「さ、エレン。あんたはこの部屋を使うんだよ」
マティルデが案内したのは、白とピンクを基調としたかわいらしい部屋だった。
エレンはキョロキョロと辺りを見回す。
小さな子供向けのファンシーなデスクとチェアー、チェストの上には動物のぬいぐるみが並べられている。
「ほら、これを着て……疲れただろ? 今日はとりあえず、もう寝ちまうことだね」
そう言うとマティルデはさっさと部屋を出ていった。
マティルデに渡された寝間着を身に付けたエレンは、ベッドに身を投げ出す。弾力が、背中を押し返してくる感触に、エレンは少しだけ表情を緩めた。
女の子ならきっと皆憧れる、お姫様のようなフリルのついた枕カバーに掛け布団。
──この部屋は、誰のものなんだろう?
幼い頭は浮かんだ考えをすぐに放棄して、眠りへと落ちた。 久方ぶりの、暖かい寝床だった。
**
この家に独りで暮らしていると、マティルデは言った。
マティルデはぶっきらぼうな女性で、必要なこと以外はあまり喋らなかった。両親と離れたばかりのエレンにとっては、その沈黙がむしろ心地よかった。
何も聞かれないことが、何よりの救いだったのかもしれない。
両親のことを思い出しては泣き出すエレンに、マティルデは黙って隣に座るのだった。それが昼でも、真夜中であったとしても。
やがてエレンは、マティルデが自分に危害を加えることはないと、自然に思うようになっていた。
それは日々の繰り返しの中で、静かに染み込んだ確信であった。毎日食事を作ってくれる。そばにいてくれる。怒鳴らないし、質問攻めにもしない。そばにいてくれる大人がいるというだけで、エレンの心は少しずつ落ち着いていった。
不思議な共同生活が、数ヶ月続いた。
エレンはいつしか、彼女のことを祖母のように慕うようになっていた。
「エレン、出かけるよ。支度をして」
「はい、マティルデさん」
エレンはページにしおりを挟むと、そっと本を閉じた。物語の余韻が胸に残るまま、立ち上がる。おとぎ話の世界から現実へと戻る瞬間は、いつも少し寂しい。けれど、マティルデの声には逆らえない。
バッグを手に取り、長い肩ひもに頭をくぐらせる。
どこに行くにも、エレンは父の銃を離さなかった。そんなエレンに、マティルデは小さなバッグを贈ってくれた。
胸元を斜めに走るその感触が、エレンの心を弾ませる。それは、いつもの“お出かけ”の合図だった。
車は北へ北へと走る。マティルデの家がある、見慣れた街並みを後にして。
後部座席に座るエレンは窓の外をぼんやりと眺めながら、今日はどこへ行くのだろうと考えていた。
また買い物かもしれない。少し遠くの市場まで。そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ浮き立つ。
先日訪れた、とある市場の果物──キラキラと艶めく宝石のようなそれは、一口かじると蕩けるような甘さが広がった。またあんな素晴らしいできごとが起こるかもしれない、エレンはそう想像して頬を緩めた。
けれど、車はいつもよりずっと遠くへ、街を離れていくようだ。
「マティルデさん。どこへゆくの? ……今日はお買い物じゃ、ないの?」
「すぐ着くから、静かにしていな」
車の中はとても静かだ。マティルデは運転に集中していたし、騒がしいのが嫌いだという彼女はラジオもつけない。
車の揺れが心地よくて、エレンは背もたれに身を預けたまま、窓の外へと視線を投げる。
どこまでも続く黄金色の畑は、風に合わせて光の筋を揺らしていた。時折、赤茶けた屋根の家がぽつんと現れては、すぐに麦畑の向こうに消えていった。
遙か先の湖、寂しげにぽつんと立つ風車、遠くに見える教会の尖塔。次々と流れる見慣れない風景、それはまるで知らない物語のページをめくっているかのようだった。
それらが夢の中の景色のように思えてきたころ――目蓋が重くなり、エレンは静かに目を閉じた。
*
いつの間にか眠ってしまっていたエレンを、マティルデの声が呼ぶ。
寝ぼけた目を擦りながら、 エレンは車から降り立つ。マティルデに手を引かれて、やわらかな草を踏みしめた。
(──ここは、どこ……?)
地平線が見渡せるくらいに広い草原だ。少し離れた場所には石造りの建物があり、傾きかけた太陽を反射して壁面が冷たい輝きを放つ。
そよ風に撫でられる草が、サワサワと囁くような音を立てている。
一人の女性が、草原を踏み鳴らしながら歩み寄ってきた。エレンは思わず、マティルデの後ろにその身を隠した。
「待っていたわ、マティルデ」
淡いブラウンの豊かな髪を後ろに束ねたその女性は、チラリとエレンの方に目線を向けると、穏やかな微笑みと共に言葉を続けた。
「──この子が?」
「そうさ。さ、ご挨拶しな」
マティルデに促されたエレンは、おずおずと一歩、女性の前に足を進めた。緊張で、声は震えた。
「エレン・リーフェンシュタールです」
すると女性は、エレンと同じ高さまで屈んで目線を合わせ、優しい声で語りかけた。
「まあ、お利口さんね」
細められた瞳は慈しみ深く、エレンに母を連想させた。
「わたしはファティマ。──まあ、なんて愛らしいのでしょう。輝く亜麻色の髪、ミルクのように白い肌、 薔薇色の頬」
ファティマと名乗る女性は、そっと手を伸ばすとエレンの髪を撫でた。
「まるで妖精のよう」
そう言って静かに微笑むファティマに、幼いエレンの警戒心はあっという間に薄れていく。
(──いい匂い。それに優しくて──まるで聖母マリア様みたい)
照れたような笑顔を浮かべたエレンに、ファティマは一層慈愛に満ちた眼差しを向ける。
「──あなたは今日から、ここで暮らすの。そうね、 ──
「──えっ…………?」
──どうして? 私はエレンよ。戸惑うエレンを前に、ファティマは気にする様子もなく、変わらず穏やかな口調で続けた。
「さあ、返事をして、かわいいエルフリーデ」
反論を許さない無言の威圧感が、ファティマの笑顔の裏からゆっくりと漏れ出し、エレンの足元に絡み付く。
ふいに背後から、車のドアが閉まる音がしてエレンは慌てて振り返る。マティルデはいつの間にか運転席に座っていて、何度かエンジンを吹かしたあと、すぐに車を発進させた。
エレンはマティルデを呼び止めることもできず、ただ立ち尽くすしかなかった。次第に遠ざかっていく車を、見つめることしかできない。
──もう、帰るところなど、ない。残されていない。
──この人の手を取るしか、生きる術はないのだ。幼いエレンにも、そのことを理解するのに不足はなかった。
まだ少し震える声で、エレンは答えを口にする。
「──はい、ファティマさん」
**
建物の中は、静謐で整然としていた。
石造りの廊下はひんやりとしていて、二人の足音が小さく反響する。
壁には古い絵画や、金属製の燭台が等間隔に並び、まるで時間が止まっているかのような空気が漂っていた。ファティマの後ろ姿を、エレンは黙って追った。少し距離が開くたびに、置いていかれないように、慌てて歩みを速めた。
やがて、ファティマは談話室と書かれたひとつの部屋の前で足を止める。
室内へ入ると、十二個の瞳が一斉にこちらを向いた。
「はい。皆さん、今日はとても嬉しいお知らせがあります」
ファティマのやわらかな声が、室内に響く。
その部屋にいた少女たちは、全部で六人。おしゃべりを中断し椅子から立ち上がった姿は、まるで人形のように整っている。
皆、まだ幼さの残る顔立ちで、年の頃は十歳前後といったところだろうか。
それぞれが愛らしい容貌をしているが、どこか均質な印象がある。少女たちは誰ひとり口を開くこともなく、けれど視線を逸らすこともなく、ただ静かにこちらを見ていた。
「皆さんの新しい
少女たちは沈黙の後、まるで合図でもあったかのように、口々に返事をした。
「はい、ムター・ファティマ!」
「はじめまして、エルフリーデ!」
「仲良くしましょうね!」
そう歓迎するどの声も少女らしく快活で、けれどどこか感情の起伏が薄い。まるで、決められた台詞を繰り返しているような印象さえあった。
「お部屋は……そうね、エーリカのお部屋が空いていましたね。エーリカ、エルフリーデを案内してあげて」
「はい! ムター・ファティマ! さ、来て、あなた!」
ファティマは微笑んだまま、何も言わずにエレンを見送った。
*
「さっき聞いたと思うけど、今日からあなたはあたしと同じ部屋に住むのよ。……いびきをかかないでくれるとありがたいわ」
先を歩くエーリカの顔には少女らしい輪郭が残っていたが、可憐な顔立ちの中に、どこか大人びた気配が漂っている。表情は澄ましていて、どこか冷たくも見えた。背筋はまっすぐに伸びていて、清楚なワンピースの裾が歩調に合わせて揺れた。
「あなたも孤児なんでしょ? あぁ、親がいないって意味。ここの女の子はみんなそうだから」
エレンが俯くのに、エーリカは構う様子もない。
「いいこと、ここでは三つの約束を守るのよ。
ひとつ、ベッドは毎朝整えること。ふたつ、食事は好き嫌いしないで食べること。みっつ、……ムター・ファティマの言うことは、絶対」
エーリカは、まるで詩を暗唱するように言った。
「ムター……?」
エレンは思わず口の中で繰り返す。その言葉は、エレンにとって馴染み深いはずだった。母親を呼ぶ、あたたかい響き。けれど、今この場で聞くそれは何かが違う。
「そう。ここでは、あの人のことをそう呼ぶの。ムター・ファティマ。あたしたちの“お母さま”だから」
エーリカの声は淡々としていたが、その瞳は爛々と輝いていた。エレンには理解できない、力強い何かが宿っていた。それを見て、喉まで出かかった言葉をそっと飲み込んだ。──本当のお母さんじゃないのに? と。
「エルフリーデ、といったかしら。あなたはまだ来たばかりだから、しばらく“訓練”はないと思う。まぁ、住み慣れればいいところよ」
「訓練……?」
「さあ、あたしたちの部屋よ」
案内されたその部屋を見て、エレンは思わず声を上げた。訓練とはなんなのか、すぐに忘れてしまうほどの夢の中のような空間だった。
壁紙は淡いラベンダー色で、天井には小さな星の模様が無数に散りばめられている。窓辺にはリボンのついたカーテンが揺れていた。
さらにベッドの上には見たこともないくらい大きなぬいぐるみが置かれ、棚にはガラス細工の小物がいくつも並べられている。繊細なシャンデリアの光を受けて虹色にきらめくそれらは、エレンの目を釘付けにした。
まるで、なにもかもがおとぎ話の世界のようで、エレンはただ立ち尽くすしかなかった。
「ここは素晴らしいところよ。初めてここに来た日は、あたしも眠れなかったわ。……でも大丈夫、眠れない夜は、ムター・ファティマが特別なおまじないをしてくださるから! ホットミルクなんかよりずうっと効くやつをね。……これから、あなたも欲しいものができたらムターに言えばいいわ。お洋服でも、アクセサリーでも、絵の具でも、楽器でも、なんでもね」
エーリカは誇らしげにそう言ったが、そのときエレンの頭に浮かんでいたのは、心を温めてくれるカップいっぱいのホットミルクだったのだ。
****
ロアナプラの真夜中、静まり返ったペントハウスのリビングに、階段を降りる微かな足音が響く。
「……維新、…」
「なんだ、エレン。まだ起きてたのか」
薄暗い階段の影から現れたエレンは、どこか所在なげな表情を浮かべていた。
「……眠れないの」
深紅のペディキュアが施された彼女の足元は、青ざめたような白さで、薄手のローブの襟は少しだけずれている。
「なら、ホットミルクでも作ってやろうか」
書類の紙束をテーブルに軽く叩きつけ揃えてから、張は咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。
「……子供じゃないのよ……」
エレンは少し照れたような顔をして頬を膨らませる。
「少しばかりブランデーでも垂らせば、身体が温まって眠くなるさ」
言いながら張はキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
彼がミルクをカップに注いで電子レンジに入れるところを、エレンはキッチンのカウンターに寄り掛かり眺めている。張はついでとばかりに自分のグラスを取り出しながら、エレンに声をかけた。
「そんなところで立ってないで、座ってろ」
「……ん」
促されて、エレンはソファに身体を投げ出す。
傍らのクッションに手を伸ばすと、胸に抱えるように抱きしめる。そして身体を横たえると、そっと目を閉じてみる。
──目蓋は重い。身体は睡眠をとりたがっているはずなのに、妙に頭が冴えて眠ることができない。
張の家に居候するようになってからは、ほとんどと言っていいほどなかったのに──また、あの悪夢を見たら嫌だわ。エレンはそうぼんやりと考えていた。
今夜は、なぜか胸の奥がざわついている。
「そら、エレン。待たせたな」
程なくして戻ってきた張の声に、エレンは抱えたクッションごと身体を起こして、カップを受け取った。
「……ありがとう」
湯気を立てるカップを両手で包み込むように持てば、指先にじんわりと熱が伝わってくる。そのことで初めて、自分の手がこんなにも冷えていたことに気付いたのだった。
温かな蒸気が鼻先を濡らすのを感じながら、一口飲む。
口の中に感じるほのかな甘みと、熱が心地よかった。少しの間をおいてじわり、と胃のあたりに広がった熱は、冷えていた身体の芯に火が灯るような感覚だ。
その心地よさに、エレンは思わず唇を緩めて、ぽつりと言葉をこぼした。
「──美味しい……」
「あぁ、そりゃ良かった。熱いうちに飲めよ」
張の言葉に小さくうなずきながら、もう一口。
ふぅ、と息を吹きかけ冷ましながらゆっくりと飲んでいく。
一口飲み下すごとに、さざ波の立っていた気持ちが落ち着いて静かになっていくのが自分でもよくわかるようだ。
その傍らで、張もグラスに注いだウイスキーのストレートをゆったりと嘗めている。
言葉を交わす必要はない。お互いの存在を感じながら、ただ同じ空間にいるだけで、ホッとするような安心感を覚える。それはきっとエレンだけではなく、張も同じなのだろう。静かな時間だった。
やがて、カップを空にしたエレンを見て、張が促す。
「よし、飲んだな。そら、身体が冷えんうちにベッドに入れよ」
指先をもじもじとさせているエレンが、意を決したかのように張を見つめた。
「……貴方は、まだ寝ないの?」
「なんだ、お前、まさか寂しくて寝られなかったっていうんじゃないだろうな?」
からかうようにそう言われて、エレンは思わず頬を染めてしまう。
「ち、違うわよ……」
慌てて否定するエレンだったが、顔どころか首筋まで赤くなっているせいであまり説得力はない。肌の白いエレンは、感情の動きがすぐに露呈してしまう。
「そうか。ならいいな。俺はもうしばらく起きているとしよう。おやすみ、エレン」
張は煙草に火を点ける仕草をしながら、横目でエレンの様子を盗み見る。
唇を尖らせてはまた真一文字に結び──何か言いたげなその仕草に、張は内心で笑みをこぼす。
視線は張の顔をちらりと捉えては、すぐに逸らされる。その間にも、頬はますます赤く染まり、
まだ唇を尖らせながらもエレンは、ようやく絞り出すように小さく言った。
「……一緒に、寝てほしいわ……」
揺れるヘイゼルの瞳には、弱々しい光が浮かんでいて、縋るように張を見つめている。
「はは、わかったよ。そんな目で見られちゃ、俺も敵わん」
苦笑する張に、エレンはホッとしたように微笑む。
そして、寝室へ向かう張の後を追って歩き出した。
*
「あまりにも眠れない夜は思うの。これまでどうやって眠ってたんだろうって。……まるで眠り方を忘れてしまったみたいだわ」
張はクローゼットの扉を開け、無造作にシャツを脱ぎながらエレンの言葉に耳を傾けていた。その背中越しに、エレンはぽつりぽつりと零すようにそう呟いた。
「気を楽にしろよ。一晩や二晩眠れなかったところで死にゃしないさ」
「……そうね。そうだけど……」
視線を落としたエレンが、小さく零す。
「眠れないと、……やっぱり辛いわ……」
「…………」
少しだけ悲しそうに眉間を寄せるエレンの様子を見て、張はもう何も言わず、黙って彼女の隣に腰を下ろした。
すると、エレンは張の胸に額を擦り寄せ、顔を隠すように埋めた。
「俺に何をしてほしい?」
「こうして側にいてくれるだけで、気持ちが落ち着くわ……。もう一つ言うなら……」
張の手を取って、自分の頭へと導いた。
甘えと羞恥が入り混じった感情に、エレンの頬は微かに紅潮している。
「……はは、甘えん坊だな。いいさ、いくらでも撫でてやるよ」
間接照明のぼんやりとした明かりだけが、二人のいる寝室を包んでいる。
ベッドの中で、エレンのその亜麻色のウェーブヘアに指を通しながら、張が尋ねた。
「これは癖毛なのか?」
「ええ、そうよ。母もくせっ毛だったから、よく言われたわ、私に似たのね、って。……最近になって、少しずつ思い出すようになったの……小さいときのこと、まだ、両親といたときのこと」
張の指が髪を梳くたびに、エレンは目を閉じて、記憶の奥へと沈んでいく。
母の手の感触、髪を撫でながら笑っていた顔──その欠片が、撫でられる心地よさの合間に、ぼんやりと浮かび上がるようだ。
「……これね、寝癖が酷い時は鳥の巣みたいになるの」
「そりゃ見てみたいな。今度見せてくれよ」
ニヤつく張の気配を感じ取ったのか、エレンは途端に目を開けると、めいっぱいに拒否の言葉を口にする。
「えぇ? 絶対に嫌よ、恥ずかしいもの!」
「なんだ、いいじゃないか。減るもんじゃあるまいし」
「嫌なものはイ・ヤ。三つ編みにして寝れば寝癖はつかないんだから!」
「はは。お前のお袋さんも同じことを言ったのかもな。……親父さんのことは?」
「父は、スイス出身よ。父の愛銃と同じでね。よくそう言ってたわ」
エレンの声には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。父の言葉を思い出すたびに、胸の奥に小さな灯がともるような気がするのだ。
「なら、お前の名前はどこから取ったんだろうな。
ドイツ語圏なら、エレンじゃなくてエレーナとかヘレンの方が多い気がするがな」
「父が付けたかったらしいのよ。響きが好きだとかで。エレンってね、輝くもの、とか光、って意味なんですって。
……私ね、この名前が大好きなの……どうしてこの名前をつけたの、って両親に尋ねたことを思い出したわ。それは呆れるくらい、何度も何度もね。
答えが聞きたくて、何度も。両親は飽きもせずに答えてくれたわ……」
そう言葉にしたあと、エレンはそっと視線を伏せた。
思い出の中にある両親の声は、優しくて、温かくて──けれど今はもう届かない。せめて、別れのきっかけだけでも思い出せたのなら、今よりも気持ちの整理がつくのだろうか? 何度も考えた答えのない問いに、いつの間にかエレンの表情は沈みきっていた。
張は何も言わず、ただエレンの顔を見つめている。彼女の艷やかなまつ毛がわずかに震えて、沈黙が部屋を満たしていく。
この夜の静けさの中で、言葉はもう役に立たないと悟ったかのように、彼はそっと腕を伸ばした。
「よし、エレン。お前を眠らせる奥の手を使うぜ」
そう言うと同時にエレンを腕の中に閉じ込めて、胸に抱きしめる。そして、背中をトントンと手のひらで叩き始めた。
エレンは呆れたように唇を尖らせながらも、彼の腕に抱かれると、ふっと肩の力が抜けるのを感じていた。
「維新ったら、これが奥の手? こんなので眠れるわけ、──」
「シーッ、エレン。もう黙れよ。黙って目を閉じろ」
「……もう……子供じゃないのに……」
まだブツブツと文句をいいながらも、張の匂いに包まれると、ようやく安心感を覚えることができた。彼の腕の中が自分にとってどれほど安心できる場所かを、身体が先に思い出していたようだ。
すると、エレンの呼吸が落ち着いたのを感じ取ったのか、張が囁くように声をかけた。
「ほら、エレン。耳を澄ましてみろよ」
「……何?」
「俺の胸に耳を当てて──そら、何が聞こえる?」
「………心臓の音、が聞こえるわ」
規則正しいリズムに耳を傾けていると、不思議と気持ちが穏やかになっていくのを感じる。彼の身体の奥にあるくぐもった鼓動の音、それは、驚くほどにエレンに安らぎをくれた。
ゆったりとした呼吸に揺れる彼の身体に包まれて、背中に置かれた彼の大きな手から伝わる、じんわりとした温もりが心地よい。目蓋が徐々に重くなっていく。──これなら、眠れそうだ。
そして、意識が少しずつ遠のいていくのをエレンは感じていた。
眠りに落ちる直前、エレンはふと、誰かの声に呼ばれた気がした。
両親の声ではない。やわらかな女性の声、遠い記憶の底から浮かび上がるような誰かの声。
その声に振り向く前に、意識は温かい闇に溶けた。
*
「エレン。……やっと寝たのか?」
呼びかけに答えはなく、穏やかな呼吸に肩が揺れるだけになる。
張が覗き込むと、エレンは安心しきった顔をして眠りに落ちていた。無防備に閉じられた目蓋、薄紅色の頬、力の抜けた唇からは微かに寝息が漏れている。それでも背中に回した手は、張のシャツをしっかりと握りしめている。
「──やれやれ、仕方がないな。今夜はずっとこのままでいてやるよ」
そう
自分にすがり付くエレンの身体を抱きしめて、その柔らかな髪に鼻先を埋める。目を閉じれば、彼女の優しい匂いとほのかな体温が、急激に眠気を加速させる。
「お前がいりゃ、どうやら俺は不眠とは無縁のようだな」
__________
Wie ein Gebet, wie ein Fluch.
(それは祈りか、呪いか)