その日も、茹だるような暑さは変わらなかった。しかし照りつける太陽が落ちれば、少しはこの熱気も和らぐことだろう。
まもなく、やっと夜が来る。紫から藍色へと色を変化させる空は、夜の訪れを告げていた。
暮れゆくロアナプラ港に、汽笛の音が遠くまで響き渡る。乗客を下ろした客船は再び大海原へと回帰していった。
暮れの色に染まる港町、ロアナプラはまだ熱気を孕んだ空気にゆらり、ゆらりと景色を歪ませている。
──そのせいでエレンも、はじめは見間違い、あるいは幻だと思ったのだ。
今まさに船旅を終え、船着き場を後にして歩み始めた女性がいた。
通りの向こうから人混みの中を真っ直ぐに歩いてくる、その女性は──とても人目を引く服装をしていた。
ひらり、夕方の海風に揺られる純白のヘッドドレスと、揃いのフリル付きエプロンの裾。
まるで修道女の慎みを表すかのような、肌の露出を極限まで抑えた黒色の長いスカートは、エプロンと重なってエレガントなシルエットを浮かび上がらせていた。その胸に下げたロザリオのペンダントが、沈みかけた夕日を反射して眩しいくらいに輝いている。
歩みを進めるその足元までもが、古典的なスタイル──白いストッキングに包まれた足首は折れそうに細く、ストラップ付きのレトロな革靴が可憐な華を添えているかのようだ。
大きな旅行カバンを片手に、そしてもう片方の手に日傘を持った彼女のその姿は、まるで映画の中から抜け出てきたような、なんともクラシックな出で立ちであった。
それは間違いなく、この街に一番縁のない存在と言っていいだろう。
「……メイド?」
誰に問うでもなく、思わずエレンは呟いた。戸惑いの色すら滲んだ、自分の言葉に確信が持てずにいるようなそんな呟き。それもそのはず、このロアナプラにこんなものがいるはずがないのだから。
そんなメイド姿の女性はエレンに気づくこともなく、足を止めることなく真横を通り過ぎていった。
すっかり視線を奪われたエレンは、思わず振り返って彼女の後ろ姿を見送る。
呆気にとられたまま、エレンはポカンと口を開けていたのだが、徐々にその目が輝き、見開かれていく。
「…………かわいい……!」
雑踏の中から抜け出たメイド姿の女性は、海風と潮の香りを纏い、ロアナプラの街並みへと歩み入った。
「あ、ねえ! 貴女!」
その背中に、思わずエレンは声をかけていた。
メイドが振り返ると、長く垂らした三編みの房が彼女を追いかけ優雅な軌道を
そして互いに向き合ってまずエレンの目に入ってきたのは、メイドのかけている眼鏡だった。彼女の顔には少々大きく見えるまん丸レンズの眼鏡──その分厚いレンズは光を照り返し、まるで瞳を見せることを拒んでいるかのようだ。
「はい。
か細く頼りない声がそう答えた。それは、わざとらしいくらいに平坦で抑揚のない
否、読み取らせないために敢えてそうしているのだと、エレンにはピンときた。その礼儀正しさは、身内以外の他人を拒むための見えない壁なのだと。
実際のところ、たった一言言葉を交わしただけで、向かい合っただけで、彼女が只者じゃないことにはエレンもすぐ気づいた。
ほんの一瞬だけ、厚いレンズ越しに微かに見えた瞳の色は──とても冷たく輝いていた。まるで、研ぎ澄まされた刃のように。
事実、このメイドが纏う空気は明らかに異質なものだった。それは、レヴィやシェンホア、エダとも、そしてバラライカのそれとも違う。
彼女は一体
メイドが本当は何者かまではわからない。だが、何か訳あってこのような
それでも、数々の疑問点を頭の隅に押しやってエレンはあえて何にも気付かないフリをする。なぜなら、このメイドは赤の他人なのだから。深入りする必要はない。通行人同士の、ちょっとした世間話をするくらいだ。
「あぁ、ごめんなさい。珍しい服装をしていたものだから、つい声をかけてしまったわ。……貴女、この街は初めてでしょう?」
「はい。この街にはつい先程着いたばかりで」
「遠くから来たのかしら?」
「南アメリカの方から参りました」
慎み深く可愛いメイドが従順に答えてくれる。それは自分までもが映画の中に入り込んだような錯覚をエレンに味わわせてくれた。
予想よりずっと素直に会話をしてくれたことがとても嬉しくて、エレンの声はいきいきと弾む。
「まあ、ずいぶん遠いところから来たのね! ……この街にどんな用事が?」
その質問に、メイドは僅かに間を置いてから口を開いた。
「人を……探しておりまして」
彼女は短くそう言った。相変わらずか弱い女性の声なのに、その一言には、隠された感情が徐々に這い出してくるような静かな気迫があった。
それは、
うつ向いたままのメイドを見つめていると、その眼差しの影に、探しているという人間に向けられた愛情のような強い想いも同時に見えてくるようだった。
対象者に一刻も早く会いたい、
「人を……? この街にいることは確かなの?」
この女性のことがもっと知りたい──なぜかエレンはそう思った。それは単なる好奇心かもしれないし、眼の前の彼女が持つ不思議な魅力のせいかもしれない。見た目はおっとりと女性らしく真面目なメイドさん、その背後に隠しているものは何なのだろう。彼女は
「はい。これから手がかりを探すため、街を歩いてみようと考えております」
言葉の最後に近づくにつれ、すぐにでも歩き出したいというように、メイドのつま先は徐々に外を向き始める。会話を切り上げたそうな雰囲気を滲ませているのだが、エレンはあえてそれに気づかないフリをした。まだもう少し、話しがしたかったからだ。
「そうなの……それでわざわざ地球の裏側から……、そうまでして会いたい人って、きっととっても大切な人なのね」
「……!」
エレンが微笑みかけると、少しだけメイドの表情が揺れ、無表情に結ばれていた唇が僅かに弛んだ。それは一瞬のことだったが、見逃さなかったエレンは自分の考察が正しかったことを確信する。
「はい……とても大切な方です……。私にとっては……」
メイドは静かにそう言った。その一言には、対象者への愛と同時に、何かを諦めるかのような響きがあった。彼女は一度目を伏せてから、眼鏡の位置をそっと直す。
張り詰めていた隙のない雰囲気が一瞬だけ
「あら、きっと貴女だけじゃないわよ。その人だって貴女のことを大切に思ってるんじゃないかしら。だって、貴女はこんなところまで探しに来てくれたのよ?」
「……そうだとしたら……、ロベルタはこの上なく幸せにございますわ」
そう言うとメイド──ロベルタはうつ向き、少しだけ微笑んだ。その顔は今度こそ寂しそうな色に滲んでいたのだった。
「……早く会えるといいわね」
「ええ……お気遣いに感謝申し上げます……では、
そして彼女は礼を述べ優雅な仕草で頭を下げると、今度こそロアナプラの街へと踏み込んで行った。
その後ろ姿を見送りながら、エレンは心の中でエールを送る。まるで鎧のようだ、そう思った彼女が人間らしい表情を見せてくれたことがなぜか嬉しかった。
それに──初めて間近で見たメイド服は、とてもとても──
弾む心にウキウキした足取りで、エレンは
***
「……メイドだと?」
「ええそうよ!」
「なんだそりゃ、お前、昼間っから夢でも見たのか?」
ここは熱河電影公司の社長室である。その部屋の一角にある来客用ソファーに腰掛けて、エレンは事のあらましを説明する。
「あれは間違いなくメイドよ。ロアナプラの港で見かけたのよ! ひらひらのヘッドドレスに、フリル付きの真っ白なエプロン! 長いスカートがとってもエレガントだったわ」
身振り手振り付きで説明する楽しそうなエレンに、張は半信半疑のまま気のない返事をする。
「ンなもんがなぜ、この街にいるんだ?」
「人を探してるって言ってたわ。たしか、遥々南アメリカから来たんですって」
「南米だ? そんな遠くからわざわざ人探しに来たってのか? しかも、そんな可笑しな恰好で?」
「……仮装だとでも思うの? 彼女は本当にメイドさんなのよ、きっと!」
エレンはソファに座り直すと、機嫌良さそうにティーカップを傾ける。
「彼女が会いたい人って、どんな人かしら。家族? 生き別れた家族かもしれないわね。それとも……恋人かしら? ね、張、どう思う?」
「……南米からの来訪者、……か、……」
張は腕組みをし、考える。この街にいる南米系といえば──張の頭の中には、コロンビア・マフィアであるマニサレラ・カルテルの面々の顔が浮かんでいた。
もしメイドがカルテルと無関係で、迷子探しに来ただけだとしたら平和だが……無関係である可能性は低くないだろう。──厄介なことにならないといいが。
「この街にわざわざ人探しにくるってこたぁ……いなくなった人間が“生きて”ロアナプラにいるって確信があるってことか……」
そう呟いたあと、張は腹心の
「最近、マニサレラ・カルテルの連中がおかしな荷物を扱ってなかったか調べてくれ」
「わかりました」
「それと、もしメイドがカルテルに接触するようなことがあれば、報せてほしい」
「はい」
「ま、今は情報収集だな……」
張は煙草を灰皿に押しつけると、腕組みをしてまだなにか考えている仕草を見せる。
一方、エレンはまだご機嫌だ。
「ふふ、フワフワのエプロンスカート……可愛かったわ」
「なんだエレン。ひょっとして、着てみたいのか?」
からかうようにそう言った張の言葉に、エレンは予想以上の反応を示した。
「え⁉ そっ、そんなことないわよ……! どうせ……似合わないだろうし…………」
「ふぅん……。俺は見てみたいがな」
「!!!」
真っ赤になったエレンを前に、張は今度コスプレグッズでも買ってみるか、などと考えながら再び新聞を捲り始める。口元にはまだニヤニヤとした笑みが浮かんだままだ。
「よし、今度買ってやろう。……楽しみがひとつ増えたな」
「かっ、からかわないでちょうだい‼」
ご機嫌だったはずのエレンの機嫌は一気に損なわれたのだった。
***
日が落ちて数時間もしないうちに、ロアナプラの街は大騒ぎになった。メイド姿の女性の情報提供が各所から続々と入ってきたのだ。
「
「やはり、始めからそれが目的だったか……」
彪からの報告を聞きながら、張は咥えた煙草を大きく吸い込んだ。
「そもそもことの発端は、マニサレラ・カルテルの連中がある富豪のご子息を誘拐したことだそうです。そして、どういう経緯かまでは知りませんが、哀れなご子息はアジアの外れのこの街へ運ばれてきた」
「それで、お屋敷の女中さんがお坊ちゃんを取り返しに来たってのか? それもたった一人で。見上げた根性だな」
張が天井を仰ぐと、椅子の背もたれがミシリと音を立てた。
「それが。どうもただのメイドじゃなさそうなんです。
目撃情報、生き残りの証言によると、メイドは武装していたらしいです。出るわ出るわ、拳銃だけじゃない、ショットガンにマシンガン、グレネードランチャーまで」
「メイドさんなのに戦えるなんて……すごいわ」
ソファーに寝そべっていたエレンが、呑気な調子で言葉を挟んだ。彪は気にする様子も見せず、話を続ける。
「で、メイドとカルテルがやりあって、イエロー・フラッグをぶっ壊したらしいです、なんでも、今までで一等酷い壊れ方だとか。建物は全壊らしい。それでもメイドは目立った怪我一つ負わず、燃え盛るイエロー・フラッグから歩いて出てきたと」
「ほう……そりゃ普通じゃないな」
張は何かを考えている様子で眉間を寄せ、煙草を灰皿に擦り付けた。
「訓練を積んでるな。軍隊上がりか?」
「さあどうですかね。だが、なんの因果か、今度はラグーン商会がメイドに追いかけ回されているそうですよ。何故かご子息を連れ回してるらしい。さっき、モスクワの連中が動き出したって話だったんで、この件はすぐに何とかなるでしょう」
「やれやれ、ラグーンの連中、相変わらずおかしなことに首を突っ込むな。ま、こっちに塁が及ばなきゃ関係のない話だがね。
それにしても……武装したメイドねぇ……いったい、奴は何者なんだ?」
傍らのティーカップを弄りながら、エレンが呟く。
「実は未来から来て、将来の指導者を抹殺するための刺客とか」
「おいおい、エレンなぁ……映画の世界じゃあるまいし」
彼女のその言葉に呆れた様子の張は、やれやれと首を振った。
「まぁ、これで俺たちが関わる道理も益もないことがわかったわけだ。あとは静観するだけ……だな」
そう言うと張は一区切りに大きく息を吐いて、窓の向こうに視線を投げる。
遥か地上のロアナプラの街は、溢れるネオンの光で遠影を滲ませている。
暴力を内包しながらも夜の灯りを美しく煌めかせ、あらゆる汚濁を飲み込みつつ、ただいつもと変わらずここにあった。
***
一夜明けて、爽やかな朝だ。
張の家から帰宅する途中に、イエロー・フラッグの前を通りすがったエレンは、瓦礫の山の中で後片付けに勤しむバオの姿を見つけた。
「ハイ、バオ。ちょっと見ない間に、オープンカフェになったのね、このお店」
昨晩メイドが破壊したというイエロー・フラッグは、変わり果てた姿となっていた。もはや天井も、壁もない。ところどころに燃え残った柱が立っているが、真っ黒に煤けていて今にも倒れそうだ。
割れた酒瓶の中から無事なものを探していたらしいバオは、苦虫を噛み潰したような、極めて不機嫌そうな表情のまま顔を上げた。
「なんだ、エレンか。面白くもねぇ冗談はいらねぇよ」
「事の顛末は聞いたわ。気の毒としか言いようがないわね、バオ」
「まったくだ。レヴィのダチだかなんだか知らないが、あのくそメイド……これまでで一等ひどい壊れ方だ」
「あら、いいじゃない。せっかくだから修理するまでの間、星空の下で一杯……なんて素敵じゃない?」
「ケッ、他人事だと思って面白がりやがって。いい性格だな!」
エレンはバオの毒を軽く流すと、ゆっくりと辺りを見回す。見るも無惨に破壊された店は憐れとしか言いようがないのだが、ロベルタが探していた人のためにやったのだと思うと、どこか微笑ましく思えてしまうのだから不思議だった。
「……それにしても……、あのメイドさん、自分の勤めているお屋敷の息子さんが拐われて、それで探しに来たんですってね。
他人のためにそんなに一生懸命になれるのね……不思議だわ……、なぜかしら……」
「知るかよ。知りたくもねぇ」
吐き捨てるようにバオは言ったが、エレンは遠くを見遣るかのように目を細める。
「この街の人たちには、そんなもの……ないわ。誰も持ってない……」
家族、友達、そんなものはなくたって生きていけるはずだ。こんな生き方をしていたら、自分の命より大切なものなんて──あるはずがないのに。
エレンの心は揺れていた。ただ、それは彼女にとって不快な感情ではなかった。
**
イエロー・フラッグを後にし、エレンはまた歩き始める。
しばらく進んだ大通りで、視線の先をメルセデス・ベンツが通り抜けていく。
その後部座席には、ロベルタの姿があった。彼女の姿には苛烈な戦いの跡が色濃く残り、顔は痣だらけ、三編みはほとんど解けてしまっていたし、メイド服もぼろぼろだ。そして、そんな満身創痍の彼女の隣には、しっかりと寄り添うように金髪の少年が座っている。
彼こそがロベルタの会いたかった人なのだと、エレンにはわかった。
ふと窓の外を見たロベルタが、エレンに気づいたようでぺこりと軽く頭を下げる。
エレンはそれに手を振って応えた。彼女らに向けた微笑みには、少しだけ寂しそうな色が浮かんでいることにエレン自身は気づいていない。
メルセデス・ベンツは空港の方角へ向かって走り去り、やがて見えなくなった。
「メイドさん……ロベルタ。また、会えるかしら」
──次に会えたら、大切な人の話を聞かせてほしい。どんなふうに出会って、どうしてその人を大切に思うようになったのか──教えてほしいことがたくさんある。
エレンは頬を撫でる風を感じながら、そっと目蓋を閉じ、大きく息を吐いた。
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(Mi vida ha cambiado mucho desde que nos conocimos.)
(あなたに出会ってから私の人生は大きく変わった)