死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第20話 そして僕らは明日へと還る(第1話に繋がる話)

 カフェテリアのテーブルで、手帳を取り出しペンを走らせている最中に携帯電話が鳴っていることに気付き、エレン・リーフェンシュタールは通話ボタンを押した。

 

『ハーイ、エレン。この間はご苦労さま。またちょっと頼まれてくれないかしら?』

 

 ロシア語訛りの女の声が、電話の向こうから響く。

 先日の依頼のあと、エレンのことをなかなか便利な存在だと思ったのだろう、ときどきバラライカから声がかかるようになっていた。エレンとしても、ホテル・モスクワからの依頼は金払いもいいので助かっている。

 

「ええ、もちろん」

『実はね……』

 

 バラライカは簡単に依頼の内容を説明していく。

 

『どうかしら。受けてくれる?』

「ええ、喜んで引き受けるわ」

『そう、良かったわ。じゃあ詳細は追って連絡するわね』

 

 それだけ言うと電話はすぐに切れた。エレンは手帳にスケジュールを書き込んでいく。予定表は隙間なく埋まっている。

 張から──三合会からの依頼も、そう頻繁でもないが貰えるようにはなっていたし、順当に彼からの信頼を積み上げていると言ってもいいのではないだろうか。そんな風に満足しながら、手帳を閉じる。──あれから二度目の食事の誘いはまだなかったけれど、張もまた忙しい身だろう。仕方のないことだ。それに、何かを期待して待つ日々というのも悪くないものなのだと、エレンは初めて知った。こうして毎日が過ぎていくことは幸せかもしれないとまで、最近では思い始めている。

 

「張は……今頃何をしているのかしら」

 

 ひとりごちて、ティーカップを手に取る。彼のことを考えるとき、やけに烏龍茶が飲みたくなる。それは、彼のルーツに近い飲み物だからだろうか。

 

「また……誘ってくれるかな」

 

 エレンはそう呟くと、カップの烏龍茶をゆっくりと飲み干した。

 それはさておき、次の仕事のことを考えなければ、と気持ちを引き締める。金も入るし、何より自分の力を思う存分発揮できるこの環境が、エレンにとっては何よりも快かった。

 

「私にできることがあってよかったわ」

 

 銃の撃ち方を、戦う方法を教えてくれた人間に感謝すべきだろうが、エレンにはその記憶がない。先日、“白い鳩”の一件で、ほんの一瞬何かを思い出せそうな何かを思い出せそうな気になったのだが、結局叶わなかったことを残念に思った。

 

 写真や手懸かりがあるわけでもないし、自分が何者なのかと考え出せば焦りや不安がないわけではない。

 だがしかし、張はエレンを認めてくれているのは確かだ。その信頼を裏切るわけにはいかないし、何より自分自身がそれを誇りとしているのだから。

 

(それにきっと……、もう少しだって気がするの)

 

 エレンには、以前より確実に、何か自分の中で変化が起こっているという確信があった。自分が思いもしない瞬間に、過去の欠片が一瞬、ほんの短い時間だけ形になりかけたのだ。それはこれまでになかったことだ。

 だから、今のままで生きていれば、きっといつかは掴めるはずなのだと信じることができる。

 過去にあるはずのまだ知らない自分を訪ねるなどということは、途方も無い。そして怖い気持ちもあるけれど、辿り着いた自分がどんな姿をしていても、自分は自分であるのだという不思議な確信が、今のエレンにはあった。

 

「焦る必要なんてないわよね」

 

 こんなに落ち着いた気持ちでいられる。それはもしかすると、これまでに知らなかった鮮やかな感情が胸の中にあるおかげかもしれない。

 

 今のエレンは、()()()()()()()()()()()()だけの殺し屋ではない。

 自らの望みのために生きたいと願う、一人の人間だ。

 悩みながらでも前に進めば、きっと何かが見えるはずだ。

 エレンは、手帳に書き込んだ予定をもう一度確認してから、ペンを置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。

 

「さて……そろそろ行かなきゃ」

 

 順風満帆、そんな言葉が頭に浮かんで、エレンは笑顔を浮かべると、空を仰ぐ。

 彼女の気持ちの晴れやかさと同じくらい、澄んだ青空が広がっていた。

 

 ***

 

 肉汁と脂が弾ける音。

 大きな鍋の中を真剣な眼差しで見つめながら、エレンは手にしたお玉で懸命にひき肉をかき混ぜている。段々に肉の色が変わって来たころ、隣に立つシェンホアが覗き込んできた。

 

「……ん、そろそろ良いか。火、止めてくだされ、一度ちょっと。

 次はこれ、鍋に入れて一緒に炒めるいいか? 焦がすないよう、よぉく気をつけるですだよ」

 

 コンロの火を止めてもなお、熱された鍋の中からはジュウジュウと濁った音が響いている。エレンはその音を聞きながら、シェンホアに手渡された香辛料たっぷりの調味料を投入すると、再びお玉を動かし始めた。すると、鍋の中のひき肉と調味料が混じって、見るからに辛味の強そうな澄んだ赤色の油がじわりと染み出してきたではないか。そこに鶏ガラスープを注げば、一層大きな音が瞬間的に響き、それと共に目の前に湧き上がってきた大量の湯気がエレンの視界を遮る。

 

「……まあ、やっぱり辛そうね……」

「はいはい、もたもたしないよ。次入れるね、次 」

 

 そう言いながら彼女は手にしたザルをエレンに向かって差し出す。

 そこには、サイコロ状に切り分けられた真っ白な物体が積み重なっている。それはたっぷりと水分を含んでいて、見るからに軟らかそうにふるふると左右に揺れていた。あまりにも滑らかで美しくすらあるその食材は、眼下でふつふつと煮えたぎる真っ赤な液体に投入するのが憚られるくらいだ。

 それでもエレンは思い切って、エイヤッという掛け声と共にそれを鍋の中に放り込んだ。

 

 真っ赤な沼に飲み込まれ、絶えず沸き上がる細かい泡にその身を沈めながら、その純白はあっという間に赤へと染まりきってしまった。

 

「はいはい、掻き混ぜるよ」

 

 横に立ったシェンホアが出す指示に従っていけば、食材は徐々に見覚えのある見た目へと変化していく。

 

「次、太白粉(タイバイフェン)ね。固まりますから、入れる前に火、弱くするですだよ」

 

 エレンは言われるままに鍋の中に、とろみをつけるための液体を注いでいく。

 溶岩のように煮えたぎりボコボコと泡立つ鍋の中からは、もうあの滑らかな純白はどこにも見あたらない。ひき肉とスープが絡み合ったやわらかな流体物は、次々と気泡を生み出しては弾けさせている。

 そんな灼熱の鍋の中でダンスを踊るのは、香辛料の赤に支配されてしまったかつての白と、刻まれたネギ、そして葉ニンニク。

 

 それらが合わさったペーストが次第にもったりと重量を帯びて、掻き混ぜるお玉にまとわり付くような手応えを持ち始めたころ、いい頃合いとばかりにシェンホアがエレンからお玉を受け取る。そして、仕上げに鍋の底を擦るように混ぜながらコンロの火を強火にする。

 

「……最後、火を通すましたら完成ですだよ。エレン、それお皿取ってくだされ」

 

 シェンホアの示す先にあった食器棚から、大きな皿を取り出して渡す。

 

「これかしら?」

 

 それを片手で受け取ったシェンホアは、さっそく鍋の中から中身を掬って皿へと移し替えていく。

 緩慢にお玉から離れていくその餡の、奥行きのある深い赤色はいかにも辛味成分をたっぷりと含んでいそうな見た目をしていて、視覚からもその辛さを主張してくるようだ。いくつもの小さな立方体が餡と共に転がり落ち、ゆっくりと皿の上に広がっていった。

 

 目を輝かせて見ているエレンの前で、シェンホアが仕上げの花椒(ホワジャオ)粉をパラパラと振りかける。たちまち華やかな香りが立ち上って、エレンは思わず鼻をすんと動かした。

 

「はいよ、これで完成ですだよ」

「わあ……すごいわ! お店で食べたのとおんなじ、麻婆豆腐だわ! 本当に自分で作れるなんて、感激しちゃう」

 

 エレンは感嘆の声を漏らした。

 ──張と一緒にレストランで食べた麻婆豆腐は確かに辛かった、涙が出るほど辛かったのだ。しかし、なぜか時間が経つにつれ、またあの風味を味わいたいという気持ちが生まれてきた。そこで、自宅で作れないものかとシェンホアに尋ねたところ、彼女は快くレシピを教えてくれて、作り方のレクチャーまですると言ってくれたのだ。同時に、前回は食後数時間に渡り舌が痺れていたことを伝えると、香辛料の配分まで考えてくれるという。

 

 そうして出来上がった麻婆豆腐が今、食卓の上で、湯気を立ち昇らせている。

 

「ほらほら、早く食べるないと冷めるですだよ」

「ええ、いただきます!」

 

 エレンは箸を手にすると、早速一口目を口に運ぶ。舌の上にピリリと走る唐辛子の刺激が、ひき肉の旨味を吸った餡と混ざって口内に広がっていく。そして咀嚼する度に鼻から抜けていく爽やかな花椒の香り。

 

「……美味しい! うん、辛さもちょうどいいわ!」

 

 そう嬉しそうに言うエレンに対し、シェンホアは満足げに頷いている。

 

「あんたは辛いの慣れてるないだから、これくらいがちょうどいい思たね」

「ありがとう、シェンホア。

 ……麻婆豆腐を作ったのよって張に言ったら、どんな反応をするかしら……」

 

 独り言のように、エレンは呟いていた。少しはにかんだようなその表情からは、想像の中での良い期待に心を浮き立たせていることが見て取れる。

 

「おぅ、エレン、いつの間に張大哥と仲良くなったか?」

「ええ、この間一緒に食事に行ったの。……楽しかったわ、とても……」

 

 意外そうに目を丸くしたシェンホアに、エレンは張と行った中華料理レストランの話をするのだった。

 

「ほぉ、珍しいこともあるものですだね。大哥がご飯食べるます、誰か誘うの」

「……そ、そうなの……?!」

 

 途端にエレンは嬉しそうな表情を浮かべ、瞳を輝かせた。

 

「どうしたか?」

「あ、ううん、何でもないの……ごちそうさまでした、お腹いっぱいだわ。ねぇシェンホア、食後にお茶を淹れてくれない?」

「はいはい。いやー、料理教えろ言うたり、今度はお茶淹れろですか。人使うの荒い妹分ですだね、まったく」

 

 そう文句を言いながらも、シェンホアはお茶の準備をするために台所へと向かっていった。

 その後ろ姿を笑顔で見つめながら、エレンは満足そうなため息をつくのだった。

 

 **

 

 菊茶を飲みながら、エレンはぼんやりと窓の外に視線を投げる。ロアナプラでは珍しく、とても静かな夜であった。

 

 さっきまであれだけ機嫌よく満面の笑みを浮かべていたというのに、何故なのかエレンのその表情には翳りが浮かんでいる。それに気付いたシェンホアは爪にヤスリをかけるのを止めると、エレンに向かって声をかけた。

 

「エレン? どうしたか? まさか、食べすぎてお腹痛いないだろうね」

 

 すると、ひと呼吸おいてエレンは躊躇うような仕草を見せたあと、口を開く。

 

「うん……、ちょっとね、仕事のことなんだけれど……急に思い出しちゃったの。

 先日始末した男……彼には、まだ小さな娘がいたらしくてね。……その子、どうなったのかしらって……」

 

 マニキュアのビンを片手に持ったまま、シェンホアが呆れたような声を上げる。

 

「おまえ、変なところお人好しですね。私たちの世界、それ気にするのしてたら、ご飯食べるできないよ?」

「そう……なん、だけど……。少し、気になってしまって」

 

 そう言うと、再び物思いに耽るように視線を落とす。

 頭の中で、いくつかの言葉が回っている。

 ──女の子、銃、父親、──

 自分と関係のあることのような気がしてならない。だが、思い巡らす間もなくすぐに頭痛に遮られる。ズキン、と頭が痛んで、エレンは反射的に額を手で押さえた。

 やはりこれまでと同じように、脳は思い出すことを拒んでいるようだ。

 先日の『白い鳩』の件以来、エレンの記憶が蘇る気配はなかった。やはりあの一瞬だけだったのだ、何かを掴めそうな気がしたのは。

 

「……遺された子は、私みたいになるのかもしれないわね……」

「それこの世界の道理よ。考えるしても仕方ないね」

 

 塗りかけのマニキュアに息を吹きかけながらシェンホアは、大した興味を示す様子もなく簡素に答える。マニキュアのツンとした刺激臭が辺りに漂い、部屋は再びの沈黙に包まれた。

 

 どれだけの時間が過ぎた頃か、十本すべての爪に作業を終えたシェンホアは、その色味を確かめるように、手を目の前に掲げてしげしげと眺めている。角度を変えては確認し、ようやく納得したらしくコクリと頷くと、思い出したように視線をエレンの方へと向けた。

 

 ──彼女は先程と変わらず茶杯を手にしたまま、ぼんやりと遠くを見ているような目をしていた。

 いつもの瑞々しいきらめきをどこかに忘れてきてしまったかのように、エレンのそのヘイゼルの瞳は物憂げな色に滲んでいる。

 だが同時にまるで()()()()()()()()()()()()ような、静かで落ち着いた光を宿していて──それは今にも消えてしまいそうなほど鈍く頼りない輝きだった。

 

 どこか恍惚としたその表情は、不思議な美しさを放っていて、シェンホアは思わず息をするのも忘れて見入ってしまっていた。

 

 すると、エレンははっと我に返ったように瞬きをして、そして自分を見つめる視線に驚いたらしく目を丸くした。

 

「……どうかした、シェンホア?」

 

 なんでもないと首を横に振れば、それ以上追求することもなく、エレンは手にした茶杯をテーブルに置いて大きく身体を伸ばした。

 

「はぁ……なんだか眠くなってきちゃったわ。

 ……ねぇ、シェンホアって広東語を話すのよね? おやすみなさいって、広東語ではなんて言うの?」

「あ? あぁ、“早唞(ジョウタウ)”言うよ」

「へえ、“早唞”か……。

 ……張と同じなのね。……母国語で会話できるなんて、……ちょっと、羨ましいかも」

 

 その言葉の終わりの方は小声だったので、シェンホアの耳には届かなかった。

 

「何だて?」

「ううん、何でもないわ」

 

 エレンははぐらかすように首を左右に振ってから立ち上がった。

 

「明日はね、久しぶりに張から依頼があってね……その説明を聞きに行くの」

 

 そう言って心の底から嬉しそうな微笑みを浮かべている。そんな彼女の表情を見ながらシェンホアは呟く。

 

「そう、よかたね。……やけに楽しそうないか? そんなに仕事好きだったか、アンタ?」

 

 そんな疑問が湧いて出ても不思議ではないほど、その笑顔には一片の曇りもなかった。

 

「そうかもしれないわ」

 

 肩をすくめ悪戯っぽく微笑んでみせたエレンの顔には、先程までの愁いはもう、どこにも見当たらなかった。

 

 

 ***

 

 張からの依頼は、そうそう頻繁にもらえるわけではない。

 それでも、期待以上の働きができるように、依頼を貰うたびに全力で挑んだ。そうしているから、彼の信頼を積み重ねていけている実感はある。

 毎回、“次”に繋げるために、明日も張に会うために──

 

 気がつけば、初めて依頼を貰ったあの日からずいぶん時が経っていた。初めての依頼を思い返せば、もう三年近く前の話だ。

 

 花が咲くように美しくなるとはこのことで、時が過ぎるごとにエレンはどんどんその美しさを増していった。

 凛とした居ずまいの中に、どこか気品のようなものが滲み出る端正な美貌。透けるような白い肌に、豊かな亜麻色の髪は南国の太陽の下できらめき、張りのある豊満な胸、くびれた腰から尻へとまろやかな曲線を描くボディラインは成熟した女性のそれで、まさに美しい盛りだった。

 持ち前の正確無比な射撃も、健在だ。その腕を保つための努力は欠かさないし、時に自分に試練を与え、その限界に挑戦することも怠らない。

 

 今や評判を聞きつけて依頼に来る人も増えた。

 おかげで順調に経験を積むことができているとエレンは思う。

 

 数え切れないくらい引き金を引いた。そう、これはビジネスだ。生きていくための手段、自分ができること──それが、引き金を引き続けることなのだから。殺す相手が誰であっても関係ない。

 すべてをこの一瞬に注ぐ。ただそれだけのことだ。

 

 

 張から連絡を貰ったのは昨日のことだった。詳細は直接話したいという言葉に応じて、エレンは彼のオフィスにやってきた。

 

「今回の依頼は、ある男を始末することだ」

 

 そう前置きして張が話し始めたのは次のような内容だった──その男は、香港三合会の組員であった。しかし、彼は()()()()()()()()()を見てしまった。

 なぜ彼がそれを見ようと思ったのか、またどうやってそれに辿り着いたのか──もはやそんな理由などどうでもいいことだ。ただ男がそれを知ってしまった以上、生かしておくことはできない、というだけなのだ。

 

 そういうわけで、張はその男を抹殺してくれとエレンに告げた。

 

「まァ、こういう大所帯になると色々とあるもんでな。何も、構成員全てに知ってほしくて掲示板に貼り出している情報ばかりじゃあない。

 ……だが、その男というのは、このまま上手くやれば幹部候補だったくらいの奴でな……頭もよく回るし、弁も立つ。……惜しくないわけではないんだが……。ちょいと()()()が過ぎたな。

 もし、あの情報を口外されると何かと良くない。ここは口封じが必要だってことで、そいつを始末することになったわけさ」

 

 弛んだ姿勢でソファに身を預け、張は手にした煙草を吹かしながら、淡々とエレンに説明をした。相も変わらずサングラスに隠された視線からは、彼が何を考えているのかはわからない。

 

「……わかったわ、私はその男を始末すればいいのね?」

「ああ。奴の弁を聞く必要はない。ただ始末してくれりゃいい。そろそろ奴も気付く頃だろうさ、奴がしたことを俺たちが把握してるってことをな。

 奴が何者かに狙われてると知ったら、どう動くか……ま、そうだな……ここ数日はなんだかんだ理由をつけて待機させてるが、動くとしたら今週末辺りだろう」

 

 張は話の区切りに、煙草をトンと叩いて灰を落とす。

 

「始末の仕方やタイミングなんかはお前の好きなようにしてくれ。頼むぜ、相棒?」

 

 張はそう言ってニヤリと口の端を上げた。そして立ち上がるとコートを羽織り始める。

 もう話は終わりということなのだろう、それを視線で追いつつ、少し残念に思いながら、エレンも立ち上がる。

 

「任せてちょうだい」

 

 やる気をみなぎらせた笑みを、エレンは張に向けて浮かべた。

 

(──今回も、頑張るわよ。また、彼によくやったって言ってもらうために)

 

 

 ***

 

 数日間、じっくりと待った。今日こそ、ターゲットを屠るチャンスだ。

 

 海の側にある古ぼけたマンションがその男の居住地であるという。男の部屋はカーテンが閉め切られていた。中の様子が見えないように警戒しているということだろう。

 狙撃をするのには良いポジションが見つけられなかったので、エレンは彼を直接訪ねることにしたのだった。

 

 雲が多く太陽もその姿を隠してしまっている、スッキリしない天気の日だ。空気に湿った匂いが含まれているので、あと数時間したら雨が降り出すかもしれない。

 そんなことを考えつつ、ターゲットの部屋の前に立つと、軽くノックをした。

 

「ハロー、ご在宅よねー?」

 

 そっとドアノブを回すと、当然ながら鍵がかかっている。エレンは針金を取り出すとものの数秒もかからず解錠してしまう。そして、音を立てないようにそっとドアを開き、中に滑り込む。

 室内は薄暗く、埃っぽい臭いが充満していた。気配を消して奥へと足を進めると、男がいた。侵入者に気づいていないようで、こちらに背中を向け何かをしている。エレンは、その背中に銃口を向けた。そして、いつもと変わらぬ呑気な調子で声をかける。

 

「ハァイ、お邪魔してるわよ。……なぜ私が来たかわかるわよね?」

 

 男はびくりと大きく身体を震わせたあと、ゆっくりと振り返った。エレンの姿を見て、彼は驚愕に目を剥く。

 

「待ってくれ! 聞いてくれ! 例の件だろ? 見るつもりなんてなかったんだよ!」

 

 そう一気に言うと顔面を蒼白にさせ、手足は震えており今にも逃げ出したいといった様子だ。しかし、それが叶わないことを分かっているのか、覚悟を決めたように真っ直ぐにエレンを見つめた。

 

「俺が見てしまったものはそんなに大変なものだったって言うのかい? ……知らなかったよ! あぁでも、この先情報を他の組織に流したりなんてこと、決してしないし、だから……」

 

 何かを訴えようとする男に向かって銃を構え直すと、男の顔はさらに青ざめていく。それでも彼は必死に言葉を紡ごうとするが、うまく言葉にならないようだ。

 

「そんなあ、こんなんで殺されるなんて勘弁してほしいよ……データを盗み見したことは反省してる。だから、張大哥に直談判してみようと思うんだ、俺を撃つのはちょっと、ちょっとだけ待ってくれないか? 頼むよ、ねぇ……!」

 

 今にも泣きそうな声で、男は早口で捲し立てる。土下座まで始めたその様はもはや滑稽だ。

 

「もう遅いわ。私は貴方を始末してこいと言われただけ」

 

 エレンは淡々と告げた。躊躇など一切ない。引き金に添えた指に力を込める。

 

(だけど……この男は……本当に、何も知らないで情報を見てしまっただけ、ということなの?)

 

 ふと、脳裏にそんな疑問が浮かんだ。

 しかしすぐにそれを振り払う。これは張の命令なのだ。エレンの中には、従う以外の選択肢など初めからそもそも存在しない。

 

「それじゃ、さようなら」

 

 引き金にかけた指に力を込める。──だが、その瞬間だった。

 泣きべそをかいていたはずの男の表情が、まるで拭き取ったように別のものになったのだ。 鋭い瞳の奥に、一瞬、何か得体の知れぬ狂気のようなものが揺らめいた気がした。そして男は、手近にあったアタッシュケースをエレンに向かって投げ付けてきた。

 

「っ、……!」

 

 それを避け、エレンが素早く視線を走らせると、男はさっと身を翻して、背後にあったベランダへ出る扉を開けるところだった。

 

「あっ、待ちなさい!」

 

 エレンが慌てて後を追おうとすると、男はベランダの手すりを乗り越えてそのまま飛び降りた。

 

「っ!」

 

 エレンは迷うことなくベランダへと飛び出し、真下を覗き込む。そこにはすでにあの男の姿があった。

 

「残念だったなあ! これで俺の勝ちだ! この情報を福建の連中に手土産にしてやるのさ!」

 

 男は勝ち誇ったように叫ぶと、そのまま走り出した。情報の内容を知らないという言い分も、さっきまでの気弱な振る舞いも、エレンを騙すための演技だったということか。

 

「もう、手間をかけさせないでほしいわ!」

 

 エレンは銃を構え、そして躊躇なく引き金を引いた。しかし、男が飛び降りた先には大きく枝を広げた木が何本も生えていて、男の姿を見えにくくしている。一発目を撃った際の銃弾は的を射ることなく木の幹を抉るだけだった。二発目は木に遮られて狙いが逸れてしまった。

 

「……追いかけるしかないわね」

 

 エレンは小さく舌打ちをしたが、すぐさま気持ちを切り替える。すぐにベランダの手すりを乗り越え、身を踊らせると、まるで猫のようにしなやかに地面に降り立つ。そしてそのまま男を追いかけて駆け出した。

 

「ちょっと、待ちなさい! 逃さないわよ!」

 

 そんな声など聞こえていないのか、男は一切振り返ることなく走り続けている。

 エレンは男の後を追いながら、照準を合わせては発砲した。しかしその銃弾は男の腕や肩を掠めるだけで、致命傷を与えるには一歩足りない。男は分かれ道で複雑に路地を曲がることで、エレンの視界からうまく逃れようとしているようにも見えた。

 しかも、男はただ闇雲に逃げているようにも見えたが、時折振り返っては発砲してくるので、エレンはそれを避けるのに気を取られてしまいなかなか距離を詰められないでいる。

 

「っもう! 逃げ足の早い奴ね……! さっさと殺しておくべきだったわ!」

 

 エレンは苛立ったように声を上げたが、それでも諦めるわけにはいかない。ひたすらに後を追う。

 そしてようやく、狙いをつけた脚に弾丸が命中し、男の逃走を止めた。砂ぼこりを上げながら地面に転がるように倒れ込んだ男は、それでも必死に身体を起こそうとのたうっている。

 

 追い付いたエレンが足を止めたその時──突然、男が声を張り上げる。

 

ทำมัน! ตอนนี้(今だ、やれ)!!」

 

 それは確かに、エレンではない誰かに向けられたものだった。

 

 ──あれはタイ語? 何て言った? いや、()()()()()? 

 エレンがそのことに気をとられた一瞬のあと、視界の隅に人影が飛び出してきた。

 それは、──子供だった。現地人の少年は、その手には大きく見える銃を両手で握りしめて、それでもしっかりと狙いはエレンの方へ向けていた。

 

(──子供、──!?)

 

 考えるより早く、エレンは引き金を引き、少年に発砲させる間を与えることなくその銃に弾を当てる。

 銃声が、空に向かって吸い上げられるように響いた。

 そして、間髪入れず男に向き直って発砲すると、エレンの9mm弾は男の額のど真ん中にめり込んだ。

 少年は銃を取り落とし反動で倒れ、男は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 

 慌て、逃げ出した少年の足音が遠ざかっていく。

 

 ──今度こそ、ターゲットにとどめを刺した。

 

 現地の子供を金で買って囮役をさせたのだろう、まったく卑怯な真似をする。

 

「好奇心かなんだか知らないけれど、三合会の秘密に手を触れるからよ……馬鹿な男ね」

 

 エレンは吐き捨てるように呟いたが、すぐに気を取り直したようだ。そして男の側にしゃがみ込み、脈を確認した。

 

「……ま、死んでるわね」

 

 それにしても、今考えるとそもそも男が逃げ出したのは、囮のいる場所までエレンを連れてくるためだったということになる。子供なら警戒されにくいとでも思ったのだろうか? 子供なら、意表を突いてこっちの隙ができるとでも? 

 

 エレンは理由のわからない苛立ちを感じていた。まさに隙は出来てしまった、少年が飛び出してきたあの瞬間、エレンは少なからず動揺してしまったのだから。だが、それよりも心を刺激してならない理由が他にもあるような気がするのだが──このときは、彼女自身にもその正体がわからなかった。

 

「……まぁ、もういいわね。ターゲットは殺したのだし」

 

 エレンは小さく呟くと立ち上がり、周囲を見回してみることにした──のだが、何故かぐらりと身体が傾いた。思わず地面に膝をついてしまう。

 

「──……え、……」

 

 じわり。腹が温かい、否、──熱い。何だと思って視線を下ろすと、腹部が真っ赤に染まっていた。鮮やかな赤色──それは、エレンの身体から湧き出るものだった。

 

 あの男に撃たれた。まさに少年の銃を撃ち落としたあの瞬間だ。

 

「なんてこと……」

 

 空はますます暗くなっていて、遠くでは雷が鳴り始めた。──雨が、降りそうだ。

 

 ***

 

 はじめに感じたのは、ただ焼け付くような灼熱感だった。

 しかしそれは、少しずつ鋭い痛みへと変化を遂げていく。気の遠くなるような激痛が断続的に襲ってくるため、呼吸もままならない。

 

 痛みに侵食された身体をやっとのことで動かすたびに、エレンの喉からは、乱れた不規則な呼吸と共に絞り出すような呻き声が漏れ出た。

 

 先程から降り出した雨は、髪を、顔を、体を濡らしてゆく。絶え間なく降り注ぐ水分と、熱帯の生温い空気がまとわりついて、ますます彼女を不快にさせた。

 

 足を引きずるように歩いた道には、足跡の代わりに水溜まりに溶けた赤が広がっている。後から後から、じわじわと溢れ出してくる血の感覚に顔を歪めながら、それでも彼女が歩みを止めることはなかった。

 ──どこへ向かっているわけでもない、ただひたすらに前に進むだけの行為だった。

 

 その埠頭近くの荷揚場の傍らは、倉庫街となっていて、あたりには彼女以外の人間の気配はない。

 

 遠くで雷鳴が轟いた。

 まるでこの世の全てを揺るがすような音と共に、一際強い閃光が空を走る。

 南国の湿った生暖かい風が頬を撫でる中、エレンはぼんやりとした意識の中で考える。

 

 今回もいつもどおりの、慣れた仕事のはずだった。

 ターゲットを殺せばいいだけだった、それなのに──まさか自分がこんなヘマをするなんて思わなかった。

 予想していなかったのだ、あんな子供に銃を持たせて囮にするなんて。

 だが十分な確認を行わなかったがゆえの初歩的なミスだ。あるいは、慣れてきた頃ゆえの怠慢なのだろうか。

 

 反射的に、自分に向けられたその子供の銃を弾き飛ばしたあと、間髪入れず死に損ないの頭部を貫いた。

 ──今度こそとどめを刺した。

 彼女が自分の体から溢れる血に気付いたのはその時だった。

 

「これじゃあ信用がガタ落ちだわ……」と呟いてエレンは水溜まりに膝をついた。そして、そのまま崩れるように座り込む。しかし、体勢を維持することはできず、そのまま吸い寄せられるように地面に倒れ込んでしまった。

 濡れた音を立てて辺りに水が飛び散った。

 視界の端に、どんよりと薄暗い曇天の空が見える。

 

 ──せっかくこれまで張の信用を積み上げて来たのに。

 ようやく信頼を得ることができたのに。きっともう次の仕事は回してもらえない。

 その前に “次” なんてないんだろうな──。

 考えながら、エレンはその場にうずくまった。

 

 こんな仕事をしていれば、暖かいベッドの上で死ねることはないとエレン自身もよく理解している。

 腹部を押さえる手は赤く染まっていた。容赦なく降り続ける雨は、その血を滲ませ、そして流していく。

 

 もう目が霞んできたようだった。

 横倒しになった視界にぼんやりと、人の影が見えた気がする。

 一歩歩くたびに、漆黒のロングコートの裾と、白いマフラーがその歩調に合わせなびく。あの身のこなし、白と黒のコントラストが鮮やかな、あれは──

 

 ──『張』だ。

 

「よお、エレン」

 

 そして──物語はここから始まった。

 

 

 死にたがりの讃歌 第一章 完

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