ロアナプラから車で三時間ほど離れた街。その郊外にある廃病院が、その男が指定してきた場所だった。
その男は研究者であり、三合会の組員であった。
組員が表の仕事に就いてるパターンは珍しくない。むしろ、裏社会の人間が表のあらゆる組織に所属していて、 見えないところで世の中をコントロールしている──そんなことは物語の中だけとも言い切れない。
研究者の男の潜伏先がタイだったという理由で、この案件を
一度はそれを持って逃げたのだが、仲間たちからの説得の果てに取引に応じることにした研究者は、この廃病院を受け渡し場所として指定してきた。
そして現在、エレンたちは指示された通りの場所に車を止めて、かつて病院だった建物を見上げている。
すでに太陽は沈みかけ、空には夕焼けが広がっており、灯りひとつない辺りにはすでに夜の気配が漂い始めている。
「うわぁ、なんだか不気味ですね……」
「あら、怖いの? 男の子でしょ?」
口元を緩めてからかうような目線で、エレンは劉を見た。
「男だって怖いもんは怖いんです! だって、廃病院ですよ? よく見てくださいよ、この気味の悪い外観……」
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれたその建物は、陰鬱でどんよりとした雰囲気を漂わせている。
この建物は、かつては病院として使われていたらしいが、いつから人の手が入らなくなったのか今では放置され荒れに荒れしまっていた。老朽化に加え、崩れたコンクリートから鉄骨や鉄筋がむき出しになっている部分すらある。
壊しかけてやめたのか、もはや真相は定かではないが、屋根や壁は辛うじて原型を留めているものの、窓ガラスはほとんどが割れ落ちてしまっていた。
「まぁ、こんなとこを指定してくるなんて、いい趣味とは言えないわね。……中で待ってるって言ってたかしら? 行きましょうか」
観音開きの木製のドアは、僅かに傾いている。取っ手を掴んで力をかければ、錆びた
中は、とても静かだ。自分が呼吸する音すら聞こえるくらいに、他の音がない。
ドアを開けてすぐのこの場所は、
以前は待合として使われていたのだろうか、広い空間にはカルテらしき紙の束が床にぶち撒けられたように散らばっていて、それは泥や水などで汚れている。
割れた注射器、中心部から2つに折れ曲がった担架、ひっくり返った錆だらけのワゴン……病院らしいものが悲惨な姿に変わりそこら中にあった。今は見る影もないが、切り裂かれたような穴から綿だけでなくスプリングまで飛び出したソファにだって、ここが病院として在りし日には患者が座っていたのだろう。
その見るも無残な光景を見回して、エレンは呟いた。
「酷い荒れようだわ。何もかも放り出して逃げちゃったって感じ。ここ、どうして使われなくなったのかしらね」
「噂によると、オーナーが夜逃げしたとか……いや、殺人事件があったとかいう話も……、こんな見た目なら、ゾンビが出たって言われても信じますよ……」
一人で頷く劉をよそに、エレンはさっさと中へ足を進める。
「ふうん、取り壊すにも金がかかるから放置ってわけね」
窓ガラスは割れ、そこらじゅうに破片を散らしていて、二人が歩みを進めるたび足元でチャリチャリと音が響く。
建物内にはしん……とした動きのない冷たい空気が満ちていて、壁のいたるところには茶色い染みのようなものが、まるでそこで
「こ、この染みって、まさか……血、じゃ、ないですよね……」
誰に言うでもなく、震える声で劉が呟いた瞬間、柱の陰から大きな黒い影が姿を表した。
「あ、あんたらが、約束の……張
「ひぃ!」
目にも留まらぬ速さで劉が飛び退くのを、エレンは目を丸くして見ている。
地の底から響いてくるような陰気な声で語りかけてきた、不吉ささえ漂うような容貌のその男こそ、今回のターゲットだった。
「そ、そうだ! ディ、ディスクを渡してもらうぞ!!」
エレンの陰から、劉が精一杯に虚勢を張る。
男はしばらく黙り込んでいたが、やがて重々しい雰囲気のまま口を開いた。
「……このディスクだ」
そう言って懐から取り出したのは、なんの変哲もないCDケースだ。どうやらこれがお目当ての代物のようだ。
それを見た劉の目が輝く。思ったより楽に仕事が片付きそうだ、そんな希望が宿った瞳だ。
「そ、それです! それを渡してください!」
しかし、男はそんな劉の思いを打ち砕くかのように、ディスクをぐっと握りこむと、薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「ふふ、こんな物のために組織に楯突こうなんて……おれは愚かだよな、あぁ本当に……」
言葉尻にはどこか悲しげな色が滲むのを、エレンは聞き逃さなかった。
そして男は視線を足元へ落とす。よく見ると男の足は小刻みに震えていて、それに気づいた劉が不思議そうに口を開いた。
「……どうかしたんですか?」
その言葉を聞いた瞬間、男は何かを決意したように顔を上げる。
「──愚かだがな、だが……やっぱり、駄目だ……取り引きには応じられない。これを渡すわけにはいかないんだ!!」
喉が破れんばかりにそう叫ぶと同時に、男は踵を返すと、廃病院のより奥へと走り出した。
「あ! あいつ、中に入って……!」
劉が嫌そうな声をあげる。
「なら、ここからは私の出番ね」
エレンは静かに微笑むと、銃のスライドを引く。ガチリと重い手応えと収まりのいい音がして、 9mm弾が装弾される。
「お願いします、エレンさん! 何かあれば援護します」
男が姿を消した方向に足を向け追いかけることにするが、彼の走る足音は反響して、あちこちから音が返ってくる。
二人が奥へ進んでいくにつれ、埃っぽかった空気がさらにどんよりとしたものに変わっていくのが分かる。廃墟ということもあって灯りなどあるはずもなく、沈みかけた太陽を頼りに進むしかないが、窓から差し込むオレンジ色の夕焼けが辺りを仄かに照らす程度であり心許ないものだ。
曲がり角を曲がると、廊下に出た。
壁一面に並んだ大きな窓からは、森が見え、先程より夜が近づいた夕焼け空には、すでに蒼白い月が顔を出している。
「どこにいるの?」
エレンの呟きに応えるかのように、どこからか男の足音が聞こえる。目を閉じ耳を澄ましてみれば、それは上の方から聞こえてくる。
「上にいるのかしら?」
すぐ側の階段を壁沿いに、背中を押し付けながらそろりそろりと慎重に一歩ずつ進む。
やがて階段を上りきり、廊下を曲がるとほぼ同時に、男の怒号が響く。
「来るなっ!!」
「おぉっと」
エレンの目の前を、男が放った弾丸が真っ直ぐに飛んできて、身を反らした彼女のすぐ側の壁にめり込みコンクリートが小さな破片を散らす。
走っていく男の影──照準を合わせるも彼が次の曲がり角に姿を消す方がわずかに早く、エレンは引き金を引くことなく銃を下ろした。
「彼、足が早いわ」
「えぇ、どうしますか?」
「そうね……」
改めて辺りを見回すと、二階は一階以上にひどい有様であり、天井がない部分すらあった。
所々でコンクリートの床が割れて陥没していたり、壁もボロボロと崩れていて、もはや建物として機能していないようだ。まるで造っている途中であるかのような無骨なコンクリート剥き出しの姿を晒し、古びた建物としての威厳はとうに失われている。
「どこに逃げるつもりかしらね……今にも崩れそうで危ないわ、ここ」
そう彼女が言った途端、足の裏に振動が伝わり、続いて轟音が響いた。何かが崩れたような大きな音だ。
「……この先からですね」
男が走り去った廊下を進み、次の曲がり角を曲がった二人は思わず息を呑んだ。
その先にはドアがあり、中には部屋があったようだった。
あったようだった、と言うのは、そこはただの空間となっていたからだ。
──丸くくり抜いたように床部分が大きく崩落していて、一階から吹き抜けのようになっている。
老朽化に加え、中途半端な解体作業のせいもあるだろう、恐らく、男が走り抜けことが最後の引き金となって床が抜けてしまったのだ。
それでも端の方には辛うじてまだ床と呼べる部分はあるものの、その幅は極めて狭く、少しでも足を置く場所を間違えれば一階へ真っ逆さまなのは想像に難くはない。
「……この先へ、逃げたってことね。ここからじゃ向こうへ行けないわ。別のルートを探しましょう」
引き返そうとしたところで、男が消えた方角から物音が聞こえた。
「もう諦めてくれ!! 渡せないんだ、これは渡せない!! おれをこのまま見逃してくれ! 頼む!! 頼むよ!!」
悲痛な叫びに、二人は顔を見合わせた。
とはいえ、男も銃を持っているようなので、ここでエレンと劉を殺して逃げるという選択もできそうなものだが、二対一が不利だと思っているからなのか、進んで攻撃してくることはなかった。
「あらあら、ずいぶん興奮してるわね」
「ええ。このまだと、最悪、ディスクを壊すって言い出すかもしれません。まあ、ディスクを壊されたところで、彼の頭の中には設計図があるわけですが……あの様子じゃ、捕まえて素直に吐いてくれるでしょうか……」
苦々しげな顔をした劉が、視線を床に落とす。
しかし、一度は取引に応じたということは、男だって命が惜しいはずだ。
「それだと時間がかかりそうね。
……私もそろそろ帰りたくなってきたし、早く片付けなくちゃね」
「え……」
あまりにも呑気な発言に目を丸くする劉をよそに、エレンは一歩前へ進み出た。
「ねぇ、もうここまできたら逃げようがないってわかってるんでしょう? 協力したほうがいいんじゃない?」
男に向かって声を張る。反射してエレンの声が響き渡るが、返答はない。
そして、しばらくの沈黙の後、エレンがわざと大きな声で劉に話しかける。
「一階から回ってみましょう、劉」
すると、慌てたように男は叫んだ。
「近付くな!! 近付いたら、このディスクを壊す!!」
「それは困るわ」
肩をすくめたエレンのその口調は、まるで緊迫感がない。あたかものんびりと世間話でもするような気軽さである。
「っ……」
男はそのギャップに恐怖を感じたのか、喉を詰まらせる。
「この開発を三合会の金儲けに使わせるわけにはいかない!! おれには、科学者としてのプライドが──」
「貴方、プライドとやらで三合会を裏切るってことね?
プライドもいいけど、命かけちゃ駄目じゃない? 死んだら元も子もないんだしぃ」
みなまで言わせることなく、眉を上げ目を細めたエレンがさも大儀そうな表情で言い放つ。
「……タダじゃ済むわけないってわかってるんでしょう?」
「お前に言われるまでもない!!
「は?」
エレンにはさっぱりのようだ。しかし劉にはピンときたようで、慌てて彼女に耳打ちする。
「えーっと、三合会に入会したときのことですね。入会の儀式の日に誓うんです。組織を裏切った人間は、罰を受けても構わないと」
「へぇ〜。まぁそりゃそうよね」
「何をごちゃごちゃ話してる、お前ら!」
エレンは会話をしながら、男の居場所を探っていた。声の距離や反射の仕方で、ほとんど絞れてきていたがここでようやく確信できた。
(あそこね)
恐らく、男の居場所は、崩落した二階の床と一階の間に積み重なったコンクリートの陰だ。大きなコンクリートの破片を盾のようにしてそこに身を潜めているに違いない。
それがわかったところで、見下ろすエレン達からは死角になっていて、男の姿は見えないので、これ以上逃げられないよう動きを封じるために撃つこともできない。
籠城でもしたつもりなのだろうか、そこから動くこともなく、男はただひたすらに壊れたレコードのように繰り返す。
「ディスクを壊すぞ!! だから、近付くな!! 」
──膠着状態に陥った、かと思われた。
「……エレンさん……」
成り行きを不安そうに見守っている劉がエレンを振り返ると、そこには崩落した床の縁に立ち、明後日の方向に銃を向けているエレンがいた。
「……エレンさん? 何を──」
「あの鉄骨でいいかしら」
ぶつぶつと呟いて、二階の壁から剥き出しになった鉄骨に照準を定める。
少し癖のある発砲音、そして間を開けず、コンクリートの壁に守られていたはずの男のその左足を──エレンの銃弾が貫いた。
「あが、あぁっ!!」
痛みに悶絶する声が響き渡る。
あっという間に自らの血が染み渡り真っ赤になっていくズボンを見つめながら、信じられないといった様子で男は呟いた。
「な、なんで……ここは、死角……」
言いかけて男は気づく。
あの銃弾が飛んできた方向。
あの鉄骨、あれに弾を反射させたのだ。
角度を計算して、跳弾を自分に当てたと言うのか。まさか。
男が思い知るのに充分だった。
──無駄だ、逃げても無駄なのだ。
「見〜つけた」
コンクリートの瓦礫の山から姿を表したエレンが、男に向かって微笑む。穏やかな眼差しで、美しい形をした唇を笑みの形に吊り上げているそれは──女神のような微笑みだった。
そして、ゆっくりと子供に諭すかのように、こう言った。
「かくれんぼはもう終わりにしましょう」
がっくりと項垂れた男は、もう一言も話すことはなかった。
**
男の脚には簡単な止血術が施されている。
座り込んだままの男から差し出されたディスクを、劉が手を伸ばして受け取った。
「……確かに受け取った。だいぶ手間かけさせてくれたけどな」
劉のボヤきには反応せず、男は目線を伏せたまま呟くように問いかける。
「あんたら、ずっとこんな……
男を見下ろしたまま、不思議そうに首を傾げるエレン。
「あんたらって言われても……私には関係ないんだけれど……」
「エレンさん……」
やはり呑気すぎる発言に、劉は困ったような、半笑いのような、なんとも言えない顔をしている。しかしすぐに、劉は男に向き直った。
「俺は、俺が決めたからここに居続ける。生半可な覚悟でここにいるわけじゃない。
それはたぶん、張
「…………」
張の名前を耳にした瞬間、エレンの表情が、ふと懐かしいものに触れたかのように、微かに
──張は一体どんな人生を歩んできたのだろうか。
黒社会の人間のことなど、エレンにはわからないが、張があそこまで上の立場に登るには、試練や苦難だってたくさんあっただろうと想像することだけはできる。
彼のこれまでの人生にもあったのだろうか、苦悩や、葛藤や、哀しみや、歓びや、──幸せなんてものは。ふと、それを知りたいと思った。──なぜかはわからないけれど。
エレンはすぐに考えるのを止めて、二人を促すのだった。
「さ、立って。行きましょうか」
***
ロアナプラへ戻るため、車は走る。
暗い車窓に映るエレンの横顔を、気付かれないようにしながら、食い入るように劉は見つめていた。
(さっきのあれは跳弾……角度を計算して、それで奴に当てたんだ……それも、致命傷にならない位置に……。……すごい)
高揚感から、心臓の鼓動が強く、速くドクドクと打っている。
(張大哥に報告するんだ……! 余すことなく、全て!)
ガラス越しに見つめるのを止め、劉はちらりとエレンの方へと目を向けた。
視線の先のエレンは、車窓の枠に肘をついて頭を支え、すらりとした長い脚を投げ出し、目を閉じている。呼吸は規則正しく落ち着いていて、どうやら居眠りをしているようだった。
(……寝てる? ……なんて呑気な人なんだ……銃のテクニックはすごいのに、この人は……)
劉は考える。見る限りじゃあ、誰も信じないのではないだろうか、この
殺し屋と言うには呑気すぎて、あまりにも正体不明すぎるのだ。
そんなことを思っているうちに、やがて車は、見慣れた街並みを臨む海岸線ヘ入る。
そして、ちょうどロアナプラ市内に入った頃、エレンが目を覚ましたらしく身体を伸ばしている。
「ふぁあ……よく寝たわ……」
大きな欠伸をしたあと、まだ眠そうな目をこすりながらも、彼女は身を乗り出してフロントガラスの向こうに視線を投げる。
車が向かう方角には、ネオンがあふれる眠らない街、ロアナプラがある。
色とりどりの飾りを足元に見下ろして、夜の闇に静かにそびえる一棟の高層ビルディング──
まだ小さくしか見えないのに、ぽつりぽつりと灯りが灯るそのビルが目に映った瞬間、エレンは穏やかに目を細めた。それを眺めながら、あそこに張がいるのだと思うと、妙にホッとするような気分になるのだった。
そんな落ち着いた気分のまま、エレンは運転席の組員に声をかける。
「ねぇ、悪いんだけど。どこか市場の側で降ろしてくれない? ……今日こそ、トマトのパイスープを作るのよ」
隣の劉がなにかに思い至ったようで、ぽんと手を打つ。
「あ、エレンさんこの間、忘れていきましたもんね……買い物袋」
「あら、気付いてたの。……取りに戻ろうか、迷ったのよ」
眉を下げたエレンは、困ったように微笑んだ。
「実は、届けましょうかって、提案したんですけど……張大哥は、気付いたら取りに来るだろうって……」
「億劫になっちゃってね……でも、せっかく買ったトマトがダメになったら……と思うと、取りに戻ればよかったわね」
「それなら心配いらないです。食ってましたよ、大哥が……」
エレンが耳にした言葉は、彼女の動きをぴたりと止めた。
時間が静止してしまったかのように、唇に微笑みを浮かべたまま動かなくなる。
信じられないと言うように問い返すエレンの口元は、凍てついたようにぎこちなく固まっている。
「私のトマトを? 張が?」
「はい……」
「……」
劉には、エレンの表情から読み取ることができなかった。彼女がいま何を考えているのかを。
困惑しているような、真偽を疑うような、あるいは怒りを堪えているのかもしれない。
それら全てを内包したような複雑な表情を浮かべているのだ。
それはまるで、明日世界が終わると神に告げられた人間が浮べた信じがたい驚きの表情のような、
育ての親に自らの子ではないことを打ち明けられた子供の、衝撃と信じていたことが裏切られた哀しみと秘密にされていたことを怒る心がぐちゃぐちゃに混じった胸底のような、
結婚式の前日に最愛の恋人から婚約を破棄された女の、裏切られた絶望の慟哭のような、
楽しみにしていた5年に一度のコンサートでチケットを忘れた愚か者の、自らの落ち度に対する自己嫌悪とどうしようもない落胆が浮かぶような、
縋る思いで訪ねた病院で、手遅れですので今度は罹る前に来てください。と言われた患者が抱く理不尽な言葉に対しての憤りの思いのような、
いつものように愛犬に話しかけていたらその犬が人間の言葉でたった一言だけ返答してきたときの飼い主の、思いもよらない奇抜な出来事に対する単純かつ原始的な驚きのような、
おまえが死ねば引き換えに愛する人がいる世界が救われると言われた主人公の、困惑と安堵と未練とが混じり合って弾けそうな────とにかく、なんとも形容しがたい表情を浮かべていた。
──たかが、トマトを食われただけで。
劉が今までに見たことのないくらい難しい顔をしたエレンは、何も言わず唇を真一文字に結んだまま、それっきり口を開かなくなってしまったのだった。
──そう、エレンはまさに葛藤していた。気持ちの整理が追い付かずに思考停止に陥っていた。
勝手に食べられたことを怒りたい、だけど元は忘れた自分が悪いから仕方ない、でも届けてくれてもよかったのにという自らの落ち度を棚に上げた言い分、いや、日々の糧が無駄にならなかったことを喜ぶべきだ、パイスープ食べたい……
いったい自分はどれを最も強く感じたのだろう? それすら分からない。
いやむしろ、そんなこと全てを差し置いても、張がそうしたかったならそれでいいじゃないかという気持ちになってしまう自分がいるのだ。
なぜ許せる?
なぜ、彼にこんなに甘い態度になれる?
──そんな自分のことが理解できなかった。
自分の感情を二の次にしてまで優先できる人間など、たった一人で生きてきた彼女には存在しないものだったのだから。
___
(Non in pane solo vivet homo, sed in omni verbo Dei)(人はパンのみにて生きるのではなく、神のその言葉により生きる)