疲労が溜まっているのか、ぼーっとしたまま練習前の時間を過ごすしずく。その視線の先にいるかすみはいつものように先輩に抱きついている。それは普段通りのことであるはずなのに、しずくの心には羨望の色が差していた。

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可愛くて優しくて、少しずるい貴女に。

 なんだか今日はぼーっとする日だ。授業中も、ご飯を食べているときも、同好会の部室にいる今でさえ、視線を宙に向けたまま思考を固めている自分がいる。

 何度も気を引き締めようと思ったけど、そう意気込んだ数分後には集中が切れていて。朝からずっとそんな調子で、結局放課後まで引きずってしまった。今日は演劇部もあるし、そもそも同好会だって手を抜いちゃいけないのに。

 きっと同好会のみんななら、今の私が普段と違うだなんてことすぐにわかってしまうだろう。みんなに心配をかけたくない、ただせめて悟らせないようにくらいは振る舞わなきゃ。

 焦りつつ、しかしどこか気の抜けた視線。その先にいるのは、円卓の近くでいつも通り先輩たちへ愛嬌を振りまいている──かすみさんだった。

 ころころと変わる表情や必要以上に大きいとすら思える身振り手振りは、ぼんやりと眺めていても飽きない。今はあまり元気がないから、あの中に入っていくのは少し気が──

「侑せんぱーいっ♡」

「わっ! も~かすみちゃんったら、大げさだよ」

 ぼんやりと考え事をしていると、気づいたときにはかすみさんが侑さんに抱きついていた。どういう流れかは聞き取れなかったけど、かすみさんの抱きつき癖はいつものことだし、普段なら何とも思わない。

 でも、この時は。

(いいなぁ……)

 そう思った。

 かすみさんのハグは……なんというか、元気がもらえる。でも最近はあまり二人きりにもなれてないし、触れ合うような時間も……。

 ……ヤキモチを妬いてるのかしら。なるべくそういう気持ちは抱かないようにしているのに。

 歩夢さんに引き離されてもなお調子を変えないかすみさんを見ながら、しかしこの視線を一刻も早く外したいと思う。こんな気持ちはよくないから、察してほしくないから。

「……?」

「あ……」

 そんな思いも虚しく、流石に気づいてしまったのか、かすみさんがこちらに視線を返してきた。私はなんだか気まずくなって、思わず視線を逸らしてしまう。

「かすみちゃん、どうしたの?」

「あっ、いえ! なんでもありませんよぉ♡」

 きっと変だと思われた。どう言い訳すれば自然だろうか。

 そんなことを考えているうちに、もう時間が来たのだろう、せつ菜さんがいつものように元気な声で号令をかけた。

「さて! みなさん集まったようですし、そろそろ練習を始めましょう!」

「はーい!」

 その返事を皮切りに、みんながぞろぞろと部室から離れていく。私は隅のソファーに座っていたから、必然的に最後の方まで残っていた。それを好機と見てか、かすみさんが話しかけにくる。

「しず子どしたの? なんか元気ないじゃん」

 いつになく真面目な調子で。やっぱり普通じゃない視線だったよね。

「ううん、大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけだから」

「そうなの? それならいいけど……」

 そう言いながら、唐突にかすみさんが私の前髪を持ち上げて額をあらわにさせる。そしてそのまま自分の前髪も上げ、顔を近づけてきた。

「ちょっ、な、なに!?」

「いいから」

 私の驚きも意に介さず、彼女はどんどんとその距離を縮めてくる。

 顔が近い、可愛い、恥ずかしい、このまま近づいたら、目、開けてられな──

 

 こつん。

「あうっ」

「うーん……熱はないみたいだけど」

 目を閉じて一瞬、額に軽い衝撃が走った。どうやら体温を診てくれたらしい。

 想像していた未来と違って、拍子抜けした体から力が抜ける。

 というか、よく考えればいつもと様子の違う人に対して急にそんなことをするわけがない。やっぱり今日の私は少しおかしいみたい。

 密着していた額が離れて、それでも二人は程近い。

 この距離なら、やろうと思えばなんでもできる。彼女を勢いよく抱き寄せて、本当に……口づけしてしまうことだって。

 もしそれができたのなら、このぼんやりとした心もきっと晴れるんじゃないか。

 その思いは病的なまでに思考を支配して、私の体を突き動かそうとする。

 しかしそんな衝動も。

「おっと、愛さん忘れ物しちゃった! 先行っててー!」

 廊下から響いてきた愛さんの声に阻まれ、霧散していった。

 驚きが先に出て、次に焦りが生まれる。こんな状況、見られたらきっと誤解される。いや別に誤解ではないけれど、でもバレないに越したことはないし、とにかく離れ──わっ!

 どんっ!

「えっ、しず子!?」

「そういやかすかすとしずくはどしたの? もうみんな行ってるけどって、ちょ、しずく大丈夫!?」

「いたた……すみません、大丈夫です……」

 後ずさるときにつまずいて、思いきり尻餅をついてしまった。

「かすかす、もしやしずくの可愛さに危機感を抱いて……」

「か、かすみん何もしてませんよぉ! しず子が急に、というかこの状況でかすかすはなんか含みを感じるのでやめてください!」

 結局、かすみさんだけでなく愛さんにまで心配をかけてしまった。今日は本当にダメだなぁ……。

 

 *

 

 私以外にも活動後に用事のある人が多いらしく、今日の全体練習はいつもより早く終わった。

 結局、練習時間中にメンバーから心配の言葉をかけられるようなこともなく──愛さんから怪我してないかとは聞かれたけれど──傍から見れば普通に取り組めているように見えたと思う。

 しかし、未だ心はここにあらずで、練習中もふと我に帰るような感覚が何度も襲ってきていた。

 こんな状態で演技なんて……そう思いながら、重々しい手つきでジャージに着替える。すると、すでに制服へと着替え終わっていたかすみさんが顔を覗き込んできた。

「しーず子っ、この後は演劇部?」

「うん。今日は外で稽古してるみたいだから、そのまま合流しようかなって」

「ふーん……じゃあかすみんもそこまで着いてこうかな」

「いいの? かすみさんも用事あるんじゃ……」

「かすみんがいいって言ってるんだからいいの! ほら、早く行こ!」

 会話を強引に押し切って、私の腕を引っ張っていく。かすみさんが強引なのはいつも通りだけど、今日に限ってはなんだか気を遣わせてしまっているような気がする。

 外の稽古場まで移動する間、かすみさんはいろいろな話をしてくれた。授業中に寝ていたらいつの間にか先生が目の前に立っていた話、他クラスと合同の体育で栞子さんと当たってコテンパンにされた話。二人きりで話すのは久しぶりだったけど、かすみさんがたくさん話して、私が時折口をはさむ。その構図はいつもと変わらなくて、今日一日の暗い気持ちも、この後の稽古への不安も、全てを覆ってどこかへやってくれるような安心感があった。

 そうやってお喋りしながら歩いていると、いつもとは見慣れない、遠回りの道を通っていることに気づく。この付近には特に施設もなく、通路としてもあまり使われない。ただここも通れる場所だという認識はあるけれど、それ以上の関心は生まれない、そういう場所だった。

「ねぇしず子、ちょっと止まって?」

 そうかすみさんが口を開いたのは、私が今いる場所を把握した直後だった。

 戸惑いながらも、その言葉に従って歩みを止める。するとかすみさんはなんとも言えない笑みを浮かべながら、私の前へ躍り出てきた。

 誰の目にもつかない場所で二人きり。向かい合って流れる静かな時間の意図は、私にはよくわからなかった。

 そして、刹那。

「隙ありっ!」

 ぎゅうっ。

 その突然の声と感触に、私の心臓は大きく跳ねる。真っ白になった頭が状況を飲み込めるようになったとき、彼女に抱きしめられていることに気がついた。

「ちょっ、かすみさん!? なんで急に……」

 抱きしめられる理由なんてもちろん浮かばない、少なくともかすみさんが抱きしめる理由はないはずだ。だって、あれは私の中の願望なんだから。

 ざわめく心を見透かしたように、かすみさんは心なしかいつもよりも優しい声で答えてくれた。

「だってしず子、今日全然元気なかったじゃん。しず子は隠せてるつもりだっただろうけど」

「それは……ごめんなさい」

 ……やっぱりかすみさんに隠し事はできないな。みんなから特に心配されなかったのも、かすみさんが気を遣って口を合わせてくれたからなのかもしれない。

「なんで謝るのさ。だからね、そんなしず子のためにこの可愛い可愛いかすみんが元気を分けてあげようってわけ! わかった?」

 その言葉と共に、抱きしめられる力が少し強くなる。多くを語らない優しさに温かさを覚えて、私も抱き返すことで返事をした。

 また二人の間に静寂が流れる。涼しい風の流れはかすみさんの温もりに上書きされた。木々の葉擦れは小さな呼吸や心音よりも小さかった。外で抱き合っているという羞恥心でさえ、この幸福には勝てなかった。

 ああ、この匂いだ。この温かさだ。この柔らかさだ。私の中のぽっかり空いた部分が、ゆっくりと満たされていく。

 こうして抱き合っている時間はどのくらいだっただろう。五分だったと言われても、一時間だったと言われても驚かない。私にとってこの時間は、それほどに永遠で一瞬だった。

 かすみさんは時折、背中をさすったり、優しく叩いてくれたりする。その感触は昔母にしてもらったときのことを思い出させてくれるようで。きっとかすみさんにも同じ記憶があるのだろう。

 心臓の音と同じリズムで伝わる手の感触に、自然と言葉が押し出される。

「私ね、かすみさんに謝りたいことがあるの」

「ん?」

 本当なら謝る必要も、言う必要すらもない。それでもなんだか……言いたくなった。

「さっき部室でさ、侑さんに抱きついてたでしょ? それ見てね、ちょっとだけ……いいなって思っちゃったの」

「なにそれ、ヤキモチ?」

「多分、そうかも」

 こんな気持ちを吐露したところでかすみさんを困らせてしまうだけなのに。けれど言葉は水のようで、一度流れ出したら止めることはできない。

「そう思ってることに気づいたとき、侑さんにもかすみさんにも申し訳なくなってきちゃって。嫉妬なんかしちゃう自分のことも……嫌になっちゃった」

 言っちゃった。こんなの聞いたらかすみさんはどう思うかな。

 でも、きっと貴女なら。

「なーんだ、そんなこと」

 そうやって笑い飛ばしてくれるって、信じてたよ。

「ほんと、しず子ってば変なとこ不器用だよね〜。普通嫉妬しちゃってごめんなんてわざわざ言わないよ?」

「だって……」

 いつも通り元気で明るくて、そしていつもよりほんの少しだけ優しい気がする声色で、言葉が続いていく。

「羨ましいって思う気持ちなんてみんな持ってるものだし、そんなに悪いもんじゃないんじゃない? それに、好きな人から嫉妬されるっていうのも……なんか愛されてる感じがして悪くないし……」

 後半になるにつれてどんどんと声が小さく、歯切れが悪くなっていくのを聞いて、少し笑みがこぼれる。

「それに! かすみんだってしず子のこと、ちょっとヤキモチ妬いたりするし……」

 語気を強めて仕切り直そうとしても、結局また尻すぼみになっていくのが面白くて、なんだか心に余裕が生まれてきた。

「そうなの? 全然気づかなかった」

 完全に恥ずかしくなってきたのか、最初から細い声になったかすみさんが言う。

「いや、まぁ……しず子が舞台で相手役の人とイイ感じになってるのとか見ると……なんか、いいなって…………」

 もはや細くなりすぎて聞き取れなくなっていく。その様子があまりにも可愛らしくて、にやにやが止まらなくなってしまった。

 そんな私の顔を見たかすみさんは、顔を真っ赤にして恥ずかしさを爆発させた。

「うぅ〜……もう! しず子の好きなこと邪魔したくなかったから言わなかったのに、しず子のせいで言っちゃったじゃん! しず子のバカ!」

 私のことを抱き寄せていた腕が、今度はぽかぽかと背中を叩き始める。しかし私はそれよりも、直前の言葉が引っかかっていた。

「私の好きなことを邪魔したくないって、どういうこと?」

「はっ……!」

 これはおそらく言ってしまった、という反応だろう。

 かすみさんは完全に沈黙してしまって、顔を赤くしたままぷるぷると震えている。あんまりにも面白くて煽り半分で次の言葉を催促していると、観念したように──というには小さすぎる声で──真意を伝えてくれた。

「だって、かすみんが嫉妬するってわかって、しず子がちょっとでも演劇やりづらくなったらやだなって……そんなわけないってわかってるけど、しず子の好きなことの邪魔したくないって、思ってるから……」

 そう言いながら、耳まで真っ赤になった顔を俯かせている。

 その言葉を聞いて、この姿を見て、私の心の内から感情が溢れ出してくる。居ても立っても居られなくなって、力強く彼女を抱きしめた。

「ちょっ、しず子!? 流石に苦しいって!」

 そんなことを言われても、私の中から溢れ出して止まらない嬉しさは抑えられなかった。

 この嬉しさの正体はなんだろう。愛しいとか、ときめきとか、類する言葉はたくさんあると思う。でも今一番伝えたいのはもっと簡単で、もっと直接的で。貴女との思い出の中で一段と輝く、宝石のような言葉なんだ。

「ごめんねっ……でも!」

 私は、桜坂しずくは。貴女のことが──

「”大好き”だからっ!」

 なんの説明にもなっていない、ただの衝動的な告白のようなもの。

 それでも、彼女は。

「……私もっ!」

 言葉だけじゃない、私の全てを感じ取って理解してくれた。

 華奢な体から目いっぱいの力で抱き返される。これが最後だと言わんばかりに、二人で気が済むまで、力いっぱい抱きしめ合った。

 

 *

 

「今日は本当にありがとう。おかげで稽古も頑張れそう!」

 遠回りの通路からしばらく歩いて、演劇部の外稽古場までもうすぐだった。

 先ほどまでとは大きく違って体に元気が満ち溢れている。今なら最高のパフォーマンスで演技ができそうだ。

「ま、かすみん的にはしず子が腑抜けてた方が助かるけどね~。でもライバルがいないと調子出ないっていうか、とにかくかすみんのためなんだからね!」

「はいはい」

 さっきまで抱き合っていたとはまるで思えない会話で、我ながら不思議な気持ちになる。それでも胸にはどことなく安心感があって、いつもの私に戻れたんだという実感が少しずつ湧き上がる。

「あ、かすみさんこっちだよね。私あっちの方だから」

「そっか、じゃあここでお別れだね」

 寂しくはない。だってかすみさんの温かさはまだ胸に残っているから。

「それじゃ、また明日ね、かすみさ──」

「しず子、やっぱりちょっとだけ待って!」

 え、と言いかけて、一瞬。

 ちゅっ。

 目を閉じたかすみさんが目の前にいる。唇に柔らかい感触が重なって、それを理解した熱が全身を駆け巡る。

 ぷはっ、と小さく息を吐く彼女の顔は、抱き合っていたときよりもずっと近くにあった。その真剣なまなざしで、囁くように告げる。

「こんなことするの、しず子にだけだから」

 その言葉の意味を理解する間に、かすみさんは帰りの方向に駆けていった。

「じゃあねしず子! また明日!」

「あ……」

 混乱する頭では呆然と立ち尽くして声を出すのがやっとで、まともに別れの挨拶もできなかった。

 あの一瞬で起こったこと。突然すぎて既に全部がおぼろげだけど、重なっていた唇の柔らかさだけは鮮明に思い出せた。そしてそれを思い返せば返すほど全身の熱が高まっていく。

 やっぱりかすみさんはずるい。いつもはあんな感じなのに、ふとした瞬間にドキッとさせられて、なんだか負けた気分になる。

 ……元気、貰いすぎちゃった。きっと今の顔は見れたものじゃないくらい赤いと思う。こんな状態で合流したら絶対からかわれるよね。

 恨めしい気持ちも抱きつつ、裏腹に晴れ晴れとした思いも広がっていて。抑えきれずにこぼれ出た笑みを自覚しながら、晴れ渡った空へと顔を上げる。

 透き通るような青い空も夕刻に染まり、黄色がかった太陽は虹ヶ咲学園の校舎を照らし続けていた。


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