病葉アマヒコはキヴォトス人。   作:ザントマン

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 一目で、それとわかってしまう状態だった。

 

 昨年の冬だった。眠るように、池底で横たわる鯉の姿が撮影された。

 

 眠り病、と呼ばれている。

 

 発症に至る原因は、はっきりとわかっていない。

 感染症や寄生虫症、水温の急変等の環境変化が引き金になるケースが多いと考えられている。

 麻疹のようなもので、一度罹ったあとは免疫が作られるため、二度と発症することはない。致死率は高いが、発症前に治療に取り掛かりさえすれば、感染しても問題ない病である。

 新たに鯉を育てる場合、眠り病を経験した鯉から感染させて故意に免疫を作る。もしくは、既に眠り病を経験している鯉を購入し、池に放つ必要がある。

 

 購入したのは、眠り病を経験した鯉たちの筈だった。

 しかし、庭園部から齎された記録は、眠り病を裏付けるものばかりだった。

 

 悪質な業者に騙されたのだと悟った。

 

 庭園部は勿論、カホも手を尽くしたが、絶望的だった。

 けれど、奇跡が起きたのか、献身が実を結んだのか。

 

 鯉たちは欠けることなく、春を迎えた。

 

 

 

 陰陽部副部長兼観光文化産業広報支援部戦略リーダー。

 

 なんとも大仰で舌を噛んでしまいそうなそれが、カホの肩書きだ。

 

 観光文化産業広報支援部の活動内容は、さぞイメージがし辛いだろう――陰陽部も、大して変わりないけれど――と、カホは思う。

 

 読んで字の如く、観光文化産業の広報支援を行う部活動である。とはいえ、そんな風に返されたところで、首を捻ってしまうだろうし、具体的ではない。

 

 何を以って、広報なのか。単に情報を発信することが、広報活動なのか。それを行うために、どんな媒体や手段を用いるのか。なまじ想像できてしまうことが、却って漠然とした印象をもたらしている。

 

 はじめは、カホもそうだった。

 

 広告やプレスリリースの違いについて、理解は浅かったし、精々がメディアに取り上げられるよう、魅力的な情報の発信や記事を作ることに注力する程度の認識しか、持ち合わせていなかった。それらは間違いではないが、数ある広報支援活動の、ほんの一部に過ぎない。

 

 観光文化産業広報支援部戦略リーダーとしての、カホの業務内容は多岐に渡る。プレスリリースの叩きの作成――場合によっては仕上げまで行う場合もある――に始まり、各メディアとの関係の構築や維持、ひいては配信の提案、実施。動画の企画に制作、キャスティングの検討。SNSの運用、それを通じて発信する情報の選別。提携先企業から社内広報への取り組みに関する相談及びアドバイス等々。

 

 あくまで、ほんの一例である。これらに加えて、カホは陰陽部の業務もこなす。足早に動く彼女の姿を、生徒たちは度々見かけている。空いた時間も、専らニヤに付きっきりということもあり――なんなら、その間に別の仕事を片付けていたりする――自由な時間というものは、ないに等しい。

 

 人に訊かれることがある。

 

 どうしてそんなに頑張るのか、少しぐらい休んでも誰も文句は云わないだろう。

 

 それはきっと、善意からの言葉なのだろう。

 

 部長より部長らしいなどと揶揄される程度には、働いている自覚はあるけれど、彼女はそれを辛いだとか、苦しいと思ったことは、あんまりない。

 

 確かにニヤを筆頭に、学院に所属する生徒たちの予想もつかない行動によって、引き起こされる騒動の後始末であったりだとか、被害総額に目を剥いてしまうことは多々ある。控えて欲しいと切に願っている。

 

 しかし、広報活動についての辛さを、ましてや苦しみを感じたことなんて、一度たりともなかった。

 

 趣味――百鬼夜行の広報、グッズ集め。

 

 桑上カホにとって、それを取り上げられることは即ち、死そのものであると云っても、過言ではないのだ。

 

 

 

 その日のカホは、忙しなかった。

 

 カホは月に一度、必ず観光名所に赴き、自らの目で確認するようにしていた。提出される書類は当然、目を通していたが、実際に観光に訪れる人々の目線に立って回らなければ、意味はないと考えていた。

 

 歴史のある建造物で気になるのはやはり老朽化や、管理体制だろう。それらを詳細に見聞きし、問題が発生した際は、相談に乗りつつ、対策を考える。

 

「定期便を、絶対に遅らせてはなりません! 作業に着手できる時間は十五分です! 皆さん、事故や怪我のないようにお願いします!」

 

 観光用のケーブルカーにて、急遽、部品の交換作業が必要となった。

 報告を受けたカホは現場に到着後、ヘルメットを被り、声を張り上げていた。

 

 作業が長引けば、運行に影響が出る恐れがある。

 

 仮に運行に支障が出れば、広報活動用のSNSアカウントで、いち早く情報を発信しなければならない。

 情報の輪郭は、現場から遠ざかるほどに曖昧になる。

 観光文化産業広報支援部戦略リーダーとして、どんな些細なことであっても、見逃すわけにはいかなかった。

 

 ケーブルカーの発車は二十分おきで、本数は少ない。そのため、乗り込む客は多かった。座ることができる者は一握りで、殆どの乗客は立っている。始発から終点ならまだしも、途中降車の際は、それらの人波をかき分ける必要があった。一本の遅れであっても、軽視はできない。その間も、駅に人々は集まるからだ。

 

 カホは素人だ。現場に居たところで、役に立たない。大声を出したところで、作業が早くなるわけでも、技術が向上するわけでもない。むしろ切羽詰まったそれに引っ張られて、作業員のミスを誘発しないかと、考える者が居たとしてもおかしくない。

 

 だが、ある種の越権とも取れるカホの行動に、誰も異を唱えることはなかった。

 

 彼女の、百鬼夜行へのひたむきな情熱を知らぬ者は、この場に居ないからだ。

 

 交換作業自体はつつがなく完了したものの、カホは自ら車両に乗り込み、安全と走行状態の確認を終えるまで、離れなかった。

 その後に開かれた、ケーブルカー運営、ヴァルキューレ警察学校、消防学校の合同訓練を見学した彼女は、本来予定されていた、大庭園の視察に向かうことにした。

 

 麓に下り、電車に乗ったカホは端末を取り出した。モモトークを開く。時刻は昼を回っている。着信の数は、十を軽く越えていた。その全てに目を通し、急を要するものは手早く指示を投げ、それ以外にはスタンプを送る。既読はつくのだけれど、テンポ良く押すのが楽しいから、なんとなくこうしている。

 

 冷房の効いた車内は、陰陽部の本館と比べて、よっぽど涼しい。

 対面の窓には、百鬼夜行の町並みが映っていた。

 マンションにアパート、大型駐車場。職住一体となった木造の家々が、やはり目立った。

 おすすめの物件を訊かれた際、カホはマンションを勧めている。

 なんの面白みもない回答だ。

 せっかく趣のある町屋が並ぶ百鬼夜行にあって、マンションとは風情がない。

 けれど、雰囲気に酔って実利を捨てさせる真似は、百鬼夜行を愛しているからこそ、避けたかった。

 

 町屋ほど、住むのに根性が要る建物はない。

 

 いまの時期は、特に暑い。襖や障子を全て外し、御簾や葦戸に代える。夏のしつらえに憧れを抱く者は居ても、実際にやってみると、傍目からは涼しそうに見えるだけで、暑いものは暑い。うなぎの寝床のように、風が通らない。そして、冬は冷たい。土間は靴を履いていても、足の裏から冷たさが這い上がって来る。氷の上に立つようなもので、暖房をつけても足りない。掃除だって大変だ。掃除機だけでは、艶が失われる。雑巾がけは必須だった。

 

 過ごすだけなら、まだいい。けれど、暮らすとなれば、話は変わる。

 

 カホですら、マンション暮らしなのだ。

 

 降車駅の到着を知らせるアナウンスに従い、カホは立ち上がった。

 駅のホームに降りた途端、身体を熱気に洗われた。人混みに揉まれるようにして、階段へ向かっていると、ホーム沿いに構えられている店が目に留まる。

 

 立ち食い蕎麦。

 

 くぅと、腹の虫が小さく鳴いた。

 

 人波に逆らうカホに、視線が飛び交う。

 迷惑そうに見られていてもおかしくないが、観光に訪れている人々だからか、表情は明るかった。

 カホは小刻みに会釈を繰り返しながら、食券売機の前に辿り着く。

 顎に手をあてて、吟味する。常であれば、背後に人が居ないかを確認しなければならない、そんな時間。

 しかし、こと百鬼夜行では、それが当てはまらない。

 単にグルメが有名なこの自治区で、わざわざ駅のホームにある立ち食い蕎麦で昼食を摂ろうと考える者は少ない、というだけのことだ。事実、店内は空いていた。

 電子板をじっと見つめる。蕎麦か、うどんか。盛り合わせは、何にするのか。カホはほんのり顎を引いて頷くと、指を動かした。食券が二枚吐き出される。

 店に入ると、室温は外とほぼ変わらない。店番をしていたのは、犬の獣人だった。

 カウンターに食券を置いた。

 

「蕎麦でお願いします」

「はあい」

 

 コップを手に取り、給水機に向かう。ボタンを何回かに分けて押し、勢い良く出る水をなみなみと()ぐ。

 入り口から気持ち遠い、給水機からも離れた位置に移動したカホは、手のひらから伝わる水の生温さに、人知れずしょげた。

 

「お稲荷さんどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 先に出て来た稲荷寿司を、カホはあっという間に嚥下した。油の甘さがまだ口の中に残っているうちに、メインが現れる。

 

「コロッケ蕎麦です」

「はい」

 

 湯気の立つ器を受け取り、七味唐辛子を数回振りかける。

 備え付けの薄汚れた布巾で、テーブルの上を拭き取る。

 これで準備は整った。

 暑い中、熱いものを食べるのも、乙なものだろう。

 割り箸を手に取った。

 

「あひゅっ」

 

 舌を火傷した。

 

 

 

 駅を出た直後、陰陽部の後輩から連絡があった。

 

「プリンターから紙が出ない……ですか」

 

 カホは額に浮かんだ汗をハンカチに吸わせて、空を仰いだ。

 

 必要書類の印刷をしたところ、紙の出力がされず、困っているとのこと。

 歩きながら、紙のサイズや不足、プリンター名の誤りといった些細なミスを疑った。電話口の彼女は一つ一つ確認しては、申し訳なさそうに、不備が見当たらないことを伝えて来る。

 

 プリンターの故障だろうか。

 

 続けて、エラーメッセージの有無を訊ねた。

 プリンターにはなかったが、作業中のPCに表示があったそうだ。

 メッセージの内容を口頭で云われても、いまいち頭に入って来ない。

 カホは写真の添付を頼んだ。通話を切り、道の端に身を寄せる。

 駅からそう離れていないこともあって、通りはそれなりの賑わいを見せている。

 こんなときばかりは、自身の大きな身体が恨めしい。

 長身のカホは頼りない日陰に収まり切れず、はみ出してしまう。

 

 しばらくすると、端末に画像が送られた。

 撮られたPCの液晶画面に、メッセージの表示がされている。

 プリンターに接続されていない、といった旨の内容だ。

 カホは端末のブラウザを開き、目と指を動かした。

 通話を掛ける。

 

「もしもし、お疲れ様です。いま送ったサイトの――」

 

 対処法を打ち出した。一つ、二つ。また一つ。

 トライアンドエラーを繰り返す。改善は見られない。

 時間だけが過ぎていく。

 カホの表情は、憮然としたものに変化していた。尤も、本人からしてみれば、いまこのときに業者を呼ぶか否か、真剣に検討しているだけだ。

 所在なさげに、視線を彷徨わせた。

 意図めいたものはない。視覚情報から得る刺激が、この状況を打破するアイデアを生んでくれることに、無意識下で縋った結果でもある。

 とはいえ、それは功を奏した。

 

 病葉アマヒコが歩いていた。

 

 かつて背中に流したままだった髪は淡く輝き、品良くアップスタイルにまとめられている。

 透き通った肌と頰には、それで充分だと云わんばかりに、最低限の化粧が施されていた。

 

 真珠めいた色合いの瞳が、カホを捉えた。

 会釈をした彼は、そのままこちらへと歩いて来る。

 身綺麗さに対する意識が、所作に表れていた。

 

「こんにちは。桑上先輩」

 

 夏の日差しの中、瀟洒な朱色の長羽織をしているのに、表情は涼しげだった。

 手から下げたビニール袋の中身は本のようだ。厚みからして、一冊ないし二冊ほど入っているように、カホからは見えた。

 

「アマヒコくん。こんにちは」

「この辺りで見かけるのは珍しくて、つい、声をかけてしまいました」

「今日は、月に一度の視察なんです」

「大庭園ですか。この近くだと」

「ええ、そちらに向かう予定です」

「……電話の途中みたいですけれど、誰かと待ち合わせですか?」

 

 アマヒコが、辺りをそれとなく窺う。

 人の往来は激しくはないが、待ち合わせには不適切な場所だった。目印となる建物も、看板も見受けられない。

 行き交う人々は、視線を投げかけて来る。

 

「暇ですし、目印になりましょうか」

 

 聞き馴染みのないフレーズにもかかわらず、アマヒコが云うと、説得力は段違いだった。

 カホは首を横に振った。

 

「連絡がありまして。陰陽部で使用しているプリンターから、紙が出なくなったみたいで」

「故障ですか。修理業者呼んだ方がいいですよ」

「それは、そうであれば、そうなんですが……」

 

 だらけたような温い風に吹かれながら、カホは経緯を語った。

 彼の節目がちになった睫毛から、淡い光が舞う。

 なるほど、と頷いたアマヒコは「電話を代わっても?」と訊ねて来た。

 

「あ、はい。どうぞ」

 

 携帯端末を手渡したとき、微かな違和感が鼻先を漂う。

 

「ありがとうございます。もしもし、病葉アマヒコと申します。……ああ、いえいえ、偶然通りがかっただけです。そんな、滅相もない。はい、はい。わかってますよ。プリンターの件なんですけど、確認したいことがありまして。あ、その前に前提として訊いておきたいのが、印刷するデータって何処から引っ張って来ていますか? ま、そりゃそうですよね。でも、それは実質、云ってるようなものですよ。別の人は近くに居ます? 隣の人に、いまのPCからログインして貰って、印刷試してみましょう」

「あのっ、アマヒコくん。スピーカーにして貰ってもいいですか」

 

 違和感の正体に考えを巡らせる間もなく、アマヒコが指示を飛ばし始めた。

 解決策が既に浮かんでいるのだろうか。

 カホは、此処から先は一言も聞き漏らすまい、と静かに聞き入った。

 

「承知しました。少しお待ちを。スピーカーにするので……はい、どうぞ」

『印刷試したら、いけた』

「なるほど。いまお隣の方のPCからログインを試して、印刷できます?」

『待って。…………無理、同じエラー出た』

「はい。今度は桑上先輩にも訊きたいことがありまして」

「なんでしょうか」

「PCは個人に支給されていて、基本はそれを使う形ですか?」

「いいえ。数に限りがありますし、使用者にIDを配っています。なので、ログインさえしてしまえば、陰陽部で管理しているPCなら、どれでも使えるようにしています」

「ありがとうございます。今回、データを印刷するために入ったところも、共通ではなくて、個別のIDですよね」

『そう』

「PCのログインと、印刷したいデータが入っているところへのログインは、IDが別ですか?」

『別のもの』

「ログインしたIDと、出力先のプリンターの紐付けができていないんじゃないんですかね」

『それも確認した。合ってる』

 

 アマヒコの指摘に、カホが思わず声を上げかけた直後、それを否定する声がスピーカーから発せられた。

 

「――もう一つ確認したいことが」

 

 やはり業者を呼ぶべきかと迷うカホに、声が割って入る。

 

「そもそもなんですけど、あ、いま電話掛けている方のことなんですけど。個別のIDを二つ、持っていません?」

『……持ってる。でも、ちゃんとIDは合わせてある』

「印刷に使用するプリンターって複数あると思うんですけど、全員、陰陽部の本館で印刷するわけではないですよね」

『うん。私は元々、別館からこっちに回されて来た』

 

 アマヒコは苦笑で応じた。

 

「最初に訊いておけば良かったですね。なら、本館と別館でそれぞれログインIDにグループが紐付いていないですか? 割り振られたグループで、印刷の出力先を管理してるんじゃないかな、と」

『あっ、ごめん。そもそもIDを使い分けている話は、そちらは知らなくて当然。その可能性は……待って。一旦、切る』

 

 しばしの沈黙が生まれ、雑踏がそれを攫っていった。

 ほどなくして、カホが口を開いた。

 

「なんというか、少し、落ち込んでしまいました。色々と訊くべき点があったのに、思い至りませんでした」

 

 ともすれば物思いに沈みそうなカホに、あっけからんとした言葉が返された。

 

「これは知っているかどうか。ただ、それだけだと思いますよ」

「そう、でしょうか」

「というより、桑上先輩がわざわざ手を回すことではないでしょう」

「そんなことは……」

「ない、とは思いませんでしたけどね。最初にシステムを管理してる方に問い合わせたら、こっちに回って来なかったのでは?」

 

 お忙しいでしょうに。

 

「私が些細なことであっても報告が欲しいと、周知していたので」

 

 アマヒコは優美な眉を上げる。

 

「それは、難しい話ですね。本当にプリンターの故障であれば、業務に支障が出るでしょうし。ま、同じようなことが起こったときに、慌てずに済んだ程度に思いましょう。誰も損してませんから。いまのところは」

 

 不思議と、信用してもいい気分にさせられた。

 声色の柔らかさよりも、プリンターの故障そのものは、彼にとって瑣末なことなのだと、態度が告げていたからだろう。きっと自身の手に負えないとわかった時点で、この場をあとにしたに違いない。

 割り切るときの潔さが、ニヤに似ているからだろうか。丁寧な物腰の中に垣間見える雑さは、好ましく映った。

 

 再び電話が掛かって来たのは、十分後だった。

 

『システム保守に確認した。本館行くとき渡されたIDに割り振られたグループの設定が、違っていたみたい。別館になってた。本館に変更して貰ったら、ちゃんと印刷できた……ありがとう、助かった』

「いえいえ」

『今度、お礼する』

「楽しみにしてます」

『カホ先輩、ご迷惑をお掛けしました。すみません』

「全然気にしなくて大丈夫です。あまり、力になれませんでした」

『そんなことは決して。ありがとうございます、移動中に。こちらは作業に戻ろうと思います』

「はい、よろしくお願いします」

『失礼します』

 

 今度こそ、通話が切れる。

 

「ありがとうございます。助かりました」

「いえいえ。桑上先輩は普段から大変でしょうから、この程度は」

 

 携帯端末を受け取ったカホは、立ち去ろうとしていたアマヒコに声をかけた。

 

「あの、よろしければ……今度、お礼をさせて貰えないでしょうか」

「デートのお誘いですか? 普通に嬉しいですけど」

「で、デート。えっ、あ、何処か……次の休務日は確か」

「休みの日は寝るなりなんなり、好きなことしてくださいって。お礼は、そうですね。いまから、大庭園を一緒に回りません?」

「だ、大庭園をですか」

「美人からのお誘いは、断らないようにしてるんですよ。桑上先輩相手なら、尚更ですね」

「また、噂になってしまいますよ」

 

 アマヒコは片目を瞑った。

 

「噂って、どれのことですかね」

「……アマヒコくん」

「気楽に行きましょう。僕が付きまとっていたって感じにすれば、問題ないですし」

「問題しかありません」

 

 こちらに罪悪感を植え付けるような真似を、平然と口にしないで欲しい。

 

「ま、桑上先輩がよろしければですが。どうです? 本はいつでも読めますから」

 

 投げやりにつけ加えられた言葉が、最後通牒に聞こえるのは気のせいではないだろう。

 結局、カホはアマヒコの提案に乗ることにした。彼の心遣いを無碍にすることはできなかったし、機会をあらためて設ける自信もなかったからだ。

 

「そういえば、本日はどんな本を買われたんですか」

 

 ふと、興味本位で訊いてみる。

 

「恋よ鯉先生の『禁断の愛』と、ストリートオブヤンキーの一巻ですね」

「モモトークに感想送ってください存分に語りましょう」

「予想してないところでスイッチ入ったなこれ」

 

 カホはストリートオブヤンキーの大ファンだった。

 

 

 

 築地塀(ついじべい)の外からは、まったく窺い知ることのできない世界が、静かに存在している。

 

「此処だけ、時の流れが違う気がしますね」

 

 大庭園は、百鬼夜行の観光名所の一つに数えられる、池泉(ちせん)回遊式庭園である。何度か訪れているカホでさえ、別の時空に迷い込んでしまったような、何処まで歩いても、庭の果てがない錯覚に陥った。太鼓橋が中央を横断する形で架かっており、池の周りは浜辺のようになっていた。星の数ほどの小さな石が敷き詰められたそこを歩けば、靴底で細かい音が鳴る。

 

「アマヒコくん。何個か、小石を拾ってみてください」

「どれでもいいんですか?」

「はい」

 

 背を向けたアマヒコは、小石を幾つか手に取る。彼が屈むと、燐光の散った髪の隙間から赤い簪が見えた。

 

「大きさも形も、全部同じなんですね」

「なんでも石一つにつき、米を一升与えて集めさせたのだとか」

「こだわってますね」

「大庭園を作った茶人は、ゆったりと雅なものを好んでいたそうです。当時の庭園は趣味に合わなかったらしく、ご自分で趣味を突き詰めたものに改造されたそうですよ」

「改造とはまた豪快な」

「此処以外にも、その方が造営に加わった庭園は、いまも幾つか自治区内に現存しています。歴史館でも紹介されているので、お時間がありましたら、是非」

 

 太鼓橋に向かって、歩みを進める。

「池のぬし」の看板近くで足を止めたカホは、橋から池を覗き込む。

 アマヒコもそれに倣った。

 

 庭池(ていち)で悠然と泳ぐ鯉を目にした者は、まず、その大きさに目を見張るだろう。全長一メートルに近い個体が、そこかしこを泳いでいる。一匹一匹が、ぬしと称されてもおかしくない体躯であり、模様は同じものが一つとしてない。育っていく過程で、色合いや形が変化するのだと聞いていた。まるで百鬼夜行に住まう生徒たちの、個性の輝きにも似たものを感じ、カホは自然と笑みを浮かべてしまうのだ。

 

 泳ぐ宝石とも称される魚を一目見ようと、多くの人々が足を運び、うつくしさに見惚れた。

 

 また、恋愛祈願のスポットとしても名を馳せていた。

 

 鯉と恋を結び付けて考えることは、下手な洒落というわけでもない。鯉の語源は様々な説が唱えられており、恋を由来とするものもある。鯉にまつわる逸話で、最も有名なものは登竜門だろう。出世魚としての名を広めたそれは、誰しもが知るところではある。しかし、他の伝承を紐解いてゆくと、鯉が恋の仲立ちをした話や、人に恋した雌鯉の民話も散見される程度には、縁がある。

 

 カホは色恋沙汰に詳しいわけではないが、恋愛における切った張った惚れた腫れたというのは、誠に厄介だと伝え聞く。

 

 では――桑上カホと病葉アマヒコの関係はどうか。

 

 そう訊かれたとき、カホはなんと答えて良いのやら。

 

「立派ですね。確かゲヘナ鯉との交配で生まれる品種でしたか」

 

 眼下で開口を繰り返している鯉の一匹を指した言葉に、カホは頷いた。

 

 鯉たちは、人懐っこい。

 人を見つけると、乞うように口を開く。

 

「お詳しいですね。何度か来られたことが?」

「実は、三回目です。願書を出した日と、あと受験日にも寄りましたね」

「……その時期は、どちらも冬眠していたと思いますよ」

 

 失念してたんですよ、と微苦笑混じりに返される。

 

「恥ずかしながら、来て早々に帰りました」

 

 その横顔を見ながら、どうして自分に告白なんてして来たのだろう、といまでも不思議に思う。

 

 陰陽部への勧誘をした日、ニヤと息を合わせながら、遊びが足りないと云われたことを思い出す。

 つまるところ、告白は遊びの延長線上の行い、戯れの一環なのだとカホは結論づけた。

 突然、好意を伝えられたことに対して、困惑が大きな割合を占めていたカホにとって、いっそ伊達や酔狂のような行いだとしておいた方が、事実はどうであれ、心持ちが楽であったからだ。

 

 告白の前後で態度を一向に変えないアマヒコに、気まずさと少しばかりの安心感を覚えていた。

 

 以降の交流は、彼が陰陽部に顔を出しては、差し入れを置いて帰っていく際に一言、二言と会話をする程度のもの。連絡先も交換したが、それを盾に迫って来ることもなければ、恩着せがましく何かを要求したこともなかった。

 

 アマヒコが同類だとわかってからは、むしろカホ側が、推し(チセ)に対する思いをモモトークで壁打ちしている始末だ。

 

 先輩と、後輩。

 チセ推しと、シズコ推し。

 告白された者と、告白した者。

 振った女と、振られた男。

 

 カホとアマヒコは、そういった間柄だった。

 

 控えめに笑っていたカホは、視線を池に戻した瞬間、ぎょっとした。

 漂うように密かに泳いでいたのは、数匹程度だった。

 それが、ほんの僅か目を離した隙に、池の緑色を塗り潰さんばかりの群れとなっていた。池中の鯉が集まっているのではと――もしや本当に――錯覚するほど、勢いは止まることを知らなかった。

 静謐な庭園の雰囲気は、瞬く間に霧散した。

 次々と数を増やす鯉を前に、カホが絶句していると、細かい水飛沫が上がった。一匹が跳ねると、それが連鎖する。

 

「餌はあげられないんでしたっけ」

「この状況下でそれですか!?」

 

 目を剥いたカホに、アマヒコは肩を竦めてみせた。

 

「欲しがっていますし。多分」

「餌やりは数年前に、水質汚染を鑑みて、禁止になったんです。それまでは、売店でお麩が買えたんですが……」

「それは残念ですね」

 

 紅白に始まり、赤、黒、白の三原色。緋色や白に染まった宝石たちは、陽光の照り返しによって、更なる彩りを与えられる。

 暴力染みた輝きではあるものの、ゆらりと揺らめく姿と異なる趣があった。

 これだけの数の鯉が集まるのは、餌やりをしているときですら、見られるものではない。

 アマヒコに視線を移す。

 髪から零れ続ける光の粒子が、池に溶けてゆく。魚であっても――民話にあるように、鯉だったからこそか――彼のことは無視できないのだろうか。

 視線を半ば切るように、携帯端末を取り出した。普段は餌がどうしても、全体に行き渡らないときがある。いまの状況は、餌やりに適していた。庭園部の一人に連絡を取ろうと、指を滑らせたときだった。

 

 水面が大きく波打った。いや、盛り上がった。

 

「あ」

 

 集まっていた鯉たちが、散り散りになってゆく。

 カホはなんだか、嫌な予感がした。

 いや、興奮もあったかも知れない。

 なにせカホは広報活動の一環で、グッズ化に携わっている。その威風は、過去の記録を通して、頭に入っていた。

 白地に赤と黒が散りばめられた一際大きい身体と尾鰭が浮上した。

 カホは反射的に携帯端末を構えた。カメラを起動する。

 

「ぬし様っ!?」

「おお、大きいですね。あ、ちょ、まず。先輩、離れましょ……力強っ」

 

 一メートルを優に越える巨大鯉が、跳んだ。

 

 そして、重力に従い、落ちた。

 

「きゃあああああああ! っ、あ……きゃっ」

 

 衝撃で巻き上げられた池の水が、二人を襲った。

 

 

 

 カホは一心不乱に、一つの動きを繰り返した。

 頭をただ、下げる。連動して、獣耳が動く。

 

「ごめんなさいアマヒコくん。本当にごめんなさい」

 

 庭園部からタオルを借りたカホは、アマヒコに差し出した。

 

「や、本が無事でしたし。あと、桑上先輩も」

 

 逆の立場であれば、本や漫画を優先するだろうから、ついでのような扱いに対して、異論を挟む気はなかった。

 

「このタオル、めっちゃ水分吸ってくれますね」

「立て替えますので、是非持ち帰っていただければと」

 

 無頓着なのか、それを装っているのか。

 彼の言葉を、カホは額面通りに受け取ることはできなかった。

 

 カホが濡れなかったのは、アマヒコがその腕の中に庇ったからだ。

 

 短い触れ合いであったものの、細身ながらも自身とは違う身体つきを服越しに感じたカホは、思わずアマヒコを突き飛ばしてしまった。

 池に落ちかけたアマヒコの腕を掴んで引き揚げられたのは、見えない力が働いていたとしか思えない。彼の留められていた髪が、釣竿よろしく池に垂らされるだけで済んだのも、不幸中の幸いと云える。池に落ちるよりはまし、という度合いの話で語るならば。そもそもカホがぬしに気を取られることなく、あの場から動くことを選んでいたら。

 

 けれど、例え濡れたとしても、カホはあの姿を間近で目にすることに躊躇いを覚えていなかっただろうし、ああ、もう……。

 

 故意ではなかったからと云って、開き直れる筈もない。鯉だけに。喧しいですよ、カホ。

 

 異性に抱き留められるという体験は、生々しかった。

 残ったのは、生臭い髪を拭う彼に対する申し訳なさだ。

 炭が塗られたような髪の艶めかしさを維持するのは、並大抵のことではない。

 それを鯉の住む――汚い話になるけれど、糞や寄生虫のある――池に浸けてしまったわけで。

 もう少し、不満だとか、マイナスの感情を表に出してもいいのではなかろうか。

 表情が変わらないわけではない。呆れ混じりの態度を見たことだってある。

 にもかかわらず、戸惑いを思い出してしまう。

 

 カホの知る限り、その笑みが翳った場面を見たことは、おそらくない。

 常に微笑を、あるいは苦笑を刻む顔は、波紋一つ鳴らない池のようだというのは、些か詩的に過ぎる表現だろうか。

 

 カホが庭園部との定例会議を控えていたため、解散の流れとなった。

 

「アマヒコさんに、カホさん?」

 

 入り口に差し掛かった頃合いに、澄んだ鈴の音のような声がかけられた。

 門の外で清楚に佇む彼女は、穏やかな眉を怪訝そうに寄せる。

 

「水羽さん」

「珍しい組み合わせですね? いえ、そうでもないのでしょうか」

「ミモリさん、こんにちは」

「こんにちは。カホさん」

 

 垂れ目の彼女が笑みを湛えると、花が綻ぶようだ。

 綺麗なお辞儀をしたミモリの手には、買い物袋がある。

 そのまま話し始めた二人の空気に混じる匂いを、カホは知っている気がした。

 なんだろう、と記憶を探る。

 

「では、桑上先輩。ありがとうございました」

 

 カホは頷いた。

 

「こちらこそ、あらためてありがとうございました」

 

 謝罪を最後につけ加えたのち、彼らを見送る。

 ごく自然に、アマヒコはミモリの手から買い物袋を取った。

 二人はカホに背を向けて、歩いていく。

 

「今日の夕飯はなんですか」

「豆腐ハンバーグにしようと思っています」

「いいですねえ」

「はい、期待していてください」

 

 連れ添って歩く背中を見つめていたカホは、感じていた違和感の正体を理解した。 

 

 アマヒコの腕の中にあったとき。

 鼻先を撫でたのは、包み込むような桜の香りだった。

 

 ミモリがハンカチを取り出している姿が見えた。

 アマヒコの髪を一房手に取り、押し当てている。

 彼は、されるがままだった。

 二人の顔は見えない。だが、会話はまだ聞こえた。

 

「あと、アマヒコさん。その、生臭いです」

「あの……女の人からのそれ、結構傷つきますからね?」

「アマヒコさん、臭います」

「より殺傷力上がってるからそれ!」

「家に着いたら、まずはお風呂を沸かしましょう」

 

 カホは柔く、微笑んだ。

 

 これまで何度か、アマヒコと近い距離で接することはあっても、短い時間だ。

 香水の匂いが移るなんてことは、ない。

 

 遠い。

 

 ほんの少しだけ近づいてみて。

 カホはより一層、そう感じるのだった。

 隔たりを覚えなくもない。

 同時に湧き上がったものもある。

 怒りか。嫉妬か。それとも、寂しさ?

 どれでもない。

 

「よかったです」

 

 安堵だ。

 

 誰にとっても、百鬼夜行が居場所であって欲しい。

 それは喜ばしいことなのだ。

 

 カホはぐっと背を伸ばし、踵を返した。

 

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