病葉アマヒコはキヴォトス人。 作:ザントマン
病室の内装は白い、という先入観を持っていた。
実際は患者がそこで過ごすことを考慮されて、淡い緑やピンクといった、落ち着いた色であることが多いそうで。僕がいま居る此処も、
古めかしさが目立つ百鬼夜行自治区であっても、病院の設備は他所とそう変わらない。こじんまりとした診療所もあるけれど、大きい病気であれば、中心区にある病院に紹介状を書かれることになる。生徒ならば、保健室で治療を受けることも可能だ。
僕は保健室を利用せず、それなりにランクの高い部屋を取り、わざわざ高いお金を払いながら、入院生活を送っていた。
ベッドの上で脚を伸ばして座る僕の傍らで、水羽さんは椅子に腰掛け、果物ナイフを動かしている。
病気にとんと縁のない今生を過ごして来た身としては、静かに過ごせる上に献立も質素な環境は、身体の内側をも落ち着かせる絶好の機会だと考えている。
というのも、祭りで人と連れ添って歩いているときに、何も食べない人間が居たら、どうしたって遠慮するだろう。気にしなくていい、と云わせること自体が気を遣わせているわけで。気心が知れた仲であれば、理解は得られるものの、親しき仲にもなんとやらで、食べ歩くことに否はない。美味しいものばかりであるし。
けれど、連続して催しが開かれることも珍しくない百鬼夜行は、その数だけ誘惑も多分にある。そんな生活を続けていたら、胃や腸の負担が大きい。濃い味付けは舌や心を満たしてくれるが、美容とすこぶる相性が悪いのだから、ままならない。
「りんご剥けましたよ」
「ありがとうございます」
うさぎを模した耳が、皮で再現されている。
口元に運び、耳だけを咥えて、そのまま千切った。
皮からほんの少し染み出た甘味と酸味は、実を齧れば、その比ではない。小気味良い歯触りと瑞々しさに、頬が緩む。噛む度に、果汁が口いっぱいに広がった。
水羽さんが目を細めた。
「なんでうさちゃんをそんな食べ方するんですか……」
「とても可愛らしくて、つい」
特に意図はなかったのだけれど、思ったことを云ってみる。
視線に非難めいたものが混じった。
皿に積まれた、うさぎ耳にする過程で余った皮を摘み、咀嚼する。
「食べ辛かったなら、仰ってください。次からは、普通に切ります」
「次もあるんですか」
「……りんご、もう一ついかがですか」
「お願いします」
流れるように指が動けば、二個目のりんごも、うさぎに早変わりしていった。
次の機会はあらためて、ということらしい。
彼女も果物ナイフを置いて、うさぎをひと口。お尻から食べる派のようだ。
「あ、美味しい」
ですね、と頷いてから、僕は避けておいた新聞――二紙ないし三紙ほど買って来て貰った――のうち、一つを手に取った。
小さく広げ、裏返す。
紙面には、写真が載っている。
長い、長い黒髪の生徒が、鱗柄の小振袖を身にまとい、微苦笑を浮かべたまま人々の頭上で運ばれている姿が写っている。
裏返す拍子に写真が見えたのだろう。
白く細い首が嚥下の動きをしたのち、言葉が発せられた。
「お神輿みたいです、アマヒコさん」
「完全にあの場のノリだよねえ、これ」
互いに、苦笑を交わす。
山鉾巡行を含んだ一連の催しは、メディアに報道される程度には有名だ。それこそ、僕が百鬼夜行の自治区に移り住む以前から、ぼんやりと催しの内容を記憶に留めるぐらいには。ご多分に漏れず、あの場には観光客のみならず、報道陣も詰め掛けていた。そんな状況で、怪我人が出るような騒ぎになれば、どうなるか。想像に難くない。山鉾が倒れかけた時点で、もう騒ぎになることは止められない。カメラにしっかり映っているだろうし、携帯端末で撮影をしていた者も居ただろう。
なら、方向性を変えてやればいい。
『百鬼夜行の伝統的なお祭りであわや大惨事』よりも、『前代未聞。伝統的なお祭りで山鉾を蹴って負傷』と、間抜けな人間がやらかしたことにした方が、長期的に見てもましだろう。このときのポイントはあくまでも、誰かを助けるためだとか、そういったヒーロー染みた活躍で紙面を飾らないことだ。いっときは美談として語られても、悲しいかな、粗を探したときに格好の的になる。
例えば、僕ならこう云うだろう。
『善意ある若者が怪我をしてまで人を救ったというのに、喉元を過ぎれば、熱さを忘れるとはこのこと。そのような事態を起こしてしまった不祥事を忘れて、浮かれるのか』と。
一転して、誰かを貶める類の記事は大衆に広まる速度が段違いであり、また、一度広まった印象を覆すのは難しい。
あの場に居た民衆や、都合の良いように加工されていない映像を見た者は違う感想を抱くだろうが、大抵の人は、興味がなければ、碌に調べることもしない。山鉾を神輿と勘違いしていた、僕のように。
『今年は去年のようなことにならないように、細心の注意を払いましょう』で済むわけだ。
そう単純な話ではないかも知れないけれど、連日に渡る報道でもされなければ、問題ないだろう。
来年も憂いなく、とまではいかないにせよ、開催中止の声はいまのところ上がっていない。
「結いましょうか?」
「すみませんね。お願いします」
「かしこまりました」
新聞も三紙目に移ろうとした辺りで、影を落としていた前髪に気づいた水羽さんの提案に頷けば、指が髪に割って入った。
くすぐったさを感じたのは一瞬で、ほどなくして、心地良さに変わる。
再び、読み進めていく。
やはり、あの一件は大きく取り上げられていないようだ。
これもひとえに、観光文化産業広報支援部の尽力が大きいと思われた。
桑上先輩は、最後まで眉を顰めていた。だからこそ、火消しに力を入れていたのだろう。優しい人だと思う。この一件の処理は、僕と天地先輩の間で話は済んでいた。事故を未然に防ぐのが最良とはいえ、起こってしまったことは仕方がない。そう、割り切っていた僕に苦言を呈したのもまた、桑上先輩だった。
『私が云えるようなことではないことは、重々承知です。むしろ、お礼を云うのが筋だとも、頭では理解しています。ですが、アマヒコくん。貴方も、百鬼夜行の一員であり、一部なんです。特に今回のような、人の悪意を利用するような手段は、辞めましょう。これは、先輩としてのお願いです。……お説教みたいになってしまって、ごめんなさい。大事なく終われたのは、アマヒコくんのおかげです。あらためて、ありがとうございます』
本当に、頭が上がらない。
入院の経緯も、
ほとぼりが冷めるまでゆっくり過ごせ、と。
とはいえ、施しを受けたのは病院の紹介までだ。費用は自己負担であり、あくまで中立という陰陽部のスタンスを物語っている。桑上先輩も、一個人に肩入れはできないながらも、こうして美味しい
無論のこと、病床には限りがあるため、出て行けと云われたら、さっさと出て行く所存だ。
気になる記事はないものかと探す。
ある部活は、美食への冒涜だと飲食店を爆破していた。
ある部活は、温泉開発と称して建造物を撤去していた。
ある生徒は、反社会的な組織の事務所を破壊していた。
いずれも、百鬼夜行自治区内で起こった出来事ではないようだ。
特段、心を惹かれる話題もなかったため、新聞を畳んでいると。
カーテンが揺れ、窓枠の隙間から滑り込んだ風が、肌を撫でた。
微かな違和感を覚えてから、思い至る。
ああ、風鈴が吊るされてないから。
透明な音色は、風の訪れをいち早く報せてくれた。
違和感を覚えてしまう程度に、慣れ親しんでいた。
そう考えた途端に、妙に落ち着かない気分になった。
「夏野菜、食べたいな」
自然と言葉が
縁側に腰を下ろし、桶から冷えた野菜を取り出して、かぶりつく。
そんな光景を脳裏に描いた。
「とまと、きゅうり、茄子、ピーマン、オクラ、みょうが辺りかなあ」
「いいですね、お野菜」
旬の野菜を思いつくだけ挙げていると、椅子に座り直した水羽さんが、口元を綻ばせた。
座る直前に、さりげなく、スカートの腰周りがずれていないかを確かめていた。
そこから伸びた肌色は、いま無防備に晒されている。
清潔に保たれている床の白さよりも、よほど眩しい。
「なにを作られるんですか」
「はい? いや……」
太腿を見ていたら、反応が遅れた。
「え、あっ」
柔らかな髪が揺れる。
視線が合うと、水羽さんは先ほどとは違う種類の笑みを浮かべた。
頬は僅かに赤らんでいるものの、目元が笑っていない。
「アマヒコさん?」
「ごめんなさい、つい」
「なんでこういうときは誤魔化さないんですか」
両手でスカートの裾を握り、恥じらうように口にしたかと思えば、
「今日は、暑いですね」
何処かまんざらでもなさそうに、楚々と居住まいを正し始める。
「もしかして全部、生で食べるんですか」
「はい。冷やした野菜を、塩だけで食べるのが美味しいんですよ。そんな顔しなくてもいいのでは?」
頬に白さを取り戻した水羽さんからの質問に答えると、彼女は曖昧に唇を曲げた。
「その、てっきり面倒だから、という理由なのではないかと疑ってしまったものですから。ピーマンも生で食べるんですね」
「新鮮なものだと苦味や青臭さが比較的少なくて、美味しいですよ。偶に外れを引いて、後悔しますが」
「目利きはされないんですか?」
「ピーマンに限らず、野菜は新鮮なものがあるかどうか、毎回訊いてます」
「……云われてみれば、買い出しでご一緒する際は、私が選んでいましたね。新鮮なものが買えた日は生で食す、ということでしょうか。良いですね、お料理だけではなく、そういった楽しみ方も」
「いえ、いつも生で齧ってます」
「やっぱり面倒なだけじゃないですか!」
きゅうりとオクラは、表面に塩を塗したまな板で擦ってやらないと食感がよろしくないし、みょうがも、根元の茶色い部分を切る必要がある。茄子は、アク抜きが欠かせない。尤も、水茄子ならアク抜きは不要だ。
手を抜いているわけではなく、生で美味しく食べられるよう、下拵えを行っているという主張は黙殺された。
水羽さんとは、沈黙が苦にならない間柄であったと記憶している。
静けさに焦燥を覚えるだなんて、随分と久しかった。
「加工せずとも、充分に美味しいってだけですから」
我ながら、云い訳がましい響きであることは、百も承知だった。
にもかかわらず、思わず言葉を重ねてしまっていた。
水羽さんは、細まった目でしばらく僕を眺めていたが、ため息を零す。
「アマヒコさんは、女の子がお化粧やネイルをしていたら、加工されていると仰るんですか」
「そんなことは思いませんよ。それなら、僕は全身加工しているようなものですし。例えるなら、かまぼこです」
「では、かまぼこさん」
「はい」
僕はかまぼこになった。
修行したら、忍術を扱えるかも知れない。
「人の手を加えないうつくしさは勿論あります。けれど、手間暇を掛けてできたものの素晴らしさは、私たちの修行でも実感されている筈では?」
ぐうの音も出ない。
事実、百鬼夜行で手間暇を掛けて生まれたうつくしさや贅沢に、僕は魅了されている。
「ぐう」
「ぐう、じゃありません。……簡単に、食生活は矯正できませんよね」
不穏な響きがつけ加えられた気がしたけれど、気のせいだと思うことにする。
僕は、何も聞いていない。
「将来、アマヒコさんと過ごされる方は、困ってしまうと思います」
「そうですかね。楽できるんじゃないかと。食べたいもの訊かれたときに、何でもいい、とは答えませんし」
「いえ、そういうことではなくてですね」
水羽さんは目尻を優しく下げて、苦笑混じりに云う。
「お相手からしてみれば、不安に感じると思います。お野菜にお塩だけを漬けて食べる姿は、人によってはお料理が不要と受け取ってしまうのではないでしょうか」
「美味しいからやっているだけなんだけどな」
「はい。ですから、ちゃんと言葉で伝えるようにしてあげてくださいね」
「いつもありがとうございます」
「――アマヒコさん?」
「すみません」
声が極めて、平坦だった。
「申し訳ないとお思いでしたら、気の回し方を考えてください。……今後も
「お手柔らかに。ありがとう、ほんと」
「はい」
水羽さんは次いで、視線を僕の右脚に移した。
じっと見つめていたものの、それだけだ。
自然と、僕と水羽さんは見つめ合った。
彼女の澄んだ瞳の前では、自身がそのまま映し出されている錯覚に陥る。
そこからは、また沈黙が続いた。
今度のそれはむず痒い。
しかし、先ほどよりも穏やかな心持ちでいられた。
「そういえば、何も云わないですよね」
入院してから、今日で三日経っている。
踏ん張りの効かない空中で、数トンはくだらない山鉾を蹴った割には、ひびが入る程度の軽症で済んだ。昔は、木から落ちる日常を送っていた。骨折ないしひびなら直ぐに治るだろう。
経緯は春日さん経由で聞いているであろうが、直接的に訊ねられたことはない。最初に病室へ顔を出したときも、足の調子を訊かれただけだ。
それからは見舞いのみならず、家を空けている間の部屋の掃除や、着替えを持って来てくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いて貰っている。
虚を突かれた。
水羽さんが浮かべた表情は、ほどなくして温かみのあるものへと変化した。
弟を見るような眼差しだった。
「どうしました」
「ごめんなさい、びっくりしてしまって。アマヒコさん、わかり切ったことを訊かれることが、苦手だと思っていたものでしたから」
「僕は逆に、水羽さんは訊かれるタイプだと思っていました」
「そうですね……アマヒコさんに出会う前なら、訊いていたかも知れません。どうして、と」
考えを搾り出すように、彼女は言葉を続ける。
「けれど、どうしてでしょう。きっと、アマヒコさんがそういうお人だと知っているから、でしょうか。だって、悪いことだと思っていないんですよね、アマヒコさんは」
積み重なった新聞紙から、僕が映ったものを取り出す。
「思うところはあります。わざわざ個人の印象が悪くなるような記事に仕立て上げる必要は、なかったのではないでしょうか。なにかお考えがあってのことで、それはきっと正しいことなのでしょう。大きい目線で、百鬼夜行自治区として見たときに、今回はこれが最善だと思われたんですよね」
水羽さんは噛んで含めるように、問いかけて来た。
「でも、それは――アマヒコさんのお仕事じゃないです」
「…………」
「意外ですか? 私だってその場に居たら、なにかできないかと動いていたと思います。せっかくのお祭りで事故や怪我なんて、痛ましいことには違いありませんから」
ですが、と言葉を打ち切った彼女は、花びらみたいな唇から、微笑を枯らした。
きつい表情が似合わない顔立ちなのに、眉根を寄せて、口元を引き結ぶ。
「それ以上に、私は私の好きな人たちが怪我をするのは、嫌です。ツバキちゃんやシズコちゃん、アマヒコさんもです」
「……そっか」
「アマヒコさんはわかった上でやっていて、謝りません。そんな人に言葉を掛けても、意味がありません」
「容赦ないなあ」
「見知らぬ方々に誤解される状況を、率先して受け入れているどころか広めている人に対して、なにも云うつもりはありませんでしたから」
水羽さんは丁寧に、唄うように言葉を投げる。
あまりの容赦のなさに、躱す余裕もない。微苦笑を返す以外にできなかった。
新聞を置いた彼女は、静かにまぶたを閉じる。
「ですから、これ以上はなにも。貴方が勝手に周りから誤解を受けていたとしても。私も勝手に押しかけて、勝手にお世話をするんです。だから、いいんです、それで」
「……僕が云えた義理ではないですが。水羽さんは意外と図太いですよね」
「当然です」
ささやかな――却って女々しいとまで評されそうな――抵抗に、むしろ水羽さんは胸を張った。
「周りの目を気にしないことに掛けては――アマヒコさんだって、ツバキちゃんに敵いませんから」
なんともまあ、説得力に満ちていた。
春日さんがこの場に居たら、どや顔をしてくれそうだ。
好きなことを好きにやっている人と、過ごして来たからこその台詞だった。
「春日さんの、親友だもんね」
「はい。自慢のお友達です」
それは敵わないな、と僕は降参の意を示すため、両手を挙げるのだった。