床にまかれた油に触れていた手。その手が一瞬、光った。それと同時に、ボワッと音を立てながら、炎が手を中心に姿を現した。
熱い! 嫁入り前(※予定消滅)の娘の手になんてこと! 詩織は声を上げようとしたが、不思議なことに油から手を離してのた打ち回るほど、手に熱は伝わってこない。せいぜい、先程ドアノブを熔かした時と同じように「ちょっと熱いな」程度だ。しかし、本人が感じているのと見た目は大きく違い、
――ゴオオオ!!
その姿、まるで畝り跳ねる火龍の如し。その様、まるで魔術師のイリュージョンの如し。ついでに言うならその姿、見たことはないけれど噴火した火山の如し。詩織の手から生まれた炎は、床に広がった油に一気に伝わり、油の広がりを真っすぐに走り抜けるように広がった。そして、
「おい! こんなところに逃げ込み……うわああ!」
「大変だ! 奴が火を放ったぞ!」
――それはすぐさま背の高さほどの大きさの炎へと成長し、あっという間に油を撒いておいた扉を伝わり天井や壁、しいては厨房全室や廊下にまでその火手を伸ばす。
勿論追っ手はそれ以上は厨房に入ることは出来ず、それよりも廊下まで伝わった火を消すのに必死の様だ。詩織にしてみれば、逃げる時間の確保や追手の足止めできればそれ良かったのだけれど、どうやら思った以上に火の回りが早かった、いや想像以上の大惨事となってしまった。
「……」
こ、これは大事になってしまった!
気持ち的には穏やかではないけれど、よくみると入口や厨房が炎で包まれる中、詩織が引き起こした炎は、今や詩織を追手たちから守るかのように炎の壁となり、部屋の入口に広がっていた。
まるで炎の壁――名づけるならこの技、ファイヤウォール……ああ! 何か上手いこと収まってる! って、そうじゃなくて。詩織はぶるぶると頭を振り、明らかに混乱している自分をまずは落ち着かせる。
――咄嗟に思いついた方法は上手くいったようだけれど、一体自分に何が起こっているのだろう。
何故、こんな風に火を生み出すことが出来たのか。だいたい、手で触れただけで鉄を熔かすって一体どういう事なのだろう。詩織自身が燃えているわけでもないから、そうなるとやっぱり魔法の類になるのか――でもどちらにしても、これは相当厄介だぞ。詩織は呟く。
よくある、あれか。
アニメや漫画風に言うと、「異世界に行った途端に能力者として覚醒して、世界、救います」みたいな。その一環で火とか炎の魔法もらっちゃった、あれか!
――いやいや。私、別にこの世界の平和とか全然興味ないし。
新しい人生が与えられるのは嬉しいけれど、思い入れもないこんな世界で、いきなり魔法使いになってヒーロー気取りになるつもりなんてこれっぽっちもないですから。
だいたい、火で金属を熔かしたり発火したりするような危険な能力、貰った所でどうする? この能力が、焚き火とキャンプファイヤー以外で重宝されることなんてあるの?!
どうせくれるなら、何でもお金に換金しちゃう能力とか、空を飛べる能力とか、瞬間移動とか、もっと役立ちそうなものがいいのに! だいたいこんな訳の分からない世界救う前に、まず私! 私のこの惨状をどうにかして!
短い間に色々な事が起こりすぎて、頭が混乱を通り越して破裂しそうな詩織だった。
こうして手を見つめて、閉じたり開いたりしている分には何も今までとは変わらない。
見た目だってそうだ。それなのに、建物を火災に巻き込む程の炎を生み出すことが出来るって一体。
一方では、詩織を守るかのように、入口から廊下へとどんどんと炎はその触手を広げていく。
――火を作り出せるなら、きっと火を止めることだって出来るはず。
でもここで火を止めたら逃げることが出来ない。かといってやっぱこれ、放火になっちゃうのかなあ。うわあ、勇者どころか本物の犯罪者じゃない。もう、マジ何なの、この状況。
詩織は壁を伝わっていく炎を見つめながらそんなことを考えていた。
と、その時である。
「おい!」
――ふと、そんな声が聞こえたような気がした。
「ん……?」
厨房内には誰いないし、追っ手たちは建物に広がっていく火を消すのに精一杯で詩織に構っている暇はないはず。では、誰? やはり空耳? 詩織がそんなことを思っていると、
「こっちこっち!」
「え?」
「え? じゃねえよ! 乗れ! 逃げたいんだろ?!」
声の主は、先程よりも大きな声でそう叫んだ。
詩織は声のした方へと目をやった。すると――それまで固く閉じていたはずの、例の滑車を利用して作られたらしき厨房内のリフトの扉が開いており、なんとそこに、人がいる。
厨房のリフトとなれば、当然調理した料理を下の階へと運ぶためのもの。給仕用のワゴンなどものせることも想定し、元々人が一人、もしくは二人は乗ることが出来そうな大きさで作られているのだろう。
こんな状況だし、それにそれまでは扉も閉じ何の気配が無かったので、気にも留めていなかったけど――詩織がそんなことを思っていると、
「話は後! 二度目の俺の旅を、失敗に終わらせるわけにはいかねえんだ!」
「に、二度目?」
「……とにかく逃げたいなら、乗れ! いや、頼むから乗ってくれ!」
リフトの中の人物は、見たところ詩織と同じくらいだろうか。青年が、詩織に再度叫ぶ。
二度目の俺の旅、とは一体どういう意味だろう。そこはよくわからないけれど、躊躇している暇はなかった。
もちろん答えは「逃げる」だ。ここから助けてくれるなら、もう何でもいい。詩織は夢中でリフトの中に飛び込む。
「行くぞ!」
詩織が乗り込んだせいてユラユラと揺れるリフトの扉を、青年は急いで閉める。そして手際よく滑車のロープを操つり、リフトを下の階へと移動させた。
その最中、青年は詩織に一枚の布を渡した。どうやらそれを身体に巻けということのようだ。
――詩織が今着ているのは、例の赤い囚人服。たしかにせっかくリフトで下の階に降りることが出来たとしても、囚人服だったら目立つだろう。
詩織は素直にその布を受け取ると、囚人服を隠すように布で体を覆った。
リフトはほどなくして下の階へと着いた。二人は素早くリフトから降り、建物火災で大混乱を極めているフロアを、混乱に乗じて通り抜けていく。そして建物の入り口からようやく外へと出ると、そのまま共に走り出した。
「こっちだ!」
リフトで詩織を助け出してくれた青年の誘導で、詩織は裁判所からみるみる遠ざかっていく。
そしてどれくらい走っただろうか。裁判所から遠ざかり、その街の中心自体からもだいぶ遠ざかり、その街の外れ、だろうか。穏やかな牧草地帯で所々に民家があるような、そんな場所までやってきた頃、
「……もう大丈夫だろう。とりあえず、少し休もうぜ」
それまで詩織を誘導して前を走っていた青年が、足を止めてそう言った。逃げ出してから、だいぶ時間もたったような気がするし、だいぶ走ってきた気がする。どうやらもう逃げなくても良さそうである。
――思い返せば、この短時間は散々だった。訳も分からず別世界へとやってきて、着いた早々斬首を言い渡される。当然逃げ出すも、(やむを得ず)裁判所を放火。再び逃走で、現在に至る。しかも、何やら妙な能力まで身につけてしまって――。
生きることを選択して、与えてもらった『新しい道』を歩むってなんてハードなの。それとも、いきなり生まれ変わって幸せになることが出来るほど、人生甘くないってことなのだろうか。
今までの人生でも、こんなに命がけで何かから逃げたという経験が全くない詩織は、ようやく逃げなくても良いというこの状況に安堵して、ヘナヘナと地面へと座り込む。
しかしすぐに重大な事に気が付き、はっとその顔を強張らせた。そう、事と次第によっては、安心して地面にへたり込んでいる場合ではないからだ。
「ん? どうした。気分でも悪いのか?」
そんな詩織に気が付き、先程の青年が詩織に声をかける。
しかし詩織はそんな青年に対して笑みを浮かべることも、その問いに答えることもなく――代わりに尋ねた。
「……ところで、あなた誰?」