仕事の内容によってはちょっとした変装もする。
だけど──こんな高級品を身に付けたことなんてない。
エレンは鏡に映る自分を眺めてなんとも言えない表情を浮かべた。
これを着ていれば彼の隣に立つのに相応しい女に見えるのだろうか? 殺し屋の自分ごときが、着飾ったところで周りに恥ずかしくない振る舞いができるのだろうか。
張に恥をかかせることになりはしないかと、エレンは心配していた。
(これじゃあ、スティーブン・セガールと一対一で戦ってこいって言われたほうがまだ簡単かもしれないわ……)
これ以上考えていても仕方がない。
いつもと毛色の違う依頼で少なからず不安もあるが、彼に恥をかかせないために、頑張ろう。エレンはそう決意すると、背筋を伸ばした。
(……そう、張は大事な依頼人だから)
***
「エレン様のご支度ができました」
「ああ、入ってくれ」
張の言葉にドアが開き、 イブニングドレス姿のエレンが現れる。
エレンがドレスを身にまとった姿は、まさに息を呑むような美しさだった。深い臙脂色のドレスは、彼女の透き通るような白い肌を一層引き立てている。ドレスの滑らかな布地は、まるで水のように彼女の体に沿って流れ、優雅なシルエットを描いていた。
ローブ・デコルテと呼ばれる型のそのドレスは、胸元が大胆に開いており、エレンの豊かな胸を美しく強調している。背中も大きく開いており、彼女のしっとりとした艶の浮かぶ滑らかな肌を惜しげもなく晒していた。
輝く亜麻色の髪は一つにまとめられ、白いうなじを強調している。
まるで上質な絹糸のような光沢を浮かべる髪は、髪飾りなど必要ないほどだ。
メイクも普段とは違い、華やかさを重視した仕上がりだった。
透けるような白い肌に映える真紅の口紅は艷やかで、形の良い唇を一層魅力的に見せている。まぶたにはしっとりと艶めくアイシャドウが乗せられ、まばたきをするたびに星屑のような細かな光がちらちらと瞬いていた。それはエレンのヘイゼルアイを際立たせ、長いまつげに縁取られた瞳は、光を透かす宝石のようにきらめいている。
アクセサリーは控えめだが、それがかえってエレンの美しさを引き立てていた。シンプルなイヤリングが両耳で小さく光を放ち、彼女の気品を一層際立たせているようだ。
エレンが一歩足を進めると、ドレスの裾が滑らかなドレープを描き、脚にぴたりと吸い付き添うように揺れる。
一歩、そしてまた一歩と足を進め、エレンは張の元へ歩んでいった。
「……、」
エレンのその姿を見つめたまま、張はほんの一瞬、僅かながら動きを止める。だが、エレンがそれに気付くより前にいつもの不敵な笑みに戻ると、彼女を称えた。
「これはこれは。よく似合ってるぜ、エレン」
「ありがと。……貴方も、素敵よ」
すでに夜会服に着替えていた張を一瞥すると、エレンは照れたように肩をすくめた。
そんなエレンに、張は自身の腕を差し出す。
意図がわからず、差し出された腕を黙って見つめたままのエレンに、張は言葉で促した。
「今夜は俺の護衛だが、表向きはパートナーってことで頼むよ。
エスコートさせてもらわなきゃな、スウィート・ハート?」
「……貴方って、気障な人ね」
張が気取った口調でそう言うのに、エレンは呆れたように眉を下げ微かに笑った。
そんなふうに平然を装いながらも、どうしようもなく心は高揚するのだ。
少しだけ気恥ずかしさに
もしかすると、今夜ももうすでに彼のペースに巻き込まれているのかもしれない。だが、それでも良いと思えてしまう。
張はいつもこうだ。気障なくせに茶目っ気があり、かと思えば、一大組織の長として、三合会の利益にならなければあっさり切り捨てる冷酷さだって持っている。部下を始末しろという先日の依頼で、張の冷徹で非情な面はエレンにも理解できた。
それなのに、眠るエレンにコートをかけてくれる優しさも持っている。まるで正反対に思える一面だが、どれも間違いなく彼の一部だと思えるし、さらに言えばその全てに魅了されているのだ。
(どれが彼の本当の顔なのかしら? ……私と過ごしたときの彼がそうだったらいいのに……)
エレンは、張の多面性に惹かれつつも、どれが本当の彼なのかを知りたいと思った。
(……自分にとって、都合のいい方を信じたいだけだということは、わかってるけど)
移動中のリムジンの中でエレンは自嘲するように首を振った。
***
『表向きの方』 の会合だと張は言った。本当のところ、護衛としての役は必要ないだろう。なぜなら──
エレンは脇をちらりと流し見る。
(三、四……五。ほら、ちゃんと五人も護衛がいるじゃない)
張直属の部下達が五人。つかず離れずの位置に配置された彼らは、いずれもジャケットの下に銃を所持していることをエレンは見抜いていた。
一応ではあるが、エレンも銃を所持していて、いつでも対応できるようにはしている。
だが、恐らく彼らだけではない。この会場内にもすでに、来客のフリをした用心棒を忍ばせていることだろう。
(私は用が無いわね)
張の腕にエスコートされながら、それでもまあいいかという気分になっていた。
ずっと腕を組んでいると、上着越しにでも彼の体温がほんのりと伝わってくる。じわりと染み入るようなそのぬくもりが、エレンにはとても心地よかった。
張の横を歩きながらエレンはぼんやりと思う。
(本当に、夢みたい……)
自分は今、これほどの煌びやかな世界の中にいて、張のとなりに立ってるのだ。
まるで夢の中の出来事のようだった。
自分と同じように着飾った女性たちの鮮やかなドレス、きらめくジュエリーに、目が眩むようだ。
会場のあちこちに置かれたテーブルの上には、カナッペを始めとした洒落たフィンガーフード、瑞々しく彩り豊かなフルーツ、プチサイズのケーキやタルトにプラリネチョコレートまでの様々な種類のデザートが。口にしなくても、そのどれもが視覚からも楽しませてくれる。
ウエイターが持つ磨き上げられた銀の盆さえ眩しい。
会場といい、初めて見る張の夜会服姿だって珍しくて、エレンはすっかり得した気分になっていた。
(こういうのも、とても似合っているわね……)
彼にはやはりフォーマルな格好が似合う。
恐らく一級品と呼ばれるものだろう、深みのある光沢を放つタキシードの布地は滑らかに見えて、ざらりとした独特な手触りをしていることを触れてみて知った。首元を飾る蝶ネクタイも彼の違った一面を見ることができてエレンの胸をドキドキさせる。
エレンにとって蝶ネクタイといえば黒色のイメージだったのだが、今夜の張が着用しているものは深みのある濃い赤色をしていた。
(……私のこのドレスとお揃いみたいだわ……なんて……)
オールバックに撫で付けた彼の髪型だって、いつものように前髪を下ろさないだけで雰囲気が違って見え、色気のようなものが増して感じられるようだ。
張の袖口を飾る小さくきらめくカフリンクスに、磨き上げられた黒いエナメルの靴。身につけるもの全てに彼のセンスの良さが表れていた。
(それにしても、いつもスーツだし、プライベートの時にはもっと気楽な服装をするのかしら? 想像ができないわね。でも見てみたいわ……)
その想像をするだけでも楽しかった。自然と笑みが浮かんでしまう。
「ずいぶんと楽しそうだな?」
「え、そ、そうかしら……?」
張に顔を覗き込まれそうになり、慌てて表情を引き締める。張のことを考えていたなんて、彼に分かるはずがないのに。
そんなエレンの様子を見て張は笑った。
「さっきからそんな笑顔を見せといて、楽しくないってのは無理があるだろう? ……こういうパーティは初めてか?」
「ええ……初めてよ。
見たこともないものがたくさんあって、まるでおとぎ話みたいだわ。……とても、楽しいわ……」
そう素直に言えば、張は軽く眉を上げた。
「だろうな。お前は感情がすぐに顔に出るからな」
「……バレちゃってたのね? ふふ、でもいいわ。今ね、とても楽しいのは本当だから。ワクワクしてるの!」
「はは、そりゃいい。お前のそんな顔が見られるなら、こんな仕事も悪くはねえ」
声を弾ませるエレンを前に、張は満足そうに頷いた。
「しかし、楽しむのは結構だが、仕事だってこと忘れちゃいないだろうな?」
「……もちろんよ。忘れてなんか、ないわ、当たり前でしょう」
むうっと不機嫌そうな顔になったエレンに、張はからかうように言う。
「本当か? お前の目はずっと、あっちのテーブルの上のケーキに行ってるようだがな?」
エレンは頬を膨らませる。
「もう! ちゃんと覚えてるわ! ……ケーキが気になるのは否定しないけれど」
「ははは。……まぁ、忘れても構わんがな」
そう張は呟いた。言葉の終わりはほとんど張本人にしか聞こえないくらいの小さな声だ。
エレンが聞き返すより先に、張はカクテル・グラスを彼女に手渡す。そして自らのグラスを、エレンのそれにそっと触れさせると、ガラスの澄んだ音が小さく響いた。
「今日の素敵な夜に乾杯、ってな」
そう言って、グラスを上げるとエレンを見つめたまま張は微笑んだ。いつものシニカルな笑みではなく、優しく、どこか甘やかな微笑みに、エレンはドキリとする。
「……乾杯」
そう小さく呟いて、もう一度グラスを触れ合わせると、エレンはカクテルを一口飲んだ。
彼と目が合うと、心の底がくすぐったいような気持ちになるのだが、今日はいつもに増してそれが強い気がしていた。
張はグラスを傾けて一気にカクテルを飲み干した。グラス越しに見えた、彼の唇の間に液体が吸い込まれていくさまがやけに印象的だった。
エレンもつられて、もう一口飲み下す。甘いのに、どこかほろ苦い味で美味しかった。
先ほどの彼の笑顔が目に焼き付いて消えない。自分に向けられたその微笑みが嬉しくて、心が浮き立つ。舞い上がるような気持ちで、足元は軽く、胸がときめく。
(……これじゃあ私、まるで、──)
打ち消すようにエレンは首を振る。この気持ちに真正面から向き合ったら、とてもではないが見せかけの冷静さが保てなくなってしまう。誤魔化すようにカクテルグラスの中身を流し込む。
もっと酔ってしまえばきっと、おかしなことを考えずに済むはずだ。空になったグラスを手に、おかわりを貰いに行こうとしたとき──
脚に絡みつくドレスの布地に、平衡感覚を失い、バランスを崩してしまう。
「……あ、……!」
よろける瞬間、全身がヒヤッと冷たくなるような嫌な感覚が走る。
「おっ、と……!」
力強く引き寄せられ、気がつくと張の腕の中で支えられていた。密着したところから彼の温もりが伝わり、心臓がうるさいくらいに高鳴っている。
顔を上げたエレンを、至近距離で見下ろす彼の顔。
頭上にある大きなシャンデリアの明かりが彼のサングラスを透かして、その下にある瞳を浮かび上がらせる。彼の黒い瞳はエレンを見つめている。──そう、今はエレンだけを見つめているのだ。
逸らしてしまいたいくらい恥ずかしいのに、それと同時に、少しでも長く彼の瞳に映っていたいとも思った。
「やれやれ、大丈夫か? ぼんやりするなよ」
「ご、ごめん……なさい……」
張の助けで元の姿勢に戻り、ぽんと肩を叩かれる。
顔が燃えるように熱くなっていることに気が付いて、エレンは視線を下に落とした。心臓がドキドキと早鐘のように打ち、オペラグローブの中の手のひらにはじんわりと汗が滲んでいる。彼の温もりがまだ背中や肩に残っていて、その感覚は、心を落ち着かせようとする彼女の努力を無駄なものにしていく。
顔が火照るのは、きっと酒のせいだ。違う、決して彼に触れたからではない。そう心の中で繰り返す。
そのとき、目の前に現れた白人男性の声に、エレンの思考は遮られた。
「よく来たな、マイク!」
「やあドナルド。 元気そうで何よりだ」
マイク・チャン──熱河電影公司の社長としての張の表向きの名前だ。
いつの間にか、いつもの張からマイクに切り替えたらしい、エレンの隣りの“マイク”は人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。
この会場にいるほとんどは映画など芸能関係の人間であり、張にドナルドと呼ばれた彼もまたその筋の関係者なのだろう。監督かもしれないし、脚本家かも、或いは俳優と呼ばれる類の人間かもしれないが、エレンにはわからなかった。
その大柄な顔立ちと体型によく似合うブロンドヘアーを、七三分けに撫で付けた碧眼の男性──ドナルドはエレンに目をやると大袈裟なくらいに感心した様子で言った。
「ワーオ、なんて美しい女性だ! マイク、 こちらのヴィーナスは?」
「エレンだ。俺の遠い遠い遠い親戚でね」
あまりにも適当なことを言う張に、エレンはクスリと笑った。
「よろしく、ドニー」
「光栄だな、ミス・エレン」
ドナルドは満面の笑みを浮かべて、エレンの手を取ると甲にキスを落とした。
その瞬間、張の眉がごく僅かにひそめられた。その表情は一瞬のことであり、すぐにいつもの冷静な顔に戻ったが、視線はドナルドの手元に固定されたままだ。
「……」
張はじっと見ている。閉じられたままの唇が僅かに揺れ、すぐにまた元通りにぐっと引き締められた。
彼の黒い瞳は、いつもと変わらぬ冷静さを保ちながらも、どこか鋭い光を放っている。エレンがドナルドの言葉に答えるたびに、張の視線は微かに揺れ動く。
二人が笑顔で会話を交わす間、張の表情は微かに固さを帯びているようだった。しかしそれは、大抵の人間なら見過ごしてしまうくらいの微かな変化だった。
そして、彼らの話が終わる前に、張はエレンの肩を自分の方へ引き寄せる。
「そろそろ失礼するよ。まだまだ挨拶回りが残ってるもんでね」
張の声は穏やかでありながらも、どこか急かすような響きを帯びていた。
少々不自然な話の切り上げ方にもエレンが気づくことはなく、簡単にドナルドに別れを告げると、張に誘導される方へ素直に足を向けた。
「さあエレン。ちんたらしてる場合じゃあないぞ。なにせ、今夜は忙しいんだからな。まだまだやることが残ってるんだぜ?」
「わかったわ。それじゃあどんどん片付けちゃいましょ、私のパートナーさん」
エレンが茶目っ気たっぷりにウインクして見せれば、張もまたいつもの剽げた笑みを返すのだった。
***
おぼろ月の夜だ。
バルコニーに出ると、頭上にはやわらかく霞んだ月が浮かび、眼下には街の灯りが色鮮やかに煌めいている。
涼しい夜風が吹き抜けて、エレンのドレスの裾を揺らした。カーテンが仕切る向こう側の会場からは、まだ賑わいの声が聞こえてくる。
「ふぅ。挨拶回りもほとんど済んだし、あと少しばかり我慢すればお家に帰れるぜ、エレン」
エレンはベンチにぐったりと座り込んだ。背もたれに体を預け、肩の力を抜くと、全身の疲労が一気に押し寄せてくるのを感じた。足元に視線を落とし、いつもよりだいぶ踵の高いハイヒールを脱ぎ捨てると、閉じ込められていた足指になんとも言えない解放感が広がる。足の裏がじんわりと痛むが、冷たい石の感触が心地よい。
「……思ってたより大変なのね……今夜だけで、一体何十人の人に同じ内容の話をしたのかしら……」
エレンは深いため息をつきながら、張に向かってぼやいた。しかし彼女の声には、疲労とともに少しの達成感のようなものも混じっている。
「まぁな、社交ってヤツは裏社会も表社会も似たようなもんだな。
……ほら、果物を取ってきてやったぞ。これでも食って一息入れるといい」
そう言って張は皿を差し出す。
あまり残っていなかったらしく、皿の上には房のままのブドウが少量乗っているだけだった。
「ありがとう……いただくわ」
エレンは受け取ったそれをさっそく一粒、口に放り込む。
口の中で存在感を示すブドウの実を噛み潰せば、弾力のある果肉が割れて一気に瑞々しい果汁があふれ出した。甘く芳醇な香りと上品な甘酸っぱさがたちまち口の中に広がって、喉が潤うのと同時に疲れた心にも潤いが染み渡るようだ。
「……あ、美味しい。……なんだか……元気が湧いてくるみたい」
「俺にも一粒くれよ」
そう張に言われて、エレンはブドウを一粒摘み上げた。
雫のついた果実は月明かりに照らされ、ベルベットのように鈍く輝いている。彼女はそのブドウを張に手渡そうとしたが、そのとき張がぐっと身を乗り出してきた。
「え?」
一瞬、何が起こったのかエレンには理解が追いつかなかった。
張の唇が指先に触れたその瞬間、心臓がドクンと大きく拍動した。
驚くエレンの目の前で、張は彼女の指ごとブドウをパクリと口に含んだのだ。啄まれた指先に、彼の息がかかり、ほんのりとした温もりが伝わる。
エレンの思考が追い付いたときには、張はすでにさっきと変わらない位置に戻っていて、平然とした様子でもぐもぐと口を動かしていた。
「……ん、美味いな」
またからかわれてしまった、エレンは少し悔しく思いながら、一言を絞り出すのが精一杯だった。
「……自分で食べなさいよ」
怒ったように口を曲げて顔を赤らめるエレンに、張は悪戯心たっぷりの笑みを浮かべていた。
「はは、すまん。この方が美味いかと思ってな」
彼の笑顔はまるで子供のように無邪気で、エレンは思わず笑ってしまった。それでも、彼女の指先にはまだ彼の唇の感触がはっきりと残っていて、その感覚が彼女をいつまでも惑わせた。
今夜はずっとこうだ。予測のできない張の行動に心を掻き乱されてばかりで、とてもじゃないが力が続かない。
だが、その疲労感はエレンにとって心地よいものとなって残った。
「……今夜は楽しかったわ。おとぎ話の絵本の中にいるみたいだった。
すごく小さかった頃に、母が絵本を読んでくれた記憶が……ぼんやりだけど残ってたの。さっき、思い出したわ。絵本の中の舞踏会も、こんなふうにキラキラしてたのよ」
その言葉に張は、口元を微かに笑みの形へ変えた。そのままエレンのとなりで、口を挟むことなくただ彼女の話に耳を傾けている。
「前に話したわよね。私には過去の記憶がないの。ロアナプラに辿り着くより以前の記憶がね。
幼い頃に両親と別れて……もう……二度と会えないって事実しか覚えていない。会えない理由は思い出せないし、最後に母と、父と交わしたはずの言葉さえ覚えていない……。両親と過ごした時期だって、ぼんやりとしていてほとんど……。
……でも、なくなってしまったと思っていても、こんなきっかけで思い出すこともあるのね。記憶は
「……いやなに。別に、礼を言われるようなことじゃあない」
張は夜空を仰ぐと、いつもの調子でそう言った。簡素な言葉でありながらも、その声の調子には、エレンの気持ちを否定しないだけの寛容さが確かに存在していた。
張のその瞳は夜空の星々を見つめながらも、黙って彼女の心に寄り添うような穏やかな眼差しをしていた。
その静かな優しさがエレンの心に深い安心感をもたらし、彼女のその表情を一層満ち足りたものにした。
張は内ポケットから煙草を探り出し、それを唇に咥える。金色に輝くライターの蓋を開けると、高く透き通る金属音が空気を震わせた。小さな炎がほのかに辺りを明るくして、煙草の先端をちりちりと焦がす。彼が大きく吐き出した白い煙は、夜の空気に溶け込むようにふわりと漂う。
「……それにしても、劉がここにいたら大変だったろうな」
「え? 劉がどうかしたの?」
思い出したように呟く、その独り言のような張の言葉に、エレンは首を傾げる。
張は再び煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。煙が風に吹かれ遠くへと流されていくのを見つめ、彼はいつものシニカルな笑みに口角を引き上げながら、静かに言葉を続けた。
「……いいや。何でもねえ」
その後パーティ会場に戻った二人は、再び挨拶回りに励むのだった。
エレンは張のとなりで、目一杯最後までパーティを満喫していた。
──今日の依頼の内容を忘れてしまうくらいに。
***
──よかった。何事も起こらなくて。
エレンは車窓の向こうの流れる景色を見ながら、身体の力を抜いてシートに背中を預けた。
疲れとアルコールがあとから来たようで、心地良い倦怠感が身体を包む。
非日常感に浮かれて、つい
「どうした、エレン?」
「なんでもないわ……気にしないで……」
「そうかい」
張はそれだけ答えると、咥えた煙草にライターの炎を近付けた。
「……疲れたんだろう? あれだけ
彼はからかうようにそう言ったあと、肺にためていた煙を大きく吐き出す。二人を乗せたリムジンの車内に、
「……事実だから、否定はしないわ……」
事実を突きつけられるのは、ちょっと悔しいし恥ずかしい思いもある。
しかし今日の反省をする前に、とりあえず酔いを覚まそうと水を飲むことにした。車内に用意されたウォーターピッチャーからグラスに水を注ぐと、口元に持ってくる。
同じタイミングで、再び張が煙を大きく吐き出した。
ジタンの香りが車内に立ち込めている。
(──あ、ら……?)
口に含んだ水の匂いと、彼の煙草の香り。
その二つが合わさった瞬間、エレンは何かを思い出したようにハッと目を見開いた。
──あの怪我のとき、熱にうなされながら見た夢を突然思い出したのだ。
誰かが──エレンの名を呼んでいた、そして感じた、ジタン・カポラルの芳香──あれは本当に夢だったのか?
グラスを持ったまま一点を見つめて
「エレン? どうかしたのか」
「張、聞きたいことがあるの。……このあと少し話せるかしら?」
車は熱河電影公司ビルの前に静かに停まった。
_____
(Murmure de la Nuit Lunaire)
(月夜のささやき)