中身を大切そうに包む布を剥がすと、姿を表したのは一対のイヤリングだった。オフィスの煌々としたシーリングライトの照明を受けて、その青緑色の宝石は光を反射して細やかにきらめいている。
「ごめんなさい、これ……返すのを忘れていて」
そう言ってエレンは手のひらを
「なんだ、そんなことか。気にするな。なんならお前にやるよ。俺が持ってても仕方がないしな」
「でも……こんな、高価なもの……」
エレンは言いよどむが、張はいつもどおりにゆったりと笑っているだけだ。彼は
「報酬のプラスアルファだとでも思えばいい」
「そんな……報酬だって充分な額を受け取ったわ。依頼の内容にしてはね。あんな……」
途中でエレンは言葉を濁した。楽しいだけの依頼なのに、とは言えなかった。
まだ納得しない様子のエレンに、張が重ねる。
「ならこうしよう。それはお前に預けておく。だから、またそのイヤリングをつけているところを俺に見せてくれ」
その言葉にエレンはキョトンとした表情を浮かべる。見開かれたヘイゼルの瞳に、シーリングライトの光が映り込んで瑞々しく輝く。
「ああいうパーティみたいなもんは、しょっちゅうやってるんでな。また一緒に来てくれりゃあいい。どうだ?」
張のその言葉を聞くと、みるみるうちにエレンの目はやわらかく細められ、唇は笑みの形へと変化する。その表情はなんともいえない嬉しさに輝いていた。
「……ええ、わかった。いいわ」
なるべく平静を装おうとしているつもりでも、その笑顔からも声からも、弾むような喜びの感情が今にも溢れそうだ。
そんな彼女を見つめながら、張は口元に満足そうな笑みを浮かべていた。
エレンは改めて手のひらの上のイヤリングに視線を落とす。
──これは、張からのプレゼントみたいなものだ。初めて、こんなにとても大切だと思えるものができた。
それが嬉しくて、エレンは愛しいものを見つめるかのようにイヤリングに視線を注いでいた。しかし、ふと張の視線を感じて我に返る。彼に見られていることに気づき、恥ずかしさと照れが一気に押し寄せてくる。エレンはその感情を内緒にすべく、そっと視線を逸らした。
いつもどおりにサングラスに隠された張の眼差しだが、それがエレンには少しだけ優しく感じられるようだった。
途切れた会話の手慰みに、張は自分の襟元に指をやり、掻くように触る。
何気ないその仕草に目を引かれたエレンは、彼の首元に視線を向けた。すると、あの晩に見た彼の首筋から鎖骨がまざまざと頭の中に浮かんでくる。
──彼のあのスーツの下には、あの肌があり、あの体温がある。ずっと知らなかったはずの彼の姿を、今はもう知っているのだ。それは張とエレンの
そう思うとエレンには、見慣れたはずの彼のスーツ姿が、突然、恥ずかしいものに変化したような気分になってしまった。
(何を考えてるの、エレン!)
ぶんぶんと左右に頭を振る。
「なんだ? どうかしたのか?」
「いいえ!」
エレンは慌てて取り繕う。可笑しなことを考えているなんて、彼に気づかれたくなかったからだ。あれから少し落ち着いたと思ってたが、やはりこうして顔を見ると、気恥ずかしいような気分になってしまう。
そのウェーブヘアーを指に巻き付けてそわそわと
張は少しだけ不思議そうな顔をしながらも、いつもの悠然とした態度でエレンの方に視線を投げている。それを見ると、エレンは悔しさのような感情が湧いてくるのを感じるのだった。やはり彼は平気な顔をしているのに、自分だけが意識しているのだと。
(ほらね、彼はなんとも思ってないのよね)
胸の奥にズキンとした小さな痛みを感じる。
あの温もりは一夜限りなのだろう。それでもいいと思ったはずなのに、こうして彼を目の前にするとその気持ちは霧消してしまう。また彼に抱きしめてほしくなる。また彼に触れたくなる。
この感情が一方的なものだと予想はしていたことだけど、やはり落胆しそうにもなる。寂しくて切なくて、胸が締めつけられるようだ。恋というものがこれほど苦しいものだなんて、想像もしていなかった。
エレンはため息を飲み込んだ。
「……じゃあ、用事は済んだから私は帰るわね」
そう言い踵を返したエレンの背中に、張の声が投げられる。
「なあ、エレン。
……久しぶりに、どうだ、メシでも食いに行くか?」
「えっ?」
エレンは弾かれたように振り返った。
「いや、別に無理にとは言わんが」
張は少しだけきまりが悪そうに、そう付け足した。
「行くわ!」
エレンは間髪入れずに答えた。考える必要もなく、反射的に答えていた。その勢いに張の方が驚いたように目を
しかし、すぐにいつもの調子に戻り、彼は言った。
「なら決まりだな」
***
ロアナプラの夜景が、車窓を流れていく。
楽しい食事の余韻と、別れの寂しさにエレンの心は揺れていた。
車内の静かな空気を割ったのは、張の声だ。
「あー……、エレン」
「……なに?」
「寄ってくか、このあと。俺の部屋に」
エレンは思わず張の方を見た。彼は相変わらずのポーカーフェイスで煙草を
エレンは膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、肩をすくめた。嬉しさと照れを精一杯隠しながら、できるだけ素っ気なく返事をしたつもりだ。
「……ええ」
張の家、煙草の匂い、照明の色、ここに来るのはまだ二度目なのに、エレンにとって妙に見慣れたような感覚があった。
「何か飲むか?」
「ええ……じゃあ……その……、烏龍茶なんか……は、あるかしら?」
棚を漁りながら張が答える。
「あいにく、烏龍茶はないな。次までに用意しとくから、今はそうだな……茶なら、紅茶で我慢してくれ」
次回を期待させるその言い回しに、エレンの表情がぱあっと明るくなる。
「もちろんよ」
最上階フロアを独占する張の邸宅は、天井が広く開放的だ。部屋の隅には階段があり、1階・2階に別れた階層構造──いわゆるメゾネット式だということが分かる。
間接照明がぼんやりと灯るリビングルームは広々としていて、テーブルの上には雑誌や新聞などが無造作に置かれていた。
(……中国語の新聞だわ。なんて書いてあるのかしら……)
湯気の立つティーカップを手に、エレンはテーブルに視線を落とす。ひと口含んだ紅茶は、本来の香りをすっかり失っていて、風味の余韻もほとんど残らず、美味しいとはお世辞にも言い難い。
どうやら張も同じことを思っていたようだ。
「……不味いな。湿気た味がしやがる」
彼はすぐにカップをテーブルに戻す。
「しばらく飲む機会がなかったもんでな……。悪いな、エレン」
「いいえ。……せっかく淹れてくれたんだもの」
エレンは首を振って答える。そして、カップの中身をぐいと飲み干すと、彼に向かって微笑みを見せた。
張も笑みを浮かべて、それからゆったりとした動作でソファの背もたれ──エレンの背後に腕を回す。
彼との距離が縮まって、気恥ずかしい気持ちに顔を上げられなくなってきたエレンは、足元に視線を落とし姿勢良く座っている。
「なんだ、エレン。そんなに固くなるなよ」
「えっと……ごめんなさい」
「可笑しな奴だな」
そう言って張は困ったように眉を下げて笑った。
少しの間のあと、彼の手のひらがエレンの頭の上にポンと置かれる。そして、エレンの亜麻色の髪を撫でながらその緩やかな流れを辿るように、張の手が優しく降りていく。
「……」
エレンの頬が赤く染まるが、そのまま俯いているしかない。彼の手のひらの温度を感じて、胸の奥は喜びと期待で一杯になる。このまま彼の腕の中に飛び込めたなら、どんなにいいだろう……そう思った瞬間だった。
今度は彼の手が、エレンの背中をぽんぽんと叩く。
「……っ、⁉」
「ほら、力を抜けよ。そんなに
朗らかに笑って張は続ける。
「俺はお前を緊張させたいわけじゃあないんだがな」
その言葉にエレンの口元にも笑みが浮かぶ。
「……うん、そうね」
肩の力を少しだけ抜いたエレンは、張にもたれるように寄りかかる。彼の腕の中で肩を抱かれるような体勢になった。
お互いの呼吸音が聞こえるくらい静かな部屋だ。張の手のひらが、エレンのノースリーブの服から覗く滑らかな肩を、そして腕を辿るように緩慢に動いている。
そうして撫でられる心地よさに、少しだけ気持ちが落ち着いてきたエレンは、そっと目蓋を下ろした。彼の体温を感じながら、心地よいドキドキ感と安心する気持ちの入り混じった感覚にエレンは身を委ねていた。
ふと、張の手のひらがそっとエレンの頬に触れて、そのまま彼の方を向かされる。
あの夜ほどではないが、心臓は少しばかり
恋をすると皆こんなにも愚かになるのだろうか、そんなことを考えていると、張はようやくサングラスを外して、エレンの瞳を覗き込む。
(……ああ、好きだわ、この瞳……)
一見、黒に見えるが、近くでよく見ると焦げ茶色をした張の瞳。暗い色のその瞳は落ち着いた穏やかな色を滲ませている。少しだけ目尻の方が垂れた目蓋の形は、彼をどことなく若く見せているようだった。普段は、暗いレンズのサングラスのせいで威圧的に見えているだけなのかもしれない。
張は優しい手付きでエレンの頬をそっと撫でている。彼女のそのきめ細かに輝く肌の感触を楽しみ、愛おしむかのように。彼女がくすぐったさに少しだけ身を捩っても、彼の手はそれを追いかける。
そして彼女を真っ直ぐに見つめる──あの夜と同じ、静かな熱を帯びた瞳で。
エレンは嬉しさと恥ずかしさが混じった気持ちに、とてもではないがこれ以上間が持ちそうもないと思った。だから、それを誤魔化すように自分から彼にキスをした。彼の唇に自分の唇を押し付けるだけの、不器用で幼いキスだ。
張の肩が揺れて、笑ったのが伝わってくる。
「なかなか積極的じゃないか。……なら、俺もちゃんと応えてやらんとな?」
そう言って今度は張から、エレンの唇に自分の唇を重ねた。
押し当てては離す、お互いの唇のやわらかさを楽しむような、優しくゆっくりとしたキスだった。離れた唇の距離を、またすぐに縮めて重ね合わせる。そうしながら、触れ合わせた指先を、張は自分の方に絡め取るようにして握った。
エレンも、彼の手をきゅっと握り返す。触れ合うところから溶け出していくような陶酔感に、エレンは自分が
砂糖でできた外殻に歯を立てれば、薄い膜は儚く崩れ、包み込んでいたシロップをじわりと溢れさせる。そんなふうに、隠していた想いまで流れ出してしまうのではないかと思ってしまうような、そんな気持ちだ。
段々と大きくなる想いに突き動かされ、エレンは張の首に腕を回して、抱きしめた。そうすると張もエレンのその女性らしい細い腰に手のひらをするりと滑らせ、自分の方へと引き寄せる。
繰り返すうちに深く情熱的になっていくキス。いつしかエレンも、そして張も、心を甘く掻き立ててやまない高揚感に包まれている。
ようやく唇が離れると、張は優しくも熱のこもった眼差しでエレンを見つめていた。
「……続きはベッドでな」
すっかり熱に浮かされ頼りない足取りでエレンは、張に導かれるまま階段を登っていく。見上げた先は暗く、闇に向かって登っていくような錯覚。それは、より彼のプライベートな空間への
登りきった先の、上階にあたるフロアは照明を点けておらず、薄暗い。その薄闇の中で張はひとつの部屋のドアを開いてエレンを招く。そこはベッドルームだった。
窓の向こうにはロアナプラの遠景があり、暗い部屋からはより一層街のネオンが明るく見える。色とりどりのそれは、まるで宝石箱の輝きのようだ。
張はベッドに腰を下ろすようにエレンを促すと、額を擦り寄せるように合わせて、それからまたそっとキスをした。
軽く肩を押されて、エレンの背中はベッドに沈む。この間のベッドルームよりも枕から張の匂いを強く感じる気がした。ここが彼のいつも使っている寝室なのだろう。
張はエレンを見下ろしながら、指で彼女の髪をそっと梳く。柔らかな亜麻色の髪を、何度も。
地肌に触れるそれがたまらなく気持ちよくて、エレンがうっとりと目を閉じると、今度は頬を撫でられる。思わず張を見れば、自分を見つめる熱っぽい眼差しとかち合って、二人の間だけ時間が止まったかのように見つめ合う。
「……可愛いな、お前は」
張の顔が近づいて、エレンはまた目を閉じる。唇を触れ合わせては離すごく軽いキスから、唇を合わせて隙間なく塞ぐキスへ。
やがて、触れ合う部分は、唇から舌へと広がっていく。角度を変えながら何度も啄んで、互いの唇や舌の感触を確かめるように
「は……っ」
息継ぎの合間に漏れる吐息は熱を帯びていた。
張がネクタイを外す、滑らかな布が擦れる音が、やけに大きく響く。それほど静かな夜だった。
エレンの頬は、すっかり赤く染まっている。張の唇は、エレンの首筋をゆっくりとなぞり、鎖骨へと降りていく。
彼が動くたびに、彼の髪から漂う煙草と微かな整髪料の匂いが、エレンの鼻腔をくすぐる。それは、苦味のあるシトラスの中に力強い香辛料を感じる、クラクラするほど色気のある香りだ。その香りに酔いしれながら、エレンはそっと目を閉じた。
そのうちこの香りを嗅ぐたびに、彼の体温を思い出すようになるのかもしれないと思いながら。
**
静かになった部屋の中、煙草の煙がゆったりと立ち
「眠たそうだな。疲れたんだろう?」
そう言って張は、目蓋を緩慢に
「疲れたみたい……。……みんな、こんなに疲れるものなのかしら……」
彼の胸に頬を押し付けて、目蓋を閉じたままエレンは小さく呟いた。冷房で冷えたのか、彼女の肌はひんやりと冷たい。
「まァな、こういうのは慣れだ、慣れ」
張は身を乗り出して灰皿に煙草を押し付ける。それから、毛布を引き上げてエレンの身体を包んでやった。そして、自分の体温を分け与えるかのようにそっと抱きしめる。
腕の中に収まって、早速うとうとし始めたエレンの額に、軽くキスを落とす。すると、彼女のふっくらとした唇が少しだけ笑みの形を作ったように見えた。
しばらくそうしていると、エレンの肌は再び温かさを取り戻してきたようだ。張の肌と触れ合っている部分はもちろん、規則正しい呼吸に揺れる肩も背中も、毛布の中ですっかり温まってきている。
そのエレン自身の温もりが、張の眠気を加速させる。彼女を腕に抱いたまま、張は
意味もなくそれが可笑しくなって、張は少しだけ口元を弛めた。
眠りはすぐそこまで近づいてきている。
そうして抱き合って眠りに落ちた、月の満ちる夜。
***
──ある日のイエロー・フラッグ。
「あのさ、エレン」
ロックはちらり、とエレンに目をやると言いにくそうに言葉を区切り、手にしたグラスを揺らす。
「なに、ロック?」
隣に座る彼女は大して気にする様子もなく、グラスの中のジンをゆったりと楽しんでいる。視線は他に向けたまま、ロックが意を決したように言った。
「張さんと寝たって本当なのかい?」
ロックの発言に、 エレンは飲み下す前のジンを勢いよく吹き出してしまった。 拍子に少量が気管に入り込んだらしく、激しく咳こむ。
「なっ……! なによ突然……」
「いや、ごめん。 本当だったんだ……」
ようやく呼吸を整えたエレンはロックを凝視している。居心地が悪そうに後頭部を掻きながらも、ロックは続けた。
「そんな噂があったんだよ。 エレンが張さんの情人になった──なんてさ。最近、 三合会からの仕事も多いみたいだしね」
──実際のところ、 あれ以来三合会からの──否、張からエレンへの依頼は多く、三合会本部への出入りも多くなった。
依頼された仕事──張の護衛と称した外出も少なくはないのだが──のために張の元へゆき、大抵その夜は共に過ごし、共に眠りに落ちる。ここのところ、エレンはそんなことを幾度となく繰り返していた。
噂になるのも仕方がないだろう。
エレンは視線を落とすと、小さな声で呟いた。
「馬鹿みたいだと思われるかも……しれないけれど……私は、会いたいの、あの人に……。
別れたあとでも、すぐに会いたくなるの、とっても。まるで、心が引っ張られているみたいに……可笑しいでしょ?」
その健気な言葉の微笑ましさに、ロックが思わず笑みを浮かべると、彼女はムッとしたような表情になり視線で抗議してくる。
「いや、ごめん。……ただ、エレンも女の子なんだなって思ってさ」
「……そうよ。女の子よ、一応ね」
エレンは視線をうつむけて、やり場のない気持ちを表すようにグラスの縁を指でなぞる。ほんのりと薄桃色に染まる頬はアルコールのせいだけではない。恋する女の子そのもの、といった表情だ。
だが、ロックに見えているのは、今も腰に差してある彼女の愛銃。グリップに木製パーツが施された、どこか高級感を醸し出すその銃だった。
そう、彼女だってこのロアナプラの殺し屋の一人、あの銃をぶっ放して人を殺すことが職業の人間なのだ。
しかし、その事実が嘘に感じられるくらい、今のエレンは紛れもなく、ただの女の子だった。
「ええと、じゃあ、エレンは張さんと恋人同士になった……ってことかな?」
数秒の沈黙のあと、エレンが消え入りそうな声で答える。
「違うわ、きっと……」
「え、なぜだい?」
予想とは違った答えに、ロックは首を傾げた。
エレンの表情は固く、いつもの元気をどこかに置き忘れてきたかのようにどんよりと暗いもので、身体はくったりと項垂れている。それはまるで、水をもらえない花のようだった。
「彼の気持ちはわからないわ……。直接聞いたわけでもないし。
……私を……彼みたいな人が、私を選ぶわけ……ないもの……、きっといい女性が現れるまでの間、相手してくれてるのよ、きっと……そう思うわ……」
「それは張さんに失礼なんじゃないかな……」
苦笑いをするロックの前で、エレンはますます悲愴な面持ちになり、口上は止まらない。
「……だって、私はただの殺し屋よ? それに引き換え、張は……彼は、とても大きな組織の……三合会の幹部で……私にはわからないけれど、きっと常に色々な難しいことを考えているのよ。
彼は身なりだってセンスがあって素敵だし、意外に体格もいいのよ? それと、一見怖い人に見えるけれど、懐の深い人だと思うわ。
……彼には立場があるのだから、関わる人間だってそれ相応の人をちゃんと選ぶのだと思うわ……。
……それを差し置いても、彼はいくらでも選べる立場なのに、私みたいな──どこから来たのかもわからない、ただの殺し屋なんて……」
彼女のその眼差しはひどく寂しげな色を浮かべている。
黙りこくってしまったエレンを前に、ロックは考えた。
エレンは、張に対してずいぶんと自分を下に見ているようだ。それがロックにとっては意外だった。
ロックの中でのこれまでの彼女のイメージは、堂々としていて自分に自信を持ち、明るく朗らかな性格の女性だったからだ。
ロアナプラの街の中で彼女の噂を聞くときはいつも、その腕前や仕事の正確さが話題に上がる。自他ともに認める殺しのスキルを持ち、しかもこの美貌で、自分を卑下する必要があるとも思えない。
エレンが張を愛していることは、言葉や雰囲気から伝わってくるのだが、それも半ば崇拝じみている気がしないでもない。
元々彼女はこういう性格だったのか、それとも、恋をしなければ出てこなかった弱気な部分──言い換えれば、女の子らしい部分、というものが表に出てきたのかもしれない。
「いや、驚いたな……」
ロックは気づかれないようにちらり、とエレンを見やる。
俯いたエレンのその顔は、伏せられた長いまつげは艷やかで、バラ色の頬と唇と、殺し屋らしからぬ優雅な雰囲気を纏っている。なんてことのない、ふとした瞬間の表情には、見た人を思わず釘付けにしてしまうような不思議な魅力があるのだ。
そのきらめくヘイゼルアイで彼女が見つめてお願いをしたら、大抵のことは許されてしまうのではないか。そんな彼女が、恋をしたことで自分の価値を疑い悩んでいる。自分は、彼に相応しい女なのだろうか? と。
今のエレンは、弱気で、健気で、盲目的で、間違いなく恋する女の子の姿だった。
思わぬところで出会った存在に、ロックの顔もまたほんのりと赤くなる。なにせロアナプラに来てからは、そんな存在に出会わなくなって久しい。今はもう、最も遠い世界の出来事なんじゃないかと思うくらいなのだから。
エレンの憂いを浮かべた眼差しは、貼り付けられたように自らの手元から動かない。
「確かに、さっきエレンが言ってた通り、張さんには立場があるから、打算的な付き合いっていうのもあるんだろうけどさ。でも人が人を好きになるときって、それだけじゃないような気もするけどな」
ちらりと、エレンが視線だけでロックを見やる。
「別に張さんはあんたと会うことを強制されてるわけじゃないし、選んだのは張さんだ。これは事実だろ?
自分が選ばれるはずがない、って言うのは簡単だし、エレンの自由だけど、それは同時に張さんが選んだものに文句言ってるってことと同じじゃないのかな」
「……そんなつもりじゃ……」
わざと意地悪に言ってみたのだが、 エレンは傷ついたような表情を浮かべ、しょんぼりとますます小さくなってしまった。
「だって張は……好き、って言ってくれないんだもの……その……夜を一緒に過ごすだけで」
そう付け加えて、エレンは両手でグラスを握り締める。
そのたった一言がないために、エレンは自信が持てないでいるのだ。女の子にとっては大事な言葉なのだろうということは想像できる。ロックは、どうしたものかと頭を掻いた。
やれ策略だ駆け引きだ腹の探り合いだの、そんなことが当たり前の裏社会で、なんとまあ場違いなまでの純真さだ。
「エレンは、張さんから好きだって言ってほしいんだな」
「……だって……初めてなのよ……誰かを好きになったのは……」
まるで小さな子供が拗ねているかのように言うその表情に、ロックは思わず吹き出してしまう。
「……エレン、本当に恋してるんだな」
エレンの顔が途端に真っ赤になり、ますます不機嫌そうに眉間を寄せて口を尖らせる。
「やめてよロックったら……そんなにはっきり言われると……恥ずかしいじゃない」
最後の方は消え入りそうな声だ。
微笑ましいと思ってまた笑い、ロックはグラスの中身を流し込むと、テーブルに置いた。
「もっと張さんと向き合ってみたら? 言葉以外にも、気持ちを伝える方法ってあるんじゃないかな」
「言葉以外……?」
エレンはきょとんとしてロックを見るが、彼はそれ以上何も言わず、ただ静かな瞳でエレンを見つめるだけだ。
「……そうね、前向きに考えてみるわ。ありがとう、ロック」
エレンは席を立つと、手を振ってその場を後にする。
「またね」
一人残されたロックは思わずひとりごちた。
「はー……噂は本当だったのか」
***
──別に噂になったって困ることなんかないわ。
この街は人の出入りも、そして情報だって流動的だ。きっと皆、すぐに次の噂を見つけて、こんなことなど忘れてしまうだろう。
潮風に吹かれながらエレンは歩き出す。いつもどおり、その足取りは軽快だ。
まだ外は明るく、ちょうど水平線の向こうに太陽が沈むところで、 辺りをやわらかな
エレンは桟橋に寄り掛かると、空を仰いだ。
薄桃色から淡い紫へと刻々と色を変化させる空、その一面に広がるまだらな雲は夕焼けの色に染まり、絵画のような模様を描き出していた。海面では夕陽が砕けて、眩しいくらいにきらきらと光を散らしている。
「きれいだわ……」
誰に言うでもなく、エレンは呟く。美しいものを見つけたとき、一番に伝えたくなったり、一緒に見たいと思う相手が好きな人なのだろうか。
少なくとも、エレンと張は夕陽を眺める関係ではない。
仕事上で関わりがあり、身体を重ねるだけの関係。──きっと長くは続かないのだろう。あまり期待せずそう思っておけば、少しは傷付くことを減らせるはずだから。
潮風がきつくなりエレンの長い髪をさらってなびかせた。
エレンは、さっきのロックの言葉を思い出していた。
“彼に選ばれた”と思ってもいいのだろうか? それを自分で認められたのなら、嬉しいし幸せになれる気がする。
だけど、それだけではエレンにはもう足りない。だって、彼からも言ってほしい。本当は心から実感したい。愛し愛されるということを。
(……私は彼を、好きになってしまったのだもの……)
さらにロックはこうも言っていた。張と向き合ってみたら、と。言葉以外にも気持ちを伝える
(そう言われてもどうすれば……張は言葉にしていない気持ちを、すでに私に伝えてるって言いたいの?)
アドバイスとしては頭に入れておこう、そう心に決め、思考を切り替える。
──もう随分前から張の存在に依存している自覚がエレンにはある。だが、そればかりだと良くないことだって分かっている。
それでも、過去を持たず、生存本能に従って死なないために生きているだけのかつての自分に、張は生きる意味を与えてくれた。彼の言葉で、この街で生きてみようと思い、そして今日まで生き抜いてきた。
今は彼からの愛に悩んだとしても、彼が与えてくれた生きる意味は本物なのだ。
(私は殺し屋。エレン・リーフェンシュタールよ)
この先彼との関係がどうなるかはわからないけれど、戦える限り前に進むと決めたはずだ。
自分のできることをし、自分の足で立って生きていくしかないのだから。忘れてなどいない、大切なのは明日も生き延びること。恋愛など二の次でいい。そう自分を戒めると、エレンは愛銃をそっと撫でた。
(私は引き金を引き続ける。そう、ビジネスよ)
不意に、着信を告げる電子音。
噂をすればなんとやら。電話越しにエレンの耳をくすぐる甘い声。この誘惑には抗えそうもない──
潮風に背中を押されるようにして、エレンは熱河電影公司ビルへ足を向けた。
***
まだ残る気怠さを振り切ると、張は傍らの
腕の中に収まっているエレンに灰の欠片が落ちないように、煙草を持つ方の腕を彼女から遠ざける。
エレンは張の肩口に顔を埋めて静かに目を閉じている。眠ってしまったのかと思いきや、ふいに彼女が口を開いた。
「ねぇ、張。覚えてる?」
「ああ、何だ?」
彼女は今にも眠ってしまいそうな、明瞭さのない声で続けた。
「私たちが初めて会ったのは雨の日だったわね」
「そうだったな。……そう言やぁ、あの時はお前もまだガキだった」
その女を腕に抱きながら、張は遠くを見るように窓の方に視線を投げる。あの日のように曇った空から雨が降っていた。
眠気と戦いながら、といった様子のエレンは話す速度こそ遅いものの、いつもよりも饒舌だ。
「港に着いて、何処に着いたのかもわからずに船を降りたの。あれは、何処から来た船だったのかしらね……。
それで、この街で初めて話をしたのが貴方だったのよね。……あのときは怖かったわ……、殺されると思ったもの……」
「はは、そりゃすまなかったな」
エレンは目を閉じたまま首を左右に振る。
「でもね……あの時あの場所で貴方に会わなかったら、 私はこの街で仕事をしていなかったと思うの」
「……それはお前にとって幸福か?」
「……え?」
その答えは、予想していないものだったのだろう、エレンは眠気も忘れたかのように、はっと張を見上げた。
自分をじっと見つめてくるエレンに、張は肩をすくめて見せる。
「気にするな、戯言だ」
_____
(我唔可以講得好,只係我真係好想同你講嘅字。)
(言葉に出来ないけど、本当に伝えたいことがある。)