エレンは袋から、ずっしりと重みのあるかぼちゃをそっと取り出した。果肉がぎゅっと詰まっているのが手に伝わる。
ひんやりとした表面に指先が滑る感触が、彼女の頬を緩ませた。
「……シンデレラは、カボチャの馬車に乗って、お城に向かいました、……なんてね」
夕食のメニューを考えながら、マーケットを見て回っていたそのとき、目に留まったのはころんと丸いかぼちゃだった。
そしてふと思い出した──張が口にした、“シンデレラ”という呼びかけを。
馬車なんて迎えに来るはずないのに──でも、ただのかぼちゃなら手に入る。
半ば衝動的に購入してしまったそのかぼちゃを抱えて歩きながら、そういえば、台湾にはかぼちゃを使った冷たいスイーツがあると誰かが話していたことを思い出した。
「……シェンホアなら、作ってくれるかも」
この街でかぼちゃを持って歩くなんて、自分でも滑稽だと思う。だけど、そんな気持ちを越える何かが、彼女の胸にはあった。
玄関のドアが開いた瞬間、エレンは笑顔の準備をしていた。かぼちゃを手土産に持ってくるなんて、自分でもちょっとおかしいかもしれないと思っていた。
「おう、噂になってるますよ、エレン」
出会って一番の言葉がそれだったので、エレンは面食らってシェンホアを凝視する。
エレンをリビングに招き入れてからも、シェンホアはコンパクトの小さな鏡を覗き込み、忙しなくファンデーションを顔に塗りつけながら話を続けた。
「私聞くました、お前が
──そういえばロックにも似たようなことを訊かれたような。
エレンは、手にしていたかぼちゃをそっと足元に置いた。まるで、今の話題には合わない気がしたから。
(──こんな話をするために来たわけじゃないのに)
それでも、シェンホアの話を聞き流すわけにはいかずに、エレンはいつものように冷静に返した。
「……別に、張の“女”になったつもりはないわ」
隠しているつもりはない。だが、三合会に出入りが増え、朝、張の元から帰る生活が続けば噂になるのも当然とも言える。
エレンは無意識に唇を尖らせた。
三合会に囲われる立場になると、他からの仕事が取りにくい。
──特に、ホテルモスクワからは。あの
「そうか? 本当ならよかたよ」
そう言うシェンホアの声は、どこか皮肉の混ざったものだった。リップスティックが彼女の唇の輪郭をなぞると、そこは瞬時に鮮やかな赤へと塗り替えられていく。
「これ大変すまないですけれど、私すぐ出かけるますよ。お仕事する、大事ね」
そう言いながら、シェンホアは指で唇の端を撫でて形を整える。どの角度から見ても形よく仕上げた唇は真紅に染まり、その鮮やかさはまるで美しい鎧だった。
そんな彼女の傍らに置かれているのは、一対の柳葉刀。シェンホアの商売道具であるそれらは曇り一つなく磨き上げられていて、鈍色の冷たい光を放っている。
エレンは一度、床に置いたかぼちゃに視線を戻す。小ぶりで、可愛らしい形──それが、今ではひどく場違いな存在に思えてきたからだ。
「その、これ……かぼちゃ……冷たいスイーツにできるって聞いたの。台湾で、食べるって」
どこか、言い訳めいた口調だった。
シェンホアはエレンを見ずに肩をすくめて言う。
「残念ね。今日は作るできないます。明日も無理かもね。ロアナプラ、いつデザート食べてる暇あるますか?」
エレンは、小さくため息をこぼした。せっかく持ってきたのに、と心の中で呟いたが、それすら声にはならなかった。
「エレン。噂は噂でもよいですけれどね。ヒト好きになる、目が見えなくなるます。仕事ミスして
唐突に発せられたその言葉に、思わずエレンは目をしばたたかせる。
「……哀しむ、かしら……張が……?」
平静を装ったつもりだったが、言葉の終わりはわずかに揺れていた。
シェンホアはようやくコンパクトを閉じて、エレンに向き直る。そして、呆れ果てたといったように、ため息交じりにこう言った。
「エレン、私すぐわかるますたよ。張大哥、特別お前に目をかけてるます」
エレンの動きは、はたと止まる。
どこに視線を向けたらいいか分からない。恥ずかしいような、嬉しいような、信じがたいような、そんな気持ちに、シェンホアの顔をまともに見られなかった。
「お前、どれだけニブチンか?」
シェンホアは苦笑する。それでも、彼女のその言葉には呆れだけでなく、ちょっとした愛情すら滲んでいた。
──張が、本当に自分にそんな感情を向けているのだろうか? もしかしたら、自分の中の望みだけではないのかもしれない。周りからそう見えているのなら、やっぱり期待の余地はあるのかもしれない。そんな自問自答を繰り返すことしかできない。
「大哥、お前気にいてる。お前も大哥好きか?」
その言葉に、エレンはシェンホアの目を真っ直ぐ見られずに、視線を逸らしながらぽつりと零す。
「──わからないの。自分でもよく」
「私たちの世界、ヒト好きになるあまりよいことないね。……少し哀しいですだよ」
シェンホアの皮肉とも本音とも区別のつかない口調は、ロアナプラで生きる女の優しさの形だった。
──よくわかっている。 ちょっとした油断が命取りになるのだ、エレン達が生きるこの世界では。
そんなことを考えながらも、目的を果たせなかったこのかぼちゃの実をどうするべきか、エレンは思いあぐねていた。
とりあえず──持って帰ろうか。この街で甘いものを夢見た証として。
***
赤い唇に挟まれた葉巻から、ゆらゆらと煙が立ちのぼる。それらは潮風に乗って、次々と海の彼方へ向かい消えていった。
バラライカの冷たいブルーの瞳が、弱くなった夕陽を受けて光る。
「感心しないわね、エレン」
その口調は穏やかだが、言葉の端には鋭い針が仕込まれていた。
──またか。 次の言葉は想像できる。
エレンは気づかれないように奥歯を噛みしめた。
「あなたらしくないんじゃない? 中立の立場、なんじゃなかったの?」
バラライカは、考えるように頬に指を当てるとわざとらしく首を傾げた。どこか芝居がかったその仕草すら、冷たく美しい。
俯いたまま一言も発しないエレンに、 バラライカは変わらぬ調子で話を続ける。
「勘違いしないで、責めてるわけじゃないの。どう生きようと、あなたの自由よ」
あまりにゆったりとした口調は、逆に心を冷やす。
エレンは俯いたまま沈黙していた。何も返せない。その自由が、時に一番残酷なのだ。
「ただ、そうなると──うちの仕事は、もう回せないわね」
静かに告げられたその言葉は、まるで粛々とした判決文だった。この街の“ルール”がたった一言で突きつけられる。
今、この瞬間──“中立の立場であったエレン・リーフェンシュタール”は、いなくなった。それは、この街の四大勢力の一つであるホテル・モスクワからの仕事のコネクションを失ったということだ。
エレンは何も返せずに、バラライカの横顔を見た。それは、まるで心底どうでもいいと言いたげな、取り澄ました無関心の顔だった。
「あなたもまだ若いものねぇ。いいと思うわ。明日のない命を生きるのも」
バラライカは小さく笑って、煙を吐いた。その笑みは感情の温度のない、ひどく乾いたものだった。その笑顔の裏に関心の欠片もないことを、隠す様子すらない。
そう、彼女にとってエレンー人など、関心を向けるに値する存在でもない。この街には、掃いて捨てるほど殺し屋は溢れている。
彼女にとってエレンは、歯車のひとつ、簡単に交換できる部品。彼女は最初からエレンに価値など見い出してはいない。必要とすれば使うし、切り捨てればそれきり。その合理性に、エレンは羨ましさすら感じていた。
エレンは視線を沖の方へと投げた。沈みかけた夕陽が弱々しい光を放ちながら、雲間へと姿を隠していく。
張の方へついたからという理由で失った、ホテル・モスクワとの繋がりは、エレンにはもう、惜しくはない。なぜならば、もはやエレンにとっての張は、代わりのいない、価値のある存在だからだ。
張でなければ、意味がない。彼でなければ、この街で明日も生きたいという意思すら消えてしまう。
間違いなく、彼でしか満たせない空白がある。何を引き換えに差し出したとしても、失いたくない存在──それが彼だ。それに気づいたのは、今だった。
もう、自分の心を誤魔化せない。シェンホアやバラライカと話してようやく、エレンはそこにたどり着くことができた。
──たとえ、愚かな夢と笑われても。
「バラライカさん」
突然、真剣な口調に変わったエレンを前に、バラライカは僅かに眉を動かした。その瞳には、訝しさと微かな好奇が滲んでいた。
「……ありがとう」
エレンの突拍子もない言葉に、バラライカは少し考えてから鼻を鳴らして答えた。
「……おかしな
その仕草は呆れか、小馬鹿にしたものか──判断はつかない。けれど、その唇は確かに弧を描いていた。
「では、また」
葉巻の煙をくゆらせながら、バラライカは去る。
ハイヒールが桟橋の木板を打ち鳴らすその音は、余韻を残すこともなく、ただ海の波間へと吸い込まれていった。
「若いっていいわね〜。ま、長生きしなさそうなタイプだけど」
その声は、エレンには届かなかった。
***
張に会いたい。気がついたら、駆け出していた。
呼吸は速く、胸の奥が焼けるような感覚。それでも足を止める理由は、どこにも見当たらない。
──張に、会いたい。
「めずらしいな、エレン。 お前から訪ねてくるなんて。どうした? ……なんだ、走ってきたのか?」
言葉より先に、エレンの身体は動いていた。
ドアを開けた格好のままの張に、思い切りその身を預けるようにして抱き付いた。
「おっ……と!」
いきなりのことにバランスを崩した張は、エレンを抱えたまま数歩後ろに下がることになった。
「エレン、一体どうし──」
「張」
張の問いが終わる前に、エレンはその胸に顔を埋めたまま絞り出すように声を漏らした。
「……貴方は、私のことを──」
顔を上げて、張を見上げながら言った。
「──私のことを、本当は、どう思っているの……?」
それだけ言ったあとに、彼の口からどんな言葉が返ってくるのか怖くなって、思わずエレンは視線を逸らし、祈るように強く目を閉じた。
心臓が早鐘のように打って止まらない。
ふいに、頬に暖かな感触。目を開ければ、張の手が頬に添えられていた。
何も言わないままの張が、エレンの唇を奪う。
いつもと変わらぬ柔らかな感触、その心地よさに身を委ねたくなるような優しさだった。
けれど、その甘さに溶けてしまう前に。
エレンは、一瞬だけ目を開けた。彼の胸の硬さを感じながら、意思を込めて両手に力を入れた。
もう、流されるわけにはいかない。この問いの先に進まなければ意味がない。だから、彼の胸をぐっと強く押し返していた。
「もうこれ以上、そうやって誤魔化さないで……」
「んん?」
張の声が、どこか戸惑いを含んだように揺れた。
「聞かせてほしいの……貴方は、……私のことを……どう、思っているのか……」
「どう、って……ずいぶん今更だな?」
「どうして、貴方は私と……会うの?」
「そりゃ、会いたいから、だろう」
「どうして、会いたいと思ってくれるの……?」
何度聞き返しても、彼から望む言葉は出てこない。そのことに、エレンは密かに苛立ちを覚え始めていた。
しかしそのことに気づく様子もなく、張は呆れたように盛大なため息を漏らした。
「おいおい……全く、伝わってないってのか? これまでの行動で? あんなに愛を込めて触ってやったのに?」
いつもと何も変わらないはずの大げさな仕草、
それは、エレンの神経を逆撫でするのに十分だった。すーっと頭に血が上るのが感じられて、次の瞬間に声を荒げていた。
「そうやって茶化すのはやめてよ! 貴方はいつもそうだわ。私をからかって、一番大事なことは言ってくれないのよ」
張は黙ったままこちらを見ている。そのことで余計に、心の底に生まれた小さな火にじわじわと焼かれていくようだ。
彼の沈黙が辛い。何かもっと良いことを言わなければいけないのに、彼に反発するような可愛くない言葉ばかりが出てくる。
なんと言ったら、望む言葉を引き出せるのか? それさえもわからないままに、焦燥感に駆られたエレンの口からは、噛みつくような言葉ばかりが飛び出した。
「こんなのは嫌なのに……でも、貴方に会いたいし、触れたいのよ。だから、会うのをやめられないの、貴方が本当はどう思っているかわからないままに。
貴方は私を受け入れてくれた。だけど、それだけだわ。
自分だけが特別だって思いたい……でも……そう言われてもいないのに、そんなふうに思っていたら、馬鹿みたいじゃない!」
「やれやれ、相変わらず野暮なやつだな……そんなのは、言わなくてもわかるもんだろう」
心の中を吐き出すことは、エレンにとって重大な決心だったのだ。持てるすべての勇気をかき集めた、それだけの決意が必要だった。
それなのに、張はいつもどおり淡々としていて、自分と同じ熱量で話してはくれない。それは憤るエレンの感情の炎に、油を注いで風を送った。
もはや語気を強くすることでしか、折れそうな心を守るすべがない。
「どうしてわかるの? 気持ちには、目に見える形がないわ。私の気持ちが、貴方にはわかるっていうの?」
「わざわざ口にしなくても、お前だってここに来て俺との関係を続けているのは、そういうこと──俺と同じ気持ちだからだと思ってたぜ。
お前がここに来る、俺がそれを拒まない、のが証明みたいなもんだろ?」
いつの間にか瞳に涙をいっぱいに溜めたエレンが、挑むように張を見つめる。
その眼差しに含まれた怒りと悔しさ、そして隠した哀しみ──果たしてそれらが張に伝わったのか、定かではない。しかし彼は拭き取ったように表情を変え、真面目な顔になった。
「それだけじゃ足りないのよ。それだけじゃわからないのよ、私には!
目に見えないものをどうして信じられるの? どうして、そこにあるって確信できるっていうの?
この気持ちは、きっと私だけの一方通行なんだって思っていたわ。でも、もしかしたら……って思うこともあった。
だけど、確信するには足りなくて、考えるたびにわからなくなった……。
わからない…………わからなかったわ。だから、私は、ずっと……」
そこで言葉はもう出ない。エレンのヘイゼルの瞳からは、透明な雫が次から次へと湧いてきて、ポロポロと頬を転がり落ちていく。
──哀しくて仕方がない。望む言葉を言ってもらえなかった事実、彼の言葉を引き出せなかった自分の力不足を思い知らされるようで、とてつもなく深く重い無力感がのしかかる。
自分の想いが届かないもどかしさというものは、こんなにも辛いものなのか。彼と自分の間にある見えない壁を打ち破れない悔しさ、心が通じ合わない虚無感、それらが一体になってエレンの心を襲った。
奥歯を噛み締めても、しゃくり上げる息に喉が震える音は止めることができなかったし、肩はそれに突き動かされるように大きく揺れた。
そんなエレンを見下ろして、張は静かに口を開いた。
「言葉がそんなに大事か? 今ここにある、この瞬間よりも?」
「そうよ、大事だわ……」
やっとのことで涙を抑えて、エレンは答えた。
「……そうかい」
そう短く言って、それきり黙り込んだ張が何を考えているのかはわからない。
けれどエレンには、彼のそのあっさりとした一言が拒絶にしか聞こえなかった。
張の沈黙が、自分を冷たく突き放すようで、心がヒリヒリと痛かった。
噛み合わないままのお互いの想いは、どこかに浮いたまま交わることがない。焼け焦げてしまいそうな苦しみが胸の奥で膨らみ続けて、それでも張は何も変わらぬ態度のままだ。それがどれだけ残酷なことか、きっと彼は分かってはいない。
重く渦巻く感情は出口を求めて、怒りとして表面に噴き出していく。
「確かなものなんてなんにもないじゃない! 私は、私がどんな人生を送ってきたかすら覚えていないわ。自分のことさえわからないのに、言葉さえなかったから、何を信じればいいっていうの? ねぇ、教えてよ!」
エレンの縋るような言葉にも、張は僅かに顔を伏せただけで、ただ静かに続けた。
「この街で生きていくってのは、そういうことだ。……お前もわかってたんじゃないのか?」
「わからないわ! わからないわよ……!」
──私はたった一言、貴方から好きだという言葉が聞きたいだけなのに。どうして……どうして、言ってくれないの?
それは子供じみた願望だと、エレンにだって分かっていたはずだった。それでも、心の底から張の言葉を待っている自分がいるのだ。
「あのな……、」
それだけ言うと張は何かを押し留めるように、わずかに顔を伏せた。
一言で済ませられない葛藤が、その眉間に宿っている気がした。
吐き出すか、飲み込むか。彼の喉元でせめぎ合っているような、そんな気配。エレンは、なぜかその静けさに息を呑んだ。
「もし俺が一言、その言葉を言えば、お前は俺の
「……え……?」
思ってもみなかった張のその言葉に、エレンは頬を伝う涙すら忘れたように、彼を見つめた。
「ロアナプラで愛だの情だの、生っちょろいことを言ってる阿呆は生き残れん。お前も良く知ってるはずだ、エレン。
どういうわけかその手の感情は、うんと軽い、
そうさ、だからこの街で愛を口にすりゃあ、お前はもう、
そう告げる張の瞳は、エレンを見ているようでいて、どこか遠くを見ている。
エレンは呆然としていた。彼の言葉ははっきりと耳に残ったのに、それが何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。
思考が追いつかない。張の言葉があまりにも意外すぎて、思考が真っ白に塗り潰される。
彼の気持ちに触れたようでいて、何も掴めていないような──そんな釈然としない感覚が胸に広がっていた。
(弱点? 私が──張の? )
張の胸に、そんなふうに自分がいるなんて。
だけど、だったらその想いが、どうしてこんなにも遠くにあるのか、エレンには理解できなかった。
(私は、彼の……危険要素でしかないの?)
なんて言っていいかわからず、でも何か言わなければと、まるで酸素を求める魚みたいに口を開いてはまた閉じる。
喉元までいくつも言葉が浮かんでは消えていく。口を開けばなにか言えそうなのに、どれも正しくない気がして、声にならなかった。
そのとき、リビングで電話が鳴り響いた。張は躊躇することもなく電話の方へと向かい、受話器を取った。
「
張の声は、知らない誰かに向けて流れ出した。まるで、ここにエレンがいないかのように。
彼の言葉はすべて広東語で、意味は分からないのに、何故か胸の奥に重く響いた。
さっきまで張と交わしていた言葉が、いつの間にか外の世界へと奪われていく。エレンはその場に取り残されたような気分になっていた。
やがて通話を終えた張は、なんの
「……すまんが、ちっと出かける用ができた。数時間で戻る、お前が居たきゃ居ろ」
その去り際に、張がエレンへと顔を寄せた。それはいつも通り、挨拶のように交わされるはずの仕草だった。
けれどエレンは、ほんのわずかに顔を背け、避ける。触れられることさえ、今は答えを濁されるようで、拒みたかった。
張は何も言わず、黙って部屋を出ていった。
エレンはその背中を追いかけようとはしなかった。
静まり返った室内には、いつもと同じ、彼の残り香だけ。
──言葉にしてもらえなかった。ただ、それだけのことなのに。どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。
自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。
しばらくの間、エレンは何もせず、何も考えられずに立ち尽くした。
その場に続ける理由も、離れる理由も見つからないまま──それでも、やるせない気持ちに背中を押されて、ゆっくりと彼の部屋を後にした。
どうして、愛しているのに通じ合わないの? どうしてこんなに苦しいの?
──どうして、何一つ伝わらないの!
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(Les fleurs n'ont déjà plus de parfums; le vent du nord va les faire tomber.)
(花々はもう香りがしない、北の風がそれを失わせたのだ。)