人を上手に傷つけるコツは、人を人と思わないことにある。
「わぁ⭐︎ ヒナさん、今日は一段と早かったですね♡」
「たまたま、ね。この近くの自販機、最近お気に入りのコーヒーを売ってるの」
「コーヒーですか! 奇遇ですねぇ、私も大好きなんですよ⭐︎ そうだ、あそこの喫茶店に、コーヒーに合う絶品のケーキが──」
「それは良いわね。この熱くて苦い弾丸と一緒にどう?」
獣と同じだ。人格を認めない。理性を認めない。感情を認めない。会話は罠。反論は全て唸り声。そう思えば思うほど、自然と
悪人は面倒だ。好悪の話じゃなく、ただただ只管に面倒臭い。善と悪、価値観の違い。今対峙している
ちょっと前に、イオリが温泉開発部のカスミに丸め込まれた話を聞いた。馬鹿なことだ。あの子のそういった素直さは美徳だが、それ故に他者からつけ込まれやすい。アコもチナツも他の部員も、結局は根本のところで人の善意を信じているフシがある。だからこそ風紀委員になんて所属しているし、彼女たちのそういった部分に私も救われている部分はあるが、私たちが相手にするのは、その善意こそ食い物にする悪魔であると忘れてはならない。
「……刺激的な味ですね⭐︎ ですがこれはちょこぉーっと──」
「あら。あーんして欲しいなんて贅沢ね。何分経験がないから、うっかり火傷しないよう注意しないと」
「……。……あらら」
悪人に悪知恵で敵わないのは当然だ。義憤で集った風紀委員は、普段は品行方正に過ごしている分どう取り繕っても活動が片手間でしかなく、悪人はそれこそ四六時中策略を練って、善人を陥れることばかり考えているのだから。
嘘つきは嘘が上手くなる。そんなのは当たり前で、だからそんな奴の話は聞く価値もない。尤もらしい言い訳ほど反吐が出る。耳が腐る。反射的なものだろう。気付けばそういう輩に対しては顎を優先して狙うようになった。上手く当てれば脳を揺らして意識を落とせるし、口を開けば喉を壊して余計な言葉も聞かなくていい。一石二鳥だ。
「ち、ちょっと流石に酷すぎません?」
「五月蠅い」
額に2発、頬にそれぞれ1発。後は弾倉に残った弾を喉の辺りに適当に撃つ。狙いが適当だったからか、合計でたった5発しか当たらなかった。まあ、それで黙ったからとりあえず良しとしよう。
「──後はお願い」
「「「了解です、委員長!」」」
近くの風紀委員に拘束を任せ、背を向けた瞬間に案の定逃げ出そうと目論んだアカリを、振り向かずに追加で2発ほど額に弾をぶち込んで牽制する。流石に今度こそ大人しくなったみたいだが、ハルナが相手ならこれでもまだ油断できないのが困りどころ。まあ、ハルナが真に厄介なのは行動原理が“美学”とやらに拠る分、基本割と諦めが早いのにたまに異様なほど執着を見せる点にある。いっそカスミくらい普段から不屈であるのならこちらも相応の対応をするのだが。
「じゃあ、改めてお願いね」
「「「了解!!」」」
今度こそ後処理を任せその場を去る。余計な仕事が入ったせいで、せっかく買ったコーヒーがすっかり温くなってしまった。ああ良かった飲みやすくなった──なんてことはなく、コーヒーなんてどうせ飲むなら熱いか冷たいかの2択が良い。とりあえずこれは冷蔵庫にでも入れておこうと風紀委員会室に戻れば、なんと珍しいことに誰もいない。普段ならだいたい少なくともアコがいるはずだが、たまたま席を外しているか入れ違いにでもなったのだろうか。
冷蔵庫にコーヒーを放り投げ中を軽く漁り、執務室の片隅にあるコーヒーメーカーで新たにコーヒーを入れて机に適当に座る。……何故かなんとなく落ち着かない。いつも側で控えているアコがいないからだろうか。別にそこまであの子のことを求めているわけでも、なんなら普段は割とあの暴走癖に呆れることもあるというのに、これはあれか。居なくなってから気づく的な何かだろうか。いや、朝に会ったし授業まで一緒だったし別に本当に席を外しているだけだと思うけど。正直割とどうでもいい。
「ふぅ……」
一息つく。同じコーヒーメーカーでコーヒーを淹れているはずなのに、いつもよりも微妙に物足りなく感じるのは何故だろうか。ハルナであれば尤もらしい答えでも語ってくれそうだが、流石にあの子に会いたいとは思わなかった。
(さて……)
コーヒーを一旦机に置き、何となく身嗜みを整えて、懐から今回の“戦利品”を取り出す。
戦利品と言ってもそう大層なものじゃない。今も倉庫に転がってる爆発物や銃火器、違法BDのような、処分に手間取るものを一時的に保管しているだけのこと。ただ、単純に処理に困る爆発物を除くと、今回の品のようにときたま風紀委員に差し入れられる物品も出て来る。
(“気分が良くなる飲み物”……多分、お酒の一種よね)
具体的には、食材、飲料水、衣服や化粧品のような、取り返しても売れない物。その事実が無くても中古品になると価値が劇的に下がってしまうものが挙げられる。
ペットボトルの飲料水なんかが特に顕著だろうか。仮に蓋を開けただけのものだとしても、誰かが口を付けた可能性のある飲み物なんて飲めない。一度も箸に触れてないはずなのに、誰かが一切れ残したステーキを食べられない。地面に落とした服は着られない。虫が浮いてた化粧水を使えない。
それが清潔か否かとは無関係に、生理的に受け付けないから。理屈ではなく本能で、本能ではなく理屈で。無駄に無意味に無闇にネガティヴな想像で塗り固めて、その物の価値を劇的に歪めてしまう。
今回の一品も同様だ。一度盗品となった商品は、取り返すことが出来たとて、これ幸いにと商品棚には並べられない。量が減ってるかもしれない。毒を盛られているかもしれない。炭酸だったら振られただけでアウト。鮮度品質が絡めば直射日光すら致命症になり得る。
お酒の場合はどうだろうか。年単位で保管しているイメージがあるし、未開封なら大した問題もない気はする。でも地下室とかで大切に管理しているイメージもある。よく分からないしわざわざ調べる気力もない。いずれにせよ食中毒が出たら店の責任になるのだ。まともなリスクヘッジが出来る企業であればとても商品とは扱えない。だからこそ事情を知る我々に、好感度稼ぎの意味も込めて、こうして『寄贈』という形で処分を図るのも賢明な判断と言えるだろう。
「どうしようかしら……私は正直要らないし、でも捨てるのもちょっと……」
漏れる独り言。公共の場では意図して控えているが、自らのテリトリーなのと他に誰も居ないのでつい呟いてしまった。しかしそれ故に、普段から取り繕うばかりな私としては珍しく、この言葉は私の嘘偽りない本音でもある。
困った。自分はお酒(?)の類を飲むつもりはないし、とは言ってもせっかくの好意を無下にするのも気が引ける。だからどうしよう──わざわざ解説するまでもない、素直な困惑と懊悩の感情。
ありがた迷惑、というわけもない。半ば謎の使命感に追われて行っている治安維持であるが、打算ありきとはいえ、誰かから感謝されて嬉しくない人は風紀委員なんて奇特な委員会に入っていない。
私だってそうだ。一人ならとっくに逃げ出している。一人ならとっくに諦めて不貞腐れてる。私が今も立ち上がれるのは、アコの、イオリの、チナツの、風紀委員のみんながいてくれてこそだ。だから私は、こういう
「………」
アコが私を偏愛しているのは知っている。イオリの尊敬が、チナツの献身が結構なものだと理解はしているつもりでいる。他の委員のみんなだってそうだ。トップとして、戦力として、大なり小なり頼られていることは自覚している。
ただ私は、どこかそういった実感が薄い。例えば差し入れにクッキーを貰っても、そこに込められた親愛の感情が義理か否かの区別も付かない。……アコくらい露骨だと話はまた別なのだが。
話が逸れた。まあ要するにそんな私は、贈り物の価値というものを正しく理解出来ていない。ただでさえ自分が不必要なモノなのに、誰かに贈って迷惑ではないのか。あまりに身勝手な被害妄想。でも、一度でも考え出したらもうダメだ。萎縮して躊躇して、色々と面倒臭くなって行動すら起こせなくなる。
(……面倒ね)
コーヒーを入れるついでに取り出した軽食を適当に摘みながらしばらく考えてみたものの、結局はいい考えも浮かばず思考を放棄する。これもまた良くない癖だと理解はしているが、ある種の処世術とでも言うべきか、どうにもキヴォトスでは実際に面倒事が向こうからやってくるため、やむを得ず後回しにするケースがどうしても多くなってしまう。
美食研究会が、温泉開発部が、万魔殿が給食部が便利屋がはたまた風紀委員が──考えるだけで億劫になる。それでも私がこの座についてからは比較的治安も落ち着いたイメージはあるが、自由過ぎる校風は相変わらずで、今から私が風紀委員を降りた後のことが心配になってくる。
(降りた後、か──)
風紀委員は居心地が良いが、道理として、いつまでもここには居られない。それは分かってるし、理解はしているつもりでいる。でもきっと、私はそれを真に理解はしていないんだろうなと、こうして一人になる度に思う。
今、子どもである私は、時を経ていつしか大人になる。それは単なる事実であり、この星に刻まれた絶対の理だ。それが成人の日を指すのか、はたまた学園から去ることを意味するのか。その定義はさておいて、その時は決して遠くない時期に訪れる。
不安はある。当然に。が、未熟な私が、全てに都合良く精算ができるというのも思い上がりなのだろう。
部下が頼りないと思うならば、頼れるまで鍛え上げれば良かった。不得手だから、苦手だから。あるいは私があまりに特出しているから。似たような言い訳で誤魔化して、例えばカスミ相手への対応のような、実力とは無関係な部分まで指導を怠っていた。
単純な実力で言えばイオリより数段落ちるカスミが、ゲヘナにおけるテロリスト最大派閥の頂点をやっているのだ。実力の有無は言い訳にならない。適正の有無を言い訳にしてはいけない。
もっと即直に、“覚悟”が足りないと、怒鳴り付けてやろうと思ったのは一度や二度ではない。アコなんかはよくマコトの難癖に悪態を吐いている姿を見るが、あんなのは全然可愛いものだ。何故ならそれは、マコトなりにこの学園の現状を嘆いてこそなのだから。
肩書きだけは立派でも、その実態は有名無実。他の学園や連邦生徒会と比較すると、あまりに使えない強制力。政府よりも治安維持組織に権力が拠るのは途上国に良くある話だが、今の時代になってその有様では笑えない。更に言えば、矛先すら見当違いなことに気づいていない。仮に
はぁ、とため息。この憂いを糧にして、悪人たちは今日も元気に蔓延る。既にたくさんの諦観を捧げてきた。意気揚々と入学したキラキラの私は最早ここにはいない。
事務的に。無感情に。適切に。迅速に。あの頃の情熱を擦り減らし突き進む。問題児を一人捕まえる度に、感情が平坦になっていく。あるいは、大人とはそういうものなのだろうか? たまにふとそう思って、いつも結論を出せずに終わる。
(“気分の良くなる飲み物”、ねぇ……?)
気分が良くなるとは即ち、感情を昂らせるとも取れる。大人だって同じ人間だ。あの問題児たちが日頃暴れて鬱憤を晴らすように、無理矢理にでも機会を作って発散させなければ、心が軋んで鈍くなる。故にこそ、大人はお酒という道具に頼る。
大人が感情を抑制して生きていくのであれば、お酒とはそれを起爆させる着火剤。それが良いか悪いかは置いといて、そういう方法もあるのだと。不穏で、穏やかに、慎ましく、小賢しく。あらゆる感情を呑み込んで、嫌いな相手と肩を組みへらへら笑い合う。
(……うん。私には無理そうね)
カスミやハルナと何故か盃を飲み交わす自分を想像し、色々と無理があるだろうと被りを振って霧散させる。いずれはそういう未来もあるのかもしれない。でもそれは今じゃない。改めて確信した。やはり、これ(酒)は私が持って良いものじゃない。
今更のように立ち上がる。結論なんて最初から出ていたのに、また無駄に考え込んでしまった。もともと今日は午後から予定があったのだ。あまりのんびりもしていられない。
部屋を出る直前、手に持ったままの戦利品を置いて行こうかちょっと悩んで、罷り間違って事件に繋がったら面倒だと思いとりあえず鞄に仕舞うことにする。学園正門を出てしばらく、視界の片隅で何やら怪しく笑っていたカスミをついでにボコボコにして近くにあった瓦礫と一緒に川に沈めた私は、普段から解体作業ばかりに感けてる彼女にはお似合いの末路だと自画自賛して、速やかにゲヘナ自治区を後にするのだった。
☆☆☆
意外に思われるかもしれないが、風紀委員は割と自由な時間が多い。
元より義勇団のような組織だ。普段の訓練も組織としての体裁を保つためにやっているだけで、本来であれば参加の義務も無ければそうさせる強制力も無い。
そもそも、先にも軽く触れたように、学生の身分において治安維持活動を片手間以上に求めることは出来ず、いくら人一倍正義感が強くても成績が振るわない生徒にあっては活動を控えさせている。
治安維持活動に感けて
定められたルールはたった一つ。何かあればどうにかして対処する。あまりに場当たり的だが、突発的な事態には対処療法しか出来ないのも道理。委員会設立当時は相当苦労したようだが、SNSが発達した今となっては気軽に通報が受けられるようになって大分改善したという話だ。
(……まあ、半日くらいは大丈夫でしょ)
不安ではある。あの夏合宿以降多少改善されたとはいえ、まだまだ風紀委員は私に依存している面も多い。
が、いつまでも過保護では後輩も育たない。カスミ亡き今(多分いずれ復活する)、ゲヘナで厄介と言える問題児は美食研究会くらいで、それもアカリが捕まった状態ならそう酷いことにはならないだろう。
過信ではある。しかし、信じないとやっていられない。いずれにしろ、私が駆けつけるまでの時間稼ぎくらいはできるだろう。まあ先に結論から言ってしまうと、この日はそれ以降、別にゲヘナで大きな騒ぎは起きなかったわけだが。
「ここに来るのも久々ね……」
そんなわけで遥々やってきたD・U。いや、別にゲヘナからサンクトゥムタワーは正反対にあるレッドウィンターほど距離が離れているわけじゃないが、そもそも私自身があまりゲヘナ自治区から離れないのもあってかなり新鮮な感覚を覚える。
以前にD・Uを訪ねたのはいつだったか。それこそ例の“アトラ・ハシース”の案件まで遡るのではなかろうか。いや、その後に少しだけシラトリ区の警備を手伝ったのだったか。まあ、それなりに時間が経っているのは間違いない。
それに、結局は前回も風紀委員としての仕事の延長線のようなもので、こうして私用で訪ねた経験はない。下手したら一年近くそうかもしれないと、今更のように危機感を抱くが、だからと言って過去は変えられない。それは私の役割じゃない。
「………」
天高く聳え立つサンクトゥムタワー。一度全壊したとは思えない堂々たる立ち姿を見ると、
あるいは、大人から見た
入口の自動ドアを通り抜け、執務室へ繋がるシャーレの扉を開ける。シャーレ本体はそれなりに重要施設だからか、地下等の各所のセキュリティこそしっかりしているものの、“先生”の執務室については生徒であれば誰もが入れるよう設定されている。そこには、
「いらっしゃい、ヒナ」
まるで娘を迎えるように、まるで孫を慈しむように。透き通る声色で彼は言う。それに安心感を覚えるのと同時、少しだけ、その視線に不満を覚えてしまった私は、やはり欲深い人間なのだろうか。それを悟られていないかどうかが、ちょっとだけ気になった。
……………………
……………
………
それから時間にして2時間ほど。彼とじっくり話をした。話題はたくさんある。風紀委員のこと。アコのこと。後輩のこと。ゲヘナのこと。問題児たちのこと。今後のこと──日が暮れるまでに語り尽くせる気がしなくて、しかも振り返れば殆ど愚痴を言っていただけだが、それでも彼は、それを真剣に聞いてくれていた。
聞き上手。そう言うのだろう。思えば、あのアコも先生については何だかんだ悪い感情を持っていなかった。色々と悪態混じりで言っていたが、要約すると『愚痴を聞いてくれるだけ』──そう評価されること自体が、如何に難しいことなのか。
自然と相談を持ち掛けられる人はいる。風紀委員だったらイオリやチナツ、給食部のフウカ、万魔殿でのイロハ──私ではそう浮かぶ人数も多くはないが、それは私がそういった愚痴を控えているからで、そういう人物は、組織において自然と重宝される傾向にある。
その中でも“彼”──先生の包容力は段違いで、彼自身の立場もあるのだろうが、こうして語り合うだけで不思議と心が軽くなるような気がする。
「それは多分、気のせいじゃなくて──そうだね。誰かに話すことで、その重さを共有しているんだよ」
「重さを共有?」
「そう。アレが辛い、コレが苦しい──ほんの僅かでもその感情に誰かが理解を示してくれれば、それは“自分だけがこうじゃない”って証明になってくれる。確かに、ヒナほどの立場となれば中々共感されないかもしれない。でも、他の学校は? このD・Uでは? この国では? この世界では? ──視野が広くなればそれだけ、想いを共有できる人物と巡り合う機会が増える。不思議とそれが、心の負担を軽くしてくれるんだ」
「想いを──共有する……」
澄み渡るような言葉。馴染みのないはずなのに、どうしてかしっくりくる。彼は続ける。SNSが急速に普及した理由の一環もそれにあるのだと。ただ便利なだけだからじゃなく、誰かの想いを伝えるために。誰かの想いを受け止めるために。
「もちろん、綺麗事だって分かってるけど──だから、今日こうして、ヒナが私に話を持ち掛けてくれたのは本当に嬉しいよ」
「………ありがとう」
自然と、そう呟いていた。あまりに
「そうだ、お礼を──あ」
「ん?」
だからこそ、焦った。お礼をしたい、心からそう思ったからこそ、碌に手荷物を持ってこなかった自分を悔いた。無論、彼は「そんなものはいい」と言う。でも、それじゃあ私の気が済まない。それこそ、私の
「そういえば──今日、こんなのを貰ったのだけど」
「それは……お酒、かな?」
取り出したのは、教材に紛れて鞄の奥底に眠っていた瓶──曰く、『気分の良くなる飲み物』。苦渋の選択ではあった。迷惑じゃないかとも考えた。でも、今はコレ以外に選択肢がなかった。失礼じゃないのか──そんな思考は、直ぐに拭い取られた。
「どうやってキヴォトスでこんなものを──気を遣ってくれたのかな? ありがとう、ヒナ。とても嬉しいよ」
「──」
輝くような笑顔で、一番欲しかった台詞を彼は告げる。何か妙な勘違いをしているらしいが、その心遣いが嬉しくて、すぐにそんなことはどうでも良くなる。
すると、
「でも、流石に今は仕事中だからなぁ──今日片付けるべき仕事は終わったけど……いや、せっかくヒナが持って来てくれたんだし、ここは味見だけ──」
「──……え?」
待って、その一言さえ告げる暇もなく、手慣れた手付きで彼は瓶の蓋を開けると、空になったマグカップ──おそらくはコーヒー用のそれにほんの少し中の液体を注ぎ、そのまま口へと運んでいく。
何だかんだ酒を注ぐスムーズな動作に、やっぱり彼も彼で相応にストレスを抱えてるんだなぁとかどうでもいい感想が浮かんだが、もっと驚いたのはその直後の彼の行動。
「ゔっ……」
「先生!?」
彼がその液体を嚥下した直後、彼は大きく跳ね上がって胸に手を押さえる。何が起きたのかは咄嗟に理解出来なかった。しかし、見るからに異様な状況なのは明らかだった。更に、原因はあからさまに私の持って来た怪しい酒で、そういえばこれが酒なのかどうかさえ私は知らないことを今更のように思い出していた。
「身体が──暑い、これは……」
「先生、先生……!!」
「ヒナ……?」
焦点すら定まらない目。彼は乱暴にスーツの上を半ば脱ぎ捨て、ネクタイを力強く引き千切る。尋常じゃない様子に声を掛け続けていると、なんと彼はそのまま私を、近くのソファへと押し倒したではないか!
「へ? ──あ、せ、先生……?」
乱暴に、無抵抗にソファへと寝かされる私。抵抗しようと思えば出来た。でも、それ以上に状況が劇的過ぎた。キヴォトス出身ではない彼。下手に暴れると冗談では済まない怪我を負わせる危険性がある。そもそも、どう考えても悪いのは私だ。今もあの液体の正体は分からないが、アレを私が先生に渡したせいでこんな状況に陥っているのは明らかだった。
思わず目を瞑る。感覚で、上着に手を掛けられているのが分かった。本能的に身を捩るが、理性はちっとも嫌がってない自分に困惑する。自分とは比較にならない大きな手。意外とゴツゴツした身体。消臭剤に紛れた汗の匂い──
マントを剥ぎ取られた瞬間には、最早恐怖は期待に変わっていた。このまま無抵抗のままでは、
胸元のボタンに手が掛かる。引っ張っても中々動かず、僅かな時間を経て腰のベルトを抜き取られた。パッと見、脱がし辛い服を着ていてほんの少しだけ申し訳無くなったが、その程度では熱は醒めない。
(先生、先生……!)
そう──一度舞い上がった思考は、その程度では醒めてくれない。ならば、それを醒ますためには、それ以上の衝撃を伴ってしかあり得ない。
「⬛︎⬛︎⬛︎……!!」
「…………。…………え?」
ガツンと、頭を殴られたような錯覚を覚える。私の服を剥ぎ取って、私の肢体を暴こうとして、尚も“彼”は私ではない誰かの名を呼ぶ。誰の名前だとか、あまりに聞き覚えのある名前だったとか、どうして彼の口からその名前が出るのかとか関係無く、その一言で、私の熱は急速に醒めていった。
「……………」
そのままの体勢から、ゆっくりとした動作で彼の首の後ろに力を入れて、丁寧に意識を落とす。ブラックアウトで前後の記憶が飛ぶ可能性があるが、夢だと思ってくれた方が良い。彼にとっても、生徒を無理矢理押し倒すなど本意ではないだろうから。
(…………せん、せい)
ふらふらと、ゆらゆらと、マントとベルトを回収してシャーレを出る。何がなんだか分からない。けれど今は、とにかくその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
☆☆☆
ふらふらとゲヘナ自治区を歩く。ベルトとマントを片手にそのままに、引き摺るようにずるずると。
ゲヘナではそれなりに有名人な私が、そんな異様な状態で幽鬼のように歩いている。さぞその姿は目立ったことだろう。実際、後で噂を聞いたらしいアコたちに物凄い心配をされた。けれど当時の私は、そんな当たり前のことさえ気が回らなかった。
(先生には、既にお相手が……しかも)
頭を巡るのは、その
衝撃を受けたのは、その“恋人”がかの連邦生徒会長……即ち、“先生”の区分からすると“生徒”の一人であったこと。つまり──私が
連邦生徒会長が失踪した理由は知らないし興味もない。ただ、彼はその尻拭いのために学園都市に訪れた。だからあれだけ真剣だった。だからあれほど必死だった。当然だ、恋人がそれまで収めていた土地なのだから。家族が守っていた故郷なのだから。
否、如何に特徴的な名前とはいえ、同名の人間なんていくらでもいる。だからそれさえも勘違いで、ただ、いずれにしろ、その人物は少なくとも私ではなくて、
(っ………)
笑えなかった、笑うしかなかった。どうしようもなくて、どうにもならなくて。
「あら──ヒナさん?」
そんな私が珍しかったのか、それとも別の理由か──いつもの調子で、どこかから買ったらしい鯛焼きの袋を抱えながら、ハルナが笑顔で話しかけてくる。自分が追われてる身だとまるで理解していないかのような厚顔無恥なその姿、今だけは少しだけ、そんな彼女の変わらなさが嬉しくなった。
「ヒナさん? むむ……?」
いつも通り、努めて無感情に彼女を見る。いつも通りのはずだった。いつも通りでしかなかった。しかし、ハルナは何を思ったのか、突然その場で唸り出すと、何故か袋から一つ鯛焼きを取り出して、
「どうやら、何かあったようですわね。私で良ければ、お近くの公園まで付き合いますわよ?」
「え?」
どの口が言っているのか。常に私を悩ませているのは彼女の方だろうに、そんなことはどうでもいいとばかりにハルナは私に微笑む。
呆れ果てる。無神経にも程がある。どうして貴女が──言うべき言葉はどうしてか捻り出すことが叶わず、気付けば鯛焼きを受け取る私。
「さぁ、どうぞ。お味は保証します」
「………」
そのまま流されるまま鯛焼きを頬張る。口に広がる甘い香り。こういう系統の食べ物はあまり好まない私だが、不思議とその鯛焼きは身に沁みるような温かさを感じた。
「善いものでしょう? ──ヒトは如何なる状況にあっても、お腹が空いてしまう生き物です。どんな時でも、美食とは素晴らしいもの──であれば、嫌な記憶は、美味しい記憶で塗り替えることが吉、ですわ」
「………」
にこやかに、朗らかに、ハルナは私に語りかける。本当に、どの口がそう言ってるのか。そもそもアカリが捕まってる状況でお前は何をのほほんとしているのだ。或いは、これが大人の対応というやつなのか。分からないし、理解できないし、そうしたくもないけれど──
「……まあ、ありがとう」
私のその言葉に、ハルナは笑う。いつものように、厚かましく。
先程に夢想した光景。ハルナやカスミと盃を交わし、肩を組んで笑い合う私。何もかもが違和感しかない妄想の産物。それが、今だけはほんの少し、ほんの少しだけ、可能性としては信じられるような気がした。
カスミはどうせ勝手に蘇るからヘーキヘーキ。
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