるわ~。」
「うん、行ってらっしゃい。」
私は1人残された屋上でお弁当の残りを食べていた。
空を見上げれば雲が形を変えながら風に乗って流れていく。
「私もあの雲の様に変わる日がくるのかな。」
きたらいいな、そう思いながら最後の唐揚げを口に入れる。
今日もお母さんのお弁当はおいしい。
お弁当をしまって屋上から校庭を見下ろすと、玲奈は本当に男子の輪に入ってサッカーで汗を流している。
玲奈は気にしていなくても、男子達が意識してるのか遠慮がちに動いている。
その光景がなんだか可笑しくて笑ってしまう。
「でも、玲奈は彼氏がいるから手を出そうとしても無駄だぞ男子達よ。」
届くわけのない声で忠告なんて柄じゃないことをしてみる。
「私もそろそろもどろっかな。」
空のお弁当が入ったスクールバックを持って美桜は教室へと戻って行った。
終礼の鐘が学校に鳴り響く。
「やっと授業おわったー。」
玲奈は机の上にベターっと倒れこみ、苦しい時間から解放された喜びを噛みしめていた。
私はクスクス笑ってしまう。
「そんな大げさな、それじゃあこれから3年間持たないよ。」
「それなら通信制にするー。」
「それだと私や菜々に会えなくなるよ?」
「それはヤダ!」
「わがままばっかり。」
2人でふざけていると、隣のBクラスになってしまった菜々がやってきた。
「玲奈、早くしないと更衣室混んで使えなくなるよ~。」
ハッと我に返った様に玲奈が立ちあがる。
「そうだった!それじゃ美桜、私たち部活に行ってくるね!」
「美桜、また明日ね~。」
「うん、また明日。」
2人に手を振り教室に1人取り残される。
あの2人とは中学生の頃からの友人だけど、2人とも部活で私は帰宅部だから一緒に帰る事はほとんどなかった。
たぶんこれから3年間もそうなのだろう。
3階の教室の窓から校庭を眺めると、夕日が綺麗に輝いていた。
ふと校庭を走る1人の男子の姿が目に入った。
遠目だからなのか夕日のせいなのか、彼の顔はよく見えない。
でも、1人で黙々と努力して走っているその姿がかっこいいと思った。
そうして目で追っていると、私は初めてピンと来る何かを感じた。
え?
急に何?
今、私はあの人に...。
何故か目が離せなかった。
私は思った、これが私の初恋かもしれないと。
次の日から彼を探すようになった。
休み時間には学校中を歩き回ってあの夕焼けの中で見たシルエットを探した。
しかし、それだけの情報では誰か特定するには難しすぎた。
そのため、2人に協力を仰ぐことにした。
「お願い!」
私は手を合わせて玲奈と菜々に頼み込んだ。
2人はお互いに顔を見合わせて呆然としていた。
「え、確認なんだけどその校庭を走っていた男子が好きなの?」
「うん、たぶん。」
「あの美桜が恋だなんて成長したわ~。」
「恋というか...一目惚れ...?」
「それにしても、協力はいいけどさあ。ねえ?」
「そうねえ?」
「私たちの部活は屋内活動だから、屋外でやっている部活のことは分からないわよ~?」
迂闊だった。
よく考えればすぐに分かることなのに、なんで私は自分からこんな恥ずかしい話を...。
恥ずかしさと収穫ゼロのショックで肩を落としていると、玲奈が何か思いついた様な素振りを見せる。
「放課後に毎日走っているならそこに直接行って告白しちゃえばいいじゃん!」
「え?無理無理無理!」
私が?告白?そんなこと恥ずかしくてできない!
「そうねえ、それしかないわねえ。」
「菜々まで!?」
「別に見てるだけでいいならそれでもいいだけどね。」
「確かに私たちのことじゃないものね~。」
2人ともこういう時だけ団結してずるい。
でも確かにしらみつぶしに1クラス1クラス当たって探すよりも、よっぽど直接的だとは思う。
「私、やってみる!」
そうだその意気と2人はガッツポーズをしてみせた。
その日の放課後、私は誰もいない教室で何度も深呼吸をしていた。
緊張する。もし断られたらどうしよう。
そんな不安ばかりが頭をよぎっては消えていく。
私はこんなにも心が弱い人間だったのかと、今更になって気づかされる。
以前、私に告白してくれた男子もこんな気持ちだったのかもしれない。
「やるって決めたんだから伝えに行かなきゃ。」
私は自分の両方の頬を手で叩き、気合を入れ直す。
よし、校庭の彼の所へ行こう。
校舎を出ると初めて彼を見た時と同じような夕日がグラウンドを赤く照らしていた。
私は校庭に目をやり、いつもいるはずの彼を探す。
あ、いた。
今日も変わらずランニングをしていた。
今はグラウンドの反対側を一定のペースで走っている。
そうだ、彼がこのフェンス際まで来たら声をかけよう。
心臓がうるさい。
こんなに心臓って速く動くものなんだ。
初めて知った。
彼はまだ来ない、こんなに時間が流れるのが遅いことなんて経験したことない。
もう、緊張と不安で何かを考える余裕はなかった。
胃が痛い。
「キミ、顔色悪いけど大丈夫?」
突然声をかけられた。
え、誰に?
フェンス越しに前を見ると、目的の彼が私に向けて話していた。
「え、あ、あの。一目惚れしました!私と付き合ってください!」
せっかく勇気を出した告白なのにどもってしまった。
私はスカートの裾を両手でギュッと握りしめる。
返事を待つ時間がこんなに怖いものだとは思わなかった。
「いいよ、最近教室の窓から外を見ていた子だよね?俺も気になっていたんだ。」
今、いいよって...。
「俺は村上俊也、二年生。君は?」
あ、返事しなきゃ...。
「き、桐島美桜です。い、一年生です。」
嬉しすぎて頭が真っ白...。
「美桜ちゃんか、今日からよろしくね。」
「はい、村上先輩...!」
こうして私の人生初めての告白は成功したのだ。
こんなにホッとした気分は味わったことがないかもしれない。
私、うまく笑えているかな?
「あ、そうだ。今日の部活もう上がりなんだ、よかったら一緒に帰らない?」
「はい、じゃあ少しまっています。」
「うん、すぐ終わらせてくるから。」
そう言うと村上先輩は部室棟の方へ軽快に走って行った。
私は近くのベンチに腰を下すと、大きく息を吐いた。
お互い名前すら知らなかったのに、学年だって違ったのにOKして貰えるなんて夢みたい。
それに、近くで見たらすごくかっこよかった...。
その先輩の彼女が私...。
「ごめんね、待ったかい?」
いつの間にかそこには村上先輩が立ってこちらを覗き込んでいた。
顔が近くて恥ずかしい。
「いえ、そんなことないです。」
「じゃあ、行こうか?」
「はい!」
帰り道、緊張している私に気を使ってか終始村上先輩が話を振ってくれた。
その気遣いに私は胸がいっぱいになった。
どうやら先輩は陸上部の長距離をメインでやっているようだった。
そのためか歩く足は私には少し速かった。
しばらく色んな話をしながら歩くと、バス停のところまで来ていた。
「あ、私このバス停で路地に入るんです。」
「美桜ちゃんはそっちなんだ、残念。もうちょっと一緒に居たかったけど、俺はここからバスだからまた明日たくさん話そう。」
「はい、また明日。」
また明日という響きが心地よかった。
村上先輩と連絡先も交換したし、今日はなんていい日なんだろう。
玲奈と菜々にも報告しないと、一応お世話になったし。
家までの道を歩きながらグループチャットで報告をして、軽い足取りで私は帰宅した。
「お母さんただいまー!」
私はそう言うとパタパタ階段を上る。
「おかえり美桜、何かいいことでもあったのー?」
「うん、ちょっとねー。」
私は階段の上からちょこっと顔を覗かせてそう返した。
部屋に入ると制服から着替えもせずにベッドに飛び込んだ。
スマホを見ると2人から祝福のメッセージが届いていた、それにありがとうと返信して天井を向いた。
「私、本当に初恋が叶っちゃったんだ...。」
顔のにやけが止まらない。
先輩から返ってくる何気ない返信すら一喜一憂している。
この時の私は何も知らず有頂天だった、この気持ちが叩き落されることも知らずに。
付き合い始めて1週間ほど経ったある日、部活終わりを待って村上先輩を迎えに2年の教室まで行った時のことだった。
私は2階に降り、2年D組を目で追いながら探していると声が聞こえた。
先輩と女の人の声...?
「大丈夫だって、もう皆は部活か帰ってるって。」
「で、でも...。」
「いいだろ?な?」
「うん..。」
え、何が起きてるの?
私は音を立てないように、その教室のドアの隙間から覗き込んだ。
嘘...。
そんな...。
教室では村上先輩と知らない女子生徒がキスをしていた。
え...。
どうして...。
頭が真っ白になって全身の力が抜けていく感覚がした。
私はそのままその場にへたり込んでしまった。
その時に肩からずり落ちたスクールバッグの音で、教室の2人がこちらに気づいた。
「ちょっと、誰も来ないって言ったじゃない。」
「ちっ、うるさいな待ってろ。」
村上先輩がこちらまでやってくる。
「美桜ちゃんごめんね変なとこ見せちゃって、向こうが強引でさ。」
何事もなかったかのようにニコリと笑って見せた。
私は何を発していいかすら分からなかった。
「心配しないで、ほら一緒に帰ろう?」
何で村上先輩はあんなことをした後でこんな平然としていられるのか不思議でたまらない。
「美桜ちゃん?」
やめて、その口で私の名前を呼ばないで。
「先輩、私は先輩の彼女じゃなかったんですか?」
「そうだよ?」
「じゃあ、何で先輩からキスをせがんでいたんですか?」
村上先輩が諦めたように舌打ちをする。
その音に身体が強張る。
「最初から知ってたのかよ、久しぶりに初心な女で遊べると思ってたのによ。」
遊び...。
私とは遊び...浮かれてたのは私だけだった...?
「こんなに早くばれるとは思わなかったわ。おい、カラオケでも行こうぜなんかスッキリしたい気分だわ。」
村上先輩は後ろの女子生徒を連れて私を通り過ぎたところで止まる。
「俺に相手してもらったんだから感謝してほしいくらいだ、じゃあな1年。」
それだけ言い残してあの2人は去って行った。
その一言は私の心に鋭利なナイフとして突き刺さった、まるで用意していたものかのように。
下校を促すチャイムが学校中に鳴り響く。
空っぽになった私には初恋の終わりを告げる音色に聞こえた。
その場には、スカートに大きな染みを作った私だけが取り残された。
次の日、私は学校を休んだ。
初めてお母さんに体調が悪いと嘘をついて。
きっとそれが仮病だということに気づいていて、何も言わず学校に連絡を入れてくれた。
「美桜ー?部屋の前にご飯置いておくから、落ち着いたらたべなさい。」
「うん。」
私は泣きぐずって鼻声になりながら短く返事をした。
スマホがメッセージを受け取った通知音を響かせる。
たぶん玲奈と菜々だ。
まだ何も知らない2人は純粋に私の身体を心配してくれているのだろう。
ベッドの中で膝を抱えて丸くなりながら、そっとスマホの電源を切った。
「ごめんね2人とも...、今は1人になりたいの...。」
初恋がこんなにも辛いものだなんて、こんなにも痛いものだなんて知らなかった。
もし、知っていたら。
もし、知っていたらこんなにも悲しい気持ちにはならなかったのかな?
よく初恋は叶わないなんて言われているけど、そんなことないってずっと思ってたのに。
今になってみれば、よくわからない自分の直感を信じていたからこうなったのかな。
どんどん頭の中に色んな感情が押し寄せてぐちゃぐちゃになっていく。
私が...。
私が悪かったのかな...?
私が勝手に期待して、勝手に浮かれて、勝手に信じて...。
また涙が溢れてくる。
私にはまだ不相応なものだったのかもしれない。
「やっぱり、恋なんて...なにもわからないよ...。」
タオルケットを抱きしめながら、私は泣き疲れてそのまま微睡みの中に意識を落とした。
それから1年が経ち、また同じ春が訪れた。
あの時の傷口が癒えないまま私は2年生になり、クラス替えもあったが玲奈と菜々も同じクラスになれた。
「やったじゃん!こんどは皆一緒のクラスだよ!」
玲奈が私と菜々の間に勢いよく割り込んでくる。
「そうねえ、今度は私だけ仲間外れじゃなくなったわね~。」
1年生の頃は菜々だけ別のクラスだったせいか嬉しそうだ。
「2人はホームルーム始まる前から新入生勧誘?」
「あ、やばい!完全に忘れてた私行かないと、じゃあまた後でね!」
玲奈は焦りながら走り去っていった。
「バレー部はいいの?」
私はのんびりと他のクラス分けを見ている菜々に質問した。
「え?ああ、ウチはいいのよ~皆和やかにやっている部活だから~。」
「確かに菜々が総体に向けて真面目に取り組んでる姿は想像できないかも。」
「え~、美桜バカにしてるでしょ~。」
「ごめんて。」
「もう~。」
やっぱりこうやって玲奈や菜々と軽口を叩いているのが私には合っている。
恋なんて背伸びするべきじゃなかったんだ。
休み時間の教室では女子トークが繰り広げられていた。
話題は専らおしゃれのことでいっぱいだった。
やれこのコスメの色がかわいいのだの、このリップがすごいプルプルになるのだの、皆自分を着飾ることに夢中なようだった。
私はそこまで化粧というものをしたことがない、せいぜい休日に出かけるときに軽くファンデーションをするくらいだ。
もっと早くからそういうことをしていたら、あんなことにはならなかったのかな...。
私が先輩の好みの顔に着飾ることができたら...。
あれから1年も経っているのに、まだあの1件を引きずっている自分が女々しくて嫌になる。
全くため息が出る。
あれから私は恋愛関係の話はもちろん、おしゃれや先輩というワードなど思い出してしまうものが苦手になっていた。
自分でも生きづらいものだとは思う、けれどしょうがなかった。
勝手に身体がそれらを拒否してしまうのだから。
私は2年生になって去年とは1階分低くなった景色を窓から眺める。
「去年の方が上から見下ろせてていい景色だったかもね。」
そう呟くと、1番窓際の席が空席なことに気が付いた。
私の席は窓際から2番目、普通なら人がいてこんな風には外は見えない。
「新学期初日からお休みですか、いいご身分ですねえ。」
そう言いながら私は、その空席をつついた。
その時、ガラッと扉を開く音がした。
そこには気だるげな表情でスクールバックを背負っている男子生徒の姿があった。
彼はそのまままっすぐ私の方へ歩いてくると、その空席の前に立った。
「あの、僕の席に何か。」
よりによってこのタイミングで登校なの...もう3時間目が終わった後だけど...。
「えっと、ごめんなさい何でもないから。」
「そうですか。」
彼はぶっきらぼうに返した。
迂闊だった、隣の席なのに初日から気まずいことになってしまっている。
そんなこと考えていると、周りの女子たちがはしゃいでいた。
「ねえ、あれ橘君じゃない?」
「え、嘘ウチのクラスだったの?」
「桐島さん隣の席でいいなあ。」
ふうん、橘君っていうんだ。
「ねえ、橘君。私、桐島美桜っていうのよろしくね。」
彼は一度周りの女子たちの方へ視線を向けてから悟った様に返事をした。
「橘優、好きなように呼んで大丈夫だから。」
言い終わると彼はさっき私が見ていた外の景色を眺めだした。
素っ気ない素振りに少し驚いたが、寧ろ今の私には丁度良かった。
隣の男子がもしグイグイくるタイプだったら1学期もたずして私は折れていただろう。
彼とは暫くこの隣通しの関係が続いた。
それから2週間が経ったあたりだろうか。
英語の時間直前に彼はスクールバッグをゴソゴソとしている。
流石に気になった私は声をかけた。
「橘君どうしたの?」
彼は一度その手を止め、こちらを向いた。
「いや、教科書忘れたみたいで。」
私は少し考えた後、彼に提案した。
「じゃあ、私の教科書一緒に見ようよ。」
なんでこんなこと言ったのか自分でも分からない。
でも、変に関わりがない彼ならいいと思えた。
「じゃあ、お願いしようかな。」
そうして彼が机をくっつけてきた時、ふわりと柔軟剤の香りが漂った。
あ、これいい香り。
「どうかした?」
「あ、ごめんなんでもない。ちょっと考え事してただけだから。」
「そうなんだ。」
そのまま何事もなく授業が進んでいく。
彼は授業中もつまらなさそうなのを隠そうともせず頬杖をついて外を眺めている。
ここまで興味がなさそうなのが気になって、私もその様子をつい眺めてしまう。
「ここを、そうね。桐島さん分かるかしら?」
突然、先生に当てられてあたふたしてしまう。
教科書のどこの箇所を答えればいいかわからない。
「ココ。」
彼が教科書の項目を指さしながら小声で言った。
「あ、 witchです。」
「正解、ちゃんと聞いてたみたいね。」
ホッと胸を撫でおろしながら席に着く。
私はノートの端に「ありがとう」と書いて、彼の肩をつついた。
「ん。」
振り向いた彼に私はノートの端を指さす。
彼は小さくうなづくとまた視線を窓の外へ移した。
全く授業を聞いていない様に見えて、私よりちゃんと聞いていたことが少し面白くなかったが、助けてくれた手前何も文句は言えなかった。
意外と周りのこと見えているんだなとちょっと関心すら覚えた。
授業が終わり、お互いの席を元の位置に戻すときに私はもう一度お礼を言った。
「さっきは助かったよありがとう。」
「教科書見せてもらっていたからそのお礼、これで貸し借りなし。」
そう言って彼は視線を外した。
「そうだね。」
律儀だなと思い、それが可笑しくて私は笑ってそう答えた。
「あ、次は体育だから早く着替えに行かなきゃ。また次の授業でね橘君。」
彼の返事を待たずに私は走って更衣室に向かった。
「ジャージを教室に忘れちゃった、着替え間に合うかな。」
私は忘れ物を取りに来た道を戻って教室の前まで来ていた。
すると誰かの喋り声が聞こえる。
「橘君、今彼女とかいないんでしょ?私が立候補してもいいかな?」
「いや、今そういうのは興味ないから。ごめん。」
「そっか、変なこと言ってごめんね。」
誰かが橘君に告白している場面に遭遇してしまった。
今日、教室の女子たちの反応を見ても橘君って結構モテるんだ。
教室を逃げるように出てきた女子と一瞬目が合う。
その目は逃げ場のない感情を押さえ切れていないものだった。
私も気持ちは痛いほど分かっているつもりな分、この場に居合わせてしまったことへの罪悪感が芽生えた。
「もう隠れてないでいいよ。」
教室から不意に声をかけられる。
バレていたのかと、私はばつが悪い表情でドアから姿を現わす。
「ごめん、盗み聞きするつもりじゃなかったんだ。」
「別にいいよ。」
2人の間に沈黙が流れる。
空気が気まずい。
それを私はごまかすように話し出した。
「橘君って女の子に人気なんだね。」
一瞬、彼の眉が動いた気がした。
「ジャージ。」
「え?」
「ジャージ取りに来たんじゃないの?」
彼が私の机の横にかかっているトートバッグを指さす。
「あ、うん。そうだった、忘れ物してたんだった。」
「じゃあ、僕も着替えがあるから。」
そう言って彼は教室から静かに居なくなった。
「もしかして、まずいこと言っちゃったかな...。」
私は彼が話をはぐらかした気がした。
それが何を意味するのかは分からないけど、確かなのはそれが彼にとって好ましい感情ではないという事だけは理解できた。
私は今、絶賛女子トークに巻き込まれていた。
きっかけは玲奈が彼氏と喧嘩したという相談を受けていたところに、他のクラスの女子達が興味津々で集まってきたという経緯だった。
そして話題はシフトし、私に彼氏がいないのかに変わり今に至る。
「意外ー、今桐島さん彼氏いないんだー。」
「ねっ、かわいい顔してるから去年からいるものだと思ってた!」
「あ、あははは。」
「じゃあさ、どんな男の子がタイプなの?」
勢いはヒートアップし、もうとどまることを知らなかった。
玲奈はこっちを向いて申し訳なさそうに両手を合わせている。
彼女のせいではないし、別に誰が悪いとかはないからそこはいい。
これは私の問題だから。
「ど、どんなだろうあんまり考えたことないかも...。」
「えー、何かあるでしょー?イケメンとか何かあったらすぐに助けてくれる人とか!」
弱った、これは本格的にしんどいかも。
思わず去年の春がフラッシュバックしかける。
「もうホームルームの時間だし先生そろそろ来るよ。」
思ってもみない助け船が隣の席からやってきた。
「まっずい、また怒られる。」
「早くも戻ろ!」
さっきまで私の周りに集まっていた女子達が散り散りにそれぞれの机へ向かっていった。
「助けてくれてありがとう。」
彼は机に突っ伏したまま顔だけこちらに向ける。
「何で何も言わないの?」
「え?」
彼は溜息を吐き、身体を起こした。
「苦手なんでしょ、ああいうの。」
図星をつかれ、たじろいでしまう。
彼はそのまま言葉を続けた。
「見てたらわかるよ、僕と同じだから。」
「同じって...。」
「ただ受け身で終わりの結果だけを待つその姿勢が気に入らなかっただけだから。」
「そ、そうなんだ。」
「思ったことは口に出したほうがいいよ、自分を守るためにも。」
彼はまた机に突っ伏して、ここからはその表情を探ることはできなかった。
諦めて筆箱を取ろうと下に視線を向けると、スマホに新着メッセージが届いていた。
送り主は玲奈だった。
「さっきはまじでごめんね美桜、ちょっと軽率すぎた!」
「大丈夫、むしろ気にさせちゃってごめんね。」
「美桜が謝ることじゃないって、それにしても隣の橘ってやつぼんやりしてるように見えていいやつだな。」
「うん、そうだね。」
そこで教室に担任の先生が入ってきた。
私はスマホを机の中にしまい、そのままホームルームが始まった。
学校が休みの土曜日、朝が弱い私にしては珍しく普段登校する時間くらいに目が覚めた。
いつもなら昼前まで寝ていて、お母さんが部屋までやってきて叩き起こされている。
多少の眠気こそあれど、意外と気分はスッキリしている。
これが早起きは三文の得の1つなのだろうか。
キャミソールとショートパンツ姿のまま階段を降りると家で飼っている犬のハナが飛びついてきた。
ハナは黒と茶が入り混じった柄のミニチュアダックスフンドだ。
「ちょ、後でかまってあげるから歯磨きくらいさせて。」
人間の言葉が分からないハナはしっぽをブンブンさせながら私の後をついてくる。
洗面所に向かうためにリビングの前を通り過ぎようとすると、お母さんがこっちに気が付いた。
「あら、美桜もう起きたの。」
「うん、なんか目が覚めちゃって。」
「珍しいこともあるものね、今日はお布団でも干そうかしら?」
お母さんは上機嫌だ。
いつも起こしに来るのがそんなにめんどくさいなら、もっと寝かしてくれてもいいのに。
「あ、そうだ。たまにはハナの散歩でも行ってきてくれない?」
「んー。」
下に視線を向けると、散歩という言葉に反応してハナが心なしか目をキラキラ輝かせている。
こういうとこだけ人間の言葉が分かるのも困りものだ。
私は観念してハナの散歩に行くことにした。
「その前に歯磨きと着替えだけさせてよね?」
それを知ってか知らずか、ワンっと短く吠えた。
歯ブラシに歯磨き粉を付けて歯を磨く。
ふと、お母さんがいつも使っている化粧品が目に入った。
私はいままでほとんどおめかしをしたことなんて無いし、する機会も無かった。
「私もそろそろこういうの覚えたほうがいいのかな。」
つい呟いてしまう。
その拍子に泡になった歯磨き粉が鏡に飛ぶ。
もう、なんで私って普段からこうなのか。
朝からどんよりしてしまう、水で口を濯ぎ寝ぐせを直そうとして手が止まる。
「散歩だけだし結べばいっか。」
独り言を言って、甲斐甲斐しく後ろで待っていたハナにもうちょっと待ってねと言い、部屋に戻る。
クローゼットを開けて、動きやすいようにTシャツと短パンを手に取り、ささっと着替えを済ます。
ついでにヘアゴムで肩より少し長い黒髪をまとめて、鏡でちゃんとまとまっているかチェックする。
いい感じだ。
部屋を出て、リードを取り玄関へ向かうとハナが既に待機していた。
リードを付けて、準備ができるとリビングにいるであろうお母さんに声をかける。
「散歩行ってくる。」
それを聞いてリビングからお母さんが顔だけ覗かせてきた。
「よろしくお願いねー。」
そうして外に出ると、春とは思えないほど日差しがまぶしい。
春だなんて名前だけで気温は既に27℃もあるらしい。
何年も前から話題の地球温暖化の影響ってやつのせいかもしれない。
朝から汗をかくことが確定している事実が既に私にとっては憂鬱だ。
それとは対照的にハナはとてもご機嫌な足取りで時々こちらを振り返って顔を見てくる。
「そんな心配しなくても途中で散歩やめないってば。」
普段、散歩なんて滅多にしないものだから進む道順はハナの先導に完全に任せている。
私にとっても学校に行く道以外なんてほとんど通らないから新鮮な気持ちになる。
玲奈や菜々と遊ぶ時も、路地から大きな通りにすぐ出て駅前まで行くことがほとんどだから、路地を進み続けるのは小さい頃以来かもしれない。
ちょっと思い老けながら歩いていると、ハナが公園に入って行った。
もしかしていつもはここで少し遊んでいるのだろうか。
「今日はおもちゃもってきてないんだ、ごめんね?」
ちょっと申し訳ない気持ちになったが、それとは裏腹にハナは近くの芝生で元気に走り回り始めた。
これでよかったのかと、少し安心した。
リードをベンチのひじ掛けにかけて私はベンチに座って一息ついた。
遊具では近所の小さい子たちが皆で遊んでいた。
私もあんな頃があったなあと懐かしい気持ちになった。
その中に遊具で遊ぶには大きな人影が見えた。
それは見覚えのある人物だった。
「橘君?」
彼の目線の先にはまだ小学校に入る前くらいの男の子がいた。
弟かな、休みの日は遊び相手になってあげているのかな。
意外と周りが見えているのも、目が離せない弟がいたからなのかもしれない。
その時、ハナが砂場の方向へ急に走り出してひじ掛けにかけていたリードが外れた。
「あ、まってハナ!」
私はハナを追いかけて走り出した。
人間が犬に足の速さで勝てるわけもなく、どんどん離されていく。
「ハナてっば!」
声をあげるも聞こえている様子もない。
本格的にまずいと思い始めた時、1人の前でハナが足を止めた。
「え...?犬!?」
ハナは橘君のところで止まって顔をペロペロと舐めていた。
「ご、ごめん。ちょっと目を離しちゃって。」
私は息を切らしながらその場にたどり着いて、彼に謝った。
彼は私に気が付くと、軽く会釈をして笑った。
「桐島さんのとこの犬だったんだ、いいよ動物は好きだから。」
普段あまり笑みをこぼすことのない彼が笑っているところを初めて見たかもしれない。
彼がハナを撫でると、ハナも嬉しそうに転がった。
その様子を、ジーっと彼の弟君であろう男の子が見ていた。
「触ってみる?」
私はかがんでその子に視線を合わせてそう言った。
すると、ぱあっと目を輝かせて近寄って来た。
ハナのところまで来るとこちらを見て、小さな声で聞いてきた。
「本当にいいの?」
私は笑顔でもちろんと答えた。
男の子はゆっくりハナに触ると、嬉しそうにそのまま撫で続けた。
ハナも喜んでいる。
私はその様子を彼と眺めていた。
「あの子って弟君?」
「うん、休みの日はよくここで面倒見てる。」
「優しいんだね。」
率直な感想だった。
「ウチ、母さんしかいないから俺が面倒見るしかないんだよね。」
「そっか、えっとなんかごめん。」
他の家の事情に触れてつい気まずくなって謝った。
彼は別にと言った顔でこちらに顔を向けた。
「むしろ助かった、あいつも俺とばかり遊んでいてもつまらないだろうから。」
まさか彼から感謝されることになるとは思わなかった。
学校では必要最低限くらいの会話しかしない彼が、今日はいつもより雰囲気が柔らかくて話しやすい気がした。
その雰囲気はなんだか心地がいいもので安心するものだった。
「普段からその方がモテるとおもうよ、既にモテているかもしれないけど。」
ついポロっと口から出てしまった。
少し空気が変わった気がした。
「別にあいつらは俺とたいして喋った事もないくせに容姿とかでよってくる。そんなの鬱陶しいだけだし、そんなのに付き合っている時間はない。」
彼は少し低い声で弟を眺めながらそう話した。
流石に失言だったかもしれない。
「余計な事だったねごめん。」
私は気まずさを紛らわすためにリードを取り、逃げるようにその場を離れようとした。
「桐島さん。」
彼に背を向けた時、不意に呼び止められる。
「どうしたの?」
彼はハナと一緒に砂場で遊んだ弟の砂をほろってから、こちらに向き直った。
「また時間がある時でいいから犬の散歩に来てくれると助かる、弟もかなり楽しかったみたいだ。」
思いもしない言葉に驚く。
彼の目はまっすぐなもので、そこには決して打算的な考えがあるようなものではないことは私にも分かった。
「分かった。でも期待しないでね私、朝弱いから。」
「ありがとう。」
そう言葉を交わして私は公園を後にした。
私はいつもより20分ほど早く学校に着いていた。
普段からギリギリに登校しているわけではないから、流石に私が一番乗りだろう。
途中で合流して一緒に登校することが多い玲奈に先に着いたと連絡を入れ、靴を履き替える。
成長するかもと自分のサイズより少し大きめのものを購入したため、ちょっと履きごごちが悪い上履きに、本当にまだ大きくなるのかと疑問を抱く。
まだ人もまばらな廊下を歩き、教室に入るとどうやら私は二番手だったらしい。
「おはよう橘君、土曜以来だね。」
今日の一番乗りは周りを見ても彼の様だ。
彼は私の言葉に反応して突っ伏した態勢を起こしてこちらを見る。
「ああ、おはよう。」
眠そうな声で彼は挨拶を返してきた。
私は彼の隣の席に座り、スクールバッグの中の教科書やノートを机の中に移動させる。
今日は数学があるのか、苦手だからちょっと気持ちが下がる。
「桐島さん、連絡先交換しない?」
「え?」
彼から想像もしない発言が飛び出し、私は固まった。
そんな私にお構いなしに彼は言葉を続ける。
「朝弱いって言ってたじゃん、連絡先交換したら時間合わせられるから。」
ああ、そういえば別れ際に私そんなこと言ってたっけ。
何の脈絡もなく連絡先を求められたものだから、何を思ってその行動に出たのか謎でしょうがなかったけど、それなら合点がいく。
私は1人でこころの中で納得した。
「そうだね、そういうことなら交換しよっか。」
私は制服のポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、SNSのプロフィール欄を開き、彼の前に差し出した。
「これ私の。」
「ちょっと待って。」
彼は自分のSNSを開いてフレンド検索欄に私のIDを不器用に打ち込んでいた。
「慣れてなさそうだね。」
「家族以外で交換したことないから。」
彼は慣れない手つきで一生懸命に操作しながらそう返した。
「桐島さんこれで合ってる?」
スマートフォンの画面を私の方へ向けて彼が質問してきた。
私はそれを覗き込んで、私が使っているアカウントだと確認した。
「合ってるよ、これで私が初めてのフレンドだね。」
わざとらしく笑いながらちょっと意地悪な言葉を使った。
彼は頭をかきながらスマートフォンを制服の内ポケットにしまった。
「早く起きたかいがあった。」
彼はそう吐き捨てた。
え?
「私と連絡先交換するために今日は遅刻しなかったってこと?」
聞き逃すことなく反射的に反応した。
まさかそれは私の勘違いではないか、少し自意識過剰すぎたか。
私は今の発言を取り消そうとする。
「朝のほうが人が少なくて周りに勘違いされにくいから。」
ああ、そういうことか。
いつも女子からの誘いを断っている彼が、私と皆の前で堂々と連絡先の交換なんてしたら噂になるに決まっている。
それはきっと彼の望むところではないのだろう。
「それに、桐島さんは他の奴らとは違いそうだから。」
違う...か。
確かに、私は他の女子みたいにガツガツ行くタイプではない。
どちらかというと受け身だ。
それに彼がそういうことをあまり望んでない様に私も苦手な分類に入る。
たまに告白されたりもするが、相手がどうこう以前の問題で断ってしまう。
だから、彼の気持ちは少しだけ分かるかもしれない。
「橘君。」
「何?」
短く返事をしてきた。
「私が偽の彼女になってあげようか?」
彼は目を丸くしてこちらを見ている、なんなら口まで開きっぱなしだ。
「偽装カップルってこと?」
「そう、これでお互いに煩わしいことが寄ってこなくなると思わない?」
彼は少し考え込んでいる。
私にしては思い切ったことを言っている自覚はある。
でもお互いにWIN-WINな関係にはなると思った。
「いいよ、乗った。寄ってくる女子もまけそうだ。」
意外にもこの話に乗ってきた。
流石に断られると思っていたが、どうやら彼にもメリットはちゃんと伝わっていたらしい。
「じゃあ、これから偽のカップルってことでよろしくね。」
私は彼に手を差し出した。
それをみて彼もズボンのポケットに入れていた手を出して握手した。
「皆の前でボロださないでね。」
「もちろん、ちゃんと演じるよ。」
私がニッと笑うと、彼もフッと笑みをこぼした。
こうして恋愛事が苦手な私とそういったことを避けている彼との偽装カップルが完成した。
「美桜。」
最後のホームルームが終わり、机の中のものをスクールバッグの中に入れていると彼に名前を呼ばれた。
あまりに突然の出来事に勢いよく彼の方を向く。
「ど、どうしたの?」
裏返った声で返事をする。
「なんもないなら一緒に帰ろうかと思って。」
教室がざわつく。
そりゃそうだ、今まで何もなかった私達が突然名前呼びで一緒に下校をしようと言うんだから。
私も脳の処理が追いつかなくて固まってしまう。
すると、彼が私にだけ聞こえる声量で話しかけてきた。
「周りにはカップルだと思わせるんじゃなかったのか?」
そうだった。
私達は偽装カップルだった、周りには本物のカップルだと思わせないとこの関係を築いている意味がない。
「一緒に帰ろっか優君。」
私の返事を聞いて一段と教室が騒がしくなった。
「あの二人付き合ってるの?」
「橘君あんなに女子に興味なさそうだったのに。」
色んな声が聞こえてくる。
あの玲奈や菜々すら唖然とした顔でこちらを見ていた。
敵を騙すには味方からって言うし、ごめんね二人とも。
心の中でそう二人に謝って私はスクールバッグを肩にかけた。
「じゃあ、いこっか。」
「ああ。」
過去で一番の騒がしさであっただろう教室を二人で後にした。
下駄箱で靴を履き替えるために、私は一度肩にかけていたスクールバッグを床に置いた。
上履きを脱ぐと、背伸びして自分の場所に手を伸ばす。
「高そうだな、貸してくれ。」
私の様子を見てか、彼が私の手から上履きを取って代わりに入れてくれた。
「あ、ありがと。」
気を使ってくれたのかな。
でも偽装カップルだし当たり前なのかもしれない。
「ほら、靴。」
「え?あ、うん。」
彼はそのまま外履きも取ってくれた。
「美桜の背だとこれきついだろ、俺の場所と交換するか?」
「ばれたら怒られるんじゃない?」
私は取ってくれた靴を履きながらそう答えた。
「こんなとこバレんだろ、明日から俺のとこ使っていいぞ。」
彼は既に履き替えて、立ちながら私を待っていた。
「じゃあ、そうする。」
私は最後の右足の靴を履き、床に置いていたスクールバッグを再び肩にかけて、彼の横まで小走りで移動した。
「なんか慣れてない?」
私は彼の顔を覗き込むように聞いた。
「何が?」
「そういうとこだよ。」
私は頬を少し膨らませて見せた。
彼は本当に何のことか分かっていない様子でこちらを見ていた。
まあ、その方が周りに本当のカップルだと思ってもらいやすいから、どっちだったとしてもいいのかもしれない。
二人並んで葉がつきだした並木道を歩いていく。
「そういえば、あの公園にいたってことは近所なのかな?」
「知らないだけで結構家近いのかもな。」
「登校も一緒にする?」
私は地面の小石をローファーで蹴りながら彼に聞いた。
「美桜以上に俺は朝弱いぞ。」
転がった小石が彼を通り越して植木の土で止まる。
「そのための連絡先だったんじゃないの?」
私は手を口にやりながらクスクス笑った。
彼はそういえばそうだと言わんばかりにハッとした顔をした。
こう見ると意外と表情が変わる人なのかもしれない。
そうこうしていると、大きな通りから家までの路地が迫っていた。
「あ、私ここ曲がるの。」
私は路地を指してそう言った。
彼は意外そうな顔をして同じ路地を指さした。
「俺もこの先だな。」
「本当に近所じゃん。」
「今まで知らなかったな。」
私達は二人で路地に入って、先ほどまでとは明らかに狭い道を歩き出した。
特に会話はなかったが、だからといって気まずい空気ではなかった。
それはきっと彼も同じことを感じていると思う。
「じゃあ私の家ここだから。」
「ああ、またな。」
「うん。」
そう言い残し、彼は歩いて行った。
私は、1人で歩く彼の速度が速く見えた。
「歩幅、合わせてくれてたんだ。」
ポツリと呟く。
別に路地に入ってしまえば誰かに見られることなんてないから、無理にカップルの振りしなくても大丈夫なのに。
やっぱりそういうとこだよ。
私は制服のポケットからスマートフォンを取り出し、彼の連絡先があることをもう一度確認してから画面の明かりを消した。
そして何故か門のところで彼が道を曲がるまでその背中を眺めていた。
アラームが部屋に鳴り響く。
うるさい。
まだ眠いから無視しよう。
鳴りやんだと思ったらまた鳴り始めた。
私は枕元に置いたはずのスマートフォンを手探りで探す。
それっぽいものをつかむと慣れた手つきで画面を操作してアラームを止める。
「ん、今何時...。」
開かない瞼を少しずつ開きながらそのまぶしい画面を見る。
そこに映し出されていた時刻は9時を回ったところだった。
「え、遅刻!」
私は勢いよくベッドから立ち上がるも、何から準備するか迷ってしまう。
とりあえず、今日の授業の教科書をスクールバッグに入れようと机の前に歩いていく。
えっと、5教科分入れておけば何とかなるはず。
ゴソゴソと薄暗い部屋で準備していると、カレンダーが目に入る。
あれ?確か昨日は金曜日。
ということは今日はお休みなのでは?
「あー、焦ったー。」
私は安堵の気持ちで再びベッドに倒れこんだ。
普段アラームなんて学校に行く日にしかセットしないから、反射的に今日も学校の日だと勘違いしてしまった。
学校がないならもう一度睡眠を...。
あれ?
じゃあ、なんでアラームをセットしたんだっけ。
「あ、今日は優君と約束してたんだった!」
2度寝なんてしてたら約束をすっぽかしてしまう。
やっぱり、準備しないと。
とりあえず寝ぐせだけでも直そう。
そう思い、階段を降りて洗面所へ向かう。
本当ならシャワーを浴びたいところだが、それをするには絶妙に時間が足りない。
私は妥協して寝ぐせ直しを髪に吹きかけて櫛で髪をすいていく。
「ちゃんと起きてたのね。」
そこへ洗濯物をもったお母さんが通りかかった。
「それにしても美桜からハナの散歩に行きたいなんてどんな心境の変化?」
なかなか直らない外ハネにモヤモヤしながら雑に答えた。
「クラスメイトと約束したから。」
助かるわと言い残してお母さんは洗濯物を干しに行った。
やっと髪が思い通りにいって満足していると、台に置いていたスマートフォンのバイブ音が聞こえた。
なんだろうと思い、手に取って見てみると彼からのメッセージが届いていた。
内容は弟君が待ちきれないから先に公園に行ってるという旨だった。
そういうことなら私も悠長にはしてられないと、先ほど降りた階段を上り部屋に着替えに行った。
流石にこんな部屋着で外を出歩くわけにはいかない。
楽な服装にしようとも思ったが、なんとなくワンピースをクローゼットから取り出してそれに着替えた。
準備が終わり、部屋を出てリードを手に取る。
「ハナ、散歩行くよ。」
その一言で元気よくハナが玄関まで走ってきた。
「まったく元気だなあ。」
私はハナを連れて以前と同じ道筋を通って公園に向かった。
公園の近くまで来ると、桜がもう散って緑の葉が茂り始めていた。
あの綺麗なピンクの花びらが地面にくすんだ色で落ちているのを見ると少しさみしい気持ちになる。
その感傷的な気持ちとは反対にハナの足取りは軽い。
入口まで来ると私は既に到着しているであろう彼の姿を探した。
走り回っている子供たちの姿と比べて遥かに大きい彼はすぐに見つけられた。
以前と同じ砂場で彼は弟と何かを作っている様だ。
ハナを連れてその場所へと歩を進める。
「ごめんね遅くなって。」
第一声に少しばかり遅れたことを謝りながら声をかける。
彼は私に気が付くと、横にいた弟にハナが来た事を指をさして促してから立ち上がった。
「いや、お願いしているのはこっちだから気にしないで。」
手についた砂をほろいながら私の横まで来る。
私達は近くのベンチに腰を下ろし、ハナと弟君が遊んでいる様子を眺める。
「ウチは動物が飼えないから、ああやって大翔が喜んでいるとこを見ると感謝しかないよ。」
弟君の名前、大翔君っていうんだ。
私はふうんと新しいことを知れたなと彼の横顔に目を移した。
彼は優しい眼差しで大翔君を見ている。
「美桜はよかったのか?その、予定とか。」
横顔を眺めていたら不意に振り向かれて目が合う。
少し驚いたが、すぐに質問の意図を汲み取る。
「うん、特に約束もなかったから大丈夫だよ。」
「そうか、ならよかった。」
彼は少しホッとしたような様子だった。
「私が気を使っていると思ってた?」
「まあ、多少は。」
「カップルなんだから別におかしいことじゃないでしょ?」
私は笑いながらそう答えた。
それを聞いて彼もフッと笑った。
「偽装の、な。」
「そうだね。」
今日は春らしい陽気で過ごしやすい気温だった、心なしか吹く風も心地がいい。
空は白い雲が形を変えながら移動している。
そんな様子を私は足を軽くパタパタさせながら眺めていた。
「美桜は...どうしてそんなに恋愛事を苦手そうにしているんだ?」
彼が沈黙を破って質問してきた。
まあ、誰でも気になるようなことではあるかもしれない。
華の女子高生が恋愛から距離を置いてるだなんて、珍しいかもしれない。
「んー。去年、一つ上の先輩に初恋したんだよね私。」
「それで?」
私は遊ばせていた足の動きを止めて両手を膝についた。
「告白してOKもらってすごい嬉しかったんだけど、先輩にとっては私って遊びだったみたいで。」
「...。」
彼は黙って私の話を聞いている。
「ある日ね、先輩が他の女子とキスするとこ見ちゃってさ。そのまま終わっちゃったんだよね初恋。」
「悪い、軽々しく聞いていいことじゃなかったかもしれない。」
ばつが悪そうな顔で彼は横を向いている。
それを見て、私はクスッと笑った。
「何かおかしいか?」
「ううん、私もこの前に無粋なこと聞いちゃったからこれでおあいこだね。」
「そうだな。」
短い返事だったけど、それは吐き捨てたようなものでは無かった。
どちらかといえば落としどころを見つけたような、そんな返事だった。
「何か飲むか?買ってくる。」
「いや、悪いよ自分で買うよ。」
私は両手を振って遠慮した。
「厚意は受け取ってくれ、今日のお礼だ。」
お礼と言われては弱い。
私は素直に彼の厚意に甘えることにした。
「じゃあ、ミルクティーお願いしてもいい?」
「わかった。」
返事をすると彼は自販機に向かって歩き出した。
私は待っている間、ハンカチで額の汗を拭った。
やっぱり楽な格好をしてくればよかったと少し後悔をした。
「ほら。」
そんなことを考えていると、彼が飲み物を買ってきてくれた。
「ありがとう。」
私はそれを受け取ると、キャップを開けて口を付けた。
冷たい感触が喉を通り抜ける。
ホッと息をつくと、泥だらけの大翔君とハナがこっちへ走ってきた。
どうやらたくさん遊んだようだ、ハナはお風呂が必要そうだけれども。
「満足したか?」
「うん!」
大翔君は満面の笑みでそう答えた。
その光景をみて私も微笑ましくなっていると、大翔君がこちらを見た。
「美桜お姉ちゃん、ありがとー!」
「ちゃんとお礼できて偉いね。」
私は大翔君の頭を撫でて笑顔を見せた。
小さい子は自分の感情に正直でかわいい、私もそうできたらどれだけ人生楽なんだろうか。
「じゃあ、俺たちは帰るよ。」
「うん、また学校で。」
そして2人が歩き出したところで彼が振り返った。
「その白いワンピース似合ってるな。」
それだけ言い残して、歩き去って行った。
私は急な誉め言葉に言葉を返せないまま、2人の後ろ姿を見ることしかできなかった。
気温のせいなのか何なのか少し顔が熱い。
もらったミルクティーを頬につけて顔を冷やそうとする。
「だから、そういうとこだって。ねえ、ハナ?」
ハナは舌を出しながらこちらを見ている。
私はワンピースを着てきてよかったと思いながら、公園を後にした。
夏
すっかり外は暑くなり制服も夏服に衣替えをしたある日の放課後、私は菜々と近所のファミレスで涼んでいた。
親子で来ている子供がコラボのおもちゃが欲しいと駄々をこねる横を2人で通り過ぎ、お互いドリンクバーで飲み物を取ってボックス席に向かい合って座る。
私は冷たい酸味が広がるオレンジジュースを、菜々はこの暑い中でホットコーヒーを持ってきている。
それを何食わぬ顔で外を歩く人達を見ながら口にしていた。
たしかに店内はクーラーが効いているとはいえ、そのチョイスはどうなのかと私もオレンジジュースを飲み始める。
「どこが好きなの~?」
いつの間にか外に向けていた視線をこちらに移して菜々が聞いてきた。
玲奈や菜々にすら相談していないことだから、この間のことには流石の菜々も驚いて気になっているのだろう。
とは言え私達は偽装カップルだ、お互いに好きと言って付き合っているわけじゃない。
私はコップのストローでオレンジジュースをゆっくりとかき混ぜながら返答を考える。
「かっこいいとことか?」
我ながら安直すぎる回答に心の中で頭を抱える。
反応を見ようと顔を上げると、菜々は怪訝な表情でカップをテーブルに置いた。
少なくとも納得しているとは思えない顔だった。
「そんなテキトーな理由で付き合い始めたの?あの美桜が?」
あたりさわりのない事を言っても引き下がってくれそうな様子ではなかった。
「ごめん、雑すぎたね。」
私は苦笑しながら背もたれに身を預けて上を向く。
そして、彼の事を思い浮かべる。
どの辺が彼の魅力なんだろうと。
ふと、初めて一緒に下校した時の記憶が蘇る。
「意外と紳士的で気が付いて気を使ってくれるところかなあ。」
それは無意識に口に出ていた。
「あ、まって今のなし!」
慌てて訂正しようとする。
菜々はふうんといった様子で再びカップを左手で取って、外を歩く人達を眺め始めた。
今の返事で納得してもらえたのだろうか。
時々何を考えているかわからないとこがあるけれど、なんだかんだいつも私や玲奈のことを一番に考えてくれている。
きっと、去年の私の出来事を知っているから心配してくれていたのかもしれない。
それにどうして私はさっき口を滑らせたのだろう。
これはお互いに打算的な関係で、そんなことが介在する余地なんてないはずなのに。
コップの外側にできた水滴がテーブルに向かって滑り落ちていく。
まるで私の凍り付いていた心が知らないうちに溶け始めてい落ちていく雫の様に。
「大事にしてくれそうな人でよかったわねえ。」
相変わらず視線はそのまま外を向いたまま、菜々がおっとりした口調でそう言った。
「あ、うん。」
西日が照らし始めた彼女の顔からはどんな表情でそれを言ったのかはつかめなかった。
私は彼女が色恋事に対してからかうような態度をとるような人じゃなくてよかったと心から思った。
去年のこともそうだし、今回のこともそれについてはあまり触れられるとしんどかったかもしれない。
そんな人じゃないことは中学生のころから付き合いだから知ってはいたが、それでも菜々のこういうところが私は好きかもしれない。
少し残ったオレンジジュースを飲み切り、席を立つ。
「菜々もおかわりいる?もってくるよ。」
私は座った跡でスカートが皺になっていないか確認しながら聞いた。
その言葉を聞いて菜々がカップの中を見る。
ホットコーヒーも既になくなっていた様だった。
「私も一緒にいこうかしら。」
菜々も席を立とうとする。
「それくらい別にいいのに。」
それを聞いた菜々はクスッと笑ってこちらをみた。
「私のお砂糖の個数知っているの~?」
「うっ...。」
長い付き合いになるけど、そこまでは流石に知らない。
そもそもこんな暑い日にホットコーヒーを飲んでいることすら驚きだったのに。
「嘘よ、私はお砂糖なんていれないの。」
菜々は可笑しそうに笑っている。
ブラックコーヒーが飲めるなんて大人だなと思った、私には苦すぎる。
そうして2人で席を立ち、ドリンクバーの前まで歩く。
菜々はまたホットコーヒーでも飲むのだろうか、エスプレッソマシンの前で手際よく操作している。
「なんでこんな日にもホットコーヒーなの?アイスだってあるのに。」
率直な疑問だった。
外はまだ陽が斜めになってきているとはいえこの季節だ、夜になってもずっと暑い。
菜々は一瞬こちらに視線を送って、少し寂しそうな顔で口元を緩めた。
「叶わぬ乙女心ってやつかしらねえ。美桜はこうならないと様にした方がいいわよ。」
私は親友のその表情に何も言えなかった。
見たことのない菜々の表情から出たその言葉の意味はわからない。
彼女なりの悩みがあるのだろう。
でもきっとそれは私には力になることはできないものだと悟った。
ふやけ始めていた紙ストローをゴミ箱に入れ、新しいものをとる。
そして私もさっきと同じオレンジジュースをグラスに注ぎ始めた。
先に席に戻って、ずっと菜々が眺めていた外の風景を私も眺めてみる。
仕事終わりのサラリーマンや部活終わりの学生が次々に流れてくる。
その表情は様々で同じ風景のはずなのにその様相は違う。
私も普段はこの中に溶け込んでいるんだなと少し感傷的な気持ちになる。
1人1人特別なはずなのに、この目に映るのは風景の1部品でしかなかったからだ。
「美桜もそんな顔で景色をみるのねえ。」
変わらずホットコーヒーのカップを持った菜々が座りながらそう言った。
「外を見てたら柄にもない気持ちになっちゃった。」
苦笑してストローに口をつける。
「私はココが好きよ、この時間は必ず私の目的が達成できるから。」
そう言う彼女の目はキラキラ輝いている。
私達は大した会話もなく2人で外を眺める。
お互いにその心持ちは違えど、そこにはたしかにゆっくりとした時間が流れていた。
その帰り道はすっかり陽が落ちていた。
菜々はもうちょっとそこにいるからということで1人で家までの道のりを歩く。
お世辞に都会とは言えないこの街の夜は、大きな通りを外れてしまえば街路灯と車のスポットライトが唯一の明かりといっても差支えがない。
前からくる車のライトがまぶしい。
そこまで家まで距離があるわけじゃないが、音楽でも聞こうかとスクールバッグからスマートフォンとイヤホンを取り出す。
耳にイヤホンを付けると、最近お気に入りのバンドの曲を流す。
曲調が前向きで去年のあの1件から聞き始めて、今もまだ聞き続けている。
聞いているうちに、ラストのサビの転調がクセになってきてそれがたまらないのだ。
歌詞はあまり気にしていなかったが、リピートしているうちに覚えてきて時々口ずさむようになった。
ほら今も。
気分よく路地を歩いていると、突然腕を引っ張られてイヤホンが外れる。
私はそのまま道の端で男の人に抱きかかえられていた。
突然の出来事に何が起きたか分からないでいると、私の頭の上から声が聞こえた。
「あぶなかったな、大丈夫か?」
その声の主は優君だった。
イヤホンが外れた耳に彼の声と遠くに走り去るバイクの音が聞こえる。
音楽に夢中でエンジン音が聞こえなかったのか。
私は状況を頭の中で整理して彼が助けてくれたと結論付ける。
「あ、ありがとう。助けてくれたからなんともないよ。」
彼はホッとした様子で息を吐いた。
その息はやや切れていて、危ない私を見て走って来た様子を伺わせていた。
「美桜が無事でよかった、目の前で大けがだなんて御免だからな。」
「そんな大げさな。」
私は軽い口調で笑いながらそう言った。
「大げさじゃない。」
彼は真面目な口調ですぐにそう返した。
暗い路地でも近くにある彼の顔は冗談を言っている表情ではないことが分かった。
「俺の親父は交通事故で死んでる。そんなことの二の舞に美桜にはなってほしくない。」
初めて知ったことだった。
大翔君の面倒をよく見ているのも、片親でお母さんが働いているからなのかもしれない。
彼の普段の行動にも合点がいき始めた。
私は適当なことを言った自分を恥じた。
人は誰しも抱えている地雷がある、そんなことは身に染みて分かっていたはずなのに。
「ごめんね、これからはちゃんと気を付けるから。」
私は俯きながら謝った、彼の思いを無碍にしかけたことに。
「いいんだ、美桜が無事なら。」
彼は私の腰に回っていた腕をほどいて、ゼロだったその距離を増やした。
「うん、ありがとう。」
私は彼の顔が見れずに視線を下に向けたままそう言った。
彼が今どんな顔をしているかは分からない。
理由がなんであれさっきまで男の人と抱きついていた事実に、少なくとも私の顔は熱かった。
外れたイヤホンを指でクルクルして遊ばせながら彼が話し出すのを待った。
私は頭が真っ白でなにも言葉が頭に浮かばなかったからだ。
ドキドキした、彼は助けてくれたのに私は少しでも浮かれていたかもしれないなんて、心臓の音が聞こえてたらと思うと彼の気持ちに対して恥ずかしい。
様子を伺うようにチラッと彼の顔を見た。
彼は頭をかきながら横を向いていた、その表情は私という女の子に触れたことに対する困惑なのだろうか。
外灯に照らされた私達の顔は少し赤みを帯びている。
私は彼の足元に長ネギが顔を出したエコバッグがあることに気づいた。
彼は私の視線に気が付くとハッとしたようにそのバッグの中を見た。
「やっぱり割れちまったか。」
その手にはいくつか割れてしまった卵が入ったパックがある。
きっと、私を助けるためにそのバッグを地面にほおってしまったのだろう。
「ごめんね、私のせいで。それ今日の晩御飯でしょ?」
しゃがんでバッグの中を見る彼の背中に後ろから声をかける。
「美桜のせいじゃない、こんな狭い道であんなスピードで走っていたあいつが悪い。」
彼は私のせいにはしなかった、こんな時までその優しさを使うことなんてないのに。
私は申し訳ない気持ちが収まることはなかった。
「お詫びに晩御飯、私が作ろうか?」
気付けばそんなことを口に出していた。
「いや、流石にそこまではわるいからいいよ。」
彼はバッグから零れ落ちていたみかんを拾いながら、淡々と返事をする。
でもこのままでは私がままならないのだ。
「じゃあ、私が勝手についていって勝手に作るから。」
私は彼が持っていたバッグを手に取ってそのまま前を歩き出した。
「あ、おい。」
彼の言葉を無視してスマートフォンを取り出し、お母さんに友達の家でご飯食べてくると一本連絡を入れると、すぐにわかったと返事が来た。
その画面を私は彼に見せる。
「もう言っちゃったから諦めて。」
彼は俺の負けだと言わんばかりにしょうがなさそうな顔をしてバッグを取り返す。
「妹は今日いないから...俺と大翔、美桜の3人分でちょっと多いぞ?」
「大丈夫、家庭科の成績はいいから。」
私は自慢げに胸を張ってみせる。
「それは大船に乗った気持ちにはならんだろ。」
まったくといった面持ちで彼は食材を持ったバッグを家に着くまで持ってくれた。
彼の家はいつもの公園を挟んで反対側の少ししたところだった。
私の家から5分くらいでついてしまうような距離、これまで連絡なしで偶然会ったこともないって、私がどれだけインドアだったのかを突きつけられたような気分だった。
「狭いところだけど上がって。」
彼が玄関の靴を私が脱ぎやすいように端に避けてくれる。
私はローファーを彼の靴の隣にそろえて脱いだ。
こうして見ると男の子の靴って大きい、私が履いたら子供がお父さんの靴を履いたみたいにブカブカなんだろうと思う。
どれくらいブカブカになるだろうという好奇心から、彼の靴に足をそっと伸ばす。
「何してんの?」
不意に彼から声が届いて私は伸ばしかけた足を引っ込める。
「ごめんごめん、今行くね?」
私は床に置いたスクールバッグを持って、リビングから顔を覗かせていた彼の下へ向かう。
「おじゃましまーす。」
ゆっくりリビングに入ると、部屋は意外にも綺麗に整頓されていた。
結構周りが見えているところもあるし、きっと気が付いて彼が片付けているのかもしれない。
スクールバッグを適当なところに置くと、テレビを見ていた大翔君がこちらに気が付いたようだった。
「あ、今日はお姉ちゃんも一緒なのー?」
大翔君は満面の笑みでこちらに走ってきた。
私はかがんで視線を合わせて、頭を撫でる。
「そうだよー、晩御飯はお姉ちゃんが作ってあげるからねー。」
小さい子はどうしてこんなにもかわいいのだろうか。
よく見ると、目元なんかは少し彼に似ているのかも。
鼻筋も幼いながらに立ってきてきっと大きくなった彼のような整った顔立ちになるかもしれない。
私は大翔君の顔をむにむにしながらそんなことを考えていた。
「美桜、早く作らないと遅くいなるぞ。」
私はそれを聞き、今日の目的を忘れるところだったと立ち上がる。
「じゃあ大翔君、ご飯つくるからちょっとまっててね?」
大翔君ははーいと元気な返事をして、またさっきまで見ていたテレビの前にちょこんと座った。
私はそれを見届けると、冷蔵庫の前で腕を組んでいる彼の横に並んだ。
冷蔵庫の扉には手書きの献立が貼ってあった。
私もそれを覗き込んだ。
「今日は親子丼の予定だったんだね。」
「鶏肉が安い日だったからな。」
彼は献立に視線を向けたまま、代わりのものを考えている様子だった。
「冷蔵庫の中みてもいい?」
「大したものははいってないぞ。」
そう言いながら冷蔵庫の扉を開けて、中に入っているものを私に見せてくれた。
私はその中身を物色する。
玉ねぎに、鶏肉、キャベツもある。
調味料はと冷蔵庫の横の棚を見てみると、普段から自炊をしているのか一通りはそろっているように見えた。
「お米はたけているんだよね?」
「ああ、買い物に行く前に炊いておいた。」
私は夏服で無い制服の袖をまくる仕草をして息まいた。
「じゃああとは私に任せて、大翔君の面倒でも見てあげて。」
自信満々な私の様子を見て彼は息を吐き、任せると一言言ってキッチンから出ていった。
その様子を見送って、私は冷蔵庫から野菜と今日買ってきたであろう鶏肉を出してまな板で一口サイズに切り分けた。
大翔君にはもう少し小さい方が食べやすいだろうか。
そう思い、気持ちもう1回り小さく食材を切る。
そしてフライパンに油をしいて、切り分けた食材を炒め始める。
軽く混ぜるだけで少し手持無沙汰になった私は彼がいる方向を見た。
普段とは違って目尻を下げた優しい目で彼は大翔君を見ている、顔は見えなかったけれどさっきもその目で私を見てくれたりしたんだろうか。
もしそうだとしたら...。
そうだとしたら?
そうだとしたらなんだろうか。
私達はニセモノのカップルだ、それ以上でもそれ以下でもない。
無理やり自分を納得させながら、炒めていたおかずの火を止めた。
「ご飯できたよー。」
待っている2人に声をかける。
食器棚から適当なお皿を取り出して盛り付ける。
彼はその声で自然とこちらにやってきて、何も言わずとも盛り付けたお皿から順番にテーブルに運んでくれた。
別にそれくらいいいのに。
私はその小さな優しさに心の中で笑みを浮かべた。
「ごちそうさまでした。」
3人で手を合わせて食事を終えると、彼は大翔君の口元を拭いてあげていた。
私はお皿を集めてシンクに置いて蛇口をひねった。
スポンジを探してキッチンをキョロキョロしていると、彼がやってきた。
「それは俺がやるから。」
「せっかくだし最後までやるよ?」
少なくとも私の中ではここまでやってやっと今日のお礼だと思っていた。
彼は私をシンクの前から押しのけると、慣れた手つきでスポンジに洗剤をつけて洗いだした。
「手。」
「え?」
手がなんだろう。
私は自分の手をジーっと見る。
「綺麗な手が荒れるだろこういうのは。」
手ってそういう...。
別に気にしないのにと私は思った。
でもきっとこれは彼なりの気遣いなのだろう、私はニッと笑った。
「それなら洗い終わったお皿を拭くね。それくらいならいいでしょ?」
「じゃあ頼む。」
彼は短く了承した。
私は彼が洗ったお皿を受け取って布巾で拭いていった。
途中、何度か私と彼の手が触れた。
私はこの手がさっき助けてくれたものなのだと思うと、触れた箇所が熱かった。
その箇所を反対の手でそっと押さえる。
さっきまでどうってことなかったのにまた心臓がドクドクと脈打ち始めた。
「おい、美桜。」
その声にビクッとして彼の方を向く。
「な、何?」
「何って、皿。」
そう言う彼の手には洗い終わったお皿が差し出されている。
「あ、ごめんね。ちょっとぼーっとしちゃって。」
「やっぱりどこかぶつけたか?」
彼が心配そうに私を見てくる。
「ううん、どこも痛くないよ。」
「ならいいけど。」
納得してくれたのかどうかはわからないけど、視線を私から泡立った食器に移して洗い物を続けだした。
そこからは会話もなく淡々と洗い物を終えた。
部屋の時計を見ると20時前といったところだ、流石にそろそろ帰らないとお母さんが心配するだろうか。
私はスクールバッグを肩にかけて帰ろうとする。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね。」
「家まで送るよ。」
彼は手に持っていた制服のネクタイを置いて玄関に向かおうとする。
「すぐそこだしいいよ、それより大翔君見てあげて?」
眠そうに目をこする大翔君を指さしてそう言った。
彼も察したのか大翔君の傍に歩いていく。
「悪いな。」
「ううん、また学校でね。」
「飯、美味しかったよ。」
私はうんと言い、リビングのドアを閉めて玄関に向かって廊下を歩く。
内心、送ってもらえたら少し嬉しかったかもしれない。
でも小さな大翔君を1人にしてまでお願いするのは可哀そうだ。
この時間まで帰ってきていない彼のお母さんはきっと家族の為に遅くまで働いているのだろう。
大翔君といると言っていた妹さんの面倒を見ているから色んな女子から声をかけられても断っているのだろう、きっと両方にさける時間がないから。
私は両方の足にローファー履いて、小さな声でお邪魔しましたと言ってお暇した。
女子達を断っているのもきっと彼なりの優しさ、彼女たちを後々傷つけないための。
私だけが知っている彼の不器用な優しさを夜の星々と共有してスクールバッグからイヤホンとスマートフォンを取り出した。
歩きながらイヤホンをスマートフォンに差し込み、片耳に付けたところで止める。
「危ないもんね。」
2つをスクールバッグにしまいなおしてチャックを閉める。
私のためか彼のためかわからないその行為は、もう一度自問自答しても回答は出てこない。
チャックを閉めた時に、買った制汗剤の封が開いていないことを思い出した。
外は夜になってもまだ暑い、それに1日中着ていた制服はじっとりと肌に張り付いている。
「汗臭くなかったかなあ...。」
気になって歩きながら自分の腕や制服の胸の部分の臭いを嗅いだ。
「やっぱり汗臭い...。」
きっと彼も気付いていたよねと思い、ブルーな気持ちになる。
女の子にとって臭いというのは最上級に匹敵するレベルで傷つく事なのだ。
私も例外ではない。
人知れず凹んでいると、さっき作った野菜炒めの香りが汗の臭いにまぎれて残っていた。
連想するように、私が作ったご飯を食べて美味しいと言ってくれた彼の顔を思い出す。
悪い気はしない、寧ろ人に美味しいと言ってもらえることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
こんなにも気分を上下させている自分が可笑しくて、苦笑しながら私は自分の家までの短い道を歩いて帰った。
今日は日曜日、学校も休みで昼前まで寝ても問題ない至福の日なはず。
はずなのだが今日は違った。
明日から期末テストが始まるからだ。
これが終われば夏休みで優勝待ったなしなのに、その前に控えているラスボスが強敵すぎる。
大抵の教科は大丈夫なのだが、数学だけはからっきしでダメなのだ。
「あー、数学なんて大人になっても使わないよー。」
私は自室の机に突っ伏す。
外は私の気持ちも知らずに、セミが平然と鳴いている。
「この1週間だけ入れ替わってくれたりしない?」
手に持っているシャープペンシルを窓の外の木にいるセミに向けてそんなことを聞いてみる。
返ってくるのは変わらない鳴き声だけだった。
朝、学校に行く時間に起きてずっと教科書とノートを血眼で眺めてきた。
時刻は昼過ぎだが、網羅したテスト範囲は全体の4割程度だった。
苦手な私が言う網羅は網羅では無いかもしれないが、少なくとも赤点レベルではなくなったということではある。
私はガバっと立ち上がり、クローゼットを開ける。
そこから白いトップスとベージュのマキシスカートを手に取り、部屋着から着替えた。
髪も下しているいつもとは気分を変えて、ハーフアップにしてみる。
立ち鏡で自分の姿を見て上出来なのを確認すると、リュックに勉強道具を入れて家を出た。
家で陰鬱な気分で勉強するよりも、街の図書館で解放的な気分の中で勉強した方が効率がいいと思ったからだ。
途中、アイスクリームの看板が見えて足が向かいそうになるのを我慢しつつ図書館に向かう。
じりじりとした暑さでやっぱりさっきのお店に戻りたくなる。
そんな葛藤と戦いながらもようやく目的地に到着した。
「長い闘いだった~。」
時間にして約15分であった。
私は中に入ると、テーブルが並べてある窓際に視線を向けて空席を確認する。
しかし、どこの学校もテストの時期なのか空いている席は見当たらなかった。
しかたなく奥の方を見ると座れそうな席があった。
誰かに取られないうちに座ろうとその席の椅子に手をかけた時、そのすぐ横の席の人物が目に入った。
「優君?」
私と同じく、彼もどうやらここに勉強をしに来たようだ。
彼は何か聞こえたかと右のイヤホンを外してこちらを見て驚いた。
「美桜?」
「家じゃいまいち集中できなくてね、ココいい?」
えへへと苦笑しながら彼に問いかける。
「別に許可とる必要はないだろ。」
そうだねと言い私は椅子に腰を下して、リュックから数学の勉強道具を取り出した。
彼はどうやら英語を勉強しているようだ。
単語帳を眉間に皺を寄せながらブツブツ眺めている。
英語はあまり得意じゃないのだろうか、しばらく眺めていてもずっと同じページを見ている。
教えてあげようかと思ったが、私もそれどころじゃないことを思い出してフンと気合をいれ数学のワークの問題を解き始める。
ここは確か出したyの値をxに代入して、式を整理すると。
よし、解けた。
同じように用意された次の問題に取り掛かる。
順調に解きつづけて10問中8問解けたところでちょっと変わった式の形に四苦八苦する。
式がまとまらないし、xとyどちらの値も導き出せない。
10分ほどだろうか、ペンが止まって唸っている私を見かねた彼がスッと指を差してきた。
「難しく考えるな、まずは移行して符号を変えてから片方の値を求めるんだ。」
急に話しかけられてびっくりしたが、彼の言う通りに式の形を変えるとあっさり答えが出てきた。
「すごいね、数学得意なの?」
私はワークの解答と自分のノートを見比べながらそう言った。
「いやたぶんこれテストでも最初に出てくるやつだぞ...。」
「そうなの?じゃあちょっとまずいかなあ...。」
彼は私の反応を見て若干引いている。
だって仕方ないじゃん、本当に数学は苦手なんだから。
これでも私にとっては善戦している方だったし、赤点は回避しようとは思っている。
「どこがわからないんだ。」
彼は少し身を乗り出して私の取り組んでいるページを覗き込んできた。
ふわっと柔軟剤の香りがした。
自分の家で使っているモノとは違っていて、それもいい香りだった。
女性が好む甘いモノとは違うなにかせっけんのような。
「聞いてる?」
我に返る。
「え、あ。なんだっけ?」
溜息を吐いて彼がかけていた眼鏡を外す。
「わからないのはどこだって聞いてた。」
私は慌てて教科書のページを捲る。
勉強の時は眼鏡をかけるんだなあと新しい発見をした。
でも学校の時は裸眼だったような。
そんなことを考えながら、先生に言われたテスト範囲の中で自分が終わった範囲のページを開く。
「ここまではやったから、この先がわからないかも...。」
「ほぼ全部じゃないか?」
「えっ、4割くらいやったよ?」
彼はまた溜息を吐いて、外した眼鏡をかけて席に着いた。
「その4割が残りの範囲に使う前提の問題だぞ。」
そんなあと私は机にへたり込んだ。
「さすがに今回は赤点かも...。」
ここからがスタートだなんてそんなトラップは想定していなかった。
先生も意地が悪いと頭の中で文句を言い、変わらない現実に悲しい気持ちになっていた。
夏休みは補修のために学校に行かないといけない事実が受け入れがたい。
「教えてやるからそんな顔するな。」
終わったと思い込んでいる私に助け船を出してくれる。
「ほんと?」
「意味もない嘘なんてつかないよ。」
「じゃあお願いしようかな。」
私は彼の方に少し椅子をずらして近づきながらそう言った。
彼の教え方は上手だった。
1人で唸りながらやっとの思いでこなしていた量がすんなりと終わってしまう。
数学ってこんなにもスラスラと解けていくものなんだなと思いながら、彼の教え通りにペンを走らせる。
途中で私は彼から説明を受けながら、珍しい眼鏡姿を見つめていた。
高い鼻筋にワインレッドの細い縁の眼鏡がよく似合っている。
よくみると長いまつげがその瞼の動きに合わせて動いているのが分かる。
私から見ても女子から人気があるのも頷ける整った顔立ちをしている、こんな男子が私の彼氏役だなんてよく考えれば役得なのかもしれない。
私は怒られないうちに横顔を盗み見るのをやめて、問題を解くことに集中した。
気付けば夕方で陽が沈みかけている。
西日が図書館の窓から入り込み、たくさんの本が収納されている棚がオレンジに染まっている。
彼のおかげで数学のテスト範囲は大方理解できたと思う。
私は数学用の青いノートを閉じて彼に向き直った。
「今日はありがとう、優君のおかげでなんとかなりそうかも。」
ぺこりと頭を下げてお礼を言う。
「いや、俺の復習にもなったから大丈夫。」
私の数学に付きっきりでまともに自分の英語の勉強ができていないのに、彼は自分のためにもなったと言う。
そういうところだぞ。
口には出さず、心の中でそっと囁く。
「俺もそろそろ帰ってご飯でも作るか。」
彼も机の上に出していた単語帳や文房具を鞄に片づけ始めた。
その中にあった消しゴムは半分ラップが残っていて、ここに来る前に買った物なんだろうか。
綺麗な長方形だったであろうその形はもう丸みを帯びていて、保護するために周囲を覆っている厚紙はお尻のほうに織り込まれていた。
きっと私が来る前からここでたくさん勉強していたことが伺えた。
「途中まで一緒に帰ろっか。」
私はリュックを背負って立ち上がり、まだ片づけをしている彼にそう言った。
「方向も同じだしそうするか。」
「うん。」
お互いに荷物を持ち、もう人がほとんど残っていない図書館を退館した。
相変わらず彼は私の歩幅に合わせてくれる。
特別なことなんてなくても、女の子はこういう小さな優しさが嬉しいものだ。
私も彼の歩幅に合わせてみようとして、大股で歩を進めてみる。
少し速くなった私の歩みに自然といった風に彼も合わせてくれる。
普段の彼はこれくらいの速度で歩いているのだろうか。
だとしたらすごい、少しの変化なのにこんなに世界が速く流れていくなんて。
私は黄金色に染まった景色が流れていく様を楽しんでいた。
「あっ。」
調子に乗って速足で歩いたせいかアスファルトの段差に躓いて体勢が倒れる。
反対の足を前に出そうとするが間に合いそうにない。
これは流石に転びそうかも。
そう思った矢先に彼の腕に抱きとめられる。
「あ、ありがと。」
私は恥ずかしくなってちょっと下を向いた。
「無理して速く歩こうとするからだ、いつもの速さでいい。」
彼はゆっくりと私のおなかに回していた手を離した。
ちょっと前にもこんなことがあったような気がする。
ああ、そうだ。
バイクに轢かれそうになった時もだ。
私はいつも彼に助けてもらっている気がする、いや気じゃない。
いつもだ、いつも助けてもらっている。
なんでこんなに私の事まで気を回せるのだろう。
本物の彼女でもなんでもないのに、そう私達はニセモノなんだから。
そんなことを考えながら肩からずり落ちたリュックのヒモを直していると、道の塀に貼ってあるポスターが目についた。
私はそれを思わずジーっと見ていると彼もそれを覗き込んできた。
「花火大会行きたいのか?」
虚を突かれてつい姿勢を正してしまう。
「そういうわけじゃないけど、綺麗そうだなって花火。」
私は髪の毛をクルクルいじりながら斜め下を向く。
「夏休み始まってすぐか、一緒に行くか?」
彼からそんな提案がくるとは思ってもみなかった。
ましてや夏休みまで別に無理して会わなくてもいいのに。
でも嬉しい提案でもあった、花火大会なんて私が小さい頃以来行っていない。
「うん、行ってみたい。」
「じゃあ、テストで赤点とるなよその日も補修になるぞ。」
少し意地悪な言い回しをしてきて、焦燥感を駆り立てられる。
そっちがその気ならこっちだって。
私は彼の前に出て、両手を後ろに回して笑った。
「優君も英語がんばらないとねっ。」
「何でそれを。」
彼は少し驚いた様子だったが、すぐに頭をかきながらフッと笑った。
「美桜の数学ほどじゃないから大丈夫だ。」
「またそうやってー。」
私達はそのまま軽口を叩き合いながら帰路をゆっくり歩く。
まさかテストが終わったらご褒美が待っているなんて今朝の私は想像すらしていなかった。
家でそのまま勉強を続けずに、思い切って図書館まで足を運んでよかった。
勉強も教えてもらえて花火大会の約束もできて。
それにこうして彼と同じ時間を共有できていることに嬉しさを感じていた。
これがニセモノだったとしても、私にとって今日は一石三鳥だったかもしれない。
私の家の前まで来ると、彼はもう一度数学の要点を口頭で教えてくれた。
「わかった、夜もう一回復習してみるね。」
「ああ、頑張れ。」
彼は笑いながらそう言った。
素直に彼が笑顔を向けてくれたことがあっただろうか、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
大翔君に向けていた笑顔は見たことがある、でも私にそれを向けてくれるなんて。
私はその夕日に照らされた笑顔に少しドキッとした。
「また明日学校で。」
「うん、気を付けて帰ってね。」
私は手を振るために右手を上げようとした時、1歩足を運んだ彼が振り返った。
「その髪型似合ってるな、じゃあ。」
それだけまた言い残して彼は歩いて少しのところにある自分の家に帰って行った。
ハーフアップの結び目に手をやりながら、私の顔は赤く熱を帯びていた。
これはきっと夕日のせい。
そうであって欲しいと願いながら私は両足に履いたサンダルをこすり合わせた。
「だーかーらー、そういうとこだって。」
私は夕日のせいにできる間、顔の熱が冷めるまでその場から動けずにいた。
今、私は浮かれている。
何故なら心配だったテストも全て無事にパスできたからだ。
なんとあの数学も63点!過去最高点だ。
これには流石の私も彼に感謝をせざるを得ない、でも頑張ったのは私だからそのご褒美ももらってしまおう。
ご褒美というのは今日のあるイベント、そう花火大会だ。
幼い頃に見た綺麗な花火の記憶が蘇る、確かにそれは綺麗だが昔の記憶すぎて映像がぼやける。
別にそれでもよかった。
だって今日また見ることができるんだから。
「はい終わったわよ、きつすぎたりしない?」
私はクルリと回って見せて動きやすさを確認した。
いつもの恰好に比べれば動きにくいけど、これくらいなら大丈夫そうだ。
「うん、浴衣の着付けありがとうお母さん。」
「美桜が浴衣を着たいだなんて、好きな男の子でもできた?」
お母さんは意地悪な表情でニヤニヤしながらこちらを見ている。
これは何を言ってもからかわれる気がする。
私は観念して、いたって平然を装って言った。
「付き合ってる人と行ってくるの。」
あらあらと口に手を当ててお母さんは驚いている。
別に嘘は言ってはいない、ニセモノだけど形式上は本物なんだから。
私は巾着袋にスマートフォンやお財布などの持ち物を入れ、それを持ってもう一度立ち鏡の前でクルリと回ってみた。
よし、ばっちりだ。
満足気に両手を腰にあてていると、スマートフォンにメッセージが来たバイブ音が鳴る。
巾着袋からそれを取り出して画面の明かりをつける。
SNSを開くと、彼が家の前に着いたという連絡が入っている。
私は小走りで玄関に向かう。
「お母さん行ってくるー。」
「美桜、そんな走るところぶわよ。」
はーいと返事をしながら、玄関に用意された慣れない下駄を履く。
ゆっくり立ち上がり、履きごごちを確かめるためにその場で足踏みをする。
うん、大丈夫そうだ。
玄関を開けると、イヤホンで音楽を聞きながら彼がウチの塀にもたれかかっていた。
「お待たせ。」
ポンと肩を叩き、向かう準備ができたことを伝える。
彼は私に気が付くと左のイヤホンを外してこちらに向き直った。
「似合ってるな浴衣。」
「そう?ありがと。」
今日は最後じゃなくて最初に感想をくれるんだ。
私は短く返事をしながら満更でもない顔をする。
「優君も浴衣なんだね。」
彼は真っ黒なシックな浴衣を身にまとっていて、傍から見ても様になっていた。
「美桜も着てくると思ったから俺も浴衣の方がいいと思って。」
こういう時、男子なら動きやすい恰好で来るようなものだが、浴衣で揃えてきてくれるあたり彼らしいといえば彼らしい。
「花火大会いこっか。」
彼はああと言って私に合わせていつもよりゆっくり歩いてくれた。
「さっきどんな曲を聞いてたの?」
私は自分の耳を指さしてアピールしながら聞いた。
「月曜のドラマの主題歌になってるやつ、ちなみに今聞くのは危ないからダメだ。」
ちぇーと口をとがらせてみせる。
それでも彼はダメと念を押して言ってきた。
「えへへ、いいよ冗談。」
私はご機嫌な笑顔でそう言った。
彼もまたこいつは...といった目で受け流してくれる。
あたりはすっかり暗くなって、空には雲一つない花火にはもってこいの天気だ。
この街の花火大会は河川敷で毎年行われて、そこには多くの屋台が出店されてとても賑わっていた記憶がある。
そこへ向かって歩いていくにつれて周りに人が増えていき、たくさんの親子連れやカップル、友人ときた若者がちらほらと見えてきた。
「わあ、すごいね花火はまだなのにもうあんなに盛り上がってるよ。」
河川敷の橋から会場を見渡すと、そこは多くの人だかりと屋台の光でぎっしりだった。
「美桜、何か食べるか?」
私は屋台の食べ物を頭に思い浮かべて、何を最初に食べるかうーんと唸る。
横をきっとお母さんに買ってもらったであろうりんご飴を持った女の子が走りすぎた。
それを見て私は何を食べるか決めた。
「りんご飴がいいかな。」
「せっかく塗ったリップが台無しになるぞ?」
苦笑しながら彼はそう言った。
普段より赤く色づいた唇を指でそわしながら、気付いてくれたことに私は自分が思っていたより喜んでいた。
「もっと赤く染めちゃえばいいじゃん。」
いたずらな笑顔を彼に向けながらそう口にした。
「そういうもんか?」
「そういうものだよ。」
私はいたってご機嫌な足取りを隠そうともせずカタカタと下駄の音を鳴らして河川敷の階段を軽快に降りた。
「そんな歩き方してたら転ぶぞ。」
「お母さんみたいなこと言うんだね。」
振り返ってあえていじけた顔を彼に見せる。
「美桜の膝こぞを心配しただけだ。」
「私じゃなくて私の膝こぞ?」
「ご主人がそんなんでかわいそうに。」
「じゃあ、はい。」
私は少しムッとしながら彼に手を差し出した。
彼は最初キョトンとしていたが、すぐに意図を悟ると私の手を取った。
「仰せの通りに、お嬢様。」
「よろしい。」
役者さんもびっくりの大変下手な演技を2人でして手を繋ぎながら私達は笑い合った。
屋台の列に入るとその中はまるで別世界の様に人々の笑顔が満ち、それを照らす明かりが輝いている。
横にある金魚すくいでは動くポイを避けるように悠々と金魚が踊るように泳ぎ、反対の射的では打ち出したコルクが景品の隙間を縫って空を切る。
まさにお祭りといった様相だ。
まだそのどれにも手をつけていない状態なのに、この場にいるだけで気分が高揚する。
「ねえ、100本くじやってみたいな。」
私はそこから5m程度のところにあるお店を指さし尋ねる。
「どうせろくなものしかあたらないぞ?」
「夢がないなあ、やらないと分からないよ。」
頬を膨らませて目の前の現実主義者に夢を説く。
「私の豪運を見せてあげる。」
店主のおじさんに500円玉を手渡ししてやる気満々に袖をまくる。
一番の当たりはなんだろうかと糸で繋がれた景品を見渡す。
見たところゲーム機が一番高そうな景品だ。
よしと意気込み、目の前に垂れたヒモから狙った景品の気配を探る。
「これに決めた!」
私は目を瞑って思い切りヒモを引っ張った。
何が当たったか確認するために目をゆっくり開けると、引っ張り上げられていたのはおもちゃの水鉄砲だった。
「ハズレ、だな。」
彼はいつも通りにフッと笑いながら腕を組んでこちらを見ていた。
「いける気がしたんだけどなあ。」
戦利品の水鉄砲をぶらぶらさせながらそれを見つめる。
私が持っていてもしょうがないそれは、夢と呼ぶにはあまりにちゃちなモノだった。
「そうだ、これ大翔君にあげるよ。」
おもむろに水色のおもちゃを彼に差し出す。
「まあ、喜びはしそうだな。」
素直じゃない彼は渋々といった様子でそれを受け取り、肩にかけていたトートバッグにしまい込んだ。
私は辺りを見回して、次はどこに行こうか頭の中で考えていた。
わたあめも買いたいし、たこ焼きも食べたい。
あ、りんご飴も忘れないようにしないと。
どうしよう、身体が1つじゃ足りないかもしれない。
私は完全に舞い上がって、既にその手が彼と離れていることに気が付かなかった。
「ねえねえ、次あっちいってみよう...よ...。」
後ろを振り返って初めて気付いた、そこにいると思い込んでいた彼がいないと。
ぐるりと周りを見ても彼の黒い浴衣姿はどこにも見当たらない。
「優君...。」
周囲の人だかりに揉まれて、川に落ちた木の葉の様に流されていく。
屋台の列のどのあたりに今いるのかも良く分からない。
視界が取れず空を見ても、その情景はどこにいても変わらない不変を示している。
こんなこと、小さい頃にもあった気がする。
そうだ。
はしゃいでお母さんの手から勝手に離れた私は今みたいに迷子になって、どこにいるのかも分からなくなって泣きじゃくって。
後から必死になって探してくれたお母さんが私の手を取って抱きしめてくれたっけ。
「私、あの頃と何ひとつ変わってないじゃん。」
1人で浮かれて、1人ではしゃいで、そして迷子になって彼に今も迷惑をかけている。
私1人だけ舞い上がってバカみたい。
冷静になってとぼとぼした足取りで屋台の列から出て、河川敷の階段の中腹あたりで腰を下ろす。
「あ、スマホ。」
SNSで連絡を取ればいいと思い、持っていた巾着袋からそれを取り出して画面の明かりをつけようとする。
しかし、何度サイドにあるボタンを押しても画面はつかない。
こんな時にスマートフォンが電池切れだなんて、なんで出かける前に充電しておかなかったんだろう。
いつもならそうしていたのに、よりにもよって今日という日に。
私は今は役に立ちそうにないそれを巾着袋にしまい、慣れない下駄で鼻緒が触れている箇所から血が出ている足を見つめて泣きそうになった。
こんなに惨めな気持ちになるんだったら浴衣なんて着てこなければよかった、そうすればまだ少しは楽だったかもしれない。
私は色んなマイナスな感情が湧き出てきて、もう帰ったあとで彼に謝ろうかと考え、立ち上がった。
「美桜...!」
私の名前を呼ぶ声と共に右手を掴まれた感覚がした。
「どこ行ってたんだ、探したぞ。」
涙目になりながら振り返ると、彼が息を切らしながらそこに立っている。
浴衣は若干気崩れしていて身体は蒸気を発して火照っている。
あれからずっと私を探し回ってくれていたのかと思うとそれだけで嬉しい。
でもそれより嬉しかったのは私を見つけ出して、また手を取ってくれたこと。
「ごめんね、優君...。」
色んな感情がその一言には含まれていた。
迷惑をかけたことも私が1人で舞い上がっていたことも先に帰ろうとしたことも全部。
でも、全部を言葉にすることはできなかった。
それくらい頭の中がごっちゃになっていて自分では整理できなかった。
「美桜が無事ならそれでいいんだ。」
彼はそのまま私の横にストンと座り、私の手を少し引いてこちらにも座るよう目くばせをしてきた。
促されるがままに私も彼の横に小さく座った。
「手を離して悪かった。」
何も悪くないのに彼は謝る。
今回ばかりは悪いのは私なのにどうして責めないのか。
「ううん、私が勝手にフラフラしたのがいけなかったの。」
ギュッと彼が手を握る力を少し強めた。
私はその温もりに安心感を覚えた、そうあの時お母さんに見つけてもらった時のような。
「それ痛いだろ。」
彼が私の足元を見ながら尋ねてくる。
さっきまではその傷以上に痛みを感じていたのに、今は彼に握ってもらった手の温もりで完全に忘れていた。
「大したことないよ、ちょっと染みるだけ。」
少し笑って見せて、その血がにじんだ足を手で撫でながらそう言った。
「こんな時まで強がらなくてもいい。」
強がりとかではなかった、本当にそう感じていた。
彼は持ってきていたバッグの中をゴソゴソと目的の物を探している様子だった。
やがてピタッと腕の動きを止めて、私の前に移動した。
「下駄、脱がすぞ。」
彼はそう言うと、私の下駄を両方脱がして絆創膏を貼ってくれた。
真面目な顔で貼ってくれたそれはあまりにも不格好な出来で、上手く傷に貼れていない。
私は彼のその不器用さが可笑しくてつい笑ってしまった。
「あはははは、かっこつけといてこれはないでしょ。」
「うるさい、文句があるなら剥がすぞ。」
彼は頭をかきながら横を向いてそう言った。
これは彼のばつが悪い時にする行動だ、最近私にも分かってきた。
私は足を上げてその絆創膏を眺める。
「うーん、私はこれがいい。」
それは彼がくれた不器用な優しさの印だからだ。
握られた手を確かめるように私も握り返してみる。
その手は私よりも大きくてごつごつしていて、男の人の手だった。
ふと、彼を見るとスマートフォンの画面を見ていた。
「何見てるの?」
私はひょこっとそのスマートフォンを覗き見る。
その画面はホーム画面のままで時刻と日付程度の情報しかなかった。
「花火、後少しで上がるみたいだぞ。」
花火の打ち上げ時刻を見ていたのかと1人で納得する。
後5分ほどで花火の時刻だが、屋台に顔を出すには少しばかり時間が足りない。
私は彼のそのスマートフォンをジーっと見つめて閃いた。
「ねえ、写真撮ろうよ。」
「唐突だな、別にいいけども。」
彼はスマートフォンを貸せといった様子で手を出した。
「私のは充電切れてるから、優君ので撮ろうよ。後で写真送ってくれればいいからさ。」
あまり気が乗らなそうな顔で彼はカメラのアプリを起動し、内カメにして慣れない所作で私達が映るように手を伸ばした。
「もっと優君笑って、ほらほら。」
私は彼の頬を指でついて口角を上げさせようとする。
「画面に2人入れるので大変なんだよ。」
「じゃあ、大人しくするから笑ってね?」
「はいはい、努力するよ。」
やれやれといった様子で彼はカメラの撮影するために指を構えた。
「じゃあ、はいチーズ。」
彼のその言葉と共に押されたシャッターは、満面の笑みの私と頑張って口元だけ笑っている彼を鮮明に記録した。
私は絶対にそれを送ってねと彼に念入りにお願いをした、彼は自分の顔が気に入らないのかちょっと嫌そうな顔で渋っている。
「もう、持ち逃げなんてダメだからね。」
頬をリスの様に膨らませながら、うんと頷くまで私は噛みついていた。
「わかった、俺の負けだ。」
ようやく折れてくれた。
まったく、2人で撮った記念の写真なんだから私が持ってないのはおかしいでしょと心の中でちょっと怒ってみせた。
傍から見ればただ仲睦まじいカップルのやり取りをしていると、夜空にパッと花火が咲き始めた。
私達は咲いては散っていくその鮮やかな花火に視線を釘付けにされた。
「綺麗...。」
「そうだな。」
空いた方の手を胸の前で握り、次々と咲く大輪の花々を見つめる。
あんなにも花火は綺麗なのに、私のこの気持ちを恋と呼ぶにはこの関係は気持ちが悪い。
私は繋いだ手にキュッと力を込めて心の内で彼に抱いた感情に鎖を付けた。
外見上は本物に見えそうではあるこの関係はいつまで続くのだろう。
いつかあの花火の様に散ってしまうのだろうか。
「嫌だなあ...。」
呟くように吐いたその言葉は打ち上がる花火の音にかき消されていった。
私の頬には人知れず1滴の雫が伝って地面に落ちていった。
この温かさがニセモノだったとしても私はそれにすがりたいと思ってしまう。
私達はその花火の最後の1輪が消え入る瞬間まで静かに見守っていた。
「立てるか?」
花火が終わった後、彼が私の手を取って軽く引いてくれる。
「うん、大丈夫ちゃんと歩けるよ。」
少し痺れた足を庇うように立ち上がる。
1度手を離して、裾についた土を手でほろってまたその手を取る。
「それじゃあ行くか。」
彼が私の手を引いて歩き出す。
って、あれ?
そっちは帰り道じゃないはず。
「どこいくの?」
私はまだどこか行くのかと困惑している。
彼はこちらを向くと何を言っているんだと言わんばかりな表情をした。
「食べるんじゃなかったのか、りんご飴。」
「あ...。」
最初に言ったそんな事まで覚えていてくれたんだと心の中が彼で一杯になる。
笑顔を浮かべて彼の横に立つ。
「そういうとこだぞ?」
私は彼の脇腹を軽く肘で小突いて彼を覗き見た。
「何がだよ。」
「んーん、なんでもないっ。」
いたずらをした子供の様な表情をして私は彼の手を引いて小走りでお店に向かった。
そこで買ったりんご飴は甘酸っぱい味がした。
でもそれがよかった、その味が私の心を改めて代弁しているような気がして。
私の唇は色づいた頬に合わせるように更に赤く染まった。
「今日は連れてきてくれてありがとう、私すごく楽しかった。」
河川敷の階段を一気に上まで駆け上がり、その場に取り残された彼に向かって素直に感謝の気持ちをぶつけた。
彼はフッと笑みを浮かべて私を追いかけるように階段を上ってきた。
そしてまた手を繋いできた。
「家に帰るまでが遠足だ。」
そう言う彼の表情はいつもより柔らかい雰囲気だった気がする。
きっとそうだといいな。
私達はどちらからともなくゆっくりと家までの道を歩き出した。
家までのその時間は私にとって永遠にも一瞬にもとれる特別なひとときだった。
彼と過ごすこの時間が終わって欲しくない気持ちもあれば、気恥ずかしさで早く終わって欲しいと思う天邪鬼な乙女心が天使と悪魔の様に私の心を惑わしてくる。
花火が終わった夜空は星空が静かにその存在を主張している。
帰り道の方向の上空にはアルタイルとベガが夏の大三角を形成していた。
私達はあの星の様になれるのだろうか、あの煌めき続ける関係の様に。
手に持った食べかけのりんご飴をベガに重ねる。
それはりんご飴越しでもその輪郭から光を漏らしている。
「私はそこまで真似できないかな。」
つい織姫の存在感に負けて言葉を落とす。
「何か言ったか?」
独り言を零した私に対して不思議そうな顔をして彼がこちらを見る。
「なんでもないの、ただ星が綺麗だなって。」
「ああ、そうだな。」
彼も空を見上げてその星々の行方を眺めている。
私はその横顔をそっと心のアルバムに綴じて、この夏にお礼をした。
この季節はきっと私を1歩前に歩かせてくれた忘れられない記憶をくれた。
秋
まだじっとりと暑さがあり、それが夏の残り香に感じる日の放課後に教室の隅で体育座りをしながら菜々は泣いていた。
その横で玲奈が彼女の背中を優しくさすっている。
私達3人以外誰もいない教室には菜々の涙をすすり上げる音だけがかすかに響いている。
「ごめんね2人とも、こんなこと最初からわかっていたはずなのに。」
いつものおっとりとした口調ではない、きっとそれはあまりの悲しさで余裕がないからだろう。
私も玲奈も何も言わなかった、正しくは言えなかったのかもしれない。
菜々はこの学校の生物を担当している先生に恋をしていた、もちろん教師と生徒の恋愛はご法度なことくらい菜々も知っている。
それが決して叶わないものということも。
いつからその恋心が芽生えたのかは私は知らないけど、菜々が暇を見つけては理科準備室にいる先生に勉強を教えてもらいに行ってたのは知っている。
それは好きな相手に会う口実だったのだろう。
事実、菜々の生物の成績はかなり良い。
先生に褒めてもらいたくて必死に勉強したのかもしれない。
それを知っているからこそ、私達2人は菜々にかける言葉が見つからない。
「準備室で2人でいる時間だけで幸せだったのに、それだけでよかったのに。」
「ゆっくりでいいから。」
玲奈は気持ちを吐き出し始めた菜々に優しく声をかける。
「私だんだん欲張りになって我慢できなくなって...先生が皆に向けるあの眼差しを私だけに向けて欲しいって。」
菜々の瞳から大粒の雫が零れ落ち始める。
床に落ちたその雫はアスファルトの様に吸収せず、その場に溜まっていく。
まるで彼女が心の中に溜めていた感情の量を体現するかのように。
「気持ちを伝えたらそれで終わっちゃうのに私...言っちゃった...。」
告白しなければ確かにその放課後の関係は続いていたかもしれない、でも彼女の気持ちは私も他人事とは思えないほど痛く理解できる。
伝えたら今の関係が壊れてしまうかもしれない、普通なら1歩進むために必要なその残酷な行為はもしかしたら報われるかもしれない。
菜々の場合は違う。
教師と生徒の関係な以上、それは報われることのない終止符を打つ1手で終わる。
「こんなことなら...恋なんてしなければよかった。」
嗚咽が混ざった悲痛な声だった。
両手で顔を覆い、その手で拾いきれないほどの涙を流した。
窓から差し込む西日は教室に光と闇を作り出し、窓際に小さく座り込んでいる彼女を闇に包み込んでいる。
私は世界はなんて罪なんだろうと思った、こんなにも悲しんでいる少女1人の想いを届けることすら禁忌だなんて。
そんな今にも儚く消えてしまいそうな彼女が落ち着くまで、私達は傍で見守ることしかできなかった。
時計は17時半を指している。
部活によってはもうそろそろ活動が終わって帰宅を始める生徒が出てくる。
溜め込んだ感情を吐き出した菜々は静かにその場に佇んで俯いている。
私は外を眺め、試合形式で練習しているサッカー部の生徒が蹴ったボールを目で追う。
あのボールはきっと幸せ者だろうと思った。
最後にはゴールネットという自分を受け止めてくれる存在がいるからだ。
部室棟の影が三角の形をしてグラウンドを占拠しているのを見て、私はあるスイーツを連想した。
「ねえ、2人ともクレープ食べに行かない?」
玲奈もそれだと言わんばかりの表情で菜々の肩に手を触れる。
「そうだよ、こういうときは甘いものでも食べようよ。」
「そうねえ。」
その声は小さい。
私はすっかり意気消沈した菜々の手を取って、笑顔を作り彼女を先導する。
「よし、いこっか。きっと少しは元気がでるよ。」
スクールバッグを持ち、3人で教室を出ようと歩き出す。
ふと黒板の右下に桐島という名前が目に入った。
「あ!今日は日直だった。ごめん2人とも先に行ってて?日誌出したらすぐいくから。」
私は自分の机の中にある使い込まれて角がボロボロな学級日誌を手に取り、職員室へ速足で向かう。
「玄関で待ってるからー!」
後方から玲奈の声が聞こえ、私は誰もいない廊下を急いだ。
職員室は階段を降りて1階にある。
階段を降り、少し歩いたところにある目的地のドアをノックする。
「失礼します。」
ゆっくりその引き戸を開くと担任の先生と目が合った。
先生は私の右手にある学級日誌に視線を落とした。
「忘れて帰らなかったからセーフってことにしておくか。」
椅子で組んでいた足を反対に組みなおして私がその場に来るのを待っている。
「遅くなってすいません。」
私は先生の机の前まで行って、日誌を手渡す。
「確かに。」
受け取った日誌をペラペラとめくり、今日の分の記載があることを確認してパタンと閉じた。
「もう夕方だ、早めに下校しなさい。」
記入ミスが無いことに安堵した。
「はい、失礼しました。」
私は無事に日誌を提出して職員室から出て、音が鳴らない様にその扉を閉めた。
ふうっと息を吐いて菜々達の下に向かおうとすると、見知った声に呼び止められた。
「美桜、まだ帰ってなかったんだな。」
その方向を向くと彼がノートを片手にその場に立っている。
「うん、日誌をまだ出してなかったから。」
「じゃあ大した用は無さそうだな、暇ならこの後ちょっと買い物付き合ってくれないか。」
私の身体がピクっと一瞬動いた。
「暇じゃないから。」
「え?」
彼は意味が分からず困惑した表情を見せる。
「私がいつも暇だと思わないで。」
思わず大きな声が出る。
大した用はない?
あんなに傷ついた私の大切な友人をほっとけるわけがない。
大事な用事があるのにそれをいつもの気だるげな喋り方で暇と言われた事に腹が立った。
今日はその決めつけたような言い方も鼻につく。
私はそのまま彼をその場に置き去りにして、玄関で待っているはずの2人の下へ向かった。
彼がどんな表情をしていたかは分からない、けれど私の頭の中は菜々のことで一杯だった。
「お待たせ、ごめんね。」
既に靴を履き替えている2人を見て、私も急いで履き替える。
2年履いて少し踵がこすれた茶色のローファーを履き、2人の間に入る。
「さっき声が聞こえたけど、何かあった?」
どうやら職員室の前のやり取りが2人にも聞こえていたらしい。
大きな声を出してしまったから気を使わせてしまったのだろうか。
「ううん、何でもないの。閉まっちゃわないうちに早くクレープ屋さんいこ?」
私はさっきの出来事を誤魔化す様に早歩きで2人の前に出た。
2人は顔を見合わせてから私の後を追うように歩き出した。
途中、菜々は道端に設置された自動販売機の前で歩みを止めた。
視界から消えた彼女を追うように私達も数歩後ろにいる菜々に振り向く。
「どうしたー、喉でも乾いたー?」
菜々は何もしゃべらず肩にかけたスクールバッグの中から財布を取り出す。
小銭入れを開いて硬貨を何枚か手に取って、自動販売機に投入し迷わずホットコーヒーを選ぶ。
押したボタンに反応して取り出し口に落ちてきた缶をゆっくりと手に取り、この時期にはまだ早いそれを両手で慈しむような目で眺めている。
「これで最後なのね。」
ポツリと菜々が呟く。
缶の縁を指でなぞりながら彼女は泣いていた。
やがてプルタブに指をかけて、その中身を一気に飲み始める。
その勢いで弾けるように飛んだ彼女の涙は夕日に照らされてオレンジ色に輝く。
きっとその一粒一粒には彼女の輝かしい思い出が詰まっているのだろう。
少ししてホットコーヒーを最後の一滴まで飲み干した菜々の表情は少し晴れやかに見える。
缶を自動販売機の横に設置されたゴミ箱に捨てて、こちらに1歩寄って菜々は困り顔でちょっと舌を出して笑う。
「私にはまだあれは苦いわねえ。」
一瞬、玲奈と目を合わせてから私達も笑った。
「菜々は大人だと思ってたのに違ったんだ。」
「私が好きなのは甘いモノよ~?」
「じゃあ、これから食べに行くものはちょうどいいかもな。」
菜々はずっと大人だった。
味の好みは私達と変わらないかもしれないけど、しっかりと自分の気持ちには踏ん切りをつけることができる。
それがどれだけ難しくて苦しいか。
でもその痛みを彼女は全部受け止めた。
私は菜々の友人で誇らしい気持ちになった、それはきっと玲奈も同じ気持ちだと思う。
駅前のクレープ屋さんの前で2人は看板にある品揃えを見てどれにしようかとはしゃいでいる。
私は少し後ろでその様子を眺めていた。
大体2週間くらいたった休日、私はベッドに横たわって天井の模様を構成する線を数えながら怠惰な1日を過ごしていた。
学校が休みでも玲奈と菜々は部活があり、2人と遊んだりといった事は滅多にない。
彼とはあれ以来少し気まずい雰囲気で、登下校も一緒にという事は無い。
別に彼が悪いというわけじゃない。
どちらかと言えば私が些細な事につっかがってちょっとむきになった、ただそれだけの事。
私が子供なだけ。
彼はいたっていつも通りだったし、最近も下校や公園に誘ってくれたりはする。
でもなんだかばつが悪くてつい断ってしまう。
そう考えると気まずいと思っているのは私の方だけかもしれない。
「63...64...64...。」
あれ?
どこまで数えたっけ。
頑張っていつもより多く数えた気はするが結局いつも通りいくつ数えたか分からなくなる。
私は数えるために天井を指していた指を腕ごと脱力させて、ベッドに大の字を身体で描く。
こんな事なら適当な部活にでも入ればよかったかもしれない。
その方がこんな風に無意味に休日を消費するよりかは何か価値がある1日になるのかもと思った。
とはいえ、私は運動が得意な方ではないし何か芸術に秀でているわけでもない。
向いている部活がないのだ。
どうしてここまで平凡なのか。
何の取り柄もない自分が時々嫌になる。
「美桜ー、ハナの散歩行ってくれないー?」
階段の下からお母さんが大きな声で私を呼ぶ声がした。
私は上半身をベッドから起こしてドアの方を向く。
「今日は気分じゃないからー。」
お母さんに聞こえるように声を張ってそう返す。
きっと下では両手を腰に当てて溜息をついているだろうお母さんの様子が目に浮かぶ。
休日に寝っ転がっているだけなのもと思い、せっかく起こした上半身のためにもと視線で部屋を物色する。
テーブルの上にこの間買って途中で諦めたジグソーパズルが目に入った。
完成すれば綺麗な西洋のお城になるらしいのだが、それはまだ完成にはほど遠い何かだ。
張り切って完成した後に飾るための額縁まで買ったのに諦めるのは少し勿体ない気持ちになり、ベッドからそのテーブルの前に移動して足を崩して座る。
「完成させますかー。」
ふうっと息を吐いて、ピースを手に取り集中する。
箱の完成形と手に持っているピースを見比べて、それがどこに嵌るものなのかを検討して少しづつ嵌めていく。
お城が白いせいで空の雲と判別がつきにくい。
このオレンジは木の葉だろうか、だとしたらこの絵は秋の様相なのかもしれない。
国が違っていても秋には葉が紅葉するのは変わらないのかと、世界の理を理解した気になる。
部屋の中では机の上にある小さな時計と私の息づかいだけが聞こえる。
静かだ。
動く秒針の音がまるでメトロノームの様に集中した私の頭に心地よく響く。
ずっと見ていると、同じ白に見えていたお城と雲が違う白だという事に気付く。
外壁の白さはどこかクリーム色っぽい。
ピースを嵌める手が少し早くなった気がする。
無心で一つ一つ景色を作っていくこの時間は、世の中の面倒なわだかまりが届かない私だけの世界な感じがして少しだけ気分がいい。
私がこの世界の創造主で、作った世界が私に届くこともない。
どのくらいの時間を費やしたのだろう、私はテーブルにある最後の1ピースを手に取る。
「長かった、やっと終わりだー。」
私もやるときはやるんだなと、誰もいない部屋で自慢げな表情をしてみせる。
世界を完成させようと最後のピースを嵌めようとして手が止まった。
その最後の情景は男性が花束を持って女性の前に跪いている箇所で、今にも持っているピースを嵌めることでそれが報われるかの様に私を思わせた。
「生意気だぞ。」
私はピースを置いて、手持無沙汰になった指で私の世界をつついた。
頬杖をついて枕元にあるスマートフォンを覗く。
画面は暗く、誰からも何も届いていない様子でそれは沈黙を貫いている。
私は少しだけ残念に思った。
自分から断っておいて何を残念に思うのだろう、そんな権利は無いというのに。
私はもう一度スマートフォンの画面を見る。
それはさっきと同じ様に沈黙を貫いたままだ。
手に取ってSNSを開く、何かを期待して。
来るはずのないそれを待っているかのように、何度も同じところをスクロールしてみる。
特に自分から何かを送るわけじゃないのに私はしばらく同じことを繰り返す。
「こういう時は気付いてくれないの。」
ピンクのクッションを抱いて体育座りをする。
ひと言謝るだけでまた今までの関係に戻れるのに、今の私にはそれが一番難しい。
私の気持ちがそれを邪魔しているのか、ニセモノが邪魔をしているのか、またはその両方なのかすら分からない。
その休日はジグソーパズルとモヤモヤした気持ちに消化されて消えていった。
私達は3人で大きな商業施設の中にあるフードコートで放課後の時間を過ごしていた。
玲奈は真面目に落ち込んだ顔をしているが、私と菜々はまたかといった表情で彼女の話を聞いている。
どうやら彼氏と『また』喧嘩したらしい。
「今度は何したの、玲奈?」
原因はだいたい玲奈の幼稚な行動が原因だ。
私は若干犯人が分かっているかのような口調で尋ねる。
玲奈はポテトを掴んで遊ばせながら口を開く。
「ちょっといたずらで紙ストローをふやけさせただけだって、それだけなのにそんな怒らなくてもよくない?」
菜々はそれを聞いて乾いた笑いをしている。
いや、紙ストローをふやけさせて渡されたらちょっとうざいでしょ。
私は心の中で玲奈にツッコミを入れる。
「そしたらあいつ何したと思う?」
「何かしらねえ。」
「何だろう。」
2人で同時に首をかしげながら玲奈の答えを待つ。
「私のショートケーキのイチゴを食べたんだよ。」
玲奈はその時の様子を再現するかのように、身振り手振りでアピールしてくる。
どうせそんなことだとは思った。
「1個しかないんだよ、ありえなくない?」
私は思わず頭を抱えてしまう、このカップルに何を言っていいかもはや分からない。
菜々は菜々で話半分といった様子でジンジャーエールの氷をストローでかき混ぜて遊んでいる。
「もう謝ってくるまで絶対口きいてやんない。」
1か月に1度は必ずこんな感じになる。
いつも喧嘩していても最終的には仲直りしているし、なんだかんだ言ってもお互いに大好きなのだ。
もう慣れたこととは言っても、毎回玲奈はちゃんと凹んでいるから無視もできない。
ふやけた紙ストローにイチゴって、どう仲直りの助言をしてあげたらいいものか
と真面目に悩んでしまう。
枝毛がないか髪の毛をいじりながら何かいい案はないかと思慮を巡らせていると、氷遊びに飽きた菜々が口を開いた。
「簡単じゃない、玲奈がいたずらをやめればいいのよ~。」
あまりにストレートだった。
そんな愚直な発想、逆に今まで思いつかなかった。
でも原因はそれで無くなるしいい案かもしれない。
「え、私が悪いのか?」
まさかといった表情でポカンとしている。
そうだった、玲奈は自分が原因を作っていると自覚していないからいつも喧嘩になっているんだった。
私は天を仰いだ。
「そうねえ、だから謝った方がいいと思うわ。」
さらに菜々がストレートに返す。
その言葉に玲奈がモジモジしながら、さっきまでそのまま飲んでいたのに柄にもなくストローでコーラを飲みだす。
「謝るって言ってもどう謝ればいいか分かんないし...。」
なんてかわいいんだろうか。
普段は勝ち気で元気一杯な女の子なのに、今は頬を少し赤らめて恋する女の子になっている。
このギャップでしか摂取できない栄養がある、私はこれを学会に提唱したい。
「簡単よ。」
菜々はテーブルにあった玲奈のスマートフォンをさっと手に取ると、慣れた手つきでロックを解除しだした。
「0523っと。」
「え、待って待って。なんで暗証番号知って...。」
玲奈は口をパクパクさせながら、今何が起こっているのか分からないという様子だ。
「記念日だなんて安直ねえ、えーっと彼のSNSは...。」
そのまま菜々はスマートフォンを操作している。
「わかった、わかったから返してってば。」
玲奈は菜々からスマートフォンを取り返して、それを胸に抱きしめて菜々を牽制している。
ロック解除の番号、記念日だったんだ...。
私は絶対に記念日は設定しないと心に誓った。
菜々はフッと笑うと、もう氷が解けたグラスの中を再びストローでグルグルと回しだした。
「じゃあ、さっさと自分で謝りなさい。」
玲奈はブツブツと独り言を言いながら、彼に送る文章を練っている。
難しい言葉なんていらないのに考え込んでしまうなんて健気だと思う。
それにしても菜々は大した役者だ、私にはあんなこと出来ない。
「お疲れ様。」
私は小さい声で菜々に労いの言葉をかけた。
「ええ。」
こちらにだけ聞こえる声で菜々も短く返事をした。
その顔は世話が焼ける友人を持って大変だと言わんばかりに、しょうがないといった表情だった。
事件が無事に終わりそうで安心してポテトを口に運ぼうとしていると、2人が同じ方向を見てその動きを止めていることに気が付いた。
「どうしたの?」
気になって私も同じ方向を見ようとする。
「待って美桜...。」
慌てた玲奈の静止の声が聞こえた頃には、私にはその光景が視界に入っていた。
手に持っていたポテトが地面に落ちた。
「ねえ、落ち着いて。ね?」
心臓がうるさいのに身体から血の気が引いていく。
親友が何か声をかけてくれている気がするけど、何を言っているか頭に入ってこない。
「優君...。」
人混みの中でそこだけがはっきりと鮮明に私の目に映し出されている。
まるで勝手にそこにフォーカスされたかのように。
そこには彼とウチの高校とは違う制服の短い黒髪の女子が一緒に歩いている。
彼が手に持っている小さい紙袋は彼女への贈り物だろうか。
信じられない光景に思わず席を立つ。
「ごめん、今日は帰るね。」
2人の静止も聞かずにそれだけ言い残して、走ってその場から去った。
知らないうちに小雨が降り始めていた。
私は気付けば家の近くの公園に来て2つあるブランコの右側に座り、まとまらない頭と切れた息を整えるので精一杯だった。
ずっと走っていたせいか、紺色のソックスには茶色い泥が付いている。
「はぁ...はぁ...、どうして...。」
彼が知らない女の人と一緒にいた事実に私の心は打ちひしがれていた。
両目を両手で覆う。
指の隙間から髪の毛に滴る雨水が見える。
今までそんな素振りなんてなかった、なかったが故に辛い気持ちになった。
ずっと私が素っ気ない態度を取っていたから?
私が悪かった?
雨風にあてられた紅葉した葉が地面にゆっくりと落ちてくる。
私を乗せるブランコがギィッときしむ音を鳴らす。
そのうち勝手に元に戻れると勘違いしていた。
いつも彼が何かしてくれて、私は何もしなくてもいいと甘えていた。
あの落ちた葉は仲をたがえてその手を取りそこなった私の様だ。
できた水たまりの上で雨に打たれながら沈まないように頑張っているその葉を見てハッとする。
「そもそも私達ニセモノじゃん。」
彼との時間を過ごす日々で前提が頭の中でぐちゃぐちゃになっていた。
別に彼が私以外の女性と恋仲になっても問題はない。
その時はこの関係を終わらせればいいのだから。
きっとその時が来たということなのだろう。
「もう終わっちゃうのかあ...。」
元々両想いで付き合っているわけじゃない、彼は寄ってくる女性を撒けるし私は恋愛事を遠ざけることができる。
そんな打算まみれの関係のはずだった。
遠ざける?
本当に遠ざけられている?
それじゃあ私の胸のこの気持ちは何?
私はバカだ、そもそもがおかしかった。
今になってこの関係の歪さに気が付いて、自分の気持ちと板挟みになって勝手に傷ついている。
どこまでも続く厚い雨雲を掴もうと手を伸ばすが、その手は届かない。
あんなにいつもより低いところにあるのに。
神様は世界を上手に作っている、欲しいと思って手を伸ばしたモノにはなかなか手が届かないように設計されているんだから。
最後に仲直りくらいできたらよかったな。
もう遅いその気持ちは私の足元の様にぬかるんだ心に沈んでいく。
玲奈はすごい。
いつも喧嘩しているのに最終的には仲直りして意中の人との時間を過ごすことができて。
菜々はすごい。
自分の気持ちに折り合いをつけてちゃんと意中の人と惜別ができて。
それに比べて私は。
「なんて中途半端なんだろう...。」
私は何ひとつできていない自分の情けなさからか涙が流れた。
幸運なことに、頬に滴る雫は雨が誤魔化してくれている。
雨が作った水の通路に流された蟻が視界に入る。
私はその蟻に自分を重ねていた。
流れに身を任せて最終的に行きつく先に望むモノは無く、きっと苦しさだけが残るその光景を。
強まる雨足はやがてその蟻を目で追うことが出来ないところまで運んで行く。
私は一緒にこの気持ちも流れ去って行ってほしいと願いながらその場に佇んでいた。
次の日、当然の事ながら私は風邪を引いて学校を休んだ。
1人で雨が降る中を感傷的な気分で2時間もいたら風邪も引くだろう。
我ながら漫画のようなベタな展開で学校を休むことになった事が恥ずかしい。
それも高校2年にもなって。
体温計の音が鳴り、どれくらいの熱があるのかとそれを見る。
その小さな画面には38.7℃と表記されている。
それを見た途端に身体が怠くなってきた。
怪我とかでそれを認識した途端に痛くなるようなやつだろう。
幸い、食欲は少し残っていてご飯は軽く食べることができた。
たぶん1日寝て過ごせば熱も引いてまた元気になるだろうと思い、冷えピタを箱から1枚取り出す。
薄いシートを剥がして自分のおでこに貼ろうとするも、見えないところに貼るのは意外と難しい。
皺ができてなかなか上手く貼れないことにだんだんとイライラしてくる。
A型はこういう細かいところが気になるのが人生において損しているところだと身に染みて思う。
「お母さんが仕事に行く前に貼ってもらえばよかった。」
ある程度のところで妥協をしてベッドに戻る。
枕元に置いてあったスマートフォンを見ると充電が100%になっていた、私は充電ケーブルを抜いてデフォルトの壁紙が映っている画面でロックを解除した。
SNSをタップして、玲奈と菜々と私の3人がいるグループチャットを開く。
慣れた所作でそこに文章をチャットする。
「ごめん、風邪引いたから後で今日のノートの写真もらってもいい?」
送信ボタンを押してそのまま画面を消そうとする手が止まる。
すぐに既読が2つついたからだ。
ちょっと待つと返事が来た。
「OK!後で送るね!」
玲奈から快諾の返事がきて少し安堵する。
彼女のノートは文字が綺麗で色ペンの使い方が上手くて見やすいのだ。
対照的に菜々のノートは全部黒色で書かれていて、文字に独特な癖があってあまり言いたくないが読みにくい。
見せてくれる相手が玲奈なら書き写す作業も楽そうで安心だ。
「美桜、大丈夫?」
ありがとうと打ちかけていた時に菜々からのチャットが書き込まれる。
その言葉に含まれるのは風邪の事だけじゃないのだと私は悟った。
去年、私が失恋してしまって学校を休んだことを菜々は今回の出来事にも重ねているのだろう。
「大丈夫だから心配しないで、明日には学校に行くから。」
手早くそれを打ち込んでスマートフォンの画面を消して枕元に置いた。
正直、完全に自分の中で消化しきれたかと言われれば微妙だ。
でも風邪と引き換えに泣きはらした分、気持ちはだいぶ楽だった。
1日差し出してプラスマイナスの差し引きはどちらかといえばきっとプラスだろう。
外は昨日と変わらず雨模様だ。
私は熱でぼーっとした意識に身を委ねて、雨音を子守歌代わりに微睡みの中に溶けていった。
インターホンの音がする。
具合悪いし無視でいいかな。
まだ鳴っている。
一体いつまで鳴らすのだろう。
いい加減うるさい。
私はそれに意識を無理やり現実世界に戻された。
何だろう、配達だろうか。
働かない頭とおぼつかない足取りで階段を降りて玄関へ向かう。
この時の私はインターホンで誰が来たのかを確認するなんてことは頭の片隅にすらなかった。
「はい、今誰も居ませんけど...ゴホッ...。」
玄関を開けてそのしつこい誰かさんの姿を見る。
「おい、大丈夫かよ。」
そこに立っていたのは買い物袋を片手に下げた彼だった。
「優...君?」
私はそこで力が抜けてフッと意識が消えた。
「待て待て!おい、ちょっとお邪魔するぞ。」
いい匂いがする。
あれ...ここ私の部屋の天井じゃない...。
リビングの蛍光...灯...?
私はガバッと上半身を起こした。
周りを見る、確かに私の家だ。
ただ1つおかしいのは私がリビングのソファーで寝ていたこと。
下を見ると上体を起こした事で水タオルが足に落ちていた。
それを手に持ち、こんなもの額に当てていたかと考え始めた時ダイニングキッチンから声がした。
「目が覚めたか、倒れられた時は驚いたが大丈夫そうだな。」
彼は1度私から視線を切ってそこで調理していたものを食器棚から適当なお皿を用意して盛り付けている。
その所作は自分の家じゃないのに慣れている様子だった、それは自分の家でもいつも料理をしているからなのだろうか。
「どうしてここにいるの?」
私はソファーに座り直し、かけられていたブランケットを肩から羽織った。
「どこから話したらいいか分かんないけど、とりあえずお見舞いに来たってところだな。」
とても淡々とした口調だった。
テーブルに置いてある彼が買ってきたであろう買い物袋の中にはスポーツドリンクや果物などが入っている。
彼が言っていることは本当なのだろう。
「優しくするのは彼女さんだけにすればいいのに...。」
口にするつもりはなかったのにポロっと言葉が滑った。
彼は何を言っているんだと言わんばかりに口をポカンと開けてこちらを見ている。
「いや、俺の彼女は美桜だろう。風邪で記憶も飛んじまったか?」
そう言いながら、トレーにお粥を乗せて私の下に歩いてきた。
「とりあえず食べれるか?」
私の前でしゃがんで膝にトレーを乗せたまま、レンゲをこちらに差し出す。
それを受け取るとフッと彼はいつもの笑みを浮かべて、お粥の乗ったトレーをテーブルに置いた。
「食欲があって結構。」
彼はリビングの窓際に立ってカーテン越しに降り続ける雨を眺めている。
私はそこで彼が立ち止まったのを確認してから、彼が作ったお粥を口にした。
「おいしい...。」
お粥特有のシンプルな味付けだが、梅干しのほどよい酸味が食欲をかきたてる。
少々添えてある三つ葉の薬味がお米の甘さを上手く抑制していてサラッと食べることができる。
「口に合ってなによりだな。」
彼は変わらず私に背を向けたままの姿勢だ。
私は胃がびっくりしないようにゆっくりとお粥を口に運んだ。
咀嚼している間は彼の様子を見ていた、普段からそんなに口数が多いほうではないけどここまで喋らないのは珍しい。
食器とレンゲがぶつかる音だけが定期的に部屋に響くだけで、ずっと沈黙が続いている。
私が食べ終わるまでずっとその調子でこの場に人間が2人いるとは思えないほど静かだった。
「ごちそうさまでした。」
小さな声で食事を終えた合図を彼に送って、食器をシンクに持っていこうとする。
「そのままでいい、後片付けも俺がやるから。」
私が手にかけたトレーを奪い去るように両手で持ちキッチンへ向かっていく。
蛇口を回して水を出す音がする。
後ろでは彼が私の食べた後の食器を洗ってくれているのだろう。
「どうしてここまでしてくれるの?もうそんな必要ないでしょ。」
ソファーで小さく体育座りをしてブランケットを深く被る。
食器を洗う音がする中で彼が息を吐く音が聞こえた。
「彼女だからじゃ理由として不満か?」
「納得はできない。」
私は即答した。
はあっと再び溜息をした音がした。
そしてキュッと蛇口を閉めた音が続いて聞こえた。
「今更だがキッチンのタオル借りるぞ。」
「ん。」
片づけを終えた彼が歩いてきて、私が座っているソファーの横に少し間を開けて座る。
それから少し間が空いて、私は彼が話し出すのを待っていた。
「まったく今日はいきなりすごい剣幕で美桜の2人の友人に詰められて大変だった。」
「玲奈と菜々が?」
彼はこめかみに手をかざして頭が痛そうな素振りをする。
「単刀直入に言うが、あれは妹の美咲だ。」
え?
妹?
頭が若干フリーズしかけている。
「前に妹がいるって言っただろ?1個下の美咲と買い物をしていただけだ。」
じゃあ私が1人で勘違いして勝手に雨の下で感傷的になって風邪を引いて今に至るってこと?
それに気付いた途端、どんな感情より先に羞恥心で身を焦がされそうになる。
これでは、私はバカみたいじゃなくもうバカだ。
私は深く被っていたブランケットを顔を見られない様に更に深く被る。
「えっと、その。ごめんなさい。」
「何か謝るような事あったか?」
彼は私の顔を覗き込むようにこちらを見てきた。
反射的に私は彼とは反対の方に顔を向けた。
「最近、その。素っ気ない態度取り続けてたし...。」
チラっと彼の方を見ると、思い当たる節を思い出すように天井を見ている。
「あー、確かにあったかもな。」
「だからごめんなさいって言いたくて。」
私はばつが悪くなってさらに小さく座りなおす。
「でも理由があったんだろ、あの猪突猛進な2人が必死にどれだけ美桜がいい子かってアピールしてきたから聞いた。」
あの2人がそんな行動に出るなんて何を言いふらされたのか心配になる。
決して信用していないわけじゃないが、恥ずかしいことを言われていたらこれ以上の羞恥心には耐えられない。
「最近、あいつらが落ち込むような出来事があって一緒にいてあげたかったんだろ?」
気付けば彼の口調は淡泊なものから優しいものへと変わっていた。
私は両腕で自分を抱きしめるようにして黙ってその話を聞く。
「別にそれが理由で俺の誘いを断ってもいいだろ、美桜は友人思いってことそれだけで。」
そう言う彼の目はどこか遠くを見ているようだった。
それを知らず、私の目には涙が滲んでいた。
「うん...。」
「だから俺は別に何も気にしていないし、美桜も気にすることじゃない。」
「うん......。」
それ以上優しい言葉をかけないで欲しい。
必死にこらえている涙腺のダムが決壊してしまいそうになるから。
昨日頑張って決別しようとした気持ちがまた蘇ってくる。
あんなに頑張って忘れようとしたのに。
彼は私の様子を知ってか知らずかゆっくりと席を立ち、バッグを持った。
「あの2人、大切にしろよ。」
私の前で少し立ち止まって頭をポンっと撫でながらそう言った。
そしてリビングをゆっくりとした速さで歩いて出ていくのが、彼の履いている靴下が床とこすれる音でわかった。
「鍵、ちゃんと閉めて温かくして寝るんだぞ。」
彼は家から出る間際にそれだけ言い残して帰って行った。
玄関が閉まる音がすると、私は被っていたブランケットから勢いよく出た。
熱のせい、そうきっとこれは熱のせいで身体が熱いんだ。
そう自分に言い聞かせる。
ふと、冷静になって自分がソファーで目を覚ましたことを思い出す。
確か私は玄関で彼を出迎えたはず。
そこから結論に至るまで10秒ほどかかった。
え、私...直接運ばれて...!
今着ている部屋着は朝から着ていて汗がびっしょりだ。
その事実にがっくりと肩を落とす、絶対に汗臭かったはずだと。
うら若き乙女にとってこの出来事は悲劇だ、しかもよりにもよって相手が彼なのだから。
でもどんよりとしていた気持ちは雲1つない心模様になっていた。
変に悩んでいたこともなんだかもうどうでもよくなった。
彼が触れた私の頭を両手でもう1度触れてみる。
そこだけカイロが貼ってあるかのようにポカポカしている。
「そういうとこだぞ。」
少し上から目線な気もするが、私はにへらと笑って今日はこれで満足してあげることにした。
いつの間にか外は雨がやんでいる。
もしかしたら天気も私の心を写しているのかもしれない、だとしたら素敵だ。
私が笑っていればそこには透き通るような青空が広がるのだから。
あの看病の日を境に私達の関係は元に戻っていた。
私が1人で抱えていた悩みがまるで季節のいたずらだったかのように。
今日は珍しく寝起きがいい、朝が弱い私にとってはなかなかないことだ。
普段は時間がなくて寝癖をささっと直して髪を下した状態で登校しているが、今日はちょっぴりアレンジしてもいいかもしれない。
何にしようか唇に人差し指を当てて考えてみる。
「ポニーテールは無難すぎるしなあ...。」
鏡を前に1人でブツブツ独り言を呟く。
パッと以前彼にハーフアップを褒められたことを思い出す。
少し考えたのちに、よしと気合を入れてその髪型にすることにした。
最近出たバンドの新曲を口ずさみながら髪型を作っていく。
朝の準備がこれほど愉快だと思ったことはない、言葉1つでこれだけ乗り気になれるのだから女の子に対する誉め言葉は魔法だ。
鏡で出来栄えをチェックしてそれが満足できたものと確認すると、パタパタと軽快な足音を立てて朝食を食べるために椅子に座る。
「なんか今日全部食べきれる気がする。」
私は意気揚々と箸を手に取って食を進め始めた。
「やっぱ無理かも...。」
2コマ落ちとはこのことを指すのかもしれない。
いつもと変わらない量しか食べられていない、しかも大好物のお母さんお手製卵焼きを食べそこなう失態っぷり。
もう学校へ行こうとも考えたが、まだ登校するには時間が早い。
その時、スマートフォンにメッセージが届いた。
それを見て私はスクールバッグを肩にかけて玄関に早足で向かった。
「学校行ってくるねー。」
ローファーを履きながらそう言うと、リビングからいってらっしゃいと声が返ってくる。
昨日、お父さんの革靴を手入れする道具を使って磨いたからか2年履いたそれはピカピカだ。
玄関を開けると、彼がいつぞや見た光景と同じように塀に身体を預けながらイヤホンで音楽を聞いていた。
「おはよう、お待たせ。」
彼の左肩をポンっと叩いて私が来たことを彼に伝える。
「ああ、おはよう。」
彼は両耳からイヤホンを外してしまおうとする。
私はそれをいたずらな顔で遮った。
「私も優君が聞いている曲聞いてみたい。」
彼は苦笑しながら口を開こうとしたが、それより先に私が言葉を続ける。
「危ないからダメだ、でしょ。でもこれならいいよね?」
本当に言おうとしていたセリフを取られたといった表情で固まっている彼をよそに、私は彼が手に持っているイヤホンの片方を自分の耳につけた。
そして、もう片方を彼につけるよう差し出した。
「ね?」
フッと溜息を吐きながらしょうがなさそうに笑ってそのイヤホンを受け取ってくれた。
「言っておくけど女子が好みそうな曲ではないぞ。」
私は両手を後ろに組んで大げさに大きな歩幅で歩く。
「女子が好みそうなではなく、キミが聞いているってところが重要なの。」
「そういうものか?」
彼がスマートフォンで音楽アプリを操作しながら尋ねてくる。
「そういうものだよ。」
その返事をしたと同時に片耳のイヤホンから彼が普段聞いているであろう音楽が流れてくる。
それは私が聞いたことのないPOPな曲調のものだったが不思議と鼻歌を歌い始めてしまう。
「随分とご機嫌だな。」
キミの好きなことを知っていけるのが嬉しいの、とは流石に言えなかった。
少し考える素振りをみせてから私は言った。
「この曲がいいからかもね?」
なんだそりゃと笑われて軽くあしらわれる。
路地から大きな通りに出たあたりでおもむろに彼が何かを思い出したように話しかけてくる。
「そうだ、今度の休み予定空けといてくれるか?」
休み?
まあ、玲奈も菜々も部活でいつも家にいるし暇だもんね。
「わかった、空けておくね。」
私は特に何も考えずにその誘いを了承した。
「ねえ、もうちょっとゆっくり歩いたらもう1曲聞けないかな?」
早めに家を出ているし、ゆっくりしても遅刻なんてことにはならないはずだ。
私は少しのわがままを彼にぶつけてみる。
「しょうがないな、あと1曲だけだぞ?」
彼はいつものように困ったような笑顔を見せて私のわがままを聞いてくれた。
「やった。」
肌寒くなってきた気温なんてお構いなしに私は温かかった。
ねえ、知ってる?
私はキミがそこにいてくれるだけでどうしようもないくらいに楽しいんだよ。
私は今これ以上ないくらいに緊張している。
数日前に彼からお出かけのお誘いを軽率に受けたのはいいものの、これっていわゆるデートというものなのではないだろうか。
待ち合わせ場所の駅前の変な形をしたオブジェのところで少し早く着いた私は、今更になってうるさい心臓の音と戦っている。
「格好変じゃないかな。」
すぐそこにあるお店のガラスで自分の姿を確認する。
黒いトップスにちょっと前にかわいいと思って買ったチェックの丈のロングスカート、肌寒いから着てきた白いミドル丈のカーディガン。
うん、変ではないと思う。
髪の毛も気合を入れてアップにしてきた。
ついでに前髪を整えていると、ガラス越しにクスクス笑っているお客さんと目が合う。
「あっ、ごめんなさい。」
聞こえるはずもないのについ頭を下げながら謝ってしまう。
緊張からかいつもはしないような行動をとって恥ずかしくなる。
俯きながらオブジェのところに戻る。
「気は済んだか?」
想像もしていないその声に身体が跳ねる。
「ひゃ!?ど、どうしてここに?」
もはや聞きなれた溜息の音が聞こえる。
「どうしても何も、集合場所にいるのがそんなにおかしいか?」
それもそうだ。
彼は至極当然のことを言っている。
「いや、その。見てた...?」
チラっと彼の反応を伺うためにあちらを盗み見る。
「1人ファッションショーをしていたところか?」
やっぱり見られていた。
彼にそんなところを見られていたなんて恥ずかしくて死んでしまいそう。
私は諦めて開き直ることにした。
「もういいや...それで、今日はどこ行くの?」
彼はスマートフォンで何かを見ている、今日の為に何か調べてきてくれたのだろうか。
「行きたいところがあるんだが、付き合ってくれるか?」
頭をかきながらそう言っている。
彼がそれをしているときはばつが悪いときか照れ隠しをしている時だ。
ここまで誘っておいてそんな反応をするなんてかわいいと思ってしまう。
「いいよ、まずは優君のいきたいところ行こう。」
私は少しおかしくてクスっと笑ってスマートフォンで地図を見ながら歩く彼の横を付いていく。
今日の彼はジャケットに黒のデニムを合わせていて大人っぽく見える。
花火大会の時も思ったが、彼には黒がよく似合う。
地図に集中していてこちらに気が付かないことをいいことに、彼のその姿を堪能する。
5分ほど歩いたところのビルの前で彼がピタッと止まる。
「ここだな。」
私達はビルのテナントに入り、受付で伝票を受け取って仕切られた扉を開けた。
何をするところなんだろうと彼の背中からひょこっと顔を覗かせると、そこは天国が広がっていた。
「ええ!ふわふわの猫がたくさんいる!」
私はどこを見てもかわいい猫が視界を埋めるその光景に一瞬で舞い上がった。
「喜んでもらえて何よりだ。」
淡々とした口調で言っているが、私には内心彼も浮足立っていると分かっている。
何故なら彼の目は今までにないくらい輝いて見えるからだ。
私が適当な場所に腰を下すと、すぐに猫が近寄ってきて私の膝の上に座りだす。
メインクーンだろうか、白いふさふさの毛が撫でていて気持ちいい。
「この子の名前なんて言うんだろう。」
大体どこの猫カフェも壁や立て看板に猫の写真と名前が書いてあるはずだ。
辺りをキョロキョロして見ると、彼が挙動不審に机の上でくつろいでいる猫に触れようとしている。
猫は彼に気が付くと素早い身のこなしで彼の腕をスルッと避けてどこかに行ってしまった。
流石に私もその光景には笑いをこらえることができなかったが、かわいそうなので助け船を出してあげることにした。
「そんな狩人みたいな目をしないで、優しく触れてあげれば喜んでくれるよ?ほら?」
彼に私の膝の上にいる子を撫でてみるように手招きする。
彼はゆっくりこちらに来ると私の前でかがんで手を伸ばし始める。
「こ、こうか?」
「そうそう、優しくね。」
不器用な手つきで目の前の猫の頭に触れて、逃げないのを確認するとそのまま撫で始めた。
クールぶっているような雰囲気の彼もこんな無邪気な表情をすることに驚いたが、それもまた彼の魅力だとも思った。
「他の猫にも挑戦してみるか。」
今ので自信をつけたのか、腕まくりをして数匹の猫たちがくつろいでいるキャットタワーへと意気揚々と歩いて行った。
私は大丈夫かなとまだ膝の上でゴロゴロと音を鳴らしている子の顎をほれほれと撫でながらその様子を見届ける。
「あ、待ってくれ。」
どうやらダメなようだ。
私は本当にそれがおかしくて声に出して笑ってしまいそうだった。
「本当は怖い人じゃないのにね?」
膝の上の子にそんなことを話しかけてみる。
一瞬目が合った気がしたが、すぐに呑気にあくびをして目線を逸らされる。
猫は自由気ままだなと思った。
しばらくそのまま彼の戦いを見ていると、エサやり体験に参加しているようだった。
また逃げられるんじゃないかと思っていたが、コツを掴んだのかたくさんの猫に囲まれてもはや襲われているような構図になっている。
一体何をしたらそうなるんだろうか、不思議だ。
膝の上の猫をごめんねと謝りながら横に下して、私も彼の下に向かう。
「大人気だね、よかったじゃん。」
わざとらしい拍手をして彼の健闘を称える。
彼は猫に埋もれながら助けを求めているようだった。
「パ、パス...。」
そう言った彼からチュールを手渡される。
「え?」
私は渡されたチュールと目の前の猫たちを目で何度も往復する。
嫌な予感がする。
次の瞬間、一斉に目の前の猫たちが私の持っているチュール目掛けて飛び込んできて、私も猫たちに揉まれてしまった。
しばらくして目的の物がもうないと判断した猫たちは私の下から嵐の様に去って行った。
「お疲れ様だな。」
彼がココアの入ったカップを私に差し出してきた。
私はそれを受け取ると、軽く猫の毛を身体からほろって近くの席に2人で座った。
「一生分の猫を堪能した気分だね。」
苦笑しながら彼がもらってきてくれたココアに口をつける。
とても甘くて美味しい。
「まったくだな。」
フッと笑いながら、まだ体についたたくさんの毛を取っていた。
いつもと同じに見えるその笑みはどこか満足気なものに見える。
猫カフェを満喫した私達は、どこかいきたいところはあるかと彼から聞かれて考えた結果、映画館に来ていた。
「色々やっているんだな、美桜はどれが見たいんだ?」
んー、と言いながら上映情報が掲載されている電光掲示板を見上げる。
左から順に目で追って、目的の映画の名前を探す。
「あ、あれ!あの映画が見てみたい。」
私が指さした映画は最近CMとかでもよく広告として流れている、アニメ調の青春物だ。
色彩が綺麗でぜひとも映画館で見てみたいと思っていた作品だ。
「上映まで20分といったところか、ちょうどいいな。」
休日ということもあって映画館のロビーは人混みで大変な事になっている、ポップコーンを買おうにも最後尾がどこか分からないくらいは物凄い長さの列だ。
チケット売り場に向かう彼と私の間に人の波が押し寄せてはぐれそうになる。
まずい、このままではまた迷子になってしまう。
「っと、このままだと見失いそうになるな。」
私が波に飲み込まれそうになりかけたところで、彼が私の手を掴んだ。
「あ、ありがとう。」
何も言わず彼はそのまま手を繋いで、チケット売り場まで私を連れて行ってくれた。
咄嗟に繋がれたその手はとても安心感のあるものだった。
カウンターまで付くと彼は手際よく2人分のチケットを購入しようとしている。
「お2人様はカップルでしょうか?もしそうでしたらカップル割でお安くなりますが。」
思いもしない言葉に繋いだ彼の手がピクっと動いた気がする。
少し間があって、きっと彼も困っているのだろうと思った。
だって私達は偽装カップルで本物じゃないのだから。
私は店員さんにその割引を断ろうと、口を開こうとした。
「はい、それでお願いします。」
その言葉に私はつい彼の顔を見る。
それに気が付いたのか彼が財布を用意しながらこちらを向く。
「どうかしたのか。」
繋いだ手にギュッと力が入る。
「今のでよかったの?」
私は1度繋いだ手を離して、自分の分のお金を財布から出して支払いを済ます。
彼は私の分のお釣りを手渡ししてくれながら話す。
「美桜は俺の彼女じゃなかったか?」
買った2枚のチケットにはカップル専用割引と記載されている。
それを見て、自分はこんなにも単純なのかと思うくらい嬉しい気持ちになった。
「そういえばそうだったね。」
私は彼に笑顔を向けてそのチケットを大切に両手で持つ。
この瞬間だけは本物になれているのかもしれないという事実をこのチケットが裏付けしてくれている気がしたのだ。
1人で慈しんでいると入場が始まって、再び彼がはぐれないように手を繋いで一緒に席まで連れて行ってくれた。
お決まりの予告映像が最初に流れて、本編が始まりだす。
どんな感じなんだろうと見始めた映画だったが、そんな感情はすぐに吹き飛ばされてしまうほどにその世界観に取り込まれた。
展開もさることながら、その全ての表現が私には鮮やかで躍動感のある生き物のように見えている。
物語がクライマックスに入ったあたりで横から鼻をすする音が聞こえて、彼の方を横目で見た。
すると、いつもつまらなさそうに教室から外を眺めている目から涙が出ている。
あの彼でもここまで心が動かされることがあるんだと思うと感慨深い。
映画の内容にも満足だったが、それ以上に彼の新たな1面が垣間見えたことにより満足していた。
「さっき泣いてたでしょー。」
私達は退場ゲートをくぐり抜けて映画館のロビーに戻ってきた。
「悪いか?」
彼は頭をかきながら横を向いてそう言った。
それを見て私は彼の向いている方向にあえて移動した。
「ううん、そういうのいいと思う。」
素直に思ったことをそのまま言葉にする。
「少し早いけど夕飯食べに行くか。」
彼は照れ隠しをするように話題を変える。
それを私は分かっていたが、微笑ましいその姿に免じて気付かないふりをしてついていくことにした。
彼にもかわいいところがあって安心する。
どこのお店でご飯を食べるのだろうと、彼の私より大きい背中を見ながら少し後ろを歩く。
横を見ると色んなお店屋さんが並んでいる、歩いているとおいしそうな匂いが漂ってきてそれだけでお腹がすいてくる。
「実は予約しているんだが、ここでいいか?」
不意に彼が指さしているお店はオムライス専門店だった。
私は驚いた。
それはピンポイントで私の好きな食べ物のお店だったからだ。
卵料理が好きな私のためにリサーチしてくれたのだろうか、だとしてもどうしてそれを知っているんだろう。
「予約していた橘です。」
私があれやこれやと思案しているうちに店員さんに席まで通される。
流れるように席について困惑していると彼が頬杖をついて笑う。
「不思議か?」
私の様子を見てか尋ねてくる。
「うん、私オムライスが好きって言ったっけ?」
率直な疑問を彼に投げかける。
その時、店員さんがお水とおしぼりを持ってきてくれて注文を伺ってきた。
私は半熟のデミグラスソースがかかったオムライスを即答でお願いし、彼も同じものを頼んだ。
彼は1拍置いてからまた会話を続ける。
「あの2人がもう食いつくように美桜のことを教えてくれてな、聞いていないことまで話してくれたぞ。」
「え、何話してたの!?変な事言ってなかったよね?」
また玲奈と菜々が彼に何か吹き込んだのかと少し心配になる。
「どうだろうなあ。」
意地悪な表情を浮かべてフッと笑い始める。
「もう、いいよ。今更遅いし。」
私はいじけて顔の左右に垂れた髪の片方を指でクルクルといじる。
「悪かったよ。ほら、これで元気だしてくれ。」
そう言って彼が今日ずっと持っていた小さな紙袋を私の前に置く。
「え?」
それに対して私はキョトンとして、これが何かを考える。
彼も同じくキョトンとして私を見ている。
しばらくしていつもの溜息を吐いて説明をしてくれた。
「今日は美桜の誕生日だろ、それはそのプレゼントだ。気付いてなかったのか?」
誕生日?
あっ、今日って10月14日だったっけ。
お出かけに誘われた事が嬉しくて、自分の誕生日だってことすら忘れていた。
「開けてもいい?」
両手でその綺麗な青の紙袋を手に取って彼を見る。
「どうぞ。」
その返事と共に、紙袋から中の箱を取り出す。
彼からのプレゼントって一体なんだろうか、なんか箱を開ける手が緊張する。
ラッピングをほどいてゆっくりと箱を開ける。
「あ、綺麗...。」
入っていたのは雫の中に桜の花びらが入ったイヤリングだった。
私はその1つを手に取って近くで眺める。
その中に入っている花びらは一番美しい姿でその時を止めているかのように可憐だった。
「ありがとう優君...。でもどうして秋に桜?」
たしかに綺麗で美しいそのアクセサリーはどちらかといえば春に出回る様な物だと思った。
「名前、美しい桜だろ?妹に手伝ってもらった時にそれを見つけてぴったりだと思ったからな。」
少し早口で言ったそのセリフからは、彼にはあまりに合わないキザなものだったがその理由を聞いてよりこのプレゼントが嬉しいと感じる。
「ねえ、これつけてくれない?」
私は彼にイヤリングが入った箱を差し出して、自分の耳を指さしてアピールする。
「わかった。」
優しい感じがする話し方な気がした。
彼はイヤリングを手に取ると、私の耳に割れ物を扱うような優しいけど不器用な手つきで時間をかけてつけてくれた。
「どう、似合うかな?」
イヤリングが付いた耳を見せるように首を傾けて彼の反応を待つ。
「ああ、上げた髪によく似合っているよ。」
「えへへ、ありがとう。」
私はきっと満面の笑みで彼にそう言っていたと思う。
だって、本当に嬉しいプレゼントだったから。
なんでもない呼称程度にしか思っていなかったけれど、この時から自分の名前が好きになった気がする。
たぶん彼が私の名前を口にするたびにそう思う。
私の名前に初めて意味を持たせてくれた。
優君。
そういうところだよ。
キミは気付いていないんだろうけどね。
冬
星が瞬くこんな夜に人は何を思うのだろう。
将来の夢?
過去の後悔?
それとも今の行く末だろうか。
この季節は空気が澄んで星がよく見える。
私が思うのはキミと過ごしたこの1年、きっと人生の中で最も色濃く残った日々。
目を閉じれば今にもこれまでの思い出が蘇ってくる。
「楽しかったなあ...。」
瞼の裏に映る情景に思いを馳せて、ポツリと呟く。
彼と歩く通学路、私の名前を呼ぶ声、毎朝隣り合う教室の机。
なんてことのないそのどれもが私の記憶を彩る装飾になっている。
えらく感傷的になっているのもこの星空のせいだろうか。
カーディガンを羽織って開けた窓から見える一番輝いている星を見つめ、そんなことを考える。
あれがなんて名前の星なのかは分からないが、それがこの空の主役ということだけは分かる。
「今はキミの世界だね。」
手を銃に装って仮想の弾をその星に向けて撃ってみる。
そんなことではびくともしないと変わらぬ光を放ち続ける。
今の私にはまだそれは手に入れられそうにないようだ。
いつか手に入れて見せるんだからねと心の中でクスっと笑う。
不意に部屋のドアが開いてお母さんがマグカップを持って入ってきた。
「ちょっと、部屋を真っ暗にしてどうしたの。」
夜なのに電気もつけずに窓際に突っ立っている私を見て驚いているようだ。
「暗くした方が星がよく見えると思って。」
しょうがないといった顔でマグカップを机に置いてくれる。
甘い香りがした、ココアだろうか。
「風邪引かないうちに閉めなさいね?」
うん、と短く返事をしてお母さんが部屋から出ていったのを確認してから、私はミニ天体観測をそこそこに切り上げた。
窓を閉めてリモコンで部屋の電気をつけると、いつもの明るさなのにまぶしく感じる。
段々目が慣れてきたころ合いをみて私は教科書とノートが広げられている机の前に座った。
差し入れでくれたマグカップの中身を覗いてみる。
どうやらココアではないらしい、私の鼻はどうやらあまり当てにならないようだ。
私は一口そのマグカップに入った飲み物に口をつける。
正解はアップルティーのようだ、これもほんのりとした甘さが口の中に広がって美味しい。
カップを置いて、机にある棚に視線を向ける。
そこには写真立てや小物を置くスペースになっている。
「懐かしいな、これももう半年前かあ。」
頬杖をつきながらその写真に写った彼をつつく。
口は笑っているけれど目が上手く笑えていない、あんなに気が利くのにこういうところが不器用でかわいらしい。
横にいる私は幸せそうな顔をしている、きっとその時は本当にそうだったのだろう。
過去の私がちょっぴりうらやましい。
目線を少しだけ横にずらせばコルクボードに彼からもらったイヤリングが飾られている。
これはおめかしをして出かける時以外はつけずにこうやって大事にしている。
蛍光灯の光を反射して綺麗に輝く雫の形をしたイヤリングはなかなか中の桜の花びらを見せてくれない。
彼に見つけてもらったもう1つの私は、今はシャイな気分なのかもしれない。
「今日のところは許してあげよう。」
そう言って、笑みを見せて笑顔の作り方を教えてあげる。
こうしていると彼の声が聞きたくなる。
今日も学校で会ったばかりなのにこんな風に感じるのは自然なことだろうか。
じゃあセンチメンタルな気分になっているのは?
それはきっと冬のせい。
私は勝手に季節のせいにして言い訳をする。
1人でそんなことをしていると段々可笑しくなってくる。
明日は数学の小テストがあってこんな事に時間を費やしている場合ではないのに。
でもこういう気分の時は勉強が捗らない、だいだいいつもそうだ。
私はいつも数えている天井の模様を仰ぎ見る。
自分とは違ってその表情はいつもと変わらない。
少しそのままの体勢でぼーっと天井を見つめてから、引き出しから桜柄の便箋を取り出す。
ボールペンを手に取って、私は字を綴り出す。
―――拝啓、大人になった私へ―――
冷たい風がコートを着ていても、その隙間を縫うように入ってくる。
街路樹を見てもすっかり葉が落ちて青々と茂っていたあの様子が見る影もなくなっている。
陽が落ちるのも早くなり、学校が終わった後にちょっと寄り道して帰ろうとすると太陽と交代した月が見える。
毎年この季節だけは太陽の温かさが偉大だと常々実感する。
もはや、いつも左右のポケットに入れているカイロが私の生命線だ。
今日は部活が休みの玲奈と一緒にゲームセンターで遊んで、今はその帰り。
コインゲームやリズムゲームをしたが、私には難しくてすぐにコイン切れやゲームオーバーになってしまった。
その点、玲奈はそういったゲーム類が得意なようで、活き活きと楽しんでいた。
私の戦利品といえば、クレームゲームで手に入れた小さいウサギのマスコットと一緒に2人で撮ったプリクラくらい。
それでも楽しい時間が過ごせたから私は満足している。
バスで家の近所まで帰ってきて少し歩いたところで見知った男の子がこちらに走ってくる。
「あ、お姉ちゃんだー。」
その子はその小さい身体で私の足に抱きつくと屈託のない笑みを浮かべて嬉しそうにしている。
「こんにちは大翔君、いやこんばんはかな?」
優君の弟君の頭を撫でながら私も笑みを返す。
「こら大翔、走ったら危ないでしょ。」
1人かなと思った矢先に、その保護者らしき人物が大翔君に注意する声がした。
「ごめんなさいお姉ちゃん。」
シュンとして私のコートの裾を掴んだままその人に大翔君は謝っている。
「お姉ちゃん?」
その方向を向くと、目に見覚えのある人物が歩いてきている。
短い黒髪にウチの高校とは違う制服の女の子。
どこかで見たことがあるような。
「すいません、弟が迷惑をかけてしまって。」
そんなことを考えているとあちらから声をかけてきた。
「あら?あなたは確か兄の...。」
私を見ながら頬に手を当てて首をかしげている。
「初めまして桐島美桜です、お兄さんにはいつもお世話になっています。」
軽く会釈をして自己紹介をする。
「橘美咲です、やっぱりあなたでしたか桐島先輩。」
こうやって会ったことは初めてだが向こうは私を知っているみたいだ。
「兄がプレゼントを選ぶの手伝ってほしいと言って来たときは驚きましたけど、そういうことだったんですね。」
苦笑しながら大翔君の手を取って自らの近くに寄せる。
プレゼント?
あ。
あの時に彼と一緒にいたのも確か短い黒髪でこの制服を着た女の子だったような。
自分の中で合点がいき、スッキリした気分になる。
彼女の提案で帰り道が途中まで同じなこともあり、3人で一緒に帰ることになった。
その道中は自然と彼の話が中心になった。
「家での兄、ここ最近はずっと桐島先輩の話ばかりなんですよ?」
「そうなんですか?」
意外だ。
彼が家族に普段の出来事を話すなんてあまり思っていなかった。
新しい1面を知ることができて少し嬉しい気持ちになる。
「ええ、きっと学校ではつまらなさそうに気取っているでしょう?だから友達も全然いなくて、だから桐島先輩との時間が楽しいんだと思いますよ。」
1人でいるのが好きなんだと思っていた。
それが彼にとっては楽なんだと。
「いつも自分を犠牲にして家の事をやってくれて、あんなにキラキラした兄は見たことがないです。」
でもきっと違う。
他のみんなと同じように誰かと過ごす時間を楽しみたいと思っている。
彼が笑えないなら、その分私が笑ってあげよう。
いつも彼からもらってばかりだけれど、それくらいなら私にもできると思う。
それで彼が楽しいと思えるなら十分だ。
「大丈夫ですよ美咲さん、不器用で他の人には誤解されていても私は知っていますから彼の優しさを。」
こちらを見て彼女は目を大きくして驚いている様子だった。
やがて彼に似たフッとした笑みを浮かべ始めた。
「兄が迷惑をかけたらいつでも言ってください、私が蹴り飛ばしておきますから。」
「じゃあ、連絡先交換しないとですね。」
私は笑ってスマートフォンをポケットから取り出して彼女に差し出した。
「それが先でしたね。」
彼女も笑って1度大翔君から手を離して、バッグからスマートフォンを取り出す。
お互いの連絡先を交換して、SNSに彼女のアカウントが登録されていることを確認する。
「そういえば優君の誕生日っていつなんですか?SNSにも書いてなくて。」
ふと、私が誕生日にプレゼントをもらったこともあって彼の誕生日が気になった。
私も何か彼にプレゼントしたかったからだ。
「ええ...自分の彼女にそんなことすら言っていないんですかあの人。」
彼女はドン引きした様子で何を言っていいか分からないといった表情だ。
「私が聞いていないってところもあるから...。」
確かにそんなことすら知らないってどうなのかと自分でも情けなくなる。
「はあ、5月13日ですよ兄の誕生日は。」
半年以上前に過ぎている...。
近ければまだちょっと遅れたけどで言い訳できたけど、これは無理かもしれない。
安直な思惑が潰えてがっかりしてしまう。
「忘れないようにメモしておかないと。」
私は来年はなにか渡そうと思い、しっかりとスマートフォンのメモ帳に彼の誕生日を記録する。
それが終わってポケットにスマートフォンをしまおうとしていると、大翔君がジッと私のスクールバッグに付いているウサギのマスコットを見ていることに気が付いた。
私は目線を合わせるためにかがんで、それをスクールバッグから取り外した。
「はい、これ大翔君にあげる。」
私は両手に小さなそれを乗せて、大翔君に差し出した。
「いいの?」
おずおずしながら美咲さんの指をギュッと掴みながら聞いてくる。
「うん、きっとそのほうがウサギさんも喜ぶと思うな。」
それを聞くとぱあっと笑顔を浮かべてそのマスコットを手に取った。
「ありがとう、大事にするね。」
小さい子は本当に素直でかわいい。
美咲さんはよかったねえと大翔君に話しかけている。
その表情は彼にそっくりでちゃんと兄妹なんだなと思わせるものだった。
それからは何気ない会話で3人仲良くお話をしながら歩を進める。
別れ際、大翔君が寂しそうにしていた。
「今度またウチのハナと遊ぼうね?」
そう言うと大きな声でうんと言って彼女と手を繋ぎながら帰って行った。
私よりも1個年下なのに、ちゃんと弟の面倒を見ててその辺の女子高生なんかよりずっとしっかりしている。
2人の様子を微笑ましく思いながら私はその光景から視線を切って玄関に手をかけた。
俺の毎日は退屈だった。
仲のいい友人との青春を送るわけでも、勉学に勤しんでいるわけでもなく、ただ学校が終われば保育園に弟を迎えに行き、近所のスーパーで買い物をして家に帰る。
片親で俺たちのために遅くまで働いている母さんの代わりに家事をして寝る日々。
たまに妹が手伝ってくれるが、俺と違ってやりたいことがあるであろう妹の時間を無駄にするわけにはいかないと積極的に家のことは俺がした。
いつからか俺の心は溶けない氷山の様に冷え固まってしまった。
高校2年に上がった日、何を思ったのかいきなり担任が席替えをした。
普通は出席番号順で名前を覚えるためにしばらくそのままにするとは思うのだが、一番前の席だった俺には行幸な出来事だった。
運よく一番後ろの窓際の席を手に入れた俺は、横の席になった桐島美桜という女子に出会った。
別にただのクラスメイトだと思っていたが、見ているとどこか危なっかしい。
よく弟の面倒を見ている癖か、気を利かせてあげることもしばしばあった。
平凡などこにでもいるような女子高生のはずなのに俺は何故か目を離すことが出来なかった。
しばらく経った頃、彼女は俺に偽装カップルの提案をした。
何を言っているかわからないだろ?
それに関しては俺もまったく同意見だ。
だが、俺はこの提案に乗ることにした。
どうしてか彼女といると毎日が新鮮そのものに見える。
付き合い始めると学校以外の場所で会うことも増えていった、家のこともこなしながらでは大変なこともあったが、俺は彼女の為に時間を割く事が嫌ではないと思っていた。
彼女の表情は面白いようにコロコロ変化する。
危なっかしくて目を離せないところは変わらないままだ。
どうしてだろうか。
そんなところに俺の堅牢だった氷山は次第に溶け始めていた。
まるで春が訪れたかのように。
花火大会に行きたいと言われて一緒に行ったこともある。
あれやこれやと好奇心旺盛な彼女の姿にここまで楽しそうにする人もいるのかと思った。
電話が鳴り、それに気を取られている間に彼女とはぐれた時は必死になって探した。
そうしないと彼女の笑顔がもう見られないと感じた気がする。
気付かないうちに俺は彼女の笑顔が見たいと思うようになっていたのかもしれない。
見つけた時は小動物のように小さくなっていて、俺が見たかったそれは影を潜めていた。
何とか元気を出してもらおうとしたが、女性経験がまったくない俺には何も思いつかない。
横に座り、彼女の手が震えていることに気が付いた。
俺はその手を握った。
精一杯のそれでも彼女は次第にいつもの姿に戻っていった。
初めて彼女に何かを返せたような気がした。
そしてそこから2人で見た花火は俺の記憶に鮮明に残っている。
その明かりに照らされた彼女の横顔は綺麗だった。
初めてだ。
俺の語彙力では上手く言い表すことができないが、見とれてしまうとはあの事を言うのだろう。
きっと彼女が春に俺の心に蒔いた種が咲いた瞬間だと思う。
その花の名前を俺は知っているが、それをそうだと認めるにはこの関係は気持ちが悪い。
だって俺たちはニセモノなんだから。
俺はその花を見ないふりをした。
秋には彼女の誕生日がある。
仮にも彼氏なのだからプレゼントくらいするのが普通だろう。
しかし、異性が何をもらって嬉しいかだなんて俺は知らない。
だから妹についてきてもらうことにして一緒に色んなお店を回った。
俺がいいと思ったものは全て妹に却下される、そこまでセンスがないのだろうか。
2時間ほど経っただろうか、俺たちはどこかで一旦休憩しようとショッピングモールのフードコートに向かった。
その時だった。
通りがかった店頭のあるアクセサリーが目に留まった。
それは彼女と同じで桜の花びらが入った安物のイヤリングだ。
見る角度によっては光の反射でその桜は姿を見せてくれない。
まるでコロコロ表情がかわる彼女の様だと思った。
俺は妹の助言も聞かずにそれを購入し、綺麗に包装してもらった。
妹は散々連れまわされた挙句にアドバイスも聞かずにプレゼントを決めたものだから怒っていた。
いざそのプレゼントを渡す瞬間、俺は勢いで決めたそれを彼女が喜んでくれるか不安に駆られた。
しかし、箱を開けた彼女の表情は俺の不安をかき消すには十分すぎる要素だったと思う。
その笑顔が見れたのなら俺はなんでもよかったのだ。
彼女は俺にそのイヤリングをつけてくれと頼んだ。
そんなもの扱った事がない俺は、少し触れただけで壊れてしまいそうなその耳に時間をかけてイヤリングをつけた。
なんて嬉しそうな顔をするのだろう。
忘れようとしていた俺の中の大輪の花は視界一杯に咲き誇り、どこを向いても無視できないものとなっていた。
俺は彼女の笑顔のためなら何でもしようと思った。
彼女が俺を必要とするならその手を差し伸べよう、彼女が俺という存在を必要としなくなるその時まで。
もう冬だ。
俺に四季をくれた彼女とあとどれくらい一緒にいることができるだろう。
この関係は俺にとって彼女といるための理由であり、彼女に対しての枷だ。
「ねえねえ、そっちに何か見えるの?」
いつもの通学路を一緒にあるきながら、ぼーっと俺が見ていた方角を彼女が覗き込む。
「面白いものなんて何もないぞ。」
本当に何もないいつもの街並みだ。
空気が澄んでいて少し遠くまで見えるくらいの。
「私が優君が見ていたものを見たいだけだからいいの。」
少し頬を膨らませて俺を見上げている。
「しょうがないな、よそ見して転ぶなよ?」
それを聞いた彼女は俺の前に出て振り返る。
「その時はきっとまた助けてくれるでしょ?」
ああ、まただ。
その笑顔を向けられると俺はどうしようもない。
まったく、彼女には敵わないな。
本当にそういうところなんだよ。
「失礼しました。」
その一言を口にしながら軽くお辞儀をして静かなその空間のドアをゆっくり閉める。
普段は気さくに話してくれる先生もそこでは一転してPCのキーボード音と紙を捲る音しか出さない。
そのせいか何回来ても職員室という場所の雰囲気にはなかなか慣れない。
私は廊下の空気を大きく吸って深呼吸する。
「出し終わったなら帰るか。」
「うん。」
廊下の壁を背もたれにして立っていた彼が床に置いていたバッグを持って歩き出す。
それを追いかけるようにスクールバッグのチャックを閉めて少し後ろを歩く。
外から野球部のランニングの掛け声が聞こえてくる。
この寒い中、関係なく外で活動しているなんて大変そうだ。
「だいぶ悩んでいただろ、なんて書いたんだ進路希望調査。」
視線をそのまま前に向けたまま、手をズボンのポケットに入れている。
私も変わらず彼の数歩後ろを歩き続けている。
「県内の大学にしようと思ってる、少し勉強がんばんないといけないけどね。」
あははと乾いた笑いをしてみせる。
実際、私の学力で合格するには少し成績を伸ばさないといけない、文系だから苦手な数学はそこまで必要ないのは幸いかもしれない。
「そうか、頑張んないとな。」
下駄箱からスニーカーを取りながら彼はそう言った。
オウム返しに似たようなその返事は少々心ここにあらずな気がする。
「優君はどうするの?」
本来は彼の下駄箱からローファーを取って地面に置く。
下を向いて履こうとすると、垂れてきたマフラーの端が視界を遮ってきて邪魔くさい。
私はそれを肩にかけなおした。
「東京の専門学校に行くことにした、映像の勉強をしてみたいんだ。」
正門まで続く道の木はすっかり葉を落として寂しい風貌だ。
高校を卒業したら上京するってことは、私と離れ離れになるということ。
何気なく続いているこの関係も解消されてしまうのだろうか。
そうなると会う理由もなくなってしまう。
「そっか、別々の道になっちゃったね。」
ポツリと呟くように吐きもらした。
「こればっかりはしょうがない事だな。」
玄関から外に出ると寒い風が吹きさらしている。
120デニールのタイツを履いていても十分な温もりは得られていない。
私はそっと彼のコートの裾を掴んだ。
きっと彼もそれには気付いているだろうが何も言わなかった。
「将来、美桜は何になりたいんだ?」
車の通り過ぎる音しか聞こえなかった帰り道で彼が尋ねてきた。
少し下を向いて歩幅を見ると、いつもより小さい歩幅で歩いてくれている気がした。
「コレって決め切ったわけじゃないけど学校の先生になってみたいとは思ってる。」
「先生か、美桜に似合いそうなのは小学校の先生とかか?」
彼は少し遠くの空を見ているのか視線は少し高いところにおいている。
「ううん、それもまだ決めてないの。すごく漠然としてるから。」
いつかあったようにローファーで落ちている小石を軽く蹴とばす。
「よく笑うからたぶん生徒から好かれるんだろうな。」
「そうかな?」
蹴とばして先に行った小石に追いついて、また数歩先に蹴とばす。
「ああ、そう思う。」
将来なんてよくわからない。
自分がどういう風に大人になっていって、どういう道を進んでいくのか。
今まで敷かれてきたレールに沿って歩んできた人生だから、それが高校を卒業した途端になくなってしまうだなんて想像もつかない。
私はどう自分でレールを敷いていくのだろう。
クラスの皆はこれがしたいあれがやりたいと自分の将来を見据えて目を輝かせている。
私とは違って明確に目標がある。
目標があるだけですごい、だって真っ暗の景色の先に目標という道しるべが見えるのだから。
私はその辺の木に傷をつけて目印にした程度のもの。
1年後を考えるだけで不安になる。
「俺は...。」
不意に彼が何かを言おうとしてその口が止まった。
映像の勉強がしたいとはっきりとした目標がある彼にも何か言い淀む理由があるのだろうか。
私は掴んでいた彼のコートの裾を離して、今度はその空いている手を握った。
「聞かせてよ。」
横に並んで彼の顔を見る。
純粋に聞いてみたかった。
彼のやりたいことに興味があるのはもちろん、何を思っているのかを聞いてみたかった。
「俺は美桜と見た映画で衝撃を受けた。」
ゆっくりとした口調で話し出す。
私は黙ってその言葉の続きを待った。
「あんなに心を動かされたのは初めてだった、人が作った映像で人を魅了できることなんてあるのかって。」
彼が繋いだ手に少し力を入れたような気がした。
蹴っていた石ころをその場に置き去りにして彼の話に集中する。
「俺は毎日がつまらなかった、そんな俺のようなやつに映像で人生を楽しむきっかけを作ってあげたい。」
「うん。」
「別に映画じゃなくてもいい、動画サイトにあげる10分くらいのものでもテレビ番組でも誰かの心に届けば。」
彼がこんなに自分の心情を口に出すのは初めてのことかもしれない。
それだけ本気で自分のやりたいことが見えているのだろうか。
「すごいねちゃんと自分で道を作ろうとしていて、偉いよ。」
間があって、彼は少し大きく息を吸った。
その先の言葉はあまり聞きたくないものな予感がした。
でも遮ることは出来なかった。
「だから俺はこの街に居続けることはできない。」
進路を聞いた瞬間から分かっていたことのはずなのに、実際にその決意を聞くと何か心にくるものがある。
分かっていたはずなのに。
前に進もうとしている彼を応援しないといけないのに。
私はわがままだ。
心の中では今が続いてくれることを望んでいる。
「なんて顔してんだ。」
気付けば彼が私の前に立って、困ったような顔をしている。
そして優しく私の頬に伝った雫を指で拭った。
「ごめんね...。」
目から涙が零れていることすら私は自分で気が付かなかった。
「すぐじゃない、まだ1年ある。」
そう、まだ高校2年の冬だ。
数か月で卒業じゃない。
彼の言葉は1年間の担保をくれたものだが、裏を返せばタイムリミットを示したものでもある。
それが私の心に重くのしかかった。
「嫌だなあ...。」
今までの学校生活でこんな事思ったことないのに、彼と出会ってからは全てが名残惜しい。
私はこんなにも弱い人間だったのかと思い知らされる。
「そうだな。」
彼は私の頭を優しく撫でた。
冬は残酷だ。
聞こえてくる師走の音が春に向けて準備しろとせかしてくるようだ。
心の準備すらできていないのに春になれば半ば強制的に3年生、本格的に忙しくなってくる。
私は彼といられる残りの時間をできる限り楽しい時間であれるようにと心に決めた。
私は珍しく夜更かしをしている。
でも今日くらいはいいだろう、冬休みで学校もないしそれにこの日はお母さんも許してくれる。
「美桜ー、みかん食べるー?」
ダイニングキッチンからお母さんが冷蔵庫を開けながら顔を覗かせている。
「うん、食べようかな。」
ソファーでブランケットを羽織りながら大晦日の特番を眺める。
特別おもしろいと思ったことはないが、他に見るものもないしたぶんニュースなんかよりはおもしろいだろう。
お母さんがテーブルにいくつかみかんが入った木製の容器を置いて、またキッチンへ戻っていく。
明日のおせちをつくるので忙しいのだろう。
私は絨毯の上に座って、みかんをひとつ剥き始める。
昔はみかんの白い筋までキレイに取って食べていたが、最近は面倒くさくてそのまま口に入れてしまう。
A型で損していた時間を少しだけ節約できた気分になる。
テレビでは画面が切り替わって東北の屋外でお笑い芸人が何かをしている。
あんなに雪が積もっている中で寒くないのだろうか、笑顔を絶やさずにその仕事を全うしている姿はプロそのものだ。
見ているだけでこっちまで凍えてしまいそうだと思っていると、後ろのソファーでスマートフォンが鳴っていた。
私は身を捩ってそれを手に取ると、いつものSNSを開いた。
通知がついている玲奈と菜々の3人のグループチャットを見ると、玲奈がフライングをして年明けの挨拶をしてはしゃいでいる。
菜々もテンションが高くなっているのか、玲奈に乗っかってあけましておめでとうとチャットしている。
「早いよ2人とも。」
思わずくすっと笑ってしまう。
私も流れに乗って新年の挨拶を送って、ふと考える。
新年ということは初詣がある。
はたして彼は予定とかあるのだろうか。
私は彼との個人チャットを開いて文字を打つ。
フリック入力でひとつひとつ文字を連ねているとだんだん心配になってきた。
「家族と過ごしているところ悪いかなあ。」
途中まで打っていた文章を一気に消してなかったことにする。
きっと普段なかなか家にいないお母さんと過ごせる機会だし、そっとしておこうとスマートフォンをテーブルの上に置く。
視線をテレビに戻してステージでコントをしている2人組を見る。
しかし、集中しようとしても内容が頭に全然入ってこない。
大きく息を吐いて剥いたみかんを口に入れる。
もう味すらよくわからない気がする。
私はスマートフォンをジーっと見て、やがてそれを手に取り勢いよく文章を打って彼に送った。
だが、メッセージの送信がなかなか完了しない。
何故だろうと思っていると、テレビからカウントダウンの声が聞こえる。
時計をバッと見ると、もう年が開けるようだった。
混線していてメッセージが送信されないようだ。
勇気を出して初詣に誘ったのにとちょっと残念な気持ちになりながらカウントダウンを口ずさむ。
「3...2...1...0...お母さん、明けましておめでとう。」
0になったと同時に後ろにいるお母さんに向けて新年の挨拶をする。
年が明けたことに気付いていなかったのか、私の声で包丁の手を止めた。
「あら、明けましておめでとう美桜。」
本当はお父さんにもしたかったが、元旦から仕事ということでもうベッドで休んでいる。
私は朝が弱いから挨拶ができるのは仕事が終わった夕方になりそうだ。
「私ももう寝ようかな。」
ブランケットをたたんでソファーに置き、食べたみかんの皮をキッチンに捨てに行く。
ついでにもう寝る旨をお母さんに伝えて誰も見ていないテレビを消した。
さっきまであんなに盛り上がっていたのに、今はお母さんの調理の音しか聞こえない。
スマートフォンを片手に自分の部屋に戻り、それに充電ケーブルを慣れた手つきで挿す。
寝るにはグループチャットがうるさそうなので通知を一旦OFFにして布団を被る。
その空間はとてもあったかくて、布団に包まれている時が一番幸せかもしれないと思わせる。
いつもならそうしているだけですぐ微睡みのなかに落ちていけるのだが、今日はなんだか違う。
目をつむっていても寝付けないのだ。
彼女らのテンションにあてられたのかそれとも...。
私は枕元に置いたスマートフォンを手に取り、彼との個人チャットを開く。
メッセージは無事に送られているが、彼からの返信はまだない。
なんだかそれが落ち着かなくてソワソワしてしてしまう。
何度もチャットを開きなおして更新するが変化はない。
私はおもむろにベッドから起き上がり、机のライトをつけて冬休みの宿題に手をつけた。
気になって何かをしていないとしょうがない気分だったからだ。
先生が用意した英語の問題集を開いて進めていく。
割と得意な科目なだけあって、スラスラと問題が解ける。
「過去分詞にしなきゃだからtakenかな。」
単語の形を少し変化させてあげるだけでパズルが組み上がるから英語は楽だ。
お気に入りの曲の鼻歌を口ずさんでシャープペンシルを走らせる。
途中、書き間違って消しゴムを探す。
ペンの先に付いているものを使おうとも思ったが、何かコレをつかうのはプライドが許さない。
引き出しをゴソゴソと漁っていると通知音が鳴った。
消しゴム探しを中断して机にあるスマートフォンを見る。
すると彼からメッセージが届いていた。
短くわかったと送ったメッセージの後に13時頃迎えに行くと書いてある。
私は宿題なんてほっぽり出してベッドに入り、足をパタパタさせながら返信する。
「わかった待ってるね、と。」
返事を送って満足気に画面の明かりを消す。
今日はいい初夢が見られるかもしれない。
こんなやり取りひとつで満たされた気分になっている自分は単純なのかも。
でもそれでいい、きっとこういうのがいいのだ。
ゆっくりと瞼を下してその夜に別れを告げた。
1人でぐったりと仮説で用意されたパイプ椅子に座りながら、どうしてこうなったのか考える。
そんな理由はひとつしかない。
それは神社の境内までの階段が長すぎるからだ。
運動部でいつも身体を動かしている人達とは違って体力がない私は上り切って既に満身創痍だ。
「大丈夫かよ。」
両手に紙コップを持っている。
何か貰ってきてくれたのだろうか、少し甘い香りがする。
彼はそのうちのひとつを私に渡してきた。
「温かい...。」
それはホッとさせてくれるような温もりだった。
「甘酒配ってたから貰ってきた、それで少しは落ち着くだろ。」
「まだ何もしてないのにごめんね。」
甘酒に口をつけながら謝る。
アルコールがほんの少しだけあるのか甘さの後ろにそれを感じる。
配っているくらいだから未成年でもきっと大丈夫なのだろう。
「あれは俺も少しきつかったからちょうどいい。」
そんなことを言う彼の様子は全然平気そうだ。
私に合わせて気を使ってくれているのがわかる。
「それにしても凄い人の数だね奥まで一杯だよ。」
昼間だからか境内には人だかりが出来ていて、着物を着た綺麗な女性もちらほら見える。
私も着ていれば彼は褒めてくれただろうか。
花火大会では浴衣が似合ってると言ってもらえたし。
淡い考えを持ったが、案の定寝坊して着付けをする時間なんてなかった現実を思い出す。
「無理だったかあ...。」
「1人で何喋ってるんだ?」
妄想をしているところにツッコミが入って現実に目を向ける。
「ごめん、何でもないから。」
若干ジト目を向けられる、彼もそんな目をすることあるんだ...。
彼の新たな1面を垣間見るも、何か複雑な気分だ。
「俺たちもそろそろアレに並ぶか。」
「そうしよっか。」
彼は私の飲み終わった紙コップを自分のと重ねて近くに設置されたゴミ箱に捨ててくれた。
列の最後尾に並び、雑談しながら前に進むのを待つ。
ただ並んでいるはずなのに人の流れが時々起きる。
そのまま流されそうになるが、彼が手を掴んでくれた。
「こうしないとまた迷子になるな。」
意地悪な顔をして私を手繰り寄せ、手を繋ぎなおす。
いい年してそんなことと言いかけたが、実際にそうなりそうだったから何も言えなかった。
時々この表情にムッとくることもあるが、大体は正論なので言い返せないのが悔しい。
もう少し私がちゃんとした人間だったらと思えてしまう。
そうこうしているうちにだいぶ前のほうまで来ていた。
「最前列は厳しそうかな?」
「ここら辺から5円玉投げるか。」
背伸びをして一番前のお賽銭箱を見定める。
前から3番目くらいだが、この人の量だししょうがないだろう。
彼は準備がいいのかポケットから5円玉を取り出して投げる用意が整っている。
私もバッグから財布を出して小銭を探す。
「あるか?」
小銭入れを探っている私を見て彼が尋ねてくる。
「うーん、ないかも...。」
どうしていつもこうなのだろうか。
お賽銭に使うって分かっていたのだから、コンビニで崩すくらいしておけばよかった。
肩を分かりやすく落としているとキランと光る硬貨が目に入る。
「あった!」
私はそれを勢いよく取り出して彼に見せつける。
「それ500円玉だぞ...。」
「きっとご利益も100倍なんだからいいの。」
少し呆れている彼をよそ目に腕をまくって意気揚々と投げる素振りをする。
金色に輝いている方が神様も私のお願いを見つけやすいだろう。
そんな取ってつけたような言い訳を頭の中で用意してみたりする。
「それでいいならお賽銭入れるか...。」
「うん。」
私達はお賽銭箱を目掛けて硬貨を投げ入れて手を合わせ始める。
本当はちゃんとした所作があるのだけれど、あいにくそれを知らないので2回手を叩いて目を閉じお願いをする。
しばしそのままお願いをして目を開けると彼は既に終わったのか私を待っていた様子だ。
「随分と長かったな。」
そう言う彼の手を私から取る。
「いつもの100倍お願いしたからね。」
その繋いだ手を引っ張って長蛇の列からおさらばする。
彼はやれやれといった表情で手を引かれて私に付いてきている。
完全に列から抜けて自由の身になった私達は手持ち無沙汰になっていた。
「どうする、目的は達成したしこのまま帰るか?」
「うーん。」
確かに彼の言う通りだが何か物足りない。
私は辺りを見渡して目ぼしいものを探してみる。
ちょっとだけ食べ物の屋台も出ているが、さっきお昼を食べて出てきたからお腹はすいていない。
「あ、私あれ書いてみたい。」
そう言って売店の一角を指さして彼にアピールする。
「絵馬ってまた願い事するのか、俺はもうお願いすることないからここで待ってるぞ。」
「さっきは皆の健康をお願いしたから今度は私個人のをするんだもんね。」
彼に向けて少し舌をべーっと出して、売店に向かう。
彼は近くの目が届く場所で壁に寄りかかって私を待っているようだ。
「すいません、ひとつください。」
売店の御子衣装を着たお姉さんに絵馬を貰って近くに置かれたテーブルのところまで歩く。
用意された油性のマジックを手に取って何を書こうか考える。
私は何を望んでいるのだろう。
青く透き通った空を仰ぎ見ながら1度頭を空っぽにする。
吐く息が白い。
「うん、これかな。」
私はマジックで願い事を書いて、すぐ横にそれをつるした。
ちょっとばかり過ぎた願いで神様も混乱するかもしれないかな。
でも叶ってくれたら嬉しい。
それは一番最初に浮かんだ純粋な望みだから。
「お待たせ、帰ろっか。」
私は彼の下に小走りで向かってそう言った。
「やけに嬉しそうだな。」
「そう見える?」
「誰が見てもそう見えるな。」
そんな軽口を叩きながら寒空の中、2人で家までの道を歩き出す。
その途中、思い出したかのように神社を背景にして写真を撮った。
今度は渡すのを渋られない様に私のスマートフォンで。
写った神社は小さくてそれが初詣のものとはわかりにくいがそれでも満足だった。
こういう思い出の積み重ねが少しずつ青春を彩るインクとなるのだから。
私の横に写っている彼は以前より笑顔が上手くなった気がする。
「ハナの散歩行ってくるねー。」
リビングからいってらっしゃいとお母さんの声がする。
それを聞いてから私は玄関を開け外に出る。
目的の人物を探そうとしたが、それをするまでもなくいつもの様に彼はそこにいた。
「今日は少し暖かいな。」
「そうだね、お散歩日よりかも。」
今日は彼と2人でハナの散歩に行くことになった。
午前中に彼から連絡が来たときは驚いたが、たまにはこんな日があってもいいだろう。
しかも大翔君からのお願いではなく彼が自発的に行こうと言い出した。
ハナの気が向くままに2人で後を追う形で歩く。
リードは彼が持ってくれているので私は両手が少し暇だ。
時折風が吹くたびに前髪を直す、せっかくアイロンをかけて整えたのだからこんなすぐ崩れるなんて許せない。
私が前髪と格闘していると彼が笑い出す。
「はは、そんなに気になるのか?」
「気になるよ、髪は女の命なんだから。」
そう言い返しながら前髪を整える。
さっきまではいい感じだったのに、手で直すだけじゃなかなか元に戻らない。
「風になびく美桜の黒髪もいいものだと思うけどな。」
サラっとそんなことを彼が口にする。
そんな言葉にだまされないと思いつつも、前髪をいじる手が止まる。
「男の人はなびく髪がなくていいね。」
若干の照れ隠しとして吐き捨てるように言って、前を行くハナと並ぶように横を歩く。
満更でもないような顔をしてなびく髪を彼によく見えるようにしてみる。
「なんだそりゃ。」
きっと後ろではいつものしょうがないといった表情をしていることだろう。
でも今日はさっきの誉め言葉に免じて、彼に私の髪を見る特等席をあげることにした。
「それにしてもいい子だなハナは。」
いきなり走ったりすることのないハナを見てか、彼がウチの愛犬を褒めだす。
「でしょ!時々振り向いてこっち見る顔とかすっごいかわいいんだから。」
ハナと散歩する機会が増えたこの1年で知ったことをあたかも昔から知っていたかの様に口にする。
かわいいのは本当だから間違ってはいない、これも彼のおかげだろうか。
「確かにな、しかもこっちの歩くスピードを確認してペースを調整しているように見えるな。」
その証として彼とハナを繋ぐリードは常にある程度たるんだままでピンと張ることはない。
ほぼ毎日する散歩で培ってきた経験なのだろうか。
犬は賢いのだと改めて実感する。
「ハナは偉いねー。」
覗き込むようにその顔を見るが、目は合わせてくれなかった。
「なんか無視されてないか...?」
「違うよ、きっと前を見るので忙しいんだよ。」
飼い主が無視されるなんてそんな屈辱あってはならないと、手をブンブンしながら必死の言い訳をする。
「そんな焦んなくてもいい、冗談だ。」
彼はおどけた表情で肩をすくめる。
「ちょっと意地悪じゃないのそれは。」
「どうだかな。」
わざとらしく目を逸らされる。
絶対にわかっててやっているという確信はあったが、以前は見られなかった彼の姿を見られてこれはこれでいいという気分になる。
彼はこの1年で変わったと思う。
よく笑うようになったし、自分の話をしてくれるようになった気がする。
何を考えているか分からない時もあるが、行動でどんな気持ちなのか分かってしまうことも増えた。
そんな彼だが、ハナを散歩する姿が飼い主の私より様になっているのがちょっぴり気に食わない。
「悔しいかも。」
「何か言ったか?」
「何でもないよ。」
流れるように嘘をついて拗ねたようにそっぽを向く。
不思議そうな顔をしているが、そのまま腑に落ちないでいるといい。
それでこの気持ちは抑えてあげよう。
しばらく歩き回った後、いつもの公園でハナを自由に走り回らせてあげる。
「確かコレでよかったか。」
ベンチに座る私に彼が自動販売機で温かいミルクティーを買ってきてくれた。
「うん、ありがとう。でもよく覚えてたね。」
「よく似合ってた白いワンピースを来てた時だったろ、あの時は大翔もいたな。」
そんなところまで覚えていてくれたなんてと少し嬉しいと思ってしまった。
「なんだか懐かしいね。」
両手でミルクティーを持って温かさを分けてもらう。
「そうだな。」
彼はお茶のキャップを開けてそれを少し飲んで息を吐いた。
その息は白く、広がった後やがて空気に溶けていった。
キミといる今日、昨日、明日。
そのどれもがいつかは同じように溶けてなくなっていくのだろうか。
空の雲が形を変えながら移動していく。
私達もあの雲のように変わりながら自分の道を進んで行かなくちゃいけない。
「卒業したら終わっちゃうのかな。」
つい感傷的になって口にこぼす。
意味を分かっているのかそれとも分かっていないのかは知らないがそっと左手を彼が握ってくれる。
「それは終わらせたいと思わない限り終わらないよ。」
彼の口調は穏やかなものだった。
「そっか。」
視線を足元に向けて去年を思い出す。
あの時はワンピースのスカート部分で足元なんてよく見えなかったっけ。
足が細く見えるという理由だけで選んだ黒のスキニーではなんだかそこが寂しく見える。
「ねえ、キミの夢を応援する代わりに少しだけわがままに付き合ってよ。」
返事も聞かずに私は横に座っている彼に少しだけ距離を近づけて、その肩に頭を乗せた。
彼の身体が一瞬だけ強張った気がした。
やがてフッと笑ってお茶を脇に置いた。
「ちょっとだけだぞ。」
「うん。」
私は目を閉じてそのちょっとを噛みしめるように堪能した。
骨ばっていて固いその肩は男の人の体つきだった。
そこから伸びている手はいつも私を守ってくれた。
その目はいつも私を見てくれていた。
でもそれがあたりまえじゃないということを強く実感する。
この関係がニセモノでもきっとこの温もりだけは本物、それだけで私は...。
目をゆっくりと開けて私は勢いよくベンチから立ち上がり彼の前に立った。
「私は私の、キミはキミの夢を追う、叶えるまで立ち止まったらダメだからね。」
彼は口を開けっ放しにして驚いていたが、少ししてから優しい笑みになった。
「ああ、美桜こそ折れるなよ。」
「挫けそうなときは週末に頑張って会いに行くから慰めてね、よく考えたら無理な距離じゃないし。」
「まったく。」
彼は頭を少しかいて空を見た。
この反応を見るに負けてくれたってことかな。
よかった。
もしもキミが折れそうなときは私が支えてあげる。
だって私はキミのおかげで楽しい高校生活だったと終わった時に思えそうだから。
そのお返しだよ。
何気ない現代文の授業中、彼はいつも通りに外を見ている。
こんなに授業に集中していないのに何故か彼が当てられることはない。
いつも何を見ているのだろうと外を見ている彼を見る。
よく見ると今日は寝ぐせがあるようだ。
首を動かすたびにそれがぴょこぴょこ動いていてかわいい。
これを見られるのもこの席の特権かもしれない。
本当は写真に撮って収めたいけれど、今はスマートフォンは使えない。
うーんと悩んだ結果、ノートに彼を描いてみることにした。
まずは軽く全体をかたどって。
横顔を見ると立った鼻にワインレッドの縁の眼鏡をかけていてどう描いたらいいものか。
よく似合っていて見ているだけで満足しそうだ。
いやそうじゃないと、シャープペンシルで彼の髪の毛や顔を線画で描いていく。
ちょっと雰囲気が似ているかもしれない。
自分の画伯ぶりに満足していると不意に先生に当てられた。
「桐島さん読んでくれる?」
私は焦りながら教科書を持って席を立つ。
そこまでしたのはいいが、話を聞いていなくてどこから読んでいいか分からない。
「えーっと...。」
オロオロしていると視線の端で何かが動いているのが見えた。
チラっと横を向くと、彼が教科書を机の端に寄せてある行を指でトントンとしている。
どうして外ばっか見ているのに今どこをやっているのか分かるのだろう。
私は彼に教えてもらったところから教科書を音読し始めた。
その間も彼は頬杖をつきながら外の景色を見ている。
「はい、そこまででいいよ。」
その一声でふうっと息をついて席に座る。
いつかもこんな事があった気がする。
私はノートの端にありがとうと書いて彼の机に切れ端を投げた。
彼はそれに気付いて中身を見て、自分のノートに何かを書き込んだ。
何を書いているのか気になっていると、やがてポイっと私の机目掛けて切れ端を投げてきた。
それを開くと、見ていないと危なっかしいからなと書かれている。
彼は変わらない。
でもそうやって私を見ていてくれることが嬉しいのだと思う。
こういう何気ないやり取りのひとつひとつが私達を作っていく。
まったくキミはしれっと言うね。
そういうところなんだよ。
私はクスッと笑いながらその紙切れを筆箱の中にしまった。
この平凡な何でもない時間を卒業まで続けていけたらいい。
その後はお互いに夢を叶えるために頑張ろう。
叶えた後は...。
そっと目を閉じてあの日書いた絵馬を思い出す。
―――巡った季節の先でまたキミといられますように―――
unkwon
私はいつから完成させていなかったのかと思うほどその状態で見慣れてしまったモノの前に座る。
最後のピースを手に取り、ゆっくりと完成を待ちわびた世界を創造する。
「やっと終わった。」
私が創ったそれは綺麗な白いお城の前で男性が女性に花束を持ってプロポーズしている。
お待たせと言う代わりに軽くつついてみる。
あの時は生意気だなんて言ってごめんね。
これからは思う存分にその世界を満喫してほしい。
「そろそろ時間だね。」
私は肩にバッグをかけて外に出た。
拝啓、大人になった私へ
これを読んでいる私はきっと自律した大人になっているのでしょう、高校生の私はまだ自分が何をしたいのかどうなりたいのかすら分かりません。
未来の私はどうですか?
楽しい毎日を過ごせていますか?
私のことだから大したことは達成できていないかもしれませんね。
なんとなくそれは今の私にも分かっちゃう気がします。
突然ですが、私は恋をしています。
不器用で素直じゃないところもあるけれど、いつも私を支えてくれて見守ってくれる大切な人です。
この気持ちは今の私では伝えることが出来ないですが、好きな人のことを思うだけで1日が終わってしまうような日々が宝物です。
彼と過ごした高校生活は私の心のキャンパスを虹色に染め上げてくれました。
言い過ぎですか?
でも実際にそうなんですよ。
未来の私は恋をしていますか?
まだ彼の事を思っていますか?
それとも別の恋を始めましたか?
ロマンチックな恋なんてしなくてもいいです、白馬の王子様だなんてそういるものではないです。
私自身を見てくれる人と普通の恋をして普通に一緒にいて普通の幸せを目指せばいいと思います。
最後にその恋が終わった時に、それが美しい恋だったと思えるものであれば。
未来の私に偉そうに語ってごめんなさい。
でもこの話は未来の私にしかできないのです。
だから許してください。
もし、踏みとどまっているのならちょっぴり勇気を出してみてください。
未来の私に幸がありますように。
高校生の私より。
私はその便箋をバッグにそっとしまった。
空を見上げると青い空がどこまでも広がっている。
「今の私もなーんにも変わってないよ、大人って年を重ねるだけじゃなれないものだね。」
それに変わってないのは好きな人も一緒。
高校生の私とお揃いだね。
進学してからも本当にたまに会ってバイトや先生の愚痴を吐き合ったり、SNSで近況報告くらいはしていた。
最近はお互いに仕事が忙しくてなかなか時間が取れない毎日が続いているけれど、彼も私も夢を叶えた証拠だと思うと誇らしい気分になる。
そんなことを考えていたら彼が来たようだ。
「久しぶりだね優君。」
「ああ、少し髪切ったか?」
そう言う彼はあくびをしていて若干眠そうだ、睡眠時間を削って作業でもしていたのだろうか。
「うん、気合入れようと思って。」
彼は元から大人っぽい見た目だったが見ない間に垢ぬけた気がする。
「そうか、似合ってるな。」
フッと笑って何でもない様に彼はそう言った。
その笑みはあの頃と何も変わらなくて安心する。
サラっと褒めてくれるそんなとこも。
やっぱり私は彼のそういうところに弱い。
「今日はどうした、どこか行きたい場所でもあったか?」
いきなり呼び出したのに行きたいところがあったら一緒に行ってくれる気でいたんだ。
そんなところも変わっていなくて嬉しい。
私は大きく息を吸って深呼吸してその場に立った。
「優君、私と付き合ってくれませんか。」
巡る季節とキミ私 ~fin~