誰かの腕に包まれている気がする。それはとても力強くて、温かくて──
(……ここは、……どこ……?)
未だ焦点の合わない目でぼんやりと辺りを見回したエレンは、自分がベッドに寝かされていることに気がついた。もやがかかったような頭で考えを巡らせても、なぜ雨の中で野垂れ死ぬはずだった自分がべッドにいるのかわからない。
「エレン、気がついたかい?」
突如降ってきた男の声に、脳が言葉の意味を理解するより前にエレンは跳ね起き、銃を抜こうと手を伸ばす。それは身体に染み付いた反射的な行動であった。
しかしすぐに、腹部に走った鋭い痛みがエレンの動きを封じる。
「……うっ!」
「駄目だ、まだ動いちゃ!」
声の主がうずくまるエレンの体を支え、ベッドに戻す。
「動くと傷口が開くだろ?」
エレンの眼前で、この街にはおよそ似つかわしくないグリーンのネクタイが垂れ下がって揺れていた。
「……ロック?」
ようやく機能を取り戻したエレンのヘイゼルの瞳が、目の前にいる日本人の姿を捕らえた。いつもワイシャツにネクタイ、ホワイトカラールックを通すラグーン商会の一員、通称ロック。
「そうだよ、エレン」
その穏やかな口調に、エレンの戦意はあっという間に消え去った。
「私……どうして……」
エレンが跳ね起きた際に落ちたタオルを拾い上げたロックは、ベッドサイドに置かれた洗面器にそれを漬け込み、ギュッと力を込めて水分を絞ったあと再び彼女の額に載せた。
ヒンヤリとした感触がエレンの火照った頭にじんわりと伝わっていく。
「あんたのことは
( ──張──)
ひどく懐かしく思える名前がロックの口から出たその時、エレンの心に戸惑いをもたらした。
(──私を助けた? 張が。なぜ?)
エレンの気持ちを読んでか読まずにか、ロックは側の椅子に腰掛けて、いつもの柔らかな口調のまま続けた。
「張さんがね、エレンのことをラグーン商会に依頼してきたんだ。怪我が治るまで安全なところで匿ってくれって。驚いたよ」
ロックの“驚いた”には二つの意味があり、一つは友人であるエレンが怪我を負ったということ。もう一つは、あの張が怪我をしたエレンを助けたということだ。
***
──あの雨の日。
「よぅ、ダッチ。突然すまんな」
ラグーン商会に張が直々に尋ねてくるとは一体何の用だと、面々は顔を見合わせる。
血まみれのコートを羽織ったまま、張は軽く手を上げてみせた。そこにいる誰もが、彼自身の血ではないとわかっているが、それでも痛々しい姿であった。
「こりゃまた派手に汚したもんだ」
ダッチはサングラスを押し上げながら、張の姿をしげしげと眺めた。
「まぁな。それよりちょいと、お宅に頼みたいことがあってな」
コートについた血と泥を気にするように、張はそれを翻す。返り血も乾き切らないそのコートからは塵のようなものが宙に舞い、ダッチは顔を顰めた。
それに気付いた張も眉尻を下げ、ばつの悪そうな顔になる。
「あぁ、すまない」
コートを脱いだ彼は、それを部下に預けた。
「それで、張さん。頼みたいことってのは?」
張にソファに座るように勧めて、ダッチもその向かい側に腰掛けた。
「あぁ。実は女を一人匿ってもらいたい」
ダッチは張の言葉を聞くと、怪訝そうに眉をひそめた。
「張さん、うちは便利屋じゃないんだぜ」
「まぁ、そう言わんでくれ。怪我が治るまでの間さ。報酬は弾む」
張は胸ポケットから煙草を取り出すと、口に咥え、デュポン・クラシックの炎を近付ける。しかし、すっかり湿気てしまっていたようで、炎はチリチリと音を立てただけで、煙草に火を点けるには至らなかった。
ちょうどロックが様子見がてらに、盆に載せたコーヒーを運んでくる。
「どうぞ」
「あぁ、どうも」
テーブルにコーヒーを置いたあと、少し離れたところで話を聞いていたロックは、匿って欲しいという女性がエレンであることを知り驚きを隠せなかった。
「どうして、彼女がそんな……」
ロックの疑問に、張が答える。
「エレンのやつ、まぁ……何だ、ある事件に巻きこまれちまってな。今は俺が保護しているが、ほとぼりが冷めるまで匿ってやって欲しいのさ」
「怪我をしてると言ったな」
ダッチの問いかけに、張は黙って頷いた。
傍らで聞いているロックの口は、ますます大きく開いた。張がわざわざに頼みにきてるのだ、余程の怪我なんだろう。心配になる心から、思わず会話に加わろうとする。しかしすぐに、自分が口を出すことではないと思い直し、黙って成り行きを見守ることにした。
最終的には、少し難色を示しながらも、ダッチはその依頼を引き受けた。
張はいつもの
***
「私を、張が……」
その名を呟いたエレンには分からなかった。
たかがフリーの殺し屋ひとりだ。代わりはいくらでもいる。わざわざ助けるなんて、張にとって、三合会にとって意味があるとは思えない。街の支配者として、利益がないことを選択しても意味がないことなのに。
そう、エレンは自分の命を捨てるようにして張から目を背けた。
その後のことは記憶がない。恐らくそのまま意識を失ったのだろう。──しかし、あの時。
最後に見た張の顔が脳裏に浮かび上がる。
眉間のシワがより深く刻まれ、怒りとも悲しみともつかぬ表情で自分を睨みつける彼の顔が。
「……私のことなんか放っておいてもよかったはずなのに……」
すすけた天井が眩んで、エレンはかぶりを振った。
「エレン、まだひどい熱だ。当分は安静にしといた方がいいと思うよ。これからまた熱が上がるかもしれないし」
「え、ええ……」
まだ張のことが気になるのだろう、生返事をしたエレンを見ながらロックが微かに笑みを見せた。何かを含んだような日本人独特の曖昧な笑いに、エレンは思わず彼を追求する。
「……何?」
「いや? なんでもないよ」
そう否定しながらもロックはまだ笑っていた。
張のことが気になって仕方がない心を覗かれたような、見抜かれたかのような、そんな後ろめたい気持ちがエレンの口調を強くさせた。
「もう、何よ」
脇に置かれていた愛銃を手に取り鼻先に突き付けてやると、ロックはようやく笑うのをやめて両手を顔の側に小さく上げたのだった。
その直後、ドアが勢いよく開けられ、女が顔を覗かせた。
肩から刻まれた大振りなトライバルタトゥーに負けない強気な瞳と、大胆にカットされたホットパンツから伸びたしなやかな脚。ラグーン商会の“トゥーハンド”レヴィこと、レベッカ・リーだ。
「おーい、ロック。迎えに来てやったぜ。そろそろ次の仕事だ。よ〜お、エレン! 久しぶりに顔を見たと思ったら、なんだよ、無様な格好だな!」
「トゥーハンド……悪かったわね、無様で」
溜め息をついたエレンを見るなり、レヴィはポニー・テールを翻して大笑いした。
「あははは……! ま、誰だってヘマやらかすことくらいあんだろ。命があるだけ、儲けもんさ」
言いながらその唇に煙草をくわえると、ポケットからジッポーを取り出して火を点ける。紫煙を吐き出しながら、レヴィはエレンに向き直り、そのパッチリとしたアーモンドアイを悪戯っぽく光らせてニヤリと笑みを見せた。
「ま、アタイくらいになると、ヘマどころか、しくじったことなんかねーけどな。な、ロック」
話を振られたロックは苦笑いを浮かべながら頭をかいた。
「……はいはい、そうね」
エレンはまたしても溜め息をつきながら簡素に答えて、 そっぽを向いた。
まだ熱が高く頭がぼーっとし、傷はズキズキと痛んだが、頭のなかで考えを巡らせることだけはやめられなかった。──張のことを。
***
──それから2日。
エレンは未だ高熱にうなされていた。医者からもらった熱冷ましを飲んでいないことに気付いたが、今のエレンには飲むだけの気力もなかった。
熱に浮かされた頭の中で、張が見下ろしていた。暗いサングラスの向こう側で、張の瞳がエレンを見つめている。
あの瞳だ。
咎めているのか、はたまた嘆じているのかわからない、静かな瞳だ。
そういえば、直接彼のその瞳を見たのは
***
「なるほど、隠れ家と呼ぶのに相応しい場所じゃないか。さすがダッチだ、うまく手配したもんだな」
古びたアパートメント、張はその入口の前に立ち感心するように頷いた。
悠然と門をくぐると、まるで門番のように老人が座っていた。その老人は張を一瞥するとしゃがれた声で、「真ん中の部屋です」とだけ言い、また読んでいた雑誌に向き直った。
ドアの前に立った張は、わざとらしく大きな仕草でノックする。古びた木製のドアは、それだけでギシギシと軋んだ。
「エレン、俺だ。入るぜ」
立て付けの悪いドアを押し開けて部屋に入ると、ベッドに横たわるエレンの姿が目に入った。
彼女は荒い息を繰り返しながら、瞳を固く閉じていた。熱が高いことが一目で分かる。
──あれくらいでくたばるタマじゃない、と思ってはいたが、彼女が生きていることにどこかホッとしながら後ろ手にドアを閉めた。
それでも、怪我の後の熱が下がらないことには安心できない。彼の人生の中で、そうして死んでいった人間を何人も見ていたからだ。
張はエレンの傍らに立つと、そっと額からタオルをはがし、彼女の顔がよく見えるようにした。
苦しそうに眉根を寄せ、熱のせいで頬は痛々しいほどに赤い。
「ん……」
うなされた彼女の口から、呻き声が時折漏れる。額の汗を拭ってやると、かすかに瞼が震えた。
「……張 ……」
乾いた唇が小さく張の名を呼ぶ。眠っているわけではなかったのか、と耳を澄ましてみる。
「どうした、エレン」
だが彼女から返事はなく、 声にならない声で喘ぐだけだった。
「ふう」
一つため息をついた時、ふと手にしたままのタオルが温いことに気づく。
それを洗面器につけ、絞るとエレンの額にのせてやった。それと同時に、髪と同じ色をした長いまつ毛が震え、かすかにエレンの瞼が開く。
瞬きすら怠そうに、緩慢に瞼を下ろしたり持ち上げたりしながら、方向の定まらない弱々しい眼差しで辺りを見回すエレンに、張の姿が見えているのかは定かではない。
しばらく彷徨うように揺れていた視線が、やがて張へと注がれる。
「やあエレン」
「張……」
エレンは未だ夢と現の狭間にいた。
目の前は歪み、揺らいで、ぐるぐる回り、上下の感覚すらわからない。すべてがぼやけた感覚の中で、聴覚だけが唯一働いている。ひどく懐かしく感じる張の声だけが、エレンを辛うじて
「張、……どうして……?」
うわ言のように呟く。
「どうして……、助け……たの……」
そんなエレンを見つめて張は一言発した。いつも通りの、感情が読めない涼やかな声だった。
「さあな。……お前を気に入っているから、かもしれん」
その声が届いたのか定かではないが、再びエレンは瞳を閉じた。
「……」
何も言わなくなった彼女を見下ろしながら、ある感覚がふいに張の頭の中に蘇る。
あの日、あの雨の中、彼女が死ぬと思ったとき、何とも言えない気持ちになった。
死んでほしくはない。彼女が死ぬのは、残念だ。
──果たして思うのは残念、だけなのか?
「……俺はお前と、また会いたいと思ってるんだぜ」
言いながら、まるで励ますかのように張が彼女の手に触れると、エレンは微かに握り返すような動きを見せる。
その姿を見て張は安堵したかのようにふっ、と小さく息をついた。
ふとサイドテーブルに置いてあるカプセルが目に留まる。恐らく、解熱剤だろう。
「エレン、薬だ」
張がそう声を掛けると、エレンはほっとしたように口許を緩ませ、何かを探すように片手を上げ、ゆらゆらと彷徨わせた。
張は水差しの水とカプセルを口に含むと、宙をかくエレンの手を握り、そのまま自身の唇を彼女の唇へと押し当てた。
じわりと熱が伝わってくる。
──―熱い。
熱く柔らかいその唇を、隙間なく深く自分の唇で埋めた。そうして薬を流し込む。
「ん……っ」
口内に広がる水の感覚にエレンの体が動き、微かに
ごくり、エレンの喉が動き、薬を飲み下したことがわかると、そっと唇を離す。
ひとまずこれでいい。
エレンを見下ろしながら、その唇を見つめながら、張はなにか考え込むように自らの口許を手で覆い、身じろぎ一つせずそのままでいた。
しばらくののち、エレンの寝息が安定してきたころ、ようやく部屋を出ていった。
車に戻るとすぐに出発させ、シートに体を預けて張は自らを嘲るように笑い、誰にも聞こえないようにひとりごちた。
「──―どうかしてるぜ」
____
(Quam stultus!)(なんて愚か者!)