──どこかで声が聞こえる。泣き声だ。少女の、頼りない泣き声だ。
(これは、誰の声なの? 誰が泣いているの?)
エレンは辺りを見回すが、声の主は見つからない。それどころか、一メートル先だって見えない、薄闇に包まれているような不明瞭な視界。前も後ろも、どこから来たのかもわからないのだ。
これは夢なのか、それとも現実なのか──ただ、意味もわからずとても哀しかった。泣いているのは、自分なのかもしれない──エレンはぼんやりとそう思う。
エレンはその場に座り込むと、そのまま身体を横たえる。地面は波のように大きく揺れていた。ゆらり、ゆらりと繰り返すその動きはまるで、揺り籠のようだった。
エレンはまるで胎児のように身体を丸めると、そのまま目を閉じた。
──泣き声は、やがて聞こえなくなった。
***
ふっと目を開ければ、エレンの目には自宅の天井が映る。最近では、ほとんど
「やっぱり家で寝ると、なんだか悪い夢を見るわ……。困ったわね……」
またいつもの夢だ。とても哀しい気持ちになるのに、決まって内容は覚えていない。エレンは目尻に流れた涙を拭うと、ベッドから身体を起こした。
夜明けをまだ迎えていない空は薄暗く、青白く、弱々しく光る月を浮かべていた。
今日は朝から仕事が入っている。依頼人は、恋人である
先日のクラブの件もそうだったが、張は度々エレンに 自らの“護衛” を依頼するようになっていた。彼には優秀な部下がたくさんいて、わざわざエレンを護衛に使う必要はもちろんないのだが──単純に、彼女を同行させたいという理由を述べていた。そう言われてしまえばエレンだって断ることなんてできない。恋人の側にいたいのは、張だけではないのだ。
エレンはシャワーを済まし、身支度を始める。母譲りのくせ毛であるウェーブヘアを梳かし、絡まりを丁寧にほどいていく。そして、髪がまとまったところで、今度は口紅を手に取って唇に滑らせた。上下の唇を軽くこすり合わせて色を馴染ませる。
──ふと、鏡の中の自分の姿に目がとまった。段々と母に似てきた気がしていた。
ぼんやりとした記憶の中でエレンに微笑みかける母の顔。記憶の中の母は幼い頃に見た姿のまま、もう年を取ることはない。だから、きっとすぐに母を追い越してしまうのだろう。
「おかあ、さん……おとう、さん」
呟いてみる。もうずっと口に出していなかったその二つの言葉は、なんだか慣れない感じがして、そのことが少し悲しかった。
エレンは口紅のキャップを閉めると、ドレッサーの上の愛銃に視線を移した。
父のものだった銃。そして今は自分のそばにある銃。
自分に託された、たった一つの父との繋がり。
「お父さん……は、どんな人だったのかしら……? 生きていたら……
ズキン、側頭部に痛みが走ってエレンは動きを止めた。思い出そうとするといつもこうだ。
まただわ、もうやめましょう、そう気持ちを切り替えてカーテンを開けると、ちょうど朝日が昇るところであった。
厚ぼったい雲の縁を黄金色に染め上げながら、朝の太陽は雲間をかき分け
朝の光を全身に浴びて、エレンは身体を目一杯伸ばした。
「……うん、今日も一日、頑張りましょう」
***
その会合が終わるころには、太陽が高く昇り、強烈な陽射しが照り付けていた。うだるような熱気の中、
「暑いわね。こんなに真昼の会合って、珍しいんじゃない?」
「確かにな。まァ先方のご希望とくりゃ、仕方なし、さ」
そう会話しながら張とエレンが、そして部下たちが車に乗り込もうとしたときだった。
皆、一様に背後から感じたのは、強い悪意に満ちた鋭い気配──殺気だ。
エレンがショルダーホルスターから銃を引き抜くのは、他の組員よりも僅かに早かった。彼女に続くように、組員たちが一斉に銃を懐から抜き、構える。
振り返った先には、少女が一人。
ボロボロの服を着た年端も行かない少女が、震える手で銃を握り照準をこちらに向けていた。 子供が持つにしては大きな拳銃で、両手で握るのがやっとといったところだ。
一目見て少女は興奮状態だとわかる。目を見開き、わなわなと震える体をやっとのこと抑えて立っているようだった。
張の一番近くにいたエレンは自身の身体で彼を隠しつつ、刺激しないよう少女に話しかける。
「……貴女、誰に銃を向けてるか分かってるの? 無駄死にしたくなかったら、さっさとそれを下ろしなさい」
誰か──もしくはどこかの組織にそそのかされたのだろう。張維新を殺れば金が手に入る。子供であれば警戒されにくいと思うのだろう、この手の話は今さら珍しくもない。
「──……じゃない」
少女が口を開く。
「その男じゃない。あたしが殺したいのは、あんた!!」
少女はエレンを射抜くように睨み付け、張り裂けんばかりにそう叫んだ。
「あら、そう。誰にそそのかされたか知らないけど、無駄なことはやめた方がいいわ」
エレンは表情を崩さずにさらりと言う。
組員たちは銃を構えたまま微動だにせず、エレンと少女の成り行きを見守っていた。
「今なら見逃してあげる。貴女に頼んだ大人に伝えなさい、自分で殺しに来いってね」
傍らの張の表情が、ごく僅かに曇る。
彼が折に触れて感じてきたこと──それは、エレンの詰めの甘さだ。
張は内心で舌打ちする。
彼女は優秀だ。射撃のスキルに、生き残るための天性の勘の良さだって持っている。
だが──肝心なところで、いつも情が顔を出す。
張は、何度も思ってきた。この街の住人としては、エレンはあまりに
それが彼女の魅力であり、同時に最大の弱点でもある。
いずれ、その甘さが命取りになる──そんな予感が、張の表情をますます渋くする。
誰も口を開かない、張り詰めた沈黙がその場にのしかかる。
少女の肩が小刻みに震えている。
それは恐怖などではない。怒りと、哀しみと、どうしようもない衝動が入り混じった、爆発寸前の感情の揺れだった。
そしてついに、堰を切ったように少女は叫ぶ。
「違う。誰かに頼まれたんじゃない。──あたしはパパの敵を取りにきた!!」
その言葉はエレンの思考を一瞬で止めた。
(──パパのかたき? ──)
突如、心臓を叩かれたような強い動悸を覚え、エレンは眉間を寄せた。
少女の瞳からは涙が溢れ始める。それは後から後から、とめどなく流れた。それでも、しっかりと銃口はエレンに向けたままだ。
「覚えてなんかないんだ! でもあたしは、忘れない! パパを殺したのはあんただ! なんであんたは生きてるの!? パパは……パパはもういないのに……」
言葉の最後は、半ば嗚咽だった。
しかしエレンにははっきりと理解できていた。目を見開き少女を凝視する。そう遠くもない記憶の欠片が、胸の奥からゆっくりと浮かび上がってきて、その形が見える。忘れていたはずの光景が、音が、匂いが、次々と蘇る。
──そうだ、この子を、知っている。
あのとき、自分が撃った男の背後で泣いていた、あの子の──
「……っ…………」
エレンの銃が僅かに震えた。
──私は生き延びるために引き金を引き続ける。そう、ビジネスよ。そう信じてきたのに。
それなのに、なぜ。この子供の眼を見ることができないのか!
エレンは震え出す体を、必死に抑えようとした。
引き金にかけたままの人差し指も震え、手のひらにはじっとりと汗が滲み出ているのがわかった。
エレンのおかしな様子に、張はもちろん周りの人間も気付いていた。
──組員は五人。少女を撃つことなどたやすいのにもかかわらず、誰もが銃を構えたまま動かずにいた。否、この空気の中で──動けずにいた。
(オトウサン……)
それは、誰の声なのか。
「返してよ…………」
(おとう、さん……)
頼りないそれは、誰の声なのか。
「……やめて……」
(お父さん……!)
「パパを……パパを返してよおぉぉ!!」
(──お父さん!!)
幼い声が、張り裂けんばかりに叫ぶ。
「やめてぇっ!!」
エレンが絞り出すように叫んだのとほぼ同時だった。
少女が引き金を引こうとしたその瞬間、組員の放った銃弾が彼女の額を真っ直ぐに貫いた。
「……──!!」
まるで電池が切れたように動きが止まった少女の身体は、ぐらりと傾き地面へと倒れ込む。少女の手からこぼれ落ちた銃がコンクリートに叩きつけられて、乾いた音が響いた。
──彼女のその銃はエレンにとって見覚えのあるものだった。
銃身に付いた傷跡。 ──エレンの9mm弾が付けた傷跡。
「……エレン?」
エレンは少女が立っていた場所を見つめたまま、震える身体を抑えることもなくただ浅く早い呼吸を繰り返すだけで、張の声などまるで届いていないようだった。
少女の亡骸の下には、みるみるうちに血だまりが広がっていく。
「あ……、」
エレンは目をそこに向けたまま後退りしていく。すぐに背中は車にぶつかるが、何かから逃げるように体を縮めて車体にすがるようにしゃがみ込んでしまった。それでも、視線はそこから、縫い止められたかのように逸らすことのないまま――
見開いたヘイゼルの瞳はどこか焦点が定まらずに、ただ頼りなく揺らめいている。
「エレン、おい」
張が強い口調で呼び掛けるのと同時に、エレンの手から銃が滑り落ちた。
「あ…………あ」
開いた口からは言葉は出ず、ただ震えた声が漏れるだけだ。
「エレン!」
張はエレンの顔を両手でつかみ自分の方を向かせるが、怯えを浮かべた瞳は張を映していない。
そして、その血の気の失せた頬を何度か叩こうとも、エレンは反応しなかった。
張の声も、彼の姿も、エレンには見えてはいない。
エレンの頭の中では、少女の声が響いている。先ほどの少女の声ではない。それは、幼かったエレン自身の声だった。
『返して……
頭の中で幼い声が反響して、それを皮切りにしたように──それまでの記憶が溢れ出した。
──あぁ、どうして忘れていたんだろう!!
雪崩れ込む記憶。
冷たく重い雪のように、記憶が次々と降り積もっていく。
ひとつひとつが、胸の奥に積み重なっていた痛みの結晶。
それらが一斉に崩れ落ち、まるで雪崩のようにエレンの意識を覆い尽くしていく。
息が詰まりそうなほどの白い闇の中で、彼女はただ沈んでいった。
次々と押し寄せてくる光景、誰かの顔、浮かんではまた呑まれて消えていく無数の欠片。
──お父さん、お母さん!
──マティルデ、ファティマ!
──エーリカ、それからみんな!!
『お父さんを……返して……!!』
再び聞こえた声が、繰り返し響き渡る。
それを最後にして、エレンの意識はプツリととぎれた。
***
「精神的なものでしょう。特に身体に異常はなさそうです。大きな病気の心配はないかと」
三合会お抱え医師である
張維新は傍らに立ち、黙って黄の言葉を聞いていた。エレンは静かに目を閉じそこに横たわっている。
ここは、黄の診療所である。表向きは古びた中医薬局だが、裏手には防音処理がされた診察室と、簡易な手術設備まで整っている。張の組織の幹部たちが密かに利用する、いわば“影の保健室”だ。
雑居ビルの一角、看板も出ていないその場所を知る者は、限られている。エレンが気を失ってしまってから、張がここに彼女を運ばせた。
「失神というのは、強いショックを受けたりするとまれにあることです。自分が殺した人物の子供が復讐にくるということは──エレンさんにとっては大きなショックだったのかもしれませんね」
ベッドの側にたたずむ張に、黄が声を掛ける。
「彼女の目が覚めたら、帰っていただいて構いませんよ。ですが、一週間程度は様子を見ていたほうが安心かもしれませんね」
「ああ、──」
張は曖昧に頷きながらも、視線はエレンの顔から離さなかった。
(……本当に、それだけか?)
エレンがあの少女の父親を殺し、少女が敵討ちに来た──それだけで、彼女が気を失うほどのショックを受けるだろうか?
あの時「やめて」と彼女は叫んだ。少女が「パパを返して」と言った時だ。
(
張は考え込むように、目線を床に落とす。
エレンの父親も、すでにこの世にはいないという。だが、彼女はその死の理由を「覚えていない」と言っていた。
それが、今──
(まさか……思い出したのか?)
張の胸に、冷たい予感が走る。
そのとき、うなされるような声がエレンの喉から漏れた。張は現実に引き戻され、ようやく、足元に投げていた視線を彼女の顔へと戻した。
ベッドに横たわったままのエレンが苦しそうに眉をしかめている。
────お父さん
エレンの唇が小さく動いたけれど、張には聞き取れなかった。
***
深い、深い記憶の海に沈んでいくような感覚だ。
海水は温かかったけれど、薄暗く仄かな光が差すだけで周りはよく見えない。
薄闇の中をゆっくりと沈んでいく。やわらかな無数の泡に包まれながら、エレンの意識はぼんやりと揺らめいている。
(──おとうさん)
呟いた声は声にならずに、泡に溶けて消えた。
誰かの声がエレンを呼ぶ。
──エレン、
『エレン、おまえは才能がある。父さんに負けないガンスリンガーになるぞ』
『がんすりんがー?』
『拳銃使い、という意味だよ。どうだ、かっこいいだろう?』
『うん!』
『よし、この調子であと百発撃て。 終わったら夕飯にしような』
『はい、おとうさん!』
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。
(────お父さん、
私、────)
『うっ、うぇ……ひっく……』
『エレン! まだ真ん中に当たってないぞ! 泣く暇があるなら練習するんだ! 父さんのいた軍隊は、もっともっと厳しかったぞ』
『でも……手が痛いの……』
『ああ、擦り切れてるな……新しいグローブに変えた方がいいな。だが……子供向けのサイズはなかなか手に入らないものだな……』
『ひっく……』
『エレン、もう泣くんじゃない。 自分を守るためには必要なんだ。強く、強くなるんだ。生き抜くためにな』
『はい…………』
『いい子だ、エレン。 父さんはおまえを愛してるよ』
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。
(──ああ、そう。
おとうさんが私に初めて銃を教えてくれたのよね……。)
『おとうさんの銃、かっこいい!』
『これか? この銃はな、父さんと同じスイス生まれなんだ』
『ふ〜ん……いいなぁ、わたしも欲しい』
『エレンにはまだ早いな。もっと大きくなったら、これをやろう』
『本当⁉』
『ああ、本当だよ』
『約束ね!』
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。水面へと登っていく無数の気泡はときおり肌を撫でて、柔らかな感触を残した。
(──厳しいけど、優しい、 おとうさん。
大好きなおかあさんもいた──)
『──ねぇあなた、エレンに銃を扱わせるのは、早すぎるんじゃないかしら……』
『ミユキ、何を言う』
『それに、いずれ違う道に進むことができるかもしれないわ、──普通の女の子のように……』
『あぁ、だが──』
『わたしのように銃が撃てなくても、あなたならわたしたちを護ってくれるでしょう?』
『もちろん、何があっても最愛の妻と娘を守る──その決意はしてるが、こんな生き方をしているとな。将来がどうなるかはわからないが、エレンにも身を護る術を教えておきたいんだ。無駄になったならそれでいいじゃないか』
『…………、そうね……』
『……こんなことになっても君はおれについてきてくれて、感謝してるよ、ミユキ』
『感謝なんて……。ヘルベルト、わたしはあなたと、エレンと、家族三人でいられればそれでいいの。
それに、きっとあなたの理想の世界が本当になるって、わたしも信じてるから……』
『ああ、見ててくれ、ミユキ。おれたちの活動によって必ず世界はいい方に変わる。変えてみせるさ。我々は
きっと、
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。
(おとうさんはよく言っていたわ。理想の世界を作るって)
(おかあさんは、そう、だからいつも心配していたの)
(おかあさんの暗い顔なんて見たことがないけれど、このときは──何かが違ったわ)
『ねえ、あなた……ヴァルターさんって人、大丈夫なの……? ずいぶんとその……、熱心に話し込んでいたみたいだから……』
『あぁ、心配ありがとう。目的の前に、仲間内で意見が割れてるのも恥ずかしい話だな。ヴァルターとはまたよく話し合おうと思うよ』
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。
(──ああ、おかあさん、そうだわ……あの時に……)
『おとうさん……。おかあさん……どうして、うごかないの……? どうして、……』
『エレン…………、母さんはな、母さんは……』
『ふえっ、おとうさん……』
『うっ……う…… ミユキ…………すまない…………すまな、い……、おれの……っ、おれの、せいだ……!!』
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。
(──おかあさん──ころされた、って──どうして? 誰がこんな──)
『お前が妻を、ミユキを殺したんだな!?』
『人並みに幸せになれると思ったら大間違いだ、ヘルベルト・リーフェンシュタール!! お前は結局、俺たちと同じドブネズミなんだよ! エレンって言ったか? どうせお前の娘も同じだよ!』
『ヴァルターっ、きさま……!!』
エレンの意識は深く、深く沈んでいく。ますます辺りは暗さを増して、もう何も見えない。
(──ああ、──やめて、 おとうさん──ダメ────ダメだよ)
『死ねぇッ! ヘルベルト!!』
(──やめて、やめて、やめて!!)
エレンの言葉は声にならず、ただ水中に溶ける泡になって消えていった。
『エレン……すまない……』
『うぅ……うえっ。 おとうさん、どうしよう……っ血が……こんなに…………』
『とうさん、失敗してしまったんだ。……ごめんな、エレン。 おまえに、まだ、ゲホッ、ゲホ……ッ!!』
『おとうさん……!』
『まだ教えること、 が、 たくさ……ん』
『おとうさん……いやだよ……わたしを……ひとりにしないでぇ……っ」
『エレン、この銃を……お、お前に……これで……自分を……ま、守る、んだ……いいか、生きる、ため……に……、ためらうな…………ためらわず……引き金を···引け……っ』
『うう〜〜〜』
『すまないな……おまえを残して……死ぬ……なん………………』
『おとうさん? おとうさん……』
『いやあああああ──!!』
『返してぇえ!! おとうさんを返してよおぉ!!』
カエシテ──
オトウサンをカ・エ・シ・テ────
(──ああ、そうだった。ぜんぶ思い出した──)
「…………お父、さん」
呟いたエレンの目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
*
「今日は家に戻るわ。心配かけてごめんなさい」
「いや、なに」
黒塗りの高級車から降りて、エレンは車の中を覗き込んだ。
「じゃあね、張。おやすみなさい」
「ああ、いい夢を」
車は静かに走り出す。エレンは彼らが完全に見えなくなるまで見送っていた。
速度を上げていく車の後部座席で、
「
「……ああ」
曖昧に返事をして、流れる景色に視線を投げる。煙草の灰が長くなるのにも気付かず、張は窓の外を見つめ続けた。
*
自室に戻ったエレンはそっと銃を取り出すと、テーブルの上に載せた。父の出身と同じ、スイス製の銃。
「やっと、思い出せたわ……。お父さん、お母さん、二人がどうなってしまったのか、どうして“もう会えない”のか……」
そう、エレンの父と母は殺された。幼かったエレンには誰が母を殺したのかも、なぜ殺されなければならなかったのかもわからなかった。
けれど──父は死の直前、たしかに誰かと言い争っていた。エレンは見ていた。父が撃たれるその瞬間を、そのとき父に銃を向けていた男の姿を。そして、父がその男の名前を呼ぶのを。
記憶の底に沈んでいた真実が、まさによみがえったのだ。
「そう、名前は……ヴァルター……。こいつが殺したのね、父を……そして母までも……」
その男の行方を知るまえに、エレンは両親と育った町を離れた。父を殺したあの男が追いかけてくるのではないかと、恐怖からひたすらに遠くへ歩いた。
そして、あの雪の日、もう動けずにうずくまるエレンを助けたのがマティルデという女だ。
「そう、そうだわ、マティルデ……マティルデ……? 誰、だったかしら、…………っ、」
エレンは手で頭を押さえると、何かから逃げるように俯いた。
疲労感が全身を包み、いつの間にか冷たい汗が背中を流れていた。どくどくと心臓が駆け足で脈を打っている。
「……ちょっと疲れたわ。頭がパンクしそう」
自分を安心させるように父の銃を握る。
ふと顔を上げると、夜のガラスに自分の顔が映り込んでいる。エレンはそこに、父親の面影を見た気がした。
「──生きてる。私、生きてるよ、お父さん」
______________
L’eau des neiges déliées est glaciale, mordant mes doigts engourdis.
Il ne demeure que le parfum sourd de la terre détrempée.
(雪解けの水は冷たく、指先を刺す。今はただ、湿った土の匂いだけが残っている。)