死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第5話 はじまることを知らない(それぞれのその後)

 エレン・リーフェンシュタールはいつも、夜の帳が下りるころには必ず部屋の全てのカーテンを閉めることを習慣にしていた。

 それは殺し屋として身の安全のためもあり、なにより女の子としてプライベートな空間が外から見えないようにという理由でもある。

 一日が終わり、愛銃の整備をするときはいつも、ラジオから流れるシティ・ポップスを口ずさみながら自分一人の空間を楽しむのだった。

 

 エレンの暮らすアパートの窓ガラスは、防弾というわけではなかった。だから、安全性を付加できる何かがないかと通信販売のカタログを捲っていたとき、非常に機能的なカーテンが目についた。特殊な繊維で編まれた防弾仕様であり、しかも落ち着いた色合いも美しいアラベスク模様の柄も好みだったので、彼女は即座に購入を決めた。

 防弾と中が透けないプライバシー保護を両立した素敵なカーテンを手に入れて以来、より頑丈な安心感を手に入れたのだ。

 

 分厚いそのカーテンは陽の光もよくカットしてくれる。だから、エレンが朝ベッドの中で目を覚ましても、まず目に入るのは薄暗い室内である。

 もしカーテンというものが存在せず、いきなり太陽の光に晒されたら、きっとダメージを受けるのではないか、まるでドラキュラ伯爵のように。そう考えて、彼女は馬鹿馬鹿しくなってひとりで笑ったこともあった。

 

 

 目蓋が温かい。

 ──ゆっくりと開かれたヘイゼルの瞳に、朝の光が眩しく映る。まるで目を焼かれるような気分になって、エレンは反射的に目蓋を閉じた。

 

 室内に差し込む朝の陽の光は、昼間の太陽光よりも透き通っているようで眩く、目を刺すようだ。

 

(……夕べ、カーテンを閉め忘れたかしら?)

 

 柔らかなベッドの中、サラサラした肌触りの良いシーツに包まって、エレンは半分眠ったままの頭でそんなことを考えた。

 夢から覚めたばかりで処理能力の低下した脳では、昨夜のことだってはっきりとは思い出せない。

 しかし、鈍く働かない頭とまだ眠気が残る重い身体でわかるのは、ただ、ぼんやりした幸せな余韻のようなものが全身を包むように残っているということだけ。

 

 カーテンの隙間から漏れ込む朝陽が、絨毯の上に光の模様を作っているのが見える。とても綺麗だとエレンは思った。

 目に映るものが輝いて見える。そう、まるでなにもかもが新しい朝のように。

 

 そんな幸せな気分に包まれたまま、再び目を閉じて穏やかな呼吸を繰り返していたエレンは、ふと自分の背中に何か温かいものが触れるのを感じた。

 それは、ひどく優しい感触だった。とても大切なものを愛おしむかのような、まるで愛しいものを撫でているような、そんな感触。背中全体を包み込みながらそっと触れてくるそれが何なのか、気になって目蓋を開いてみた。

 すると見慣れぬ室内の様子が目に映り、エレンは首を傾げる。

 

(……ここは? ……私……?)

 

 体を起こそうとしたが、身体の違和感に動きを止められ肘をついた。

 

「おはよう、エレン」

 

 背後から、低く硬質な響きを持つその声が聞こえてきた。

 エレンが思わず振り返ると、隣りで衣服を身に着けず煙草をくゆらせる張維新(チャン・ウァイサン)の姿があった。

 

「ち、張⁉ なんなのその格好は!」

 

 目覚めたばかりの頭はどうやらまだ役に立たないようで、状況が飲み込めず取り乱すエレンのその姿に、笑いを堪え切れなかったらしい張は声を上げて笑った。

 

「……ハッハッハッハ!」

 

 ポカンと見つめるエレンはまだ分かっていないようだ。笑いが収まらないまま張は言葉を続けた。

 

「そういうお前も、俺と寸分違わぬ格好をしてるぜ?」

「え……」

 

 思わず自分の身体を見下ろしたエレンは自分の一糸纏わぬ姿を見て、慌ててシーツの中に潜り込んだ。羞恥心に襲われ、その身を隠すように、頭まで被ったシーツを掴んで丸まる。

 

 ──そうだ、ここは張の自宅だ。

 エレンの頭の中には段々と昨日の記憶がよみがえってくる。 ──熱い一夜が。

 

「エレン? かくれんぼか?」

 

 張の呼び掛けに答えずじっと身を潜めるエレンを、探るように伸びてきた彼の手が掴み、シーツから引きずり出した。そしてそのまま、寝転んだ張の身体の上に乗せられる。

 素肌と素肌が重なる感覚に夕べの出来事が思い出され、エレンは頬が熱くなるのを感じていた。感触を確かめるように肩から背中を撫でる張の手に、落ち着かない気持ちで目線を彷徨わせながらもじもじと身じろぐ。

 そんなエレンを見上げて張はからかうように言った。

 

「まだ足りないなら、喜んで相手するぜ?」

「……ばか」

 

 やはりこの男の減らず口は変わらない。そう思いつつ、エレンはふくれっ面をしながらもまだ熱い頬を張の肩口に押しつける。

 すると、おもむろに張の手がエレンの頭に置かれ、そのまま髪を撫で始めた。彼の手のひらの重みが伝わって、じんわりと安心感が広がる。

 エレンは心地好さに思わず目を細め、溜め息をつく。彼の肌のその温もりをもっと感じたいと思い、顔をすり寄せるようにすると、「可愛いやつだな」とからかうような声が聞こえた。

 撫でられる感触に誘われるように、エレンは目を閉じた。まだ眠気が残っているようで、未だに頭はぼんやりしているし、目蓋が酷く重たい。

 その様子に、張は気づいていたようだ。

 

「まだ時間も早いぜ。もう一眠りしたらどうだ?」

「うん……」

 

 エレンは思う。

 この睦みは一回きりかもしれない。次に目を覚ます時にはきっと、温もりは消えているんだろう。

 だけど、張と夜を過ごして初めて他人の肌の温もりを知ったとき、自分が生きていることを実感した──幸せだと思った。自分のような殺し屋風情に許されない感情だということは理解している。だが、今だけは許してほしい。

 こんなふうに好きな人の温もりに触れながら眠りに落ちることは、なんて幸せなのか。これまでに知らなかった感情だ。抱きしめられた腕の中で感じるこの穏やかな気持ちは、まるで夢の中にいるようだ。もう少しだけこのまま、夢が覚めなければいいのに──

 

 そう祈るように願いながら、エレンは頭を蕩かすような睡魔に逆らわずに、張の胸にその身を預けて目蓋を閉じるのだった。

 

 **

 

 腕の中のエレンが寝息を立て始めたのを見届けて、 張は観察するように向けていた視線をようやく彼女から外した。

 彼女の寝顔は穏やかで、まるで天使のようだった。普段は凛とした雰囲気の美女であるが、こうして眠る姿には年相応のあどけなさが残るようだ。

 自分の腕の中で眠る、エレンのその姿。

 寝乱れた亜麻色の髪が少し絡まっていて、そのウェーブヘアーにはいつもに増してボリューム感があり、まるでふわふわの綿のようだった。その様子が面白くて、張は思わず笑みを浮かべた。

 エレンが起きていたら間違いなく怒られるだろうと、そう思うとますます口元がニヤけた。

 

 不思議と、前にも増してエレンが可愛く見える。

 そっと抱き寄せ、こっそり額にキスをしたあと、エレンが寝ているか確認した。彼女の寝顔を見ていると心が温かくなるのを感じた。そんな自分に気がついて、張はやれやれといった風に自分の頭を掻く。

 

「──らしくないな。どうしちまったんだ、俺は」

 

 張は困惑した様子でそう言いながら、短くなったジタンを灰皿に押しつけた。

 

 ***

 

 それから数時間後。

 ロアナプラの真昼、太陽は高く登り、今日も気だるい熱気が漂う。

 

 ただこの場所、張のペントハウスはまるで別世界のような適温に保たれている。熱河電影公司ビル全体がそうなのだが、空調が非常によく効いているのだ。

 

(──いつもここにいられたらいいのに)

 

 エレンの暮らすアパートは隙間が多く空気が逃げてしまい、冷房を使用してもあまり意味がない。おまけにその冷房は先週、黒い煙を吹いたのを最後についに動かなくなり、修理を頼まなければならなくなった。

 

「う〜ん……」

 

 エレンはシーツの中で大きく伸びをする。裸でいたためか、少し身体が冷たいと感じた。

 

 隣りには、張の姿はない。少し寂しさを感じて、ため息をつきながら広いベッドから体を起こす。

 昨晩は気づく余裕などなかったが、改めて見ると大きなベッドだ。クイーンサイズと呼ばれるものだろうか? はたまたキングサイズなのか。エレンの自宅のものと比べると倍くらいはありそうな代物だ。

 手のひらで感触を確かめるように撫でてみるとシーツも上質で、肌に張り付くことのない絶妙なシャリ感がありながら、するっと滑るような滑らかさも備えていることがわかる。ベッドサイドの灰皿には、張が吸ったあとの煙草の吸殻が残されていた。

 二つの大きな枕は、沈み込むようなとろける柔らかさで、エレンはその贅沢さに驚く。そして誰も見ていないかキョロキョロと辺りを見回したあと、張が頭を乗せていた方の枕に顔を埋めた。押し出された空気がバフッと音を立てて、勢いよく辺りに広がる。

 

(──いい匂い。……彼の、匂いだわ)

 

 ふと、張のものであろう、短く黒い髪の毛が落ちていることに気づく。エレンはそれをまじまじと見つめた。

 自分のものとは違う色をした見慣れない抜け毛に、彼の存在を強く感じる。

 

(……当たり前だけど、東洋の人の髪は一本一本が本当に黒いのね)

 

 ひとしきり張の痕跡を堪能したあと、エレンはようやく周囲を見渡した。

 ベッドの隅に、昨夜ドレスに着替える前に着ていたエレンの服が一式、畳んで置いてあることに気づいた。

 

 ベッドから身を乗り出すと、無造作に床に放り出されたままの下着を拾い上げ、身に纏っていく。

 

(たった一度こうしただけで、特別扱いされるわけでもないわね。ええ、分かっているわ、エレン)

 

 自らを戒めるように心のなかで呟いて、エレンはそっと目を伏せた。

 ──彼のぬくもり。まだこの身体に残っている。

 張の温かく逞しい腕が自分を抱きしめてくれた。まるで大切なものとして扱われていると勘違いしてしまいそうなくらい、優しく口づけをしてくれた。そして、自分と同じ熱で触れてくれた。

 

 それを思い出すだけでも心の中がじんわりと温かくなるような反面、まだドキドキと小さな鼓動が心臓を揺らしている。胸の奥で、ときめきと穏やかさが同居しているかのような不思議な感覚だ。

 そんな気持ちに浸っていると、ふいに物音がしてドアが開け放たれる。

 

「ようエレン。二度寝が長かったな。ようやくお目覚めかい」

 

 エレンは少し驚いて声の方へ目をやった。 二つのグラスとウイスキーの瓶を手にした張が、 入り口のドアに(もた)れるように立っている。

 

「今……何時?」

 

 気怠い甘さを振り切って、エレンはベッドから立ち上がった。

 

「ああ、十一時を回ったところだ」

 

 腕時計を見ながら張が返す。

 室内は、大きな窓から差し込んだ真昼の陽光で溢れている。眩しさに目を細めながら、エレンは窓の外に視線を投げた。それから、簡素に言う。

 

「帰るわ」

 

 張は窓際のカウチに深々と身を預けると、咥えた煙草に火を着ける。そして、最初の一口を思い切り吐き出したあと、あっさりと答えた。

 

「そうかい」

 

 エレンの背中を視線で追いながら、彼はグラスに注いだウイスキーを煽る。

 

「エレン」

 

 ドアノブに手をかけたエレンの背中を、張の声が呼び止めた。エレンが振り返れば、煙草を噛んでいつもの飄げた笑みを浮かべる彼がいる。

 

()()()()()

 

 エレンは呼吸を止めて、サングラス越しの瞳を見つめ返した。そう、彼のこんな態度にはもう慣れたはずだ。

 

「……ええ、()()()()()()()

 

 軽くそう言い、エレンはウィンクを一つ贈ると部屋を後にした。

 

 

「あ、エレンさん、……こんにちは」

 

 エレベーターホールに立っていた黒服が、どことなく気まずそうに顔をそらして挨拶をする。

 

 エレンは苦笑して、 挨拶もそこそこにエレベーターに乗り込んた。

 

 

 ***

 

 最上階から、地上に降りたはずのエレンの姿を探して、張はぼんやりと視線を彷徨わせていた。

 しばらくの後、ようやく窓際から離れると、腕組みをして首を捻る。

 

 ──エレンの笑顔が頭に焼き付いて離れない。

 指の間には、彼女の柔らかなウェーブヘアーが通り抜ける滑らかな感触がまだ残っているようだったし、唇には、口づけたときのひんやりとした額の感触が蘇る。

 

 ──混乱していると言ってもいい。なぜこんなにも感傷的になっているのか、張には自分でも理解できなかった。

 

 手に入れてしまった。この手で。あの女を。エレンを。

 なぜこんなことを思うのか。誰かに執着するなんて、そんな気持ちがあるなんて思いもしなかった。

 張は短くなった煙草を灰皿に押しつけると、手持ち無沙汰を紛らわせるようにもう一本取り出した。火を着ける気にもなれず、ただ指の間で弄ぶ。

 

 生まれて初めて女を抱いたというわけでもないのに、なぜこんなにも心臓が高鳴る? 

 自分の感情に戸惑いながらも、エレンの女性らしいやわらかさ、手に吸い付くような白い肌、自分を真っ直ぐに見つめてきた潤み揺れるヘイゼルの瞳を思い返すと、心が沸き立つような思いだった。

 

「……俺は結局エレンとどうなったんだ?」

 

 ただ寝ただけか? 自分の気持ちは、これっぽっちも伝わっていないのか? これまでのエレンとの関係に、区切りのようなものをつけたと思っていたのは自分だけなのだろうか。

 女を抱くのに言葉遊びなんか必要ないと思ってきたが、やはり足りなかったのか? 

 

 張は自問自答しながら、エレンがあっさりと帰ってしまったことに驚きを隠せなかった。

 

「……あいつ、さっさと帰りやがったな」

 

 まさかときめいてるのは俺だけか? そう思い、張は苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべる。

 そんな馬鹿な。

 彼は大きくため息をついた。

 

 ──これは下手な裏取引よりも難しいかもしれん。エレン・リーフェンシュタールめ。

 

 

 **

 

 自宅に戻ったエレンは、カーテンを開いて窓から外を眺める。見慣れた風景と、振り返れば見慣れた室内。

 あまりにも色々なことが一晩のうちに起きたというのに、もういつもと何ら変わらない生活が始まる。

 

「あら、やだ。冷蔵庫の中、なんにもないじゃない……」

 

 結局パーティ会場では大して食事をしてないことを思い出した。突然に空腹感を感じたエレンは買い出しにいくことにしたのだった。

 

 刻一刻と色を変えていく空、海から吹き抜ける風がヤシの木を揺らす、南国の穏やかな夕暮れ時だ。

 フランスパンがはみ出す買い物袋を抱えて、エレンはいつもの道を歩く。

 

「ハーイ、エレン」

「元気?」

 

 道端に気怠げに佇む娼婦たちから次々に声をかけられて、エレンは気さくに返事を返す。

 

「まあまあよ」

 

 そして再び帰宅したエレンは、シャワーを浴びようと真っ直ぐにバスルームに向かった。色々なことが起こりすぎて疲れた心と身体を癒すために、早く温かい水に包まれたいと思っていた。

 しかし、ふと洗面台の鏡に映る自分の姿に目をやった瞬間、彼女はあることに気づく。

 

「……あら、これ……借りたままだわ」

 

 輝くイヤリングが両耳で存在を主張していた。

 まだ着けっぱなしだったのだ。エレンはそっとイヤリングを外し、手のひらに置いた。

 

「よくよく見ると、これも高そうね……」

 

 会場では浮かれていたせいもあり気にすることもなかったが、今改めて見ると、そのイヤリングがどれほど高価なものかがわかる。

 シンプルながらも洗練されたデザインのそれは、宝石の美しさを最大限に引き立てている。

 金具は細く繊細で、宝石を支える部分は細かな彫刻が施されており、その細工の美しさがイヤリング全体の高級感を引き立てている。エレンはその細部にまでこだわったデザインに感嘆しながら、イヤリングを手のひらで転がしてみた。

 潤んだような煌めきが美しい宝石だ。内側から光を放つかのようなキラキラとした輝きは、まるで海を閉じ込めたかのような深い青緑色をしている。

 その色に見覚えがあることに気づいたエレンは、ふと張のカフリンクスを思い出した。

 

「……同じ色だわ……張の、カフスと……」

 

 ドレスは張が選んだと言っていたが、イヤリングも彼が選んだのだろうか? まさか、お揃いにするために同じ色のものを選んだのだろうか? その考えが頭をよぎった瞬間、エレンの胸は高鳴り、頬が熱くなった。

 

「……もう……、どういうつもりなのよ……」

 

 エレンは心がぐしゃぐしゃに掻き乱されるのを感じて、渦巻く感情の捌け口に唇を噛み締める。嬉しさ、驚き、そして戸惑い。

 彼の意図を考えると、心臓がドキドキと早鐘のように打ち始めた。

 

 そしてもう一度、手のひらに置いたイヤリングをじっと見つめた。張との繋がりが感じられて、気恥ずかしい思いすら感じた。

 

「……張、貴方は、私のことを……」

 

 こんなふうに言葉や行動の端々に、彼の温かな気持ちが読み取れる瞬間がある。

 だが、期待して良いのだろうか、とエレンは考える。

 彼は自分と同じ想いでいてくれるのだろうか。それをどうやって確かめれば良いのだろうか。彼がたった一言、『好きだ』と言ってくれれば、こんなふうに悩むこともないはずなのに、一緒に過ごした夜の中で彼がその言葉を口にすることはなかったのだから。

 

(やっぱり……そういうことよね……これも彼の遊びのひとつなんだわ……。それでも、私は……)

 

 エレンは自分の気持ちに戸惑いながらも、少しでも冷静になろうと試みるのだが、一向に上手くいかない。

 

「……きっと、他の女の人にもこういうことをしてるのよ……私だけ、なんかじゃないんだわ……きっとそうよね」

 

 胸の奥に残る幸せな気持ちと、彼に対する期待と、勝手な想像をしたことで彼を憎たらしく思う気持ち──まさに愛憎入り交じる思案に、胸が苦しくなってしまうくらいだった。

 

 張に対する想いが、愛情が、強くなっていく。

 姿を見るたびに、声を聞くたびに、思い出すたびに心が揺れ動き、まるで、自分が自分でなくなってしまったような気分だった。

 

 **

 

 イヤリングを返すために、早く張に連絡をしなければと思いながら携帯電話を見つめるだけの時間が過ぎる。

 どんな顔をして彼に会えばいいのか、彼はどんなふうに接してくるのか? それが気になって、どうしても連絡を入れることができないでいた。

 

 ぼんやりと考えながら、エレンはトーストしたフランスパンにバターを塗り付ける。バターナイフがパンの固い表面を撫でるたびに、ガリガリザリザリと乾いた音が立つ。

 

 その音をどこか遠くに聞きながら、エレンは未だ残る、鈍い痛みのような違和感を身体に感じていた。

 

 あれから何度か感じている感覚──そのたびに思い出すのは、張の部屋の高い天井に映る微かな照明の影、清潔なシーツの匂い。

 

 初めて知った自分以外の人の味。

 頬の熱、汗と整髪料と愛飲の煙草の混じった匂い、のしかかる身体の重み、ふいに擦れた鼻先の温度、肌に食い込む少し硬い彼の指先、圧迫されて少し苦しかった呼吸。

 

 そして、誰も触れたことのないところに触れられたときの小さな痛みと、それ以上に胸がいっぱいに満たされるような幸福感。

 

 抱きしめた彼の肩や背中の素肌の手触り、耳元で感じた熱のこもった息遣い、背中の下で金属の軋む音。

 ぐらぐらと歪んでいく視界と、気持ちにそんな余裕がないはずなのに、やけにはっきり目に焼き付いた、見たこともない彼の苦しそうな表情──

 そんなものまでもが、目の前にあるかのように鮮明に思い出されて、エレンは急激に頬が熱くなるのを感じた。顔から火が出そうな思いだ。

 その拍子に、バターナイフがするりとエレンの手から滑り落ちた。それは耳障りな音を立ててフローリングに叩きつけられる。

 

「あぁ、もう……」

 

 身を屈め拾い上げたとき、ゴツンとテーブルに額をぶつけた。

 

「いっ、た〜い」

 

 赤くなった額を撫でながら、エレンはため息をつく。

 

「……だめね、私」

(別に、彼はなんとも思ってないわよ、きっと)

 

 自然と肩が落ち、再びため息が漏れた。

 

(こんなこと、なんとも……)

 

 感情を、そしてリアルな欲をぶつけられるというのは、こんなにも火傷しそうなくらいに熱くて、焼け付きそうにひりひりとして、心が疼くような切ない気持ちになるものなのか。

 

 彼のことばかり考えている、あれからずっと。

 

「……これが、恋……なのかしら……本当に……」

 

 エレンは熱に浮かされたようにぼんやりとした目つきで、窓から差し込む月明かりを眺めていた。

 

(誰か……教えて)

 

 時間が経つにつれて薄らいでいき、消えてしまいそうな記憶の中の温もり。

 それを繋ぎ止めたいと思った。

 さっき別れたばかりなのに、もう、彼が恋しかった。

 _______

(Voi che sapete)

(恋とはどんなものかしら)

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