死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第17話 二人目の死神(バラライカに呼び出される話)

 サータナムストリート。

 その大通りの外れにある、とある建物の前で停車したメルセデス・ベンツの後部座席から、エレン・リーフェンシュタールは石畳へと降り立った。

 

 上海租界時代の名残を残した南欧風建築のその建物には、立派な入り口の上に看板が掲げられていて、そこにはこう書かれている。──“ブーゲンビリア貿易”と。

 しかし、ここに近付くのは極々限られた者だけである。

 それもそのはず、この貿易会社を装っているものの正体は、──ロシアン・マフィア、“ホテル・モスクワ”なのだ。

 

 ロアナプラの住民の記憶にも久しくない、一連の香港三合会とホテル・モスクワの抗争で、このロシア人たちが極めて残忍で凶暴であることは広く知れ渡っている。

 そんなロシアン・マフィアの本拠地に好き好んで近付く者がいるとすれば、救いようのない哀れなバカか、あるいは自殺志願者だろう。それが街の住民の共通認識だ。

 

(私は自殺志願者ではないし、救いようがないほどのバカでもないと思うんだけど……。招待されて着いてくるのも、バカのうちに入るのかしらね?)

 

 建物を見上げたまま動こうとしないエレンを、使いの者が促す。

 

「さあ、エレンさん。頭目がお待ちですから」

 

 

 入口から、だいぶ奥まで進んだところにその部屋はあった。

 エレンが案内された部屋──彼らの頭目の執務室だという──そこは静かで、厳かにすら感じる空間だった。

 

 薄暗いその執務室の中では、外の熱い空気など無関係といわんばかりに、ひんやりと冷えた空気が漂っている。照明器具は最低限のものしか設置されておらず、窓から射し込む光がぼんやりと部屋の中を照らす程度の明るさしかない。

 

 その執務室の、最もドアから離れた場所に位置するデスクに、女が一人座っていた。

 壁一面の書棚を背にしたデスクの前で、その女は、両肘をつき組んだ手の甲の上に顎をのせている。伸ばした爪には赤いマニキュアが施されていて、指先まで隙のようなものが一切見当たらない美しい女だった。

 部屋の主であるその女からは、傍らで緩やかに煙を立てる葉巻すら似合うような、周囲を圧倒してしまうような貫禄が滲み出ている。

 豊かな金色の巻毛を背中に垂らし、胸元の大きく開いたスーツを身にまとったスラブ系のその女は、冷たく光る美しいブルーグレーの瞳で入ってきたエレンの姿を見据えていた。その目元には、泣きぼくろがひとつ、妖艶な雰囲気を醸し出している。

 

「奥へどうぞ」

 

 そう言う案内の男に促されて、エレンはその室内へ足を踏み入れ、彼女の待ち構えるデスクへと歩みを進めていく。

 

 一見するとビジネスウーマン風の女である。

 だが、その美しい顔の半分を占めているのは、目を背けたくなるような無惨な火傷の跡だ。皮膚が引き攣れた部分の表情は、二度と動くことはない。

 そしてその火傷跡は顔だけにあるものではなく、大きく開いたスーツの胸元から身体へと続いていることが窺える。

 

 彼女に何があったのか知らなくとも、ただならぬ過去を持った女であることがわかるだろう。

 彼女のもつ雰囲気はあくまで静かだが、執務室の空気は依然としてひりつくような緊張感に包まれている。その女には、見る者が思わずぞっとしてしまうほどの迫力があった。

 

 女の紅く塗られた唇が、ゆっくりと開く。

 

「あなたがエレンね?」

「ええ、はじめまして。エレン・リーフェンシュタールよ」

 

 デスクの前まできたエレンは、女に向かって微笑んでみせた。

 

 その女こそロシアン・マフィア、“ホテル・モスクワ”のボス、通称バラライカである。

 彼女の傍らには、まるで番犬のように一人の大男が立っている。

 なんの感情も抱かないのではと思わせるほどの鉄壁の無表情、バラライカの忠実な側近であるボリスというその男は、無言の圧力でエレンの方を見つめている。顔を斜めに横断する傷が特徴的で、彼の硬派な顔立ちを更に迫力あるものに仕上げていた。

 

「ようこそ。私のことはバラライカ、と」

「バラライカ、……さんね……」

 

 確かめるようにエレンはその名を口に出す。そして笑顔の陰で、女を見つめる。

 ──この(ひと)が、張維新(チャン・ウァイサン)を撃った人。

 

 半年ほど前に起こった、ロアナプラヨットハーバーでの騒動。香港三合会とホテル・モスクワの大規模な抗争だ。

 勢力争いを元にしてあちこちで始まった小さな抗争は、やがてお互いのボスが殺し合うまでの騒ぎに発展した。

 

 結局、決着はつかず痛み分けとなったあの騒動以来、両組織とも大人しいが、腹の探り合いなのだろう。これが束の間の安息──まやかしの平和であることは間違いない。

 

 おかげでこの街の住人たちは、いつ爆発するとも知れない不発弾の上でタップダンスを踊っている気分を味わわされているのである。

 

 ロアナプラに争いを起こした、ホテル・モスクワという連中。

 

 不思議なのは、このロアナプラのロシアン連中は、普通のマフィアとは明らかに性質が異なるということだ。彼らは、どこか規律のようなものを感じさせる。

 以前、エレンが目撃したホテル・モスクワの郎党は規則正しく乱れぬ歩調で、目下抗争中の香港三合会の人間たちに臆することなく通りを闊歩していた。

 まるで警察の特殊部隊のような動きをするこの集団について、エレンはずっと興味を持っていた。

 

 もちろんエレンの耳にも、凶暴な連中だという噂は入ってきている。

 この街にやってきた際、勢力を広げるための手法、三合会に()()()()()()()()ことを鑑みると、好戦的な組織であることは間違いない。

 

 その女ボスも今は静かな笑みを唇に浮かべたまま、椅子に腰掛けている。

 ただ、笑顔とは反対に、その青い瞳はどこまでも冷たく、獲物を目の前にした猛獣のような光を隠すことなく宿していた。

 

 傍らにあるアンティーク調のスタンドライトが、弱々しいほのかな光で彼女──バラライカの顔をぼんやりと照らしている。その灯りはまるで、消えてしまう寸前の命の光のようだ。

 

「──ごめんなさいね。急に呼び出したりして、びっくりしちゃったでしょう?」

 

 見ための恐ろしさとはなんとも裏腹な、わざとらしいくらい静かでゆったりとした口調で、バラライカは言った。

 

 この女とこうして向き合ってみてエレンが感じたのは、彼女の底知れぬ恐ろしさだった。

 ただの女ではないことは、対峙してみれば一目で──いや、その空気でわかるだろう。油断をすればあっという間に喰われる側になるであろうことは否めない。

 それでも警戒する素振りを少しも見せず、エレンは肩をすくめてみせる。

 

「いいえ。気にしないでちょうだい。散歩のついでのようなものだから。……ごめんなさい、手土産の一つもなくて」

 

 バラライカが席を立つ。身長にも恵まれた彼女は、均整の取れた見事なプロポーションをしている。彼女はゆっくりとデスクをまわり込み、エレンの方へ歩み寄っていく。

 一歩歩くとコツンとヒールの音が床板を鳴らした。その音はまるで、地獄への招待の音色であるかのように執務室へと響き渡る。

 

 そして、エレンの前に立ったバラライカの手がすっと伸びてきて、無遠慮に顎を掬い上げると自分の方を向かせ、品定めするような視線で見下ろす。

 

「ふぅん……思ってたより……まだ若いのね。キレイな子じゃない」

 

 冷たい光の瞳、大抵の人間ならば竦み上がってしまうようなその眼光に、エレンは怖じることなく見つめ返す。

 

「あら、私だって……女ボスなんて、てっきり女装したスタローンみたいなのが出てくるかと思ってたわ。

 想像よりずっと綺麗な人で安心しちゃった」

 

 エレンのその言葉に、バラライカがつまらないものを見たかのように眉根を寄せ目を細めた瞬間、ボリスのいる方向から、勢いよく息を吹き出す濁った音が聞こえる。

 

「面白いか、同志軍曹(タヴァーリシチ・セルジャント)?」

 

 顔だけを彼の方へ向けてそう言ったバラライカの表情には別に怒った様子もないのだが、姿勢を正した大男の態度はさっきよりさらに引き締まったことが見て取れる。

 何も変わらず真顔の彼は、短く答えた。

 

「いえ、それほど」

 

 またしてもエレンが肩をすくめる。

 

「あら残念、面白くなかった?」

 

 いたずらっぽく微笑んでみせたエレンを冷たく一瞥すると、バラライカは彼女の顎に添えていた手をゆっくりと外した。そして、再びゆったりした口調で語りかける。

 

「若いっていいわね。命知らずな行動を取ることも気にならないみたいだし。

 後々のことを考えずに行動できるのは若さの特権かしら? 

 ……(チャン)の野郎を助けたってのはあなたなのね?」

 

 穏やかで平坦な口調であるにも関わらず、言葉の終わりには、微かに嫌悪感にも似た感情の影が浮かんでいる。

 

「お言葉だけど、私だって何も考えてないわけじゃあないのよ。

 それに、私が助けなくても、三合会の人たちが応援に来てたわ。どっちみち彼も死ぬ運命にはなかったのでしょうね、()()()()()()

 

 エレンの言葉を聞いたバラライカは口元を緩め、微かな笑みの様相を作る。さながら子供の悪戯を諌める慈母のような笑みでありながら、それでいて底冷えのするような恐ろしさをも秘めた笑顔だった。

 

「あらあら、ずいぶんと生意気な口を聞くじゃない、お嬢ちゃん(ミーラチカ)。度胸があるのはいいことだけれど、場を弁える能力もあればもっといいと思うわ」

 

 その眼差しはどこまでも冷たい。

 

 真っ向から向き合ったエレンの表情もまた、鋭く引き締まる。口元を真一文字に結んで、揺らがぬ瞳でバラライカを見返していた。

 

 二人の女の視線が空中で交差する。

 しばらくそのまま、凍りつくような時間が二人の間に流れた。

 

 かと思えばバラライカの表情が、突然、拭き取ったようにコロリと変わり再び元の静かな笑顔に塗り替えられる。

 

「ま、いいわ。あなたには一度、会ってみたかったの。ご挨拶、を兼ねて、ひとつお仕事を依頼してみようかと思ってね」

「私に? 光栄だわ」

 

 エレンは嬉しそうだ。

 

「あら? 我々ホテル・モスクワの仕事を受けてくれるの? てっきりあなたは、三合会の側に立つ人なのかと思ったのだけれど?」

 

 わざとらしく意外そうにしてみせるバラライカに、エレンが余裕のある笑みで返す。

 

「ええ、三合会からはお仕事を頂いてるわ。

 でも私は中立なの。どこかの組織に属してるわけでもない、フリーランスだもの。

 仕事を依頼してくれるなら、どこだって大歓迎よ」

 

 バラライカはデスクへと戻ると、上体を背もたれに預けるようにしながら再び口を開いた。

 

「あらそう? それは、助かるわ。予定してたヒットマンの子が()()()()になっちゃってね。あなたが来てくれて私たちも良かったわ、エレン」

 

 バラライカがエレンに頼んだのは、ごく簡単な仕事だった。これならば、失敗してキノコと一緒にピローグの具にされることもないだろう。

 説明を聞いて、簡単な資料を受け取る。

 そして、部屋を去るその前に、エレンは思い出したようにバラライカに尋ねた。

 

「ねぇ、……また、張維新と殺し合うの?」

「あなたに関係のあることかしら、エレン?」

 

 間を置かず、バラライカの声が被さった。そして彼女は葉巻の煙を大きく吐き出す。

 エレンは肩をすくめてみせた。

 

「あぁ、勘違いしないで。私はいち市民としてこの街を気に入ってるの。だから、上の人達の争いでこれ以上街をめちゃくちゃにされたくないだけ」

 

 エレンがそう言うと、バラライカはまるで面倒な仕事を請け負ったオフィス・ワーカーみたいに大きなため息をついてみせる。

 

「あのね、エレン。

 私としては今すぐにでもあの男の息の根を止めてあげたいところだけれど。

 そこは大人の事情ってとこかしら。あなたが気にすることじゃないとだけ言っておくわね、お嬢ちゃん(ミーラチカ)

 

 バラライカはそれだけ言うと、話は終わりだとばかりにひらひらと手を振ってみせる。これ以上の会話はするつもりはないということらしい。

 エレンにも、深入りするのは上策ではないと理解できる。だから、それ以上は何も尋ねずに踵を返した。

 

「……そう。わかったわ。それじゃあまたね、バラライカさん」

 

 そして、今度こそその場を後にした。

 

 ***

 

「車でお送りしなくて良いのですか?」

 

 ボリスがそう言うのを、エレンは首を振って断る。

 

「ええ、いいわ。息が詰まるようなのはもうたくさん、解放してちょうだい」

 

 すると、彼は返事の代わりに口元をわずかに引き上げてみせるのだった。

 

 ***

 

 サータナムストリートを抜けて、夕焼けの染める街をしばらく歩く。

 

 路地裏に来たところで、壁を背にしたエレンはその場にするするとしゃがみ込んだ。そして、ぼそりと小さく呟く。

 

「……あ〜〜、怖かったわ……殺されるかと思ったじゃない……」

 

 腕の中にある弾丸の箱にガックリと頭を預けて、エレンは長く大きなため息をついた。

 

 バラライカの様子からするに、嘘を付く必要もない、あの言葉は本当だろう。ホテル・モスクワと三合会との関係も、今すぐどうこうなるものでもないようだ。

 

「……良かったわ」

 

 緊張から解放された反動なのか、ふと、甘いものが欲しくなる。

 

「ブアローイでも食べて帰ろう……」

 

 お気に入りの屋台のスイーツを思い浮かべると、少し気持ちが落ち着いてくるのだった。

 ___

(На языке мед, а под языком лед.)(舌の上に蜂蜜、舌の下に氷)





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