“音”は世界を補完する要素である──そう聞いて、なんて耳障りの良い戯言だろうと呆れた記憶がある。
補完とは欠けた部分を補うことを指す。人間が視覚から8割の情報を得るならば、残り2割の過半を占める聴覚がそれを補完するというのは言い得て妙で、確かに言い訳にしては非常にそれらしくもあるだろう。
ただ、それも状況次第。視覚を聴覚で補うことが美談となるのはあくまで盲目や弱視の人だけで、不躾な機械を用いて不要な周囲の音までかき集めて──となると、それは単純に悪趣味でしかない。
まして盗聴器を用いて、ともなれば、流石の私も口を出さずにはいられない。どの口が、とは思う。苦言を呈す度に、自己嫌悪で死にたくなる。でも。
「はぁ……」
ため息を一回。けれど、まあ、その。なんだ──結局のところ、犯罪という括りでは、ハッカーも盗聴も、何一つ変わりはない。
人が盗聴に不快感を覚えるのは、それが簡単にできるからだ。今では面倒な機械を用意しなくても、携帯端末を録音状態にして隠せば誰にだって同じことが出来る。
だからこそ、その手の犯罪を犯す輩は、その行為に対しモラルの有無を問われる。低俗、と言い換えてもいいだろう。誰にでもできるからこそ、誰もやらない。やってはいけない。やるべきではない。そう教育を受けたのか否か。
人に施すのはとても難しいことだ。他人を貶めるのはとっても簡単なことだ。しかしながら、それで楽に流れるようでは獣と何も変わらない。だからヒトは互いに互いを抑制し、秩序を保つため法律という制限を設けている。
(………)
だから、どうだろう。そこが決して誰もいない筈の空間だったとしても、一応は周囲に吐き出した言葉を盗み聞きする盗聴と、本当に誰にも知られたくない秘密を勝手に暴き立てるハッカー。果たしてどちらが悪質なのか。そんなものは言うまでもない。
部長なんかは己が優れた
どちらも同じ犯罪なのに、こんなにも受ける印象が異なるのだから。
(……さて)
いい加減、目を逸らすのは止めるとしよう。
キョウセイ、嬌声。なんのことだと最初は思ったが、単語の意味が脳裏に浮かんでからは言葉の響き相応の混乱を私に齎した。どうせ何かの勘違いだろうと呆れの感情こそ覚えたものの、それが本当なら結構な一大事だからだ。
場所はシャーレの仮眠室であるとのことだが、ぶっちゃけた話オチは読めている。入手経路こそ我々には知り得ないことだが、先生だって年頃の男性だ。当然その手の記録媒体を所持しているだろうし、どこかで欲求を解消をしているというのはむしろ自然だ。
勿論、私たちにとってはそれ自体が、“先生”と“そういう行為”が結び付いた事実こそがかなりの衝撃であるのは間違いない。ウチでの
私だってそうだ。単純に他の候補がいないというのもあるが、それでも告白されたら断らないくらいには私も彼を快く思っている。ただ同時に、それは彼が良くも悪くも“先生”で、男である大前提を覆い隠すほどにそう有り続けたから、という要素も確かにある。
だから彼を慕う生徒は多くても、そんな高潔な彼を相手に“そういう行為”を結び付けるのに躊躇する、もしくはそんな彼を相手に下世話な感情を抱いてることを悟られて、彼に失望されるのが怖いという生徒が多数を占めるのだろう。
けれどそれでも本気の生徒は確かに居て。なら、彼が僅かにでもその手のことに興味が抱いてる前提があればどうだろう。彼が“そう”であるのなら自分も──これは犯罪者の心理にも似ていて、先人の存在は心理的なハードルをぐっと低くする。幸か不幸か、先生の周囲に妙齢の女性の影は無い。だから生徒に劣情を──とは、あの先生のことだしならないかもしれないが、それでも可能性は拓ける、それほど衝撃的な事態。ユウカ辺りに伝えたら内心で狂喜乱舞するかもしれない。
「だからってこんなの、言えるか馬鹿……」
確かに有益な情報なのはそうだろう。しかし、よりにもよって、情報元が情報元だ。まさか誰かに明かせるはずもなく、迂闊に吹聴すればまず間違いなくヴァルキューレ行きは免れないだろう。……正直、私もコタマをヴァルキューレに突き出すか悩んだくらいだし。
全く、面倒なことをしてくれる。幸い──と言っていいのか、元凶たるコタマを除いて、このことを知る者は他にいない。彼女にキツく口止めをして、罰として機材を軒並み取り上げればひとまず彼のプライバシーは守られるか? いや、盗聴を許した時点でどうだろう。既に色々と手遅れのような……まあ、いいか。
「はぁ……」
幾度目かのため息の後、考えることが億劫になって、ひとまずその日は全ての作業を放棄した。後に襲いかかってくるだろう面倒事から、必死に目を逸らしながら。
☆☆☆
その日は珍しく……本当に珍しく朝からヴェリタスの部室で、ここ最近ではずっと特異現象捜査部の業務に感けていた部長がひとり顔を出していた。
「ああ、お久しぶりです、チーちゃん。今日は随分と体調が優れないようですね?」
「……別に」
嘘だ。体調が悪いのは当然だ。昨日は碌に寝られなかった。昨日機材を没収してから、他にもろくでもない録音が無いかを検証していたら、それはもう大変な目にあった。コタマを擁護するつもりは全くないが、昨日の一晩だけで音声作品にハマる人の気持ちが窺えた気がする。
嘘を付いた理由は特に無い。無駄な心配はされたくないとか、化粧で隠したから誤魔化せるはずだとか色々浮かんだが、わざわざ暈す理由もないので結局は大した意味もないのは間違いない。けれど目敏いヒマリは私のそんな感情を知ってか知らずか、妙に訳知り顔で頷くと、
「あら、その様子では本当に限界のようですね。ですが最近介護にも目覚めたこの超天才病弱美少女ハッカーにかかれば、友人のひとりふたり、慈愛と博愛の精神で介抱するのも容易いことです」
「………いや、いいから」
貴女はどちらかと言えば介抱される方じゃない、とは流石に言えなかった。不謹慎なのもそうだし、何より部長なりに心配している様子ではあったから。単に心惹かれなかったというのもある。だって例えば彼女に膝枕をさせてもどうしても負担なりが頭を過ぎるし、だからってメカメカしいアームなりで介抱されてもそれはそれで……。
「
「…………」
ごく自然に。至極当然に。当たり前のように。特にトーンを変えることもなく、さらっとそう言い放った彼女に言葉を詰まらせる。
本当、どこに違和感でも覚えたのか。なまじハッカーなんてモノで他者の秘密に触れる分、隠し事にはそれなりに自信があったのでより驚いてしまう。ユウカのような理詰めや、アスナの直感とはまた違った鋭さ──俯瞰、と呼ぶべきだろうか。足のハンデがあり、どうしても一歩引いた視線で物事を見るしかなかった者特有の視点。いや、ハンデなんて言うと彼女には叱られてしまいそうだ。
「ごめん、言えない」
「……そうですか」
だからこそ、はっきりと答える。事情があることも、それが後ろ暗い理由であることも隠さずに。
ヒマリも、伊達にこの
でも、だけど、だって。何を言い訳しているのか。ホワイトとかそれらしく気取ってもコタマと同じ。どんな理由があろうとも、集めたのは自分だ。求めたのは私だ。自らの欲望を満たすためだけに、他人の密林を無断で切り刻む。それがハッカーという存在の本質。
でも、それでも──そうやって言い訳している自分がいて。だけど結局は無意味に終わる。開きっぱなしのパソコンの検索履歴を漁ることすら、人によっては許し難い冒涜。たとえば最近の事例だと、他者の身体のデータを勝手に公開するだなんて、繊細な人物であれば自殺すら選択肢に入るだろう。
その程度と誰かは笑うかもしれない。それでも、程度に関わらず、駄目なことは駄目なのだ。そもそもその尺度を我々は決められない。それは単なる傲慢だ。ネコババは窃盗で、いじめは脅迫。どちらも同じ、言葉の響きに騙されて、軽い気持ちで他者を絶望に突き落とす。
嘘偽りのない真実などただの劇薬だ。特にここミレニアムサイエンススクールに於いては尚更に。既に存在が一般にも知れ渡っていて半ば公認状態なのに、それでもユウカが頑なにヴェリタスのことを正式に認可しないのも、その辺りの問題が大きく関与しているのだろう。
「………部長」
「どうしました?」
「もし……いや、なんでもない」
「……そうですか」
うっかり名前を読んでしまう。流石に怪訝な顔をされた。とはいえ前言を翻すつもりもないようで、そのままヒマリは部室を去っていく。
そういえば、普段は体調を言い訳に重役出勤の多いヒマリには珍しく、こんなにも早くから部室に来ていた理由を聞いていなかった。
(……そうだ、確か──)
ちょっと前に、ヒマリの頼れる後輩が体調を崩した話を聞いた。私も多少は交流がある。特異現象捜査部のエイミ。ヒマリには勿体無いくらい優秀な子。ちょっと普段から代謝が過剰気味で、先日の猛暑が原因でついにダウンしたのだとか。
同じ学園、同じ部活。しかし学生の本業は学業。ならば学年の壁は厚く、会おうと思えばすぐかもしれないが、逆に言えば意識しなければすれ違うこともないかもしれない。思い返せば、さっきも介抱だのなんだのと言っていた気がする。なら、わざわざ授業前に部室棟まで来た理由は──?
勝手な妄想。根拠の無い推論。次々と湧き上がる疑問。気になる。だから──きっと、それこそが
けれど、本来であれば。それを知りたいのなら、今すぐにヒマリを追いかけて、彼女に話しかけるなり、後を着けるなりをすれば良い。でも、それを無粋だと勝手に決め付けて、あるいはそれは
(どこまで卑怯なんだか──)
いつかきっと、我々には罰が降るだろう。何かやらかして、失望されて、軽蔑されて、非難されて。矯正局送りはまだ良い方で、退学や実刑を食らう未来だってあるはずだ。
けれど願わくば、せめてこの学園にいる間だけは──どこまでも身勝手で救えない。今はまだ気付いていないだけで、私が知っている
☆☆☆
その日の放課後、夕焼けが眩しい時間帯。遠路遥々DUまで訪れた私は、相変わらずミレニアムとは違った意味でゴテゴテした街並みを歩く。
とはいえ、如何にDUと言えど外郭部にあるシャーレとその周辺にあってはそこまで首都然としていない。以前復旧が行われたシラトリ区なんかも同様で、良くも悪くも色々なものがサンクトゥムタワーに集中しているのがDUの特長でもある。
だからこそ、連邦生徒会長が失踪した時にはキヴォトス全域での大混乱が起きたし、記憶に新しい虚妄のサンクトゥム案件ではサンクトゥムタワーが真っ先に狙われた。それを見直されたのか今は事実上の権力分散が行われたが、それでもキヴォトスの行政が連邦生徒会という組織に依存している現実は変わらない。
尤も、それはあくまでキヴォトスという器についての話。ミレニアムを含む自治区はそれ自体が既に国のようなもので、生活そのものを連邦生徒会に頼っているわけでも無い。流石にヴァルキューレを筆頭とする各種下部組織が失われたら困り果てるが、そうであってもしばらくすれば自治区ごとに自浄組織が現れるだけだろう。実際、ウチではまだそう目立った組織は台頭していないが、他の地区ではそれぞれの治安維持組織の権力が増したそうな。
話が逸れた。それはさておき、わざわざ私がDUを訪ねた理由であるが、まあお察しの通りシャーレに仕掛けられたままの盗聴器の回収のためである。
一応、先生には事前に「セキュリティ確認のため」とかそれっぽい理由を告げている。コタマが騒ぎ立てていた事から察せられるように、つい先日にコタマが“当番”であったので多少訝しめられたりはしたが、そこはまあ適当にゴリ押した。
「やあ、いらっしゃい」
「どうも。久しぶり、先生」
そんな経緯もあって執務室を訪れるのがちょっと心配な私だったが、普段と変わらず快く受け入れられて一安心。まあ正直、元々コタマは素行面を先生に信頼されているとは言い難いので、案外言葉に出さなかっただけで内心では色々と察していたのかもしれない。
そこからは適当に挨拶や近況報告をして、半ばアリバイづくりのためパソコンを弄らせてもらう。幸いと言っていいのか、先生はどうも整理作業が苦手のようで、ごちゃついたプログラムを適当に整理するだけでそれなりの時間が過ぎていく。まあ本人も気にしているのか、今日は以前訪ねた頃より机も本人もだいぶ身綺麗にしているようだけど──。
およそ5分ほどだろうか。しばらく私が作業をしていると、不意に“先生”から声をかけられる。
「いつもわざわざありがとう、チヒロ」
「……ん? ああ、どうも。先生」
そう言って差し出されたのは紙コップに入れられた熱々のブラックコーヒー。焙煎された豆が発する独特な香りが鼻腔をくすぐり、思わず作業の手が止まる。
明らかに淹れたてのモノ。もしかしてわざわざ先生が淹れてくれたのだろうか。それは珍しい……というか、初めてかもしれない。普段はいつもこんな感じで休むよう告げて強引に作業を中断させていても、コーヒーを淹れるというか、そんな風に一息入れることもなく、タブレットやら何やらで忙しそうにしていたのに。
「もしかして、今結構ヒマだったりする?」
「ん? ああ、そうだね。最近は特に──もちろん、やるべき業務はあるんだけど、このくらいの時間にはどうにか仕上げて、深夜まで引き摺るようなことは減ったかな」
「…………?」
少し違和感。しかし、これは単純に先生もいい加減仕事に慣れただけだろうと流す。そもそもからして先生が異様に多忙であったのは、シャーレの業務に加えて自分から厄介ごとを抱え込んでいたからだ。彼の上司であるリン行政官も厳格であるが鬼ではない。まさか一人の人間を相手に一人で抱え込めない量の仕事を与えるはずもなく、むしろこれまで言わないと休まない状況下であったことこそ異常だというのに。
とはいえ、それにしても凄まじく違和感がある。余裕が出てきたのは良い事だが、どこか既視感があるというか。ヒマリが空回る直前の──そう、それはまるで。
既に完璧なのが分かりきってる、
「…………」
どこか嫌な予感がして、それまではおざなりだったプログラムの細部を深く漁る。やがて数秒もしないうちに溢れ出す違和感。そもそもそれまでセキュリティ意識すらおざなりだった先生が、画面を受け渡す際のスクリーンセイバーさえも完璧だった。どこかおかしい。どうして、こっちはIDもパスワードも、IPアドレスすら先生から受け継いでいるというのに、どうして。どうして私は、どうしてこの程度の端末の情報を
お気に入りだった缶コーヒーの製造工場が変わった時のような、愛用していた靴がいつの間にか新品にすり替えられていたような。得体の知れない違和感、理解すら出来ない謎の喪失感が全身を襲う。
咄嗟に“先生”の方を向き直る。彼は突如として不審な行動を始めた私に戸惑っているようだが、関係ない。そうだ──そもそも、その妙に小綺麗な服装は何だ? パッと見では皺ひとつ見当たらないスーツ。いや、生徒を前にしてだらしない格好というのも言語道断だが、これはそういう話じゃない。仕事に余裕が出来たから? 違う、その程度の違いじゃない。そう、私の知る先生は──!
(……
どうしてそんなにも気になるのか。何故これほどに気にするのか。自分でも分からない衝動が思考を突き動かす。誰だ、誰の仕業だこれは。ユウカ?いや、彼女は完璧主義者であるが、それはあくまで自らに化した課題としてであって、それを他者に押し付けることはしない。そもそも彼女は制服の着こなしに関してはかなりルーズだ。リオ会長?彼女であれば姿を見せない理由も、シャーレに協力する動機もある。服装に関しても──
(──違う)
それはまるで一切根拠も無い直感。
なるほど確かにリオ会長がシャーレにいるというのは辻褄が合うのだろう。唐突に強化されたセキュリティもそうだし、彼女であれば動機もある。姿を見せない理由も分かる。先生だって、彼女が「今は時間が欲しい」とでも言えば、気持ちを整理する時間を与えることくらい快くしてくれるだろう──でも、だからこそ。
「……………………」
それはまるで、ミステリーであからさまに怪しい人物を候補から外すように。或いは──この事態は
「………先生?」
「ん? どうしたのかな、チヒロ?」
「先生は──」
誰を匿ってる。違う、誰を──そう、今。
そうだ。貴方は。今、貴方は、一体誰と。
誰と一緒に、どうして。どうして、そんなにも親密に、過ごして──
「先生は──」
誰と。
そう、誰と。
一体、どこの誰と。そんな。
まるで──
「っ──!!」
「チヒロ……!?」
衝動に。激情に。あるいは八つ当たりのように。そのままの勢いで私はこのシャーレの建物を後にする。恐ろしかった。悍ましかった。この建物にいることが。勝手知ったるシャーレが、先生が、その
☆☆☆
真実は劇薬だ。
人を最も傷付ける言葉は、嘘偽りのない真実である──そう言われて、疑問に思うこともあるだろう。
だが、例えば身長の低い人物に向けて「チビ」だなんて言ったとすれば。身長なんて意思でどうにかなるものでもない。それを貶されてもどうにもならない。事実だから否定も出来ない。結果として、甘んじて受け入れるしかない。
C&Cのネルは基本理性的な人物であるが、その言葉には過剰な反応を示す。それは彼女がその心無い真実に心を痛めた、いわば防衛本能であり、たとえ発言者を叩きのめしたところで、一番傷付くのは彼女なのだ。
だから私は、この件には手を引くべきだ。暴くべきじゃない、知るべきじゃない──迂闊にその情報を得てしまえば、いよいよ私は取り返しが付かなくなる。
分かっている。解っている。判っている。でも──私は、それでも。真理を、追究するために。
「……………」
『──さん。覚えていますか? 明日は、私と先生が出逢った日なんです』
『私はあの日、貴方に救われた。貴方はそれを否定したけど、私はそれが、とても眩しかった』
『これからも、貴方には苦難が待ち受けるでしょう──このキヴォトスという街は、一筋縄では行きません──なので、私が』
『貴方の悲しみを支えます。貴方の喜びを分かちます。痛みも、苦しみも、怒りも、全て貴方が想うままに捧げます』
『ええ、貴方はそう言うでしょう。ですが、もしも、貴方がそれに気兼ねするようであるならば──』
『どうか、どうか。貴方の愛を、私にください。先生──』
誰か連邦生徒会長のポジションをユメ先輩にしたホシノ曇らせ書いてくださいお願いします。