死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第18話 重ねる音は薔薇の色(張と食事に行く話)

 張維新(チャン・ウァイサン)は、ふと何かを思い出したように作業の手を止めた。

 ぼんやりと遠くを眺めるような眼差しをして、手慰みのように、持っているペンをデスクの上の書類にコツ、コツと打ち付ける。

 

 オフィスには夕焼けの光が差し込み、張のデスクを茜色に染めていた。

 長くなった煙草の灰を落としたあと、緩慢に書類をめくりながら思い出すのは、先日エレンと食事をしたときのことだ。

 

 

 進行中の案件の中間報告にオフィスを訪れたエレンは、自分が席を外した僅かな間に居眠りをしていて、疲れているのだろうか、などと張は思った記憶がある。

 薬食同源、美味いものでも食えば疲れも取れるだろうと軽く考えて彼女を食事に誘ったのだが、その誘いにエレンは思いの外喜んでいて、彼女が見せた子供のような仕草にいささか戸惑ったものだった。

 

 張にとってエレンは、異性という以前に仕事を依頼する相手である。

 だから食事に誘ったのも、特段、男女としての意識があったからではない。ただ他の連中より過去に多少のご縁もあったことだし、何よりクライアントとして愛想は振り撒いておいた方が良いだろうとの打算が働いただけのことだ。

 

 ──それにしたってあんなふうに喜ぶとは思わなかった、と張は思う。

 

 店に着くまでの車の中では、いつもの彼女とは明らかに様子が違った。ずっと見るからにソワソワと落ち着きのない調子であり、浮き立っているのが手に取るようにわかってしまうくらいだった。

 そしてそんな自分に気付かれていないかどうかが気になるのだろう、チラチラと張の表情を覗いてばかりいる。──当然、丸わかりなのだが。

 

 やってきたのは、香港三合会が所有している中華料理のレストランだ。

 

 そして席についてもエレンの落ち着かない様子は続き、何がそんなに珍しいのか熱心にメニューに見入っては料理の名前やら中国語の意味やらを張に尋ね、教えてやったことに逐一素直に感心していた。

 やがて頼んだ料理が運ばれてくると、まるで宝物でも目の当たりにしたように瞳をキラキラと輝かせ、パクパクと料理を平らげてはまたメニューを睨んでいる。

 すっかり成長したと思ったが、この調子じゃまだこいつは色気より食い気だな、と張は思ったものだ。

 

 ふとエレンの手が止まり、口を押さえて顔を真っ赤にしている。

 

「かっ、辛……!?」

 

 メニューを見て顔を輝かせたのもつかの間、出てきた料理を一口食べてエレンは涙目だ。笑いながら張はグラスの水を差し出してやる。

 

「そりゃ唐辛子と花椒(ホアジャオ)をたっぷり効かせてるからな」

 

 エレンは渡されたグラスを急いで受け取ると、グビグビと飲んだ。そしてようやく一息つくと、彼女は唇を尖らせたまま、精一杯の強がりを吐く。

 

「……辛いけど、美味しいわ!」

 

 涙の滲んだ瞳でこちらを睨みつけるエレンは、子供っぽくて、どこか愛らしくて──張は思わずくくっと笑いを漏らした。

 すると彼女は再び顔を真っ赤にしてむくれてみせる。

 

「どうして笑うのよ?」

「いや……悪い」

 

 咳払いをして誤魔化そうとするが、エレンはまだ頬を膨らませたままだ。

 

「いや、見た目はしっかり育ったようだが、中身はまだまだガキだなと思ったのさ」

「……悪かったわね。どうせ子供よ」

 

 拗ねてそっぽをむくエレンに、張は笑いをかみ殺しながら言った。

 

「いいや? ガキのままでいいと思うぞ」

「どうして?」

 

 ちらりとこちらを窺ってエレンが尋ねる。

 

「その方が、可愛いからな」

「……もう! からかわないでちょうだい!」

 

 張がそう言うと、エレンはまた顔を赤くして、再び怒り出した。

 

 食事中の彼女はよく笑いよく怒りよく喋り、ころころと楽しげに表情を変える。かと思えばこちらの話に耳を傾けながら真剣な眼差しを向けてきたりもした。

 間近で見るヘイゼルの瞳は次々とその色を変えていって、仕事相手として接していたときにはわからなかったエレン・リーフェンシュタールというひとりの人間が、張の眼の前にいた。

 

 エレンのその品を感じるような美しい容姿には似つかわしくない、ときおり見せる無邪気すぎるほど無邪気な振る舞いが妙に微笑ましくも思え、不思議なことにそんな彼女の一挙手一投足が、張の一日の疲れを少しずつ溶かしていくようだった。

 

 エレンを眺めながら、張はぼんやりと物思いに身を浸す。

 

 ──こいつは一体、これまでどうやって生きてきたんだ? どう育ったらこうなるんだ? 裏社会の人間だというのに、その振る舞いにはこれまで張が見てきたどの人間とも違う、むしろ一般的な連中のそれに近いものがあるように思えてしまう。

 似たようなことを思った瞬間が以前にもあった。

 自分の苦言に対し、しょんぼりと項垂れるエレンの姿を見たときだ。

 この裏世界は常に腹の探り合いであるはずなのに、こんなに簡単に心の動きを見せてどうするのだ、と呆れた覚えがある。

 こいつは本当に殺し屋なのか? これが彼女本来の姿なのか、それとも何か意図があって演技をしているのか。疑問は尽きない。

 仮に素の姿だとしたら、この世界の人間にしては不器用が過ぎるのではないか。

 色々考えてみたが、それでも彼女にはどこか人を惹き付けるような魅力があることは否めなかった。

 

 目まぐるしくコロコロ変わるエレンのその表情、彼女自身が隠そうとしても簡単には隠れない、打算なく素直すぎる剥き出しの感情。張はだんだんとそれに気がつくようになってきたことを自覚している。

 

 ホテル・モスクワとの一件で命を救ってもらったことを置いておいても、張は、エレンという人間そのものに興味を抱いてしまっている自分がいることに気が付いていた。

 彼女と初めて出会ったあのとき、内心ひどく脅えていただろうに、気丈に自分を睨みつけてきたあの眼。なかなか気骨のありそうなガキだ、と、そう思った。もしかしたらあのときから、自分はこいつを気にしていたのかもしれない。

 

 それにしても、大人になった彼女とあんな形で再会し、食事をする仲になるとは、まったく人の縁とは奇妙なものだ、と張は思うのだった。

 

 少しばかり考え事に耽りすぎたか、とエレンの方を見れば、ほんの僅か目を離している間に、いつの間にかテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。

 

「……おいおい、またかよ。そんなに寝不足なのかい?」

 

 苦笑するが、彼女の規則正しい呼吸の音を聞いていると、だんだんと色々なことがどうでもよく感じられてくる。

 

「お待たせいたしました。……あっ」

 

 食後の酒を運んできた給仕係が、眠るエレンに気付いたらしく小さく声を上げた。張はそれを手で制して、二人分の酒のグラスを受け取る。

 

 そして、その後しばらくの間、彼女の姿を肴にして酒を楽しんだ。

 規則正しく揺れるエレンの肩、ノースリーブの服から無防備に覗く肌はキメが細かく滑らかそうだ。別段小柄なわけでもないのに、意外に華奢に見える背中が上下するのを、何をするでもなくただぼんやりと眺めていた。

 

 ──まったく、小さな子供でもあるまいに、よく寝るやつだ。

 張は口の端に笑みを浮かべてグラスを傾ける。静かな時が流れていて、なぜだかその時間は彼にとってひどく心地がよかったのだ。

 

 やがて張のグラスがすっかり空になるころ、目を覚ましたエレンは、まだ眠そうなぼんやりした表情を浮かべていた。

 

「……ごめんなさい私、また寝てしまったのね」

「あぁ。よく寝てたな」

「……まさか、貴方……そうやってずっと私のこと見てたの?」

 

 エレンが恨みがましい視線で張を見る。

 

「あぁ。見てたさ。……随分と気持ちよさそうに寝てたな?」

 

 張の言葉に、エレンはかぁっと顔を赤らめると、「もうっ!」と高い声を上げて頬を膨らませた。

 張は快活に笑いながら煙草を取り出し、一本咥えて火を点ける。

 

「おい、どうやら俺はお前の寝顔が気に入ったみたいだぜ。せっかくだし、写真にでも撮っておけばよかったかもな?」

 

 からかいの言葉を口にしながら、彼は盛大に笑い声を上げた。

 

「……悪趣味だわ……」

 

 恥ずかしさを誤魔化すためか、(うそぶ)く張を睨みつけ、唇を真一文字に結んでいる。

 それにしたってあんな顔で睨まれたって、彼にとってはちっとも恐ろしくもなんともなかったのだが。

 

「起こしてくれても良かったじゃない……!」

 

 終いにそう涙目で詰め寄られたときには、張はますます声をあげて笑ってしまったのだった。

 

 あのときのエレンの子供のような膨れっ面を思い出すと、今でも腹の底にくすぐったいものを感じ、笑いが込み上げてくるくらいだった。

 

 ***

 

「今日は楽しかったわ……とても」

「ああ。……なぁ、エレン。もう少し飲みたい気分なんだが、どうだ、付き合ってくれないか?」

 

 食事が済んで、そろそろお開きにしようというときに、なにやら去り難そうにしているエレンを、張はクラブに誘った。普段であれば絶対にそんなことはしないのだが、そのエレンの様子が妙にいじらしくて、少しぐらいなら時間を割いてもいいような気がしたのだ。

 

 完全に予想外の誘いだったのだろう、エレンはパッと顔を明るくした。

 

「いいの……!?」

 

 張の見間違いでなければ、その頬は少しばかり紅潮している。

 

「ああ。あまり遅くまではいられないがな」

「ええ、十分よ!」

 

 嬉しそうに(はしゃ)ぐ彼女を連れて、張はそのバーへとやってきた。三合会が所有している店の一つであり、中でもこのバーはいわゆる高級店で、それ相応の客でないと入店させない運営としている。

 おかげで、店内でやたらと銃を撃ったり、そして絨毯に()()()()()をぶち撒けるような()()()()()()はここには存在しない。

 店内ではジャズバンドの生演奏が行われていて、一流の調度品のみで構成された、贅沢でありそれでいて落ち着いた雰囲気の空間である。

 

 店に入ったエレンはたちまち、萎縮したような、借りてきた猫のような様子になって黙り込んでしまった。こういった場所には初めて来たのだろうと安易に想像させる、居心地の悪そうな顔だ。張はその様子を見てまた笑いが込み上げてきたのだった。

 彼のスーツの裾を遠慮がちに引っ張って、エレンは小声で囁く。

 

「私、こんな……普段着で、場違いだわ……」

 

 張はエレンを手招きして耳打ちした。

 

「心配しなくていい、この店は三合会(ウチ)の息がかかった店だ。俺のツレだと言えば何の問題もない。それに、お前さんみたいな美人なら、場違いどころかボロを纏ってたとしても最高の花形になれるさ」

 

 この容姿ではこの手のことは言われ慣れてるだろう。張のそんな思いを見事に裏切るように、エレンは心底意外そうに驚いた顔をして彼をまじまじと見つめ、それから恥じらうように俯いて小さな声で言った。

 

「あ……ありが、とう……」

 

 エレンはまだ困ったような顔をしながらも、はにかんだように微笑んだ。それは、まるで花のつぼみが綻びるようなやわらかな笑みだった。

 

「……私、こういうところ初めてで……どうしたらいいのか、わからないわ……」

 

 その笑顔の愛らしさに張は、この少女のような女ともう少し一緒にいたいような気持ちになったのだった。

 張はエレンに笑ってみせた。

 

「なに、難しく考えることはないさ。ただ美味い酒でも飲んで、いい気分になればいい」

 

 スタンダード・ジャズが流れる店内は薄暗く、他人同士が打ち解けるには都合のいい環境である。

 入り口から最も離れたボックス席に案内された張は、エレンにも座るよう促した。

 

「なんでもいい、好きなものをオーダーしろ。俺の奢りだ」

 

 そう張に言われたエレンは、おずおずと彼の隣の席に腰を下ろし、小声で囁く。

 

「あの……実は私、まだあまりお酒を飲む機会がなくて……だからよく、知らないのよ……」

 

 肩をすくめて目線を泳がせる、その仕草がいちいち可愛らしく感じられて、張は思わず笑いそうになった。だがここで笑ってはまたエレンに睨まれるような気がしてなんとか堪えると、代わりに言った。

 

「じゃあ、適当に見繕ってやるよ。甘い方がいいか? それとも……酒の味がする、ちょっとしたカクテルでも?」

 

 エレンは張の言葉を聞きながらも、そわそわと落ち着きがない。張はウェイターを呼ぶと、エレンのためにカクテルをオーダーした。

 

「……こういうところは……その、よく来るの?」

 

 エレンの問いに、張は煙草に火を着けながら軽く答える。

 

「たまにな」

「そう……」

 

 それから二人は沈黙した。それは決して重苦しいものではなく、互いの様子を窺うように言葉を選びあぐねての沈黙だった。

 

 やがて運ばれてきたカクテルを一目見て、エレンは目を輝かせる。

 

「わぁ……! 綺麗だわ」

 

 見る角度によってはバイオレットカラーにもブルーにも見える美しいカクテルだ。グラスの中で淡色から濃色へと変化するそのさまは、どことなく夜が迫る空を思わせる。縁に添えられたレモンピールが、鮮やかに互いの色を引き立て合っていた。

 

「じゃあ、乾杯といこうか?」

 

 二人が互いのグラスを軽く触れ合わせると、澄んだ音が微かに鳴って空気を揺らした。

 

 張は一口、ウイスキーのロックを口に含む。飲み下せばじわりと喉が熱くなった。

 グラスをテーブルに置くとエレンを見つめる。

 

「どうだ?」

 

 エレンは少し返答に間を置いた。一口だけ飲んだカクテルの甘さが舌に心地良いらしく、表情が綻びる。

 

「美味しいわ……、不思議ね、お花みたいな……華やかな香りがするの」

 

 張は笑ってエレンのグラスを指差す。

 

「そのカクテルには、バイオレットリキュールが使われていてな。スミレやらバラやらで香り付けした酒だよ」

 

 エレンは自分のグラスをまじまじと見つめている。グラスの中ではゆっくりと、無数の気泡が次々に昇っていく。

 

「そうなのね。……いい香りだわ……」

「気に入ったか?」

「ええ、とっても。……ハーブのような香りもするわね」

 

 クンクンと香りを嗅ぐ様子がまるで小動物のようで、張の笑いを誘う。

 

「ジンベースのカクテルさ。……気に入ったなら、また来ればいい」

 

 張はそう言い、エレンのグラスに自分のグラスを近づけてもう一度乾杯した。エレンは照れたように笑って、カクテルを口に含む。

 

「……私ね」

「うん?」

「こういうところって、もっと怖い人たちがいっぱいいるのかと思ってたの。だからちょっと緊張しちゃったわ……」

 

 思わず張は吹き出してしまった。エレンは、眼の前にいる男のことは一体なんだと思っているのだろうか? 

 

「お前さんみたいなのを怖がらせるほどの連中じゃない。それに俺だって、そうガラのいいほうじゃないしな。忘れちゃいないだろう? お前さんが酒を酌み交わしてる相手は、香港三合会の張維新だぜ?」

 

 張はそう言って、おどけたように肩をすくめた。エレンは微笑みの形に唇を動かし、そして小首を傾げると張をじっと見つめる。

 

「確かに……貴方は……ちょっと怖い人かもしれないわね……忘れてたわ……」

 

 その屈託のない言葉に張は思わず笑ってしまいそうになるが、それをなんとか堪えた。

 

「やれやれ、そうだろうな」

「でもね、わかってきたの。貴方は優しい人よ」

 

 そう言ってエレンはまた微笑んだ。

 

「優しい? ……俺がか?」

 

 意外すぎた言葉に、張は尋ね返した。

 

「なんだそりゃ。この俺をつかまえて優しいとは、お前さん、相当おかしなやつだな」

「……私は、そう思うの」

 

 エレンは張の瞳をじっと見つめた。その真剣な眼差しに、張は笑いを引っ込めて見つめ返す。

 

「……なぜ、そう思う?」

「それはね」

 

 エレンは静かな声で言った。

 

「貴方が私を怖がらせまいとしてくれているのがわかったからよ」

 

 そんなまっすぐな言葉に、張はますますおかしくなってしまい、堪えきれずに声に出して笑った。

 そんな張を見つめるエレンの表情もまた明るいものになっていた。

 

「初めての依頼をもらって、私ったら有頂天になり過ぎていたのね。……火薬の量を間違えて、ビルごと爆破してしまった……今思い出しても恥ずかしいわ。それでも貴方は私に挽回のチャンスを与えてくれたじゃない?」

 

 張はフンと鼻で笑った。

 

「たった一度の仕事でそいつの本当の力など計れんさ。俺はお前さんがちゃんと駒として使えるかどうか、試しただけだ」

「それでも、私は嬉しかったわ」

 

 そう言ってエレンは目を伏せた。長いまつげが頬に影を落とす。その眼差しはどこか幸せそうな色を滲ませている。

 

「また貴方に仕事を貰えると思っただけで、頑張ろうって、力が湧いてくるみたいだった……」

「……そうかい」

 

 張はそう言って肩をすくめると、グラスを口に運んだ。

 

「……まあ、今思えば、お前さんが次は何をやらかしてくれるのか……それを見てみたかった、ってだけかもしれんしな」

 

 その言葉を聞くとエレンは「意地悪ね」と言い、小さく笑い声を上げた。

 

「だがな、俺は本当に大した人間じゃないぜ? この先、そんな俺の言葉にお前さんがコロッと騙されちまわないことを祈るよ」

「あら、そんな心配はないわ。……言ったでしょ、貴方はとても優しい人だもの」

 

 張は困ったように頭をかいている。

 

「やれやれ、そんなに買いかぶるなよ。俺だって所詮無頼者に過ぎん、ご立派な人間なんかじゃあないさ」

「いいえ。貴方には、人の上に立つだけの器がある。……懐の深い人だわ」

 

 今度こそ参ったと言わんばかりに、張は視線を逸らした。

 

「まったく、お前さんはなんでもそうやって褒めちぎるんだな。敵わんよ」

 

 エレンの顔はアルコールによりほんのりと赤く染まり、瞳も潤んで見える。手にしたカクテルグラスを軽く揺すると、照明を反射して、表面がキラキラと瞬く。

 

「さっき……貴方のオフィスで眠ってしまった私に、コートを掛けてくれたでしょう? あんなふうに親切にしてもらったのは、初めてよ」

「あれごときで親切とは、お前さんの周りはよっぽど、ろくでもない奴らばかりだったみたいだな」

 

 張は笑いながら言う。

 

「この街に来てからはね。……その前はどうだったのかしらね」

「……ほう?」

 

 彼女の言葉の真意を掴みかねて、疑問を含ませて問い返す。

 

「そういやぁ、お前さんはここに来る前から殺しをやってたのか?」

 

 なんともなしにそう口に出した。

 彼女の銃は持ち主の年齢のわりに随分と使い込まれていて、それに気づいた張は不思議に思っていたのだ。

 

「覚えていないの」

 

 あっさりとした言葉だった。それを柔らかな拒絶なのだと受け取った張はそれ以上追求せず、あっさりと引いてみせる。

 

「ん? そうか。話したくないならそれでもいい」

「本当に覚えていないの」

 

 しかし、エレンは少し強い口調で間を置かずにもう一度重ねた。

 

「ここに──ロアナプラにたどり着くより前の記憶が、私にはないわ」

 

 エレンは淡々と話し続けるが、その表情はわずかに憂いを含んで、眼差しは下を向いている。

 

「どうして私がロアナプラにいるのか、わからないの。この街には船に乗って来たということだけ……」

 

 張はじっとエレンの横顔を見つめる。

 彼の脳裏に浮かんだのは、出会ったばかりのころ、絞り出すようにエレンが言った「わからない、どうしてここにいるのか」という言葉だ。そして、銃の撃ち方をどこで教わったかという質問に対しても、曖昧に言葉を濁した返事をしてきたこと、あれは、はぐらかしていたわけではなかったようだ。

 

「……そいつは、なんとも奇妙な話だな」

「ええ。

 ……でも、思い出さない方が幸せかも、なんて思うの。おかしいわよね」

「さあ、どうかな」

 

 そう言って肩をすくめる。

 

「俺にとっちゃお前さんは、もう十分におかしなお嬢さんだがな。しかしまあ、無理に思い出す必要もないだろうさ」

「……貴方もそう思う?」

「ああ、そうだとも。お前さんの過去に何があったにせよ、それは、お前さんがこれからどうするか、どうしたいかとは関係のない話だからな」

 

 張はそう言ってからまたグラスを傾ける。

 

「そうね……、……そうよね」

 

 どこかホッとしたような眼差しで、エレンは持ったままのグラスを見下ろしている。

 それから静かに、残った中身を流しこんだ。

 

「あんまりあれこれ考えすぎると、かえって何もできなくなるもんさ。ジョージ・ガーシュウィンも言ってるぜ? ジャズと同じで人生だって即興が一番、ってな」

「へぇ、物知りなのね。……うん、いい言葉だわ」

 

 そうして、流れている曲に耳を傾けたエレンは、ふと呟く。

 

「どこかで、聞いたことのある曲ね」

「ああ、有名な曲だからな。たしか──“In a sentimental mood”だったか?」

「ふふ、素敵な曲だわ……」

 

 音楽に合わせてグラスをフラフラと揺らす。

 そんなエレンの瞳は穏やかに凪いでいて、張は彼女を見つめたまま、思わず視線が動かせなくなっていた。

 

「それにしても、ジャズの生演奏なんて、初めて聴いたわ。……きっとまだ、この世界には私の知らないことがたくさん待っているわね」

 

 肩をすくめて微笑んだエレンのその顔には、先程の憂いはもう、見えなかった。ただ、今を楽しみ未来に思いを馳せる一人の女性がいるだけだ。

 

 *

 

 二人を乗せた車は、エレンの自宅近くで止まる。

 

「じゃあな、エレン。悪くない夜だった」

「……ええ、……」

 

 エレンは指をもじもじと動かしながら、何か言いたげにチラチラと張の方を窺っていて、その場から立ち去ろうとしない。

 

 そんな彼女に「またな」と手をひらひらさせてやると、エレンはホッとしたような、それでいてどこか寂しげな表情で小さく手を振り返してきた。

 

「お前さんが良けりゃ、なんだが──また、誘ってもいいかな?」

 

 張が尋ねると、エレンは一瞬驚いたような顔をして、それからすぐに顔を綻ばせ、とても嬉しそうに笑って答えたのだ。

 

「ええ……! もちろんいいわよ!」

 

 

 ***

 

 そう、あのときのエレンの様子を思い出すと、張はなんだか楽しくなってくる。

 あのときの彼女は、まるで──そう、まるでデート中の少女のようだった。

 

 ……まさか自分がそういう相手として見られているということはあるまい。自分はエレンより随分年上だし、あくまで仕事上の付き合いがあるだけの男だ。

 

 何がそうさせるか理由はわからなくても、その人物と話をすると、顔を見ると、なんとなく気分がいい存在というものがたまにいて、張はエレンのことを、そういう奴の一人だと思っていた。

 今にして思えば、なぜあれほどまでに彼女との食事を楽しんだのか、そもそもなぜ彼女を誘ったのか自分でもわからないのだ。

 

 そんなつもりはなかったのだが、いつの間にか自分自身も気づかないうちに、彼女に気を許し始めているのだろうか? 

 

 別れ際にこちらを振り向いたエレンは、夜の街灯に照らされた亜麻色の髪がぼんやりと発光するように輝いていて、浮かべる微笑みは、張が知る中でもっとも美しく見えた。

 

 ──なぜだろう? こうして日が経つごとに、名前のつけられない感情が生まれてきている気がしてならない。

 張をじっと見つめるエレンの、そのヘイゼルの瞳の奥には、これまで見たことのない光が揺らめいていたように思えた。それは一体なんという感情なのか? 

 もしもそれを真っ正面から見据えたとしたら、彼女の瞳の奥にある本当のものが分かるのだろうか。

 ──いや。

 

 張はすぐに頭を振った。

 

「……別に、そこまで自惚(うぬぼ)れちゃあいないさ」

 

 そう独りごちた声は誰に届くこともなく室内に響いて消えた。

 

 ふいにドアが開いて、書類を抱えた部下──(リュウ)が顔を見せる。

 

「お疲れ様です、張大哥!」

「ああ、ご苦労」

 

 劉は張に書類を手渡すと、ふとポールハンガーに掛かるコートの方に目をやった。

 

「あ、そろそろクリーニングに出しましょうか?」

 

 張のその目蓋がふと穏やかに細められた。

 そして、何かを思い出しているかのように静かな眼差しをコートに注いでいる。

 

「……いや、まだいい」

 

 脳裏を掠めるのは、エレンの顔と、そして漂う花のような甘い香りだ。

 自嘲するかのような笑みが口の端に浮かぶ。

 

「……まだ、このままでいいのさ」

 

 まるで誰にも知られぬようにと秘め隠すかのように、張は囁くような小さな声で呟いたのだった。

 

 ____

(Su la tua fronte,un vivido sorriso! )(あなたの顔に、鮮やかな微笑み!)

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