病葉アマヒコはキヴォトス人。   作:ザントマン

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 静けさがそこかしこを歩いている。

 

 ほんの数時間前まで賑やかだったからこそ、そう感じられるのかも知れないとアマヒコは思った。

 野外を広々と見渡せるつくりの窓辺には、デイベッドがしつらえてある。アマヒコはそこに腰を下ろして、木々の隙間をなんとはなしに眺めていた。

 

 時刻は、二十三時を回っていた。

 

 月から降り注ぐ光は頼りなかったが、明かりは不要だった。

 髪から零れ落ちた燐光が、ぼんやりと照らされた室内を波打っては、消えてゆく。

 

 デイベットは存外硬い。長く座っていると腰を痛めてしまうから、適度にストレッチを挟む必要がある。

 

 アマヒコは仰向けになると、膝を立てて、高さを確認した。左右に差異は見られない。続けて股関節と膝を直角に曲げ、右に倒す。身体は天井に向けたまま、ベッドに脚が接触しないぎりぎりの位置に止めたら、数秒キープする。左にも同様の動きを行い、往復で十程度こなす。このとき、肩が浮いてしまわぬよう、上半身に力は殆ど込めない。

 

 荷物を運ぶ機会は、目に見えて増えていた。引っ越しが立て込んでいたこともあり、知らず知らずのうちに、身体のバランスが崩れているかも知れない。

 

 歪んでいる箇所はないか――特に骨盤は念入りに――身体の調子を一つ一つ確かめていく。姿勢が歪めば、血管が圧迫される。血の巡りが悪くなり、ひいては筋肉の緊張に繋がる。むくみに冷え、肩凝りや腰痛といったものを引き起こす。身体の巡りが悪いということは、老廃物が身体に溜まり易くなる。

 

 そうして、肌が荒れる土壌は育つ。

 到底、容認できるわけもなく。

 

 日々の積み重ねは微々たるものでも、それは確実に、顕著に表れる。

 身体の動かし方一つ取っても、軽視はできない。

 

 立つときは、姿勢を綺麗に保ち、片脚に体重を預けない。預けたとしても、それと同じ頻度で、もう片方の脚に体重を預ける。座るとき、脚は組まない。

 

 井戸水をポリタンクに入れて家まで運ぶときは、右手だけ、左手だけで持つということはせずに、必ず均等に同じ時間持つようにする。

 

 顔もなるべく左右対称を維持するために、食事に用いる歯を偏らせない。頬杖はつかない。布団に入ったときは仰向けで寝て、顔の片側に負担が掛からないように心掛けていた。枕に頬を押しつければ、摩擦が発生する。

 摩擦、つまりは肌への刺激を控えること。

 肌荒れの要因は、できるだけ取り除くに越したことはない。

 起床時に横向きで寝ているときは、身体の何処かに歪みが出ていることが考えられる。

 その日は身体の動かし方を考えながら、一日を過ごす。

 

 四六時中、そんな風に過ごしているわけではなかった。

 ふとした拍子に意識をするだけだ。髪型やメイクが崩れていないか、つぶさにチェックしているのと大差ない。

 

 太腿を両手で抱えて、胸元に引き寄せる。腿の裏を伸ばす動き。

 アマヒコはストレッチを続けながら、誕生日会を思い返した。

 

 

 

『いただきます』

 

 ミモリの料理を口にしたシズコが、唸った。直後、真剣な表情で「百夜堂に来ない?」と勧誘を始める。

 付き合いは短くとも、仲の良い二人だ。ミモリの料理を食べる機会はありそうなものだが、反応からして今回が初めてだったようだ。

 

 人のことを云えた義理ではないか、と二人を尻目にアマヒコもスプーンを手に取る。

 

 黄色の衣にケチャップが乗ったオムライスだ。つるりとした表面に凹凸のないうつくしい楕円形は、崩すのが勿体なく感じてしまう。スプーンで割り開くと、とろとろの衣の中からバターの匂いが立ち上る。ケチャップに絡めて食べれば、濃厚な卵の風味と、バターの香りが口一杯に広がった。中のケチャップライスはべたついておらず、均一な味わいでぱらついている。どうやら、足を引っ張っていないようで安心する。

 祝い事だからか、卵やバターがふんだんに使われたオムライスは、豪勢だった。しかし、添えられた市販の安っぽいケチャップの酸味が、気取らない、何処か家庭的な素朴さを演出している。

 

 とにかく、美味しい。

 

「……自分で断っておいてなんだけど。蛍狩りに私も行くんだった。ミモリのお弁当食べたんでしょ、みんな」

 

 シズコは口惜しそうに、友人たちを見回す。

 

「喜んで貰えてなによりです。おかわりのご用意ができなくて、心苦しいですが……あの、私の分でよろしければ」

「そんな食い意地張ってないからね!? ねえ、ミモリ。このケチャップライスって、作るときは冷凍のご飯でやった?」

「確かに冷凍ご飯で作るときもありますけど、今回は炊飯器で作りました。というよりも、ケチャップライスを炊いたのは、アマヒコさんです」

「うぇっ、そうなの?」

 

 カロリー爆弾(オムライス)を味わいながら、明日の昼食はゆで卵を幾つ食べようかと考えていたアマヒコは、寄せられた目線に気づいた。

 

「ごめんなさい。あまりにもオムライスが美味しかったんで、話聞いてませんでした」

 

 嘘は云っていない。オムライスが美味しいことも、話を聞いていなかったことも事実である。ただ、息を吐くかの如く、さらりと告げられたものだから、親しくない人間からすれば、掴みどころがない。

 幸か不幸か――その場には、彼という人間をそれなりに理解している者が集まっていた。

 アマヒコは、なんか誤魔化したなこいつ、という視線を浴びたのち、テーブルの下で脛を蹴られる痛みに耐える羽目になった。

 ツバキは、黙々と食事を楽しんでいた。しれっとおかわりを要求したので、三人の皿からオムライスを分ける。

 

「ケチャップライス、あんたが炊いたの?」

「ああ、はい。飯物は、あらかじめ仕込んでおかないと手間でしょうし」

 

 シズコの問いに、アマヒコは努めてポーカーフェイスを保ち、答える。

 前以って、ミモリの指示通りの分量で材料を入れ、炊飯器のスイッチを押すだけである。小学生でもできる。

 強いて云うなら、米を水に浸けておく時間に気を遣った程度だろうか。

 

「はい、アマヒコさん」

 

 比較的早いペースで食べ進めていたアマヒコが手を止めると、水の入ったコップを差し出された。

 丁度、水が欲しいタイミングだった。目礼しつつ、受け取る。傾ける。中身が空になる。ミモリが空いたコップに水を注ぐ。

 

「それよりも、家でお店みたいなオムライスが出て来るとは思いませんでした」

「そう! それよ! 私も作るけど、あんな風にならないんだけど」

 

 百夜堂のメニューには、昔ながらの下町定食といったオムライスもある。レシピも受け継がれてはいるが、それほど凝った作り方はしていない。

 

「卵液を作るんです。なるべく、きめの細かいものを。それから、バターを中火で――」

「あ、スクランブルエッグを作る感じね。早速、ゴムベラが役に立ちそう――」

「――包む前に火を止めて、水で濡らした布巾の上にフライパンを置いたら、トントンと上下に動かします。あとは――」

「――うーん、やっぱり手間も材料も掛かっちゃうわよね。うちの店で出すには、厳しいかも。贅沢したいなあって気分のときに作ることにするわ」

 

 シズコはミモリの説明に相槌を打ちつつ、オムライス一品に掛ける労力とコストの釣り合いが取れていない、と感じた。

 だからこそ、ミモリの料理に素直な感心を抱くことができた。

 あくまでネットの受け売りだと謙遜をしている彼女ではあるが、レシピ通りに料理を作って、それを再現するということは、口で云うほど簡単ではないのだ。

 

 まず、此処はアマヒコの家――普段と勝手が違う台所であるということ。

 

 日々、通い妻よろしく家に訪れて、料理を振る舞っているのならともかく、だ。

 用いる調理器具がそもそも違う。例えば、炒め物をするときに、材料と比べてフライパンの大きさが適していないと上手く水分は飛ばない。レシピに中火で十分が目安と書かれていたとしても、実際にやってみないとわからない。

 繰り返しになるが、他所の家では調理器具の大きさや、材質が異なるケースがあるからだ。

 食材の量や材質に合わせて調理器具を選別することは、料理をする上で無視できない要素の一つであると云える。

 

 百夜堂という老舗を預かり、出す料理に気を配っているものの、シズコにはレシピ通りを再現するのに、手間暇も込みで過不足ない環境が揃っている。

 

 他所の家の、おそらく初めて触るであろう調理器具を用いて、柔軟に、レシピ通り美味しいものを作るミモリに尊敬の念を覚えるのは、やや大げさだろうか。

 ……これ以上、恐縮させるのも申し訳ないので、おくびにも出すことはしないが。

 

 食事を終えて幾ばくか経った頃、片づけをしようとアマヒコが立ち上がり、ミモリもそれに続いた。

 甲斐甲斐しく世話を焼いていたミモリに休むように伝えても、彼女は引き下がらない。シズコは主役の片割れらしく振る舞うことに決め、あえて何もしなかった。ツバキは修行(ひるね)で忙しい。

 二人は皿洗いを始めた。

 食器同士が擦れ合う音や水の流れる音をBGMに、アマヒコから手渡された皿を、ミモリが拭いていく。

 皿洗いは、好きだった。

 小難しいことを考えずに手を動かすと、意識は次第に身体の中にリズムを作り出す。それに則ってやれば――。

 

「――お疲れ様です」

「もう終わりですか」

 

 単純作業に埋没していれば、時間は短く感じるもので。

 布巾を畳んでいるミモリの顔を見れば、微笑んでいた。

 

「なんか独り言を口にしてましたか、僕」

「いいえ、とても集中されていました」

「なんでそんな笑ってるんです?」

「楽しかったので」

「なるほど」

 

 握っていたスポンジから手を放して、泡を洗い流す。

 

「僕も楽しかったですよ。今日はありがとうございます」

「こちらこそ、です」

 

 水を止める。

 

「アマヒコさん」

 

 綺麗なつむじだな、と思った。

 想定よりも頭の位置が低いな、とも。

 

「ごめんなさい。シャワーをお借りしたあの日――」

「アルバムのことなら、気にしなくていいですよ」

 

 自由に見ていいって云ったの、僕ですし。

 

 間が生まれた。

 

「気づいていたんですね」

「ええ、まあ」

「……いつから」

「水羽さんが帰ったあと、直ぐですね」

 

 よくある話だ。

 傍目からは無秩序に、乱雑に置かれているようでも、部屋の主は何処に何が置かれているのか、それとなく把握している。

 アルバムにあのメモを挟んだ記憶はない。正しい表現をするなら、挟まれたページが違った。

 ミモリがゆっくりと顔を上げる。瞳がほんの僅かに揺れている。

 この良心の塊のような少女に、罪悪感を植え付けてしまったのは、アマヒコの落ち度だろう。

 

「変でしたよね、写真」

 

 ミモリは、目を丸くした。それを口にされるとは思っていなかったのだろう。

 躍起になって、隠し立てするようなことでもない。訊かれたら、答えてしまっても構わないと思う程度のものだ。少なくとも、アマヒコにとっては。

 ミモリの人柄は信用に値する。(いたずら)に他人へ吹聴はしないだろう。アルバムの件だって、書き置きやメッセージがなければ、手をつけなかったに違いない。

 ただ、写真にまつわる話は荒唐無稽な上、楽しい話でもないわけで。

 

「今度、水羽さんの昔の写真見せてください」

「えっ、それはあの」

「ははは、冗談です」

「…………」

「そんな顔しないでくださいよ」

「誰のせいだと……」

 

 ため息を吐かれた。

 ミモリのこんな姿を知るのは、ツバキを除けば、アマヒコぐらいではなかろうか。

 

「訊きたいなら、話はしますよ。日をあらためることになるでしょうが」

 

 その申し出に、ミモリは一瞬、喉の奥で声を籠らせる。

 が、そう間を置かずに答えた。

 

「いいえ、いまは。しばらくは大丈夫です」

 

 ミモリは、まだ踏み込まなかった。

 拍子抜けすることもなく、アマヒコは、濡れた手をハンカチで拭う。

 

「では、そういうことで」

「はい」

「戻りますか」

「はい。……そろそろお暇しないと、ですね」

 

 日の没する時間が、間近に迫っていた。

 シズコたちの元へ戻る間際、アマヒコが呟いた。

 

「水羽さんみたいな人、やっぱ苦手です……って、なにを笑ってるのかな、君は」

「うふふ、だって――」

 

 

 

「初めてそんな風に云われたから嬉しい、ね……」

 

 ストレッチがひと段落着いたアマヒコは、あらためてベッドに座ろうとして、思い直す。

 畳に散らばる本を避けながら、テーブルに置いておいた簪を掴む。

 ルビーは情熱や良縁、サファイアは慈愛や誠実といった具合に、宝石には、石言葉がそれぞれ設けられている。

 珊瑚(コーラル)――赤珊瑚の石言葉は、血液を連想させる色や、長い年月を経て育つその性質から、長寿の象徴とされ、病魔や厄災を払うと考えられている。

 加えて、誕生石なんかもある。珊瑚は、三月に該当するそうだ。

 ミモリの誕生日は――ましてや、それを異性に贈る意味など――そこまで考えたところで、アマヒコは苦笑した。

 まあ、そのときになったら考えればいいか、と思考を明後日の方に放り投げる。

 姿見の前に立ち、髪をゆるくまとめ、簪で留める。

 意外でもなんでもなく、似合っていた。天女染みたヘアセットを毎回ミモリに頼むのは、やはり遠慮が勝る。あらゆる角度から見回しても、一分の隙もない。

 華美な装飾のないシンプルな玉簪は、アマヒコの好みに沿うものであるし、長い髪の毛をまとめるのに重宝するだろう。

 美貌を保つ努力をして来た甲斐があったものだ、と頷いたところで。

 

 はたと気づく。

 

 ――なんだ、僕ってかなり幸せじゃないか。

 

 馬鹿みたいな感想、もしくは現状の再認識が、なんだか可笑しくて。

 アマヒコは、内緒話をするように笑った。

 

 

 

 並木道を歩くツバキは、日陰から出たくないなあとぼんやり考えていた。

 

 雲一つない快晴と云えば聞こえは良いけれど、容赦なく肌を刺してくる太陽に辟易としてしまう。汗ばんだ制服が気持ち悪い。前髪だって額に張り付く始末で、手で搔き分けることすら、嫌気が差す。

 通気性に優れた格好のツバキですら、こうなのだ。周りを歩く生徒も似たり寄ったりで、サラシを胸元に巻いただけの生徒も居た。脱いだ法被を丸めて持ち、もう片方の手で懸命に扇いでいる。

 ミモリのように、日傘を持つことを真剣に検討しつつ、歩いていると。

 

 生徒たちが、続々とある一点を見つめ出す。

 

 暑さで茹だっていたツバキも釣られて、顔を向ける。

 その姿を認めた途端に、他愛のない会話の情景が、脳裏を掠めた。

 

『春日さん。女性から貰ったプレゼントを見せびらかして歩いている男が居たら、率直にどう思いますか』

『……節操がないなあって』

『だよねえ』

 

 ツバキは、目元を緩ませた。

 

「……ほんと、格好つけちゃって〜」

 

 季節外れの小さな小さな桜が百鬼夜行に咲いた。

 朱色の中で散る桜の頂きには、珊瑚が冠のように輝いていたという。

 

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