死にたがりの讃歌   作:椿芽

1 / 39
第1章 記憶の糸結び
第1話 最愛なる厄日(重症を負った話)


 はじめに感じたのは、ただ焼け付くような灼熱感だった。

 しかしそれは、少しずつ鋭い痛みへと変化を遂げていく。気の遠くなるような激痛が断続的に襲ってくるため、呼吸もままならない。

 

 痛みに侵食された身体をやっとのことで動かすたびに、エレンの喉からは、乱れた不規則な呼吸と共に絞り出すような呻き声が漏れ出た。

 

 先程から降り出した雨は、髪を、顔を、体を濡らしてゆく。絶え間なく降り注ぐ水分と、熱帯の生温い空気がまとわりついて、ますます彼女を不快にさせた。

 

 足を引きずるように歩いた道には、足跡の代わりに水溜まりに溶けた赤が広がっている。後から後から、じわじわと溢れ出してくる血の感覚に顔を歪めながら、それでも彼女が歩みを止めることはなかった。

 ──どこへ向かっているわけでもない、ただひたすらに前に進むだけの行為だった。

 

 その埠頭近くの荷揚げ場の傍らは、倉庫街となっていて、あたりには彼女以外の人間の気配はない。

 

 遠くで雷鳴が轟いた。

 まるでこの世の全てを揺るがすような音と共に、一際強い閃光が空を走る。

 南国の湿った生暖かい風が頬を撫でる中、エレンはぼんやりとした意識の中で考える。

 

 今回もいつもどおりの、慣れた仕事のはずだった。

 ターゲットを殺せばいいだけだった、それなのに──―まさか自分がこんなヘマをするなんて思わなかった。

 予想していなかったのだ、あんな子供に銃を持たせて囮にするなんて。

 だが十分な確認を行わなかったがゆえの初歩的なミスだ。あるいは、慣れてきた頃ゆえの怠慢なのだろうか。

 

 反射的に、自分に向けられたその子供の銃を弾き飛ばしたあと、間髪入れず死に損ないの頭部を貫いた。

 ──今度こそとどめを刺した。

 彼女が自分の体から溢れる血に気付いたのはその時だった。

 

「これじゃあ信用がガタ落ちだわ……」と呟いてエレンは水溜まりに膝をついた。そして、そのまま崩れるように座り込む。しかし、体勢を維持することはできず、そのまま吸い寄せられるように地面に倒れ込んでしまった。

 濡れた音を立てて辺りに水が飛び散った。視界の端に、どんよりと薄暗い曇天の空が見える。

 

 ──せっかくこれまで 『彼』の信用を積み上げて来たのに。ようやく信頼を得ることができたのに。きっともう次の仕事は回してもらえない。 その前に “次” なんてないんだろうな──。

 考えながら、エレンはその場にうずくまった。

 

 こんな仕事をしていれば、暖かいベッドの上で死ねることはないとエレン自身もよく理解している。

 腹部を押さえる手は赤く染まっていた。容赦なく降り続ける雨は、その血を滲ませ、そして流していく。

 

 もう目が霞んできたようだった。

 横倒しになった視界にぼんやりと、人の影が見えた気がする。

 一歩歩くたびに、漆黒のロングコートの裾と、白いマフラーがその歩調に合わせなびく。あの身のこなし、白と黒のコントラストが鮮やかな、あれは──

 

 ──『彼』だ。

 

「よお、エレン。こんな雨の中で昼寝とは、趣味がよくないな」

 

 男はコートのポケットに両の手を突っ込んだまま、 咥えた煙草を噛んで口角を上げてみせた。

 

 朦朧とする意識の中でも、エレンにはその声がはっきりと認識できた。この仕事の依頼主、彼の名は──

 

「……、……(チャン)…………」

 

 唇を動かすこともままならず、掠れた声がわずかに吐息と共に漏れた。我ながら情けない、とエレンは思う。自分は一体どんな表情をしているだろうと。

 彼はそんなエレンの様子を見て一瞬目を見開くも、すぐにその口元を(ひょう)げた笑みの形に緩めた。

 

「お前らしくもないな。いつもみたいに余裕かましてろよ」

「……っ……、ごめん……なさ、い……」

「まぁいいさ」

 

 張はエレンの横たわるすぐ側まで来ると、エレンの目線の高さに近付けるように腰を落として、その顔を覗き込む。その気配を感じながらも、もうエレンには顔を上げる力もなかった。

 

 張は手を伸ばすと、彼女の顔に濡れて張り付いた髪を指先でかき分ける。あらわになった虚ろなヘイゼルのその瞳は、彼を捕らえてはいない。

 

「らしくないぜ、エレン。お前になら楽な仕事だったはずだ。……お前自身も、そう言ってたろ?」

 

 ただ荒い呼吸を繰り返す彼女から答えはない。

 

「……腹を撃たれてるのか?」

「……、えぇ……」

「大丈夫なのか? ……いや、大丈夫じゃないな。早く医者に見せないと危ないぞ。立てるか?」

「……」

 

 エレンはその問いに答えることなく、どこか遠くを見ているようにゆらゆらと視線を彷徨わせている。

 張は小さくため息をつくと、エレンの頭の下に腕を差し入れ、その身を起こすのを助ける。

 

「う、ぐうっ……!」

 

 体を動かすと増幅する鋭い痛みが、エレンの意識を浮上させたようで、彼女は苦痛に満ちた呻き声を上げた。

 

 張はエレンの体を支えながら近くの倉庫の軒下へと連れていくと、壁際へ座らせる。コンテナに背中を預けたエレンの右の腹の、血に染まった銃創がさらけ出された。

 その手が血に染まるのに構うそぶりも見せずに、張はその傷を確かめる。

 

「……深手、だな。だが、弾は貫通しているようだな」

 

 重く低く呟いた張の声が雨にまじり溶けた。その瞳にはどんな感情が滲んでいるのか、暗いサングラスの上からは読み取りようもない。

 

「……ええ……だい、じょ……ぶ、よ……」

 

 エレンは短く言うと、またゆっくりと目を閉じて浅い息を繰り返した。

 

 依然として降り続いている雨は、先程よりもさらに強くなったようで、屋根を打つ激しい音だけが辺りを支配している。

 張はその様子を眺めながら、再び彼女の方を見た。エレンの顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。どう見ても尋常ではない様子だ。

 張は咥えたままの煙草の、長くなった灰が落ちるのをただ見つめていた。

 

「……ドジ、踏んじゃって……」

 

 エレンが空笑いをこぼす。目の前の彼の顔が、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいて見えるくらい、意識の限界はすぐそこまで近付いているようだった。

 それでも、大事なことを伝えるため精一杯声を振り絞る。

 

「始末、は、した……わ」

「……そうか」

 

 どこか哀感を含んだ張の声が、煙と一緒に吐き出されて空気に溶けた。目の前のよく知った女が苦痛に美しい顔を歪めるのを見つめながら、張は再び口を開く。

 

「ご苦労だったな、エレン」

「あり、がと……」

 

 張のその言葉に、エレンは満足そうに口角を引き上げる。そして、静かに目を閉じた。

 雨音が一層激しくなる。

 

「……最期に、会うのが……貴方で、良かったかも、知れないわ……ね……」

「なんだ、嬉しいことを言ってくれるな」

「ふふ……」

 

 エレンはかすかに微笑みを浮かべると、そのままゆっくりと目蓋を開く。

 

「……、……わ、 私、 にも一本、 もらえる、かしら……」

「ああ、構わんが……」

 

 張は愛飲のジタンを懐から取り出すと咥えて火を着け、 一口吸い込んでからエレンのすっかり血の気の失せた唇に挟んでやった。

 

「ま、お前にしちゃあ良くやった方だと思うぜ」

 

 張は小さくそう言った。

 口元を僅かに上げて笑うような素振りを見せた後、エレンは掠れた声で答えた。

 

「……あり、が……と、張……」

 

 礼を言って、エレンは再び瞳を閉じる。

 間近で立ち昇る煙のその匂いが嗅覚を刺激したとき、なぜか安堵を覚えて、すぐにその理由が彼のオフィスの匂いと同じだからだと気付いた。

 

 ──あのビルの、最上階のエレベーターホールに降り、いつもの社長室のドアを開ければ、もう何度となく嗅いだその煙草の匂いとともに、立派な椅子に深々と身を預けた張の姿が見えてくる。

 

『よお、エレン』

 

 煙草を咥えたまま彼はエレンに笑みを見せる。

 幾度も繰り返したそのやりとりが、エレンの頭の中でありありと蘇った。

 

 その煙は彼自身の匂いでもあった。ふとした時に感じる独特のフランス煙草の香り。その身体に触れることはなくても、ごく近くに寄ったときはまるでその匂いに包まれているようで、その度に理由もわからずエレンの胸を高鳴らせた。

 

 いつの間にか、エレンにはそれがなくてはならないものになっていた。

 煙草だけではない。彼の存在そのものが、自分の心を形作るもののひとつとなっていたのだと、そのとき気づいた。

 一体いつから、彼に対して、周りとは少しばかり違った──特別な感情を抱くようになっていたのか。

 これは彼に()()()()の恩を感じているからなのか、はたまた強い者への憧れなのか、──あるいは恋慕だったのか、ついに知ることはないまま、ここで終わる。

 

 ──おどけた笑みを見せる張の真意をはかるために、サングラス越しにこっちを見ているであろう彼のその瞳を見つめてやろうと躍起になっていたあの瞬間。

 

 ──彼の何気ない言葉にも別の意味があるような気がして、必死に巡らせた頭は結局役に立たず、答えのない考えをまとめることができないまま閉じた社長室のドア。

 その先の廊下に立ちつくして、自分の望むものが彼の言葉の中にあればいいと願いながら眺めた、やけに遠く感じるロアナプラの街明かり。

 

 自分は、何を彼に期待していたのだろう。

 何を言ってほしかったのだろう。

 今となってはもうわからない。

 

 ひどく懐かしく感じられるそれらの光景が、感情が、その全てが胸をちくちくと刺して、涙がじんわりと滲む。もう二度と戻れないのだという事実が、改めて突きつけられているように感じて仕方なかった。

 

 ぼやける視界の中で、エレンにはもう、すぐ近くにいるはずの張の顔さえ、はっきりとは見えない。

 ──ああ、最期にもう一度、彼の顔を見たかった。 そう思いながら、暗い水の底に沈むようにエレンの意識はゆっくりと遠のいていく。

 

 ──そういえば、彼と初めて会ったあのときも、雨が強く降っていたっけ。

 

 エレンの身体がぐらりと傾くと、それを支えるように張の腕が伸びる。 それだけのことに、胸が熱くなるほど嬉しく感じられた。

 触れられそうなくらいに近くなった距離でやっと見えた、彼のその表情は険しい。咎めているのか、はたまた嘆じているのか、いくつかの感情が入り混じったかのような眼差しがエレンを見つめていた。

 

(──彼は、怒っているのかしら?)

 

(──何に? 誰に? 私に?)

 

(──そんな目で見ないでほしいわ。私は、貴方の笑った顔を見るのが好きなのよ──)

 

(──そう、伝えていたら良かったのに)

 

 

「エレン」

 

 張のその呼び掛けにも答えはなく、さんざめく雨音だけが辺りにこだまする。

 彼女の唇からポトリと煙草が落ち、それはすぐに水溜りに落ちて熱を失った。うつむいたエレンの顔を自分の方へ向かせて、張は静かにその名を呼びかける。

 

「……エレン、」

「……」

 

 雨音だけが響く中、ぐらりと力なく傾いてきた身体を腕の中で支えて、張はしばらくそのままでいた。やがて、 ふと辺りを見回すと、なにかに思い至ったように小さく呟いた。

 

「……皮肉だな」

 

 雨はまだ止む気配を見せない。

____

(Here in the rain)(ここは雨の中)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。