「誰って……ああ、そういえば俺、まだ自己紹介していなかったよな」
詩織をこの場所まで誘導してきた青年は、詩織の質問に一瞬驚いた表情をしながらもそう言って笑った。しかし詩織にしてみれば、一緒につられて笑えるような心境ではない。
よくよく考えると、見知らぬ世界の裁判所に放火、および脱走はこの際ともかくとして、出会って間もない異性(しかもよくわからない世界の)と共に行動するということが、いかに危険な事なのか。きっとそういう異性事情は、どこの世界でも変わらないはず。今更ながら詩織はそう思ったのだ。
詩織をあの危機的状況から助けてくれたことは感謝するけれど、この青年は一体何者なのか。そもそも何故、詩織を助けたのか。いやそれよりも、思い起こせば何故、裁判所の厨房のリフトの中に入っていたのか!
「暗闇に体育座りしていると何だか安心するんです。厨房のリフト? ああ、最高だよね!」というのはあり得ないし、そもそもリフトの中に体育座りして安心するような変態野郎はその時点でアウトだ! ――詩織の中で、青年への謎、いや疑念は深まるばかりだ。
「……」
この青年、一見人は良さそうだ。でもいきなり豹変して「助けてくれた礼をしろよゴラア!」とか言って、押し倒してきたらどうしよう。
俺の二回目の旅、とか訳の分からないことも言っていたし、そういう可能性がゼロというわけではないだろうし。うん、これは困ったぞ。
詩織自身元の世界では彼氏もいたわけだし、異性慣れしていないわけでもない。でも、会って間もない男に無理やりなんて、いくらなんでも――! どれだけ最悪なの、私!
詩織がそんなことを思いながら唸っていると、青年はそんな詩織をよそに、やっぱり人の良さそうな顔に笑みを浮かべながら、明るい口調で言った。
「俺はキース。キース=ブレインだ。ローレンていう村の出身で、今は理由があって旅をしている」
「理由?」
「ああ。その説明もこれからするけど、その前に……あんたに一つ頼みがあるんだ」
「頼みって何よ。わ、私はお金も持ってないし、それに……」
まさか本当にえげつない要求でもするつもり!? そりゃ、ナイスバディではないけれど、それなりに若くて価値ある身体はしている……はずだから!
自意識過剰はこの際棚に上げ、詩織は自分の身体を掻き抱くようにしながら、青年・キースから少し離れた。すると、
「ああ、そういうんじゃないから」
そんな詩織を、キースはあっさり否定する。更に、
「そういうんじゃなくて、俺はあんたの『腕』をみせて欲しいだけなんだ」
「腕?」
「そう。右か……左かは分からないんだけど、もしもあんたに『何かいつもと違う事』が今起きていたとするならば、それに関わる方の腕を、見せてほしい」
そんな警戒心丸出しの詩織に対し、キースは詩織の予想とは反したことを口にした。しかも、『何かいつもと違う事が起きていたとするならば』。その非常に含みのある言い方に、詩織はハッと息を飲む。
確かに、この世界にやってきたことは別としても、あの裁判所の中で起こった出来事――手で触れるだけでドアノブを熔かしたり、発火したり――確かに詩織の身には、普通では考えられないことが立て続けに起こっている。でも、それをどうしてキースが知っているのだろう。
「……」
この人、本当に何なの? 詩織は改めてキースを見つめる。
――背は、高そうだ。詩織よりも二十センチ以上は高いだろうか。恐らく百八十近くはあるはずだ。髪の毛は明るい茶色。短髪だ。ブルーのシャツに少し厚手のジレを合わせ、動きやすそうなデニム風のパンツを履いている、キース。腰には細身の剣を刺し、足にはショートブーツ。何だかこの服装だと、
「ゲームのキャラクターみたい……」
「は?」
「な、何でも!」
詩織は思わず見たままの感想を口に出してしまったが、その印象を抱えたまま、改めて考える。
そう、彼の姿はいわゆるRPGや、物語の中に出てくる登場人物らと同じように見えたのだ。
鎧を着ていない所を見ると「勇者」や「騎士」の類ではなさそうだし、率直な印象として、どこぞの村の「村人A」とでも位置づけすればしっくりとくる。
本人も「ローレン」という村出身だと言っていたし、その位置づけはあながち間違いではないはずだ。詩織は一人納得した。
――そんな、イマイチ正体が分からない村人Aこと、キース。
けれど、このまま詩織が彼に腕を見せることを否定したところで、この状況は何も変わらない。詩織はそれも感じていた。
そもそも、詩織自体が知りたいのだから。自分に何が起こっているのかを。
キースが何か知っているのならば、それを知った後に逃げるのも悪くはないだろう。
なんせ詩織は、こっちの世界では既に放火犯のうえ逃亡者。その前には、大罪人という肩書もあったはずだ。それに加え、明日になったら指名手配犯という肩書も増えるかもしれない。ここまでくるともはや、犯罪者の総合商社状態だ。若干笑える。
とは言え、そんな状況を考えると既に頭が痛い。でもいざとなったらまたあの火の力を使って逃げ出せば、何とかなる? ――いや、そしたら今度は傷害容疑も増えるわけで、笑える範囲では収まらない。そしたらもう、行きつくところまで行ってみようか――詩織はそんなことを考えながら、身に纏っていた服の袖をまくる。
詩織がまくったのは、左腕だ。右か左かどちらを見せればよいのか迷った詩織だったが、あの時――油に火を放った時に、一瞬だけれど痺れを感じたのは、確か左腕だった。なので左側を見せることにしたのだ。ただ、見たところそこには何の異変も見られない。
「どれ」
キースは、その詩織の腕にそっと手を添えた。そしておもむろに、懐から何か小さな箱型のものを取り出す。
キースが取り出したそれは、詩織の世界でいうところの「スタンガン」を少し大きくしたものに形が似ていた。
ただ、スタンガンのように電気を放電するような部分はない。あくまでも形が似ているだけ、という感じだろうか。本体の真ん中には、何か文字を表示できる一行ウインドウがつけられていた。そしてそのウィンドウの横には丸型の突起がある。一体、これは何なのだろう。
「……これ、何?」
危険なものではなさそうだけれど、何をされるか分からない以上、不安なのは仕方がない。詩織がキースに尋ねると、
「うーん、読み取り機?」
キースから何ともぼやけた回答が返ってきた。
「読み取り機? 一体何の」
「説明が難しいんだけど、とりあえず読み取るもの。さ、いくぞ」
「……」
自分でも上手く説明できないものを、何故扱う。だいたい、「とりあえず読み取る」って、だから何を読み取るのかって聞いてるのに。
ますます持って、意味が解らない。困惑する詩織だが、キースに押し切られるように、素直に腕を差し出すしかない。キースはそんな詩織の腕に「読み取り機」を充てると、ウィンドウ横にある突起を押した。すると――
「きゃっ……!」
「これは……!」
突起を押した途端、ジジジジ――という音とともに、「読み取り機」から白い光が発せられた。電気がないこの世界の事情を考えると、これはきっと魔法が起こしている光。ということは、キースは詩織の腕に魔導具のようなものを当てたのだろうか? 謎は深まるばかりだ。
そんな詩織の腕を照らした謎の光は、一瞬だけ腕を包み込んだ。直後、真ん中にある例のウィンドウに、「FLAMELS」と表示する。更にその文字は数秒後に十四桁の数字に姿を変え、最終的にその姿を留めた。
「フレイメルズ……? 何それ。聞いたことないんだけど」
横文字に強いわけではない詩織だけれど、表示された単語は聞いたことがないものだった。それに、この十四桁の数字は何なのだろう。いやそれよりも、何故腕から文字が?
まるで光によってあぶりだされたみたいだけれど、そもそも詩織の腕にこんな文字や数字が隠れていたこと自体が、想定外だし驚くべきことだ。お風呂に入った時もプールに入った時も、こんなことなかったのに――詩織がウインドウに表示された数字を見つめながらそんなことを思っていると、
「……すげえ、やっぱりあの『声』は本当だったんだ……! そして、じいちゃんやっぱすげえ!」
そんな詩織の横で、キースがかなり上ずったうえに震える声でそう叫んだ。声自体はそんなに大きくないけれど、彼が明らかに興奮しているというのは、詩織にも伝わってくる。
「あの、興奮しているところ申し訳ないんだけど、声って? ていうか、これは何なの? それにじいちゃん、って誰よ」
何か登場人物が勝手に増えてるし。詩織はぼやく。
訳の分からない事態に加え、新たな登場人物まで出てくる始末だ。とりあえずどれか一つでも説明をしてくれないと、興奮しているキースとは正反対に、詩織はパニックになりそうである。
詩織はキースに改めて質問するけれど、キースはそれに答える様子もなく、それどころか興奮したままの状態で詩織に叫んだ。
「これで分かった! お前は、俺が探し求めていた仲間だ!」
「はあ!? ねえ、いきなり何なのよ! だいたい、何をそんなに断言しちゃってるわけ? この流れどうして私が仲間だってわかるのよ! 第一私は、ついさっきこっちの世界に……」
「頼む、俺を助けてくれ! 二回目の俺の旅が失敗しないように、俺と一緒に来てくれ! さあ!」
「ちょ……だから何なのよ! 急にそんなこと言われたって……!」
「それは分かる! でもそれを差し引いても、俺にはお前の力が必要で……って、あ、おい! ちょっと待て!」
――でも。キースの話を全て聞き終わる前に、詩織はキースを振り切ってその場から逃げ出した。常識的に考えると、詩織の行動は絶対に間違っていないはずだ。詩織は自分に言い聞かせる。
やばい。この人、絶対ヤバイ人だ! 詩織の中の何かが、詩織にそう警告していた。
危ないところを助けてくれたのは、感謝する。でも、事情は良く分からないけれど、出会って間もない相手にいきなり仲間主張するような相手、絶対に変な人に決まっている。
だいたい、ほぼ初対面の異性に向かって「俺を助けてくれ」とか「お前の力が必要」とか、そんなことを言われても! 新手のプロポーズかよ、軟派ならもっと上手くやんなさいよ! と、詩織は逃げ出しながらそんなことさえ思う。
――安心したのも束の間、やっぱりこのままキースと一緒にいたら、自分の身が危ういような気がする。詩織は最終的にそう判断したのだった。
詩織はキースから逃れるべく、再び走り出した。
けれど、元々二人で逃げて来たのが人のいない郊外。身を隠せるような建物も、寧ろ外を歩いている人さえ見えない。誰かに助けを求めることなど出来ないだろう。まあ、死刑囚で放火犯で脱走犯の時点で、誰かに助けてもらうことなど難しいのだろうけど。
「待て! 待ってくれ! まずは俺の話を……!」
しかしキースも諦めきれないようだ。逃げる詩織を、キースはどこまでも追ってくる。
でも、「待て」と言われて待つ泥棒がいないのと同じように、自らの意志で逃げているのだから、待つはずがない。いや、誰が待ってやるものか。詩織はキースから何とか逃げ切ろうと、とにかく無我夢中で走り続ける。
元の世界にいた時、詩織は別にスポーツをやっているわけではなかった。でも走るのだけは早かったし、陸上部には何度もスカウトされた経験もある。でも、いくら足が早くたって、別にスタミナがあるわけではない。当然、スピードはあったとしても、慣れないことを続ければ身体に支障は出るのは明らかで――
「わっ!」
ガクン、ガクンと時折走りながら膝が意志に反した動きを見せることも多くなった。
うん、私絶対に#短距離走者__スプリンター__#向きだ。どうでもいいことに今更ながら詩織は気付く
後方を見ると、キースは確実に距離を詰めてきていた。
このままでは、確実に捕まる。捕まったら、一体何をされるのか! だって相手は変態男子――と、詩織は走りながら震える膝を強く叩きつつ、再び気を引き締める。すると詩織の目に、あるものが目に入った。少し前方に、何かの小屋があったのだ。
小屋の窓からは、中に置いてあるらしい大量の干し草が見えている。どうやら、動物たちに与える為の干し草を管理している小屋なのかもしれない。
小屋の扉は、運が良いことに鍵がかかっていなかった。詩織はその小屋に飛び込むと、中から杭で扉に栓をした。これならば、この扉をけ破らない限り、キースが簡単に扉を開けることなど出来ないはずだ。 でも、油断はできない。なんせ相手は――以下、略。
詩織は念には念を、ということで、扉の前に干し草を大量に移動させた。更に、小屋の中に置いてあった壊れかけのテーブルも移動させる。もちろん、窓の前にも干し草を寄せて、今度は置いてあった長い木の椅子を立てかけてバリケードも作った。
「おい、開けろって! まずは俺の話を聞けよ! あ、何だよこのバリケード!」
ほどなくしてキースがこの小屋にたどり着き、開かない扉の向こう側で詩織に向かって叫んでいる。しかし詩織は小屋の奥の隅っこに座り込むと、耳を抑えて膝に額をつけてキースの声を遮断した。
こんな風にバリケードを作ったって、恐らくキースのことだ、どうにかして中に入ってくるかもしれない。でも、少し時間を稼ぐには十分なバリケードだ。時間が稼げるならば、それまでは少しでも一人になりたいし休みたい。
「……何が、新しい道よ。あんな扉、開けなきゃよかった」
開けても開けなくても、死んでいたかもしれない状況。
開けていなかったら、焼死。開けたとしても、あわや斬首刑。逃げたとしても、こうやって再び危機が訪れた上に乙女のピンチ、絶対絶命。
ああ一体、どっちが良かったのだろう。詩織自身ももう、何だか良く分からない。
「私、何か前世でよっぽど悪いことでもしたのかなあ……」
行きつくところは、もはやそこしかない。詩織は膝に額をくっつけながら、涙を浮かべて大きなため息をついた。
と――そんな中。詩織の耳に、再びあの時の「あの声」が聞こえてきた。