死にたがりの讃歌   作:椿芽

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ここすきや感想くださるみなさん、本当にありがとうございます。ここすきいただけると「ここの文、いいなと思ってくれる人がいるんだ!」と大歓喜します。
 感想を貰えると「私が書いたものを読んでくれる人が、画面の向こうに本当にいるんだ!」と実感できてとてつもなく嬉しいです。最近更新した話じゃなくても、気に入ったエピソードとかあったら是非教えてほしいです! ちなみに作者自身は第一章15話のエレンが居眠りする回や、20話でシェンホアと麻婆作る話がお気に入りです。


第13話 なんて美しい灰色(メイド服で張と戯れたりする話)

 温かい薄闇が辺りを包んでいる。どこからともなく、男性の声が響いた。

 

『──エレン、』

 

 ──私の名前を呼ぶのは──? 

 エレンは声の主を探して、キョロキョロと周囲を見回した。だが、視界は霧のようなもので遮られていて、何も捉えることができない。

 そしてまた、男性の声がエレンに呼びかける。その声は懐かしい母語で続けた。

 

『──エレン、いいか? 躊躇(ためら)わずに、引き金を、引くんだ、──いいな?』

 

 厳しくも温かい、その声をエレンが忘れるはずはなかった。

 

「──お父さん? 待って、お父さん……!!」

 

 力いっぱい振り絞った声は、去りゆく父を止めることができなかった。それきり、父の声は二度と聞こえることなく、ただその場には静寂が広がるだけだった。懐かしい父の気配だけを残して。

 

 **

 

「──行かないでっ!!」

 

 自分の声で、エレンは目を覚ます。ソファから跳ね起きて、自らの胸を掻き(いだ)くように身体を丸めた。心臓は早鐘のように打ち続けている。

 

「おとう、さん……?」

 

 確かめるように呟いたエレンの瞳からは、大粒の雫がぽろり、またぽろりとこぼれ落ちていた。それに気づくこともなく、エレンはただソファの上に座り込んだまま、先程まで見ていた夢をぼんやりと反芻していた。

 

 エレンが両親について覚えてるのは、幼い頃に彼らと別れ、そして二度と会えないという事実だけ。

 両親と別れたのは十五年程度も昔になる。どうして彼らと離別することになったのか、その肝心な理由すら覚えていないのだ。

 

「なんだか最近になって、やけに昔の夢を見るような気がするわ……」

 

 零れた涙をようやく拭ってから、エレンはため息と一緒に言葉を吐いた。

 ぼんやりと間接照明が照らすリビング、音一つ聞こえない空間。傍らには、エレンの愛銃。父から譲り受けたスイス製の銃が、美しいガンブルーの輝きを放っている。

 この銃がエレンに託されたということは、父は恐らくもう──。諦めにも似た思いは、愛銃を見るたび、握るたび何度も何度も感じていた。

 

 ローテーブルの上の酒瓶に手を伸ばすと、グラスの中の溶け残った氷の上に注ぐ。

 

「……張は、今ごろ何をしてるのかしらね」

 

 知らないことが少し哀しい。彼は用事があると出かけて行って、まだ戻っていないようだ。

 彼の帰りを待つなんて、恋人ならではの特権だ。エレンは内心胸をときめかせていたが、いつの間にか眠ってしまったようだ。そして、父の夢で目覚めた。

 

 ふと、さっきまで彼が使っていたグラスに目をやれば、氷はすっかり溶けて、少しだけ残ったウイスキーを薄めている。

 エレンはそれを手にとって、口元に運んだ。そしてほんのちょっと嘗めてみる。ツンと酒臭さが鼻腔に刺さり、そして舌の先に触れたウイスキーの味はやっぱり苦かった。

 それでも、彼が好んでいるものだと思うとその苦さでさえ良いものだと思えるから不思議だ。

 彼の愛飲の煙草の匂いが染み込んだソファに、エレンは再び背中から倒れ込んだ。

 

 ここ最近というもの、エレンは張の自宅に入り浸るようになっていた。

「好きなだけここにいりゃあいい」との張の言葉に甘えてしまった結果、少しずつではあるが部屋にはエレンの荷物が増えていった。

 クロゼットには室内着、最高級のシルクのガウンとロングスリップ──張がエレンのために購入してきたものだ──がしまわれていたし、バスルームにはエレン愛用の化粧品の瓶が置いてある。

 

 パルカーナ・ストリートにあり、ロアナプラを一望できるここ、熱河電影公司(イツホウディンイェンゴンシ)ビル。最上階のペントハウスからテラスに出れば、雨の前の湿った風と匂いを感じた。

 

 ──彼は何時に帰ってくるかしら。

 少しずつネオンの灯り始めた街を見下ろしながら、エレンはぼんやりと考えていた。どこか遠くの方から銃声が聞こえて、小さな光が鋭くきらめく。

 そんなありふれた光景を眺めてから、エレンはため息をつき室内へ戻る。

 

(──彼の家で彼の帰りを待つ日が来るなんて)

 

 まだいまも、夢のようだ。彼が自分を好きだと、愛していると言ってくれたなんて。あれからしばらくの間、幾度となく思い出しては一人でジタバタしたものだ。

 いまは、胸の奥に明かりのようなものが灯って、絶えず照らしてくれるような安心感がある。

 

「恋、人……、私、彼の恋人、なのね……」

 

 噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡いで、そっと目蓋を閉じると張の姿を思い浮かべる。

 彼のことを想うと、高揚感と安心感が同時に湧いてくる。あの人のものになれたという喜び。あの人を自分のたった一人の最愛の人と呼べる幸せ。

 

 だが、この街ではそんな甘い関係は長く続かないだろう。いつもエレンは自分に言い聞かせている。

 なにせここはロアナプラ、暴力と裏切りに満ちた、誰もが綱渡りのような人生。安寧などもっとも縁遠いのがこの街なのだから。

 とりわけ、張には三合会のタイ支部の長としてこの街の顔役としての立場がある。

 自分のせいで足を引っ張られることのないように、気を引き締めなくてはと、エレンは気合を入れたところだった。元々習慣であった射撃の練習も、熱河電影公司ビルの地下にある射撃場を使わせてもらえるようになり、ありがたかった。──なんとなく、街を彷徨(うろつ)きたくなかったからだ。

 

 エレンと張の関係が明らかになるのも時間の問題だろう。敵勢力からしても、張維新(チャン・ウァイサン)弱点(ウィーク・ポイント)を見つけたと、エレンを標的にする可能性は十分にある。エレンかて自分の身を守るだけのスキルは身につけているつもりだが、ここはロアナプラだ。どんなことに足元を(すく)われるか、予想もつかない混沌の街だ。

 

 想いが通じ合った喜ばしい瞬間が過ぎれば、あっという間に現実を見なければいけなくなる。これまでの常識が通用しない現実を。

 

 ランチバスケットを携えて、手をつないで仲良くデート、というわけにもいかないのがこの街だ。もっとも、銃弾の雨の中、銃を手にお散歩というのならいとも簡単に叶うのだが。

 

 今日この日、月が登る前、彼か自分か、どちらかが命を落とすかもしれない。エレンとてロアナプラに流れ着いてから今日まで、長生きできると思ったことなど一度もなかったが──。

 彼に逢ってから──とりわけ、こんなふうに彼と暮らすようになってからはますます、生きることに執着してしまうようになった。少しでも長く、彼のそばにいたいからだ。一秒でも長く、彼の姿を見ていたい。彼の瞳に映っていたい。

 

 まあ、それはそれで仕事の成功につながる秘訣かもしれない。

 傍から見たら、きっと幼稚な“恋人ごっこの遊び”に見えるんだろう。だがそれでもいい。

 今はこの怠惰な“恋人ごっこ”に甘んじていたい。こんなに彼の近くにいられるだけで、とても幸せだと、エレンはそう思うから。

 

 あれこれ考え過ぎたと、エレンはかぶりを振って払う。シャワーでも浴びようとソファを立ち上がったとき、ちょうど玄関の方から音がした。

 

「帰ったぜ、エレン」

 

 張が顔を覗かせる。

 

「おかえりなさい、……維新(ウァイサン)

 

 “恋人ごっこ” を始めて、張から言われたのは呼び方を変えろ、ということだった。何の違和感もなかったといえば嘘になるが、少しはこの呼び方にも慣れてきたところだ。

 エレンにとって、中国語圏の名前は発音が難しい。張から何度も注意されている。

 発音指導をされてるとき、彼の唇をじっと見るのはなんとも気恥ずかしいものだった。なにせ、張の唇の形や厚さなどが、完璧にエレンの好みだからだ。おまけに、それが自分に触れたときの感触まで呼び覚まされてしまう。

 本当は『張』のほうが呼びやすいのにという気持ちと、名前を呼べる嬉しさと、唇を見つめる恥ずかしさが混ざって、思わず逃げ出したくなる。

 でも彼はそれを許してくれず、エレンが正しい発音で彼の名を呼べるまでニヤニヤと口元を弛めながら見ているのだった。

 

「誰かが帰宅を待っててくれるってのはいいもんだな、エレン?」

 

 そういって微笑む張。

 彼も少しはこの恋人ごっこを楽しんでいてくれればいい──エレンは思う。

 

「そうだ、お前にプレゼントがある」

 

 ソファに腰掛け煙草(ジタン)に火を点した張が紙袋を取り出し、エレンに差し出す。

 

「なにかしら? 誕生日でもないわよ?」

 

 受け取った紙袋は軽く、中身は布のようだ。平静を装いながらも弾む気持ちを抑えられずに、エレンの頬は弛む。

 

「……」

 

 中身を見た瞬間に硬直したエレンに、張は笑みを見せた。サングラスの下で唇が大きな弧を描く。

 

「お前に似合うと思ってな、どうだ?」

 

 エレンの反応を楽しむように、彼は咥えた煙草を噛んで歯を見せて笑った。

 

 袋の中には──黒いジャンパースカートと、ブラウス、それから純白のエプロン──いわゆるメイド服セットである。

 とはいえ、いつぞやのロベルタが着ていたような慎みのあるものではない。スカートの丈はやたらと短く、頼りない印象だ。

 

 ──いったい、どんな顔をして張はこれを購入したのか。エレンは顔が赤くなるのを感じていた。

 

「前に、着てみたいって言ってただろ? どうだ、気に入ったか?」

 

 張が身を乗り出して、袋の中に残っているものを取り出す。

 純白のヘッドドレスには、両端に垂れ下がるリボンがついていて、惜しむことなく可愛さをプラスしたデザインとなっている。

 

「…………」

 

 怒りとも困惑ともつかぬ表情を浮かべて居心地が悪そうに縮こまるエレンに、張は目一杯顔を近付けると意地悪に囁いた。

 

「エレン、着てみろよ。……楽しませてくれるよな?」

 

 含みのある低音を耳に囁かれれば、もうエレンは逆らえなかった。

 

 **

 

「ねぇ……やっぱり、恥ずかしいわ……」

 

 壁から顔だけを覗かせ、おずおずと出てくるエレン。ソファで待っていた張は、振り返るなり笑みを浮かべた。

 

「おぉ、いいじゃないか、エレン。こいつは悪くねぇ、想像以上だ。似合ってるぜ?」

 

 そう言って彼は、エレンの頭の天辺からつま先までを舐めるように見る。

 

「確かに着てみたいとは思ってたけど……なんだか違うわ……。どうしてこんなにスカートが短いのを選ぶのよ……」

 

 エレンは文句を言いながらも、恥ずかしそうにスカートを引っぱり降ろそうと裾をつかむ。太ももを隠したくて前屈みになるが、そうすると今度はお尻が見えてしまいそうだ。さらに、豊満な胸を包むギャザー入りのブラウスは、襟ぐりの開きが広いために豊かすぎる谷間を隠せてはいない。

 

「決まってるだろう? そりゃ俺の好みだ。お前は脚が綺麗だから、短いのも似合うと思ってな」

「張のエッチ……スケベ」

「張、じゃなくて『維新』だろ?」

 

 ふくれっ面をしたままのエレンの瞳は、落ち着かない光を宿し、張の視線を避けるように床を見つめる。

 張はそんなエレンに構う様子もなく、頬杖をついてからかうような笑みを口元に浮かべている。

 

「なぁ、旦那様って呼んでみてくれよ」

「何、それ。……嫌よ」

「他でもない恋人の頼みだろう?」

「……。もう……仕方ないわね。……旦那様。これでいい?」

 

 悠然と笑みを浮かべながらも、張はまだ物足りないようだ。両手を天井に向け、大袈裟に嘆きの仕草で首を振る。

 

「おいおい、そんなあっさりじゃ風情がない。もっと心を込めて呼んでくれ」

 

 黙ったままのエレンに張は『ん?』とだけ言って、期待を込めた視線を向けた。

 

 エレンは拗ねたように頬を膨らませて、上目遣いに張を見る。そして少しだけ小首を傾げた。ヘッドドレスの端についたリボンが、エレンの顔を縁取るように垂れ下がる。

 

「……旦那様」

 

 ようやく満足そうに張は微笑むのだが、すぐにまた考え込むように顎に手を当てる。

 

「……ううむ、ご主人様の方がいいかね?」

 

 そこでエレンの限界がきた。

 

「……もう! どっちだっていいわ。これ、もう脱いでもいいかしら?」

「なに、もうか? まだ何もご主人様に奉仕してないぜ。せっかくそんな格好したなら、ついでにコーヒーでも淹れてきてくれよ。最愛の旦那様のために、な?」

 

 張の言葉は、いつも調子がいい。からかっているのか本気なのか境目が曖昧で、エレンにはそれが厄介だった。けれど、その言い方も、表情も、どうしても憎めないのだ。

 張が自分にだけ向ける、あの少し甘えたような声色。

 それを聞くたびに、エレンの中の頑なな反抗心が少しずつ溶けていくようだ。

 

「……座って待ってなさいよ……」

 

 睨むような目を向けながらも、エレンは結局キッチンへ向かう。 張の頼みを突っぱねることもできたはずなのに、気づけば足が動いていた。

 ただ、張が望んでいることを、叶えてしまいたくなる——そんな自分がいる。

 

 コーヒーを持ってくると、張はご機嫌で口に運んだ。その目は、カップよりもエレンの姿に向けられている。

 

「可愛いな」

 

 コーヒーカップを傾けながら、愉快そうに彼は言う。

 

「お前、一日中それ着て過ごしたらいいんじゃないか? その格好で俺のオフィスの掃除なんかをしてくれりゃ、退屈な事務仕事が楽しくなりそうだぜ」

 

 張の軽口に、エレンは慌てて声を上げる。

 

「な、何言ってるのよ! 貴方のオフィスでなんて着たら、他の人たちにまで見られちゃうわ。……(ビウ)さんが見たりしたら絶対バカにするんだから」

 

 脳裏に彪の蔑むような笑みが浮かんでくる。あんな目で見られたら屈辱的だ。その想像だけでエレンは怒りを感じていた。

 一方、張はエレンの抗議をどこか都合よく解釈したらしい。

 

「じゃあ俺だけが見りゃいいっていうんだな? 嬉しいぜ。お言葉に甘えて、堪能させてもらおうかな」

 

 そう言って、足を組み替えながら部屋を見渡す。

 

「さて……この部屋、なんだか埃っぽいぜ。掃除してくれよ」

 

 エレンは渋々ハンディモップを手に取り、棚の上に積もった埃を払っていく。高価そうな壺に触れるときには、緊張から手の動きが自然とゆっくりになった。張の視線が、掃除をするエレンの動きに沿って撫でるように滑っていくのを、背中で感じていた。

 

 短く広がるフリルのスカートは、エレンが動くたびにエプロンと一緒にふるふると揺れる。そのたびに覗く太ももは、透けるように白く、肌理細やかな光沢を放っていた。張は、まるで芸術品でも鑑賞するかのように、静かにその姿を目で追っていた。

 エレンは掃除を続けながらも、張の視線に気づくと、ぴたりと動きを止める。そして、モップを顔の前に持ち上げて、恥ずかしそうに目を逸らした。

 

「……そんなに見ないで。恥ずかしいわ……」

 

 張はリラックスした様子でソファに深く腰掛け、満足げに微笑む。

 

「仕方ないだろう、そんなに目を引く格好をしてりゃ。男なら誰だって釘付けになっちまう」

 

 その言葉に、エレンはさらに顔を赤くしながら、モップの柄をぎゅっと握りしめた。

 

「……貴方、Sなの?」

「どうだかな?」

「人が嫌がることをさせて喜んでるじゃない」

「お前だって満更でもなさそうだぜ?」

「……もう、知らないわ」

 

 今度こそエレンはそっぽを向くのだった。

 

「さて、こんどは旦那様の疲れを癒やしてもらおうかな。肩でも揉んでくれよ」

「もう、ハイハイ、わかったわよ旦那様」

 

 エレンは諦めたように言うと張の背後に回り、肩に手を添えて、力加減を探るようにゆっくりと揉み始める。

 

「ほう、なかなか上手いじゃないか」

 

 張の肩は思った以上に凝っていて、指先に筋肉の張りが伝わってくる。

 

「……ずいぶん肩が凝ってるのね。デスクワークも大変そうだわ……」

「まァな。一日中座りっぱなしで、書類の山だ。こいつもなかなか骨が折れるもんだぜ」

 

 こうして張が愚痴をこぼすのは、エレンにとって少し珍しく感じられた。

 いつも飄々としている彼が素直に疲れを漏らすのは、心を許してくれている証拠だと思えるから。エレンは張の言葉に耳を傾けながら、少しずつ手の位置を変え、的確に圧をかけていく。

 

「ああ、気持ちいいな」

 

 張の幸せそうな声を聞いていると、エレンの胸の奥に沈んでいた重たい記憶たちが、少しだけ遠ざかる気がした。

 彼とこうしていると、思い出さなくて済む。

 暗く重い、あの追憶に触れずにいられる——それが、今はありがたかった。

 

 しばらく肩を揉んでいたが、張が今度は腕を差し出してきた。

 

「こっちも頼むぜ」

 

 エレンは前に回り込み、張の腕を取る。

 すると、張はそのままエレンを引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。

 

「ちょ、ちょっと……」

 

 目線を逸らすエレンに、張は相変わらずからかうような笑みを浮かべながらも、問いかけるその声はとても静かだ。

 

「お前、気づいてるのか? ここのところ、ため息が多いぜ」

 

 張にそう言われて、エレンはハッとしたように顔を上げる。

 

「え……そう、かしら……」

「あぁ。何か悩みでもあるのか?」

 

 そう尋ねられて、エレンはどことなく居心地悪そうに答える。

 

「……なにも、ないわ。何も……」

「そうか? ……まぁ、そうならいいんだが」

 

 張の手を握ったまま、エレンは動きを止めた。

 

「……どうしてこんな気持ちになるのかわからないの……。悩みなんてないけれど、なんだか、憂鬱なのよね……、とても嫌なことがあるのに、それを忘れてしまっている、ように……」

 

 その言葉に張は少しだけ眉を寄せて、静かに言う。

 

「記憶がない、と言っていたな」

「ええ……ぼんやりとしか思い出せないの」

 

 ふと、エレンの視線はテーブルの上に置かれた一丁の銃へ向く。美しく輝くガンブルーのそれ。

 

「……あれは、父のものよ」

 

 その言葉に、張の目も銃の方を向いた。

 

「だけど、どうして父は私にこれを託したのか、思い出そうとすると、頭がひどく痛むのよ」

 

 エレンは不安そうに自分の手を握りしめる。その手は、どこか震えているようにも見えた。

 

「でも、この銃を私が持っているということは、……父は、もう、この世にはいないのでしょうね」

 

 張は言葉に詰まり、表情を険しくする。何かを言おうとして、けれど言葉が見つからないようだった。

 

「夢を見るの。内容はいつも覚えていないのだけど、目が覚めたとき、懐かしいような、恐ろしいような、……そして、哀しいような……不思議な気分になるわ」

 

 何も言わず、張はただ彼女の言葉を受け止めていた。

 

「でも、それだけじゃない。思い出せないだけで──なにかもっと良くないことをしてきたような、そんな気がするの」

 

 そこで話を区切るとエレンは肩を竦め、手のひらを上に向けながら、自嘲するように言った。

 

「……だから、覚えていないほうが、気楽でいいわ」

 

 張はその言葉に、すぐには返事をしなかった。ただ、彼女の手をそっと包み込むように握り直す。

 その手の温もりが、ほんの少しだけ、胸の奥の冷たい空白を和らげてくれる気がした。

 

「エレン。お前もこれまでの人生、色々あったろう。その中の何かが引っかかってたとしてもおかしくはない」

「……」

「だが、それは思い出さなくても良いことかもしれんぞ」

「……」

「それにもし、思い出しちまって辛いようなら、その時は俺を頼ってくれりゃいい」

「維新……」

「なにせ、俺たちは“恋人同士”なんだからな?」

 

 エレンの顔に少しだけ笑顔が戻る。

 

「ありがと……維新」

「いや。大したことじゃあないさ」

 

 そう言いながら張はエレンの肩を抱き寄せる。そして柔らかな亜麻色の髪をそっと撫でた。

 

「何もかも全部忘れて、今を楽しもうぜ、エレン。全部、嫌なことは全部忘れちまえ。俺が忘れさせてやる。人生、何事も楽しまにゃ損だぜ?」

「ええ……」

 

 エレンは自分の胸元に手を当てた。張の腕の中で、静かに目を伏せる。

 

(私……幸せだわ。たとえどんなことを思い出したとしても、きっと乗り越えられる。これまでの私とは違うわ。……彼がいてくれるもの)

 

 その思いが胸に灯った瞬間、ふと足元に冷えを感じる。

 短いスカートの裾から、冷たい空気が肌を撫でていく。エレンは小さなくしゃみをひとつして、身震いした。

 張がすぐに気づいて、軽く笑いながら言った。

 

「おっと、冷えちまったのか? 熱いシャワーでも浴びてこいよ。風邪ひくぞ」

 

 エレンは頷きながら、少しだけ微笑む。

 

「……そうね。寒いのは……嫌いだわ」

 

 

 ****

 

 空からは音もなく雪が舞い降りる。

 その幼い少女の亜麻色の髪にも、雪片が静かに降り積もっていく。

 

(寒い、寒いよ……)

 

 足を引きずるようにして前に進む、その少女が胸に抱えているのは、自分の腕でやっと包めるほどの荷物。

 地面は真っ白で、少女が通ってきた道だけが削られて跡ができている。

 地面に積もる雪の白さを、街頭の煌々とした光がより明るく浮かび上がらせる。その雪を踏みしめながら、少女は歩み続けた。

 今にも崩れそうな幼い体を、前のめりに揺らしながら一歩、また一歩と前に進め続ける。

 冷たい風が顔を叩く感覚に顔を歪めながら、それでも彼女が歩みを止めることはなかった。

 ──どこへ向かっているわけでもない、ただひたすらに前に進むだけの行為だった。

 

 どれくらいの時間、歩き続けたのかももう忘れてしまった。これでも、元いた場所からは随分離れられたはずだ。だけど、もっと遠くに。できるだけ遠くにいかなくてはならない。ぼんやりとした頭の中でただそれだけが彼女の身体を衝き動かしていた。

 少女の小さな手はもう、吹き付ける北風のせいで真っ赤になっていて感覚もない。

 ただ、足の痛み——刺すような凍傷の感覚だけが、少女の意識を繋ぎ止めていた。

 

(お腹がすいた……足も、手も痛いよ……)

 

 ついに少女の歩みが止まり、そして崩れるように地面に膝をついた。雪は厚みがあって少女の膝を受け止めてくれたが、同時に冷たさもじわじわと服を通り抜けて侵食してくる。それでも、座ってしまえば身体はもう、限界だと主張して動かなくなる。

 虚ろなヘイゼルの瞳が、灰色の夜空を見上げた。寒さに震える唇からは、不規則に白い息が吐き出される。

 

(もう、動けないよ──おかあさん……おとうさんまで──どうしてあんな、──)

 

 疲労と寒さで、少女はもはや動くこともできなかった。それでも、腕の中に抱えた荷物を手放すことはない。母のベールで(くる)んだその荷物の中身は、一丁の銃だ。父の形見であるその銃を胸に抱きしめたまま、ついに少女はその場に崩れるように倒れ込んだ。不思議なことに、これまでは止まっていた涙が、地面に体を横たえた瞬間ポロポロと流れ始めたのだった。涙まで凍りそうな、寒い夜だった。

 

(わたしも、──おとうさんとおかあさんのところに……行きたい──)

 

 雪を踏みしめる足音が近づいてくるのを耳がとらえても、逃げるだけの体力はもはや少女には残されていなかった。

 雪降る路地裏の、曲がり角から姿を見せたのは女だった。

 

「おや、こんなところに……女の子じゃないか。お嬢ちゃん、こんなところで寝ていたら凍え死んでしまうよ」

 

 その呼びかけに、少女はやっとのことで目蓋を開き、怯えた幼い瞳で、その声の主を確かめた。

 

 くすんだブロンドの髪を肩で切り揃え、濃い化粧を施したその顔は、どこか毒々しく、物語の悪役(ヴィラン)のような雰囲気を漂わせていた。

 エレンの母よりもずっと歳上であろうその女の、静かな色をした瞳のその周りには、いくつもの年齢の証が刻まれていた。

 

「ああ、こんなに体が冷えて……おいで、暖かいところに連れていってあげるよ」

 

 そう言うと女は少女の小さな体を抱き上げ、もと来た道を歩き始めた。

 

 **

 

 芳醇なコーンの香り。

 目の前に出されたスープが次から次へと湯気を立てているのをただ黙って見つめている少女に、女は口を開いて促した。

 

「なに、毒なんて入ってないよ。さぁさ、食べなさい。冷めてしまわぬうちに」

 

 少女は、スープ皿と眼の前の女を交互に見つめてから、恐る恐る手を伸ばしスプーンを取ると、意を決したように口に運んだ。

 

 口に含んだ瞬間、コーンの豊かな甘みと、じんわりとした塩気が舌の上に広がった。

 それは冷え切った身体の奥にまで染み渡るような、そんな温もりだった。

 ──美味しい。

 胃の中にゆっくりと広がる温かさが、少女に生きたいという意思を取り戻させた。腹の底から力が湧いてくるようだった。

 あわてて二口目をすくって、口にスプーンを突っ込んだ。手近にあったパンも手にとって(かじ)りつく。どれくらいぶりのまともな食事だろうか。頬いっぱいに詰めて、夢中で咀嚼した。

 

「おやおや、そんなに焦って食べるんじゃないよ。 ──ほら、言わんこっちゃない」

 

 パンが喉に詰まって咳き込む少女を、女は頬杖をついたまま特に慌てる様子もなく眺めていた。

 咳が収まるのを待ってから、淡々と口を開く。

 

「あたしはマティルデ。あんたの名前は?」

 

 オレンジジュースを一気に飲み干して、コップをテーブルに置いた少女は、 ゆっくりと視線を上げた。

 

「──エレン。エレン・リーフェンシュタール」

 

 ____

 Wes' Brot ich ess, des' Lied ich sing

(その人のパンを食べ、その人の歌を歌う)

 

 

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