それまで手に持っていた書類を置くと、
「おい、コーヒーでも持ってきてくれ」
近くにいた部下に命じると、少ししてから盆に載せてコーヒーの入ったカップが渡された。
一口含むと、香りは薄く、香ばしいとは程遠い焦げたような苦味が広がる。
「不味いな」
思わず感想を口に出すと、部下は肩をすくめた。
「
軽口を叩く部下に「違いない」と返しながら、張はもう一口、ごくりと飲み下す。それからカップを机に置くと、張はおもむろに口を開いた。
「それにしても、あのエレンって奴は傑作だったな。密売人を締めるためだけに、なにも、ビルを爆破する必要もないだろうに。
あのビルもだいぶ古かったらしいからな、ワンフロアふっ飛ばすつもりでも半壊までになっちまった。そこまでは想定してなかったのかね」
「そうですね……でも、結果としては上手くいったんですから、いいじゃないですか」
部下の言葉に張は鼻を鳴らした。
「それは結果論だろう。向こう見ずなバカは長生きできないぞ」
「まぁ、そうですね」
苦笑しつつ部下はそう言った。
カップの中の黒い液体が揺れるのを眺めながら、張は口元に微笑を漂わす。
「ま、世の中にはああいうヤツがいてもいいだろう、面白いしな。
『張り切りすぎた』とか言ってたな……。ふん、面白いじゃないか、なあ、
「えっ……そうですかね」
突然話を振られた彪は、明らかに同意する気のない態度を隠すこともなく答えた。
「向こう見ずのバカかどうかは知りゃしませんが、やり方が大雑把というか、乱暴すぎるというか。正直、俺は好きじゃないですね」
「そうか。俺は嫌いじゃないぞ、ああいうヤツは」
張がそう言うと、彪は顔をしかめる。
「張大哥……趣味悪いですよ」
「かもな」
張は短く答えると、コーヒーを飲み干し、書類に向き直る。
脳裏にはエレンの顔が浮かんでいた。どこか抜けたところのある、美人で腕利きの殺し屋。張にとって、彼女は不思議な存在だった。
「『張り切りすぎた』か……そんな理由でビルを吹っ飛ばす奴なんて聞いたこともないがな」
彼の頭の中では、エレンが爛々と目を輝かせている。
「しかしまァ、言った当の本人も忘れちまってるようなことを──支えにしてこれまで生きてきたってのか」
そして何かを考えるように目を閉じた張は、椅子の背もたれにその身を預けた。ミシリ、と軋んだ音だけが、静かな執務室に響く。
おもむろに彼は口元を緩めた。
「──変な奴だな」
その言葉には、どこか暖かい響きが、確かに含まれていた。
──上機嫌そうな様子で大きく息をついて、張は引き出しから小さな紙切れを取り出す。
そして電話機を手に取ると、その紙を見ながら、まだ見慣れないその電話番号をひとつひとつ押していく。
「まァ、ものは試しってもんだ、どれ、今度はどうなるか──」
***
頭上から降り注ぐ温かいお湯に、エレンはゆったりと目蓋を閉じる。
流れるお湯が一日の疲れまでも洗い流してくれるようで、気持ちまでもほぐれていく。
──あれから電話機とにらめっこする日々が続いていたが、張からの連絡はなかった。
(……やっぱり社交辞令だったのかしら、また連絡する、なんて……)
ボディーソープをスポンジに取ると、丁寧に泡立てていく。彼女のお気に入りの甘い花の香りが、バスルームいっぱいに広がった。
(それはそうよね、呆れてたものね……、あれじゃあ、また依頼しようなんて思わないわよね……)
考えながら、スポンジを脚に滑らせる。
──ゴシゴシ。
(あんまり私が落ち込んでるから、気を使ってくれただけよ……また連絡する、なんて……)
たっぷりの泡をまとわせたスポンジを、脛に当てて撫でさするように上下させる。
──ゴシゴシ、ゴシゴシ。
(……でも、気を使うなんてこと、マフィアのボスがするものなのかしら? そんな優しさって必要あるのかしら)
つま先から膝まで、スポンジを往復させているうちに、どんどん泡がキメ細かくなっていく。
──ゴシゴシ、ゴシゴシ、ゴシゴシ。
(……優しさ? ううん、優しさじゃなくて上手く立ち回っているだけよ)
だんだんと、そうあってほしいという方に思考が都合よく流れていったのに気付いて、エレンは首を振った。
──ゴシゴシ。
(……でも、マフィアだとかの前にみんな一人の人間よね……だったら…………)
エレンの手が止まる。
(……バカねエレン。そんなに彼が自分に優しくしてくれたって思いたいの?)
自嘲するように唇を吊り上げ、長い物思いを切り上げたところで、ふと脛にヒリヒリとした痛みを感じた。泡を流してみると、そこは赤くなっている。
考え事をしすぎて、同じところばかりを擦っていたことに気が付かなかったらしい。
「やだ、もう。本当にバカみたい」
ポツリと呟くと同時に、寝室の方から着信を告げる電子音が鳴り響いて、エレンは弾かれたように顔を上げた。
「!!」
反射的に泡だらけのスポンジを放り出すと、つんのめりそうになりながら慌ててバスルームから飛び出す。
そして、引ったくるように取ったバスタオルを適当に身体に巻き付け、まるでフラッグレースでもしているかのように勢いよく電話を取った。
「……はい!!」
電話機の向こうからは、エレンが待ち焦がれていた相手の声がしてくる。
「よお、エレン・リーフェンシュタール。俺だよ。この間はご苦労だったな」
何度も頭の中で想像したその声に、エレンはどうしようもなく弾む心を抑えながら努めて冷静に対応するべく、待ってなどいないのだという態度を徹底する。
「……あら、張維新? どうかしたの? 何か私に用かしら?」
濡れた髪からはポタリ、ポタリと水滴が滴り落ちて、床に水たまりを作っていく。
電話越しで姿も見えないというのに、それもびしょびしょに濡れた入浴中の髪を、エレンの手は整えるように撫で付け、忙しなく動いている。
「いやなに、またあんたに頼みたい仕事があってな」
これこそ待っていた言葉。
喜びにうち震える心臓は鼓動を速め、電話機を持つ手は小刻みに震え始める。
それを誤魔化すため、エレンは深呼吸のように大きく息を吐き出した。──あくまで自然に聞こえるように、細心の注意を払ったつもりだ。
「……あら、光栄だわ。今度はどんなお仕事かしら」
「あぁ。とあるブツの受け渡しがあるんだが、素直に渡してくれるかどうか、どうも怪しくてな。……詳しいことは直接話そう。明後日、オフィスに来てくれ」
「わかったわ。ええ。それじゃあね」
簡素に答えて電話を切る。
通話が終わると、部屋は静寂に包まれた。
つう、と音もなく水滴が背中を伝い流れて、そのくすぐったさに、電話機を握ったままだったエレンは我に返る。
静けさを破ったのは、彼女自身の声だった。
「やったわ!!」
思わず口からそう溢れた。
二度目のチャンスを掴んだ! なんてツイてるのだろう、エレンはひとり拳を握りガッツポーズをする。今度こそ認めてもらうのだ、自分の実力というものを。
気合を入れて立ち上がったエレンの視界に、ふと鏡に映る自分の姿が映る。
──あら。
鏡にぐっと顔を近付け、あらゆる角度から自分の肌を観察する。……自分の肌はこんなふうにカサついていただろうか? 何だか艶がないような……突然、今まで気にならなかったところが気になり始めるのだ。
その晩、彼女は手持ちのありったけのクリームを顔に塗りたくってから就寝した。
しかし翌朝になって、クリームの過剰な油分のせいでぽつんと吹き出物ができているのに気付き、それはまた彼女を悩ませるのだった。
***
目に鮮やかな青さがどこまでも広がる空、雲ひとつない晴天だ。
ロアナプラも今は乾季に当たる時季であり、雨も少なく、比較的過ごしやすいシーズンだ。
熱河電影公司ビルのエントランスをくぐるのもこれで何度目か。みるみる遠くなる地上に視線を投げながら、エレンはエレベーターの壁に背を預けて、
昨夜は、張の依頼についてあれこれ考えすぎて、ベッドに入ってから二時間近くも眠りにつくことができなかったのだ。
電話で彼が言ったのは、“とあるブツの受け渡し”であることと、その相手が“素直に渡すか疑わしい”ということだけだ。なのに、そこから起こりうることを予想しようとつい一生懸命になってしまい、エレンの頭の中で推測は果てなく無限に展開されていった。
おかげですっかり寝不足だ。
しかし、腑抜けた顔を張に見せるわけにいかない。エレンはその白い頬を両手でパンと叩き、気合を入れ直した。
エレベーターを降りれば、張の部下たちがすぐに執務室に案内してくれた。
──さあ、エレン。気合を入れて行きましょう。
そう自分に言い聞かせて、エレンは張の待つ執務室に足を踏み入れた。
**
「ある男から、ブツを受け取る約束をしていてな。
だが、そいつが素直に渡さなかったら……あんたの出番だ」
エレンの前でゆったりとソファに身を預ける張は、愛飲のジタン・カポラルを深く吸い込んで、それから大きく紫煙を吐き出した。
「……差し支えなかったら教えてほしいのだけど、そのブツってどんなものなのかしら?」
張の向かい側に腰かけたエレンが、身体を前のめりにして尋ねる。
「まぁ、詳しくは言えんが、とある設計図でな。ディスクに格納されてる。
うちで開発してもらってたんだが、完成した途端、やっこさん、それを持って逃げやがったのさ。全く、困った男だよ」
張はそう言うと、いつもの剽げた笑みを浮かべ肩をすくめてみせた。
彼の低くはっきりした声が余韻を残して消えていく。
堂々とした話し方もそうだが、彼の声質には貫禄や威厳のようなものを感じさせる響きがあった。
「ブツは必ず回収する必要があるが、そいつの命までは取らないようにしてほしい」
エレンはそっと目蓋を下ろすと、オフィス内に満ちる彼の声に耳を傾ける。──聞きやすい声くらいには思っていたけれど、なんだか妙に心安らかにさせるというか、穏やかな気分になるというか、この人の声はこんなに心地よいものだっただろうか。なぜか、もっと聞いていたいという気分にさせる。
「おい、聞いてるのか?」
「えっ……? ええ、もちろんよ」
エレンが慌てて目を開けると、眉を寄せてこちらを見ている張と視線がぶつかる。彼と目が合うと、心の底がくすぐったくなるような、変な気分を覚えるのだった。
二年前、初めてのロアナプラという土地で、張と対峙したあのとき。
街を
振り向くことさえ許されず一方的に抑止され、冷たい冷や汗が背中を流れ落ちるのを感じながら、あのときエレンが覚えたのは、圧倒的な恐怖と、──心が騒ぎ出すような高揚感。
それは、自分もこうなりたい、なれるかという憧憬だ。あるいは、進む道を示されたような安心感だったのかもしれない。
過去の記憶がないエレンにとって、信じられるのは己の腕のみである。
強い者に憧れる気持ちは、単純なものだ。それはすなわち自分を守れることであり、もはや彼女のような生き方をする人間の本能のようなものなのだ。
動物がニオイを嗅ぎ分けるのと同じように、生き残る道を自然と選択しているに過ぎない。
研ぎ澄まして、磨き上げて、ようやく身にまとう、精強な力を。
あのときからずっと自分もそうなりたいと思っていたし、それは今も変わることなくエレンの目標として心の中にある。
だけど、彼に対する気持ちは、ただのそれだけではなかった。──心惹かれる何かがある。
「──おい、エレン。やっぱり聞いてないな」
「え? あ、あぁ、ごめんなさい……」
今度こそ言い逃れできず、エレンは素直に申し訳ないという気持ちを顔に出す。眉を下げ、様子をうかがうように張を見上げた。
「ずいぶんボーッとしてるが、朝メシは食ったのか?」
食事の話を振られるとは思わなかったエレンは、目を丸くする。
「……ええ、食べたわ」
「朝メシは食った方がいい。人間、体力が資本だからな」
張はそう言って、煙草を灰皿にこすりつけた。
「仕事の話に戻ろう。エレン、あんたには、受け渡し場所にうちの組員と共に行ってもらう」
「ええ、わかったわ」
「受け渡しにはこいつが行く。
張がそう言って、背後に控えている部下の方に視線を投げる。
「劉です。よろしくお願いします、エレンさん」
前に出て軽く頭を下げたその男はまだ年若く、好青年ではあるがどこか幼さが残るような純朴な風貌をしていた。
「よろしくね、劉」
「はい、こちらこそ」
エレンの言葉に、劉は白い歯を見せて笑った。その表情には緊張の色が少し浮かんでいるものの、やる気に満ちており、実直な印象を受ける。
「よし。では、首尾よく頼むよ」
張がそう言って、話の区切りにソファから腰を上げた。
エレンも立ち上がると、張に向かって片手を上げ、茶目っ気たっぷりにこう言った。
「はい、大哥! 仰せのままに」
張が一瞬目を丸くし、それからククとおかしそうに笑ってみせた。
「ああ、頼んだぜ」
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(Ta voix me manque.)(貴方の声が聞きたい)