最近よく見る夢だ。
──少女たちが、こちらを見ている。何を言うでもなく、ただじっと、ひどく哀しそうな目で。
(貴女たちは、誰?)
エレンは呟く。だがそれは、声として響くことはなかった。いつもの夢の中で、何人かの少女たちがエレンを見つめている。
少し離れた場所に立つその少女たちは、誰ひとり口を開くこともなく、けれど視線を逸らすこともなく、静かに見ているだけだ。
十代半ばくらいに見えるその少女たちは皆、それぞれが愛らしい容貌をしているのだが、その顔はまるで人形のようで表情がない。だが、その瞳には確かに哀しみの色が滲んでいることに、エレンは気づいていた。
そんな彼女たちの目に見つめられていると、理由もわからず申し訳ないような気持ちが湧いてくる。
(……ごめん、なさい……)
エレンは思わずそう口に出していた。
まるで、皆伝えたいことは同じだ、そう言わんばかりに、青い瞳が、緑の瞳が、ブラウンの瞳が、グレーの瞳が───ただただ、エレンを静かに責めるように、咎めるように見据えていた。
(……ごめんなさい……わたし───)
はっと目を開けると、見慣れた自宅の天井がエレンの瞳に映る。
ベッドから上半身を起こすと、全身にじっとりと汗をかいていることに気づいた。
「……また、あの夢」
エレンには、彼女たちを思い出そうにも思い出すことができない。心の底に違和感だけが日に日に溜まっていくことを感じていた。
(──もしかして、昔の私が、彼女たちに何か酷いことをしてしまったの?)
こんな夜は、いつも悪い想像ばかりが浮かんでくる。
もしかすると自分は彼女たちに恨まれるようなことをしたのかもしれない、そしてそれを思い出せないことに対して、言いようのない罪悪感と恐ろしさが残るのだった。
(……怖いわ。独りでは、いられなくなってしまいそう……。……張に、会いたいわ……)
夜明け前の空はまだ暗い。エレンにとってまだまだ寝足りない時間だが、またあの怖い夢を見るかと思うと眠りたくなかった。──張の声が聞きたい。夜が明けたら一番に、彼に電話を入れても許されるだろうか。
***
「なんだ、エレン。珍しいな、こんな朝っぱらから。あぁ、モーニングコールか?
それとも俺の夢でも見て、俺が恋しくなっちまったってのか?」
張のいつもの軽口は、今はとてもホッとするものだった。
受話器越しの彼の声が耳からじわりと染み込んできて、不安に包まれて冷たくなっていた心が少しずつ溶けていくようだ。そして、何とも言えない温かいもので胸が満たされる。その温もりに、エレンは思わず本音を零してしまっていた。
「……あのね、貴方の声が……聞きたくなっただけよ。……笑っていいわよ」
寝間着のままのエレンはベッドの上で膝を抱え、片手には携帯電話、そして反対の手ではピンク色のペディキュアが施されたつま先を手慰みに弄っている。
からかわれると思っていたエレンの想像に反して、張は笑わなかった。
「ん、そうか。だが今は
二つ返事でエレンは彼の家へ行くことに決めた。
電話を切った途端に戻ってきた静寂に、心を追い立てられるような不安感すら蘇るようだった。エレンは思わず辺りを見回した。
この部屋はこんなに空気が冷たかったかしら? そう考えながら窓へと視線を移せば、どんよりとした雲が覆う灰色の空。今日一日の間、恐らく太陽は出ないだろう。
(大丈夫、大丈夫……あれはただの夢よ……きっとそう)
エレンはそう自分に言い聞かせながら毛布をぎゅっと抱きしめると、胎児のように身体を丸めた。できるならば、夢を見ずに眠りたかった。
***
張のペントハウスには、テネシー・ウイスキー以外の酒だって豊富な用意があるのだ。
ジンが好きだとエレンが言うと、張はカクテルを作ってくれた。
キッチンに立つ張が手慣れた様子でタンブラーグラスにドライ・ジンを注ぎ、そしてそこにオレンジジュースを加えてかき混ぜる作業をエレンは目を輝かせて見ていた。
「素敵だわ、張。貴方ってこんな特技があるのね! 見直しちゃった」
「そりゃ褒めすぎってもんだ。まァいい、そらできた。さあどうぞ、お姫様」
「ふふ、ありがとう、さっそくいただくわ」
エレンはそっとグラスに唇を寄せ、最初の一口を口に含んだ。すると、オレンジの爽やかな香りと甘酸っぱさが鮮やかに広がり、飲み下すとジンのハーバルな香りが顔を覗かせる、非常に爽やかで口当たりのよいカクテルであった。それはひと口でエレンを虜にしたのだった。
「……まぁ、美味しい! このカクテル、なんていう名前なの?」
「これか?
「ふふ、素敵ね!」
二人で他愛もないお喋りをしながら──といってもほとんど話すのはエレンの方なのだが──、一杯目のグラスを空にする頃には、すっかり夢のことは頭の隅の方へ追いやられ、楽しい気分に包まれていた。
「お酒って、飲んでいると嫌なことを忘れられていいわね。楽しい気持ちになるわ。……ねぇ、もう一杯作ってくれないかしら?」
「ああ、そりゃ構わんがあまり飲みすぎるなよ」
苦笑いしながらも張はジンのボトルを手に取ると、エレンのための一杯を再び作り始める。
それを眺めるエレンの表情は明るく朗らかなものだった。
楽しい夜は徐々に更けていく。
彼のとなりに座り、彼の声を聞き、美味しい酒を飲んだら重かった心も晴れ、嘘のように軽くなった。開放感からの満足げな表情を浮かべて、エレンは伸びをする。
「──そろそろ、帰ろうかしら」
あれから三杯もお代わりをしてしまった。
程よく酔いが回って頬は熱を持ち、足元には微かに浮遊感が付きまとうが、その感覚すら今のエレンには楽しいくらいだ。
張はちらりと時計を見やり、エレンの言葉に答える。
「なんだ、もう帰るのか」
「ええ、そろそろ眠くなってきたわ」
よく見るあの夢のせいで、ここのところ寝不足気味な日が増えているのだ。仕事のためにも、体調は整えておく必要がある。
だが、自宅に戻ったところで、今夜もまたあの夢を見るかもしれない──そう頭によぎった瞬間、エレンは胸の辺りにひんやりとした冷たい感覚が湧き出すのを感じて、思わず手のひらで胸元をきゅっと握りしめていた。
そして、張の方を盗み見る。
(ただ一緒に寝てなんて言えないわよね……恋人でもないのに)
心の中で逡巡しているところで、張が口を開いた。
「そうかい、なら今夜はここで一緒に寝るか?」
「──!」
エレンは頬を赤らめ、目を真ん丸に見開いている。その後に続くたった一言にすら、隠しきれない喜びの感情が滲んでいた。
「い、いいの?」
彼自身としては何気ない気持ちで言った言葉だったのだろう、思わぬエレンの反応に少し驚いたような表情を浮かべている。
「ああ。今夜はこの後の予定もないしな」
「あら……そう、なの……」
「なんだ、エレン。そんなに嬉しいのか?」
張の
「うっ、うれ、……うれし、い…………かも…………」
そんな彼女の反応に、張は声を上げて笑った。
「可愛いやつだな、お前は」
まだ笑いたそうにしながらも、張は促す。
「だったら、寝る前にシャワーを浴びなくていいのか? ──そら、早くしないと先に寝ちまうぞ」
「 ‼ ま、待ってよ!」
**
熱い湯を頭から浴びながら、エレンは瞳を閉じた。張の家のシャワーは何度か借りているが、水の勢いがいいところがエレンのお気に入りだった。
天井から広範囲に降り注ぐシャワーのお湯は、まるでやわらかな雨に包まれるようで、気持ちを静かに、穏やかにしてくれる。
浴室に温かな蒸気が立ち込める。
エレンはボディーソープを泡立てながら、その香りを胸いっぱい吸い込んだ。
(──いい匂いだわ。いつも彼から微かに感じる匂いね……)
ベッドの中で彼の素肌を感じながら目を閉じると、残り香のように微かに感じる匂いの正体だ。
自宅のものよりも少しばかり緩いその泡を、エレンは身体へと撫で付けていく。
ただ一緒に眠る──
それだけのことなのに、エレンの心臓はなぜだかドキドキと早く打っていた。
肌を重ねた後にはいつも一緒に眠ってしまうのだが、今日はただ眠るためにここへ泊まる。それが特別に思える。
今夜は悪夢を見ないで済む、きっと。エレンは胸を撫で下ろす。
何度か彼に夢の話をしようと思った、だが止めた。どうせただの夢だ。口に出すことで不安な感情が蘇るのも嫌だったし、それになにより、一緒にいるときは楽しく過ごしたい。
でも、もしも弱さを曝け出したとして、彼は受け止めてくれるのだろうか? ──恋人でもないのに。
そんな取りとめのない考えを遮ったのは、張の声──
「エレン」
「今出るわ、」
柔らかなバスタオルを巻いてから、エレンは浴室のドアを開けた。
先にシャワーを済ませた張は、濡れた髪をタオルで拭いながら、片手に持ったものをエレンへと差し出した。
「あいにく女物の着替えはないが──ほら。これを着ろよ」
それは、張のものであろう柔らかそうなシャツとズボンだった。
彼の寝間着なのだろうか。そう思い至って、エレンは口元を緩めた。嬉しいような恥ずかしいような、不思議な感覚が胸の奥をくすぐる。
「ありがと……」
再び、一人になったエレンは手に持った着替えを見つめる。
(張のパジャマを借りるだなんて。──これは、まるで)
まるで、そう、恋人同士、のよう──
思い至った言葉に、もうたまらずエレンは独り両手で顔を覆う。
気恥ずかしくてくすぐったい気持ちに、エレンは腹の底から湧いてくる笑みをこらえて唇に力を入れた。
***
スタンドライトのぼんやりとした灯りの中で、
「お、お待たせ……」
張の元へ、おずおずとエレンが近づいてくる。
ぶかぶかのシャツは肩幅が合っておらず、彼女には長い袖を何度か折り返して着用している。
ボタンを一番上まで止めても襟から覗く首筋や鎖骨は、白い肌がきめ細かく輝いていた。
「ん、やっぱり俺のシャツだとでかかったな」
「い、いいの……! ……これで、いいの」
赤くなった頬を隠すように張から顔を背け俯いたエレンを見て、彼は片方の口角を上げるようにしてフッ、と微かに笑う。
「さ、早く入れよ。身体が冷えちまうぞ」
毛布をめくった張に促されて、エレンは脚をそっと静かにその中に潜り込ませた。
「……お邪魔、します」
「なんだ、改まって」
エレンのその畏まった様子がおかしかったのか、張はまた楽しげに笑った。
エレンの目にはとても新鮮に映った、ベッドの中で着衣の張は、肌着のような薄手のTシャツ一枚に、ゆったりとしたハーフパンツといったカジュアルな出で立ちで、入浴後である髪は整髪料で撫で付けていないサラサラの素のままだ。
初めて見る彼の姿に、エレンは胸がドキドキと高鳴るのを感じ、照れくさい思いに彼を直視することが出来ないでいた。
「どうした? 顔が赤いぞ」
「……別にどうもしないわ……」
精一杯強がって顔を背けようとしたところで、張の指が頬をそっと撫でて、エレンはぴくりと反応し、思わず彼を見る。
「ん? よく見りゃ酷いクマだな、エレン。夜ふかしばかりしてると、美容に悪いぜ」
いつもの軽口を叩く張に、口を開くか少し迷った言葉が思わずこぼれ落ちた。
「……家だと、よく眠れないの。──悪い夢ばかり、見るわ──きっと、暑いせいね」
せめて、言葉の最後は首を振って誤魔化した。
「ほう……」
張は少し考えるような表情になったあと、すぐにいつもの調子に戻った。
「さ、そろそろ寝るかね」
身体を横たえようとしている彼を見つめながら、言うか言わないか迷いに迷ったあげく、エレンは口を開いた。
「あの……ねぇ、張……、その……お、おやすみなさいの、……キス、してくれない……?」
「なんだ、そんなことか。どうしてそんなに照れてるんだ、エレン。……キスなんていつもしてるだろ?」
「え、ええ、そう……なんだけど……」
その行為の一環としてのキスよりも、おやすみの挨拶のキスの方がずっと特別で、エレンの胸をドキドキさせている。
肩をすくめて自分の指先をもじもじさせたエレンを抱き寄せて、張はニヤニヤと彼女の様子を楽しむように含み笑いを浮かべている。
「いいぞ、どこにしてほしい? 額か? 瞼か? それとも頬か?」
「えー……え、っと……」
口ごもるエレンを張はじっと見守っている。
「き、決められないから…………ぜ、ぜんぶ…………で、いいかしら……」
上目遣いでおずおずと、それでもはっきりとエレンはそう言った。
張は笑って、エレンのまだしっとりと湿った亜麻色の髪を撫で下ろし自分の方へ引き寄せる。そして柔らかな額に、長いまつげの上に、すべらかな頬に、そして最後に唇にも優しくキスを落として、小さく音を立てて離した。
彼の唇のほのかなぬくもりと柔らかな感触に、じんわりと沁みていくような安心感を覚えたエレンは表情を緩める。
しかしすぐに、子供みたいなことを強請ってしまった気恥ずかしさと照れくささを隠すため、毛布に頭まで潜り込むと、小さな声で言う。
「あ、ありがとう…………おやすみ、なさい……」
エレンを見下ろしながら、笑いまじりに張は答えた。
「──そんなに照れて、変なヤツだな。やれやれ、何だかこっちまで恥ずかしくなってくる」
張がベッドサイドのスタンドライトに手を伸ばす。
「消すぞ」
「え、ええ……」
暗闇が辺りを包んで、窓ガラスの遥か向こうの遠い街明かりだけがぼんやりと光る。
やっと毛布から顔を出したエレンは、まだ熱い頬で天井を見上げていた。
「……何だエレン。他人みたいな距離だな? 見えなくなってもまだ恥ずかしいってか?」
言われたエレンは、まだ気恥ずかしさに緩む口元を抑えるため固い表情をしたまま、僅かに張の方へと身体を移動させる。
それでも、まだ距離があり身体は触れ合わない。
「そんなに遠慮せずに、もっと近くに来いよ。せっかく一緒に寝るんだ。ほら、体重を載せていいんだぜ」
そう言いながら張はエレンの身体を抱き寄せて、半ば自分の身体に載せるように引っ張り上げた。
「あ……」
「ここはお前の家と違って暑くないだろ? べったりくっついていても無問題、だよな」
「ふふっ……」
思わず笑ってしまうエレン。
寒いくらいに効いた空調のせいで、彼の肌の温かさがとても心地よい。彼の腕に抱かれ肩口に顔を埋めると、お互いの身体の凹凸がぴたりと合って、まるであるべき場所に納まったようで気持ちがよかった。
額に寄せられた彼の口元からダイレクトに伝わる吐息の温かさ、Tシャツ越しの彼の身体のほのかな温もり、背中に回された腕の重み。
それらをひとつずつ認識するごとに、まるで風船から空気が抜けるように、急激に身体が弛緩するような感覚を覚えていた。
「…………あったかい……それにすごく……落ち着くわ……」
消え入りそうな声で呟いたエレンの言葉を拾って、張が応える。
「ああ、いいもんだな、お前とこんなふうに過ごすのも」
気楽に片腕を頭の後ろにやって、天井を見上げる張は機嫌が良さそうだ。
「……あたたかい……温かいわ、とても」
彼の身体と重ねた部分から伝わるぬくもりが、じわりとエレンの心にまで沁みわたる。
──これは、どこかで──
懐かしいような、不思議な感覚に包まれて、閉じた目蓋からぽろりと涙がころがり落ちる。誤魔化そうと息を吸い込んだのだがそれすらも喉が震え、夜の部屋の空気を揺らして張に気づかれてしまったようだ。
「エレン?」
不思議そうな表情をして張は、エレンの顔を覗き込もうとする。
「何でも……何でもないの……変ね、私──」
拭うけれどまたすぐに次の涙の雫がぽろり、ぽろりとこぼれてしまう。
「どうした、急に。……なにかあったのか?」
「ううん……ごめんなさい……、ただ……ただ──急に浮かんできた……だけ」
彼の恋人でもないのに甘えられない、そんな思いがエレンの次の言葉を押し留め、口から出なくしてしまう。せめぎ合う感情は心の中で戦いを続けている、だけど、今だけ許してもらえたらと思わずにはいられない。
口を軽くさせるのは全身を包む彼のぬくもりだ。
「すごく小さなころのこと……お父さんとお母さんと一緒に……こんなふうに温かかったのを……っ……思い出して……」
そこまで言うと、エレンは鼻をグスンと鳴らして肩を震わせた。
張は何も言わずに、自分の胸に顔を伏せてしまったエレンの背中をあやすかのようにトントンと軽く叩いてやる。
「ははは、何だか子守でもしてる気分だな」
「変ね……急に……っ、どうして、思い出して──」
今にも声を上げて泣き出してしまいそうなエレン。
それでもまだなにか言いたそうな彼女を遮って、背中に回した手で髪の毛をくしゃくしゃと撫でてやる。
「眠れよ、エレン。なァに、悪い夢にうなされてたら起こしてやるさ」
「────ええ……ありがとう…………」
張の手はまだエレンの髪をゆっくり、ゆっくりと撫でている。そのリズムに合わせるように眠気がじわりじわりとエレンを包んで、頭をぼんやりとさせる。
揺らめく視界に目を開けていられなくなって、眠気により感じ始めた心地よい身体の重みに、抗わずに身を任せる。
目を閉じても、今夜は怖くない。きっと大丈夫。
大きな存在に守られている、そんな気がする。
(──ああ、眠れるわ。──眠れる、今は)
眠りに落ちかけるエレンを眺めている張の、その唇が自然と歌を紡いでいた。
いつの間にか口ずさんでいたそれは──懐かしい子守唄。はっきりとは覚えていないものだが、遠い昔にどこかで聞いた、彼が幼い頃に母親が歌ってくれたような曲だった。
母国の言葉を載せた旋律を、微かな記憶を頼りになぞる。
静かな部屋に、穏やかな歌声が揺らぎ、そして溶けていく。
やがて、エレンはすっかり力の抜けた身体を張に預けて、静かな寝息を立て始めた。
彼女の穏やかで規則正しい寝息に耳を傾けていると、張自身も目蓋が重くなってくるのを感じて、腕の中のエレンの額に、もう一度キスを落とし、そっと囁いた。
「おやすみ、エレン。
______
(Ombra mai fu di vegetabile,cara ed amabile,soave più)
(かつてこれほどまでに優しく、愛しく、心地よい木陰はなかった)