陽炎の揺らめくロアナプラの街に乾いた銃声が響く。今日もどこかで人が死んでいく。
金色の薬莢が転がりながら地面を移動し、徐々に速度を鈍らせていくとやがて動きを止めた。
エレン・リーフェンシュタールは、空になった弾倉を落とすと、ふうっと大きく息を吐いた。熱帯の空気は熱く重く、呼吸をするたびに肺が重くなるような錯覚を覚えるくらいだ。
それでも、これまでと比べても体力の低下は感じられないし、しばらくのあいだ気になっていた傷跡の引き攣りもすっかりなくなった。
──あの怪我でしばらく殺人稼業を休む必要ができてしまって、思いがけず隠居気分を味わうことになろうとは。エレンは久しぶりに感じる硝煙の匂いに、ぽつりと呟いた。
「……なんだか懐かしいわ。戻ってきたんだ、って気がする……」
今日までの数週間は、エレンにとって極めて厳しいリハビリの期間であった。
ベッドで寝てばかりいたものだから、体重は落ちたし、筋肉量も減ってしまったように思われた。
そんなふうに動けない間に一人だったら、恨みを持つ誰かに殺されていた可能性だってあったのだから、
この上ないくらい優秀な用心棒がいてくれたのは心強かった。──顔を見るなり、『ドジかましたなぁ』と大笑いされたことはさすがにエレンもムッとしたのだが、事実なので仕方がない。
とりわけロックには、看病から御用聞きのようなことまで随分と世話になってしまった。あの優しい水夫は、エレンの傷が塞がり、身の回りのことができるようになるまでのおおよそ十日間、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたし、『困ったときはお互い様だから』と言ってくれたのだ。
ラグーン商会には世話になったことだし、今後力になれることがあったら言ってほしいと申し出ると、ダッチは呆れたように笑っただけだった。
再び日常生活を送れるようになったころから、これまでよりしっかりと栄養を摂るように心がけた。失った体力を取り戻すためだ。筋力の回復のための特別なトレーニングも積んだ。筋肉の一つ一つが生き返る感覚を味わいながら、エレンは自分の身体が以前のように反応することに安堵するのだった。肉体こそが彼女の最も大切な資産であり、仕事の道具でもあるからだ。
──短期間で筋肉をつけるために大量に摂っていた、ボイルド・エッグとささみ肉については、当分の間、見たくもないくらいになってしまったのだが。
そんなことを思い出しながら、エレンは銃をホルスターに収めた。
久しぶりの仕事となったが、これまで通りに体は動く。それを証明するのは、今日の仕事の出来栄えだ。
反射神経は鈍っていないし、段取りも問題なかった。ターゲットは、まるで既に運命を受け入れていたかのように、実に呆気なくこの世を去った。
エレンは返り血を拭うと、さっきまで生きていたモノの首筋に指を当て、脈がないことを確認する。
「……確かに死んでるわね、よしっと」
ひと仕事終わった。彼女の心は凪いでいたが、その静けさは満足感に満ちていた。
──これでまだ、この街で生きていける。
報酬が入ったらイエロー・フラッグで一杯やろう。
そう思いながら、エレンはその場所を背にして歩き出した。彼女の影が、陽炎に揺らめく地面に長く伸びていく。
夕陽が、地平線の彼方へと姿を隠しはじめ、ようやく、
ちらほらとネオンが灯り始めたロアナプラの街は、人を惹きつけるような妖しい魅力に満ちているようだ。
そして今夜も、夜のロアナプラに人が集まり始める。
***
「ハイ、バオ」
エレンは店主に挨拶して椅子に腰掛ける。
「よお、エレンじゃねえか。 最近見掛けなかったなあ? ……いつものでいいか?」
カウンターの向こうのバオは読んでいた新聞を畳むと、グラスを手に取った。
「ええ。ちょっとね、バカンスよ」
軽口をたたいて、エレンは頬杖をついた。店内はならず者たちの笑い声や話し声で満ちている。
『イエロー・フラッグ』、それがこの酒場の名前だ。この街の荒くれ者たちの憩いの場であり、どの勢力にも属さない完全中立のバーである。
だが、ロアナプラという街には銃声に縁のない場所などないもので、もちろんこの酒場だって例外ではない。
イエロー・フラッグの内装は、その過去の歴史を物語るように、無数の銃痕で飾られている。壁には漆喰で塗り直された跡が点在し、それぞれが店の中で起こった諍いの証だ。
この街では、客同士の
ただでさえ頭のネジが飛んだ奴が多いというのに、そこに酒が入ればもっとひどいことになるのは言うまでもないだろう。
店主であるバオは、元南ベトナム政府軍の敗残兵であり、口ひげを蓄えた中年の男性だ。今日も不機嫌そうに眉間にシワを寄せる彼の心配事は尽きることがなさそうである。
彼の鋭い目は、店内のすべてを見守るように何も見逃さない。バオの動きは慎重であり、常に周囲を警戒している様子が伺える。
中立地帯のはずが、なぜかトラブルに巻きこまれがちなこの酒場は、不幸な銃撃戦に巻き込まれ店が半壊する程の被害を被ることもあったという。そのため、バオは用心としてカウンターに装甲板を仕込んで防弾仕様にしており、50口径弾までは防ぐことができるらしい。
度重なる店への破壊行為に、心底うんざりする彼のその表情が険しくなるのも仕方のないことだ。
「ほらよ」
カウンターにグラスがゴトリと置かれ、氷がカランと涼し気な音を立てた。
「ありがと」
エレンはそれを手に取ると口に流し込む。
張との食事の後から、エレンのお気に入りの酒はジンになった。ジュニパーベリーの芳醇な香りを感じるたび、楽しかったあの夜の記憶がよみがえるようだったから。
イエロー・フラッグでいつも頼むのはジントニックで、ドライ・ジンをトニックウォーターで割っただけのこのシンプルなカクテルは、ビターなライムの香りとハーバルなジンの風味が調和してすっきりとした気分になれる。
ごくりと飲み下せば、キーンとした冷たい感覚が喉を通り抜けていくのを感じた。それから少し遅れてカッと熱くなる感じがたまらない。
エレンが大きく息をついたとき、ふいに背後からからかうように、酒に掠れた女の声が聞こえて来た。
「ハ〜イ、エレン。相変わらずいい飲みっぷりじゃないのさぁ〜。元気してるぅ?」
振り返ると、そこにはブロンドヘアーの女が立っていた。
長い髪を無造作に垂らしたその女が身に纏うキャミソールのトップスは、女の豊かなバストを辛うじて包み、裾からはちらりと臍を覗かせている。さらに魅惑的な太腿が惜しげもなく晒される極めて短い丈のスカートと、グラマラスなボディをこれでもかと強調する着こなしだ。
女が手にしたグラスを揺らしながら首を傾げると、尖ったサングラスがきらりと光を反射する。
はじめはこれがあのリップオフ・チャーチの──『暴力教会』と呼ばれていることは後で知ったのだが──シスター・エダと同一人物だとは、エレンにも信じられなかった。
修道服を脱いだ彼女は、夜な夜なロアナプラの街を蝶のごとく飛び回っては酒を嘗め、小遣い稼ぎのタネを探すことに勤しんでいるらしい。
エダの大胆不敵でありながらどこか憎めない性格は、エレンにとって何故かほっとするような要素があった。ずる賢く振る舞っていても親しみやすい雰囲気を滲ませる、そんな彼女に会うと安心感のようなものを感じるのだ。
「シスター……じゃないわね、今は。エダ、変わらずよ。そっちは?」
エレンの問いにエダは、手の中のグラスの液体を流し込んでから答えた。
「はぁ〜! こっちも相変わらずさ。金ンなる仕事があったら教えとくれよ」
「わかってるわ」
軽快に返して、エレンはふとポケットの携帯電話が鳴っていることに気付く。ディスプレーには見知った名前。取り出して耳に当てた。
「はい」
電話の向こうからは、低くよく響く男の声が聞こえてくる。
「俺だよ、エレン。久しぶりだな。ちょいと仕事を依頼したくてね」
「あら張。……内容は?」
「ああ。詳しく話したい、明日こっちに来てくれ」
「わかったわ。それじゃあ」
短い通話を終え、ボタンを押す。
数秒間、携帯電話を見つめていたエレンだったが、おもむろに腰を上げた。
「そろそろ帰るわ。またね、エダ」
エダは微かにエレンに向かってグラスを持ち上げながら、上体をカウンターに預けるような体勢になっている。
どうやらすでにだいぶ酔っているらしい、そのままずるずると崩れるように突っ伏してしまった。
「おう〜またな〜……」
──エダは今日も飲み過ぎてる。エレンは苦笑してイエローフラッグを後にした。
***
熱い霧がバスルームに充満する。
頭上から降り注ぐ熱い湯は、エレンの顔を濡らし、そして身体全体を包んでいった。
心ゆくまで湯に打たれたあと、蛇口を閉める。エレンの胸を、背中を、すっかり温まった肌の上をいくつもの水滴が尾を引きながら滑り落ちていった。
浴室から出たエレンはタオルで軽く髪と体を拭いて、下着だけ身に着けるとベッドに腰掛けた。愛銃を手に取り、メンテナンスを始める。
──あれから張に会うのは初めてだ。助けてもらったことへの礼は必要か。
なぜ自分を助けたのか、問いたいと思ったけれど、答えが期待どおりでなかったら……きっとがっかりしてしまうだけだろう。いつの間にかまた、自分は彼に期待してしまっている。
(きっとただの気まぐれね……いえ、それとも、まだ私に利用価値があると思ってくれているということかしら?)
でも、そうだとしたら殺し屋としての価値は認められているはずなのに、それはそれで寂しいとエレンは感じていた。
彼には立場があり、組織の利益を考えて動いているだろうから、そこに私情が挟まれる余地などないはすだ。
だが、もしも、もしも──彼の
胸の奥に自分でも制御しきれなくなりそうな感情が広がるのを感じて、ため息をついたエレンは、銃の手入れにいつもより時間をかけて熱心にすることで、無心を取り戻そうとするのだった。
***
翌日。
実際のところ、ここでテレビの配給会社としての業務は行われていないため、閑散としたロビーには警備員が立っているだけだ。形だけの来客用ソファには、三合会の組員と思われる黒いスーツ姿の男たちが用心棒として配置されているようだ。
「いらっしゃいませ、エレン様。
受付に立つ女性は、エレンを見るやよそ行きのスマイルを浮かべながらそう言った。
その笑顔に似つかわしくない武器を服の下に潜ませた受付嬢もまた、用心棒の一人なのだ。さすが隙のない警備といったところだ。
受付嬢が手で示したエレベーターホールの方へ足を向けながら、エレンは軽く手を上げて挨拶を返した。──黒いスーツ姿の用心棒たちにも目配せを忘れずに。
エレベーターに乗り込み最上階のボタンを押せば、あっという間に地上を離れ、ビルの高みへとたどり着く。
到着を告げる軽快な電子音と共に、エレンは最上階のホールへと降り立つ。大理石張りの床をヒールが打つ音が、高い天井に反響した。
先程ロビーにいた男たちよりも、はるかに屈強そうな見た目をした黒服たちが、一斉にエレンの方を見た。
「お疲れ様です」
「どうも、エレンさん」
ドアを開けてくれた黒服に簡単に礼を述べて、そのままエレンは社長室へと足を踏み入れる。
重たい音を立てて、背後でゆっくりとドアが閉まった。
部屋の主である張はこちらに背中を向けて、酒を飲んでいるようだ。
革張りのソファに深く身を沈め、上体のみならず腕まで背もたれに預けて、足をテーブルに投げ出す──そんな緊張感のない格好でも、彼の風格が失われないのはなぜだろう。
張が振り返り、グラスを軽く上げる。
「よう」
「……ハイ、 張」
表情を動かさないようにしながら、エレンは大きく息をついた。だが、彼のその顔を瞳に写した瞬間、心臓が大きく跳ねるような感覚を覚え、鼓動が強く速く打ち始めた気がした。
「ふむ、すっかり元気そうだな。まぁ座れよ。ウイスキーは?」
ガラス製の灰皿の縁では煙草がゆらゆらと煙を立ち上らせていた。
──懐かしい、匂いだ。煙草を吸わないエレンが、銘柄名まで覚えている張の愛飲のそれ──“ジタン・カポラル”の深みのある芳香が、嗅覚をツンと刺戟する。
二度とここに来られないのではと思った、でもまたこうしてここにいる。
その思いを噛みしめるように瞳を閉じて、エレンは大きく息を吸い込んだ。
そして、返事の代わりに首を横に振る。
それから張の近くまで行って、彼の向かい側に浅く腰掛けた。
久しぶりだからだろうか、どんな顔をして彼を見たらいいかわからない。これまでどんなふうに彼と接していたのか、すっかり忘れてしまったみたいだ。少し心臓がドキドキしている。
自分は可笑しな動きをしていないだろうか? そう心配になって、そんな気持ちを誤魔化すように事務的な態度に徹することにした。
「さっそくだけど、仕事の話を──」
「つれないな、エレン。こうして顔を見るのも久しぶりだろ? ちょっとくらい親睦を深めても罰は当たらねえ」
次の言葉を言いさしたエレンに重ねるように飄々と言ってのけ、張は戯けたように眉を下げて笑って見せた。そして、自分のグラスをエレンに向けて差し出した。
「ほら、やれよ」
戸惑った様子でそれを受け取ったエレンは、テーブルの上に視線を落としたまま動きを止めてしまった。
テーブルの上には、黒いラベルの貼られたテネシー・ウイスキーの酒瓶が置かれている。張の愛飲するもので、エレンも何度か見かけたことがあるものだ。
彼女は困ったように何度か酒瓶とグラスを交互に見比べてから張の顔を見つめた。だが、張はいつもと変わらない笑みを口元に浮かべて、エレンの方を見ているだけだ。
しばらくの沈黙の後、エレンは意を決したようにその琥珀色の液体を口の中へ流し込んだ。
すると、たちまち広がるのは、熟した果実のような甘く濃厚な香り。
「……っ?! 」
だが、飲み下した瞬間、高度のアルコールが焼け付くような熱をもたらして、その刺激に思わずエレンは咳き込んだ。
飲み慣れないウイスキーのストレートは、喉が焼けるようだ。さらに後味に苦味が残り、顔をしかめるエレンに、張は愉快そうに笑った。
「ははは、相変わらずガキのまんまだな」
「もう! 悪かったわね」
エレンは不満そうに唇を尖らせて抗議すると、グラスをテーブルに置いてそっぽを向く。その様子を満足そうに眺めて、張はようやく本題を切り出した。
「……さて、仕事の話をしよう、 エレン」
新しい
「なに、今回は楽な仕事さ。……俺の護衛を頼みたい」
「……え?」
予想外の言葉を耳にして、エレンは冗談でしょうと問い返す。
「何を……護衛なら、貴方には優秀な部下がたくさんいるじゃない」
その言葉をまったく予測していたかのように、張は愉快そうに返した。
「ちょっとした
ポカンと口を開けたエレンにさらに畳み掛ける。
「病み上がりのリハビリにゃ丁度いい依頼だろ?
──衣装はここに用意してある。報酬は弾むぜ?」
そして、張は紙製の箱をエレンに向かって差し出す。
相変わらず、彼の物言いは有無を言わさぬ説得力を持っているものだから、エレンは困ってしまった。押しに負けて半ば無理矢理に手渡されたその箱を、中の様子を窺うようにそっと開いてみる。
しかし、そこに収まっているものが見えたところでエレンの表情が変わり、再び蓋を元に戻してしまった。
「……これを着るの? 私が?」
困惑したようなエレンを前に、張は大袈裟に両手を上げてみせた。
「そうだとも。俺のチョイスだ。舶来品だぜ、いい品物だろ?」
まだ困った顔をしたまま、エレンは箱の中身を取り出す。
箱の中には、
「……まあ、……」
それっきり言葉が継げなくなってしまった。
触れたこともないくらい滑らかな布は、手から滑り落ちてしまいそうなほど
上品な光沢を放つ美しい布地を使ったこのドレスは、間違いなく一級品だろう。
「気に入ったか?」
張の含み笑いにエレンはハッと我に帰る。
見惚れてしまっていたことに気づかれた恥ずかしさから、エレンは少し頬を紅潮させている。
「……とても、いい品であることは認めるわ……。ええ、素敵だけど……でも……」
だが、果たして自分に似合うのか? それを口にできないエレンは、手元のドレスに視線を落としたまま、気後れした調子で口ごもっていた。
フフンと上機嫌そうに鼻を鳴らして張は問う。
「何が問題だ?」
「……私に、その……似合うかしら……って、……」
言いづらそうに口を開いたエレンは、困った表情のまま、張の様子を伺っている。
「前にも言ったろ? お前なら、どこだって花形になれるってな。
さっき言った通り、今夜の会合は表向きの方だ。ケーブルテレビの配給会社としてのな。
こういう場は裏稼業とはまた違った面倒さがあるもんでね……とはいえ、こちらの付き合いも疎かにはできん。
まぁちょっとばかり……相手方の視線をそらしてくれりゃ十分だ。もちろん、同時に護衛としての役も頼むぜ。
連中の目を眩ませて注目を集めてやってくれ、……俺がクソつまらんパーティを乗り切るまでな。本音を言わせてもらえば、全く気が進まんのさ」
彼の人間らしい一面をあらわにする言葉に、エレンは思わず吹き出した。
「……それが私の役割なのね? いいわ、引き受けましょう」
彼が与えてくれた仕事だというのなら、引き受ける以外の選択など初めからないのだ。そして何より、自分は彼にまた会えて嬉しかったから──依頼がなんであれ、張が自分を必要とするならば彼のために役に立ちたかった。
「よし、決まりだな。 ……後は頼むぞ」
張が声を張り上げると、どこからともなくスーツ姿の女性達が現れ、素早くエレンを囲む。
「な……」
狼狽するエレンをよそに、女達は最上級の笑顔
言う。
「エレンさま! ヘアメイクはわたくしたちにお任せくださいね!」
「あらあら、アレンジのし甲斐がありそうな御髪!」
「ドレスのおサイズは大丈夫かしら?! さっそくフィッティングいたしましょう!」
そして別室へと引きずられていくエレン。
「ちょっ……、張っ!」
張はいつもの悪戯めいた笑みを唇に浮かべて、心底愉快そうに手を振ってエレンを見送った。
___
(Die Wiedergeburt von Ellen)
(エレンの再生)