「人間、死のうと思えばどんな事でも出来る」――そんな言葉、綺麗ごと以外何物でもない。だいたい誰か、そんな気持ちで何かをしようと思ったことある? 少なくても私はないわ。赤月詩織は誰にともなくそう呟いた。
しかしその呟きもすぐに「まあいいか」と掻き消される。何故なら、「だって私、これから死ぬんだもの。別にどうでもいい」詩織の心の中は今、そんな気持ちで満たされているからである。
どちらかというと、「ああ、それよりも死神って、どうやったら呼ぶことが出来るんだろう? 死にたがってれば勝手に来るのかな」――等々、そっちの方が気になる詩織だったけれど、「ああでも、私、霊感とかないしな」と結局それ以上はそれが自分の中でも膨らむことはなく、自然と掻き消えた。
――とはいえ。
死ぬと決めたはいいが、その部分がどことなく他人任せの詩織。これだとどこまでが彼女の本気なのかは第三者からは分からないけれど、一応本人に至っては大真面目で悩んでいた。というのも――
赤月詩織、十七歳。本日、度重なる不幸により、めでたく人生のどん底とやらに堕ちてしまった不運な女子高生。
ではその不幸とは何か。
朝寝坊をした、転んで足を捻った、思った以上に体重が増えていた。こんなのはまあ、不幸には入らないだろう。
財布を落とした、女子高生の必須アイテム・スマホを水没させた――これもまあ、いうなれば、不幸とはいえ、極め初級の不幸、くらいにはなるだろうか。ここまでは、運がなかったねえ、くらいで済む話でもある。
では――付き合っていた彼氏に振られたあげく、その彼氏が親友と浮気をしていた。傷心のなか家に帰ったら家が火事だった。更にそのせいでしばらく家族がバラバラに暮らすことになり、詩織だけは学校の関係で苦手な親戚の家に住む羽目になった。これはどうだろう。
こうなってくると、もう不幸を通り越して他人ごとのようにさえ思えてくる。
身近な二人の裏切りに気が付かなかった自分が情けなくも腹立たしいし、そんな傷ついた自分を癒すための帰れる家もない。親戚の家で生活することにはなっているけど、嫌味ばかり言われて居心地が悪いことこの上ない。たまらずに家を飛び出し他の家族が身を寄せる別の親戚の家に行ってみたけれど、そこに詩織が加わる余地は全くなかった。その為一人疎外感、いや孤独を感じてしまった詩織は、酷く絶望してしまったのだ。
簡単に死を選ぶことは短絡的だとは思うけれど、若干十七歳の少女はまだ了見が狭い。全ての事に絶望したら、そこから「死」というキーワードにたどりつくなど実に簡単な事なのだ。つまりは、そういうことだった。
そんな詩織がふらふらと街を歩いている内にたどり着いたのは、つい先ほど火災が発生したという雑居ビルの前だった。その頃には日もすっかりと落ち、白く冷たく光を放つ三日月が藍色の空の上で鈍く輝いていた。
けたたましく周囲に鳴り響くサイレンと、ビルから人を外へと誘導する消防士や警官の声。詩織は外に飛び出てくる人に紛れて、あえてビルの中へと歩いていく。
煙に巻かれた建物の廊下を、人とは逆方向に進んでいく詩織。火元に近くなれば煙の量も増え、流石に咳き込んでしまう。ふとポケットからハンドタオルを取り出そうとするも、どうせ死ぬんだから、とそれをやめた。そうこうしている内に、煙が立ち上り視界を悪くする中、詩織はフロアの行き止まり部分へとたどり着いた。
目の前には、壁。その先は扉。一応確認すると、鍵がかかっていて開かなかった。
扉のすぐ傍には、ダンボールが積み重ねられていた。どうやらこの扉、普段は使われていないようだ。もしかしたらこの扉の近くは、荷物置きのスペースとして普段使われているのかもしれない。
だったら、ちょうどいいや。詩織は壁を背に、その場に座り込む。
――煙を吸い込み何度もむせている内に、だんだん頭がボーっとしてきた。詩織はダンボールに少しだけもたれかかり、そっと目を閉じる。
恐らくこの場所で、こうして誰にも気づかれないまま動かないでいれば、詩織は本当に命を落とすだろう。
前に何かの書物で見たことがあるけれど、他人にインパクトを与える一番の自殺方法は「焼身自殺」らしい。それこそ、「死ぬ気になれば何でも出来る」を精一杯表現した方法かもしれないけれど、流石にそこまでは出来ない詩織。
――ああ、どうせ死ぬのなら綺麗に、痛くない感じがいいなあ。
覚悟は決めているはずでも、やはりどことなく他人任せ、おまけに少々図々しいことを考えてしまう。目を閉じながらも、そんなことを考えながら詩織はため息をつく。
もう、帰る家もない。親友にも彼氏にも裏切られるし、いいことなんて何もない。
そんな詩織の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
本音を言うのなら、死にたくなんてない。生きたい。もっともっと、たくさんの経験もしてみたい。
でも、こんな状態で一体、どうやって明日を生きたらいい? いや、こんな気持ちや状況で、どうやって今日を超えればいい?
――ああ、もしも。
もしもこの後、生まれ変わって別の人生を歩むことがあるというのなら。
もう誰の事も好きにならず、家族も持たずに、初めからたった一人で生きていきたい。
どんなことがあっても挫けず、強い人間に。そうすれば、こんな思いはもうしなくて済む。希望だけを胸に抱いて、自分の思うがままに、前向きな人生を送れたら――!
「そんなご都合主義になるわけはないだろうけど……」
詩織は自嘲気味に笑いながら、段ボールに全体重で寄りかかった。
ところが、身を預けていたそのダンボールは中身が空だったのか、詩織の身体の重みに耐えられずにふにゃん、とつぶれて歪んでしまった。全く、最後の最後まで本当に物事は上手く行かない。
綺麗に死ぬのって結構難しいなあ――詩織はため息をつきながらそのダンボールを開けて、へこみを直そうとする。
それにしてもこの箱、元々何が入っていたんだろう。大して興味はないけれど、直すついでにそんなことを詩織は考えていたけれど、その時ふと、「箱」「空」「開ける」という行為から詩織の頭にふと、幼い頃に読んだある物語が浮かんだ。
その物語の名は「パンドラの箱」。
簡単に言うと、パンドラという娘が、決して開けてはいけないと言われたにも拘らず、好奇心から箱を空けてしまった話。
その中にはありとあらゆる災いが詰まっており、それらが外へと飛び出してしまった。しかしたった一つ、箱の中に残ったものがあった。それが「希望」だった。だから人々は、どんな災いに見舞われても希望を失わない、というお話だったはず。
勿論この解釈は世界様々の様だけれど、子供の頃に読んでもらった絵本は、こんな感じで終わっていたような気がする。
目の前の箱はパンドラの箱ではなくただの段ボール。当然この中に希望なんて入っていない。
たかが段ボールの空き箱に、何を想像してみたのだろう。死にたいくせに、まだ希望でも持っているというのだろうか。
詩織はダンボールを閉じながら自嘲気味に笑う。そして再び、今度は空のダンボールではなく扉に寄りかかり、目を閉じようとしたのだけれど――そんな詩織の耳に妙な音が飛び込んできた。
カチャンという乾いた音がしたかと思うと、その直後にギ――と重々しい金属音がした。
不思議に思った詩織が少し振り返ると、何と寄りかかっていた扉が少し外側に開いていたのだ。
先ほど確かめた時は、確かに鍵がかかっていたはずだった。それなのに、何故? まさか火事のせいで?
――ビルの入口とは反対側だし、それに非常口でもない。この扉の向こうは一体どこに繋がっているのだろう。
でも扉から出れば、外に出れてしまうだろう。そうなれば、消防隊に見つけられて、救助されてしまうし――詩織がそんなことを考えている、また詩織の耳に何かが聞こえてきた。ただ今度は無機質な金属音ではなく、誰かの「声」だった。
『貴女に問います。もう一度だけ……生きる希望を持ちますか?』
――その声は、透き通ったガラスのように儚げで、でも聞き取りやすいはっきりとした声だった。女性の声だった。
「生きる、希望……?」
いきなり声が聞こえたこともそうだけど、そもそもこの場所で死のうとしている詩織には、それは予想外の質問だ。
いや、寧ろ今、死のうとしていたんですけど。詩織がそんなことを思っていると、女性はもう一度詩織に語り掛けてくる。
『時間がありません。炎が近くまで迫っています。このままここにいれば、貴女は確実に命を落とします。でも貴女がもう一度生きる希望を持つというのならば、一度だけ私が助けてあげましょう。その扉を、開きなさい。向こう側には、貴女の新しい道がある』
女性の声が途切れた瞬間、ブワ――! とした熱気が、急激に詩織のいる場所へと流れ込んできた。ハッと熱気が流れてきた方角を見ると、廊下の一番向こう側に燃え盛る紅蓮の炎が見えた。どうやら詩織がいるフロアまで炎が回ってきたらしい。
炎は猛スピードで廊下を包み、紅色の触手を伸ばし詩織に確実に向かってきている。
「……!」
死を覚悟してここへやってきた詩織だけれど、改めて勢いのある炎を目にするとやっぱり躊躇してしまう。
熱い、かなあ。いや、絶対に熱いでしょ。生きたままあれに焼かれるなんて、やっぱり怖いし嫌だ!
詩織はごくり、と息を飲む。
「……」
――この先、生きていたっていいことなんてない。それこそ、この場で命を落としたほうがマシ。でも、意識がある内に炎に焼かれるのは怖いし痛い! いや、でも――!
もう何もかも嫌。でも生きたまま焼かれるのは苦しい。
生きていても辛いだけ! でも、生きたまま炎に焼かれて死ぬなんて痛いし怖いしマジ無理だから!
心に重い枷を抱えたまま生きるか、この場で丸焼けになるか。
生きるか、死ぬか。
複雑な思いが高速で詩織の脳裏を駆け巡っていく。
迷った。本当に迷った。しかし、二つの思いが競って競って競り合って――結局詩織は「生きたまま焼かれる恐怖」をとった。
「くっ……」
迫り来る炎。その炎の触手が詩織を捕らえようとグン、と伸びようとしたまさにその瞬間――詩織は、ドアを押し開けて勢いよくその「向こう側」へと飛び込んだ。
――その扉を、開きなさい。向こう側には貴女の新しい道がある
勢いよく扉を開けて向こう側へと飛び出た詩織の脳裏に、再び女性の声が蘇る。
死のうとしていた少女の目の前に突如現れた扉と、彼女を導く謎の声。
新しい道とは何なのか。いやそもそもこの女性は、誰なのか。
今の段階ではまだわからないけれど、それは詩織がこの扉の向こう側の世界で、自ら解明していくことになるのである。