死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第15話 夜のにおいに触れる(張の執務室で居眠りする話)

 ベッドに入ってから一時間以上が経過した。それでも未だに寝付けないでいる。

 毛布の中で、もう何度目かわからない寝返りを打って仰向けになると、エレンは大きくため息をついた。

 

(寝返りだけでカタールまで移動できるんじゃないかしら……)

 

 ときどき、こんな晩がある。

 

 どこへゆき、なにをすればいいのか。

 目先の目標にがむしゃらになることで、見つめないようにしてきたことが、ふと目の前に現れるような瞬間があった。

 

 そう、スタートは何もないところから。ロアナプラに辿り着いたあの日、何も持たずに始めた人生。

 あの時、(チャン)と出会えたことは幸運だったとエレンは思う。結果的に、彼はエレンに居場所を与えてくれたのだから。彼の言葉に目標を見出して、この街で生きてみようと思えたのだ。

 

 ──張維新(チャン・ウァイサン)に仕事を依頼されること。彼に認められること。彼が死なないこと。

 気がつけば、いくつかの目標を達成してきた。望みを叶えてきたと言える。

 

 目先の目標に夢中になっているときは、現実を見ずに済んだ。

 そう、自分はどこから来て、どこへ行くべきなのかもわからず、()()()()()()()()()()()()だけだという現実を。

 

 目標がなくなるということは、当初の生き方に還ることを意味していた。これまで自分が歩んできた人生を知らず、ただ生存本能に従って生きるだけ。

 しかし今となっては、それは味気なく、あまりにもつまらないように思えて仕方がない。

 エレンは気づいてしまった。ただ死なないために生きていくことが無色透明の味気ないものだということに。もう、そんな生活を送りたいとは思えなくなっていた。

 しかし、次の目標を見つけない限り、こんな充実した日々は送れないこともわかっている。

 

(今度は、彼の姿を見るために生きていくって言うの? 生きる理由が他人の存在だなんて、可笑しくないかしら?)

 

 巡り巡る考えは果てなく、終わりの見えない迷路のようだ。

 

(人生は探しものの連続ね……少し疲れてしまうわ)

「……あ」

 

 身体の向きを反転させた拍子に、ベッドから毛布が滑り落ちる。それを拾おうと身を乗り出したとき、バランスを崩してぐらりと身体が傾いだ。上半身から床に落ちてしまい、フローリングに強かに肘を打ち付ける。

 

「いった〜……」

 

 腕を押さえながら起き上がると、ちょうど枕元の時計が目に入った。時刻は午前二時過ぎだ。

 

「……もう、本当に眠らないと」

 

 床から毛布を拾い上げ、再びベッドに潜り込む。今度は横向きになり、毛布を顎の下まで引っ張りあげ、きつく目を瞑るが──今夜は眠れそうになかった。

 眠れなくても、身体を横たえていれば少しは体力の回復につながる。朝までの数時間、ただじっとしていればやがて僅かでも微睡みが訪れてくれるだろう。

 

(……楽しい夢でも見たいものだわ)

 

 ふと張の姿を目蓋の裏に思い浮かべると、なぜだか心がホッとした。そうして、いつしかエレンは眠りの海へと沈んでいったのだった。

 

 ***

 

 ──翌日。

 現在、依頼を受けている件の中間報告をするために、エレンは張のオフィスを訪れていた。

 

「すまんな、これが片付かないことにはお前さんの話をゆっくり聞けなくてな」

 

 張はもくもくと紫煙を吐き出しながら、報告書の束にサインをしている。その傍らに置かれた灰皿には吸い殻が山盛りになっており、部屋には煙たい空気が充満していた。

 独特な匂いのする張の愛飲の煙草は、ジタン・カポラルというフランスのものらしい。一般的な煙草とは違い、発酵させた葉を使うというそれは葉巻に近い味や匂いだという。

 何度も嗅いでいるうちに、煙草を吸わないエレンにも他のものとの区別がつくようになった。

 この匂いを感じると、張のオフィスにいるという実感がある。

 

 応接用のソファに腰かけたエレンは、張のデスクの方向を見ながら気安く答えた。

 

「気にしないで。……でもずいぶん忙しそうね」

「あぁ。やらかしてくれた部下がいたもんでな……っと」

 

 エレンと会話しながらも、瞳はまっすぐに書類を見据えている。時折ペンを走らせながら、丁寧に文字を書き込んでいく姿は、一見すると仕事熱心なビジネスマンそのものだ。

 エレンが張の姿をじっと見つめていると、視線に気づいたのか彼が顔を上げる。

 

「なんだ?」

「……ううん、別に」

 

 首を左右に振ると、彼はまた興味をなくしたかのように資料に目を落としてしまった。

 どこかほっとして、エレンは小さくため息をついた。やはり、彼と目が合うと心がくすぐったくなるのだ。

 

(他の人は平気なのに……)

 

 それでも眼は勝手に、吸い寄せられるように彼の方へ向いてしまう。

 こっそりと、俯いた張の姿を観察する。

 

 黒い髪は整髪料できっちりと撫で付けられていて艶々と光っている。いつもは(おど)けたような、剽げた表情を浮かべていることの多い彼だが、手元の書類に向き合う今は、真面目な顔つきだ。

 暗いレンズのサングラスの向こうに微かに見える双眸は、鋭さを持ちながら同時に落ち着きと知性を感じさせ、まさに一大組織の長に相応しい人物なのだろうと想像させる風貌である。

 取り立てて主張しているわけでもないが、よく見ると適度な厚みのあるその唇に煙草をくわえる様は、退廃的な色気のようなものが漂っていた。

 時折その煙草の灰を落とす、男性らしい厚みのある手、やや深爪気味に整えられた指先まで、まるで映画俳優のように様になってしまうのだから不思議である。

 

(あの指に触れたら……どんな心地かしら)

 

 ぼんやりしていると、知らず知らずのうちにそんなことを考えていた。

 彼に見つめられると落ち着かなくなるのに、それでもじっと観察したくなる不思議な魅力があるのだ。

 

(どうしてなの?)

 

 自分の感情がうまく把握できずエレンはただ、彼のその東洋人にしては彫りが深く鼻筋が通った顔を見つめていることしかできなかった。

 

 ふと、張が視線を上げ、エレンと目が合う。彼がふっと微笑むと胸の鼓動が高鳴った気がした。慌てて視線を外し、平静を装って呟く。

 

「……なに?」

「退屈なのはわかるが、そんなに見つめられると穴が開いちまう」

 

 どうやら無意識のうちに凝視してしまっていたらしい。

 

「え? ああ……ごめんなさい」

 

 あわてて言い訳を探し、適当な返事を捻り出す。

 

「貴方が真面目にデスクワークをしているところを見るのは初めてだったから。つい、見惚れちゃった」

 

 自分でも何を言っているんだと思うような台詞が口をついて出てきて、エレンは思わず赤面してしまった。

 

(何を馬鹿なことを言っているのよ)

 

 恥ずかしさで下を向いたまま黙り込むと、張はまた書類に向き直りながら苦笑した。

 

「おいおい、冗談きついぜお嬢さん」

「……」

 

 つまらない冗談で悪かったわね、そう流そうとしたが、なぜかそれができない自分がいた。いつもなら適当に誤魔化せるはずなのに。

 言葉に詰まっていると、張が煙草を灰皿に擦り付けた。どうやら一段落ついたらしい。

 

「ふぅ。待たせたな、エレン。もういいぞ」

 

 張は立ち上がると、エレンの座っている向かい側のソファに座った。

 

「で? 調子は上々か?」

 

 張の言葉に促されて、エレンが口を開こうとしたときだった。ノックの音がして、彼の部下が顔を覗かせる。

 

「張大哥、お話し中失礼します。あの、香港の龍頭(ロンタァウ)からお電話が──」

「何? 龍頭から?」

 

 張の表情が僅かに険しくなって、エレンにもそれが大事な相手からの電話なのだと理解できた。

 

「はい、アポイントメントの時間が迫っているので急ぎ折り返してほしいとのことでした」

「わかった。悪いな、エレン。すぐ戻る」

 

 張は立ち上がるとエレンに目配せし、部下とともに部屋を出ていった。

 

「……ごゆっくり」

 

 そうして一人になったエレンを、静寂が広がり包む。

 しばらくの間、キョロキョロと目線を動かしていたが、やがて飽きてしまい、することもなく背もたれに深々と身を預けた。

 

 傍らには、張が席を立ったときのままの傾いた椅子、灰皿の煙草の吸い殻はまだ仄かに香る。

 彼で満ちたような部屋、彼のいた跡。

 

 この空間は、妙に落ち着くのだ。

 眠気のようなものを感じ、エレンはそっと目を閉じた。

 

 ちょっと、目を閉じるだけ。そう、目を閉じるだけよ──そう自分に言い訳しながらエレンは急激に意識がぼやけていくのを感じていた。

 

(そういえば、昨日も寝不足だったわね……)

 

 目蓋がジンジンする。

 グーッと引っ張られるような眠気に、頭が傾いて、慌てて目を開ける。抗おうとするものの、その繰り返しのうちにいつしか眠りの世界へと落ちていったのだった。

 

 ***

 

「待たせてすまなかったな、エレン──なんだ、寝てる……のか?」

 

 執務室に戻ると、ソファに横たわり、身体を丸めて眠るエレンの姿があった。

 よほど疲れているのだろうか、張が戻ったことにも気づかずに熟睡している。

 

「無防備にも程があるぜ」

 

 張は苦笑しながら、彼女の身体を軽く揺すった。

 

「おい、エレン……起きろ」

 

 そう声をかけたが、一向に起きる気配はない。

 

「お前さんには、警戒心ってモンがないのか?」

 

 きっと殺気でもありゃ起きるんだろうが、と張は独りごちた。

 小さな寝息をたてている彼女の顔を見下ろす。

 

 閉じられた目蓋の長いまつげすら艷やかで、潤いのある唇は熟した果実のように紅い。

 亜麻色の髪はふわふわと大きく波打って広がっていて、見るからに柔らかそうだ。

 

 そうして眺めていても、彼女は起きる様子はないどころか、身じろいでさらに身体を丸めていく始末だ。

 寒いのかもしれない。

 

「……世話の焼ける奴だ」

 

 何か掛けてやろう、などと考えるが特に良さそうなものは見当たらない。

 ふと、ポールハンガーに吊るしたコートが目に入った。コートの襟をつかむとエレンの上に掛けてやる。

 そして張は、向かいのソファにどっかりと腰掛けると、頬杖をついた。

 

(もう少し、眺めていても構わんだろう)

 

 不思議な気分だった。

 会うたびに自分を真っ直ぐ見つめてくる彼女の瞳、その奥にあるもの──それは、一体何なのだろうか? 少なくとも、出会ったときのような敵意や警戒ではない。そんな悪い感情を込めた眼差しではないはずだ。

 最初は戸惑ったものだが、次第にそれが心地よくなり、今では自分に向けられるそれを、密かに待ち焦がれていることに気づく。

 エレンのその瞳──角度によって仄かな緑色にも、淡いブラウンにも、そして金色にも見えるヘイゼルアイと呼ばれるそれは、まるで子供の頃に大事にしていた小さなガラス玉のようだ。

 彼女が微笑む、それを眺めているのも嫌いではない。怒ったり、困っている顔だって見ていると面白いものだ。

 

(なんにしても──)

 

 自分も彼女に興味があるのは確かだ。

 まあ、ゆっくりその正体を見つけていけばいいさ、と張は結論づけた。

 胸の中の感情を見守るように温めていけばいい。

 そうしているだけで、自然と答えに辿り着けるような気もしていたからだ。

 

 ***

 

 ──温かい。まるで、陽のあたる場所にいるようなポカポカとした温もりに全身を包まれている感覚。

 そして、この匂いは……? 

 段々と意識がはっきりしてくるにつれ、エレンが感じたのは男性的な力強さを感じる落ち着いた匂い。

 煙草と、それからコロンなのか? それとも、その人そのものの匂いなのか。

 心を安らかにしてくれる、この匂いと温もりの正体を知りたい。

 そう思うのに、目蓋は重かった。

 

「ん……」

 

 気怠さを振り切って瞳を開くと、知らない景色が目に飛び込んでくる。

 

「えっ? 」

 

 エレンは飛び起きた。

 

(そうだわ……ここは、張のオフィス……)

 

 そして、自分の身体の上に掛けられたものの存在に気づく。

 

(……コート……? 張の、コート……)

 

 見覚えのあるそれは張がいつも羽織っているものだった。

 それを理解した途端、顔にカアッと熱が集まるのを感じた。

 

(なんてこと!)

 

 漆黒の、滑らかな光沢を感じられるそれ──見るからに高級品のコートは、やわらかな手触りで、重さを感じず、肌にしっとりと馴染むようでいて温かく、まさに一級品なのだということが伝わってくる。

 

(さすが、良いもの着てるわね……)

 

 こっそりタグを見ると、ヨーロッパのとある国製であった。エレンも目にしたことのある、伝統的な老舗高級ブランドの製品だ。

 確かに、永く信頼されてきたブランドは彼にぴったりな気がする。

 

(そりゃそうよね……地位が上の人がそんじょそこらの安物なんて身に着けてられないわよね)

 

 自分との差を思い知らされるようだが、不思議と不快な気分にはならなかった。

 

(私みたいな有象無象のフリーランスなんか、何を着てたって同じだけど……立場のある人はね)

 

 自分がその立場だったら、どんな服を着るだろうか? そんな妄想をしながらもコートを見つめる。

 

(特にこんな商売、見た目でナメられたら終わりだもの)

 

 しかし、気取る様子もなく、こんなふうにエレンに掛けてくれたりするのが不思議だ。

 

(こういう人にプレゼントを選ぶとなったら難しそうだわ。きっとセンスを問われるわね)

 

 飛躍する発想の中で、エレンは張のコートに袖を通した。着てみると、肩幅も袖の長さも丈に至るまで全てが大きくて、すっぽりと包まれるような感じが心地よかった。

 

(何? この安心感)

 

 彼に抱き締められているかのような錯覚を覚え、身体がじわりと熱くなる。

 

(ちょ、ちょっと……何を考えてるのよ! 私ったら)

 

 まるで張に包まれているようなその感覚に戸惑いながらエレンはひとり赤面するのだった。

 

(でも、なんだかすごく気持ちいいわ……)

 

 温かいだけではない、どこか安堵するような心地良さを感じていた。それと同時に胸がぎゅっと締め付けられるような感覚も覚える。これは何だろう?

 鼓動も早くなっている気がする。風邪でも引いたのだろうか? ぼんやりとした頭では考えても答えは出そうになかった。

 なんとなく手放しがたくて、エレンはコートを着たままの自分を抱えるように抱きしめながら、再びソファに身を沈める。

 

(もう少しだけ……いいわよね……?)

 

 トクントクンと鳴り響く鼓動は、彼のコートを羽織っているせいだろうか? 自分の心がまるで自分ではなくなったかのように高揚しているのがわかる。しかし、それがとても心地いいのだ。

 

(ああ、私ったら疲れてるんだわ)

 

 そう結論づけてエレンは目を閉じた。そうするとまたしてもだんだん眠気が襲ってくる。やはり自分は疲れているらしい。このままもう少し眠ってしまおうかと思った、そのとき──ドアがガチャリと音を立てて開いて、張が姿を覗かせた。

 

「なんだ、まだ寝てるのか? エレン」

 

 張は呆れた声で言う。それを聞いた途端、微睡んでいた意識が覚醒した。慌てて起き上がると、動揺を隠しつつ挨拶を返す。

 

「お、おはよう」

 

 彼はエレンのその様子に不思議そうな顔をしていたが、すぐに用件を思い出したようで口を開いた。

 

「ああ、そうだ。さっきはすまなかったな、置いてっちまって」

 

 そういえば電話がどうとか言ってたっけ? と思い出すと同時に、すっかり寝入ってしまっていたことを思い出して恥ずかしくなったが、つとめて平静を装った声を出すことに全力を傾けて何でもないように見せることにした。

 

「あー……あれね。あれ。気にしないでちょうだい。……退屈すぎて、昼寝しちゃったけど」

 

 エレンの精一杯の強がりを知ってか知らずか、張は笑顔で口を開いた。

 

「……それ、気に入ったのか?」

「えっ?」

 

 そう言われて、エレンは彼のコートを着たままだったことをようやく思い出したのだ。瞬時に、顔が赤くなるのを感じる。

 

(き、着たままだったわ! み、見られた……!)

「こ、これは違うのよ……その、寒かったから……」

 

 言い訳にもならないような言葉を口走ると張はハハッと声を上げて笑った。

 

「な、な、なんで笑うのよ! 貴方が掛けてくれたんじゃない?!」

 

 エレンが抗議すると張は、悪い、と言って笑うのを止めた。

 

「お前さんが、あんまり可愛い反応するもんだからつい、な」

 

 張の言葉にエレンはさらに顔を赤くした。彼の言葉に深い意味はないことはわかっているのに。それでも過剰反応してしまう自分が嫌になる。

 

「か、からかうならお返しするわよ?!」

 

 そう言って反撃しようとすると、彼は肩をすくめて宥めるように手をひらひらさせた。

 

「悪かったよ。もう言わないから許してくれ」

「……ふん!」

(なんだか釈然としないわ!)

 

 それでも、張の纏う雰囲気はやわらかく、彼の口元に浮かんだ笑みにはからかっているような感じはなかった。むしろ嬉しそうですらある。

 

(何を考えているのか本当にわからない人ね……)

 

 なぜだか悪い気持ちはしない。むしろ、こんな風に何気ないやり取りをしているだけで心が軽くなるのはなぜだろうか。

 彼と話すと、過ごすと、見たことのない感情が次から次へと生まれてくる。それらはどれも、経験したことのないものであり、嬉しくなったり、恥ずかしくなったり、真っ直ぐ見られなかったり、ソワソワと落ち着かない気持ちになったり、むず痒くなったり、次に現れる感情がまったく予測できない。

 

(こんな感情、知らなかったわ……)

 

 今日、彼と過ごした時間は、楽しかった。

 ただこれだけのことで、明日もきっといい日になると、そう思えてしまう。

 昨夜あれだけ苛まれた悩みの霧も、いつの間にか晴れてしまったようにエレンの心は穏やかだった。──これまで自分がどんな人生を歩んできたのか、わからないままでもいい。そう思えた。

 私は、銃が撃てる。戦える。──だからこそ、こうして張の姿を近くで見ていられる。

 この先、どう生きるかなんて決めなくたっていい。戦える限り、ただ進めばいい。

 そう心に決めれば、胸の中の濁ったものが澄んでいく気持ちになった。

 

 張が上機嫌そうなまま、エレンに言葉を投げる。

 

「なんだか腹が減ったな。どうだ、メシでも食いに行くか? 報告はそれからでも構わん」

 

 思いがけない誘いに、エレンは一瞬言葉に詰まったがすぐに返事をした。

 

「行くわ!」

 

 即答してしまったことが気恥ずかしくなって、口を尖らせ目線を反らした。

 

「……貴方がご馳走してくれるならね」

 

 エレンの照れ隠しの言葉に張は笑って答える。

 

「調子のいい奴だな。……まあいいさ、奢ってやるよ」

 

 そして、話の区切りにパンと手を叩くと言った。

 

「よし。そうと決めたら、いつまでもそんな格好してる場合じゃあないぞ」

 

 エレンはそう言われて、慌ててコートの袖に通していた手を引っ込めると、改めて彼に手渡した。

 

「これ……掛けてくれて……どうもありがとう」

「あぁ」

 

 張はコートを受け取るとそれを着ながらエレンに向かって口を開いた。

 

「……ん? なんだかいい匂いがするな。香水でもつけてるのか?」

「え、つけてないわよ」

 

 身に覚えのない張の指摘にエレンは首をかしげるが、張は構わず続けた。

 

「そうか。じゃあシャンプーか石鹸の類いかね……」

 

 張はエレンの頭に顔を寄せてクン、と鼻を鳴らした。くすぐったさにエレンは思わず肩をすくめる。

 

「ちょっと……近いわよ」

「ん、ああ、悪い悪い」

(何なのこの人!)

 

 妙に胸がドキドキする。動揺を悟られないように努めて平静を装って会話を続けた。

 

「で? どこに食べに行くの?」

 

 すると張は少し考えてから口を開いた。

 

「そうだな……中華料理、四川料理は食えるか?」

「もちろんよ!」

「よし、じゃあ決まりだ。早速行くとするか」

「ええ」

 

(なんだかこれってデートみたいな……)

 

 そんな考えが頭を過ってエレンは慌ててそれを打ち消した。

 

(何考えてるのよ! そんなことあるはずないじゃない!)

 

 さっきからおかしな方に考えてしまうのは、何もかも疲れているせいだと自分を納得させ、手早く身支度を整えると張の後に続いてオフィスを後にした。

 エレベーターホールに向かいながら、張がぼそりと呟く。

 

「……そうか、匂いってのは案外厄介なもんだな。……俺もまだまだだな」

「……?」

 

 エレンにはその言葉の意味がわからなかった。ただ、彼が上機嫌でいてくれているのならそれでいいと思っていた。

 

「ねぇ、それってどういう意味? 」

「いや。戯言だ。気にしないでくれ」

「なによ、教えてくれたっていいじゃない」

 

 やがて、エレベーターが到着する頃、ちょうど廊下の向こうから(リュウ)が歩いてきた。

 彼らに気づいた劉は、嬉しそうな表情を浮かべると声をかけようと口を開く。

 だが、楽しげに話をするエレンと張の姿を前に、劉は伸ばしかけた手を引っ込めてしまった。

 

張大哥(チャン兄貴)、エレンさん、なんだか、ずいぶん楽しそうだ……」

 

 エレンの表情は輝いていて、見るからに楽しそうな様子が伝わってくる。

 劉は2人が笑いながら連れ立って歩く後姿を、複雑な顔で見つめている。

 

「エレンさん……もしかして、張大哥のこと……?」

 

 劉はぼそりと呟くと、溜め息を吐いてその場を後にした。

 2人はそんな劉に気づくこともなくエレベーターに乗り込んでいったのだった。

 ______

(Ja, gib mir Schlaf, ich hab Erquickung not.)(私に眠りを与えてください、回復のための眠りを)

 





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