死にたがりの讃歌   作:椿芽

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いつもここすきやお気に入りありがとうございます!過去の話でもいいので、好きなエピソードなんかあったら教えてください。


第9話 愛だな、これは(張とくっつきそうでくっつかない話)

 まだ目を覚ましたくない。いつまでもこの微睡みに包まれていたい。

 それくらい、幸せな眠りであった。

 

 エレンは、意識が浮上してくるのを感じながらも覚醒に抗い、目を閉じたまま毛布を手繰り寄せた。まるでベッドと一体化してしまったのではないかと錯覚するくらいに身体は重く、完全に眠気に支配されているかのようだ。

 

 昨晩はエレンにとって、とても幸せな時間だった。

 (チャン)の腕に抱きしめられて眠る、その守られた空間。忘れていられる、嫌な夢も、見えない過去と向き合う不安も。

 ただ彼に触れていたい。ぬるま湯に浸かるような生活だとしても、愛されてると錯覚していられるのもいいかもしれない。

 そう自分に言い聞かせるように思ったエレンだが、先日、ロベルタと少年を目の当たりにして、これまで以上に考えるようになったことがある。

 それは“自分が張に何を求めているのか”そして“張にとって自分は何なのか”ということ。

 

 ──エレンにとって張は居場所をくれた人であり、自分の能力を認めてほしい人でもあり、そして男性として愛してほしい人だ。もはや彼はなくてはならない存在と言っていい。

 だけど、張にとってエレンはどういう存在なのだろう、それがわからないことがただ不安だった。

 そんなことを考えているうちに、身体はいつの間にか目覚めを受け入れているようで、目を閉じていてももう眠りの世界には戻れそうになかった。諦めて寝返りをうつと、ひんやりとしたシーツの手触り。

 

「……やっぱりいないのね」

 

 エレンはぽつり、と呟く。

 隣に張の姿はない。幾度となく夜を共に過ごしても、いつも彼はエレンより先に起きているのだ。

 

 エレンは、隣に彼がいないことを確認すると、身体を包んでいたやわらかな毛布を退けベッドの端に腰掛けた。目覚めてもなお彼のぬくもりを感じるような気がして、それがかえって胸に空虚感を広げる。小さく息を吐き、不安を紛らわせるように自身のウェーブヘアーに軽く指を絡める。

 

 リビングに行けば、彼がいるのだろうか。

 なぜだかそれを確かめる勇気がほんの少し足りないように思えた。

 それでも、彼の姿を確認したいのだ。そうでなければ昨晩のできごとが夢ではなかったと、とても信じられそうにない。

 

 *

 

 リビングへ続く階段を降りると、寝室とは違った空気の匂いが鼻腔をくすぐった。少し湿り気を含んだ朝の空気と、かすかに漂うコーヒーの香りが混ざり合っている。

 

 光の満ちるリビングの眩しさに、エレンは一瞬だけ立ちすくむ。薄暗い遮光カーテンの寝室にいたせいで、今が何時だかわからないくらいだった。

 

「おはよう、エレン」

 

 そこにはいつもどおりの張の姿があった。彼は椅子に腰掛け、片肘をダイニングテーブルに乗せながら新聞を広げている。朝の柔らかな光は穏やかに彼を包む。

 きっちりと整髪料で撫で付けられた黒髪に、真っ白でシワ一つないワイシャツ、明暗のコントラストも鮮やかな黒いネクタイ。

 リラックスした雰囲気の中にも、どこか威厳が滲み出るかのような、そんな居住まい。まさしく、エレンが知る張維新(チャン・ウァイサン)の姿であった。

 

 昨夜の彼とはまるで別人のように感じられる。

 あんなふうに優しくしてくれた彼は、もはやエレンの記憶の中だけに存在する幸せな幻なのではないだろうか。

 そう思うくらいに、昨夜の実感が薄れていることに不安を感じて、エレンは頭の中で記憶の断片のひとつひとつを繋ぎ合わせようとした。

 

 彼が言ってくれたこと、彼の手のひらの感触、彼の優しい歌声、それらを思い出すことはまるで、懐かしい記憶を手繰り寄せる作業のようだった。

 

 そんなふうにぼんやりと立ったままのエレンに、張は新聞を畳むと椅子から立ち上がり近づいてくる。そして悪戯っぽく言った。

 

「おはようのキスを忘れてないか?」

 

 そう言われて、少し照れながらもエレンは張に向かって瞳を閉じるのだが、彼は意地悪そうにくくっと笑った。

 

「違うな、お前からするのさ。ゆうべは俺がしたんだからな?」

「な……、っ……」

「順番、だ。じゃなきゃ不公平だろ?」

 

 エレンは恥ずかしさを精一杯抑え込みながら、張のその頬に、ごく軽く唇を触れさせてすぐ離す。

 

「んん? それだけじゃ足りんな」

 

 張はまだ、意地悪そうに口角を引き上げてエレンを見ている。その視線から逃れられず、エレンは観念して彼の頬を両手で包んだ。

 悠然と目を閉じて顔を向けてくる張に、せめて意趣返しになればと、彼の鼻の頭にちゅっと軽く唇を押し付ける。

 張は少しだけ驚いたようにその目を瞬かせて、それからいつもの調子に戻った。

 

「はは……ずいぶん可愛いキスだが、まァ良しとしてやるよ。努力賞ってとこだな」

「……意地悪ね」

 

 エレンはむくれてみせたものの、張があまりにも楽しそうに笑っているから それ以上抗議する気もなくしてしまって、椅子へ腰掛ける。

 

「良く眠れたみたいだな。顔色がいい。ついでに朝飯、食ってけよ」

「ええ、……ありがとう」

 

 張はエレンに背中を向けると、なにやらコンロの上の鍋をかき混ぜているようだった。

 

「そら、どうぞ」

 

 差し出された皿を見ると、それはどうやらスープのようだ。申し訳程度の量のスープに、たくさんのマカロニがその身を浸している。ふわり、ふわりと湯気が立ち上がって、食欲をそそる匂いが漂う。

 

「お料理までできるの? ……貴方って、やっぱりすごいわ」

「はは、まァ、な。いつぞやの詫びに、トマトを入れてやったぞ」

 

 ──以前、オフィスに忘れていったエレンのトマトを、張が食べてしまったことだ。

 

「まぁ、覚えてたのね。あのときは私が忘れたのが悪いんだもの……もう怒ってなんかないわ」

 

 エレンは顔つきに少し困った色を滲ませつつ微笑んだ。それを見ながら張は満足そうな表情で、向かい側の椅子に腰を下ろす。

 

「さ、食えよ。冷めちまうぜ。俺の愛をたっぷり込めて作ってんだからな、残さず食うんだぞ?」

「……ふふ、もちろんよ。いただきます」

 

 彼の軽口をさらりと流すことができるのも、きっとよく眠れたからだ。そんなことを考えながらエレンはスプーンを口に運んだ。

 

 あっさりとした味わいのチキンスープに、トマトの酸味とセロリの苦味がいいアクセントだ。マカロニの淡白さには、刻んだハムが塩気をプラスしてくれて丁度いい。

 

「……美味しい……」

「あぁ、そりゃ良かった」

 

 エレンが思わず零した言葉に、張が微かに笑みを浮かべた。遥か地上のロアナプラとはあまりにかけ離れた、静かな時間が流れている。

 彼もそれっきり特に何も言うことはなく、静かにスープを口に運んでいる。時々互いのどちらかのスプーンが皿に当たる小さな音だけが、辺りに響くだけだ。

 

(あぁ、なんて……穏やかな時間なのかしら……)

 

 エレンはこっそりと目蓋を閉じる。彼と向かい合ってテーブルを囲むことが、こんなにも温かい気持ちになるものだと、彼女は初めて知ったのだ。

 

(こうしていると本当に……張と本当に恋人同士になったみたいだわ……)

 

 エレンは改めて目の前の男を見つめる。

 いつもサングラスで隠してしまう穏やかな瞳は、朝の光の中ではやわらかな茶色に色を変えていて、いつもより優しく見せるようだ。

 スプーンを持つ彼のその指先は、いつも少しだけカサカサしているものの、爪先は深爪気味に整えてあり、彼の意外な几帳面さが伺えるところがエレンは好きだった。

 そして、ワイシャツの上からでも確かに見て取れる、がっちりとした頼りがいのある体つき。よく響く低い声だってセクシーな魅力がある。

 彼の男性的な力強さ、どんな場面でも動じない沈着さや、懐の深さ──ボスとしてのカリスマ性だけでなく、ときどき見える愛嬌のようなものだって魅力的だとエレンは思う。そのどれもが彼女を惹きつけてやまないのだ。

 

 だから、エレンは思う。他の女の人の中にだって、自分と同じ気持ちの人がいるかもしれない。そしてその女性も彼とこんなふうに幸せな時間を過ごし、彼もまたさっきのような優しげな微笑みを向けているのかもしれないと。

 

 そんなことを考えた途端、エレンは胸の底が焼け付くような、チリチリとした痛みを覚える。

 

(……私が、自分の気持ちを伝えたら……彼は、私だけの人になってくれるのかしら? あんなふうに……昨夜のように、私を守り大切に包んでくれるような……)

 

「……どうした? いきなり黙り込んで」

 

 長かった考え事から引き戻されて、エレンは我に返る。いつのまにか唇を噛んでいたことに気づいて、慌てて平静を装った。

 

「いえ、なんでもないわ。改めて、昨日は恥ずかしいところを見せてしまったわね……ごめんなさい」

「いやなに。そんな日もあるだろうさ。

 まぁ、お前が気弱になる瞬間もなかなかいいもんだったぜ? お前のそんな姿、俺だけが知ってるってのも悪くないだろ?」

 

 張はそう言って示すようにスプーンをエレンの方に向けた。

 

 いつだって張はこんなふうに茶化す。

 彼の言葉はいつもからかうようなものだけど、不思議と嫌な感じがしない。それどころか、その裏に隠れた思いやりを感じるようになった。

 彼がわざと軽口を叩くのは、事を重くしすぎないようにと自分を気遣ってのことなのだろう。それに気づくたびに、エレンの胸は少し温かくなるのだ。

 

「貴方って意外に優しい人なのね」

「なんだ、今頃気づいたのか?」

 

 コーヒーカップを置くと張はにやりと剽げた笑みを浮かべた。

 

 その優しさが自分だけに向けられたものだったら──そう願わずにはいられなかった。その想いが、エレンの表情を僅かに曇らせる。

 

「どうした、エレン?」

「……いいえ。貴方みたいな素敵な人なら、きっと沢山の恋人がいるでしょうねと思っただけよ」

「そうでもないさ。俺は、いっぺんに一人の女しか愛せない(タチ)でな。そいつ以外とどうこうなりたいなんざ、考えたことすらない」

 

 張の発言に、エレンは目を見開いた。恋する心は、次の言葉を期待した。だがそんな心とは裏腹に、口から出ていたのはまるでいつもの彼がエレンを揶揄(からか)うときのような、皮肉じみた言い回しだった。

 

「へぇ、意外ね。てっきり私は、貴方にはた~くさんの恋人がいて、毎日デートでお忙しいのかと思ってたわ」

「そりゃ随分と浮ついたイメージだな? お前の中で俺はどんな野郎なんだ? 興味あるぜ。

 ……だが生憎(あいにく)、俺にはそんな器用な真似はできんのさ」

 

 呆れたように笑って、張はくわえた煙草に火を点ける。

 

「で、エレン。俺がモテるとお前は困るのか?」

「……別に。困らないわ」

 

 エレンは視線を逸らしながら、ぽつりと小さな声で答えた。言ったあとに、言葉尻に拗ねたような色が滲んでしまったことに気づくが、張は特に気に留める様子もない。

 彼は煙草の煙をゆったりと吐き出し、微かに笑った。

 

「そうかい。じゃあ、俺が誰と恋仲になろうが気にしないってことだな? そりゃ寂しいぜ」

 

 エレンは無意識に奥歯をぎゅっと噛みしめる。

 やはりそんなエレンに気がつく素振りもなく、張は煙草を唇の間で遊ばせるように揺らし、それから視線をちらりとこちらに向けた。

 

「俺はこう見えて一途な男なのさ」

 

 そう言うと、張は長くなった煙草の灰を叩いて灰皿に落とす。ゆらゆらと漂う紫煙の向こうで、彼はどこか遠くを見るように視線を投げている。

 

「……最近、気になる女がいるんだが、そいつはどうにも鈍感な奴でな。……こんなに側にいるのに、俺の気持ちにゃ、気づいてくれないらしい」

 

 そう言うと、張はエレンの瞳を射抜くように見つめてくる。彼の焦げ茶色の瞳は、いつもどおりの落ち着いた眼差しを湛えている。

 

 エレンは目を見開いた。心の底がソワソワし始めてどうしようもない。自分が期待した通りの答えが、今ならそこにある。そんな気がした。

 

「……それは、誰のことなの? 教えてくれないかしら……」

 

 はやる気持ちに微かに震えるエレンの言葉に、張はふっと口元を緩めた。

 

「さあ、な」

「……ずるいわ」

 

 不満を隠さずに表情にするエレンを宥めるかのように、張は彼女を引き寄せると、その額に自らの唇をそっと押し当てた。

 

「っ……」

「今はこれで我慢しておけ」

「……」

 

 納得いかない気持ちに眉間にシワを寄せるエレンに、張は困ったように眉を下げ(おど)けたような笑みを浮かべながら、空になったコーヒーカップを手にキッチンへと姿を消した。

 

 その場に取り残されたエレンはうつ向く。唇を噛むことでしか、うずまく感情を抑える(すべ)がない。

 

(どうして……言ってくれないの)

 

 お前が好きだ、その一言が欲しいだけなのに。

 ふとロックの言っていたことを思い出す。言葉だけが感情を伝える手段ではないと、彼がそう言っていた。

 

 思い返してみれば、張の触れる指先や唇からは確かに優しさのようなものを感じた、だが、確信は持てない。それはエレンが彼を愛しているからゆえの思い込みかもしれず、自分だけの一方通行の想いだったらきっと深く深く傷ついてしまう。

 

 こんなふうに、言葉が全てではないというロックの助言を信じたくても、あと一歩それに足りるものがない。どうしても実感を持つことができない。

 もしかすると、自分以外の人間は当たり前に理解していることなのだろうか? 

 

(だって、私は自分の過去すら知らないのに何を信じればいいの?)

 

 胸の中に広がるモヤモヤとした感情を振り切るように、エレンは首を振る。

 

 ──自分は彼に何を望んでいるのか。好きだというたった一つの言葉。彼も自分と同じ気持ちでいてくれるとわかったら、どんなに幸せになれることか。

 だが、それがなかったとしても側にいられるだけでも充分に心が穏やかになる。それならいいじゃないか、望まなくても。

 

 そう納得しかけるたびいつもエレンの胸を刺すのは、数々の思わせぶりな張の言葉の記憶。さっきのだってそうだ、ふとしたときに彼が言う、エレンの感情をこれでもかと揺さぶって惑わせる甘い言葉。

 

(私の期待通りだとするなら、なぜ好きと言ってくれないの?)

 

 たどり着く答えはいつも同じだ。きっと、エレンは特別ではないから。同じような女性がいるから。だから、好きだなんて言う必要もない。

 ──考えるだけで悲しくなる。

 

(でも、可笑しなことを言って関係が壊れたら嫌だもの。彼の側にいられる、このままでいいわ。このままで……)

 

 どこかで彼に見捨てられたくないという想いがあることを自覚して、エレンは自己嫌悪に陥りながら、張が用意してくれたトーストにかじりついた。

 やり場のない気持ちは、ザクリと小気味好い音に交じって消えていった。

 

 

 ***

 

 ──おいおい、鈍いにも程があるぜエレンよ。張は心の中で呟いた。

 煙草の煙は浮いたそばから、キッチンのレンジフードへと吸い込まれていく。エレンが「誰のことなの?」と尋ねたことに、張は驚きを隠せなかった。

 

「どこの世界に好きでもない女のご機嫌をとる男がいるってんだ」

 

 昨夜のことを思い返しながら、張は恨みがましく独り言を呟く。

 それからちらりとリビングへ視線を向けた。カウンターの向こうに見えるエレンの姿はがっくりと項垂れていて、まるで萎れた花のようだ。

 

「……あいつだって俺のことが好きなはずなのに、なぜしょんぼりしてやがるんだ?」

 

 張は確信していた。エレンは自分のことを好きなはずなのに、なぜこんなにも落ち込んでいるのか? 

 行動で伝えているつもりだった。だが、やはり女というものは「言葉」を重視する生き物なのだろうか。そもそも考えの違いもあるから、仕方がない部分もあるのは理解できるが、これだけ好意を表しているのだ、直接「好き」と言わなくても伝わるだろう──そう考えていた。

 

 だがどうやら、エレンには伝わっていないらしい。

 

 張にだって、自分がズルい男だという自覚くらいはある。

 からかったり試したり、そんな態度がよくないのだろうと想像してはいても、彼女の怒った顔が見たいというエゴが勝ってしまうのだ。

 そして結局、本当の気持ちを口にすることができた試しがない。

 

「恋愛ってやつは、好きだとか言う方が野暮じゃないのか?」

 

 張は呟いた。それは言い訳だった。こういう関係では、自分のペースを保つことが大切だと考えていたし、曖昧さが心地よかった。

 見えそうで見えないエレンの気持ち、そして自分自身の気持ちを探り合う、駆け引きというものが楽しいと思っていたのだ。

 

 だが、このままではいつまで経っても伝わらないのかもしれない。そのうちに、エレンが愛想を尽かして自分から離れていく可能性もあるのではないか。

 

 張は煙草を灰皿に押し付けると、すぐにもう一本取り出した。そのときふと、以前エレンが自分の煙草を奪って吸ったことを思い出し、自然と笑みが零れた。

 何気なく視線を下ろした張の目に、烏龍茶の袋が留まる。以前、エレンが飲みたがっていたものだ。いつの間にか、彼女がこんなにも生活の一部になっていた。

 烏龍茶を香港から取り寄せたときのことを思い出しながら、張は考えを巡らせる。

 

「好き」と言うことでエレンの不安を解消し、関係を明確に進めるべきなのか。それとも、この曖昧さを保ちながら彼女の気持ちを試し続けるべきなのか──張の中でその二択が激しくせめぎ合っていた。

 しかし、張が一言、エレンに「好き」と言うのはリスクの大きい選択でもあった。それはすなわち、彼女を自分の人生に深く引き込む行為であり、彼女を危険に晒す可能性も孕んでいた。組織とのバランスを考えると、躊躇せざるを得ない。

 だから、今のままのどっちつかずの関係の方が、お互いに都合がいいはず──そう思ってきたはずだった。

 

「──しかし、彼女の危険、なぁ」

 

 そんなことを女に対して考えたことはあっただろうか? 

 彼女に幸せかどうかを問うなんて自分らしくもないことをしてみたりと、長らく続けてきたはずの“いつものペース”というものを乱されている実感がある。

 

 一向にまとまる気配のない考えを捏ねくり回しているうちに、咥えているだけの煙草は、いつの間にか灰が長くなっていた。

 ふと昨夜のエレンを思い出す。

 彼女は泣いていた。両親のことを突然思い出した、と涙を流していた。

 以前彼女が言っていた、ロアナプラに来る以前の記憶がないという話。記憶喪失という彼女の状況は、張には想像もできないが、きっと不安でたまらないのだろうということだけは理解できた。

 

 エレンは誰かに縋りたいだけなのかもしれない。それが偶然、自分だっただけということだとしても、彼女を安心させることができるのなら、それでいいのかもしれない。

 必ずしも言葉に表すことだけが、人間の関係の全てではないのだから。

 

「なんにしても、エレンが俺を頼りにしてるってのは、間違いなく事実なわけだからな……」

 

 ついこの間、言葉が足りないのは悪い癖だと認識したはずなのに、いざとなると言い訳ばかりだ。張は自嘲するように口角を引き上げた。

 ちっとも吸わずに灰になってしまった煙草を灰皿に捻り潰すと、張は誰も聞く者がいない口上を続ける。

 

「しかも、俺の誘いに毎回応じてるあたり、俺のことを嫌いなわけじゃあないってことだ。

 ……やっぱりな、間違いない。あいつ、俺に惚れてやがる」

 

 満足気に頷いたあと、張ははたと動きを止めた。心臓の辺りが妙な感覚だ。おまけに、気が付かないうちに口角が上がっているではないか。

 ──なんだこれは。

 今まで感じたことのない感情。胸の奥底で何かが燻るような、しかし不快ではない不思議な熱が生まれたのだ。それはじわりと広がり、やがて身体中を満たしていく。

 

 そう、これは──喜びだ。

 身体の関係だけでも十分だったはずなのに、エレンの心がこちらを向いているとわかった瞬間の高揚感たるや、とても言葉では言い表せそうもなかった。

 

 ──やっぱり本気になっちまったんだな、俺は。

 

 長い思案の果てに、ただ、それが分かっただけだった。

 

「──クソッタレ。なんてことだ。これじゃ、まるで俺ばかりがお前に惚れてるみたいじゃないか」

 

 ──それなら、言うか? この俺が、香港三合会、金義藩(カンイファン)白紙扇(バックジーシン)の張維新が。

 一人の女に、あの女に、エレンに。「お前が好きだ、愛している」と? 

 まったくお笑いだ、恋する若者じゃあるまいし。いい年の男がこんな不格好なことができるものか。いやしかし──巡る考えは迷路のようで、出口が見えなかった。

 

 この年になってまだ見知らぬ感情に出会うとは。

 

「……こりゃあ、お互い先が長そうだぜ、エレンよ」

 

 張はやり場のない気持ちを持て余したまま、カップにコーヒーを注いだ。そして、心の揺れも迷いも残るそのままに、一気に飲み下した。

 

 ***

 

 その日、(リュウ)は知った。──本当に驚いたときというのは、言葉なんて禄に出ないものなのだと。

 

 張の社長室の前のエレベーターホールで見張りをしていた劉は、あくびを噛み殺しながら腕時計を見た。まだここに立ってから二時間程度しか経っていない。交代まではかなりの時間が残っている。それでも、もうすぐ昼休憩に入れるだろうか、などと思いながら、劉は上司である張のことを考える。

 

 昨夜の張は、三合会の表向きの方の事業である、ケーブルテレビの配給会社──熱河電影公司(イツホウデンイェンゴンシ)の社長として、パーティに参加することになっていたのだ。

 そのパーティに、護衛兼パートナーとしてエレンが呼ばれたと聞いて、劉はすぐにでもパーティ会場に駆けつけたいくらいだった。だがそれはもちろん叶わない。自分の担当する業務でもないのに、首を突っ込むわけにはいかないのだから。

 

「ドレスを着たエレンさん……綺麗だったんだろうな……」

 

 劉は頭の中に、ドレス姿のエレンを描く。想像の中の彼女は、美しいドレスに身を包み、劉に微笑みかける。

 ほうっと幸せなため息が漏れた瞬間、社長室のドアが開いた。

 劉は慌てて姿勢を正す。張大哥(チャン兄貴)に、ボーッとしているところを見られるわけにはいかないからだ。少し緊張しながら、ドアを見つめていると出てきたのは──エレンだった。

 

 エレンが、張の自宅から出ていく。

 こんな、朝に、いや、もう昼だな、昨夜から二人は一緒だったはず、それってつまり……劉の頭の中は混乱でぐちゃぐちゃだったのに、彼の口から出たのはこんな言葉だけだった。

 

「あ、エレンさん、……こんにちは」

 

 エレンの顔が見られず、劉は半ば無意識に顔を背けて挨拶をする。

 エレンはというと、挨拶もそこそこに会釈程度でエレベーターに乗り込んで行った。

 

 その場に一人になった劉は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

「あれ……俺、……やっぱ失恋、したみたい……あはは……」

 

 ____

(Quello ch’io provo Vi ridirò,

 È per me nuovo Capir nol so.)

(僕が感じていることを説明します、

 初めてのことなのでよく理解できないのです)

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