死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第16話 神様にそう言われたから(教会でエダと会う話)

「あら、教会があるのね……そういえば、今まで気にもしてなかったわ」

 

 屋根の上の十字架が、午後の太陽を反射して光を放っていた。

 

「“リップオフ・チャーチ”?」

 

 エレンは入り口からそっと中を覗き込んだ。

 中は広々として明るく、長椅子が等間隔に並べられている。

 ステンドグラスの向こうからは陽光が注ぎ、床に色とりどりの模様を描いていた。祭壇の奥には、壁に掛けられた大きな十字架がある。

 

「これはまた……随分と立派ね」

 

 思わず感嘆の声を漏らすエレン。音を立てないように入り口のドアを閉めると、ゆっくりと中へ入っていく。静かな礼拝堂に、コツコツと乾いた靴音が反響した。

 そして、十字架に磔にされたイエス・キリストの側まで来ると、跪いて祈りを捧げた。

 

「お祈りなんていつ以来かしら……なんだか、懐かしいわ……」

 

 もう、遠い昔過ぎてはっきりとは覚えていないが、幼い時分、両親に連れられて教会へ来た記憶が、ぼんやりとよみがえる。

 

(……お父さん、お母さん……)

 

 記憶を辿ろうとしたとき浮かぶのは、バラバラの欠片だけだ。

 飛び飛びのパズルのピースみたいに散らばった破片を掻き集めてわかるのは、父と母とは幼い頃に別れて、もういない、もう会えないということ。その事実だけは覚えているが、理由は思い出せない。そして、そこから先の記憶もなくて、次に思い出せるのはロアナプラに辿り着いたあの日のことだった。

 

 だが、今はそれでいい。エレンはそう思っていた。

 もちろん、ずっと両親に会いたい気持ちがなくなることはなかったけれど、いつだって、心の中の彼らに語り掛けることはできる。

 温かな父の手も、優しい母の眼差しも、確かにエレンの記憶として胸の中にあるのだから。

 

 そう、両親と別れるキッカケとなった出来事の前後からロアナプラに辿り着くまでの──恐らく7、8歳ごろから17歳までの記憶を、エレンは一切合切持っていない。

 かつてあったであろう出来事を、過去の時間のその空白を埋めようと、頭の中で必死に記憶を遡ろうとしたこともあった。だが、思い出そうとすると、そのたびに酷く頭が痛んだので、いつしか思い出すことをやめた。

 

 しかし、これまでの人生を思い出せないことを、彼女はそれほど辛いとは思っていなかった。

 曖昧な出自に対する、漠然とした不安はもちろんある。しかしそれを乗り越えてしまえば、彼女にとって覚えていないことは、初めから持っていなかったことと同じだからだ。

 

 たとえば、誰かが過去を振り返ろうとしたとき、自分の記憶を辿るか、他人の記憶に頼るか、はたまた形ある記録を参照するかのどれかになる。

 しかし、知り合いもおらず、記録もなかったとして、さらに自らの記憶もないとしたら、その過去というものがあったことを証明することは難しくなってくる。

 それは()()()()()()()()()()という疑問に至る。

 

 エレンはたった一人でロアナプラに流れ着いた。

 どこからか船に乗って、貨物室に隠れていたら到着した場所が、この街だったのだ。

 少ない持ち物のなかに身分を証明するものは一つもなかったし、当然、彼女を知る人は誰もいない。

 

 ないものをないと証明することは難しい。

 

 リングドーナツの真ん中には穴がある。そこに生地が“ない”ということは周りに生地が“あって”こそ初めて成り立つ。

 

 過去がそこに“あった”と実感できない以上、“あるべきもの”が“ない”という感覚は薄くなっていき、今はもう、彼女の中では()()()()()()()()()ものと同義だった。

 

 そう、いつしか、“あった”ものが“なくなった”、とは思わなくなったのだった。そうすれば、奪われたという悲壮感もなくて済む。

 

 そもそもにして、ヒトの記憶など曖昧なものだ、もしかすると、自分がエレン・リーフェンシュタールであるということだって、想像に過ぎないのかもしれない。

 

「……でも、私がエレンであることは、神様が知っていて下さるはずよね」

 

 ただ一つ、エレンが持っていたのは、銃。父の愛銃であった、スイス製のものだ。

 自分は、銃器の扱いを、戦うすべを、なぜ、知っているのか。

 銃の撃ち方を父から教わったような気もする。だが、それだけではない、()()()()()()()()をエレンは知っている。

 例えばナイフでの接近戦の方法も、爆薬の作り方も、狙撃の方法も、──どこをどうすれば、最も容易く人が殺せるのかということも。

 

 それまで見つめていたイエス・キリスト像から逃げるように、エレンは床に視線を落とした。そっと手を伸ばして、ショルダーホルスターに収められた父の銃を静かに撫でる。

 

 エレンは思うのだ。

 過去の記憶を失くしたままの方が、心が傷付くことがないのではないかと。

 記憶の扉を開いて、そこに望んでいない答えがあったとしたら。想像もしていなかった恐ろしい答えが──否、()()()()()()()()()答えがそこにあったとしたら。

 それが、彼女が自らの過去を追求しない理由でもあった。

 

 それでも、眠れない夜には思わないわけではない。

 なぜ自分はここにいるのか。

 これまで何をしてきたのか、何を考えて生きてきたのか。そして何のために生きていくのか。

 

 だが、そんなことはわからなくても、今を生きればいい。わからないままでいいと思えたのは、きっと(チャン)に出会ったからだ。

 

 ただ明日も生きていたい、それだけ。

 今日生きていれば明日も──彼に会えるのだから。

 

 

「そ〜んな熱心に何をお祈りしてンだい? ンな物騒なモンぶら下げておいて、まさか世界平和を祈ってます、なんて言うんじゃないだろうね?」

 

 揶揄するような声が教会の高い天井に響く。

 エレンが声のする方向に視線を投げれば、そこには修道服に身を包んだ女が立っていた。その口元は何やら忙しなくくちゃくちゃと歪められている。どうやらチューイン・ガムを噛んでいるようだ。

 頭を包むウィンプルからはところどころ金髪が飛び出していて、慎ましい服装に似つかわしくないフォックス・スタイルのサングラスが、胸元のロザリオよりも光を反射して主張している。さらに、彼女の左脇では、ホルスターに収められた銃が重そうに揺れ動いていた。

 

 エレンは立ち上がると、微笑みながら女の方へ向き直った。

 

「あら、シスターもちゃんといるのね。……ちょっと神様と世間話をしていたのよ」

 

 そのシスターのなりをした女は、両手をひらひらと振りながら近づいてくると、エレンの隣へ立つ。

 

「へぇ、そうかい。んで? 神は景気はどうだって言ってた?」

 

 そう言いながら、口の中のチューイン・ガムをぷぅ、っと膨らませてみせる。

 

「……私はエレン・リーフェンシュタールって人間で間違ってないよ、って」

「はぁ? なんだそりゃ」

「私がそう信じている限り、私の存在は消えない。それが神様のお言葉」

 

 シスターは怪訝な顔をしたが、エレンは構わず続ける。

 

「そういうわけで、はじめまして。エレンよ」

 

 腑に落ちないといった顔をしていたシスターだったが、すぐに元の調子に戻り、どこか芝居じみた口調で名乗る。

 

「シスター・エダさ。どーもごきげんよう」

 

 エダはそういうと、ポケットからマールボロの紙パックを取り出すと、口に咥え、それからエレンに向かって差し出した。

 

「お近づきの印にどーだい?」

「ありがとうシスター・エダ。でも、煙草は吸わないの」

 

 遮るように手を振って、エレンは断った。

 

「へえ? 煙草やんないのかい」

 

 エダは少し驚いた顔をしたあと、珍しいものでも見るような視線を寄越した。ライターの点火音が響いて、静かな礼拝堂の空気を揺らす。

 

「ええ。……それにしても、真面目なシスターもいたものね。礼拝堂で煙草を吸うなんて」

「ありゃ、言われちゃったね。でもさ、このロアナプラはとびきり一級の糞溜めさ。教会って名乗ったところで神様だって滅多に寄り付かないもんなのさ」

 

 そう大袈裟な仕草で両手を広げると、シスター・エダは礼拝堂の椅子にどっかりと腰を下ろす。

 

「そうね、神様も忙しいみたいだし。……シスター・エダ。ここはただの教会じゃない、そうでしょ?」

 

 礼拝堂に入る前、エレンの目に入ったのは、積荷を運ぶ修道士たちの姿だ。

 隠すように布で覆われた木箱から、物騒な鉄の塊が覗いていたのを、エレンは見逃さなかった。

 

「まぁ、ね。アンタも必要なモノを商ってる……かもね」

 

 煙草の煙をふーっと吐いて、明後日の方向を向いてシスター・エダが答えた。

 見た目はシスターだが中身はどうにも違うようだ、とエレンは微笑した。

 

「……武器屋、かしら?」

 

 試すような口調で言いながら、エレンはエダを横目で見やる。

 

「その、通り」

 

 にんまりと笑ってエダは答える。

 

「ご名答のアンタはラッキー・ガールだ。今ならご新規さん割り引きで、なんと商品どれでも8掛けの価格でご提供さ」

 

 そう言って、またしても彼女は両手を大げさに広げひらひらと振って見せる。それに対してエレンは嬉しそうな様子で身を乗り出した。

 

「あら、素敵ね! そうね、ちょうど弾の在庫が少なくなってきたところだったの。ウィンチェスターの白箱をお願いできる?」

「あぁ、それなら在庫があるよ。

 白箱なら、一箱24.99ドルのところ……8掛けなら19.99ドルだね。

 さらに、今なら10箱まとめ買いでぇ……一箱おまけしちゃう……どーぉ?」

 

 エダのその口調は、さながらテレビショッピングチャンネル・QVCの司会者のごとく流暢でいて、さらにそれを数倍胡散臭くしたようなものだったのだが、エレンも進んでその芝居に乗ることにしたようだ。

 

「まあ、シスター! とても魅力的なご提案ね……じゃあ、まとめ買いでお願いしちゃおうかしら」

「お買い上げ、感謝〜。ついでにシスター印のマジナイも付けとくよ。神の御加護がありますよ〜に、ってね」

 

 言いながらシスター・エダはわざとらしく十字を切って見せる。

 

「うふふ、ありがとう。お得に買えて嬉しいわ。……でも、後で見返りを取ろうって言うのは無しよ?」

「ンなみみっちい真似すっかよ。ご新規さんだけのサービスさ。次回からは通常価格で買ってもらうしね」

 

 エレンは呆れたように眉を下げて、返事をする代わりに薄く笑った。

 

「それで、前金でいいわよね? この場で受け取れるのかしら?」

 

 数枚、札を取り出してエダに手渡す。

 

「白箱なら在庫があっから、すぐ渡せるよ。帰る前に、礼拝堂の裏にある納屋に行って受け取っていきな」

 

 そう言いながらエダは、ペンを走らせていたメモ帳をピッと勢いよく引っ張って破った。

 

「そうするわ。ありがとう、シスター・エダ」

 

 エレンがにこりと微笑んで言うと、エダはメモを彼女に差し出しながら返す。

 

「あいよ。またご贔屓に」

 

 受け取ったメモには商品名と数が書かれていた。このメモと引き換えに、弾を受け取る手筈になっているのだろう。

 それをポケットにしまうと、エレンはドアに向かって歩き出した。その途中で不意に足を止めて、彼女はエダの方へくるりと振り返る。

 

「シスター・エダ。武器を買う以外にも、また来てもいいかしら?」

 

 エレンのその申し出に、エダは意外そうな表情を浮かべたあと、さも面白がるような笑みに口を歪め肩をすくめた。

 

「ミサの時間なら、日曜は9時から、週日は7時30分からさ。あとはご自由に。マタイ伝11章28節でイエスの言う通りさ、『疲れた者、重荷を背負う者はいつでもわたしのもとに来なさい』ってね」

 

 その言葉に、エレンは穏やかな微笑みを見せる。

 

「ありがとうシスター・エダ。また来るわ」

 

 そして、礼拝堂を後にした。

 

 ***

 

 手に入れた弾丸は、10箱とおまけの1箱で11箱だ。

 弾の箱を抱えながらストリートを歩むエレンのその足取りは、機嫌の良さを表すかのように軽やかだ。

 

(今日はツイてるわ。たまたま寄った教会で弾を安く買えるなんて)

 

 きっと、運が上がるときというのはこういう小さなことから始まるものなのだ。

 小さな幸運に恵まれ、そして次の幸運が、曲がり角の向こうから────そう考えていたエレンの目の前に、一台のメルセデス・ベンツが現れ静かに停車する。

 降りてきたのは白人の男が二、三人で、いずれもスラブ系だ。

 

 ────ホテル・モスクワの使いの者であることはひと目で判った。

 

 そして、男が口を開く。

 

こんにちは(ズドラーストヴィチェ)。我々の頭目があなたに会いたいと言っている。ご同行願えますかな?」

 

 エレンは大きくため息を漏らした。

 

「……ツイてると思ったのに」

 ___

(Sanctus, Sanctus, Sanctus;Dominus, Deus Sabaoth.)(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の神よ)

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