窓の向こう側、見下ろした辺り一帯にはネオンの光がちらちらと瞬いていて、街を越えた先には夜の海とロアナプラ港が広がっている。
ロアナプラの街を見渡せるビルの最上階、このペントハウスが張の邸宅である。何もかもが一級品で揃えられた、彼のセンスを感じる空間となっていた。
間接照明の暖かみのある光が部屋の隅までぼんやりと優しく広がって、壁面の無機質な灰色に温もりを加えている。
室内の中央に位置するのは、ソファとローテーブルだ。
上質な光沢を放つ革張りのソファ、そしてローテーブルは装飾を省いたごくベーシックなデザインでありながら、素材の良さがさり気ない高級感を漂わせている。
テーブルの上は灰皿と、ウイスキーのボトルが。繊細なカッティングが施されたガラスの灰皿には吸いさしの煙草が乗せられていて、高い天井に向かって真っ直ぐに煙を立ち昇らせていた。ジタン・カポラルのその紫煙は、薄闇に溶け込むかのようにゆっくりと揺らめき、そして消えていく。
それらを囲むようにして、エレンと張は向かい合っていた。
「張。まだ、お礼を言っていなかったわね」
エレンはグラスを手に取り、琥珀色の液体がじわりと滲みながら揺れる様子をじっと見つめていた。ゆっくりと溶け続ける氷が、グラスの中でカラリと澄んだ音を立てる。
「命を救ってくれたお礼を」
「ああ、なに」
張のその返答は、本当になんとも思っていない、ということが伝わるようなあっさりしたものだった。
そしてまた会話はなくなり、静寂だけが二人を包む。
この部屋は本当に静かな空間だった。
壁紙や漆喰を用いずコンクリートそのものを剥き出しにした壁面は、音を吸収する性質が高い。そのおかげか、ロアナプラの銃声だってこの場所までは届かない。
ただ時折、高所ゆえに強く吹く風が窓ガラスを揺らす音が、僅かに響くだけだ。
張は、普段オフィスにいるときと同じようにリラックスした様子でソファに深くもたれかかり、片手にウイスキーのグラスを持っている。
今の彼は、先程まで着込んでいたタキシードの上着も脱ぎ、蝶ネクタイを解いてシャツの首元のボタンを二つほど外している。
シャツの襟元が開いていることで、首筋や鎖骨がちらりと覗き、普段のきちんとした姿とはまた違う、少々ラフな雰囲気を醸し出していた。
締め付けていた窮屈なものを脱ぎ捨てた彼のその姿は、パーティの喧騒から解放されたあとの安堵感と、ほのかな倦怠感を感じさせるものだった。
いつものエレンなら、そんな彼の姿に胸をドキドキさせただろう。だが、今はそうすることはできなかった。
僅かにうつむくと、緩んできたまとめ髪から落ちた数本の毛束がエレンの頬をくすぐった。
「任務は完了だ、エレン。窮屈だろ、ほどいちまえよ」
そう言うと同時に、張の手がエレンに向かって伸びる。
張の指先が、エレンの髪に差し込まれた一本のピンをそっと掴んだ。そして、彼がピンを抜くと、タイトにまとめられていた髪が一瞬でほどけ、豊かな亜麻色の髪が解き放たれる。
驚いた表情を浮かべるエレンの肩に背中に、彼女のくせ毛であるウェーブヘアーが包み込むようにふわりと広がりながら下りた。
ほどけたままの少々乱れた状態でも、彼女の髪は間接照明の灯りを反射して、その一本一本がキラキラと輝いている。
「……あぁ、やっぱりこっちの方がお前らしいな」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、低く囁くようにそう言うと、張はウイスキーのグラスを口元に運んだ。
ここが自分のテリトリーだからということもあるのだろうが、張の表情はいつもの鋭さや緊張感が和らぎ、どこか穏やかでリラックスした雰囲気を漂わせている。
彼の目は半ば閉じられ、まるでこの瞬間を楽しんでいるかのようだ。
そんな彼とは反対に、エレンは居心地の悪さを感じているのだった。それは、いつもと違う彼の姿に戸惑っているせいだけではない。
彼に、尋ねたいことがある。
その彼の反応や答えに対する期待と不安感のせいで、すっかり気が弱くなってしまったかのようだ。
「……ねぇ、張……」
ほどけた髪を整えることも忘れたまま、エレンは口を開く。けれど、
「ずっと聞きたかったのだけど……、……どうして……私を、助けたの?」
エレンがやっと絞り出したその質問に、張はいとも容易く答える。
「……さあな、実際のところ、俺にもよくわからん。まぁ、お前を気に入ってるから、だろうな」
それはエレンにとって嬉しい言葉であるはずなのに、何故かいまひとつ響かない。
もっと欲しい言葉は別にある気がする。
一体自分は彼にどんな期待をしているんだろう? それさえわからないのに、ただ落胆したような気持ちだけを、強く、はっきりと感じる。
エレンのその気持ちは、大いに、声の調子に現れていたのかしれない。
「……そう」
「なんだ、不満か? お前が思ってるより、俺はお前を気に入ってるんだぜ」
いつもの軽口を叩いているはずの張のその表情に意地悪なものが見えないのは、側にあるフロアライトのせいだろうか。真冬の太陽のようなぬくもりのある光は、彼の顔に柔らかい影を落として、穏やかに見せるかのようだった。
「……張?」
「ん?」
自分の声が微かに揺れていることに、エレンは気付いていた。その声に反応し、張がゆっくりと目線を彼女の方へと動かす。
「このあいだ、このあいだね……」
エレンは選ぶように慎重に、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始める。
張はウイスキーのグラスを軽く揺すりながら、そんな彼女を見守るかのように黙って耳を傾けていた。琥珀色の液体が、彼の動きに合わせてゆっくりと揺られている。氷が溶け出して、ウイスキーのその琥珀の色を侵食し、じわり、じわりと滲ませていく。
「あの怪我でひどい熱を出して、うなされていたとき、……感じたの」
そう言ってから、ちっとも中身の減っていない自分のグラスをテーブルに置くと、エレンは迷う心を持て余すかのように、両の手の指先を軽く擦り合わせた。彼女の指先は微かに震えている。
「ジタンの──貴方の煙草の香り。それから──」
言いかけて、エレンは口を閉ざす。
張のサングラスの向こうのその目はいまどんな表情をしているんだろうか。彼女はそれが知りたかった。しかし暗い色のサングラスはいつも通りに彼の目線を隠していて、心の動きは読み取りようがない。
感情の起伏が見えない張の顔に、エレンは一瞬だけ自分の気持ちが弱くなるのを感じるのだが、すぐにその感情を押し殺し、話を続けることにする。
「貴方が、私の名前を呼ぶ声がした、気がしたの……」
その言葉に、張は僅かにぴくりと眉を動かしたが、すぐにいつもの剽げた笑みを浮かべた。
「ふん、俺を夢にまで見てくれるとは光栄だな。……さてはお前、俺に恋でもしちまったのか?」
軽く肩をすくめ、嘯くように言いながらグラスを唇に運び、また一口飲み下す。氷がカラリと涼やかな音を立てて、だいぶ中身の減った液体は張の唇に向かって吸い寄せられグラスの中で傾いた。
張の動作はいつも通りゆったりとして余裕に満ちていて、感情の変化というものを少しも感じさせないものだった。
エレンは黙ったまま、再び視線を床に落とす。
いつもの軽口に怒りもせずにただ黙りこくるエレンのその様子を見たあと、張は表情を少しだけ真剣なものに変えた。
そして、諭すような口調で続けた。
「あのな、あのときはだいぶ、熱が高かっただろ? なら、意識が混濁してても可笑しくはない。夢を見ていたんだよ、お前は」
「……私も初めは、夢だと思ったわ。でも──」
「やめとけよ、エレン。夢で何が悪い?」
反論しようとしたエレンの言葉はすぐに遮られる。口元にいつもの笑みを貼り付けた張の胸の内はやはり読めない。
「……どこまでが夢なのか、私にもわからないわ。でも、貴方は、やっぱりあそこに来たのね」
「やれやれ……なかなかに野暮な奴なんだな、お前って奴は」
「……どうして否定するの?」
エレンは視線を反らし、呟くように言った。その声には悲しげな色が滲んだ。寄る辺のない気持ちに彼女の肩はわずかに落ち、唇を結んで視線を下に向けている。
辺りを重苦しい静けさが支配していた。
ひとつ息を呑む音がしてから、張が口を開く。ためらうようなその音を聞き逃すエレンではない。
「──ああ、まァ……、実は一度、見舞いに行った」
張は笑みを浮かべた。その笑みはすがすがしいまでの愛想笑いだ。
それを見たエレンは確信する、やっぱり夢なんかじゃなかったのだ、と。だけど、あの唇の感触は? 疑問は口に出せなかった。
黙り込んだエレンを前に、張が区切りをつけるようにため息をついた。
「……お前は目を覚まさなかったがな。あんまり苦しそうだったんで、薬を飲ませた」
「えっ……?」
ドクッ、と叩かれたように心臓が大きく揺れる。急速に速まる鼓動に、エレンは動きを止めた。
張はゆっくりとソファから立ち上がると、エレンの側へ歩み寄ってくる。
「ち、張……」
エレンの前まで来た張は、何も言わずただ彼女を見下ろしている。
ひどくきまりが悪く、エレンは彼から視線を逃がすように足元へと投げた。すると、張はエレンの座るソファの背もたれに両手を突き、身を屈めるようにして顔を寄せてくる。それでもエレンは彼と目を合わせることができずに、悪あがきのように顔を背けていた。
「……お前が気付かなければ、俺はもう少しこのまま、今まで通りでいてもいいと思ってたんだが、な」
「……え?」
ぼそりと彼が独り言のように呟くのに、思わずエレンは顔を上げた。
「お前と駆け引きを楽しむのもいいもんだと思ってたんだが──意外に早く終わっちまったな。
俺の負けだよ、エレン。
「どういう……意味……」
至近距離で見つめられて、エレンの視界には張しか映らない。後退ることもできずに、あの時と同じ紫煙の匂いを感じながら、 ただ張のサングラスに映る自分の顔を見上げていた。
「あのときお前に、俺は薬を飲ませたのさ。こうやって、な──」
その言葉が終わらないうちに、エレンの唇に柔らかいものが押しつけられる。それが張の唇だと、一拍遅れて気付いた。
「ん……、!」
驚きのあまり抵抗を忘れたエレンの顎を掴むと、張は角度を変え、唇を塞いだ。
触れ合わせては離す、張のその唇からは、ウイスキーの味がする。ジタン・カポラルの匂いがする。
「っ、…………」
呼吸が乱れ、目の前がクラクラして、ようやくエレンは張を押し返そうと彼の胸を叩く。だが、抵抗虚しくあっさりと両手は絡め取られ、ソファの背もたれに固定されてしまった。そして、少し離れた唇同士の距離が、すぐにまた縮められる。
顔を離そうとしても、張の手がしっかりとエレンの顔を固定していて逃げることができない。張は唇を触れさせて、包み込むと、吸い寄せるようにして口づけてくる。
そうされているうちに、エレンは頭の芯が痺れるような妙な気分を感じ始めていた。
それはまるで、彼と触れているところから自分が溶け出していくかのような、感じたことのない不思議な感覚だった。心まで奪われてしまうような、とても言葉にはできない甘美な感覚だった。
「っ、……はぁ、っ…………!」
ようやく張が唇を離すと、解放されたエレンは思い切り酸素を吸い込む。
まるで熱でもあるかのように、顔が熱かった。怪我で寝込んでいたあの時と同じ、頬の熱感。
それでもあの時と違うのは、感じたことのないくすぐったいような胸の高鳴りと、充分すぎるくらいの甘い余韻が唇に残っていることだ。
まるで頭の中まで小さく痺れているようで、言葉を発することもできなくなる。エレンはただ、彼を見つめた。
硬い視線を張に向けたままのエレンのその瞳は揺れている。まだ肩で息をしながら彼女は驚きと怒りがない交ぜになったような気持ちでいた。
「ずいぶんと初心な反応をするな」
張は自身の口元についたエレンの口紅を拭いながら、いつも通りの意地悪そうな口調で囁いた。
「まだまだガキのお前にゃ、俺のキスは少々、刺激が強かったかね?」
「な、っ……⁉」
エレンの顔が瞬間的に真っ赤になり、張をめがけて手を上げる。
パン、と小気味良い音を響かせて、エレンの平手が張の頬を打った。
張は一瞬だけ動きを止めたように思えたが、みるみる赤くなっていく頬にも構う様子もなくエレンの方に向き直ると、再び距離を詰めようとする。
再び、エレンが手を振り上げる──が、その腕を張が掴んだ。
「っ……!」
張はエレンの勢いを利用し、まるで自然の流れのようにその動きを制した。およそ力を掛けているようには見えないのに、エレンの鮮やかな動きは一瞬で封じられ、彼女の背中はあっという間にソファに沈んでいた。
張は組み敷くようにしてエレンの上に覆いかぶさり、彼女を覗き込んだ。
「そんなことしてどうする? お前は俺にゃ敵わん」
張はエレンの耳元でわざと囁き、喉の奥で笑いながら、まるで彼女の反応を楽しんでいるかのようだ。
その笑みの影で何を考えているのかは、エレンには全く読めなかった。ただ、彼の肩越しの天井に映る光の模様が、やけに印象的に映った。
「……からかわないで」
「どうだかな」
「冗談なら度が過ぎるわ……どうして、こんなこと──」
「……さあな。……お前に惚れちまってるから、なんて言ったら、信じるのか?」
そんな言葉を耳にした瞬間、エレンの心の中にはある思いが湧き上がる。
──また、からかわれている。今夜はずっとそうだ。いや、今夜だけじゃない、これまでだってずっとそうだった。彼の一挙一動に振り回されている自分が馬鹿みたいに思えてきて仕方がなかった。
エレンの目には、張はいつも冷静で余裕があるように見えている。それが彼が自分よりも年上だからなのかは分からない。しかし、張がまるで全てを見通しているかのように振る舞うことに、エレンは苛立ちを覚えていた。
彼にからかわれるたびに、そして彼に上手くたしなめられるたびに、自分が子供扱いされているような気がしてならないのだ。
エレンは彼を精一杯睨みつけて、語気を強める。
「貴方っていつもそうよね。これまでもずっとそうだった。そんなふうに、いつもいつも私をからかって楽しんでるだけなんだわ」
「ほう、そう見えるか。……それならそうでも俺は一向に構わんがね」
この上ないくらいに尖らせたエレンの声音も、張には効かない。彼はフンと鼻を鳴らし余裕の笑みを返すだけだ。
「俺はな、エレン。お前を俺のものにしたくなった。いや、すべきだと決意したんだ。今夜、はっきりわかった。
お前との関係はこのままでいいと思ってた、ついこの間まではな。だが、もうこれ以上は耐えられそうにない。
お前はずっと
なぁ、エレン。このままじゃ、いつまで経っても進めはしないし、今さら戻ることだってできやしない。
だから、俺は自分のしたいようにすることにしたのさ」
エレンは張の言葉の意味が判らずに 、ただ彼を凝視するだけだ。
「
続くその一言は、まるでずる賢くエレンの反応を伺うようで、彼女をますます苛立たせた。
張のその言葉には、いつもよりも真剣な音が確かに含まれていたのだが、エレンはそれに気付かない。彼女の表情はますます険しくなっていく。
張はその様子に構うこともなくサングラスを外し、傍らのテーブルの上に置いた。エレンがハッと顔を向けると、張の瞳が彼女を見つめていた。静かな熱を帯びたその瞳が、真っ直ぐにエレンを貫いた。
揺れることのない落ち着いた張の瞳が、エレンを捕らえて離さない。その双眸には迷いはなく、動揺など微塵も感じられなかった。
「わた、し、は──」
それきり言葉が継げなかった。
この瞳に見つめられると、逆らえない。まるで自分の心も身体も、彼に支配されているような気分になる。
それでも、その目に見つめられることは不思議といやではなかった。むしろ──……
時間が止まったかのように、エレンは張の瞳をぼんやりと見つめ続けた。なぜ、胸がこんなに熱くなるのか。胸の底がチリチリと焼け付くような熱がくすぶって、だんだん大きく広がっていくようだ。
逃げ出したいくらい恥ずかしいのに、ずっと彼の瞳に映っていたい。
自分だけが心を掻き乱されていることが悔しくてたまらなくて、思い切り彼を突っぱねてしまいたい。なのに逃げられない。この先を知りたい気持ちに、抗えないのだ。
どれくらい見つめ合っていたのか、わからなくなるくらいそうしていた。
再び、張の顔がゆっくりと近付いてきて、エレンはそっと目蓋を閉じる。
意外なくらいに柔らかな彼の唇が、エレンにそっと触れた。先程は気づかなかった、彼の唇の柔らかな感触。
触れ合う唇の感触は、胸の奥に生まれた熱を小さな火へと変えて、それはあっという間に燃え移り、そしてもはや消し止められないくらい大きな炎へと変化させていった。
それは持て余すくらいに心の奥で渦巻いて、その思いに衝き動かされるように、エレンは両腕を伸ばして張の背中に回すと、きつく抱きしめた。
彼の温もりに触れ、彼の身体の重みを感じたとき、なぜか生きている実感のようなものが湧いた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように震えて、そしてそれははっきりと、エレンに心の奥の想いを認めさせた。
(──好きだわ、この人が。私は、この人が好き。)
そう気付くと同時に、今までに感じたことのないくらいに胸が締め付けられるような甘やかで切ない感情が湧き上がってくる。
同時に、悔しさのような思いも滲み出した。
どうせ自分だけがこんなに想っている、彼は冗談を言いながらこうしてはぐらかし続け、きっと気まぐれに相手をしてくれるだけだ。彼ほどの人が、自分を相手にするはずなど、ないと思っているのに。
なぜなら、彼はエレンよりずっと大人だから、大きな組織のボスだから、立場があるから、住む世界が違うから。
その事実はどれも、これまで自分の気持ちに気づかないふりをするのにちょうどよかった。そうやって言い訳を重ねに重ねて、いつも気づかないふりをし続けてきたのだ。この距離感が、関係が、エレンには心地よかったから。踏み入って、拒絶されるのが怖かったから。
だけど、もう引き返すには遅かった。
好きな人に触れられることは、こんなにも幸せな気持ちになれると知ってしまった。
そう、これが一晩限りでも構わないとすら思えるくらいに。
唇はまだ離れない。
ジタンの香りに酔い痴れて、エレンは、脳が甘く痺れているかのような陶酔感に逆らわずに身を浸した。
息継ぎのために薄く開いた口から、そっと張の舌が滑り込みエレンのものと触れ合った。
「ん……」
自分の口の中で巧みに動き回る熱い張の舌に翻弄されながら、エレンはいつか見た彼の唇に挟まれた煙草を思い出していた。
彼がもてあそぶようにくるりと舌で回したその煙草は、今の自分の舌と重なって思い出された。
そんなことをぼんやりと考えていると、ふいに、張が離れる。
「……っ、張……? きゃ……!」
突然に浮遊感がして、エレンは驚きに声を上げた。
軽々と抱き上げられて、エレンは思わず張にしがみついた。張は悠々と笑って、そのまま足を進める。
客間だろうか、隣室の広いベッドの上にエレンは下ろされた。シーツの冷たさが肌に広がる。
覗き込む張の瞳は、やはりいつもどおりの余裕を湛えていた。
「……逃げるんならこれが最後のチャンスだぜ、エレン」
エレンは黙って微笑むと、言葉を封じるかのように、張の唇に人差し指で触れる。自分の手が震えていないかが心配だった。
「……怖いか?」
「いいえ……怖くなんかないわ」
余裕のふりをして微笑む、そんなエレンに気づいているのかいないのか、張はふっと息を吐くように笑って、唇に当てられた彼女のその指に口付けた。
唇を押し当て、そっと舌で舐め、口に含んだ。 軽く吸いながら唇を離すと、張は改めてエレンのヘイゼルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
エレンの瞳は、潤んで揺れている。
ガラス玉のように透ける彼女のヘイゼルの瞳は、張と同じ熱を帯びている。
その瞳で、エレンも彼を見つめた。
そして、エレンは唇にやわらかな微笑みを浮かべる。
こんなに真近に彼がいて、今は自分だけを見つめている。彼の瞳には自分だけが映っている。
ずっと見ていた彼の手が自分に触れる。想像よりずっと優しく、自分を撫でる。
このことをどれだけ望んでいたか。願っていたか。この瞬間になって初めて分かる。
(ずっと、こう、したかったんだわ……)
そして、両の腕でこうして彼を抱きしめることができる。彼の温もりに触れられる。このことがどんなに素晴らしく、愛おしいことと思わずにはいられない。
──なんという幸福か、と。
その幸福は、エレンの胸の奥で葉の上の朝露のようにきらめき、そしてひとしずく落ちて、じわりと波紋を広げて染み渡っていく。
(ああ、私……しあわせ、だわ……)
じわりと涙が滲むのがわかった。
素肌が重なる。素足が絡まる。指先と指先が結びつく。
彼の額の汗さえ、エレンにとっては愛おしく思える。
そして────
二匹の魚はシーツの波の中へ沈んでいき、やがてその姿をすっかり隠してしまった。
***
薄暗い室内を満たす静かな空気は、まだ冷めない熱を孕んでいるようだった。
ライターの蓋を開ける高く澄んだ金属音が、静かな空気を揺らした。そして小さな炎が煙草の先端をちりちりと焼いて、ベッドの縁に腰掛ける張の顔を微かに照らし出した。
張は紫煙を大きく吐き出すと、自身の乱れた髪を撫で付けながらエレンを振り返る。
「……何か欲しいものはあるか?」
「お水…………」
柔らかな枕に顔を埋めたまま、エレンは小さく答えた。脱力感が酷く、身体を動かすことも億劫なくらいだった。喉が乾いて、張り付くような感覚が苦しい。
呼吸もまだ整わないまま、心臓は駆け足で鼓動を打っている。
「いま持ってきてやる」
張は床に落ちた自身のスラックスを拾い上げ足を通すと、部屋を出ていった。
その背中を見つめながら、エレンは思う。
きっとこれだって、享楽的な彼の遊戯のひとつ。だから好きだなんて、言ってくれはしないのだろう。
それなら自分だって、そう、想いのすべてを口に出す必要なんてない。
だから、絶対に口に出すものか。好きだなんて言ってやるものか。そう心に決めてエレンは瞳を閉じた。
「……大嫌いだわ、」
_____
( In einem Meer aus Laken geschwommen und ertrunken)
(シーツの海を泳いで溺れた)