死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第10話 純白の思いは彷徨える(モブ女子が挑発してくる話)

 石畳の歩道を、足早に歩く男が一人。

 吹きつける冷たい風に、しっかりと巻き付けたマフラーを顎まで引き上げる。昼間だというのに、灰色の雲が空一面を埋め尽くし、あたりは薄暗い。

 

「これは、雪が降るかもしれないな」

 

 男はひとりそう呟くと、さらに歩調を速める。

 

「ん……?」

 

 少し進んだところで、男は足を止めた。歩道の隅で、少女がうずくまっているのだ。

 

 少女はどうやら泣いているようだ。身体を丸めてしゃがみ込むその肩は、すすり泣く声に合わせ小刻みに揺れている。

 こちらに背中を向けているため顔は見えないが、亜麻色のウェーブヘアーを大きなリボンで纏め、淡いベージュのコートの襟元にはファーがあしらわれていて、品の良い印象だ。

 

「ううっ……うっ、うぇえ……っ、うぅ……」

 

 少女は泣いている。背恰好からすると十代前半くらいだろうか。こんな女の子が、人気(ひとけ)のない道端で一体どうしたというのだろう? 男は少女に歩み寄ると、少しだけ身を屈めて彼女に声をかけた。

 

「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」

 

 できるだけ優しく声をかけたつもりだった。だが少女は泣き止む様子もない。

 小さな背中が震える様は、なんとも痛々しい。

 男は困ったように肩をすくめ、少女の後ろ姿を見つめるだけだ。

 その空気に耐えきれず、再び男は口を開くが──そのとき、少女のコートの脇腹付近が、ほんの一瞬膨らんだように見えた──

 

「なにか困っ──」

 

 言いかけた言葉は悲痛な叫びへと形を変えた──突然の衝撃と、身体を貫く鋭い痛みによって。

 

 彼の身体からはみるみる鮮血が溢れ出し、あとからあとから垂れ落ちて、足元の石畳を真っ赤に彩っていく。

 ──撃たれた? どこから? その答えを見つける間もなく、痛みに支配された身体は、男の意思に反して脱力していく。

 視界が闇に染まりゆく中、男の目に、背中を向けたままの少女の、コートの脇腹に開いた小さな焦げ跡が一瞬映った。

 

(ま、まさか、──この子、が──?)

 

 男の膝ががくん、と落ちて、自らが作った血溜まりに倒れ込む。そして、それきりピクリとも動かなくなった。

 

 

 開いたままの男の目は、もはや何も映してはいない。

 少女はうずくまったまま、顔だけを男の方に向けた。──涙に濡れるヘイゼル色の瞳は、無感情なようでいてどこか哀しげな色が宿っている。

 

 身体を丸め、自らを抱きしめるように回した腕の──その右手には、拳銃が握られていた。後方に向けたままの銃口、そこに取り付けられたサイレンサーの先端からは細い白煙が微かに漏れ出ている。

 そして、彼女のコートの脇腹付近には、ポッカリと小さな穴がひとつ空いていた。布を焦がしたその穴からは、かすかに硝煙の匂いが漂う。

 

 少女はようやく立ち上がると、零れる涙もそのままに、男を見下ろす。冷たい空気に、彼女の柔らかな頬は赤く染まり、微かに震える吐息は白く、風に流されては溶けるようにして消えていく。

 ──彼女は手の中の銃を、ぎゅっと握り締めた。グリップに木製パーツが施された、どこか高級感を醸し出すその銃は、少女の小さな手にはおよそ似つかわしくないものだ。

 少女は艷やかな長いまつ毛を伏せると、涙と一緒に言葉もぽろりと零した。

 

「……ごめん、なさい……」

 

 冷たい風が強く吹いて彼女のコートをはためかせ、背中を押す。風に誘われるようにして、少女はふらふらと足を前に出した。

 

「……帰ろう。早く……帰って、──」

 

 雪が、降り始めた。白い雪片が、ひらひらと少女の頭上から舞い降りる。

 降る雪の白さが、彼女の小さな足跡を徐々に、しかし確実に覆い隠していく。

 

 **

 

「──っ!!」

 

 ベッドから跳ね起きたエレンは、呆然と宙を見つめる。ヘイゼル色の瞳は、微かに揺れている。

 音一つ聞こえない空間で、自身の心臓だけがドキドキとうるさかった。

 

 ──嫌な夢を見ていた気がする。

 よく覚えていないが、不快な気持ちだけがもやもやと胸に引っかかり、重苦しく残っている。進んで内容を思い出したいわけではないが、これはこれですっきりしない。

 

「……嫌な、夢……、いつもの夢とは、違ったような……?」

 

 エレンはそう呟くと、艷やかな長いまつ毛を伏せて、何かから逃げるようにうつ向き額を押さえた。寝間着の襟元を握る手は、細かく震えていた。彼女の亜麻色のウェーブヘアーは、汗で首筋に貼り付いている。熱帯のロアナプラが蒸し暑いせいもあるが、どうやら酷く寝汗をかいていたようだ。

 

 カーテンの隙間からは、朝の光が漏れている。

 その光は、悪い感情を溶かしてくれるような清らかさに溢れていて、エレンはそれを求めて手を伸ばしていた。

 そこで、思い出す。

 そうだ、今日は(チャン)からの依頼があるのだから、気持ちを切り替えていかなくては。

 エレンはベッドから立ち上がった。そして、テーブルの上に置かれたものに視線をやる。

 

 箱に収まった一着のドレス。張からの贈り物だ。

 ──三合会の組員がアパートに尋ねて来たときは、エレンもいったい何が起きたのかと身構えた。だが、彼らは張から預かったという荷物をエレンに渡すと、何事もなかったかのように去っていったのだった。

 

 箱を開けたエレンは、その美しい布に思わずため息をもらした。ミッドナイトブルーと表現されるような、暗く深みのある青色のドレスだ。

 そこには張の手書きのメモが添えられている。

 

 “これを着て明日の八時、オフィスに来い。護衛は任せた。──お前のドレス姿を楽しみに待ってる、張維新(チャン・ウァイサン)より”

 

 エレンは自分の口元が緩むのを感じていた。

 またお洒落して彼と一緒に歩ける、その期待だけで心は躍り、足元が軽くなるようだ。

 

(デートじゃないのよ、浮かれちゃ駄目よ、エレン)

 

 自分に言い聞かせて愛銃の手入れを始める。

 そう、いつもどおりの自分だ、そう安心しかけたエレンの手から小さなネジが一つこぼれ落ちて、床に跳ねるのだった。

 

 ***

 

 力強く唸るエンジン音を響かせて、車は熱河電影公司(イツホウディンイェンゴンシ)ビルを後に、夜のロアナプラを走る。

 

「……貴方が直接出向くなんて、そんなに面白い情報を持ってるの? その(ひと)

 

 探るような響きを持ったエレンの問いに、張は咥えた煙草に火を点けながら答える。

 

「あぁ、まァな。それに、お前とこうしてデートの口実ができるのもいいだろう?」

 

 言葉と共に紫煙を吐き出しながら、口元に笑みを浮かべた張は、指先で自身のネクタイの位置を直した。張はいつもどおりの漆黒のスーツを身にまとっていて、その高級感のある仕立ての良さが、彼の持つ雰囲気を一層精錬なものとしている。整髪料で撫で付けたオールバックスタイルに、視線を覆い隠すサングラスが車内の僅かな灯りを反射して光る。まさに、圧倒的な存在感であった。

 

「似合ってるぜ、そのドレス」

 

 エレンはというと、張に贈られたドレスを着ている。

 そのドレスは、前身頃を首から吊り下げる形式のホルターネックで、胸元が開かないその代わりに、すべらかな肩と背中を露出するデザインだ。どこまでも透き通るように白いエレンの肌に、深みのあるブルーが鮮やかに映えている。動きに合わせて鈍い光沢の浮き上がる布地は、まるで星を散りばめた夜空のようだ。

 

「……ありがと」

 

 エレンは肩をすくめる。

 胸の下を布ベルトでマークするデザインは、嫌でもバストのボリュームが強調される。だから、太って見えはしないかと密かにエレンは心配していた。そのせいで、ウエストをきつく縛りすぎたかもしれない。時折、無意識にベルトを引っ張っていることに、誰も気づかないでほしかった。

 両耳には青緑色のイヤリング──張から()()()()ものだ──が、小さくきらめいている。

 ふわふわと柔らかなウェーブを活かしルーズにまとめた髪には、髪飾りがキラキラと輝く。その品は、ラインストーンと呼ばれる、特殊なカットを施した水晶を贅沢に散りばめたもので、光の当たる向きによってきらめきが表情を変えるさまは、さながら流れ星だ。

 

 ──この化粧も似合っているだろうか? エレンは車窓に映る自分を見つめて、ダークカラーのアイシャドウが塗られた目尻を何度か擦ってみる。張が喉の奥で笑いながら視線を投げてきたことに気づくと、慌てて前を向いた。

 

 やがて車は速度を落とし、とある通りへと滑り込む。

 

「さて、着いたようだぜ」

 

 張の手を借りて車を降りるエレンの、そのドレスの裾がさらりと夜風に流れた。細かい折り目に布地をたっぷりと取ったプリーツは、彼女の膝を軽やかに滑る。

 足元を彩るのは、華奢なデザインのサンダルだ。色は黒色だが、同色のスパンコールが敷き詰められていて、まるで熱帯魚の鱗のように夜の灯りに光を返している。

 

(──私もメイクの練習をしなきゃ。今回もヘアメイクチームにお世話になってしまったわ)

 

 そんなことを考えながら、エレンは頭上の看板を見上げる。溢れるネオンの輝きに、目が眩みそうだ。

 

 そこは、香港三合会の管理するクラブの一つだった。

 まさに闇に輝く宝石のごとく、豪勢の限りを尽くした内装。財を惜しまず使った贅沢な空間である。豪華なシャンデリアがキラキラと光を反射して、七色のプリズムを散らしている。

 張は部下たちを従えて、屈強な男たちが銃を手に見張りをしている店内を通り抜け、奥の個室へと進む。エレンも張の後について室内に足を踏み入れた。

 その部屋で待っていたのは、女だ。

 

晩安(こんばんは)、張さん」

「よぉ。あんたが“情報屋”さんかい?」

 

 目にも鮮やかな赤色のドレスを身に纏った、(なま)めかしい雰囲気の東洋人だ。肩や胸元を大胆に露出したスタイルからは自信が溢れ出るようで、その余裕は眼差しにも滲んでいる。女はちらりとエレンに視線を向けると、わざとらしく目を丸くして言った。

 

「ふぅん……この人が張さんの()()お気に入りなんですか?」

 

 言葉に小さな棘が含まれているような、意味ありげな言い方に不意をつかれるが、エレンはすぐに気を取り直すことにする。なにせ、今夜は仕事のためにここにいるのだから。

 

「エレン・リーフェンシュタール嬢だ。彼女は今夜の俺の護衛さ」

 

 張は女の向かい側にあるソファに腰を下ろすと、煙草を一本取り出して咥えた。すぐさま部下が火を灯す。

 

「よろしく、エレンよ」

 

 エレンがそう言うと、女は口元に手を添えクスクスと肩を揺らした。それから、いかにも含みをもたせた挑発的な視線でエレンを見つめてこう言った。

 

「素敵なドレスですね。なんだか……青花瓷(チンホワツー)の花瓶みたい。うふふ」

「え……?」

 

 言葉の意味のすべては分からなかったが、女のその馬鹿にしたような口調にエレンはすっかり面食らってしまった。花瓶と言われて喜ぶ人がいるのだろうか? 間違いなく褒めてはいないだろうということだけは理解できた。

 

「いえ、ごめんなさいね、悪気はないんですよ。なんかこう、思い出しちゃっただけで」

 

 女が続けてそう言うのに、張もつられるようにエレンに視線を向けたと思うと、小さな笑みを浮かべたのだ。

 

「……!」

 

 いよいよカチンときて、エレンは思わず眉を寄せた。まるで二人だけの言葉で、自分をわざと置き去りにして笑い合っている、そんな錯覚すら覚える。

 しかし、張は気づく様子もなく、ゆったりとした態度で煙草を口元に運ぶのだった。

 

「そろそろ、仕事の話をしよう、姐さん」

()()()()()の動き、知りたいんですよね? まずは一杯どうですか?」

 

 女は静かに微笑むと、張に向かって酒瓶を差し出した。そして話は始まる。

 

 *

 

 ──どれくらい時間が経ったか。

 離れたところから張と女のやりとりを見ていたエレンだったが、完全に疎外感を抱いていた。気にしないようにしても、気持ちが沈んでくる──仕事の話の割には、やけに楽しそうではないか? 

 張のサングラスの下のその口元は、愉快そうに弧を描いている。彼はいつもこんなふうに笑っただろうか? 胸がざわざわし始めて仕方がない。

 

 張と向かい合って話す、その女に目をやる。

 色気のある華やかな女だ。もしかしたら彼だって、こういうタイプが好きなのではないか。それに、同じ言葉で話せるほうがいいのではないだろうか。

 すっかり嫉妬に囚われたエレンの目には、女の(しな)を作るような仕草がやたらと目についた。女は、そのスレンダーなボディラインを強調するように上半身を反らせたり、長い黒髪を掻き上げてみたりと頻繁に体勢を変えている。

 女の赤いドレスは彼女の動きに合わせて肌に吸い付き、深いスリットから白い太ももが覗く。女が足を組み替えたとき、エレンには張の視線が一瞬、そこで止まったように見えた。

 

(──いま、張、あの(ひと)の脚を見たわよね?)

 

 それは気のせいだったのかもしれないし、そうでなかったのかもわからない。だがエレンは、張と女の親密そうな雰囲気に顔を背けたい思いになっていた。

 張は会話に集中し、エレンの動揺に気づくことはない。まるで、自分がここに存在しないみたいだ。なぜか惨めな気持ちにすらなる。

 ──あんな笑顔、自分以外の女性に向けないでほしい。いつの間にかそんなふうに思い始める始末だ。

 

 そんなエレンの姿に、女は気づいてるのかいないのか、ソファから腰を上げると、張の隣に座り直す。

 そして親しげに距離を詰めて張の肩に触れ、囁くように話す。二人はなにやら微笑み合い、楽しそうに話しているように見えた。

 女はエレンの方をチラリと見ると、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。それはまるで、勝ち誇るような微笑みだった。

 

 エレンはいつの間にか唇を噛んでいた。だんだんと降り積もっていく醜い感情が、溢れ出しそうになる。彼の恋人でもない自分には怒る権利なんてない、そう思うと余計に心が乱された。

 隣に立っていた(リュウ)が気遣うような視線を向けて、そっとエレンに耳打ちをした。

 

「あの……エレンさん、大丈夫ですか……?」

「……え? えぇ、大丈夫よ。ありがとう、劉」

 

 劉にそう言われたことで自分が酷い顔をしていたことに気づく。だが、胸のざわめきを抑えられない。

 わかっているのに、張の笑顔が、彼に触れる女の手が、頭から離れないのだ。

 

「ははは……、あんたにゃ敵わんな」

 

 張のその言葉が耳に入ってきたとき、エレンは心の中で何かがぷちりと弾けるのを感じた。もうこれ以上、あの二人を見ていたくない。この場にいたくない。

 

 そう強く思ったとき、女がハンドバッグを手に立ち上がる。そして、身を屈めてなにやら張に話しかけた。女の緩く巻かれた黒髪が、さらりと肩に落ちる。

 それから、ゆったりとこちらに歩みを進めてくる。甘い香水の匂いが、絡め取るようにエレンを包んだ。

 そして、すぐ側まで来た女は、エレンの耳元にその艷やかな唇を寄せて、まるで秘密を共有するようにこう囁いた。

 

「ふふ、張さんの熱い目……素敵ですよね? でも、あなたの可愛いキスじゃ、彼の飢えを満たしきれないんじゃないですか?

 ……わたしなら、彼を満たして……全部吐き出させてあげられるのに」

 

 声のトーンは甘い毒に満ちて、もはや棘を隠すこともない。

 

 女の言葉が終わると同時に、エレンは(きびす)を返すと、その場から立ち去ろうとする。身を翻した拍子に髪飾りが落ちて、大理石の床にぶつかる耳障りな音を立てた。それを気にすることもなく、エレンは逃げるようにその場を後にする。

 劉が慌てたように、その背中に声をかけた。

 

「あ、エレンさん……!?」

 

 ようやく、張が顔をこちらに向けたのを見て、劉は気不味そうに曖昧な笑みを浮かべた。

 

「……張大哥(アニキ)、何やってるんですか……。エレンさんを泣かせないでくださいよ……」

 

 劉が呟いた言葉は、張にもエレンにも届くことはなく、そのまま空気に溶けていった。

 

 ***

 

 女の声が、エレンの頭の中を反響する。

 想像の中では、張と女が睦みあっている。消したい、消えない、苦しい、辛い。

 彼を手に入れたいと思う女は自分だけではない、そうだと思っていたはずだ、でも実際に面することがこんなにも辛いとは。

 

「馬鹿ね、エレン……本当に、馬鹿みたいね……!」

 

 呟きながら早足で進むロアナプラの路地裏、ヒールがアスファルトを叩く乾いた音が反響している。

 遠くで銃声が聞こえる。いつもの潮の匂いでさえ寂しさを増幅するようだ。一歩進むごとに歩調に合わせて涙がぽろり、ぽろりと落ちる。

 

 追いついてきた張が、少し乱暴にエレンの手首を掴む。

 

「──捕まえた。おい、エレン。お前、護衛のくせに俺の側を離れるとは、ずいぶんといい態度だな」

 

 振り向きもせず、ぞんざいに振り払うエレン。

 その動作を受けた張は、何も言わずに再びエレンの腕を掴むと、すぐ側の壁に押し付けるように力をかける。

 背中を壁にぶつけて、エレンは涙の浮かぶ瞳で彼を睨み付けた。

 その眼差しに、僅かに動揺した様子を見せる張。いつもなら(ひょう)げた笑みの一つ浮かべて返すはずなのに、いまは驚いたように口を薄く開いている。そして思わず、といったように、掴んでいたエレンの手を放した。

 

「……なんだ、泣くようなことでもあったのか?」

「ないわ、何も……」

「……お前、何か誤解してるんじゃないか?」

「……してない」

「あぁ、もしかして、さっきの女と俺がどうとか、変な想像をしてるんだな?」

「してないわ……、貴方には関係ない」

 

 顔を背けようとするエレンに、なおも張は詰め寄る。

 

「関係ないだと? ……お前なぁ、──」

「──私が!」

 

 彼に続きを言わせることなく、エレンは言葉を被せた。涙がこぼれてしまわないように堪えるため、唇は不格好に曲がった。

 

「 ……私が、自分勝手で、我儘で、欲張りなだけよ……。それだけ」

 

 張は困ったように頭を掻いて、大きくため息をつく。

 

「よくわからんが、俺はそのどれもが大いに結構だと思うぞ。それくらいの気概がなきゃ、この街じゃあ暮らしていけんからな」

「よくないわ……。こんなの、よくないってわかってるのに……それなのに……」

 

 言葉尻は滲んで、もはや形にならなかった。瞳を閉じると、ぽろりと涙が一粒、エレンの頬を転がり落ちた。

 張が小さく息を吐いた音がして、エレンはまだ熱を持った目蓋を開く。珍しく、困ったような表情を浮かべた彼の指先が頬に触れ、こぼれた涙をそっと拭い去るように動いた。

 

「やれやれ……お前に泣かれるとどうにも調子が狂うな」

「ごめんなさい……」

 

 思わずそう言えば、張は答えの代わりにフンと鼻を鳴らして笑った。

 

「ほら、忘れもんだぜ、シンデレラ」

 

 そう言ってスーツのポケットをまさぐり、張はエレンが落とした髪飾りを取り出す。街灯の頼りない薄明かりを取り込んで、ラインストーンは小さく鋭い光を放つ。

 彼はそれを指先でつまむと、そっとエレンの髪に挿した。そして、口元にいつもの不敵な笑みを浮かべるのだった。

 

 ──やっぱり気障な人だ。気恥ずかしくなると同時に、その仕草に、哀しみに染まっていた心が少しだけ和らぐようだった。エレンはまだ涙に潤んだヘイゼルの瞳で、彼に微笑んで見せた。

 

「……ありがとう……」

 

 張はもう一度ため息をつくと、サングラスを指で押し上げる。暗いレンズの向こうの、彼の瞳の色は見えない。それでも、彼の声はたしかにいつもより真剣な色を帯びていた。

 

「……どうやらお前にとっちゃ、百回のキスよりも、言葉一つの方が効くらしいな。

 だが、()()()()を口にすれば、お前をこの街に縛ることになるんだぞ。

 ……それでもな、お前にそんな顔をさせるなら、俺は──」

 

 張の言葉を中断させたのは、場違いに朗らかな劉の声だった。

 

「張大哥〜! 時間ですよ〜!」

 

 水を差されたことで、張の面差しはみるみるうちに(ほど)けて、いつもの表情に戻っていった。やれやれと呆れたように眉を下げ、口元を結ぶ。

 

「はぁ……、戻るとするか」

「ええ……」

 

 ──この街に縛ることになると、彼はそう言った。張の言葉は、自分をそばに置きたいという願いなのか、それともこの街の呪いへの諦めなのか。この街で生きるなら、幸せは脆く、壊れやすい。そのことくらい、エレンにだって分かっているつもりだ。

 

(もしかして、彼は──私を本気で想ってくれているの……?)

 

 あの日、コートをかけてくれた手、イヤリングの贈り物、朝のスープの温度──あの優しさが、自分だけに向けた愛だったとしたら。

 一瞬だけ、甘美な期待が胸を熱くする。でも、すぐに冷たい疑念が這い上がる。

 そんなわけがない。張が本気で自分を想う理由なんて、あるわけがないからだ。エレンには過去がない。自分が何者かもわからないのに、誰かに愛される資格があるなんて、とても信じられなかった。

 だからこれもきっと、彼のからかいだ。「気になる女がいる」と笑ったときみたいに、そう、いつもの思わせぶりな言葉でエレンの心を弄んで楽しんでいるだけだ。

 それでも、彼の指先が涙を拭う優しさに、彼の愛を信じたい心が疼いてどうしようもなかった。

 エレンは立ち尽くしたまま、答えの見えない思案にすっかり囚われてしまっていた。

 

「ほら」

 

 そんなエレンに、張はそれだけ言って手を差し伸べた。

 

 差し出された手と張の顔を、目を丸くして交互に見つめる。そうして僅かなあいだ躊躇(ためら)ったあと、エレンは差し出された手に自分の手のひらをそっと乗せた。

 

 彼に手を引かれて、歩き始める。

 

 彼の固い手のひらを握ると、心の底に小さな灯りが灯るような気分になった。それは暗い心を優しく照らす月明かりの慰めにも似ている。

 

 手を繋いで歩くなんて、こんな些細なことが嬉しくて嬉しくて、気を抜けば心が喜びに震え出してしまいそうだ。迎えの車までの僅かな距離が、ずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。

 

 ロアナプラの夜風は生温かく、エレンの髪をそっと撫でて揺らした。

 こんなふうに彼に優しくされると、このままの関係でもいい、そう思ってしまう。そしてまた辛くなるのは分かりきっているのに、現状に甘んじている自分はなんて愚かなのだろうか。

 

 いつか、ちゃんと伝えたい──自分がどれだけ彼を愛してしまっているかを。でも、今はまだ、その一歩がとてつもなく遠く感じられる。

 

 ここから抜け出すためには、まだ勇気が足りない。

 たとえ哀しい結末を迎えることになるとしても、それすら受け止める勇気が必要かもしれない。

 すべてを捨てる覚悟でぶつからなければ、きっと彼との関係は平行線のままだ。

 たとえ拒絶されてもいいから想いを伝えたい、そんな強い思いに突き動かされるくらいでないと、きっと、とても言えない。

 

 この街は愛を許さない。記憶のない彼女を、ただ飲み込むだけだ。──だけど、もし──そんなこの街で愛が生まれたとしたら、それは他の何より大切で、闇の中で強く輝くのではないだろうか。

 

 握った彼の手は大きくて、温かい。少し先を歩く彼の背中を見つめるエレンの瞳は、頼りなく揺れていた。

 

 ──今はとても幸せで、そしてどうしようもなく辛い。

 

 またこぼれ落ちた一滴の涙を、エレンはこっそりと拭うのだった。

 

 __

(Mir ist, als ob ich die Hände Auf’s Haupt dir legen sollt’Betend, daß Gott dich erhalte So rein und schön und hold.)

(わたしはおまえの頭に両手を置いて神に祈らずにいられない、いつまでも清らかで美しく愛らしくいられるようにと)

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