死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第19話 はじめから僕は何も持たずに(彪と共闘して張を助ける話)

 

「……それにしても、辛かったわ……あの麻婆豆腐」

 

 洗面所で歯ブラシを取ったところで、エレンはしみじみと呟く。

 

 思い出すだけで舌がヒリヒリしてきそうだ。口の中が燃えるような辛味を思い出して軽く身震いをする。

 料理自体はとても美味しかったのだが、あんなにも辛いとは思わなかったのだ。やはり中国四千年の歴史は半端ではないということか、それとも単に自分が辛さに弱かっただけか。

 

(でも……)

 

 (チャン)が注文してくれた杏仁豆腐は別格だった。あれは本当に美味しかった。口の中でとろけるような舌触りに思わず頬が緩んでしまうほど幸せな気分になったものだ。

 また食べたいな、とエレンは思う。また誘ってもらえるだろうか? そのときに、彼の好きな料理もぜひ教えてもらおう。

 

 次々と今日のことを思い出す。

 

 ──食事の後のクラブも素敵だった。

 見た目の美しさといい、初めて触れる豊かな香りといい、あのカクテルには思わず心を奪われてしまうほどだった。

 そして、繊細に(はじ)けるようなピアノの音色は、心を揺らして、胸の中に暖かい何かを灯してくれた。

 エレンの瞳には何もかもが新しく、鮮やかで、そして輝いて見えたのだった。

 

 張はたくさんのことを知っていたし、きっととても頭の良い人なんだろうと思う。──不思議なことに、彼の隣にいるとなぜだか安心するような気持ちになる。

 

 鏡に映った自分の顔が、なんだか楽しそうに笑っているのが見えると、エレンはそれが可笑しくなってまた笑った。

 

「ああ……本当に楽しかったな……」

 

 今まで生きてきた中で最も楽しいひとときを過ごせたのは確かだった。思い出すだけで口元が緩んでしまうような、そんな出来事が自分に起こるなんて思いもしなかった。不思議と胸のうちが温かい。こんな気持ちはずいぶん久しぶり──いや、初めてだ。

 歯ブラシを握ったまま、エレンはそっと自分の胸に手を当てる。そして、満ち足りたような深いため息を零した。

 

「不思議ね……私、なんだかとても……」

 

 そう呟いたところで、エレンの顔から笑みが引いていく。

 

(……他の人も、こんなふうに食事に誘うのかしら?)

 

 ズキリと胸の奥が痛んだような気がして、エレンはギュッと唇を噛みしめた。なんだか面白くないような、変な気持ちだ。なんだろう、これは? いくら考えても答えは出ない。

 

(……他の人にも、張はあんなふうに楽しそうに笑うのかしら?)

 

 彼の楽しそうな笑顔が浮かぶと同時に、ずきりとまた胸が痛む。

 

(……なんだか、いやだわ。どうしてかしら)

 

 自分の考えていることがわからない。こんな気持ちは知らない。私はどうしてしまったのかしら? と首をひねる。

 彼が自分を気にかけてくれるのは、あくまで仕事上のことだ。それはエレンにだってわかっている。

 

「……それが、私だけだったら、なんて……」

 

 ふと零して、自分で驚く。

 

「え?」

 

 思わず口をついて出た言葉に、自分自身が動揺してしまっていた。

 

(……私、今なんて言ったの?)

 

 顔がかあっと赤くなるのを感じた。鏡に映った自分の顔は、まるで熱でもあるみたいに真っ赤になっている。

 

(やだ! 何これ!?)

 

 慌てて蛇口を捻り、顔を洗う。アパートの水道から出るのはいつもの生温い水なのだが、でも、火照った頬を冷やすのには十分だ。エレンはバシャバシャと水しぶきを立てながら、何度も顔を濡らしていった。

 キュッと蛇口を締め、雫が滴る自分の顔を見つめる。

 

「仕事よ……私はただの……殺し屋だもの……。そして彼は……依頼人で……三合会の……、あんなに、大きな組織の人……。私とは、……住む世界が違いすぎるわね」

 

 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐが、しかしエレンの心の内はそれに納得しなかった。胸のうちで渦を巻く感情に振り回されそうになる。

 

(……知らないわ、こんな感情は……)

 

 大きく深呼吸をして、心を静める。もう『いつもの自分』に戻ることができたはずだ。大丈夫だと自分に言い聞かせたところで、エレンは歯ブラシを口にくわえて歯を磨くことに専念することにしたのだった。

 

 

 あの楽しい夜からしばらく経ったころ、エレンは張のオフィスを訪れた。依頼された仕事の結果報告をするためだ。

 

 つつがなく仕事を終え、報告も滞りなく済んだ。

 

「よくやった、エレン」

 

 彼の労いの言葉に胸が弾むのを感じるが、それは仕事の達成感のせいだろうと納得して頷いた。それでも隠せない喜びは笑みとなって溢れてしまう。

 

 すると、それを見た張の顔に、一瞬、複雑な色が滲んだような気がして、エレンは首を傾げて彼を見やった。しかし、それは気のせいだったのだろうか? 彼はいつも通りの不敵な笑みを浮かべたままであった。

 

 ***

 

 エレンが帰ったあと、張はこめかみをトントンと叩きながらひとり呟いた。

 

「……やれやれ、毎度毎度、何がそんなに嬉しいのかね……」

 

 エレンの嬉しそうな笑顔を思い出すと、なんとも落ち着かぬ気分になる。思わず苦笑いを浮かべる張であった。

 

 ただの仕事相手としてしか認識していなかったはずが、今では彼女の姿を探している自分に気付くことがある。先日の食事のあとから特にそれが顕著だ。仕事の合間にもふと彼女の顔を思い浮かべている瞬間がある。

 

 ──エレンという女に興味があるのは間違いない。

 彼女と過ごしてみて分かったのは、ひとたび仕事を離れたエレンは、途端にアンバランスなくらいの未熟さを露呈する瞬間があるということ。少し突っつくと意外なほど簡単に自分の中身を曝け出して、それだけでなく、自らばら撒いてしまうような危うさすら感じられるくらいだ。記憶がないと言っていたことと関係があるのだろうか? 

 しかしそれも含めた上で、不思議と彼女に心を惹かれているのも事実だった。

 

「……いやいや」

 

 自分で自分の考えを打ち消すかのように首を振る。こんなことは初めてだ。自分の感情が理解できないなどということは初めてのことだった。困ったことに、この感情の正体を知らないままでいいと思った矢先に、もう彼女のことを考えてしまっている始末なのだから。

 

「まったく……どうしたもんかな」

 

 張は口元に手を当てて考え込んだ。

 

「……俺は、エレンを────……」

 

 だが、他人との関係というのは、自分ひとりではどうにかできるものではない。そのことを理解できないほどの青二才でもないつもりだ。

 

 ──きっと、来るべき時が来れば、エレンとの関係性は嫌でも変化するだろう。進むか戻るか、その選択の瞬間だっていつかは訪れる。今は、まだその時ではないだけだ。

 そう自分に言い聞かせながら張は再び書類に向き直るのだった。

 

 

 ***

 

 ある日、三合会の事務所に一通の手紙が届いた。

 差出人の欄には『白い鳩』と書かれていて、環境団体を名乗っている。手紙を開けた部下の(ビウ)は、そこに書かれた内容に唖然とした様子を見せる。

 

「……なんだァ、これ?」

 

 張のお目通しが必要とも思えない、自分たち部下で対応すればいいか──と手紙を懐に入れようとしたとき、張の手が伸びてきてそれを遮った。

 

「どうした、彪。変な顔して。……なんだ、それ。見せてみろ」

「あ、ちょっと張大哥(チャン兄貴)! いいですよ、そんなもん!」

 

 彪の手から手紙を奪い取り、張はその文面を目で追い始めた。その時ちょうど、社長室のドアを開けてエレンが姿を見せる。

 

「こんにちは、張! あら、お取り込み中?」

 

 手紙を読んでいる張の口元がみるみる歪んでいき、ついに大きく噴き出した。

 

「はははは、なんだこりゃ!」

「ちょっと張、どうしたの?」

 

 笑いながら、エレンにその手紙を差し出す。

 

 ──手紙の内容はこうだ。

 三合会がロアナプラで営んでいる、とある事業のひとつを止めてほしい。その事業が環境にもたらす被害は甚大であり、このままでは地球上の生態系が崩壊しかねない。それを食い止めるために我々『白い鳩』は行動する。

 我々の崇高な目的のため、三合会タイ支部の総括責任者である張維新(チャン・ウァイサン)を誘拐する。要求に応じない場合には、彼の命は保証しない、と。

 

「ひどい手紙ね、これ!」

 

 エレンも思わず呆れたような笑みを浮かべた。あまりに馬鹿馬鹿しい内容だったからだ。

 

「こういうのって、普通は誘拐してから送ってくるものじゃないのかしら?」

「あぁ、だろうな。そもそもこの『白い鳩』って連中は、一体何なんだ?」

 

 張は笑いすぎて滲んだ涙をサングラスの下から拭っている。

 

「……あぁ、こいつら……つい最近、小耳に挟みましたよ……まさか、ロアナプラにまで目を付けるとは、馬鹿な奴らだ。

『白い鳩』は、環境保全活動をするっていいながら、かなり過激で悪どいことやってやがるって噂のやつらですよ。宗教じみた自然崇拝者たちの集まりで、森だか海だかを守るためなら手段を選ばないとか。

 ……そういやこの間、武器を買い込んでた奴らがいるとか聞いたな……」

 

 彪がそう言い終わらないうちに、張はニヤリと笑った。

 

「面白いじゃないか、そんなら来る前にこの俺自ら出向いてやろうか。それか、わざと誘拐されてみるのも面白いかもな?」

 

 突拍子もない発言に、彪とエレンは思わず顔を見合わせる。

 

「張大哥、バカ言わないでくださいよ」

「そんなことして、大丈夫なの、張?」

「俺がこんなやつらに傷一つでも付けられると思うか?」

「……思わないわ。でも……」

 

 悪い事態を予測しているのか、エレンは言い淀む。

 

「ああは書いてても、俺を殺しちまったらお話にならんだろう。そもそも連中の要求を通すには、俺の判断と指示が必要だ。……舐められたもんだ、こいつらは要求が通る前提で誘拐計画を立ててるってことになるわけだ」

「……たしかにそうでしょうけど、わざわざあんたが出向いてやらなくたって……」

 

 彪は渋い顔をしている。張の腹心である彼には分かっているのだ。一度言い出した事柄を、張が曲げないことを。

 

「まァな、だが良くない芽は早めに摘み取っておくのも仕事のうちだぜ。この街のためにもな。

 ……最近じゃ、デスクワーク的な仕事が多くて、なかなか鉄火場に立つ機会がなかったからな──―久々に、血が騒ぐってもんだ」

 

 まだ心配そうに見つめているエレンをよそに、なにやら愉快な玩具を見つけたとばかりに張は口元を歪めた。サングラスのその下の瞳には、彼のその楽しそうな口調に似つかわしくないギラリとした挑戦的な光が宿っている。

 

「そんなこと言って、万が一にでもあんたに何かあったら困りますよ。張大哥、あんた自分の立場わかってて言ってます?」

 

 張の享楽的な部分をよく知っている彪は、上司の身を案じてそう言った。

 自分に降り掛かった出来事が何であっても、そしてその条件がたとえどんな酷いものでも、そこにある種の()()()を見出すことができる──それが、張という男だった。それこそ、命のやり取りすら遊戯(ゲーム)にしてしまうような、裏社会に相応しい狂気的な一面を持っている。彼のその性質を、彪はこれまでも何度か感じる機会があった。

 

 組織の重鎮に収まる前の張はまさに鬼神、銃の扱いも戦闘スキルも桁違いであったことを彪は知っていたが、もう昔とは違うのだ。今の張には、三合会タイ支部を預かるという立場がある。

 それに、今は大人しくしているホテル・モスクワの連中だって今後どう出てくるかわかったものではない。張がうっかり怪我でもしたら、好機(チャンス)とばかりに今度こそ首を取りにくるのではないか。

 彪の頭の中ではそんな懸念ばかりが渦を巻いていて、彼の表情をますます渋いものにしていく。

 そんな彪の胸の内を知ってか知らずか、張は快活に笑い声を上げた。

 

  「そこで、だ。お前ら二人が俺を助けに来るんだよ。それなら無問題だろ?」

 

 張は、彪とエレンを交互に見る。

 

「……え? 二人? ……彪さんと?」

「ハァ? 二人って……ミス・リーフェンシュタールとですか……」

 

 お互いに不服そうな二人の顔を見て、張は豪快に笑った。

 

「彪、上司の命令は聞くもんだぜ。

 エレン、いい機会だ。俺はお前の仕事をこの目で見てみたい」

 

 それぞれの目を真っ直ぐに見つめながらそう言う張に、エレンは困惑した様子で眉を顰めていて、彪もまた困ったように頭を掻いた。

 

 張維新という男は、普段から傲岸不遜な態度を取ることが多く、他人に命令することに慣れている節がある。

 だが奇妙なことに、そんな彼が浮かべる笑みときたら呆れ返るほどに清々しく、不思議なくらいに悪いものを感じさせない。時にその発言や振る舞いに愛嬌すら滲ませるこの男は、その性質ゆえか人を懐柔することに長けているのである。

 大抵の者はこの男の魂胆に気が付く間もなく、そのペースに巻き込まれてしまうだろう。

 結局のところ、この御仁に逆らえる者などいないのではないか。

 

「やれやれ、言い出したら聞かないのは俺には分かってますよ、大哥」

「……仕方ないわね。いいわ、その話、私も乗ってあげる」

 

 諦めた様子の彪が言い、それに続くようにしてエレンも同意する。

 彼らの答えを聞き、張は満足そうな笑みを浮かべると、話の仕切りに手のひらをパンと叩いた。

 

「よし、決まりだな。それじゃあ……ちょっとばかり、遊んでくるとしようかね」

 

 

 ***

 

 

 ロアナプラの郊外、とある場所に、『白い鳩』の本拠地はあった。

 それはごくありふれたオフィスビルであり、10階建てのビルのそのすべてを拠点にするために彼らが借り切っているという。

 数時間前に張は一人で彼らの元を訪れ、既に今はビルの一室に()()()()()()()いるらしい。

 

「へぇ〜、結構大きなビルじゃない。こんなところに事務所を構えられるなんて、資金潤沢なのね、『白い鳩』って」

「あぁ、団体自体は世界中に支部がいくつもあるくらい、手広くやってるらしいですよ」

「あら、武器を使うような物騒な自然崇拝者がそんなにたくさんいるってこと? それは怖い話だわ」

 

 二人は話しながら、ビルの裏側へと回り込む。辺りに人影はなく、たまに吹く風が足元の落ち葉を揺らす乾いた音だけが聞こえている。周囲にはビルがいくつかあるが、いずれも空きビルばかりのような寂れた場所だ。

 

「……静かだな」

 

 彪が呟くと、エレンは口角を引き上げ、不敵に微笑んだ。まるで、いつもの張のような表情だ。

 

「これから賑やかになるわよ」

 

 しれっと言ってのけると、エレンはさっさと先を行く。

 

 そして、ビルの裏側にある従業員用出入り口を見つけて、「ここね」と呟いた。

 そのドアには、電子式のロックが掛かっていて、カードキーを通さないと開かない仕組みになっている。

 ──なるほど電子ロックか、少々面倒だ。だが、できるだけ静かに解除しなくては──と、考える彪の横でエレンはさっさとロックを解除してしまった。解錠を示す電子音が鳴り、あっさりとドアが開く。

 

「あんた、カードキーをどこで……」

「持ってないわよ?」

「はぁ?」

「まぁ警報がなるけどちょっとした力技ってやつね」

 

 呆気にとられる彪の前で、エレンはスクリュードライバーと針金をポイと放り投げる。

 

 ──案の定、この女のやり方は大雑把だ。彪はエレンがビルを爆破してしまったいつかの件を思い出し、やはり自分とは相容れないと渋い表情を浮かべた。

 

「さ、行くわよ」

 

 エレンに急かされて、彪はまだ辟易しながらもその後に続き、二人はビルの中へと侵入した。

 

 耳障りな警報が大音量で鳴り響く中、廊下を進んでいくとすぐにロビーに出た。

 辺りを見渡せば、ロビーフロアから最上階までは吹き抜けになっており、突き当りにエレベーターが一基と、左手奥に階段がある構造になっているようだ。受付用カウンターもあり、周囲には観葉植物が並んでいるのが見える。外観と同じで、なんの変哲もないオフィスビルだ。

 

「不用心ね……誰もいないなんて」

 

 呆れたようにエレンは呟いた。

 その時だった。軽快な到着音と共に、エレベーターの扉が開く。降りてくる者たちの姿を目視する前に、二人は物陰に身を潜めた。

 彼らが武装していることなど見ずとも分かっている。物陰から音を頼りにロビーの様子を伺いながら、彪は手の中の銃を握り直した。

 

「足音からすると10人ってところですかね」

「12人よ」

 

 エレンがきっぱりと遮る。

 舌打ちをしながら、彪はエレンの顔をチラリと見やった。

 

「何にせよ数が多い。俺に合わせられますかね、ミス・リーフェンシュタール?」

 

 すると、この上ないくらい自信満々の笑みを浮かべたエレンが、視線だけを寄越しながら不敵に告げる。

 

「当たり前でしょう? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──彼らの一人が気付いたようだ。

 

「おい! あそこに誰かいるぞ!」

 

 その男たちはそれぞれ遮蔽物に身を隠しつつ、エレンと彪が潜む物陰を囲むように散開すると、皆一斉にさまざまな小銃を構えた。

 

「じゃ、お先に〜」

 

 そう言ったエレンは彪の横をすり抜け、敵の待つロビーへと足を向けた。

 合わせると言った側からの行動に、彪は戸惑い言葉を失ってしまう。

 

「おい、ミス・リーフェ……!」

 

 ハイヒールで床を軽快に打ち鳴らしながら、姿を隠すことなくエレンは歩いて行く。あたかも勝利を確信しているような、自信に満ちた歩みだった。──それもそのはず、彼女は()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

 その動作に気圧されたのか、誰もが何も言えず、ただ銃口を向けて動かず様子を見ているしかないようだ。

 

「だ、誰だ、お前は! どこから入った!? と、止まれ!」

 

 やっとのこと一人が叫ぶ声に、ようやくエレンは足を止める。そして、その目蓋をそっと閉じて、微かにうつ向いた。

 口を開くものは誰もいない。まるで真夜中の静寂のような、その場にそぐわない静かな時間が流れる。

 やがて、伏せ気味にしていた美しい顔を再び上げると、彼女はニッコリと微笑んだ。

 

「ハ〜イ、元気?」

 

 先程までの最高潮の緊張はエレンの一言で一気に霧散した。予想だにしなかった行動に、唖然とした表情で固まる者、拍子抜けした男たちの中には、つられて微笑む者まで出る始末だ。

 

 ──その瞬間。エレンは目にも留まらぬ速さで腰の裏にある二丁の銃を引き抜いた。そしてその二つの銃口から少しの間も置かず、鋭く(まばゆ)い光が連続して(ひらめ)く。

 着弾したところから、勢いよく血飛沫が噴き出して空中に舞う。男たちの肩や腕から湧き出た鮮血は、フロアの床を赤く彩っていく。

 

「ぎゃあっ!」

「ひぃ!!」

「ぐわぁっ!」

 

 エレンという標的を中心に囲むようにして配置されていた男たちは、内側にいた者から順に次々と悲鳴を上げて銃を取り落としながら崩れていく。

 その場を一歩も動かない彼女が正確無比に放つ銃弾は、どれも急所を外してただ動きを封じるもので、彼らは一人また一人と血を噴きながら倒れていった。

 

 空になったマガジンが、フロアに落ちて乾いた音を立てた。新たな銃弾を装填すると、スライドを引きながらエレンは問う。

 

「貴方達のボスはどこ? 私の()()()も一緒にいると思うのだけど」

「じゅ、10階……最上階に……」

 

 起き上がることもできず痛みに呻きながら答える男を一瞥して、エレンは微笑む。

 

「そう。どうもありがと」

 

 そしてエレンは歩み出す。金色(こんじき)の薬莢が散らばるフロアを、入ってきたときと同じように堂々と、ゆっくりと。

 

 援護しようと構えていた彪は呆気にとられていたが、すぐに首を振って気を取り直す。

 エレンは階段の方へ向かった、ならば自分は別の道から行こう、と彪は彼女と反対の方向に足を向けた。

 

 ***

 

 壁にある階数の表示を確認しながら、階段を軽快に走って上がり続ける。いくつかの階を通り過ぎた踊り場で、エレンのその目線が、進む先を占領する3人の男を捉えた。

 

 足を止めることなく真っ直ぐに階段を駆け上がるエレンに気付いた彼らが、慌てた様子で銃を向ける。だが、彼女を前にしてそれは()()()()()()()()()()だと言わざるを得なかった。

 

 引き金を引こうとした先頭の男に向かって、エレンは隠れることもなく身を低くしながら突っ込んでいくと、顎に強烈な頭突きの一撃を見舞ってやった。そのまま男はひっくり返り、背後のガラス戸に突っ込んでしまった。

 破砕音と共に派手に割れたガラスは細かな破片となり、キラキラと光を集めながら雨粒のように辺りに降り注ぐ。

 

 それを見届けたエレンの背後から、別の男が銃の照準をぴたりと合わせる。だが引き金にかけた指を動かすことまではできなかった。先に反応したエレンが振り向きざまに男の鳩尾に蹴りを叩き込んだからだ。

 よく反響する悲鳴と共に、男は階段から転がり落ちていく。

 

 さらに襲いかかってくる三人目の男に、エレンは左手に持っていた銃を勢いよく投げつけた。男の顔面に真正面から飛んできたそれは、鼻の骨に直撃し鈍い音を立てた。たちまち男は痛みに顔を押さえながら足元をふらつかせる。

 そして、エレンが右手の銃で放った9mm弾が、よろめく男の腕をぶち抜いて武器を落とさせた。加えて、とどめとばかりに腹に膝蹴りを喰らわせれば、男は床に倒れ込み白目を剥いて動かなくなった。

 

 これで戦闘可能な者はもうここにはいない。立て続けに三人を屠ったエレンは再び上を目指して走り出す。

 

 

 別々のルートを選んだエレンと彪は、次々と現れる敵を倒しながら、それぞれ最上階へと向かっていく。打ち合わせなどは必要ない、戦闘が始まればお互い、自分が成すべきことは判る──そう、彼女たちは拳銃遣い(ガンスリンガー)なのだから。

 

 ***

 

 やがて、先に10階に到着したのはエレンだった。

 その階に人の気配はなく、しんと静まり返っている。エレンは壁を背にしながら、慎重に廊下を進んでいった。

 廊下の先にいくつか見えるドアのほとんどは開け放たれていて、室内を見渡すことができた。デスクやホワイトボードなどが配置された、何の変哲もないオフィスが並んでいる。

 

 どこからか小さな音がして、それに気を取られた瞬間だった。曲がり角から男が姿を表し、エレンの腕をはたき落とし、その衝撃に銃を取り落としてしまう。

 

「っ、!」

 

 銃が円を描いて床を滑るのと同時に、エレンの脚が男の顎めがけて垂直に舞い上がる。ハイヒールの蹴りが男の顎に直撃し、男はあっけなくひっくり返って気絶した。

 それを見届けた矢先、発砲音と共に飛んできた銃弾が、近くの壁に掛かるフィンセント・ファン・ゴッホの絵に穴を開けた。さっとエレンは身を(かわ)すと、応接室のような室内のテーブルの陰にその身を滑らせた。

 

「も〜う、私の銃が……、彪さんったら、どこでもたもたしてるのよ」

 

 物陰から顔を出して覗くと、銃が落ちているのが見えた。ここから15メートル程度離れているくらいだが、取りに行くことができない。そうしている間にもエレンの身を隠すテーブルにはいくつもの銃弾が次々に撃ち込まれているからだ。丸腰になってしまったエレンはもどかしさを噛み潰しながら、弾丸の雨の合間に様子を窺うしかない。

 

 その時──突然、辺りに響いたのは足音だった。

 

 床を踏み鳴らす、革靴の音。ゆったりと、そして堂々とした風格すら感じさせるその足音は、エレンには聞き覚えがあるものだった。

 その音に男たちも射撃を止め、一斉に同じ方向を振り返る。

 しんと静まり返った空間に、足音だけが唯一響いている。やがて、漂う硝煙の中に、ひとりの人物の影が浮かび上がった。長い漆黒のコートの裾が、風を受けて翻る。誰もがその姿を見つめたまま動こうとしなかった。

 

「な、なんで……あいつは閉じ込めておいたはずじゃ……」

 

 男たちの中の一人が、そう溢した。

 

 ──そこに立っていたのは、張維新。

 彼は、周りを気にする素振りのないゆっくりとした動作で身を屈めて、足元に落ちていたエレンの銃を拾い上げる。そして、にやりと口元を歪めると、手にした銃を勢いよく宙に放り投げた。

 あたかもこの状況を楽しんでいるような、場違いに快活なその声が、彼女の名を呼ぶ。

 

()()()!!」

 

 回転しながら空中を移動する銃、それを視線で追いかけたエレンは、その場から飛び出すと床を蹴って宙に身を投げた。

 まるで持ち主の元へ帰りたがっていたかのように、愛銃は再び彼女の手の中に収まった。まさに夜空に浮かぶ三日月のごとく、円弧を描きながら身を翻したエレンのその手元で、瞬間的に鋭い光が四回閃く。

 

 ──そして、再び彼女がその足で床を踏んだとき、四人の男たちが床に転がって各々呻き声を上げていた。

 

 息をつく間もなく、背後からエレンの側をすり抜けて弾丸が飛んでくる。後方にいる者を認識するより速く、彼女はくるりと踵を軸に振り返った。亜麻色の長い髪が、その軌道を追いかけて場違いに美しくなびく。

 エレンのその振り向きざまの一発は一人目の敵の腕の腱に命中し銃を弾き、続く弾丸を避けるため後ろ向きに倒れ込みながら放った弾は二人目の敵の肩を貫いた。

 

 今度こそ銃声は止んだ。辺りには男たちが呻く微かな声だけが響いている。

 そのすべてを見届けた張は、ゆっくりと物陰から姿を現し、そして静かに呟いた。

 

「エレン・リーフェンシュタール……、これがお前の実力、ってわけか」

 

 床に仰向けになっていたエレンはむくりと半身を起こす。そして、おもむろに立ち上がると、足元の先に広がる光景を、どこか気の抜けた様子で見つめている。彼女の瞳に映っているのは、赤い色の血溜まり、金色の空薬莢、そして投げ出された黒い銃が一丁。

 先程までの彼女と同一人物とは思えないくらいの、力なくぼんやりとした焦点の合わない視線だ。

 

「…………」

 

 その様子に気付いたらしい張が歩み寄る。

 

「……おい、エレン。どうした、大丈夫か?」

 

 張の声がエレンを呼んだ瞬間、それまでぼんやりとうつけていた眼差しは、まるで催眠術が解けたかのようにいつもの光を取り戻した。

 

「……え? ……ええ、大丈夫よ。……ちょっと打撲したみたい」

 

 エレンは張を見上げて微かに口角を上げてみせた。

 そんな二人に彪が駆け寄ってくる。

 

「こっちも片付きましたよ。さすがにこれでわかったでしょうよ、三合会を舐めると痛い目にあうってね。

 ……さあ大哥、もう満足でしょう? 帰りますよ」

「ああ、そうだな。招待してくれた連中が揃いも揃っておねんねしちまったんじゃあ、残念だがパーティーはお開き、だな。ディナーにはちと早いが、帰るとしよう」

 

 張のその言葉を合図に、戦闘の跡が色濃く残るその場に背中を向けると、三人は去って行くのだった。

 

 ***

 

 もうすぐ日没だ。低くなった太陽が、フロントガラス越しに車内に差し込む。

 彪の運転する車は、ロアナプラへと帰る道をひたすらに走る。

 

「張大哥。今後はこういうことは慎んで下さいよ。……いくつ身があっても足りゃあしない。あんたには立場があるんですから」

 

 煙草に火を着けようとしていた張は、彪の苦言に肩をすくめて両手を上げてみせた。

 

「わかったよ、彪。おい、聞いたかエレン。

 まったく、面倒なもんだな、立場ってやつは。……エレン?」

 

 隣に座るエレンの返事はない。

 

「エレン?」

 

 彼女は何も答えずに、ただ真っ直ぐに何もない空間を見つめていて、その視線は、どこか遠くを見ているように定まっていない。──張が先程目撃した表情と同じだった。

 少しの間を置いてその唇が、ゆっくりと動いた。

 

「もうすぐ、思い出せそうな気が……する……、引き金を引く度に、何かが頭をよぎった気がしたの……」

 

 ──過去を思い出さない方が幸せだと思っていた。否、言い聞かせていた。だが、ふいに目の前に現れた鮮烈な赤い色が、彼女の過去を引きずり出そうとする。

 なぜなのか、これまで頭の中を覆い尽くしていた形のない雲のような記憶の欠片が、突然に、実体を持ち始めたような感覚だった。引き金を引いたその一瞬だけ、はっきりとした形になりかけた気がしたのだ。

 知らない方がいい、その呪縛のような念慮が嘘のように解けて消えた。叶うのならこの手で掴みたいと思った。

 それなのに、記憶は形になる前に蜃気楼のように脆く姿を揺らめかせ、そして呆気なく霧散してしまう。後になってこうやって思い出しても、それが再び形を作ることはなかった。また、何もないところに取り残されたような気持ちだけがただ残留する。

 

「でも、すぐに消えてしまった……」

 

 エレンはどこか寂しそうに呟いた。

 

「ねえ、張……私って、何者なのかしら」

 

 その問いに答えられる者は、誰もいない。ただ車窓から見える景色をぼんやりと見つめながら、彼女はそっと目を閉じたのだった。

___

(I feel it will come soon, surely come.The dawn to reveal my memory.)(もう少しだって気がする、きっと来る夜明けが私の記憶を解き明かす)

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