病葉アマヒコはキヴォトス人。   作:ザントマン

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 百鬼夜行の祭りは一味違う、なんて(はや)し立てなくとも、知っているつもりだった。

 

 この自治区に居を構えていると、祭りを楽しむ機会には事欠かない。移ろいゆく季節の彩りに、伝統や文化が積み重ねられている。ひと口に祭りと云っても、楽しみ方は、それこそ枚挙に暇がない。飽きという言葉は、百鬼夜行においては無縁と云えた。そんな中、ある祭りの開催期間が一ヶ月と聞けば、驚きを通り越して、疑問を浮かべる者も少なくないだろう。

 かくいう僕も、そのクチだ。

 

 件の祭りは、町の真ん中に巨大な神輿――当時は神輿と勘違いしていた――が次々と現れる。パレードのように進行するそれを見物に、観光客が集い、賑わう。

 テレビは云うに及ばず、ネットニュースでも報じられており、その盛況振りたるや、サスペンスドラマのように、事件の一つや二つ起きても不思議ではないほどの様相を呈していた。

 

 一ヶ月もの間、神輿を担ぐのだろうか。

 

 いまにして思えば、お笑いぐさだ。口に出したら最後、なに云うてますのや――百鬼夜行の古い言葉遣いだ――と、白けた一瞥を投げられてもおかしくない。

 天を突かんとばかりに組み上げられたそれを、僕は茶の間で目にしていたにもかかわらず、そんな程度の認識しか持ち合わせていなかったのだから。

 

 勘違いが終わったのは、受験を控えた夏だった。

 

『七月はなるべく、百鬼夜行に来た方がいいわよ』

 

 進学先を百鬼夜行連合学院に決めた僕は、勉強の合間、河和さんと通話をしていた。

 訊ねてみれば、お祭りがあるからだという。予想に違わない――むしろ、期待通りと評すべきだろう――返事に、微苦笑が洩れてしまう。

 

「でしょうね。平日か休日、どちらです? 空けておくので」

 

 一日や二日で終わるだろうと踏んでいた僕に、呆れ果てたと云わんばかりの声が返って来た。

 

『あのね、百鬼夜行のこの時期の祭りは一ヶ月掛けてやるものなんだから。あんたも来年こっちに住むことになるでしょ。そのぐらいは知っとかないと。これ、読んで』

「一ヶ月、ですか? なんの祭りです?」

『去年もテレビでやっていたじゃない。山鉾(やまぼこ)()いていたでしょ』

「この時期のなら、まあ見たことありますけど。えっと、神輿ではなく?」

『……はあ。あれは神輿じゃないの。私で良かったわね。でも百鬼夜行(こっち)来たら、それ云っちゃ駄目よ』

 

 モモトークに届いたのは、百鬼夜行の祭りについてまとめられた資料だった。自作であろうそれの見出しに、季節ごとの祭事が写真付きで載せられていた。

 各学校のパンフレットは一通り手元にあったものの、簡単なつくりのそれと違って、細かな注釈がところどころにつけられている。

 読み進める度に、己の浅学さが身に染みるようだった。

 僕が神輿と勘違いしていたものは、河和さんが口にした山鉾と呼ばれる別物で、担ぐものではなく、曳くものだった。

 

 神輿が通る道を清めるため、山鉾を曳いて、町内を回る。

 七月の半ば、山鉾巡行と呼ばれるそれは、祭りのクライマックスにあたる。

 

 一ヶ月という期間は、その準備やそれにまつわる細々とした祭事が執り行われる。

 準備そのものが祭りとして組み込まれている伝統行事というわけだ。

 祭りの開催される月初、それぞれの区画にある山鉾管理組合――その代表者が、紋付きの羽織袴を着て、陰陽部本館に集まる。山鉾の数が多く、過去の巡行の際は順番争いで揉めたそうだ。それ以降は陰陽部立ち合いの元、くじ引きが行われる。

 このときの出で立ちは、伝統行事ということもあって、羽織袴一色に染まる。

 

 十日を過ぎると、山鉾の組み立てが始まる。終われば、組み立てたそれらを各町内の通りに飾る。

 このとき、百鬼夜行における旧家を筆頭に格式高い家々も、先祖代々受け継がれて来たお宝の屏風を、蔵から持ち出して表に飾るのだ。数々の貴重な屏風を目にできることから、屏風祭とも呼ばれている。

 

 大昔に疫病が流行り、厄を払うべく矛を建てたのが起源とされるこの祭りは、時代を経るにつれ、厳かなものから雅で華やかなものへと変化していった。

 民衆の心の拠り所であり、人々の生活の営みの中で連綿と受け継がれ、この地に深く根付いている。

 

 

 

「――と、まあ、この時期は何処もかしこもそわそわしているんですよ」

「はあ……」

 

 目の前の、艶めいた美貌を存分に振り撒く人物は、そう話を締めくくった。

 

 しがない絵描きを自認する彼が、百鬼夜行自治区に足を運んだのは、気分転換の一言に尽きる。

 彼はここ数週間、絵が描けていない。

 それ自体は、珍しくもない。作品を描き上げたのちに、小休止を挟むことなど、ざらにある。

 問題があるとするならば、ルーチンワークと化していた風景画ですら、碌に手をつけられていないことだった。

 

 これには、困った。

 

 描こうと思えば、描けるだろう。筆を取って、絵の具を塗る。それだけだ。けれど、筆を滑らせたときの感触や、色を重ねているときのイメージが、どうにも曖昧だった。手を動かしているうちに解消するだろう、と作業を続けてみても、一向に変わらない。

 

 売るための絵と、楽しむための絵は、違う。

 

 プロとアマチュアの違いは、主に働きに対して、金銭を得ているか否かだと彼は考えている。芸術とはまさに十人十色であり、作品を通じて何を感じ、考えるのかは個人に委ねられている。一枚の絵画に何の価値も見出さない者も居れば、金を幾ら積んでも惜しくない者も居る。

 

 彼は、プロだ。絵を描くという働きを通じて、報酬を得る。

 

 自身の絵描きとして才能はそれほどでもないと自認しつつも、贅沢をしなければ、衣食住に困らぬ程度に生計を立てられていることは、誇るべきなのだろう。

 

 故に、プロとして求められているものを提供しなければならない、とも考えている。

 

 顧客が求めている絵描きとしてのイメージを逸脱しない範囲で、作品を描く。

 それは型に自ら収まってしまう、窮屈な考えに思えるのかも知れない。

 けれど彼自身は、そんな作品だからこそ評価されているのだと、半ば他人事のような気分でいた。

 

 己が楽しむ分の絵は、生きていれば、いつでも描けるという楽観もあったのだろう。

 

 だが、いまは翳りがあった。

 焦りが、あった。

 

 これまで当たり前のようにできていたことが、できない。描かないのではなく、描けない。

 きっかけや思い当たる節がまったくないことも、拍車を掛けた。

 好きな絵画が展示されている美術館を巡り、トリニティの建造物を見て回り、学生時代に欲しかったけれど買えなかった玩具を買って、懐かしい思い出に浸り。積んでいた本を片っ端から読み漁り。そうして、そうして筆から離れて、塗りかけていた絵の前に立って、筆を取って――。

 

 何も、何も効果はなかった。

 

 絵の具の渇いた匂いも、妙に鼻につく気がして。

 

 そんな折に、薄暗い部屋の中で点けっぱなしだったテレビで、目にしたのだ。

 百鬼夜行自治区の祭りが紹介されていた。映像は去年のもので、担がれた神輿が、趣のある建物が並ぶ通りを進んでいく。

 

 思い立ったが吉日、なんて言葉に欠片も信憑性を抱いていなかったが、このまま部屋に閉じ籠っているよりはいいだろう。

 

 風呂にも数日入っていなかった身体をシャワーで洗い流し、ぼさぼさに伸び切った毛並みを、ブラッシングして整える。毛玉ができていた。ハサミでカットした。

 

 家を出てから、電車に乗り、何度か乗り換えて。人混みに埋まりながら揺られる。

 ようやっと解放された頃には、くたくただった。

 

 初めて足を踏み入れた百鬼夜行自治区に、大きい感動は覚えなかった。

 駅周辺のつくりが地元と大差なかったことも、それを助長したのだろう。バス亭への道を示す看板を見遣りながら、歩を進める。

 

 バスを降りれば、そこは人の大渋滞だった。神輿が飾られた通りの脇には、露店が並んでいる。香ばしい焼き鳥の匂いが漂うその往来は、ただでさえ道幅が狭いのにもかかわらず、見るからに観光客といった女性に、しきりに声を掛ける男性の姿が散見される。やれ、毛並みがうつくしいお嬢さんだの浴衣が似合っているだの、ワイルドな風貌で犬歯を剥き出しにしながら、両手の肉球を擦り合わせている様は、なんだかなあと思ってしまう。

 十メートル進むのにも、十分掛かった。人の流れは一方通行で制限はしているが、車のようにはいかないのだろう。

 人波に揉まれることに疲れた彼は、小道に避難することにした。

 

「神輿ねえ――」

 

 声を出すのは久しかったからか、擦り切れた声だと思った。

 祭りの喧騒にかき消されてしまいそうなほどに、か細い。

 

「――あれは神輿じゃないんですよね、実は」

 

 返答があるだなんて、思いもしなかった。慌てて振り返る。

 

 小道の真ん中に、その人物は立っていた。

 

 人物を飾る色の殆どは黒だった。黒と白の三角形が特徴的な着物を身に着け、袴風のスカートをベルトで締めている。そこから伸びた脚を包むのは、これまた黒いレースアップブーツ。だが、その肌は逆に驚くほど白い。

 頭部に冠するそれも、やはり黒い。艶めいた髪は後ろでまとめられ、尻尾のように垂らされていた。

 最も目を惹いたのは、髪から鱗粉のようなものを飛ばしていたことだった。

 辺りに振り撒かれた光の粒は、陽光をはね散らしている。

 近くを通り過ぎる人はここぞとばかりに眺め回していく。

 絵描きは、大なり小なり観察に長けている。

 その人物が、無遠慮に叩きつけられる視線の数々を、ものともしていないことに彼は気づいた。

 目が合った。

 合って、しまった。

 眦が下がり、紅い唇を薄っすらと吊り上げる。まつ毛や眉までもが薄っすらと燐光を放っていた。瞳が言外に告げていた。

 見つけた。

 そこからは、好き勝手に話を始めたものだから、彼は呆気に取られた。

 聞き心地の良い声だったことや、少々、迂遠な物言いがありつつも、要点は抑えていたのか、ともかく今回の催しについての理解を深めることはできた。

 

「はあ……その、何故、あたしにその話を?」

 

 彼は浮かんだ疑問をそのまま口にした。

 

「百鬼夜行で山鉾を指して神輿、なんて云った日には、白い目で見られちゃいますし。おせっかいですかねえ」

「そうかい。ありがたくて涙が出そうだ。恥を晒し続ける前に、とっとと消えることにするよ」

 

 ガキが。

 内心で吐き捨てながら、踵を返す。わざわざ足を運んで来てみれば、ただ、人波に揉まれて疲れただけだ。その上、珍妙な子供に絡まれる。余所者はこれだから、とでも云いたいのだろうか。確かに木造建築の趣深さをはじめとして、飾られた屏風に描かれている絵に目を見張るものはあった。彼が好むのは、トリニティの絵画によく見られる写実めいた、普遍的な美を描く自然主義とも云うべきものであったが、それに比肩し得るうつくしさを感じる。

 だが、結局のところ、好みなのだ。主観にどうしたって依存する。絵の技術や文化に敬意を払うことはあっても、この猥雑な雰囲気に酔えるかどうかはまた別の話だ。

 

 彼は、様々なものに触れてインスピレーションを受ける、というよりも、深く狭く、己の内側にあるものを形に創作を行うタイプだ。

 普段触れないものを見聞きして、これまで定義していた価値であったり、解釈であったりを、異なる側面から見ることもあるが、新しく得たそれらを作品に取り入れようとすると、客の求めていたものから乖離してしまうおそれがあった。

 

 無駄足だった。

 そう結論づけた彼は、足を止める。

 小道から出ようにも、大通りは人でごった返している。此処に来るまでに、十分ほど掛かった。通行制限がある関係で、駅へ進むには、通りの向こう側へと渡る必要がある。

 満員電車に勝るとも劣らない人混みの中を、だ。

 加えて、神輿――ではなく山鉾――が、この通りを巡行しようとしている。それを一目見ようと、更に人が集まっている。

 

「おや、どうされたんですか」

 

 道の端に身体を寄せると、白々しい微笑みに出迎えられた。鼻を鳴らすことで答えた彼は、しかめ面で通りに向き直る。腕を組み、巡行が過ぎ去るのを待つことにした。小道を抜けて駅に向かうには土地勘がなかったし、この賑わいの中、端末で地図アプリを覗き込みながら歩くことも、避けたかったのだ。

 観光客はこぞって、カメラや端末を構えている。より厚みを増した人だかりは、大きなうねりとなって、熱気を孕んでいる。

 こんな中でじっくりと山鉾の巡行を眺めるのは、至難の業ではなかろうか。

 現に親子と思わしき二人が、肩車をしながら見えるかどうかをしきりに確認している。

 

「見えた、見えないで騒ぐのは、些末な話だそうですよ」

 

 そう大きい声でないにもかかわらず、妙に聞き取れる。

 律儀に答えてやるのも、何処か癪だった。視線は通りに向けたまま、耳をそばだてる。

 

「百鬼夜行の随筆には、こう書かれています。曰く、『祭りどきの都大路の有様を目に収めて、そのときに心に立つさざ波を面白いと思うのが、祭りを楽しむということです』」

 

 それはまた、気取った物言いだと彼は思った。

 この暑苦しい最中、己の心の内に立つさざ波に耳を傾けろ、などと。

 

 できぬから、自分はこうして此処に居るというのに。

 

「中々、できることじゃありませんがね」

 

 同意だ、と彼は再び、鼻を鳴らして答えた。

 

 山鉾自体の大きさや煌びやかさもさることながら、飾られているタペストリーも相応に大きく、派手だ。

 動く美術館とも称されるそれらは、重要文化財にも指定されている。

 かつて百鬼夜行で起きた大戦以降、様々な文化が入り乱れた影響だろう。

 

 良く云えば、目で楽しめる。悪く云えば、節操がない。

 

 明らかに、他所の自治区の文化に基づいているであろう特徴を携えた意匠が、幾つか見受けられる。

 百鬼夜行古来の祭りに、トリニティのものは正直どうなのだろう。

 そう、彼は思わないでもない。当時の百鬼夜行の人間に問うことなどできない。いつの世も人は目新しいものを欲するという証左なのか。お世辞にも趣味が良いとは云えない。彼が、この催しに一定の敬意を払いつつも、何処か好きになれないのは、こういった点だ。

 自身が勝手に抱いていた百鬼夜行のイメージにそぐわない、成金染みた、けばけばしさに辟易としているのかも知れない。

 

 山鉾が通り過ぎると、たちまち人の流れは緩慢になる。

 遅々とした歩みであることに違いはなくとも、ほんの少し、ゆとりが生まれるのだ。周りを観察する余裕も。

 彼の視線の先には、茶色に塗られた看板があった。記されているのは、誰もが知っているであろう有名なジャンクフードの大手企業名。この企業の看板と云えば、やはり赤いイメージを彼は持つ。

 観光区間は景観を壊さぬように、配慮がされている。例えば、キヴォトスで展開されている大手のチェーン店や、コンビニの看板がそうだ。

 大抵は、各企業のイメージカラーが用いられるが、景観政策として地味な色合いのものに変更されている。

 おかげで、駅の近辺ならともかく、木造建築が並んでいる区域でのコンビニの見つけ辛さと云ったら。事実、自称おせっかい焼きが呼び止めていなければ、彼はそのまま素通りしていた。

 彼の手にはモバイルバッテリーの入った手提げ袋があった。

 しばらく家を出る用事がなかったせいで、端末の充電が切れる寸前だったのだ。

 

 そのまま別れるものとばかりに思っていた彼は、奇妙な状況に眉を顰めた。

 隣を歩くその人物は、当たり前のように歩幅を合わせている。

 

「百鬼夜行の人たちは、祭りになると性格や趣味が変わる、なんて云われてたりしますね。例えば、あそこの店の娘さんなんかは、いつもは穏やかでのんびりしてるんですけど、心なしか早口になりますし、趣味も悪くなります」

「……祭りなのだから、そういうものだろう」

 

 趣味が悪いという意見には頷けるものの、思わず擁護してしまったのは、目の前の人物相手に素直に認めることを由としない、己の性分からだった。

 彼はしたり顔でものを語る輩が、昔から気に入らなかった。

 加えて、子供が嫌いだった。

 成り行きからこうして会話をする羽目になっているが、彼からしてみれば、不本意極まりない。

 自然と声色は素っ気ないものになる。

 それはそうなんですが、と彼の態度を気にする様子もなく、続ける。

 

「所謂、旧家と呼ばれるお家の人は、普段は表に出たがらないんですよ。見せびらかしたり、主張するのは浅ましい――とまではいきませんが。恥ずべきことだって意識が強いんですよね。でも、祭りになった途端、特に今回のものなんかは、後生大事にしていた屏風まで引っ張り出して。性格が変わったって云われても、まあ仕方ないのかなと。山鉾の飾り付けのセンスも、赤と金ですし」

「おい、あんた」

「どうしました」

「いつまで、ついてくる気だ」

「ああ、そんなつもりは。これから、店に戻るんですよ。ただ、道はこっちですし、わざわざ別れて行く理由もないでしょう」

「一緒に行く理由もない」

「先ほどから熱い視線を感じますが、それには目を瞑るということでおあいこにしません?」

「なんでだろうな、嫌でも視界に入って来る。眩しくて仕方がないから、逸らしたいのは山々なんだが」

「ああ、目を細めているのはそういう。てっきり、観察の仕方が線というより面というか。点と点を結ばないようにしていますよね。シルエットだけ見ているような。もしかして、絵とか描かれています?」

 

 肩と肩とが否応なしにぶつかる人口密度の中にあって、涼しげな横顔は小揺るぎもしない。僅かに滲む汗すらも、自らを飾る道具に仕立て上げている。

 ……待て。いま、何か云わなかったか。

 彼は口を噤んだ。

 迂闊な言葉の一つでもあれば、目の前に居る人物は、勝手に答えに辿り着くだろう。事実、正答を引き当てている。

 まさか、視線の配り方から看破されるとは思わなかった。

 

「あ、本当に合ってたんですね」

 

 どうやら、口から出まかせを云っていただけらしい。

 遅まきながら、奴の口振りが確信めいた物言いではなく、当たり障りがなかったことに気づく。

 奴の問いに、否定や肯定はしていないし、表情もそれほど動かしていなかった筈だ。

 瞳孔の開き具合か何かで、読み取ったのだろうか。

 思わず、舌打ちが漏れる。

 

「なるほど、取材……そうだ、百夜堂に来ませんか。とびきり可愛い看板娘が切り盛りしているんですが」

「自分がその看板娘だって、オチかい」

「いや、河和さんを差し置くような(おもしろくない)話にするのやめていただいても?」

 

 知らねえよ。

 代わりに口から零れたのは、重いため息だ。

 

「悩みごとですか」

「ああ、変な奴に絡まれてる」

 

 現在進行形であった。

 

「――っと」

 

 腰辺りに衝撃が走った。決して軽くはないが、転ぶほどでもない。

 服が掴まれる感覚。見下ろせば、視線がぶつかる。

 灰色の毛並みをした子供だ。瞳は、青く濡れていた。

 見覚えがあった。

 つい数十分ほど前に、肩車をしながら山鉾を観に来ていた親子。その片割れだ。

 子供は、裾を掴んでいた手を離すと、弱々しく呟く。

 

「違う……」

 

 その一言で、察した。

 彼は天を仰いだ。

 憎たらしいほどに、晴れている。

 頭が痛いのは、日射病に罹ったからではないだろう。

 彼の頭痛の原因の一つが、頷いた。

 

「迷子ですか」

 

 つまりはそういうことなのだろう。

 この人混みだ。無理もない。個人的に子供の手を離すなと親に説教をくれてやりたい気分だったが、子供という生き物は、突拍子のない行動を取るものだ。もう少し成長すれば賢しげに、まるでお前は何もわかっていないと云わんばかりに噛みついてくるが、背格好からして、おそらく五、六といったところ。場当たり的に、感情のままに動く年頃。周りを見たところで、すぐ近くに似た顔つきや毛並みの者が居るわけもなく。

 渋い表情を隠し切れずに、言葉を探す彼とは違って、傍らに佇んでいたその人は、苦笑混じりに子供へ話しかける。手にはハンカチが握られている。

 

「お父さんがどこかに行ってしまったので、探してるって感じですかね。どうぞ」

 

 しかし、子供は答えない。まじまじと、大きい瞳を丸くしている。差し出されたハンカチよりも、奴の顔や髪に関心を抱いている様子だ。いまも絶えず、散布されている光の粒を目で追っている。どういった原理なのか、彼には皆目検討もつかなかった。

 

「綺麗……」

「おや、それは嬉しいですね」

 

 まあ、見てくれはそうだろう。中身は、彼にとっては最悪であったが。

 己のような偏屈な者よりも、よほど適役だろう。子供を押しつけて、帰ろうと算段をつけていた彼の耳に、続けて言葉が差し込まれる。

 

「でもちゃんと髪は洗わないとだめ! フケたくさん!」

 

 その瞬間、いままで涼しげに振る舞っていた奴の頬が、確かに引き攣ったのを見た。

 子供はとても真剣に、混じり気のない善意からそれを口にしていた。

 言葉が、じっくりと彼の中に染み込んでゆく。

 そして、そして――。

 

「ちゃんと髪は洗ってるんだ」

 

 その反論がとどめだった。

 

 腹が痙攣を起こすぐらいに、笑った。

 

 

 

 彼が落ち着いたのは、そこから優に二十分経過してからだった。

 流石に道の半ばで、笑い続けるわけにもいかなかった。何よりも、奴が周りの目を気にしてか――それも笑いを誘った――コンビニ前まで戻ることとなった。

 笑い過ぎて顎が痛くなる経験を生まれて初めてした。

 

「っぷ、はぁ……すまん、ね、ふっは」

「なんでおじちゃんずっと笑ってるの?」

「ああ、気にするな……ふー、やっと落ち着いた」

 

 胸がすく思いだった。

 澄まし顔で流暢に言葉を紡いでいた奴が、子供の問答一つで瞬く間に、言葉を詰まらせる。

 この上ない見世物だった。お金を払ってもいいと思う程度には、愉快な時間だった。

 

「落ち着いたようで、何よりですよ」

 

 フケ疑惑を向けられていた奴が、コンビニから出て来た。ビニール袋は中身に合わせて、角張っていた。

 

「アイス食べます?」

「知らない人から、食べ物貰っちゃいけないってパパが云ってた」

「知らない人についていくのも駄目だろ」

「そうですか。じゃあ、こっちで食べちゃいますね」

「……うー」

「暑い中食べるアイスは美味しいですねー。けど、一人で食べてたら、頭が痛くなってしまいそうです。ああ、誰かこのアイスを食べてくれる心優しい人は居ないでしょうか。おや、そこのおじちゃん。どうです、一本」

「誰がおじちゃんだ」

「お・に・い・さ・ん」

「しなを作るな、気色悪い」

「頭痛くなっちゃ大変だから! 食べてあげる!」

「それは助かります。いちごとチョコとソーダ、どれがいいです?」

「いちご!」

「どうぞ。慌てて落とさないように。では、おじちゃんはチョコでいいですね」

「要らねえって。おい、開けるな!」

 

 結局、受け取ることになった。

 

 甘みと冷たさに浸された口内の空気が、喉に詰まる。短く息が漏れ、咳き込んだ。

 生理的に出た涙を拭っていると、奴が子供と会話をしながら、買って来たノートにペンを走らせている。

 

「どう?」

 

 子供が姿勢を正しながら問うと、奴は首を捻っていた。

 

「うーん、あんまり上手くいってませんね」

「なにやってんだ、お前さん」

「この子の似顔絵を描こうかな、と」

「は?」

「お祭り運営委員会の部室でこの子を預かって貰うというのも、考えたんですが。それはそれとして、こちらから能動的に探すために、この子の特徴が簡単に伝わる絵があればいいかなーと」

「写真撮ればいいだろ」

「親御さんからしたら、勝手にお子さんの写真撮られて、ばら撒かれるようなものですし。下手に悪用されても困ります。絵なら、まあ、個性が出ますし? そっくりそのまま描かないなら、わかる人にわかればいいので。それに、思い出になるでしょう。見知らぬ土地で怖い思いをした、よりも、こんな絵を描いて貰ったんだって思える」

 

 変な気の回し方をする奴だった。

 ノートには、線が幾つか引かれていたが、いずれも歪んでいる。

 あまり、絵は得意そうではなかった。

 無駄な時間を、と切り捨てるのは簡単だった。

 ヴァルキューレに子供を預けて、それで終わりにすればいい。

 

「さっき会ったばかりだ。あたしも、こいつも。なんで、お前さんはわざわざ、面倒なことをする」

 

 奴は、微苦笑を一つ。

 

「貴方に関しては、ただのちょっかいなんですが」

「おい」

「ま、総じて云えば気まぐれです。普段はこんなに手を回したりしませんし、祭りの雰囲気に酔っていると思って貰っても、構いません。あとは――」

 

 歳下の子に泣かれるの、ほんっと苦手なんですよねえ。

 

 徹頭徹尾、自分の都合でしか動かない。

 数瞬、瞳に浮かんでいた色がなんだったのか、彼には理解できなかった。

 できる筈もない。他人なのだから。

 だが、奴はともかくとして、子供には楽しませて貰った。

 あそこまで笑ったことは、覚えている限り、ない。

 だから、それに見合う程度は。

 

「ノートとペン、貸してくれ」

「はい? ……おお、はい。あ、そしたら、店に電話していいですか? 流石に時間掛かりそうなので」

「ああ、そのまま帰るなよ」

「振りですか?」

「…………」

「冗談です。見える位置で電話しますから、ご安心を」

 

 声が聞こえない程度まで距離を取ると、奴は携帯端末を取り出した。

 それを見送った彼は、子供に話し掛けた。

 

「坊主。とりあえず、良いと云うまで、大きくは動かないようにしてくれ」

「う、うん。ほんのちょびっとだったら、大丈夫?」

「ああ、欠伸したって構いやしねえよ。本格的に描くわけじゃないしな」

「おじちゃん、描けるの?」

「あんま期待するな」

 

 彼はペンを動かしていく。

 模写は当然として練習していたが、今回は簡単な線だけで描くことにした。

 決して、満足のいく出来ではなかった。

 だが、子供の親が見れば、もしかしてと結び付けられる程度には、特徴を捉えているだろう。

 いまの己では、この程度。ほんの微かに失望を覚える。

 

「これ、ぼく! わあ、ぼくだ! ありがとう!」

 

 しかし、掛け値なしの賞賛を、これほど真正面からぶつけられたのは、いつ以来だろうか。

 馬鹿みたいにはしゃいで飛び回る子供は、己から見れば稚拙なそれを、まるで宝物のように抱えている。

 電話を終えた奴に自慢げに見せ、持ち得る語彙を尽くす様から、少なくない充足感を与えられたことに、彼自身が誰よりも驚いてしまった。

 まったく以って、らしくない。ああ、本当にらしくない。

 暑いからだ。頭がもう少し冷えれば、普段の自分に戻るだろう。

 浮ついた気持ちを律するように――自覚できる程度に浮ついていることにまた驚いて――言葉を吐き出そうとして。

 子供が勢いよく、こちらを向いた。

 機先を制される形になった彼は、口を引き結ぶ。

 

「おじちゃん! 次はこの人描いて!」

 

 ノートの空いたページを開いて、子供はそう宣った。

 

 視線を交わす。

 睨んだ。

 頷かれた。

 

「では、よろしくお願いします」

「了承してねえよ」

 

 いつの間にか、奴は簪を抜いていた。ついでに拳銃も。構えて、ポーズを取っている。

 横顔の角度が彫刻品のように整っている。余計に苛立った。

 

「描いて貰うなら、報酬必要ですよね。幾らです?」

 

 吹っ掛けてみた。金額を聞いた奴は、回れ右をする。

 

「お金下ろして来ますね」

「やめろ」

「えっ、ぼくもお金払わないと怒られる……?」

「お前はいいんだよ、坊主」

「なんでこの人はだめなの?」

 

 気に入らない、というわけではない。

 報酬を払う、と奴は云っているのだ。働きに対する対価であり、等価。

 彼はプロだ。

 たったいま告げた金額は冗談だとしても、金額に応じた仕事をこなすことに忌避感はない。

 では、彼の食指が動かない理由は。

 彼が此処、百鬼夜行に訪れたことに起因するそれで。

 即ち、自信がない。

 表現し切れるかどうかではない。

 己の持てるすべてをぶつけた結果、力が及ばないのであれば、まだ良い。

 ベストパフォーマンスを発揮し切れるのかどうかが、問題だった。

 表面上は認めていなくとも、視線は追ってしまう。

 目を惹きつけられる。

 描いてみたい。

 ノートとペンではなく、キャンパスに目一杯に大きく、伸び伸びと。

 線を、色を。

 おいおい、と彼は思う。

 気に入らない奴だ。気に食わない奴だ。

 だが、気に掛かる奴だった。

 一目見たときから、わかっていた。

 どう感じるかが、すべてなのだ。

 この場にあるのは、白と黒。おあつらえ向きではないか。

 これだけだ。これでやるべきなのだ。

 

 彼は無言で、ノートとペンを子供から受け取った。

 

 観察する。余すことなく見る。必要な情報も不必要な情報も、まずは見ることから始まる。

 陶器のように白い肌を。

 闇に溶け込む髪を。

 紅く濡れた唇――要らない。

 辺りを幻想的に彩る燐光――要らない。

 真珠めいた色合いを宿す瞳の色――要らない。

 いまは、白と黒だけが必要だ。

 世界から鮮やかな色が消える。

 音も消える。

 ペンを滑らす指の力の強弱だけを感じる。

 水が流れ、潮が満ちて引く。寄せては返す波のように。

 ただ、一心に手が動いた。

 

 やがて、世界に色が戻って来る。

 眩しさに、彼は目を細めた。

 手元には、描き上がったそれがあった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 迷子の服装や特徴を云える者を連れて来るように。

 

 奴はまず、知り合いを使って親を探すことにしたらしく、何人かに電話を掛けていた。

 子供に親とはぐれた場所を大まかに聞き出すと、その周辺に親が居ないかを探すように指示を出す。描いた絵は、その知り合いに共有され、主に本当に親かどうかの確認に使われていた。

 彼は子供と奴とで、待ち合わせに指定した場所で立っているだけだった。

 

「そんなぁ! 連れて来たのに! チセ様グッズは!?」

「ちゃんと指示通り、働け。最初から見せるな、絵を」

「うぅ……みんなにも手伝って貰っちゃ駄目なんすか」

「え?」

「うわあああああああ見てろよお! チセ様! 私に力をおおおお!」

 

 幾度か天狗の面を着けた生徒が訪れては、笑顔で一蹴されていた。

 

 子と再会した親の態度は、こちらが気の毒に思う程度に恐縮していた。

 遠ざかっていく背中と、小さな手のひらを見送る。

 親とのやり取りを早々に終えた彼は、首を鳴らし、肩を回す。

 慣れない土地で、慣れないことをして、疲れていた。

 豆粒のように小さくなった手が、まだこちらへと振られている。

 奴は軽く手を振ると、ちらと視線を向けて来た。

 

「良かったんですか、お金取らなくて」

「あんなもので、金が取れるか」

 

 おざなりに返す。

 彼の偽らざる本音だった。金銭を要求できるほどのものを描いた覚えはないし、働きに見合った報酬はとうに受け取っている。それを撤回するつもりは微塵もなかった。

 

「それよりもお前のツレはなんだ。大丈夫なのか」

「ああ、お気になさらず。いつものことなので」

「すぅ……すぅ……」

 

 子供の親を連れて来たのは、純朴そうな顔つきの生徒だった。

 涼しそうな恰好が目立つ百鬼夜行の生徒の中でも、一際、目立つ装いをしていた。

 寝ぼけ眼のまま現れると、喋っている途中で立ったまま寝始めたものだから、彼は困惑した。馬鹿にされているのかとも思ったが、あんまりにも気持ち良さそうに眠るものだから、毒気を抜かれてしまう。

 髪の毛から光を産む奴に、ところ構わずに寝る輩。

 類は友を呼ぶ。そんな諺が浮かんだ。

 

「そろそろ、巡行も終わりますね。最後まで見ていきますか? 丁度この通りで回りますよ、山鉾」

「回すのか、あれを」

「ええ、ぐるりと」

 

 考えてみれば当然のことではあるが、回るらしい。

 山鉾がよく見える位置は、花火の場所取りと同様、既に埋まっている。

 道路に誰かが飛び出さぬよう、警備員らが目を光らせる後ろを、大勢の曳き手によって、運ばれていくのが見える。

 十字路に差し掛かった辺りで動きを止め、道路に何かを敷き始めた。

 

「あれは、割竹ですね。隙間なく敷いて、その上で山鉾を滑らせるんです」

「車輪乗せるのも一苦労だな。縄を引っ張ったり、側面を押したり」

 

 音頭取りが合図の声を上げる。巨大な山鉾が、ゆっくりと回転する。近場でみれば、軋む音すら聞こえて来そうだ。

 

「慎重に、何度も何度も位置調整しながらやりますからね。一度に回す角度も決まってるそうです、よ……」

 

 言葉尻が消えていく。

 

「回し過ぎだ。春日さん、こちらへ」

 

 奴が、少女の肩を揺さぶった。

 

 どよめきが起こった。

 

 巨大なそれが遠目から見てもわかるほどに揺れる。

 音頭取りが怒号を上げた。警備員たちが振り返る。曳き手の何人かが顔を赤くしながら、懸命に支えようと動いている。引いていた縄を離し、抑えようと動き出す。

 ゆらりゆらり。

 誰かが叫んだ。

 

 倒れる。

 

 それを皮切りに次々と人波が荒れ狂った。

 山鉾のある通りと、見物用に確保された場所は充分な距離が離れているにもかかわらず、最前列に居た者たちが後ろへ下がろうと動き出す。その殆どは、観光客だった。

 押されるように真ん中の者たちもそれに倣う。しかし、進みは遅い。どころか、前後に挟まれて動くことすらままならない者も居る。後方に陣取っていた者たちは、気楽そうにカメラ携帯端末を構えていた。誰かが転ぶ。ドミノ倒しのように倒れていく滑稽な様子に、しかし彼は笑うことなどできなかった。警備員の静止に構わず、前に、道路へ出た者も居た。それを目にした者が次々と四方へ散る動きを見せる。

 影が差した。幾つかの点だったそれが、ぶつかれば無事ではない速度で降って来る。

 人だ。山鉾の上に乗り、稚児として役目を授かっていた子供が、世話役の者が落ちて来る。悲鳴が上がる。地面に落ち、転がり、起き上がると直ぐにその場から離れる。曳き手たちが、道路に飛び出して来た人らを引っ張ってなるべく離れようと動き出す。警備員の大声。誰かが泣く声。彼の周りはざわつく程度で、まるで違う世界の出来事のようだ。

 気づいたのは、偶然だった。

 ビー玉のように飛び出す人々に弾き出されるようにして、二つの灰色の毛並みが通りに飛び出していた。

 人が多過ぎた。互いが互いの逃げ道を塞いでしまっている。あの親子の周囲も例外ではない。

 

 山鉾が、そこへ傾いた。

 

 彼は叫んだ。

 逃げろ、かも知れないし、危ない、だったかもだったかも知れない。

 それすらも曖昧なままに、声を上げた。

 混乱のただ中で銃声が鳴った。続けて、もう一発。

 民衆の視線が、意識が、発生源と思わしき地点に向く。

 彼も反射的にそちらへと顔を向けた。

 

 奴と、少女が道路に躍り出ていた。

 

「――(おれ)を見ろ」

 

 姿勢が低く、沈み込む。うつくしい髪が踊った。

 燐光を散らしながら、駆ける。駆ける。駆ける。

 人の隙間を縫うように進む様は、水を得た魚の如く。人の波を搔き分け、泳ぐ。

 向かう先には、山鉾がある。

 奴は進みながら、真上に拳銃を発砲する。その度に、視線が奴に、音の発生源に集まる。次いで、魅入られたように動きが止まり、人々の脇を奴が抜けていく。

 近づけば、近づくほどに。人が密集し、走るルートが狭まる。

 

「っ、あぶねえ!」

 

 小道から飛び出して来た人影に、彼は思わず声を張り上げた。騒ぎを聞きつけて来たのだろうか。このままでは、ぶつかる。

 だが、そうはならなかった。

 現れた人影、猫の獣人の目の前で、踏み込んだ脚を起点に回転し、躱して、勢いそのままに建物の突き出している部分に腕を伸ばすと、あっという間に屋根へ上り詰める。まるで猿のようだ。

 屋根伝いに、一直線に、最短距離で駆け抜けた。

 些かの減速もなしに、目標へ。

 

 けれど、距離が足りない。

 山鉾に視線を移せば、既に車輪が地面から浮き上がっている。

 

 奴が、屋根から跳んだ。いや、飛んだ。瞬く間に距離を詰める。

 

 やはり、足りない。

 人は宙にいつまでも留まることは、できない。

 落下が始まりかける間際、奴が叫んだ。

 

「――()()()! 盾を!」

 

 そこに、近づいていた少女が盾を投げ込んだ。

 速度と回転を伴った盾を前に、奴は空中で身を捻ると。

 振り上げた足裏に引っ掛けて、勢いを殺し、それを足場に再び跳んだ。

 盾が落ちてゆく先を見る者は居なかった。

 誰もが、宙を疾走(はし)る輝きを見ていた。

 山鉾の側面が思いっきり蹴飛ばされ、地面から離れていた車輪が押し返される。

 

「づぁっ、ぐおお……!」

 

 奴は苦悶の表情を浮かべて、そのまま人波の中へと落ちてゆく。

 山鉾はしばらく揺れたのち、やがて何事もなかったかのように、そこに佇んでいた。

 一秒、二秒と時間が過ぎ、人々が顔を見合わせた。

 

 歓声が、爆発した。

 

 彼は、握り込んでいた拳に気づく。

 緊張のあまりきつく握られた手のひらは、汗で濡れていた。

 そっと、服の裾で汗を拭う。

 

「あのー、脚痛いんで触らないで貰えると助かります……あの? お尻触らないでください。痛い痛い、髪の毛引っ掛かってるんだって。ちょっと、何処に運ばれてるんですこれ」

 

 人々の頭上に担がれるようにして運ばれる奴を見た彼は、思った。

 

 ――趣味の悪い神輿もあるじゃないか。

 

 続けて、こうも思った。

 

 しばらく祭りを観に行くのはよそう、と。

 

「春日さん! 助けてくださーい!」

 

 

 

 彼はアトリエに居た。

 こじんまりとした広さの空間は、塗料の匂いが染みついている。

 落ち着いた色合いの上に、白や黄色を重ねた。明るい色を差したら、今度は暗い色を。

 脳内に湧くイメージに近づけるように、しかしそこから遠ざかる過程もまた楽しみつつ、色を足していく。

 昼時から作業を開始して、もう少しで二時間が経つ。

 朝食は基本抜いている上、昼食も眠気に左右されないよう、比較的少なめに摂っている。小腹がそろそろ空く頃合いだ。

 筆を置いて、身体を大きく伸ばす。内部から骨が軋む音を聞きながら、口から言語として成立しない音を垂れ流す。鈍い痛みを発する眼球を揉みほぐす代わりに、眉間を指で何度か押す。

 集中しているときは苦にならないものの、長時間の作業を終えたあとの眼精疲労にこのところ、悩まされている。

 老化の一言で片づけるのは簡単だが、老後の楽しみもまた、絵だ。できるだけ長く続けていきたい。

 

 ほんの少しだけ、作風が変わったと彼は云われるようになった。

 

 絵の構図や色調、質感が評価されていた彼だったが、元々好んでいた絵画の影響もあり、緻密に描き込んでしまう癖があった。加えて、濃淡――光と影の表現を苦手としていた。強いて欠点を挙げるなら程度の要素であり、彼自身もそれを自覚していた。

 いまの彼の絵は、光と影の表現に加えて、描き込みの少ない、良い意味で力が抜けている絵を描くようになっていた。精緻に、見たそのままを描かずに、見る者の意識が入り込むような余剰を生む作品は、これまで彼の作風に、圧迫感があると感じていた層を取り込むことに成功していた。

 しかし、良いことばかりではない。

 彼の作品を好んでいた層からは、直接的な言葉をぶつけられたことがあった。

 曰く、そんなぼやけた絵は君の作品じゃない、と。

 彼は元々、顧客のイメージから逸脱しない範囲で、作品を描いていた。

 それが、プロとしての務めだと考えていたからだ。

 故に、彼は新しい作風の絵を世に送り出しつつ、これまでと変わらない作風で描いてもいる。

 受け入れられないという者は遠からず彼の前から去ることだろう。そればかりは、仕方のないことだ。

 顧客を大事にしたいと思っていたのは、事実だ。

 だが、それ以上に、彼はいまが楽しい。

 いままでが退屈であったわけでもなければ、辛かったわけでもない。

 ただ、思い出しただけだ。

 

 自分はどうして、絵を描いていたのか。

 

 きっかけは、ほんの些細な一言だったのだ。

 君、絵が上手だね。

 学生の頃、好意を寄せていた女の子が自分の絵を褒めてくれた。

 それだけで舞い上がって、彼女に褒めて欲しくて、絵を描いていたのだ。

 その恋は結局、始まる前から終わっていたけれど。

 絵を続けていたのは惰性だったが、いつしか趣味になり、それが高じて、職になった。

 彼女は、近々結婚する。

 当時から付き合っていた男と順風満帆な恋路の果てに、ゴールインだそうだ。

 結婚式の招待状と共に同封されていた写真の二人は、幸せそうに見えた。

 他人の幸福を素直に喜べない気質の彼としては、微妙な気分になったものの、添えられていた手書きのメッセージを見たときに頬が緩んでしまったのは、此処だけの話だ。

 

『もし良ければ、私たちの絵を描いてはいただけないでしょうか。学生の頃から絵がお上手だった貴方に、是非ともお願いしたいのです』

 

 式には参列する旨を伝えてある。

 そのときは素直に、この二人を見たまま、感じたままに描いた絵を持って行こうと思う。

 

 気づけば彼は、筆を手にしていた。

 どうやら今日はとことん描きたい、そんな日らしい。

 夜は、腰の痛みに震えることになりそうだ。

 キャンパスを立て掛けるため、イーゼルを動かそうしたとき、机にぶつかった。

 端っこに置いてあった新聞が落ちる。

 拾い上げて埃を払うと、紙面に目を遣り、鼻で笑った。

 

『百鬼夜行で前代未聞。山鉾を蹴って足を負傷』

 

 真っ白なキャンパスの前に座った。

 ひとまず、混ぜ合わせ易いように複数の絵の具を出そうとして。

 代わりに黒を一つだけ選んで、パレットに出した。

 筆が黒く染まっていく。

 それを勢い良く、キャンパスへ奔らせた。

 

 いつかのときよりも、上手く描ける気がした。

 





今回、挿絵として使用させていただいたイラストはタタリモップ様(https://x.com/tatari_moppu)よりいただきました。


【挿絵表示】


シズコに貰った小振袖を身に着けているところをイメージされたとのことで、
百鬼夜行らしい和の雰囲気が存分に漂っています……!
予想だにしていない貰い物だったこともあり、部屋の中で喜びの舞を一週間ほど踊っていました。

あらためて心より御礼申し上げます。本当にありがとうございます。

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