死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第12話 朝にはきっと咲くでしょう(張ともう一度向き合う話)

 

 熱河電影公司(イツホウディンイェンゴンシ)ビルの裏手。

 ケーブルテレビの配給会社という隠れ蓑を被っているだけあって、搬入口らしいシャッターや機材の積み込み用の台車がお飾りに並んでいるが、辺りは静まり返っている。

 通りから奥まったこの場所は、表の喧騒とは無縁だ。ただ遠くから車の走行音や銃声が時折響くくらいで、ほとんど空気さえ動かない。

 

 木箱がいくつか積まれた一角に、エレンは静かに腰を下ろした。座り込み、膝を抱えて身体を小さくするように丸める。

 足元の舗装は割れていて、間から草が顔を出している。雑草なのだろうか、連なった小さな蕾が項垂(うなだ)れていた。

 その眺めすら、今は心に入り込んでこない。先程のことを思い出すと、胸が押し潰されそうになる。吐き出せなかった想いが喉につかえて、何度も飲み下すしかなかった。

 夜風がエレンの頬を撫でる。潮気を含んだ風が、涙の代わりに頬を濡らしていく。

 

 ふいに背後から、靴音が聞こえる。そして、少し慌てたような、若い男の声が響いた。

 

「エレンさん……? どうしたんですか……?」

(リュウ)……。ええ、ちょっとね……なんでも……なんでもないの……」

 

 まだ濡れたまつ毛を指先で拭いながら、エレンはそこにいた劉に向かって小さく微笑んでみせる。何事もないような調子で話したつもりでも、その瞳には赤みが残り、涙の痕跡は消えていなかった。

 

 劉が、側に腰を下ろす。

 

「なんでもない顔には見えないですよ……。

 張大哥(チャン兄貴)と喧嘩でもしたんですか? あの人、変なところで意地っ張りというか、プライド高いっていうか……頑固なところありますからねぇ。俺も部下として苦労してますよ」

 

 訳知り顔をして首を振る劉の姿には、わざと生意気な若造を演じてるかのようなコミカルさがあった。それは少しだけ、固かったエレンの表情を和らげる。

 

 二人の間に、沈黙が流れる。

 夜空には無数の星々が明るく輝いている。熱帯の生暖かい風が頬を撫でるのを感じながら、エレンはまた俯いた。

 すると、隣で空を見上げていた劉が、おもむろに口を開く。

 

「……もう何年前になるのかな……俺、張大哥に拾われたんです」

 

 夜風に誘われるようにして、劉はポツリポツリと語り始めた。

 

「俺、何かになりたくて……強い奴に憧れて、生まれた街から香港に出て来たんです。それで、知り合った悪い仲間とつるんでて、若気の至りですかね、三合会の縄張りと知らずに色々と……やっちゃったことがあって、ある日ついに組員に見つかってしまって……。まだロアナプラに来る前の張大哥が、その場に居たんですよ。

 仲間はもう、組員にギタンギタンにされましたよ。俺も正直、すごく怖かったんですけど……体術だけは自信あったから、半ばヤケクソで張大哥に掴みかかったんですよ。……今思えば無謀すぎますけどね。

 だって、大哥の視線は、俺が踏み込む前からもう次の動作を見切っていたんですよ。

 だから、本当にあっという間に……いや、『あっ』て言葉すら出せなかったです。俺、気がついたら冷たい地面に叩きつけられて夜空を見上げてたんです。そして、大哥の足が降ってきて、鳩尾(みぞおち)に思いっきり食い込んだんです。息ができないし、身動きも取れない。足一本で踏まれてるだけなのに、跳ね返して起き上がることもできなかったんですよ。そんなに力を入れてる様子もないのに。

 張大哥は、そのまま、煙草に火を点けると煙を吐きました。暗い夜空に、白い煙が流れていくのがなんでかキレイに見えましたよ。おかしいですよね、これから殺されるかもしれないっていうのに。でも俺、あのとき感動してたんです。この人は、間違いなく強い男だ、って。俺もこの人みたいになれたら、って。

 そしたら、大哥は俺を見下ろして言ったんです『おい小僧、最後に何か言いたいことはあるか?』って。

 ……俺、気がついたら『あなたみたいな強い男になりたいです』って言ってたんです。

 そうしたら張大哥、すっごく意外そうな顔をしたあと、笑ってくれたんですよ」

 

 そこまで話し終わると、劉は照れたように微笑んだ。

 そんな彼を見ながら、エレンの心には、懐かしさにも似たような感情がこみ上げていた。劉に向けたという(チャン)の笑顔すら、目の前にあるように想像できる。それは、自分が初めて張と対峙したときの記憶と重なるものがあったからだ。──絶対的強者と出会った時に感じる、圧倒的な恐怖と、一匙の高揚感。

 

 彼は皆にとって、先を歩く人間。皆、彼の背中に憧れるのだ。

 そして劉もまた、エレンと同じく、張と出会って人生を変えられた一人だった。

 

 改めて彼の存在感に触れて、エレンの胸にはなぜか誇らしい思いすら湧き上がってくるようだった。

 

「張大哥みたいになりたい、ずっとそう思ってきました。でも、今はなりたくないです」

「……?」

「エレンさんを泣かせる大哥なんかには、なりたくないです」

 

 劉は足元を見ていた視線を上げると、決意したようにエレンの方へ向けた。

 

「俺なら、こんなふうにエレンさんを哀しませたりしないのに! 俺は……エレンさんのことが、好きです」

 

 そう言い切った劉は、背筋を伸ばしてエレンを見つめている。

 真剣な瞳は揺らがず、彼の想いをまっすぐに伝えてくる。けれど、頬の赤みはどんどん広がって、額も耳までもが火照っているのが一目で分かるくらいだ。

 エレンは目を瞬かせながら、その顔から視線を外せずにいた。

 

 その沈黙に耐えられなかったかのように、みるみるうちに劉の姿勢が崩れる。力が抜けてしまった様子の彼は、まるで軟体動物のようにくにゃりと上半身を投げ出している。

 

「……なんて、はは……こんなこと、俺に言われても困りますよね。大哥じゃなきゃ、意味ないですよね……。エレンさんが好きなのは、張大哥だ」

 

 その言葉にエレンの表情がゆっくりと(ほど)けていった。

 

「……そう、私……張のことが、好きなの……」

 

 口に出してみて改めて、認識できた気がした。

 

「だから、同じ気持ちでいてくれるかもって、それを確かめたくって……でも、彼は何も言ってはくれなかった。

 彼が先に好きだって言ってくれたら、私も想いを伝える勇気が持てるのにって、そう思ってた……他人任せね、笑っちゃうくらい。バカね、私から先に伝えれば良かったのに」

 

 自嘲するように小さく笑ったあと、エレンは胸につかえたものを追い出すように、大きく息を吐いた。詰まっていた何かが取れたような、そんな開放感があった。その気持ちに導かれるように、抱えていた膝をそっとほどくと、空に向かってぐーっと両腕を伸ばす。縮こまっていた身体が伸びて、思わず気の抜けた声が漏れた。

 夜風に髪が揺れるのが、なぜだか心地良く感じられる。

 

「ありがとう、劉。貴方が伝えてくれなかったら、私は貴方の思いを知ることができなかったわ。……目の前の相手が気持ちを話してくれるって、こんなに嬉しいものなのね」

 

 それから真っ直ぐに劉の目を見つめて、エレンは微笑む。柔らかに細められたヘイゼルの目元、優雅に弧を描く赤い唇、その笑みはまるで女神のようだった。

 

「気持ちに応えられなくてごめんなさい。……貴方にはもっと素敵な人がいるはずよ」

「はは、ありがとうございます……俺、これからもっといい男になりますよ。……もしかしたら大哥よりもね」

 

 鼻の頭をぐっと擦る劉は、照れ隠しをするようにうつむき気味に笑っていた。少しだけ苦笑混じりなのに、達成感に誇らしげでもあるその仕草に、エレンはまた微かに微笑む。

 

 ──やっと、伝えることの大切さに気づけた。

 劉とのやり取りでよくわかった。言葉にしなきゃ、何も始まらない。

 言わなければ伝わらない、思ってるだけでは不十分だ、それなら……。

 張の気持ちを訊く前に、自分の気持ちを“伝える勇気”を持とう。言葉にすることで、ようやく、張とのあいだに何かが芽生える気がした。

 

 ***

 

 夜の街を見下ろして、張は愛飲の煙草(ジタン)を緩慢に吹かす。

 高層のフロアから見下ろすロアナプラの街はいつもと変わらず、溢れるほどのネオンを遠影に揺らめかせている。

 張がまた一口と吸い込むその度に、煙草の先の小さな灯りがガラス窓にぼんやりと浮かび上がった。吐き出された煙は揺らめいたあと、ゆっくりと空気へと溶けていく。

 彼の横顔は思案に沈んでいた。サングラスのレンズ越しに投げた視線には、ただ揺らめく煙草の煙が重なっていた。

 

 背後からエレンの声がするまで、張は一度も振り返らなかった。

 

「……張」

 

 窓の方を向いたままの張が、答える。

 

「あぁ、お前か。……てっきり帰ったと思ってたよ」

 

 それはとても静かな返答だった。

 あんなに感情をぶつけたのに、張はまるで何事もなかったような態度でいる。自分だけが熱くなっていたことに、エレンは突如、胸がむず痒くなるのを感じた。

 

 張の背中は、ただ無言でそこにあった。

 エレンはそっと手を伸ばし、躊躇うことなく腕をまわした。彼の腰にぴたりと自分の体を寄せて、力いっぱい抱きしめる。

 

「……張、このまま聞いてほしいの……」

 

 突き放されても構わない。もうこれ以上、黙っていられない。言わなくてはいけない、その想いだけでここにいる。

 彼を抱きしめる腕は、小刻みに震えた。

 

「私は、貴方が……好き」

 

 張は振り返らなかった。

 相変わらず窓の外に視線を向けたまま、ただ煙だけが静かに吐き出される。

 エレンの腕の震えが、その背中越しに伝わっただろうか。それでも張は、何も言わない。

 ただ、その沈黙の中に──彼の中で何かが、静かに揺れ動いたような気がした。それはエレンの希望に過ぎないのだろうか。

 

「側にいるうちに、一緒に過ごすうちに、貴方はかけがえのない人になっていったわ。

 貴方は私に、居場所をくれたの。

 私は貴方のように強くなりたいと思った。それでこの街で生きてみようと思ったの。だから、この命は貴方がくれたのと同じなのよ。

 貴方がこの街に誘ってくれた、だからこそ得られた想いや経験がたくさんあるわ。その一つ一つのすべてが、私の大切なものよ」

 

 彼の背中のぬくもりを頬に感じながら、エレンはそっと瞳を閉ざした。

 

「……貴方の言うとおりかもしれないわ、言葉より大事なものもきっとあるのよね……それを分かることができない私がおかしいのよ。

 だから、それでいいことにしたいわ。これ以上求めるほうが我儘だもの。

 我儘ばっかり言って、困らせてごめんなさい。

 だから、これからも側にいさせて──貴方が私のことを好きじゃなくても、もうどうでもいいから、私は貴方に会いたい。私はもう……貴方から離れられないの」

 

 話し終わる前に、エレンの目蓋は熱くなり涙がじわりと滲んだ。

 本当は、こんなふうに縋る自分が嫌だった。なりふり構わず縋るようなこんな自分は、みっともなくて、ひどく不格好だ。わかっている。

 それでも、どうしても張に触れていたい。言葉にした今、余計に側を離れたくない。

 彼に会いたい。この想いに勝る感情など、もう何も残っていないのだ。

 

 張がひとつ呼吸をするのに背中が揺れる。

 

「──なんだ、諦めるのか? 

 そうやって聞き分けのいい女を演じて何の得になる? 

 さっきの感情をぶつけてきたお前、悪くなかったぜ。どんとぶつかってこいよ、欲しいものなんて奪い取らなきゃ手に入らんぞ。

 会ったばかりの頃のお前の目は、もっとギラギラしてたはずだ。仕事をくれと、俺から引ったくってやろう、と言わんばかりにな。

 ……お前は俺に何を望んでる? なんて言ってほしいんだ?」

 

 その挑発的な言葉は間違いなくいつもの張のものだった。だが、その招きには確かに肯定的な色がある。

 彼の言葉に導かれるように、諦めかけていたはずの想いがまた顔を出してしまうのをエレンは感じていた。

 ほんの少しでも期待してしまう自分が悔しくて、期待がほろ甘く愛しくて、呼吸が震えた。

 

「わ、私のことを……好きだと、思っててほしいわ……。私と同じだけじゃなくってもいい、ちょっとでもいいから貴方が私を……私を、好きでいてくれたら、どんなに……っ、……幸せになれるか……」

 

 そこまで言い終わらないうちに、またしても涙がぼろぼろと零れ落ちた。泣くつもりなんてなかったのに、声は揺らいで止められない。

 抱きしめていた腕から力が抜けてしまって、エレンはそっと腕をほどいた。

 身体の熱が一気に冷めていくようで、俯いたまま、涙の雫が次々と落ちていく。涙の膜に覆われて、視界はすっかり霞んでいた。

 

 そこでようやく、張が静かに振り返る。

 暗いレンズのサングラスに遮られた瞳は、どんな色をしているのか。

 彼は黙ったままエレンを見つめているかと思えば──突然、その口元がふっ、と緩んだ。みるみるうちに彼の肩が揺れ始めて、くくく、と喉の奥で堪えきれない笑いが漏れる。

 そして一言、こう言ったのだ。

 

「やっぱり、ガキだな」

「な……」

 

 思わず耳を疑って、エレンは絶句してしまう。

 張はひと呼吸置くと、静かにサングラスへと指を伸ばした。

 そして露わになった瞳には、からかいも、嘲笑も、迷いもない──ただひとつ、エレンに向けた真っ直ぐな熱だけが宿っていた。真正面から見つめるその眼差しには、言葉以上に強く真剣な熱を隠していた。

 

「……俺はてっきり、相思相愛だと思ってたよ。言葉にしなくても、気持ちは伝わってるもんだとな。

 俺は自惚(うぬぼ)れ屋なのか? どうなんだ、エレン」

「だって……! そう思っても、自分だけの勘違いだったらどうすればいいの? ……そんなの、……」

「俺のことを言葉が足りないっていうならお前だってそうだろう。何も言わずに突っ走りやがって、思い込みの強い奴だな。

 お前が意地を張らずに訊いてくれりゃ、いくらでも答えてやるのにな。……そもそも、お前が俺のことを好きっていうのだって、俺は今日初めてお前の口から聞いたぜ?」

「それは……! だって……貴方が……、いえ、貴方は……」

 

 自分から彼に好きだと言えなかった理由は、たくさんあった。

 彼はこの街の勢力のトップ。三合会を背負って立つ人物。年齢も自分より上で、生きている世界が違う。立っている場所も、見ているものも、きっと全てが違う。こういう地位の高い人間は、付き合う相手もそれ相応の人物を選ぶはずだ。

 そんな人に──“好き”なんて、軽々しく言えるわけがないと思ってた。自分なんて、彼に何かしらの利益をもたらす存在でもない。

 

 けれど──そのどれひとつだって本人から言われたわけじゃない。

 

 その時エレンは、何もかもを彼のせいにしようとしている自分に気づいた。

 言葉に詰まったまま、思わず息を呑む。

 

 なんだかんだ理由をつけて伝えようとしなかった理由は、何か? 

 怖かったからだ。

 怖かったのは、張の言葉じゃない。

 ──自分だけが心を開いたとしても、彼に拒絶されるかもしれないという、恐れだ。

 

 言えば関係は壊れると思ったのも、どうせ他の女とも関係があるはず、などと思ったのも、全部自分だった。

 勝手に線を引いていただけだ。ただ、自分が傷つきたくないから。受け入れてもらえずに想いが潰えた時の惨めさを、哀しみを味わいたくないから。

 

 だから、予防線を張る。最初から最悪を想定しておけば、いざという時こう言える。“ほら、やっぱりね”と。

 予測していたことならば、心のダメージもきっと最小限で済むはずだから。こんな風にしか、自分を守る術を知らなかったのだ。

 

「……不安か?」

 

 彼の言葉に、エレンはハッと顔を上げた。

 

「俺の気持ちが見えないってのは、不安になるか?」

 

 真摯な眼差しがエレンを見つめている。その光はいつもよりずっと真剣で、その瞳の奥には後悔とも取れる曖昧な感情が揺らめいている。もしかするとそれには、申し訳なさすら含まれていたのかもしれない。

 そんな彼の瞳から、エレンは目を逸らすことができなかった。

 

「もしかしたら、こうなることを待ってたのかも知れんな、俺は」

 

 張はそう言うと、息をひとつ吐いて肩を僅かに揺らした。

 その仕草には、何かを決めた男の静かな覚悟が滲んでいた。

 

「これまで俺が言わなかったのは、お前が不自由な思いをすることになるだろうと思ってのことだ。

 俺が特別に情をかける女がいると公になれば、お前は標的になるだろう。連中はお前を俺の弱点と見なして、命を狙われるかもしれん。

 本来巻き込まれる必要のないドンパチにだって巻き込まれる。まぁ厄介事は確実に増えるだろうさ。

 お前も分かってるだろうが──このロアナプラで何かを守ろうとするなら、方法は一つしかない。それを支配することだ。

 お前が俺のものになるってのなら、そういうことだ。

 お前は喜んで俺の所有物になるのか? お前がそれに耐えられるのか? 

 お前はこの張維新(チャン・ウァイサン)と、香港三合会と運命を共にする覚悟があるのか問われることになるんだぜ。

 ……だがな、言葉で縛りさえしなけりゃ、お前だっていつでも好きなときに俺から離れられる。自由に大空を飛んでいけるんだ。この糞溜めみたいな街に愛想を尽かしたときにはな」

「──……!」

 

 そこまで彼が、自分を想ってくれていたなんて。

 張の言葉が、エレンの心の奥で静かに弾けた。うち震えるほど胸が熱くなって、言葉を忘れてしまったように何も出てこない。

 ただ、胸に手を当てて感じる鼓動が、今にも張に届いてしまいそうなくらいに、強く跳ねていた。

 突如、視界が開けたような気分になった。まるで、空を覆う厚い雲が流れて、突然に青空が覗いたような、そんな晴れやかさを心は感じていた。

 

「そんな……そんなふうに……貴方が、思っていたなんて……私は……」

 

 知らなかった。考えもしなかった。だから、なんて自分勝手なことばかり言ってたんだろう。

 ずっと、自分が欲しい言葉を貰えないことばかりを悔いて、張の事情に目を向けられていなかった。

 

 涙をそっと指先で拭うと、エレンは深く息を吸った。

 張の言葉は重くて、現実を突きつけるものだったが、それでもたしかに優しさがあった。心の底で何かが解き放たれた気がしていた。

 

「……そうね。

 貴方のものになるってことはそれらを背負うってこと。

 自由じゃなくなる。誰かに狙われるかもしれない。

 でも、それでも私は──貴方のものになりたいの。一人ぼっちの“気楽なフリーランス”じゃ辿り着けない、もっと幸せな気持ちにだってなれるはずだもの。

 私は私の命を賭けたとしても、それ以上に貴方との繋がりを手放したくない。誰かに言われたわけじゃない。私が、私のいる場所を選ぶわ。

 だったらそれは、“不自由”なんかじゃない。私は、自分の意思で貴方の隣に……立ちたい。

 私だって、ロアナプラの住人よ。あいにく、ただの弱点なんかでいるつもりはないの。……覚悟は、できているわ」

 

 エレンは精いっぱい強気な笑みを浮かべた。少しだけ唇が震えていたけれど、それでもしっかりと張を見据える。

 彼の目に映る自分が、もう“ただの弱点”ではないように──そう願いながら、エレンは立ち続けていた。

 

 張はため息をつくと、言葉を選ぶように目線を彷徨わせながら小さく頭を掻く。

 

「まァ俺も、言葉で伝えることを放棄してきたきらいがある……これはいい機会なのかもしれんな。この際だからはっきり言おう」

 

 視線をエレンの方へと戻したときには、静かな決意が彼のその瞳に宿っていた。

 

「俺はお前が好きだ、エレン。お前を──愛してる」

 

 それを聞いた瞬間、エレンは思わず口を開く。だが、喉がきゅっと詰まったかのように言葉が出ない。

 言葉が出そうで出なくて、何度も小さく息を飲んでは、空気を吸い込む躊躇うような音だけが漏れるだけだ。それを繰り返してやっと、ようやく搾り出された言葉は、震える息と混ざって空気を揺らした。

 

「わ、わ…………私も、っ……あなたが、す、っすき…………っ」

 

 言葉と同時に涙が止めどなく溢れて、彼にきちんと届いたのか、自分でもわからなかった。

 泣くつもりなんてなかったのに、頬を流れる涙は止まらず、声も震えて潰れてしまっていた。

 堰を切ったように嗚咽が溢れ、身体の奥から込み上げるものがどうしようもなく流れ出してくる。胸の奥で何かが砕けて、それらすべてが涙になって零れていく。

 ──ずっとずっと欲しかった、その一言をやっと聞くことができた。

 

 

 張は苦笑を浮かべ、やれやれとばかりに小さくため息を漏らした。

 

「わかった、わかった」

 

 そう言いながら、少し乱暴にエレンを引き寄せる。その動きはどこか不器用だが、包み込む彼の仕草はどこまでも温かかった。

 

 胸元に顔を埋めたエレンに、彼の鼓動が静かに伝わってくる。すべてを包み込むようなこの腕が、どんな言葉よりも確かに──彼の想いを伝えていた。

 

「それを聞いて安心したよ。俺たちは相思相愛ってわけだ。

 ……俺達は案外、似た者同士なのかもしれんな」

 

 ずっと互いに、相手からの一言を待っていた。

 “好き”だと聞けたなら、強くなれる。

 “好き”と言われたなら、素直になれる。

 

 言葉にすることでようやく、吹く風の向きが変わった。流れる水の方向が変わった。

 

 重なった言葉が、胸の静けさを満たしていく。

 張の腕の中、エレンは目を閉じながら思った。

 ずっと手探りだった。届かなくて泣いた。張の沈黙に何度も怯えて、張の背中に何度も迷った。

 だけど今はもう違う。彼の言葉が、視線が、想いが──全て自分に向かっているのだと実感できる。

 

 いつも願っていた、たったひとつの言葉。

 心と心が重なったその瞬間、彼の鼓動と自分の鼓動が、まるで同化するようにリズムを刻んでいた。

 

 夢ではない、たしかに現実だ。

 こんなにも切なくて、嬉しくて、世界の全部を抱きしめたくなるような夜が本当に訪れるなんて。

 

 エレンは、まだ涙の残るままに──小さな、微笑みを浮かべた。

 

 

 ***

 

 

 新しい朝。 ロアナプラを朝日が塗り替える。

 

 ──なんだか温かい。

 そっと瞼を開けたエレンの目には、張の喉元。規則正しい呼吸を繰り返して、その胸が大きく動いていた。 腕はしっかりとエレンを抱いている。

 彼を起こさないよう、 そっと腕の中で動いて身体を起こす。

 

 ──無防備な張の寝顔がそこにある。

 

 そういえば、彼の寝顔を見るのは初めてだ。

 エレンはまじまじとその寝顔を眺めた。いつもの彼からは想像もできない穏やかな顔。自嘲的に下げられる眉も、不敵に吊り上げられる唇も、今はとても静かだ。閉じた目蓋は、どこかあどけなく見えた。

 硬質な張の印象が、静かな呼吸とともにほどけていくようで、サングラスの下の彼の瞳が、本当はこんなふうに穏やかな優しさを隠していたことを思い出させる。

 こうして眠っている彼を見ていると “ベイヴ”というあだ名もなかなかに似合ってる気がした。

 

 ──可愛い。

 愛しさが込み上げてエレンはそっと張に手をのばした。

 

 その次の瞬間、あっという間にエレンの手首は張に掴まれていた。

 

「寝込みを襲うなんて、趣味が悪いぞ。エレン」

 

 まだ少し眠たそうな張の眼差しが、エレンと交差する。

 

「なっ……!」

 

 いつもの、(ひょう)げた笑みを浮かべた張を見て、エレンはそっぽを向いて吐き捨てた。

 

「……本当に襲ってやればよかった」

 

 張は肩を揺らして、豪快に笑った。

 

「まあ、俺は大歓迎だがな」

「…………ばか」

 

 唇を尖らせたエレンの肩に、張は腕を回してそっと引き寄せた。エレンは再び、彼の胸に収まる。

 

「ごめんなさい。起こしたわね?」

「いや、なんてこたぁないさ。──しかし惜しいことをしたな。あのまま寝てりゃ、キスの一つでももらえたのか?」

 

 どこまでが本当なのか、張の軽口は相変わらずだったけど、エレンは肘をついて体を起こし、張の唇に自分の唇を重ねた。やわらかなウェーブヘアーが、彼の頬に落ちる。

 それは穏やかで、体温だけを伝えるようなキスだった。

 チュッと小さな音がして、ふたりの間にほんの少し甘い空気が残った。

 

「……エレン」

 

 張が困ったような顔で見上げてくる。

 

「寝顔を見ていたら、可愛いなって思ったの」

 

 いたずらっぽく笑うエレンを前に、 張はきまりが悪そうに額に手をやった。まるでその仕草で、顔に浮かんだ感情を隠そうとしているかのようだ。

 

「……まったく」

 

 その声にはいつもの飄々とした響きはなかった。エレンには、その響きの奥に確かに温かさを感じとることができた。

 愛しさ、照れ、ほんの少しの不器用さ。本気で愛しく思っている──そんな気持ちが、言葉にならないまま漂ってしまっているようだ。

 張が手を伸ばし、エレンの絹糸のような髪を優しく撫でた。彼女はうっとりと目を閉じ、静かに張の胸元へと頬を寄せる。

 そんな彼女を、張はしっかりと両の腕で抱きしめた。

 

 エレンは張の心臓の音に耳を傾ける。

 力強く打つ鼓動に耳を澄ませると、ひどく心が穏やかになるのを感じた。彼は確かにここにいるのだ、と。

 

「貴方の心臓の音……いい音ね。気持ちいい……」

 

 そう小さく呟いたエレンに、張は口元を弛めた。

 

「そうか」

「……行かなくていいの?」

「ああ、まだいい。今日は夜に会合があるだけだ」

 

 それを聞いた瞬間、エレンの胸にゆるやかな安堵が広がった。

 一緒にいられる時間は大事にしたかった。こうして、初めて心を通わせてからの一時はとても愛しく大切なものに思えるから。

 

 いつの間にかまどろみの中にエレンはいた。

 夢の中でも張の腕の中に。

 ゆるゆると伸びきった時間の中で、ふたりは猫のように眠る。

 

――――

(Dawn ist so süß. Ich bin sicher, ich wurde geboren, um dich kennenzulernen.)(夜明けはこんなにも甘い。君に出逢うために生まれたんだ、きっと。)

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