「――それでも、貴方はリリィちゃんじゃない」
そう呟いた声は、既に退出したリリィには届かない――いや、リリィの姿を鏡に映したような彼には届かない。 確かに自身の前に現れ作戦概要を説明したリリィは紛れもなく篠ノ之百合の姿であるのだが、いくら雰囲気や背丈を合わせたとは言え感覚的な何かが篠ノ之束に告げていたのだ。 仮想空間に現れたリリィの声を持つ“フリーダム”に対し、惹かれなかったのと同じようにリリィに扮した何者かに心を動かされることが無い。 篠ノ之束が求めたリリィ――篠ノ之百合では無い存在に理解されたくもなければ、その姿を語る存在を許すことはできない。 篠ノ之束の全てを許せるのは篠ノ之百合だけなのだ。 だが先のリリィは拘束時に部分的ではあるが“フリーダム”を展開した――それを持つのはリリィだけだが、もしかすると“フリーダム”という機体は複数機存在しているのであろうか。 いや、この世界が現実であるのならば篠ノ之束の思考も正いモノなのだろうが、残念なことに0と1で構成された電子的な空間である可能性も否定できない。 むしろ、その可能性が非常に高い時点で機体の数に数字的な意味以外を持つことはない。
この世界が現実であるのか、それとも虚構であるのかという問題に対して正確な回答を出せるものは存在していないのだろう。 もしかしたら知らないだけで何者かが、その命題に対し一定の解答を出しているのかもしれないが耳にしたことがないということは恐らく存在してない可能性が高い。 そもそも水槽脳仮説と呼ばれる仮説に頭を悩まし生活をしている人間はリリィが言うとおり篠ノ之束だけなのだろう――そのことに気が付く要因が他者と比べ豊富に存在しており、また現実的ではない現象を何度も目にしてきた事から、誰よりも水槽脳仮説による仮説との距離が近いのが頭を悩ませる原因の一つなのだが。 水槽脳仮説により構築された空間だとした場合、未確認人型兵器が質量すら消失するのも、核兵器によって多くの人命が失われたのすら一種の思考実験ではなかろうか。 その結果で不要となった情報が削除され不自然な現象が起こる。
思考実験のために生み出された電子的な世界であるというのは十分に考えることができる可能性の一つであり、そのために篠ノ之束は頭を悩まし、それを観察され続けていく。 “白騎士”を開発した場合に起こりうる事象を入力し、膨大な情報の稼働を処理し、その結果を観測する――つまるところ、この世界自体が未来を予測するために存在する巨大な実験場というわけだろう。 核弾頭を使用された場合に起こりうる人々の行動、未知の存在に対して起こすべき行動の先にある結末、複製個体と原型を同時に行動させた場合に起こりうる現象――その全てが計算模型でしかないというわけだ。 そうであるならば一部の物理法則や複製したかのような人物にも説明はつく。 だが、その場合、いくつかの不可解な点は残ってしまう。
例えばであるが、篠ノ之束という存在が複製個体である可能性が、この世界では可能性とは言えあるのだが、もしそうであるならば現状を水槽脳仮説として認識している自身は、この世界において果たして複製個体として篠ノ之束の偽物と言えるのであろうか。 反対に自身が複製個体として確立している場合、この世界には原型の篠ノ之束が存在しないことになるのではないだろうか。 また“CCCNO”社側の篠ノ之束が原型だとした場合、この電子的な空間は彼女の脳によって構成されたモノであり、このように思考する自身の存在は水槽に浮かんだ脳が見ているわけではなく、この世界同様に電子的なプログラムによって全てが構築されていることになる。 このような相反する問題が浮かび上がるわけだが落としどころとしては、複製個体の脳を使用した思考実験として展開された電子的な空間というものだろう。 だが膨大な計算模型において入力された数値は最終的に対象の脳へ送られ展開されるわけだが、そうなると自身の脳は知識として認識する――いくら水槽脳仮説を利用した計算模型とはいえ自身の知識に存在しない映像は出力できない。 出力できないものは存在しないモノとして扱われるが、では果たして思考実験として意味はあるのであろうかと矛盾が起きる。
結果として不可解な矛盾だらけが崩壊寸前だった篠ノ之束を唯一つなぎ止めているわけだが、それでも一人だけでは精神が安定することはない。 リリィと共に歩む、雪風と共に翔ぶ――それだけが唯一、この矛盾だらけの難問という悪循環から回避できる手段であるのだが、このように一人だけでは脳裏に浮かび上がる矛盾を解いてしまう。 何度、挑戦したところで見つかるはずもない正答を求め思考を放棄しそうになる。 放棄してしまえばどれだけ楽なのだろうかと考えなかった事はないが、お酒と同じで自身が何をしでかしてしまうかが怖い――リリィに拒絶されてしまうのが怖いのだ。 だからこそ思考を放棄しないよう矛盾から回避し続けている訳だが、流石に全身を拘束され椅子に縛り付けられてしまうとリリィを探すどころか動くことができず考えるしか行えない。
一体、何が篠ノ之束という存在を構成しているのだろうか――そんなふうに、目の前にある矛盾同士を照らし合わせながら、この世界全てを疑い自身という存在を推察してしまう。 他に有力な選択肢がないと自然と思考が偏っていく。 既に縄を解くことはできないか試し不可能だったからこそ潔く状況を打破することを諦め、瞼を半分下ろし視線を床でもどこでもない場所へ向け考え始めた。
篠ノ之束という自身は極稀に不思議な夢を見ることがある訳だが、その夢で得た知識を元に開発したのが“白騎士”や雪風にも採用されている核になる。 磁気単極子とほぼ同質の鉱石を解析し、何ができるのかと突き詰めた結果が“白騎士”に採用した各システムを運用するための核という存在――もしかすると、この夢や鉱石は自身の脳に送り込まれ展開された情報という可能性は非常に大きい。 普通に考えてみれば、ただの女子中学生でしかない篠ノ之束が今までの物理法則を無視した科学技術を生み出せるわけがないのだ。 それらが不備もなく実行できてしまうという結果は物理法則を無視することが出来てしまう新たな法則が存在するか、この世界自体に物理法則が適用されていないということでしかない。 そして自身を取り巻く夢や奇妙な感覚――これらが全て水槽に浮かんだ脳へ電子的な信号として入力された光景とするならば、対象となる自身の脳が過敏に受け取り知覚するはずのない光景を、この篠ノ之束に夢という形で見せている。 そう考えることもできてしまう。 ただやはり、この仮説を正しいものとすると別の仮説と矛盾が生じてしまうわけだ。
当初、“CCCNO”社側に存在している篠ノ之束は自身の複製個体ではないのであろうかという推測したのだが、“Ghost”による電子攻撃に以降、その考えは自身が複製個体なのではないかという恐怖に変わる。 だが、もしも水槽脳仮説によって自身の脳内に展開された電子的な空間なのだとしたら自身以外の存在は、この世界において本物と言えるのであろうか。 0と1のみで構成されたプログラムでしかない篠ノ之束ではない篠ノ之束という存在を――自身の脳に広げられた世界において。 むしろ、この世界において篠ノ之束という原型は自身なのではないのであろうか。 ならば何故、自身が複製個体ではないのかと怯える必要がある――何故、水槽に浮かんだ脳が見ている光景だと考えることになるのだ。 水槽の中にある脳が篠ノ之束のであるならば、この世界において原型と言えるのは自身となり、自身が複製個体とするならば、この世界は水槽脳仮説とは無縁の紛れもない現実でしかない。 偽物であり本物である。 そこへ水槽に浮かんでいる脳は複製個体のモノであり、この世界においては本物であるという第三の仮説が混ざると、その矛盾は規模を増やし続けていく。 結局のところ考えることのできる最悪だけを広げてしまい、その可能性同士が矛盾してるだけに過ぎない。
こうやって自己が崩壊する淵で、その原因同士が反発し合い、リリィという安定剤によって考え続けることが出来る。 どの結末であっても悲惨な結果には変わりないが。
「理由を作ってくれるといっても、私にとってリリィちゃん以外の理由なんていらないんだけど――私とリリィちゃんの世界でも作ってくれるのかな、あのリリィちゃん」
ふと安定した精神が冷静に状況を理解し始めると自身の存在意義から目をそらし、先ほど現れたリリィについて考え始める。 この世界が電子的な空間であるという前提であるのならば、リリィが副数人いてもおかしくはない――それこそ篠ノ之百合や篠ノ之百合奈、エスト・フッガダーツという外見上、どう考えても同一人物にしか見えない存在がいてもおかしくはないのだ。 だが、先ほどの矛盾と同様に電子的な世界であるからこそ成立する結論であり、自身が複製個体として成立する世界とした場合、篠ノ之束を取り巻く環境が現実という天文学的な確率の上で成り立っている現実という世界でしかないことになる。 原型の篠ノ之束が存在し複製個体として生み出された篠ノ之束、そこに容姿が非常に酷似した三人。 何も知らなければ同じ人間が何人もいるように思える光景でしかない。 世の中には一卵性双生児として生まれ、顔や仕草、性格等が似てしまう事もあるのだろうが、篠ノ之束の姉妹は箒ただ一人であり三人目の姉妹の話は聞いたことがなく、リリィの方は兄弟ではなく親――実父であり、その百合奈に兄弟はいないことになっている。
自身が知る情報ではリリィと百合奈以外の全員が血の繋がりがない他人であるというのに、内面を含め似てしまうことがあるのだろうか。 やはりリリィも自身と同じように複製個体として生み出された可能性は、この世界を現実として仮定した場合、非常に高いものなのだろう。 こうなると誰が原型で誰が複製個体なのか判断すること自体、不可能に等しい。 リリィに言わせれば恐らくであるがDe omnibus dubitandum――全てについて疑うべし、そう答えるのだろう。 哲学者であり数学者、ルネ・デカルトがCogito ergo sum――我思う故に我在り、そう提唱したように、疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない、そう言うのかもしれない。 自身の存在と考えること自体が存在を証明する。 まさにリリィの合理的な思考が好みそうな言葉だ。
そういえば先程のリリィの提案に全てを委ねてたらどうなっていたのだろう。 リリィという存在を篠ノ之束の生きる糧として差し出してきたと受け取っても良いのだろうか――もしも、あのリリィに依存したらどうなっていたのかというのも、この世界が電子的なモノであるならば観察の対象になっていたのかもしれない。 何もかも考えることをやめて依存するだけの関係は自身が望む未来ではないし、考えることを放棄した生物をリリィは人間と認めるのであろうか。 少しづつ視界が捉える光景が0と1で構成されているものだと自身の脳内では全てのモノが変換され、目の前にいるはずの人間ですら生物ではないのかもしれないと懐疑的になる。 そんな自身の思考に映る人間のようにリリィの目に捉えられたとき、果たして篠ノ之束という存在として受け止められるのであろうか――愛してくれるであろうか。
恐らく先ほどのリリィであるならば受け止めてくれるのであろうが、その先を想像したくはない。 自身の求めるリリィは一人だけ――姿や声が似ているとしても己の感覚は誤魔化すことはできないのだ。 あのリリィは自身の知る篠ノ之百合ではない、スカーレット・リリィではない。 そんなリリィと共に生きる未来を、正常な判断ができる篠ノ之束は見たくはなかった。 それが自身の生きる答えであるということには気がついているのだが、引き返せなくなるかもしれない判断を安易に決められないという保身が答えを決めさせることなく今も首を絞め続ける。 確実な証明が欲しいと考え続け、その一点に思考を到達させようにも矛盾だらけの、この身が着地点を見失わせているのだ。
最初から答えならリリィから受け取っていたのだ――自分の生きる世界が全てだと、自身が篠ノ之束以外の何者にも成れないのだから生きていく上で不都合はない、そう既に受け取っていたというのに。 できるのであれば篠ノ之束もリリィの語るように生きたいのだ――だが自身の周りは常に争いが止まない。 “白騎士”を兵器として求める者達、その頭脳を使いさらなる発展のため手を伸ばしてくる者達、いくつもある手が競うように篠ノ之束という一点に向け伸ばされ戦火を広げていく。 唯一の望みであった平和な世界で自身の愛する人達と静かに過ごしたいという人並みの願いとは正反対の争いの世界。 平和な新時代を作り上げる技術であるのならば喜んで引き受けるのだが、人間という存在は戦略に組み込めるという有効性を見出すと兵器として使いたがる。 リリィの危惧した通り自身の周りに集まるのは、そういう者達であった。
CFA-41“Mave”も既に目をつけられているが、手を出せない程までに予算をつぎ込んだ。 今の篠ノ之束ならば理解できる――この莫大な資金さえあれば、別計画を動かせるということを。 リリィと出会う前の自身には理解できなかった軍隊という組織の事情。 戦火を広げるためではなく抑えるために開発した空中管制指揮機であり高度な戦術偵察機であるCFA-41“Mave”は性能が高い反面、その機能は既に配備されている複数の機体で十分に賄える。 それら全てを単機で行い遂行する事を目的として“白騎士”と同様の技術で生み出したのだ。 操縦するための搭乗者を作戦行動から一人抜き管制指揮官には膨大な操作を要求する。 そんな機体を量産するぐらいであるならば試験段階のCFA-44を複数用意したほうが有用性があるだろう。 用意したところで“Ghost”のような存在に奪取された“シンファクシ”級潜水空母という例があるため、これ以上、単機に予算をかけることはないはずだ。
人工頭脳開発計画に“白騎士”にも採用した核を使用しているが、開発段階で現存するプログラムはCFA-41“Mave”に搭載されている雪風と、自身の記憶媒体と“CCCNO”社にも送られたバックアップデータの三つのみ――今回の人工頭脳単独出撃による評価が終えるまで手を出すことはしないだろう。 ただ状況によっては人工頭脳としてではなく学習装置として採用される可能性が微かにあるため、安易に戦火を広げるために使用されないとは言い切れないのが現実だ。 核を利用しプログラムで設定した電気信号を脳に送ることで認識を誤認させる、ある種の仮想空間は、まず間違いなく人工頭脳よりも先に求められる。 そうなると自身に求められるものはシステムを稼働させるために必要な核の量産であり、それは雪風にも使われていることから人工頭脳の量産にも繋がるわけだ。
危惧するのは“フリーダム”や“白騎士”のように、ある種のブラックボックス――動作原理や構造を理解していなくても外見のみで使用方法が理解でき、十分な結果を得られてしまう兵器を戦場に産み落とさないことという一点でしかない。 これは篠ノ之束がハル・ヨシノとしてドイツ連邦国防省連邦防衛軍に属した時、リリィと話し合った結果、共通認識という形で行き過ぎた技術を採用しないことを規則とし開発計画に参加した。 現存する人型の機体は軍用機に不可能な機動を行い、人の形を持つが故の柔軟性は扱いに慣れた搭乗者と組み合わせることにより、戦場という名の舞台において圧倒的な優位性を維持したまま制圧することが可能とされる。 もしも“白騎士”のような機体を一機だけ軍隊に与えたら――未知の存在に興味を引かれるのは人間であり、技術を持つ者たちの手によって機体は解析され試験可動を行い、複製機を開発し得られた情報を元に量産し配備するだろう。 時間はかかるだろうが与えた一機が元となり増え、その道中で他国のクラッカーに情報が盗まれ別体系の機体として更に増え続け、やがて開発競争へと発展し軍備路線へと加速していく。 そして標準的に配備され始めた頃には次世代機が開発され始め旧型の一部が資金調達のために売買――それが様々な戦場へと広がり戦火が拡大する。 人の手に有り余る技術を生み出すという事をリリィが危惧するのは、この光景を脳裏に描くことが容易かったからだろう。 前例がある時点で確実に無いとは言い切れない。 だからこそ篠ノ之束とリリィは新たな機体を利用されるなら作らないと決めた訳だ。
CFA-41“Mave”に関しては元々存在していた無人偵察機開発計画においてリリィが設計した機体であり、雪風には既に飛行補助プログラムとして試作三号機まで開発されていた人工知能を改修し発展させた形であることから、新規開発ではないと言い聞かせ完成させた。 元が軍用とは言え航空機――徹底した管理を行えば大きな技術漏洩は起きないはずで、篠ノ之束を匿う壁であり未確認人型兵器に対する力でもあるCFA-41“Mave”を誰にも渡す気はない。 もしも何者かの手によって複製品を作られた場合は、即座に開発情報を含め破壊したいほどに愛着があるのだ。 恐らく、それを正攻法で行うとしたら――夢の通り“CCCNO”社しかない。
こうやって思うと一時的とは言え冷静に状況を判別できるのは嫌悪感によって、様々な問題を正しい視点で排除しようとする感情が働いたからだろう。 矛盾によって疑念に満ち溢れた脳内が、全ての事柄を疑うよう仕向けた――自身の存在を理解しようとするために幾重にも引き直した可能性という線が、篠ノ之束の思考を客観的なものへと押し上げ、そこで得られた感覚が嫌悪感に触れ、否定するために目に映る世界を現実のものとして認識することができる。 可能性同士が反発してるという考えもあながち間違えではないということか、そう少し考え直し一息つく。
「私が嫌だから、それを否定するために……ね」
そういえば“CCCNO”社側に居る篠ノ之束が“Project Lily”という文字を書いた後に、似たようなことをリリィが自身に告げていたなと思い返す。 『迷ったときは自分の思ったことを素直に実行すればいい。 きっとそれが後悔のない自分の中にある真実なんだから』――結局、全ての答えをリリィから貰っていたのではないか。 もしも、あのリリィの言葉すら何者かによって自身に投げかけられた欠片だとしても、その時のリリィを疑いたくはない。 別に良かったのだ。 その言葉が偽りでもリリィから与えられたものだと自身が認識していれば。 別に良いのだ――自分が偽物であったとしてもリリィと共にいられるのであれば。
悩んでいたのが馬鹿みたいだと、少しだけスッキリした頭で再度現状を認識する。
今現在の篠ノ之束が置かれているのは原子力空母“Principality”であり、リリィと共に与えられた個室――現状では二人だけの自室だ。 そして作戦概要を聞いた限りではアジア圏同時二面作戦の第三段階という名の最終段階を実行する為、既に準備が開始されているらしい。 そして自身は目の前にいるリリィが篠ノ之百合であるのか曖昧であったため触れたら片腕だけ“フリーダム”を展開され、椅子に拘束されている。 しかもご丁寧に局部を強調するかのように縄で亀甲縛りした後に、後ろ手を椅子に括りつけられるという、ある種の拷問方法ではと疑うような状態。 本当に、どうしてこうなったのか当事者であっても問いかけたくなるような状態だ。 篠ノ之百合といい人を縄で拘束するのは趣味なのだろうかと少しばかり性癖を疑ってしまう。
「やっほやっほ~♪」
さて、どうやって抜け出したものかと考えてる時、ノックもなしに部屋の扉が開かれ鏡に映したかのような篠ノ之束が現れる。 この数ヶ月間、目の端には捉えていたが正面から見ることはなかった自身を悩ます最大の存在――この矛盾だらけの思考を作り出した張本人が篠ノ之束の前に普段と変わらない表情で現れた。 こちらの気も知らないでと思いつつも、身体を動かすことができず睨むことで出迎える。
「うわぉ~、そっか百合奈ちゃんの目からはこういうふうに見えてるんだぁ~。 なに、この強調されたおっぱい……すごく揉んでみたい♥」
「触るな馬鹿」
「へっへーん、やだよ~♪」
止めようにも自身の四肢は全て椅子に括りつけられており、精々近づいてきた頭に自身の頭をぶつけるぐらいしかできないだろう――残寝な事に頭が届く範囲に篠ノ之束の頭があるため頭突きをすることは叶わない。 無慈悲にも何だかよくわからない指の動きをさせながら篠ノ之束の手が胸に伸び、そのまま重さを確かめているのか手のひらで持ち上げたり柔らかさを確かめてるのか揉みしだく。 くすぐったいと言うよりもムズ痒く息が微かに止まる。 揉んでいる本人は純粋な目で興味深そうに自身の胸を見つめ、何か気になったのか顔を上げた。
「なんでブラつけてないの? 寝起き?」
「手を止めろ、寝起きで良いから揉むのをやめろ」
止めさせようと何度も口にするも自身が拘束されている状態をいいことに、篠ノ之束が篠ノ之束の胸を揉みしだく。 半年ほど前であれば首元に作っていた三つ編みを当てることもできたのだろうが、“白騎士事件”以降は篠ノ之束という存在の特徴として捉えることのできる装飾や嗜好は極力、表に出すことがないようにしている――原子力空母“Principality”の甲板上で顔を晒してもなお、それは続いており、当然だがウサミミも三つ編みも今は篠ノ之束には存在しない。 ウサミミに内蔵していた記憶媒体は持ち歩いているのだが装飾としての役割は存在しない、ほぼ一枚の外装のみで構成された箱型のそれは元がウサミミであったなど想像もつかないであろう。
身体を好き勝手に触られるという状態は、自身の存在を自由に弄り作り変えることに似ていると少しだけ思ってしまい、この光景が自身を外部から作り替えられているという状態の暗示なのではないかと考える。 まるで目の前にいる篠ノ之束という存在に侵食され上書きされていくような感覚――なんてものはなく、ただ嫌悪感が次第に強くなっていくだけだった。 可能性が微かに存在しているということはリリィ的に言えば対応を考えるに値する状態なのだろう。
「寝るとき用のブラとか試作段階のヤツ何個かあるけど、持ってきてあげようか~?」
もしかしたら自身の感知できない部分が変えられてしまっているのかもしれないが、それが理解できたからといって対応することができない時点で考えるだけ無駄なことだ。 そして残念なことに目の前にある篠ノ之束の表情は、明らかに胸を揉むことだけを楽しんでいるような自身の顔である。 この世界を水槽脳仮説として見るならば考えるだけ無駄であり、現実として捉えるなら目の前の篠ノ之束の意識が胸に向いている時点で無駄な考えでしかない。 無駄なのだ――自身の中から溢れ出す不安への行動全て。
「しかし、まだ大きくなりそうだねぇ~。 私だって百合奈ちゃんに揉まれて、ここまで大きくなったっていうのに、なんにもしないで、このおっぱい! いやぁ、流石私だねぇ~」
「同性の胸なんかを揉んでて楽しい?」
「おんゃ~? なんだか余裕綽綽の尺取虫さんじゃん? どったの~? なんか変なものでも食べた~?」
「一周回ってアホらしくなってきたから言ってるんだよ。 わかったら、その手を止め……なんで後ろに回り込んでんの、さっ!!」
未だに胸を揉みながら器用に自身の後ろに回り込むも身体との距離が縮まり、唯一動く頭を思いっきり後ろに振り下げる。 そのことに気がついたのか少しおどけた声を出しながら篠ノ之束は後ろに下がり、その直撃を避けた。
「あっぶないなぁ……ちーちゃんみたいなツッコミ方やめてよ、もー。 束さんじゃなかったらごっつんこだよ?」
「その束さんが狙ってやったんだから、大人しく当たってればよかったのにね~」
「……もしかして、私のこと嫌い?」
「好きになる部分がどこかにあるとでも思ってるの?」
「――あ~、そっかそっか。 そういえばキミっていう篠ノ之束は、そういうタイプだっけね。 で、あのツマラナイ悩みはもういいのかい?」
「ツマラナイって随分な言いようじゃんか、人の気も知らないくせにさ」
「そりゃ、同じ篠ノ之束が口にしたのであれば理解できるし、とてもどうでもいいことだね。 だけど篠ノ之束は鍵の一つなんだから、わからなくて当然――スペシャルだよ、スペシャル♪」
いつの間にか手を強く縛っていた感覚が無くなっており腕が動くことを確認すると目で確認する。 後ろに移動した勢いのせいで尻餅を搗く篠ノ之束を横目で確認し、その指の間に細い刃物のような何かが展開され、量子となり消えていく。 その光景は正しく自身が核の特性として認識した物質の陽子崩壊であり、それができるということは篠ノ之束の手札に核が最低でも一つは存在していることを示していた。 おそらく人工頭脳に使われた核ではないだろう。 アレは特定の手順を踏み生体認証を人工頭脳に読み取らせなくては機体のシステムが、敵勢力に奪取されたものと認識し完全自律制御で行動を開始する。 当然、当該区域を人工頭脳が可能である限り記録し敵を消去していき、その情報は即時に自身の元へ届く。 それが無いということはCFA-41“Mave”に搭載された核とは、また別の核を――恐らく“白騎士”から情報を収集し新たに開発したか、篠ノ之束が“白騎士事件”以前から保有していた可能性のあるモノのどちらかだ。
「――感謝の言葉なんて言わないから」
「本当に可愛くない私だねぇ~。 せっかくサービスしに来てあげたっていうのにさ~」
「それは例えば、地球への衝突コースに位置している1986VG1という小惑星のことなら、もう雪風ちゃんから聞いた。 “CCCNO”社の軍需産業部門に存在している試作型の宇宙艦とかも、ね」
電子の海は広大であり、たとえどのような情報老兵への防止策を備えていても同じ電子的な立場に使用者は存在している。 現実に存在している人間には直接、電子の海に接触することはできない――だが電子の海を覗く機器を使うことで閲覧し書き込むことはできるようになったわけだが、どちらも電子の海に鑑賞することができる機器を使用している現実という立場に存在している。 閲覧も対策、全ては電子の海を覗いている人間に対して組まれているものだ。 しかし雪風はどうだろうか。 人間でもなく単なる機械でもない人工頭脳は常に世界中の情報をネットワークを通して閲覧し知識として記録している――そんな対象に人間用の対策が意味を成すのであろうか。 電子の海を自由自在に閲覧し収集し鍵をかけられていたとしても、そこに書かれた内容を細い隙間を潜り抜け閲覧してしまう。 決して触れられないように組み上げたとしても、そこへ辿り着ける鍵が存在しているのであれば、それと同様の情報を与え鍵を無効化する。 どれだけ大規模な企業だとしてもシステムの元が同じであるならば不可能ではない。
つまるところ、雪風にとって“CCCNO”社の情報に掛けられた保護は意味を成さないのだ。 それ故に“CCCNO”社の各部署が保管する機密情報は雪風によって集められ、その複製した情報を自身が目にすることができる。 そこで公にされず記録された小惑星のことですら。
1986VG1とは太陽の周りを公転する軌道を木製と共有する小惑星の群――トロヤ郡に存在するエリック・エルストが1986年11月7日に発見した“ユリシーズ”と名付けられた小惑星の仮符号のことである。 よくScience Fiction作品ではL4点とL5点は正三角形解であり、その区域は安定的な均衡点であることから1969年にジェラルド・オニールの提案したスペースコロニーの設置場所の候補として作品では描かれることが多い。 そういう場所に存在していた小惑星が何かしらの理由により無数の破片として地球への衝突コースに存在しているのだ。
『A star falls……』と少し前に“Ghost”がリリィを誘い出す為、雪風に送りつけた暗号通信。 それの正体が“ユリシーズ”なのだ――そう、この情報を初めて見たとき気がついてしまった。 この公にされていない情報のは、対応が遅れれば未曾有の大惨事として“白騎士事件”以上に世界中を混乱の渦に叩き落とすことは間違いないだろう。 そのために夢の中でリリィは情報の精度を確かめるべく、“シンファクシ”級潜水空母に篠ノ之束を置いて乗り込んだのだ。
「次に私の前へ意図的に現れるのだとしたら“Project Lily”について触れに来るのは予想が出来ていたし、誘導か実行かの二択が確率高かったけど、あれから時間が経ってないことを考慮すると前者の可能性が高い。 大方、リリィちゃんか篠ノ之百合奈に言われて補足しに来たんだとは思うけど、私には雪風ちゃんがいる。 そっちの手の内は大体把握してる……。 夢であるのなら覚めて欲しいところだね、この悪夢の続きを見ないで済むのなら」
身体に残った縄を解き払いのけると振り返り篠ノ之束を見つめ、自身を縛り続けていた不安を断ち切ろうと口を開く。 この世界の真実なんか、今を生きる篠ノ之束には関係ないと。
「“Project Lily”について詳しく聞きたいところだけど、それは別の機会にしよう。 これからアジア圏同時二面作戦を締めくくる作戦の準備が……っ!」
しかしながら唐突に身体を貫く懐かしい感覚に口を動かすの止めてしまう。 この身体に染み付いた接近を知らせる感覚――かなり近い位置に未確認人型兵器が存在し、こちらを狙っている事を告げていた。 直後、艦内をけたたましいまでの警報が鳴り響き騒がしくなる。 対戦闘準備に鳴り響く音とは別の激しい音が頭上から聞こえた。
問題はないのだろうと安堵しかけたところで以前の感覚とは違い、妙に鋭く複数の存在を理解することができ現状戦力を再度認識しなおす。 過去の事例から弾き出すならば、この感覚は自身から半径数Km以内に存在する交戦意思を持つ未確認人型兵器が多数存在することを意味している。 “CCCNO”社の艦艇は原子力空母“Principality”を旗艦とした空母打撃群で構成されており、艦隊戦闘に関しては最低限対応ができる程度――しかし艦載機は現状CFA-41“Mave”だけしか存在しないのだ。 この距離まで接近を許してしまうのは致命的ではないだろうかと考えつくと、こんなところで時間を潰す余裕はないと上着を着ることなく部屋を出て格納庫に向かって走る。
これまでに複数機の未確認人型兵器を見てきたが、このような感覚は初めてだと素足のまま艦内を走り抜け格納庫で待機状態のCFA-41“Mave”まで辿り着く。 自身の全力で走ったため荒い息が口から漏れるも、そんなことを気にしている余裕はないと周囲を見渡す。
「……その格好で格納庫まで走ってきたの?」
【挿絵表示】
少し唖然としながらリリィが問いかける。 そんなに可笑しいかと視線を自身の身体へと下ろすと確かに大きめのシャツ一枚では、そんなことも聞かれるのだろうと納得してしまう。 走っている間は気がつかなかったが篠ノ之束が口にしていた通り下は何も付けていないせいで乳首とシャツが擦れ、シャツの上からでも理解できる程度の膨らみとシワを表面に作っていた。 リリィの言いたいこともわからなくはないと少しだけ恥ずかしくなりながらも状況と叫び確認を促す。
「あー、それが……どうやら“CCCNO”社の方で試験機の実地試験を行うとかで発艦指示は出ていない。 私も詳しくは知らないが甲板を覗きに行くぐらいなら許可をもらっているから、まずは耐Gスーツでもジャージでもいいから着てこい」
「――んで、なにあれ?」
どこかしら“フリーダム”に似た機体が細長い砲塔を左越しに空へ向け構え――そして引き金を引き膨大なエネルギーで空を焼いていく。 やがて遠くの空で光が弾け消えていくのをみて自身らが出撃しない理由を理解する。 しかし甲板上に存在する未確認人型兵器を理解できたことにはならない。 甲板から伸びるケーブルが砲身下部に接続されている所を見ると恐らく電力の供給を受けて砲撃をしているのだろうが、あのような機体を篠ノ之束はもちろん、リリィも見たことはない。 いや、見たことが無いという言葉は正しくないだろう。
「――“フリーダム”のデータベースから機体の照合確認が出来た。 GAT-X105“ストライク”と呼ばれる機体だそうだ……だが、理解できないな」
未だに“フリーダム”の解析どころか可動情報すらリリィに撮らせてもらえたことはないが、未確認人型兵器の登場により内部に記録されたデータベースだけは開示され自身も目を通した――もちろん何も知らない未確認人型兵器を知るためだ。 そのデータベースは複製され雪風にも入力されており、その中で欄外に置かれた情報の一つに“ストライク”と愛称が付けられた、あの機体が存在していた。 ここで問題になるのは一体何故、開発元が不明の“フリーダム”内にあるデータベースに“ストライク”の情報が存在しているのか――こればかりはリリィであろうとも理解はできないのか眉を顰めている。
元々、現代の技術では人型の機動兵器を開発することは不可能といっても良いだろう。 開発には様々な分野の科学技術が必要となり機械工学が満足な成果を出せたところで情報工学の現状では、とてもではないが完成には至らない。 そのため“白騎士”を除いた人型機を開発が行える存在は限られ、“CCCNO”社以外では“Phantom Aufgabe”社ぐらいが開発を行える可能性があった。 篠ノ之束ですら“白騎士”という機体を開発できても中身となるプログラムの設計がまとまらなかったのだ――当然、人体を一切露出することがない完全な人型機は“白騎士”以上に高度なプログラムを必要とする。
開発元が不明であったが可能性として製造元を消去法で導き出すことができた――だからこそ“CCCNO”社が“フリーダム”に準ずる機体を保有していても驚くことはない。 しかし、そうなると“ストライク”等の情報と一緒に纏められていた“ジン”や“ディン”等の未確認人型兵器の存在が理解できない。 目の前で砲撃を行う“ストライク”は理性的で人間の思考が動作に現れているが、対する未確認人型兵器は人間というよりは、やや獣よりで攻撃的――そして人工的でありながら人工的ではない存在なのだ。 人工物が破片すら残さず消滅するのなら、それはもはや現代の一般的な科学技術、その水準をはるかに超えたオーバーテクノロジーという存在でしかない。 いや、そもそも“白騎士”と同じように機体自体を何かしらに分解し収納している時点でオーバーテクノロジーだと分類できるのだが。
「“CCCNO”社は試験機の実地試験をしてるんだよね……? 気のせいじゃなければ“フリーダム”と同系統の機体が砲撃してるように見えるんだけど」
「安心しろ、私も同じ光景を認識しているはずだ。 間違いなく非通電時における相転移装甲の鉄塊色をした機体が高エネルギーの兵器を使用している。 原子力空母から電力を供給してるせいでバッテリーとの干渉を避けるために相転移装甲を切ってるのだろう……。 しかし核動力なら電力の供給は不要の気がするが」
「ディアクティブモードだっけ、相転移装甲に対して電力を通してない状態の」
相転移装甲は一定の電圧を装甲に流す事によって相転移する特殊な金属であるが、流すことが出来るのなら止めることもできる。 相転移することによって装甲材質としての強度を物理的な衝撃を無効化することができるが、同時に色によって視覚化させてしまう欠点を持つ――つまるところ相転移装甲の展開状態を外部から視覚のみで判断することができてしまうわけだ。 電力が流されていないとき相転移装甲は相転移する前の装甲材質となり、相転移時の色を残しながら強い鉄塊色を顕にする。 この時の装甲強度は従来の装甲強度となり相転移装甲が持つ本来の装甲強度を発揮することができない。 装甲強度以上の衝撃が加われば、その部分が壊れるし機体自体に歪みが発生する可能性もある事から、このような戦闘行動時において相転移装甲を非通電状態にする利益は無いのだが、今回のように機体外部から火器に使用する電力を持ってくる場合は別なのだろう。
しかし情報に存在している機体ではあるものの、“ジン”や“ディン”等の未確認人型兵器とは違い“フリーダム”と同じように光学兵器を扱う“ストライク”とは一体何なのだろうか。 これまでに迎撃し消滅させてきた未確認人型兵器は、それまでの痕跡を残すことがないため機体の動力源が不明であった。 ただ稼動時において“フリーダム”みたく放射性物質を残留させることがないためリリィとの間では非核動力機ではないかと予測しており、今回の“ストライク”という存在により、その可能性が確実なものとなったわけだが、では未確認人型兵器と“ストライク”、そして“フリーダム”の違いとは一体何なのだろう。
「なんにせよ“CCCNO”社が相転移装甲の精製環境を整えていることは判明した。 “フリーダム”の出処が判明した瞬間、というわけだ」
肩を竦めてリリィは甲板上で砲撃を続ける“ストライク”から目を離し階段を降りる――これ以上の情報を得ることはできないという判断からだろうと、自身もそれに続き階段を降りる。 春に近づいてはいたものの二月の海は未だに冷たい風で身体を撫で、ジャケットの隙間からシャツを通り越し自身の肌を冷やす。 構造上仕方がないのだろうが格納庫から飛行甲板に向かう階段は外ではなく内部に作って欲しいところだと、何も遮るものがない場所を見て少しだけ思った。
「――それにしても随分顔色が良くなったようだね。 もう大丈夫なのかい」
「あれ~? もしかして心配してくれちゃってたりして~」
「それなりには……ね。 こう言うのもおかしな話だけど、私が束と出会ったせいで苦しめてるんじゃないかって、少し考えてた……。 もしそうなら私は束に何ができるのか、何をしなくちゃいけないのかって……」
「あ~、いたたたたー。 リリィちゃんのせいで苦しいし責任とってもらわないと」
「何言ってるんだか――それだけの余裕が戻ってきたなら当分は大丈夫でしょ。 この任務が終わったら誕生日祝いに、どこか出かけよう。 ラウラに寂しい思いさせちゃってたし、それも兼ねて」
「そういうリリィちゃんだって今まで以上の余裕があるじゃん。 散々、こんなかった~い顔ばっかしてたのに――口調だって数ヶ月ぶりに聞いたよ、そんな優しい声」
そうか、と不思議そうに問い返しリリィは歩みを止める。 自分では気が付いていないだけなのだろうが原子力空母“Principality”に来てから常にといっても良いくらい、その表情は何かしらを警戒し硬かったのだ。 こんな場所にいるくらいだ、空中完成指揮管としてのスカーレット・リリィでいた方が何かと都合が良かったのであろう。
「――お互い様ってやつじゃない」
「だね。 それにしてもシャツ一枚で飛び出てきた時は流石に驚いたよ、寝起き?」
「色々あったんだよ、篠ノ之束に胸揉まれたりとか……」
「……本当に何があったのさ」
それが理解できれば苦労はないと肩を竦めることで伝えると流石のリリィも苦笑いするしかなかったのか、それ以上、踏み込んでくることはなかった。
「ラウラちゃんは、元気だった?」
「声でしか確認は取れてないけど風邪や怪我をしたようには感じられなかったかな。 流石に一ヶ月程度じゃ変わらないって」
「へぇ~、私の知ってる人は五歳で行方不明になって見つけたと思ったら地球の裏側で軍人をやってる人が居るんだよねぇ~。 空軍少佐で空中管制指揮管で人工知能開発計画やら無人偵察機開発計画やら色んな場所に首突っ込んでるような子供が」
「誰のことやら」
なるほど、と理解したのか少しだけ笑みを崩すも、その表情には十分な余裕があるように見て取れる。 本当に久しぶりの笑顔だと感じてしまうのは、ここに来てから自身が目に映る世界に疑念を抱き狂ってしまったせいなのかも知れない――リリィと共にいた時間を無駄にしたのかもしれないと少しだけ惜しいと思えた。 それだげの余裕が今の自身にある、その証明なのだろう仕方ないと受け入れる。 背後で空を焼くような閃光が少しづつ、その余裕を削っているような気もするが。
「――この一ヶ月近く、束が頭を悩ませていたのは見ていたし私が一番近くにいたから知ってるんだけど、だからこそ答えて。 この目に見えている世界が偽物だと仮定して、どうして束は余裕を持つことができたの?」
試すようなリリィの声に少しだけ不安を覚える。
「私はまだ束を信用しているわけじゃない……」
道理だろう。 自身からしてみれば、この世界は偽物であるかも知れないがリリィからしてみれば紛れもない現実なのだ。 そんな状態を受け入れることもできず制御できなくなる可能性を持つのであれば、当然、信用することも触れることもしないだろう。 いや、そういうことではなく“白騎士”を見せた時からリリィにとって篠ノ之束という存在は監視対象でしかなかったのかもしれない。 危険な数値を持つ人間。 だからこそ手元に置くため自身は愛する者達の前から、あの夜、攫われたのだ。 別に恨むことではない――それが最善の行動だったのは理解できるし代わりに一番求めていたリリィの隣に座ることができた。
「今でも疑ってるよ、疑ってるんだよ――目の前にある幸せが触れた瞬間に崩れてから零れ落ちちゃうんじゃないかって。 砂のように風に吹かれて指の隙間から消えていく、そんな光景を次の瞬間見るんじゃないかって……そんなことないよねって思いながら不安に潰されそうになってベッドにくるまってた」
「……まぁ、わからなくはないね」
「でも私はリリィちゃんが側にいてくれるなら、それでいいんだって思い直したら偽物の世界でも別に良いかなって思えちゃってね。 だって、いくら私が足掻いたところで何も起きやしない――抵抗出来てるのかどうかさえわからない、何も証明されない解らないことだらけ。 それなら私が好きになった人と、この箱庭かもしれない世界で一緒に過ごしていたい、幸せだと思っていたい。 例え、そこに閉じ込められたのが偽物だとしても私が信じた篠ノ之百合は間違いなく箱庭にいる。 その篠ノ之百合が生きようとしているのだから私も生きようって、そう思ったわけだよ」
「自分自身が何者でも?」
「仕方がないよ。 だって篠ノ之束以外の私なんて知らないんだから」
自分は自分以外に成ることはできない――あの日、リリィから受け取った答えが繋がっていく。 確かに自身を脅かす外敵が明確に存在しない以上、生きていくのに不都合はないし不安という可能性も、それほど重要なことではない。 原型であろうが複製個体であろうが篠ノ之束以外の他人として生きていく事なんて出来ないのだ。 出来るはずがなかった。
「私はここにいる、それだけだったんだって気がついたら複製個体とか水槽脳仮説とか一周回って、どうでもいいかなって思っちゃってね。 まぁ、それでも半分位は不安だし疑っているんだけど」
「――気になった事が一つあるんだけど聞いていいかな? 私を信じるというのは百歩譲っていいとしよう。 今の言葉だと、まるで告白されてるみたいなんだけど?」
言われてみれば確かに、これではまるで愛の告白ではないか。 海風が二人を通り抜ける船の上で愛の言葉。 咄嗟に否定しようと手で、その言葉を否定しようとし――いや待て、と自身の行動を止める。 別に日頃からリリィを嫌っているわけでもないし、自身が好意を抱いているのは間違いようがない事実であるし、それを隠して接してきたわけでもない。 口には出さないが、これまでリリィへ行ってきた自身の行動は好きな相手だからこそ行っていたスキンシップの一種だ。 逃げる必要はあるのだろうか。
いや、そんな必要はどこにも無かった。
「――私は自分の気持ちを正直に口にしただけ……だから、今の言葉が告白聞こえたのなら、私はリリィちゃんが理解できる程に好きだってことなんじゃないかな?」
答えを今聞きたくないせいか明確に答えることはせず、止まっているリリィよりも先に階段を下り――丁度、二人の顔が同じ高さになる。 その少しだけ困惑してる表情を見て少しだけ笑いそうになった。 困惑するように口にしたのは自分だが冷静に考えれば、それは告白を認めたようなものなのにリリィは理解していないような顔。 それはそれで余計に恥ずかしくならずに済むのだが、逆に自身の気持ちを軽く見られたような気がして悲しくもあり、可笑しかった。 今はそれでいいとは思う。 ここはアジア圏同時二面作戦の最前線ではないとは言え、今も実地試験中の“ストライク”が未確認人型兵器に向け砲撃し続けている戦場だ。 告白答えは無事に返ってから静かに聞かせてもらいたい、そう思いながらリリィの頬に手を伸ばす。 壊れ物を扱うように、優しく――力尽くで抱きしめてしまった、あの時とは違い。 拒まれることのない手は困惑しながら、その手を見つめるリリィの頬に触れる。
リリィとの年齢差は七歳で二人の身長も、それ相応の差が存在するわけだが、それが今まで嫌だった。 周りの子供達とは違い大人のように発育してしまった自身の身体――まだ高校にも進学していないというのに伸びきってしまった手足。 別に周りからの視線を気にしたことはないがリリィと共に歩けば大人と子供の関係に見えてしまう。 小さい頃の篠ノ之束を見て欲しかった、覚えて欲しかった――それで共に成長していけたのなら、と何度、夢見たことか。 でも現実は半年ほど前に顔を合わせたばかりの関係だ。 まだ他人といってもよい。 だがリリィよりも大きいという利益は間違いなく存在する。 抵抗できないよう抱きしめたり、こうやって優位することだってできてしまう。
唇が動いて何か語りかけてくるが波の音や砲撃音で正確に聞き取ることはできない。 止めてほしいとでも言ったのだろうか、それとも誰かが見ているとでも言うつもりだったのだろうか。 だが、そんなものは関係ない。 片足でリリィとの距離を、やや前のめりに縮め――その頬に自身の唇を触れさせた。