人間とは。
自分とは何なのか。
どんな人でも一度考えた事があるだろう。
俗に言う人生のモラトリアムという物に近い。
この疑問について、前置き代わりに深掘りしていこうと思う。
再度聞き直すが、人間とは何か。
これ言い換えると、自分が社会というコミュニティーの中で個を定義付ける要素とは何か?という質問になる。
そう考えれば結論が出るのは早いだろう。
難しく見える物は簡略化して、解釈のし易い形に置き換えるに限る。
オープンからクローズドクエスチョンに変換するだけでも、内容の整理は容易になり、理解を深める為の助けになる。
さて君はどうだろうか?
この問いに対してどんな答えが浮かんだだろうか?
学生やサラリーマン、陽キャ陰キャ、裕福か貧乏か。SかMかだって個性を差別化する要素になり得る。因みに俺は眺める派である、良いだろう?
ひとまずは思い至った回答を胸にしまって、引き続き話を聞いて欲しい。
…そう嫌そうな目をするなよ。
次はより深掘りした質問になるが、難しく考えなければなんて事はない。
準備が出来たところで本題に入る。
――“人間とは何か?”
生物学的にはホモサピエンスが何ちゃらかんちゃらとか、肉の塊とか細胞の集合体だとか。そんなユーモアのセンスの欠片も無い答えは、一旦心の隅に置いておいて欲しい。
もっと大衆に共感して貰いやすい、言わば万人受けする返事が欲しいのだ。
そこでもう一度、先の質問に立ち戻って考えよう。――とはいえ、やはり人間とは?という質問は広義的過ぎて答えに詰まるか。
先と同じ方法で簡単にしてみよう。
自分であればこう簡潔にする。
人間とは何か、即ちー
“人間とは、如何なるの要素を以て人間たらしめているのか。”
答えは一つじゃなくても構わない。自分でその答えを導き出した時、誰かにその答えを告げた時、ある程度納得して貰いやすい物であればなんでも良い。
複雑な事を難しく考えてもよりこんがらがるだけだ。
可能な限りシンプルに、合理に沿ったあるべき形へ。
コンピューターだって内部構造を理解せずとも、原理を把握していなくとも、操作方法さえ知っていれば誰にでも使いこなせる。
そんな容量で良い。
それでも簡潔にする作業にだって疲労は伴う。
今必要だと思ったのなら、飲み物でも淹れるなりして休憩を取ってくれ。
これからは俺の、全征秀ノ亮の解答を聞いて貰う事になる。
少し長くなるが、そこは容赦して欲しい。
……よし、休憩は良いだろうか?
まずは答えから述べて、それに至るまでの分析をまとめて本題としよう。
――俺が思うに人間が人間たらしめる要素…、
それは”感情が彩る不完全性”だろう。
海から生まれた生命の神秘、それが幾星霜を超えて進化した現代の
その答えこそが、不完全性である。
ある時には喜びで彩り、またある時は悲しみに苛まれる。はたまた一時の感情に身を任せ盲目になっては、何のきっかけも無くすっぱり冷めて元通り。
なんと不安定で不規則。なのにこの上なく美しい。
――いや、人によっては人間の醜悪な汚点にも映るだろう。
しかしそれは違う。今までの人生経験と知識を以て、それは否であると断言出来る。
幸福に満ちた笑顔は、どんな形であれ否定する事は出来ない。
悲しみで溢れ返った時でさえ、儚くも繊細な美しさを放つ時だってある。
それら感情がどんな色でも。赤でも青でも、黒でも。緑、黄、橙、白…。
例えそれらがぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、パレットを濁す混沌とした色であったとしても。
ちょうど連想するならば、絵の具の混ぜ方ミスったあの度し難き混濁色だ。
それで自分の心を彩る。
青一色の天空に、虹を描くように。
その色彩は形容し難くとも、ある種言葉に出来ない華があると言える。
他の誰かにそれを分かって貰えなくとも、それ故の強い個性なのだと誇りに思えば良い。
―――まあ個性の度合いは程々にはしておくべきだとは思うけど。
そう表現すれば人間はかくも美しい。
…これだけは間違いない。
どんな人であれそういう奴/色なのだと思えば、十人十色という言葉の通り、人間の多様性も肯定的に解釈出来そうだろう。
そして不完全なのだから完成が無い。
更には可変性も持ち併せているのだから、地球上で生きている60億人もの人の数より多くの個性が秘められていると言えるだろう。
その流動的な変化が成長と呼べる物ならば、人間とはかくも希望に満ち溢れた存在なのだと思える。
――そう、思えれば。…感じられれば。
きっと人は人らしく生きられるだろう。
…ならば”見えてしまえば?”
人の成りを見透かして、色を解析して、完璧に理解してしまえれば。
それは喜ばしい事だろうか。
叶えばその人間は、誰にでも共感出来て寄り添う事が出来る。まさしく人のあるべき人格の理想系と言うに相応しい性能を持ってるだろう。
………。
―そんな訳があるか。
人を理解するなんてのは偽善者の垂れる詭弁だ。
その上俺の持論までも100%否定する。
そもそも人の感情が理解の範疇にある物ならば、人は争わないし傷付け合ったりしない筈だ。ましてや戦争だなんて非生産的で野蛮な事は起きやしない。
人類が歴史という経験則で証明しているのだ。
“感情とは人より生じる物であっても、人に理解する事は出来ない”、と。
何故現代に至るまで、人の感情の正体が脳波の一部である事までしか解明されていないのか。この事実一つを取り上げても分かる通り、そもそも人間自身ヒトの実態を分りかねているのだ
――その筈だった。
DMAというヒトの設計図はそのつもりで人間を作成していたのだが、何であれこの世にバグは付きもので、常識という概念からは切って離せない錆のようにこびり着いていた。
(どうしてそんなに嬉しそうにしているのか?)
(あぁ、待ち望んだ息子の誕生を喜んでいるのか。)
(じゃあ隣で血相抱えて心配そうな面持ちをしている人は、それが無事に終わって安心しているのか。)
(とにかく眩しいな)
これが、最初に”そいつ”が抱いた感想だった。
あろう事か産まれながらに論理的に対象の感情を理解に至ったのだ。
そしてそれが的を射ていた事も驚くべき事実だっただろう。
そもそも対外的な認識から言語化する機能は、発育段階を鑑みれば発現し得ないーー、
というより考えるまでも無く不可能だ。
これについてどう思う?
…ゾッとしたのなら、それは正しい反応だ。
産まれたてほやほやの赤ん坊が出来ていい事じゃない。明らかに常軌を逸してる。
しかし現に、それは事実であった。
――“俺自身が、この身で証明してしまったのだから。”
表情と言動で人となりは把握出来るし、嘘も真も手に取るように分かってしまう。
秘密は暴かれ、体裁というメッキが意味を成さなくなる。
――心底気色が悪いだろう。
身から出る錆は露出するまでも無く炙り出されてしまう訳だ。
皮肉な事に自分が思い描いたヒトの美しさを、産まれながらに自分自身の人間性が否定していたのだ。
まさに絵に描いたような矛盾と言うに相応しい。
この場合、”間違っている”のはどちらだろうか?
……聞くまでもないだろうから、この問いについては深掘りはしないでおく。
前提として世界は常に正しい状態を維持し、常識という基準であり続ける。
そして世間という
時と場合によっては罵声を浴びたり石を投げつけられるどころでは済まない。
身体中に鞭を打たれ身を裂く痛みに苛まれる。それは肉体的にも、精神的にも。
時代が時代ならば、腹を切れ味の良い刃物で掻っ捌かれて、切開した切り口から五臓六腑が吐き出されるハメになる。
どうもその後はそれを焼くらしい。
研ぎたての包丁で肉を分割するのと同じように。切断した断面からウインナーの元を、無理やり自分の手で引き摺り出すのと似たように。焼き肉の下処理と同列の行為を、同じく人に実行するのだ。
…これ以上はよそう。互いに不快になるだけだ。
要はそれ程に変わり者はみだし者にされて、損な目に遭うという事だ。
相対的に見て少数派なのだから、社会的弱者に位置付けられてあーだこーだ言われるのが目に見えている。
食道に吐瀉物がドン詰まるくらい不愉快だが、似た様な事はそこら中で起きている事は分かるだろう?
そうやって否定の雨の矢面に立たされた人間は何を思うだろうか。
まあMっ気のある奴ならアヘって大喜びだろうが、今は常識的に考えて欲しい。
批判を浴びて、
理解はおろか拒絶され、
……果てにどんな言葉を吐き出すか。
――死にたい。
―と考えるのは流石に短絡が過ぎる。
まずは自分を変えたいと思うんじゃないだろうか?
環境を変えたいとも考えるかもしれない。
その他大勢が間違っているとか言い張る奴もいるが、その考えは問題を解決する手立てを生まない。
エゴの押し付け合いになって、寧ろ環境を悪化させて争いの元になる。
故に自分を変えようとするのは良い選択だ。
変化を試みる努力に伴って、何かが良い方向に転がるかもしれない。
もちろん良くない方へ転じる時もあるだろうが、そらよりもたらされる変化は決して悪いものではない。
そんな中で何かを変えられるかもしれない。
誰しもがそう思うだろう。
…しかし残念だ。
――人は変わらない。
ガワを取っ替えて見せかけをいくら変えようが、環境を移そうが、どれだけ洗脳による嬌正を受けようが。
…生まれ落ちる星の下は変えようがない。
そういう星の下で生まれた以上、別の惑星に移住したりしない限り、代わりようが無い。
そして当然、そんな事は出来やしない。
それを宿命と言うか業と呼ぶか、はたまた呪いと名付けるは各々に委ねるとしよう。
以上、俺の”人間とは”についての持論だ。
―生きる星の下は変わらない、変えられない。―
「ならどうしろって?…嘘にまみれて生きれば良いんじゃねえの。自分らしく生きるのに限界があるんだよ、どうやったって俺達は。」