晴れ渡った空が太陽の光を遮ることなく彼が歩く道を――古臭くも完全に劣化したわけでもなく、所々改修した跡が見受けられる軍隊が所有する施設の廊下を照らす。 必要最低限の作りではあるが他の施設よりも働いている人員が少ないせいか狭いと思ったことは一度もない。
それに無くて良いという施設でもないため工事もすれば外装の塗り直しだってする。 防空任務に当たるわけもなく極僅かな部隊しか使用しないが、ドイツ連邦国防省連邦防衛軍内で特殊な位置に存在する第五空軍師団が唯一使用することができる航空基地なのだ――備品の全てを疎かにすることはできなかった。
――天気も良いと仕事とは言え元気な人が多いな……。
窓から見える滑走路の端ではトレーニングの一環なのか数人が汗を流しながらも疲れた様子を一切見せず走っている。 背筋の伸び具合から疲労が無く走っている事が理解でき、彼は天気が良い日に外を走ると気持ちいいんだろうなと軽く考えてしまう。
まるで絵に書いたような空には数本の白い線が横に引かれており周囲に響くエンジン音が彼を現実に引き戻す。 一息ついてから彼は手に持った書類を抱え直し静かに歩き始めた。
「――“
一瞬誰のことだか理解できず歩き続けていたが、ふと自身がスカーレット・リリィである事を思い出し銀の髪を靡かせながら振り返る。 太陽の光が彼――リリィの髪を美しく輝かせ、その身長も相まって周囲の視線を集めていく。
一体誰が呼んだのだろうかと声の主を探すも丁度人が多く視線の大半が向けられれいるせいで判断がつかない。 だが遠くから息を切らせ小走りで走る見知った姿を見つけ視線を彷徨わせるのを止めた。
一体何があったのだろうかと思う程に駆け寄ってくる彼の姿は何だか間抜けで――ボタンを止めることなくシャツは片方が裾から出ており、ダークグレーのスーツはアイロンをしたのか疑わしいほどヨレヨレだ。 焦りながら自身を探すという普段の彼から思いもつかない奇行地味た行動に事故でも起きてしまったのだろうかと内心恐怖しながら、その姿を見つめ続けリリィの前で膝に手を付き息を整え始めた彼に何と問いかけようか考える。
そんな光景を周りは不思議そうに眺め、そして何事もなかったかのように日常へ戻っていく。
「――ノア中尉、そんなに慌てて一体どうしたんです……事件でも起きましたか?」
クラウス・ノア――ドイツ連邦国防省連邦防衛軍に所属する軍人で階級は空軍中尉。 第五空軍師団に設立されている第506戦術飛行隊、通称“
その名の通り“
軍人といえば筋肉質の屈強な戦士、もしくはタバコ臭い博打好きな男を想像するだろう――だが目の前にいるクラウスはそのどちらにも当てはまらなかった。 必要最低限の鍛えられた筋肉が細身ながらも彼の身長と合わさり軍人というよりもジム通いした一般市民のようにしか見えないのだが、それでも軍人――軍用機のパイロットである。
リリィ達がいる場所からでは角度的に見づらいが、現在格納庫には飛行訓練で使用されたMiG-29“
今現在ドイツ連邦国防省連邦防衛軍が使用できるMiG-29“
だがそれも替えの効く部品が残っている間だけだ――もしかしたら替えの部品が無くなったという問題だろうか。 確かにリリィも書類上確認してはいるが整備しているのは人間である。 何らかの拍子に部品が破損したり紛失したということも十分に考えられる。
「いや事件というわけじゃない、が……そうだな――どこかの誰かさんがフラッといなくなった、なんて事件ならあったな。 さてと、ほら食堂に行くぞ。 誰かが連れて行かないと居なくなった誰かさんは食べなかったりゼリー飲料で済ますだろう?」
「……いったい誰のことですか、それ?」
「お前のことだよ! 一応言っておくがな、ちゃんと飯を食う約束もしたしスカーレットも了承しただろう。 それなのに俺が管制室に向かってたら……」
半分怒りながらも呆れた顔でクラウスは再び息を整え乱れた服装を直す。
そう言えば離陸前に無線で何か言っていたような気がしたが適当に相槌を打ってしまったせいで覚えてない――おそらく約束とは流してしまった会話の中にあるのだろう。 流石に無線の向こう側にいる人間の口を見ることは出来ないため、リリィであっても記憶を辿って思い出すことは難しい。
本当に自分はクラウスと一緒にご飯を食べる約束をしたのだろうか――そう考え続けても答えは出るはずもなく仕方なく食堂へ向かう事になる。
「――なぁ、スカーレット。 何時も報告書だけは俺達の所に持ってこいって言ったよな?」
目線を合わすためにしゃがみ込んだクラウスは視界にリリィが抱える書類の束を見つけ、それが何であるか察し告げた。
飛行訓練の報告書――つい先程“
リリィの戸籍は働くために必要な最低限のラインを越える程度の情報改竄がされているが、頭の回転は速く大人顔負けの指揮をするとは言っても、まだ十にも満たない子供であるということをクラウスは知っていた。 仕事をするのに早すぎるのだ――それも国家間の汚れた関係を保つ軍人という職務は特に。 リリィには色んな意味で似合わない、そう言いたいのだと痛いほど理解できてしまう。
だからこそクラウスはリリィの職務を変わりに受けようとしているのだが、それが出来るほどクラウスは器用でもなければ国家の計画に参加しているリリィをただの子供であると断言するには難しい。 彼の手にする情報や書類は軍事機密に近いものなのだ――当然ただの子供に預けるほど軍隊という機構は崩壊してはおらず、それに携わることが出来る頭の良さをリリィは今まで見せ続けてきた。
どう心配したところで意味がないことなのだ。
「別に大丈夫ですって――これが私の仕事なんですから、ね。 というよりも“
そう口にするが間違いなくドイツ連邦国防省連邦防衛軍においてリリィ以上の管制指揮管はいないであろう――そんな優秀すぎる人物を第一空軍師団に在籍しているとは言え第五空軍師団の専属に近い形で遊ばせて置くのはどうなのであろうか。 最も軍上層部としては第一空軍師団で幅広く活躍して欲しいだろう――もちろん何も知らなければクラウスも同じ意見なのはリリィですら簡単に理解できることだ。 しかしスカーレット・リリィという人物は本来、存在もしなければ正体は成人もしておらずまだ学校にも通えない子供なのだ。
空中管制指揮官
当然、それに見合うだけの活躍をこの短期間に見せてきたわけだが、クラウスにとってはそれでも子供に見えてしまうのだろう。
「遠慮するな、ほら」
「そうは言いますけど本当に今日はこれしか出てないんですって。 これが無くなると私は暇で仕方がないんですよ? それにノア中尉、この間の報告書見ましたけどデスクワークとか苦手でしょう。 また再提出なんて言われたら二度手間です――ですので中尉には渡せませんので、ご自身のお仕事に専念してください」
リリィとしては飛行訓練を行ったばかりのクラウスに仕事を押し付けることはできないという意味で口にしたのだが、クラウスという人物は妙なところで
「なら何も言わないが……」
「――そう言って、また明日も同じことを口にするんでしょ? その言葉はつい二日前にも聞きましたし、その嘘だろ的な表情も同じように見てます――まったく、シェナスよりも幼く見えるのは事実ですが、逆に少しぐらい私を頼ってくれたりしてくれてもいいんじゃないですか?」
何度も同じ行動を取っていると指摘されクラウスは何も言えなくなった。
事実、子供であれば同じ流れで誘うことにより押し切れると“
別にリリィとしては口うるさい姑のように何もかも否定されるわけでもないため気にはしていない。 軍内部での人間関係を円滑にするためには規律で縛るのではなく多少の冗談や軽口で仲間意識を持たせるのが重要なのだ。 流石に作戦行動中に行われたらリリィが口うるさく言うのだが今は平時――流石に静かな時間を規律で縛ることは自身も疲れてしまう。
どうせ明日も聞いてくるんだろうなと思いながらリリィは後ろから近づく気配に嫌な予感を感じ書類を持ち直し振り返ろうとすとする。
「何楽しそうに二人で話し込んでるんだ?」
しかし唐突に脇の下へ手を差し込まれ軽々と抱き上げられてしまい驚くも、このようなことを実行する人物は一人しかいない。
現在、ラインラント=プファルツ州バート・デュルクハイム郡周辺の山岳部を切り開き作られた第五空軍師団の航空基地は緊急時の任務を除くと、特殊な任務以外が無ければ左遷に等しい異動でしか足を踏み入れることはめったに無い場所だ。 自然豊かな場所で少し歩けば温泉保養地と知られ、毎年九月になると世界最大級のワイン祭りが行われる街がある。
そんな航空基地で空軍少佐のリリィに対し上官侮辱罪に等しい接し方が出来るのは基本的に少佐よりも階級が高い六人しかいない。 そして内五人は節度を持った行動をしており勤務中に巫山戯た行動に出ることはないだろう――つまり最後の一人が今現在リリィを抱き上げている張本人だということだ。
肩ごしに呆れながらも鋭い目でリリィは男を睨みつける。
少々痩せこけたような頬が日頃の生活や過酷な仕事を顕にしているのか、その表情は残業明けのサラリーマンに似た何かを感じさせるが体格は軍人としては理想的な程しっかりしておりリリィの身体を天井近くまで持ち上げられるほど。 しかしその性格は明らかに軍人というよりも家族思いな父親と言ったほうが良い。
イージス・ハルフォーフ――クラウスの上官で“
優秀なのだが性格に難有りといったところだろう。
「――毎度ことながら何してるんですか?」
「ん、そうだな……昼食べに行かないかって誘いに来たら丁度クラウスと話してる姿を見つけたから驚かしてやろうと思ってな」
確かに驚きはしたが後ろから何かが近づいて来る気配を感じ取っていたため、それほど驚きはしなかった――しかしおかげでもっていた書類が数枚ほどリリィから零れ落ちたのは誤算だっただろう。 不規則に落ちたためか何も書かれていない書類の裏面が表になっているのは不幸中の幸いというべきか、だが親切心からかクラウスが落ちた書類を拾い上げ偶然にも内容に目を通してしまう。
確かに書類にも順序や種類というものがあり裏面のまま整えろというのは無理な話だ。 それにファイル等で纏めていない時点で重要性は皆無だと思われても仕方がないこと――手が自然と表に直してしまうのは人間の心理というものだろう。 偶然とは言え見てしまったものは仕方がない。
――まぁ、別に大丈夫か……。
抱き上げられながらもクラウスの手から書類を取り返すと、その内容に目を通し特別視するほど重要な内容ではないことに安堵の息を漏らした。
「全く――何かってに見てるんですか。 確かにどういう類の書類を持っているか言いませんでしたが、内容に目を通すのはダメでしょう」
「いや、お前――それって確か無人戦闘機開発計画のヤツじゃ? なんで持ってるんだ……」
「そうですね、確かにUAV/PNX-041ですが? それが――ああ、ちゃんと許可を得て正式に引っ張ってきましたから別になんも問題は発生しませんよ」
人が搭乗しない無人航空機、Unmanned aerial vehicle――頭文字をとりUAV、通称ドローンと呼ばれる機体は遠隔操縦による自律飛行可能な小型無人航空機のことを指す。 これらは大小様々な機種が存在し第一次世界大戦時から研究が勧められ、1970年頃から無線機の小型化や電子誘導装置の技術が発達したことによってアメリカやイスラエルで本格的に開発が開始され、今現在も技術が進歩し続けた結果、いかに敵勢力に発見されず作戦を遂行できるかという有人機同様の命題に直面している。
ドイツ連邦国防省連邦防衛軍もLuna X-2000という機種を陸軍が運用しており無人航空機自体、そう珍しい
単純なプログラムで動かしているのだからこそ有人機には適わないのは道理ではあるが、それでも無人機でありながら偵察任務を始め電子支援を行えるまでに技術は発達したわけだ。 敵勢航空機との格闘戦を無人航空機に求めるほど戦争という技術を試す試験場は次のステップに入り込んでしまうのは当然だろう。
既に数多くの試作機が古くから考えられてはいるが高い研究費を出してまで製造する必要はあるのか――そもそも人間がプログラムの代わりに偵察飛行すれば解決するのでは、そのような資金面の問題によって製造されるものは研究資金の関係で単純な多様性の無い機体ばかりなのだ。 むしろ無人航空機に多様性を求めると現在の研究資金では圧倒的に足りない上にデータも足りず、挙げ句の果てには技術も無い。 確実に実用性のある機体は完成せず、そんな目に見えた結果へ大金を裂くことが出来るほどドイツ連邦国防省連邦防衛軍は潤ってはいなかった。
しかし一年前にリリィが軍属になったことで計画は急激に進展することになる。
今までの無人戦闘機は単純なプログラムから事故や欠点が発生し、それに引きづられるよう様々な問題が浮かび上がり技術者はそれに対応。 機体の限界をプログラムに合わせ製造してきたのだが、初めて顔を出した会議でリリィは今まで開発してきたプログラム自体が非合理的だと口にしたのだ。
誰もが困惑した――見るからに子供なのだが少佐の階級章をつけたリリィに何が分かるのだと。 そんな周囲を気にもせずプログラムに視線を落とし続けるリリィは、目の前にあるプログラムの問題点と解決案、長所と短所を上げていき最終的には全く別の人工頭脳を主軸とした機体制御を提案した。
元々、コンピューターの発達によって単座機に複座機同様の性能を求めてプログラムが組まれている時代である。 リリィが口にしなくてもいずれは誰かが案を出し開発が始まったであろう計画は当初否定的であったものの試作機が完成し明確な形となってきたことにより今までの流れが嘘のように始動していく。
その時に設計された機体の一つがUAV/PNX-041――無人戦闘機の41番機だ。
「また懐かしいものを持ってきたな。 そうだクラウス覚えてるか――あの時、俺達の隊をダミ声で管制してたヤツが急にスカーレットに変わって大爆笑したの」
「そういえば作戦行動中に指揮官が変わって驚きもしましたが……誰でしたっけ。 おっさんが女になったって言ったの。 アレのせいで色々とひどい目にあいましたね――ラズフィート少尉」
F-15C“
“
最初は何を言っているのだろうかと怪訝そうな表情で見られはしたが直後に複数もの反応があり当時の管制指揮管も迎撃を急ぎ命じた。 攻撃が来ると分かり迎撃態勢に移るのは早いほうが良い――そう感じ実行した行動だったが結果オーライというわけにも行かない。
当然、何故反応が無いのに空対空ミサイルの接近を察することができたのか問題となり、他国のスパイ疑惑もかけられたがリリィの素性を軍上層部に開示したのと何度かレーダー替わりに軍用機へ乗り模擬戦闘を行った結果、そういう体質であると断言された。
結果的に人工頭脳の開発を行いながら今現在“
まだ抱き上げられたまま下ろされてもいないのだ。 そんな状態で面白くない話を聞けば機嫌も悪くなるのは当然だろう。
「ところでハルフォーフ大佐――いつまで私を抱き上げてるつもりですか、セクハラで訴えられたいんですか?」
だからこそ辱められた分だけ辛辣に咎めてもいいだろうと他人が嫌がりそうな会話の流れを脳内に組み立て始める。 そんな言葉を予測していなかったイージス達は呆然とし言い訳でも考えているのだろう――なんとも間抜けな表情をさらしたまま動きを止めてしまっていた。
「なんだセクハラか大佐? クラリッサが可哀想だから問題起こすにしても程々に……」
横を通り抜けた“
問題はイージスがリリィと同じ屋根の下に住んでいるために男性だと理解していることだ。 この行為は同性同士であるからセクハラではない――というのだろうかと、どのように逃げるのか即座に考え虱潰しに逃げ場を奪う返答を組立て行き追い詰めていく。
リリィが男性であるということは軍属になる前からイージスは知っていることだ、今更性別を間違えるということはありえない。 また上官であることを盾にするような性格でもない事は十分に理解していた。 ならば何を言えば一番響くか深く考えるまでもないだろう。
「いいことを教えてあげましょうか。 セクハラというのは性別の違いから起きるものではなく、相手の意思に反して不快や不安な状態に追い込む性的な言葉や行為のことを指すんですよ? 男性から女性、女性から男性はもちろん同性愛や性的いじめもセクハラの対象になります。 まして女性ならまだしも私は男――男色家なんですか……流石に引きますよ?」
イージスの顔が引きつっていく――当然だろう。 ドイツ国内でリリィに接することが一番多かったのはイージスなのだ。 それは彼の性格、感性、短所まで考えなくても理解できてしまうほどに接していたという結果が、今現在リリィが割と本気でセクハラについて語っているのだと感覚的に理解できてしまったのだ。 これは冗談であっても本気に等しい冗談であると――イージスの脳内は警告を発し続けている。 その逆もまた然り――リリィはどのような言葉を紡げば相手が焦るかなどイージス相手なら簡単に思いつく。 だからこそ脅すように語り続けた。
リリィにとってみれば良く知るイージス相手なら出来て当然のことなのだ。
少女にも見えなくはないがリリィに手を出したとなれば外見的にはロリータコンプレックス――いやハイジコンプレックスという不名誉な称号が与えられるかもしれない。 ついでと言ってはなんだがリリィは男性であるからホモセクシュアル、もしくはそれらが変形した形の何かがつく可能性も高く、下手をすれば少女の様に見える男性を――等と噂に尾ひれ背びれが付くだろう。 同時に勤務中のハラスメントが問題となり減給、もしくはこれ見よがし降格させられるのかもしれない。
既婚者であるイージスがそんな噂を流された日には家庭が崩壊、また社会的な抹殺を受けたのも同義であろう。 冗談であると頭で理解していても脳裏に過る可能性がイージスを追い詰めているのが表情から分かる。
「――はぁ、ま……冗談なんですけどね。 食べに行くんでしょ、行きますよ」
これ以上弄っても仕方がないと歩みを止めていた足を食堂に向ける。 せめて手に持った大量の書類をリリィに与えらた机に置きに戻りたかったが、おそらく戻ったら様々なものが目に入り食堂に行くことすら忘れてしまうだろう。
後ろの二人に気がつかれないよう小さい溜息をつくと無言で歩き続けた。 イージスは終始無言ではないものの小声で会話し食堂までの道を歩く。
「言っておきますけど私は怒ってはいませんからね――ただ毎度アホらしいことをする大佐に呆れてるだけです。 では先に席を取って書類を書いていますので適当なのを持ってきてください、頼みましたよ」
その間にも少しだけ書類に目を通し手を付けられるならと二人に後を任せ、先に席を確保しそこで書類を広げ報告書を書き始める。 クラウスの行った訓練飛行の関係でリリィの昼食も何時もより遅くなってしまい、そのおかげか食堂には人の姿が多くはない――別に広げたところで迷惑もかからなければ、食堂で書類を書く人間もたまにいるのだ。
第五空軍師団に所属する半数近くの軍人は食堂に近い宿舎に寝泊りしているため、お手洗いや自販機が近場にある食堂で夜遅くに終えることができなかった書類やミーティングを行ったりする事がある。 運がよければ食堂で働く人達が差し入れと称した夜食を作ったりしてくれたりもするので食堂での業務処理を行う軍人はそう珍しいことではなかった。
元々クラウスの言ったとおり机でゼリー飲料を流し込みながら作業する予定だったのだ――それが食堂に変わるだけで特に何かが変わるわけでもない。 だが書類が汚れる可能性が飛躍的に高まったことでリリィは数枚だけ束から出すとペンを走らせる。
こういう書類はデータで提出したほうが何かと早いのだが複製や外部からの不正な閲覧も出来てしまうため紙媒体での提出を義務付けられており、責任を持たなくてはならない階級になるとその枚数は数百枚にもなるためリリィは好きになれない。 子供の身体では数百枚の書類を持ち歩くことが不便で仕方がないのだ。
「――それにしても本当多いな。 何枚あるんだ?」
流石に数える気にはなれないが大雑把に見て二百枚は超えているだろうか。 ついこの間までファイルケースを使用していたのだが、プラスチックで作られた簡素な作りは五十枚の書類を持ち運んだだけで壊れてしまうほど――それなら手で持ち運んだほうが落とさなくて済むと使わなくなったのだが、茶封筒ぐらい使っておけばよかっただろうかと今更ながら思う。
書類の枚数に呆れながらクラウスは片方の手に持っていたサンドイッチをリリィの邪魔にならない場所へ置く。 その後、イージスが自身の配膳皿と三人分の水が入ったコップを机に置き椅子に座る。
「珍しいですね、大佐がライスだなんて」
「とは言ってもタイ米だからな……日本米には質じゃ適わんさ。 それにカレーライスは食べるとクセになるほど旨いぞ。 というかお前達はサンドイッチか――それで腹が持つのか?」
「それはいいですが
「……クラウス、今日のスカーレットやけに冷たくないか?」
「まぁ、スカーレットは子供扱いされるの嫌ってますからね……。 あんなことしたら不機嫌にもなりますよ。 それにあの紙束の中にPNX-041のが混ざってますから汚されたりすると、ってとこでしょう――あと俺は食べ過ぎると後で腹を下しますからサンドイッチだけでいいんです」
何ひ弱なことを――と言いつつもスプーンでご飯とともにカレーをすくい上げイージスは食べ始めた。
食事とは人間の三大欲求の一つである。 もちろんそこには味覚を始め空腹を満たすという娯楽が存在しており、その楽しみ方は人それぞれなのだが――生憎と二人はパイロットであるため、何時どんなときにでもスクランブル発進に対応できるよう食べれる時に食べておくのが軍人の基本。 食が細いクラウスにとってサンドイッチで当分は満足するだろうが軍用機を飛ばすという行為は意外と体力も使い、体力がなくては集中力も続かない。
人間として食事を楽しむのであれば問題なかったが、食事を取るという行為も軍人としての任務であろう。 自分には関係ないことだ、そう切り捨て書類を書く手を一度止める。
「私の分も食べますか――そこの作戦終了後に空腹を私に訴えかけてくる中尉さん?」
「成長途中の子供から貰うわけには行かないな、少佐殿」
軽口を叩きリリィは横に置かれたサンドイッチに手を伸ばし書類を書き続けた。
「そういえばスプリング大佐もこの間、電話を受けながら器用に書類書いて部下に持って行かせてたな」
第五空軍師団には二つの隊が存在しており、その片方――第502戦術飛行隊を率いているのが、仮面で表情を隠したトライワイト・スプリングと呼ばれる人物だ。 目を見開いたような奇抜な仮面を常に付けていることから気味悪がられているが軍内部において様々なコネクションを持っており、指揮した作戦の成功率が高いことから名の知れた優秀な軍人であることは間違いない。
第五空軍師団には変なのしかいないのかと思わせるような筆頭人物である。
「仮面隊長ねぇ……。 そういえば誰かがスカーレットの父親なんじゃないかって噂してたな――ほら丁度失踪してるし」
「……初耳な上に物凄く不快な内容だことで。 どうせ仕事でフラっとしてるだけだから、無駄に騒ぎを大きくしなくてもいいのに」
リリィにとって変態の代名詞とも言える人物が父親ではないかという噂に失笑を禁じ得ない――しかし髪の色や声は、どことなく似ているため可能性としては僅かであるが存在していた。 だからこそ血の繋がりがあるような噂が流れるのだろう。
実際、リリィも初めてトライワイトという人物を見たときは父親なのではないかと疑ったものだが、ふとよく似た人物を知っているため問いかけるようなことはしなかった。 別に父親のことは嫌いではない。 だがリリィを見る目が何か違うモノを見ているようで好きになれないだけ、好きでも嫌いでもない――関わりたくないだけだ。
あの目はリリィという存在を通して別の何かを見ている気がしていた。
「俺も一度カマをかけてみたんだが何一つ出てきやしない――百合奈なら表情変えずにサラって嘘つきそうだがな……。 まぁ噂だ、気にするな」
その程度の些細な噂に左右されるリリィであれば軍籍にならなかっただろう。 既にトライワイトという人間と出来る限り関係を持たないようにするという結論を出しているため考えるだけ無駄なこと――しかしその噂で隊内の視線が変わるのは流石に面倒だと感じる。
――そういえばスプリング大佐も少し前に大規模作戦の指揮をとったって記録に書いてあった気が……。
お互い一定規模の指揮を取れるという嫌な共通点に気がつきサンドイッチを落としかけた。 火のない所に煙は立たぬとはこの事だろう――まるでトライワイトという父親が出来たのだから子供であるリリィも指揮できて当然ではないかという結果が、親子関係を後押ししているような真実味を帯びた噂を広げたのだろう。
客観的に見て仮面下の素顔は知らないが確かに二人の容姿は非常に似通っており髪の色も声でさえ、その内面すらも同じ血が流れているとしか思えない――リリィが成長した姿がトライワイトだと言われたら本人ですら微かに納得してしまうほど似ている。 いや本当は同一人物ではないのだろうかとすら思えた。
しかし有り得ないことだと噂を切り捨てる。
「そういえば今朝スプリング大佐と何か話していませんでしたか――今にも掴みかかりそうな表情でしたけど……」
「――そうだな……いずれ分かることだから先に伝えておく。 軍内部で極秘実験が進められているらしい――体外受精時に遺伝子を調整し軍用のデザインベイビーを量産する計画だそうだ。 その一人を“
その言葉を理解するのと身体が無意識に立ち上がったのは同時だった。
頭の中でイージスの声が鳴り響き自分が今立ってるのかすら分からない。 まるで遠い異国の御伽噺にも聞こえる内容にリリィは目を見開き肩を震えさせ、ただ有り得ないと思いながらも何度も意味の捉え方を間違えていないかと考え――その口の動きが間違いなく耳にした内容と一致し愕然とする。
体外受精し生み出された子供を兵隊に育てる――それは間違いなく非人道的な発想だ。 しかも既に計画の大半が完了しているようではないか。 国はそれを許可したというのか、ドイツ法は一体何を守っている――それよりも何故そのような計画が今まで外部に漏れることなく、誰にも知られずに進められ続けてきた。
混乱と驚愕――そこに憎悪が混じりリリィの顔が歪んでいく。
耳打ちするかのように身体をテーブルの上に投げ出していたイージスは、その反応を呆然と眺めていた。 一体何のために目立たぬよう小声で伝えたと思っているのだろうか、これでは周りにとんでもない事を聞いたと暴露しているも当然ではないか――だがそれをも上回る内容はリリィの冷静な思考を一瞬で奪い奪い去ったのだ。 冷静でいられる方がおかしい。
「落ち着け“
昼食時を過ぎたとは言え人の姿はまだ食堂にある――そのことに気がつきリリィは周囲を見て静かに座った。 だがイージスの一喝はそこにいる全ての視線を集めてしまう。 中には
「お前の気持ちもわかるが、とりあえず落ち着け。 お前らしくもないぞ……」
「――無理な話を。 それで何故そんな計画が持ち上がった?」
互いに小声だが周囲からの視線は常に三人に向けられており、まるで聞き耳を立てているかのように室内は静まり返っていた。
「……スカーレット、場所を変えないか? ここだと聞き耳を立てている奴も……」
「――それは無理そうだ。 入口脇に見覚えのない――おそらく上層部の息がかかった者が二名、こちらをマークしている。 大佐からの情報漏洩を阻止するために伝達後からマークされていた可能性があるな……アレは後で何とかするよう上に掛け合うから続けて」
「……大丈夫なのか?」
見事というべきか不自然にならないよう壁に背を付けていたり少し離れた柱の影から監視する目にリリィは軍が行っている計画から嫌な気配を感じ、変に横槍を入れられる前にイージスから聞き出すことにする。 生憎と廊下からでは通り抜ける風によって食堂内の会話は聞き取りにくく、またイージスの背が入口に向けられていることもあり唇の動きから会話内容を読み取ることすらできない。
話を聞くなら今しかないのだ。
「わかった。 年々入隊希望者が減っているのはスカーレットは理解してるだろう――反対に様々な理由で軍から人が減っていく。 それを補うため上層部が体外受精によるデザインベイビーに目をつけたということだ……おそらくな」
否定したかった答えをイージスはリリィに突きつける。 目を逸らし、それは空想だと思いたかった言葉は無常にも何一つ変わることなく――それどころか詳細な情報が付け加えられ再びリリィに現実を突きつけた。
軍属になる者が年々減っていく、それは世界が平和に向かっていることの証明であるのだが縮小しても良いという結論には繋がらない。 国によって多少の差異はあるが軍隊とは警察と同様の治安維持部隊でもあるのだ――国家を維持するため、守るために存在している組織が無くなるという事は永遠にないであろう。
外部からの敵勢力の進行を遮断し迎撃、侵略者を抑え情報を引き出し根源を壊滅させ今の平和は築かれている。 もしそれらを行う組織の機能が正常に働かなかった場合どうなるか――簡単な話だ。 上辺だけの平和が一定期間続いたあと何者かによって安定していた国という場所が崩れ落ちていき、それは止まることなく次第に大きくなり国が崩壊していく。
何も外部からの要因で国という機能が崩壊するわけではなく、内部からも崩壊することはある。 しかし多くの原因は外部から強い力を加えられたことによって生じる歪が、徐々に大きくなり結果的に国が無くなる――近年では滅多に聞かないが歴史を紐解けば争いによって国が消失した例は幾らでもあるのだ。
それらを防ぐために現在の軍と言う組織が存在している。 ならば軍という組織が今瓦解してしまったら――各国は守るため、自衛のためにと手にしたありとあらゆる武器を使い攻めてくるに違いない。 情報や援助すら時として武器となり相手を弱らしていく。
だからこそ軍隊を維持するための人員は最低数確保しなくてはならないのだが、どうやら平和に慣れすぎてしまったせいか軍隊という組織は必要無いものと見られ始めているようだ。 一時的な人員不足ならばいい、だがそうでなければ軍隊という組織はいずれ不安定なものとなってしまう――それを回避するための策が非人道的な計画なのだろう。
死という可能性を身近に感じる軍隊という組織にいては平和に過ごすことはできない――おそらく今現在の若者にとって自身の平穏さえ守られていればいいのだ。 別に人間だからこそその思いは間違いではない。 だが軍隊と言う組織は日を増すごとに人手が減っていくのだ。
ならば最初から軍人となるべくして生まれてきた存在の方が軍隊という組織は安定するのではないか――死という人生の終わりも物心つく前に仕事であると教育し、一般社会で必要となる知識も訓練に当て兵士とする。 今すぐに人員対策が出来るわけではないが長い目で見てしまえば軍隊にとって理想的な計画だろう。
なにせ人員の他に必要となる金銭すらも様々な理由で抑えることが出来るのだ――コストパフォーマンスの面で見ても非常に良い数値が出されるはずだ。 しかし誰がこれは正しいことだと声高に口にできるだろうか。 このような非人道的な計画を誰が公にできる。
親の温もりも知らない子供を兵隊にしようなど誰が口にすることができるのだ。
「既に体外受精時の遺伝子調整は技術的に実用レベルに達しているらしい――あと数年で計画の実践段階に移るだろう。 ……これは俺の予測だが遺伝子を人為的に操作することが出来るというのなら、非常に恵まれた――それこそ毒物に耐性があったり、筋力や知能面ですら優秀な子供を作り出すことが出来るんじゃないのかと思ってる」
「――技術的には可能でしょう。 一つだけ心当たりがあります……ですがアレが関与しているとは思いたくはない」
人間には得手不得手というものが存在する。 体力や知識、筋力や技術と言ったように人は何かしら得意なことがあり、そして苦手なものがあり――それらは生まれた瞬間に大きく予測することができた。 それすらも遺伝子を調整することによって克服してしまおうというのだ――月日はかかるが軍隊が望むものは間違いなく手に入れることはできる。
一度だけリリィは遺伝子研究の情報を目にしたことがあった。 ほんの一部分――それこそ全体から見れば末端であったのだろうが、初めて見た情報は今も目に焼き付き鮮明に思い出すことができる。 何故リリィが目にできる場所に遺伝子研究の資料があったのか理解はできないが間違いなくイージスが口にした計画に関係があるだろう。
その書類には遺伝子を調整された者を指す隠語だろうか――コーディネイターという単語が高い頻度で対象を指す意味として書き記されていた。
あらゆる才能を意のままに与え生み出すことができる研究は人類の進歩には正しい過程なのかもしれない。 あらゆる困難に適応するため人間は様々なモノを調べてきたのだ――ならば遺伝子を調整した先にあるのは、また新たな人類の始まりなのだろう。
だがリリィにはその過程が、まるで装飾品を身に付ける程度の軽い何かに思えて気味が悪かった。 自身を彩るために作られる命、金銭で買えてしまう命――人は何を求めたのだろう、その研究の果てに一体何を目指すというのだ。
考えても答えが出るはずもなくリリィの表情が徐々に暗くなっていく。 その心境を察したのか、これ以上喋ってしまうと余計に考えさせてしまうと思い伝えるべきことは伝えたとイージスは近づけていた顔を離す。
「――そうだスカーレット。 この間クラリッサの授業参観に行ってきたんだが、今の子供って案外静かなんだな。 おかげで良い写真がいっぱい取れたぞ」
そう言いながら懐から小型端末を取り出し、そのカメラ機能で撮ったと思われる数枚の画像ファイルをリリィに見せびらかした。
「大佐……五月蝿そうなのが近づいてきましたよ」
「おっと、こりゃやばいやばい」
肩越しに後ろから近づいて来る見知らぬ男に気がつきクラウスは危険そうな話題を中断させ、咄嗟に小型端末を軽く操作しスーツの内ポケットに入れ直す。
――イージスも危ないことをする……だけど、あの書類……。
娘を撮ったモノの中に紛れ込んだ――いや、故意に紛れ込ませた計画の欠片。 リリィの事を理解していなければ実行しようとは思わない書類の画像ファイル。 それは一度目にしたものを永遠に覚え続けることが出来るという特殊な技能、天才型に多いと言われている直感像素質者が持つ映像記憶と言われるモノをリリィが持っていると知らなければ絶対に出来ないことだ。
一瞬で見たものを映像として記憶し生涯忘れることが出来ない程にまで鮮明に思い出せる呪いのような技能は、イージスが見せた画像ファイルに映った文字を数秒の合間に脳内に記憶させる。 そしてリリィは脳内に画像として記憶した文字を誰にも気がつかれることなく読み取っていく。
その技能をリリィが備えていると知っているのはドイツ国内ではイージスだけ。 書類を誰にも気がつかれることなく撮影するという、見つかれば処罰されるのは間違いない博打を、よく実行したものだと呆れながらも目の前で繰り広げられる茶番を流す。
帰宅後に見せれば良いことなのだが機密保持のためだろう。 書類を撮影したということは本書そのものは軍が厳重に管理しており、情報媒体も常に確認される可能性がある――ならばリリィに見せるしかチャンスは今しかなかったはずだ。
――
検体番号A-0000に施された手術と、それらを調整し直し生み出されたC-0037と書かれた少女の経過報告書と詳細なデータ。 まるでカタログのような写真添付のせいで余計に計画が不審なものと感じた。
このような非人道的な実験に検体番号から考え2,037人もの命が弄ばれたということに堪えきれそうにない怒りを必死に隠し詳細な情報を得ようと決意する。
「……夢?」
誰かに抱きしめられたおかげでリリィは悪い夢から覚めることができた。
まだ外は暗く人が活動する時間ではないが、再び悪夢に
――不安だったから抱きしめてくれてありがとう……だなんて口が裂けても束には言えないね……。
未だ脳裏にこびり付く悪夢を一人であれば起きていても永遠と考えていただろう――だが誰かに優しく抱きしめられているという状況は何故か安心してしまう。 まるで怖い夢を見た子供のようではないかと思い冷静になるも、やはり心地よいものはどの様な状態であっても安心してしまうものだ。
このまま再び眠ることもできてしまうのだろうと思える程、それほど束の腕の中は安心できた。 しかし現実から目を背けている時間は短く即座に思考を切り替えて悪夢について考え始める。
あれは夢なんかではないリリィが体験した記録――今も続く現実なのだ。 遺伝子強化試験体実験は実際に行われている計画であり、命を道具にするような事を阻止したいという思いからリリィは日本に帰ってきたのだが、とんだ足止めを食らったものだと首元から見えるドックタグの形に収まっている“フリーダム”を見つめた。
現在は待機状態というのだろう。 その出力を落としつつも即座に起動できるような形に収まっている状態――コンピューターがログオフしている状態に一番近く、そのため完全に機能は停止していない。 おかげで身体を一切動かすことなく“フリーダム”は微弱な電気信号を介して脳に情報を送り、反対に脳から出る信号を読み取ることで動き続ける。
手に入れたばかりの未知なる兵器の事を理解しようと調べ始めようとするも何から調べたら良いか理解できない。 更に悪夢のせいか頭の中は遺伝子強化試験体実験のことで一杯だった。
そんな気分にはなれない――と自身の手中にある強大な力から目を背ける。
何が楽しくて自分と同じような親の温もりを知らない子供を増やさなくてはいけないのだろうか――何故、優れていることが良い事であると決めつけたがるのだろう。 それらを持つということは普通に生きることが出来ないというというなのに何故人は求めたがるのだ。
――私のせいで計画が加速したということは理解しているつもりなんだけどね……。
計画が何時から始められたかなんて関わっていないリリィが知るわけがない、だが2,000以上という数を簡単に生み出せるほど資金も土地もないはずだろう。 ならばリリィが生まれる前から行われていた計画なのは簡単に予測することができる。
それまではただ漠然とした結果を求めていたのだろうが、リリィというモデルケースが現れたことで計画の終着点が定まってしまった事は十分に考えられた。 その結果が“
もはや人間と言うよりも家畜、命令に従うだけの生物兵器としか思わない存在が作り出した命。 数として存在する捨て駒の少年兵。 残るものは何もない存在――そのように誘導してしまった原因はリリィにもある。
だからこそ止めるべきだと思ったのに考えがまとまらない。
生きるという目的があるからこそ人は強くいられるというのに、それを取り除いてしまったらただの自殺願望者だ。 リリィのようなモデルケースに近づくことは無いと言っても良いだろう。
「ん~、うへへ……リリィちゃぁ~ん……♪」
束の寝言に暗くなっていた思考が引き戻される。
気がつけば束の豊満とも言える胸がリリィの身体によって形を変えている感触が背中から伝わり、それに気がついたときには先程まで考えていたことが一瞬で吹き飛び、どのようにして束の腕から逃れようか考え始めていた。
抜け出そうと思えば簡単に抜け出せるのだろうが、抱きしめられた状態では束に気がつかれることなく抜け出すことはできない。 起こしてしまえば再び束の腕の中に収まってしまうのは目に見えている――だからこそ起こすことなく抜け出したいのだが、その方法が思いつかないのだ。
役得と言うべきなのだろうが恥ずかしすぎる状況から一刻も早く抜け出したいため、出来るだけ背中に意識を向けないよう脱却する方法を考え続ける。 子供だから異性を刺激するような行動に出ないであろうと高を括ったことが間違いだったとリリィは今になって後悔した。
――勘弁してよ……。
半分泣きそうになりながらも考え続けるも、そのどれもが束を起こすという結果を生み出す。 最悪、文句でも言ってから寝ればよいのだろうかとも思ったが、その程度で束が素直に寝るとは思えない。
結局、リリィは束に抱かれながら寝るしかなかった。
「……はぁ」
まさか日本に帰ってきた最初の夜が、こんなにも眠れない夜になるとはドイツにいた頃は考えもしなかっただろう。 もし一人であったのならば「知らない天井だ」と軽口を叩けたのだろうが、生憎とそんな軽口を叩けるほど余裕は今のリリィには無いのだ。
篠ノ之束という少女が、ここまで予想外の行動をとり続けるとには呆れを通り越して感心してしまう。 ここまでリリィの想像通りに動かない相手は、もしかしたら初めてかもしれない――嬉しいような悲しいようなと気がつかれぬよう小さく溜息をついた。
――そういえば何で束が一緒に寝てるんだろ?
ふと思い出したかのようにリリィはあることに気がつく。
今現在寝ている場所は束の家ではなく“白騎士”の搭乗者が住む織斑家、その二階にある空き部屋なのだ。 では何故、束が共に寝ているのだろうか。 リリィがいるからだろうか――だが、それにしては月明かりに照らされた空き部屋には束の私物が多いように感じる。
まるで長い間、ここに住んでいるようではないか。 心配して帰りを待っている家族はいないのだろうか――考えれば考えるほどリリィには理解ができない疑問が浮かび上がりつづけた。
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✔クラウス・ノア 【人名】
ドイツ連邦国防省連邦防衛軍、第五空軍師団“
内気で人と喋るのが苦手な為か部隊外の人間と喋ることは少なく、その性格のせいか女性から人気が高い。
✔MiG-29 【機体】
ソ連のミグ設計局で開発された戦闘機でNATOコードネームは“
MiG-21やMiG-23の後継機として、またアメリカ合衆国が開発したF-14やF-15に対抗するべく設計され1983年に運用が開始された。 しかし冷戦終結に伴う財政難の折り合いからロシアはSu-33を採用し大量生産はされていない。
旧東ドイツ空軍に配備されていたものを連邦防衛軍が継承し実戦配備している。
✔イージス・ハルフォーフ 【人名】
ドイツ連邦国防省連邦防衛軍、第五空軍師団“Flabellum隊”の隊長。
代々続く軍人家系ハルフォーフ家の当主で様々な戦時勲章が授与され若くして大佐にまで上り詰めたエリート。 それ以降も様々な任務をこなしてきたが上層部の思惑で八年間も昇進を見送られている。
Call Slignは「Flabellum Leader」。
✔階級呼称 【用語】
軍隊における階級は組織において上下関係と指揮系統の格付け制度である。
現代の軍隊では階級を大きく三種類に区別しており、それらはジュネーブ諸条約で曖昧な区分“士官”“下士官”“兵”と区別された。
なおドイツ空軍における士官階級は下から“空軍少尉”“空軍中尉”“空軍大尉”“空軍上級大尉”“空軍少佐”“空軍中佐”“空軍大佐”“空軍准将”“空軍少将”“空軍中将”“空軍大将”となっている。
✔遺伝子強化試験体実験 【用語】
ドイツ軍が極秘裡に勧めている実験の一つ。
体外受精により生体兵器に近い人間を製造し兵隊とする事を目的としており、作られた人間は“
✔直感像素質 【用語】
“映像記憶”とも呼ばれる生物の目に映った対象を映像で記録する事。
誰もが持ち得る能力であるが通常は思春期以前に消失するも、その消失自体が正確に判明されていない。 ただ人の中には成人後も映像記憶能力を保ち続けている者も存在する。
《篠ノ之束》
【挿絵表示】