ベアトリーチェ(ゲマトリア)、キヴォトスにて   作:ふぁっしょん

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昔、ベアトリーチェがキヴォトスに訪れたばかりの頃の話。


ベアトリーチェ(ゲマトリア)、過去のアリウス自治区にて

 ベアトリーチェは自らを浅学非才の身であると知っていた。

 どういう経緯でそれを知ったのか、などということは重要ではない。

 ここにおいて重要なのは、ベアトリーチェというひとりの大人が、それを知ってなお諦めきれなかったという事実のみである。

 

 つまり、彼女にとってあらゆることは自らの信念の下部にあった。

 キヴォトスに訪れるため、外の世界で培ったあらゆるものを捨てる必要があったが、一切迷わなかったのもそのためだ。

 どうすれば、自らを最も高きところに置くことができるのか。

 その命題のためならば、すべてを投げうつ覚悟があったのだ。

 

 だが、その都市を真に理解したとき、ベアトリーチェは迷った。

 この素晴らしい努力の結晶を、本当に壊すべきだろうかと。

 それはキヴォトスの地表世界にある都市のことではない。

 アリウス自治区という、秘匿された地下都市のことだった。

 

 

 多くの人は語る。

 幸福とは良いものである、と。

 なにごとにも代えがたい、などと。

 そのためならばものを投げうつ価値がある、とも。

 

 しかしその都市を奥深くまで理解すれば、そんなことは思いもしなくなる。

 内乱が何百年と続く地下都市と聞けば、混乱と混沌を思うだろう。

 しかしそこには秩序があった。

 このままであれば滅びることがないという秩序が。

 

 

 ベアトリーチェは知っていた。

 外敵のない閉鎖された世界に、自給できるだけの食料と、繫栄できるだけの生物と、奪い合わずとも十分な土地があった場合、その世界は緩やかに衰退し滅びるということを。

 いくつもの実証実験や例があった。

 しかしアリウス自治区は数百年閉鎖されていたにもかかわらず、滅びていなかった。なぜか。

 

 不平等だったからだ。

 食料を奪い合わなければならないように、富の格差を生み出し。

 生活が満たされないように、若くして死にゆく人々を用意し。

 土地が人々の手を流転するように、内乱による権力の移行と混乱を維持させていた。

 一種の芸術とすらいえた。

 

 なぜ、これだけの芸術作品が、時間という滅びに屈せず残っているのか。

 ベアトリーチェは学者ではないが、興味を持たざるを得なかった。

 その観察のすえ、ミメシスという現象への理解など、いくつもの知見が生まれたのだが……

 それはさておき。

 やがて理解した。

 これはユスティナ聖徒会と複数の知者が主導して編み出した努力の結晶であることを。

 

 

 彼女らはアリウス分派と称されたひとびとを逃がすことに成功した後、ある問題にぶつかった。

 閉鎖された地下都市であるアリウス自治区は、あらゆるものが満ち足りていた。

 食料も土地も、人民の心ですら、満ち足りていた。

 だからこそ滅びへ向かっていた。

 人々は満足し、あらゆる進歩をやめ、出生率は激減し、すべてにおいて緩やかな、されど確実な衰退がはじまっていた。

 

 そこで、彼女らは悟ったのだ。

 乾きがなければ、この都市は滅びるということを。

 

 様々な技術を活用し、自らの生み出した戒律をもとに、限定的な状況ながらミメシスを生み出すことで、富の集中を妨げ……

 されど貧者が満ち足りぬよう、苦しみから抜け出すことのないようにと……

 その偏執的な調整は、狂気的ですらあったが、しかし繊細な理論に基づいて組み立てられており……

 

 なるほど、これだけの所業を為したのだから、自らを戒めることも当然だったのだろう。

 ベアトリーチェにすらそう思わせた。

 

 

 だが、そこはあまりにも、苦しみに満ちていた。

 人々は苦しんでいた。飢えていた。凍えていた。

 真にその苦しみの価値を理解してなお、ベアトリーチェは思った。

 これは必要なのだろうか?

 あるいは、これが必要だからと享受することは、正しいのだろうか?

 

 決して感傷や憐憫から思ったのではない。

 ただ、その意義がわからなかったのだ。

 

 

 救いとはなにか。

 ベアトリーチェは考えた。

 それは急激な滅びではなく、しかし緩やかな滅びでもない。

 それは平等であり、けして偏ることのないものだ。

 しかし、まことの神ならざる身に、そのようなものを齎すことが可能なのだろうか。

 

 ベアトリーチェは考え……

 ある日、ひとまずの結論を出した。

 少なくとも、今のこれは救いではない。

 そしてその日、アリウス自治区はベアトリーチェが支配するものとなった。

 

 

 あらゆる不平等は取り払われ、すべてが等しく、苦しんだ。

 なぜ、それが救いなのか。

 

 

 ベアトリーチェが求めるのは、そして求めさせたのは、力への意思だ。

 決して日々に満ち足りてはいけないとすら思っていた。

 あらゆるものはより上へ、より高みへ、這い上がるために生きるべきだ、と。

 だからこそ、苦しみを与えた。同時に教えを与えた。抗うすべも与えた。

 しかし……

 

 あらゆる生徒は結束し、しかしベアトリーチェの与える苦痛を、やがて受け入れた。

 あらゆる市民は妥協し、そしてベアトリーチェという支配者を、やがて受け入れた。

 

 それはベアトリーチェの求めるものではなかった。

 

 すべての人々はベアトリーチェに反逆することを諦め、やがてただ苦しみから逃れようとしだした。

 彼女からみて、それは奇妙ですらあった。

 なぜ、変えようとしないのだろうか?

 

 誰一人として、緩やかな変化を齎そうとすらしない。

 怯え、竦み、ただ慈悲を乞う。

 彼女からみて、それは不気味ですらあった。

 

 

 ベアトリーチェはさまざまなものを齎した。

 それは等しく与えられたのだ。

 まことに救いであったはずだった。

 しかし、誰一人として救われるものはなかった。

 

 

 ベアトリーチェは考えた。

 何が足りないのだろうか?

 団結し、抗うべきもの。すなわちベアトリーチェが存在した。

 すべてのものは、前に苦しんでいたように、今も苦しんでいた。

 とはいえ、様々なものがあるのだ。その苦しみは、きっと前よりも随分とまともだ。

 これまで何も持たなかったものは、技術と知識を得て、素晴らしい兵士に変貌した。

 いかなるものも、より良きものへ変わったはずだった。

 

 しかし、誰一人として救われるものはなかったのだ。

 あらゆるものは自らの定めた意思を持たず、ただベアトリーチェの下した指示に従う畜群と化した。

 

 ベアトリーチェの想定とは真逆だった。

 なぜ、誰一人として逆らわないのか。

 彼女はずっと考えていた。

 考えて……

 そして、ひとまず、決めた。

 

 もっと手の届く敵を用意しよう。

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