深い霧が少しずつ薄くなり、視界がひらける──そんな感覚だった。
「……あら? 私、いつの間にか眠っていたの?」
顔を上げたエレンの声は、まだ眠りの名残を引きずっていた。
テーブルに突っ伏していたらしく、下敷きになっていた腕がじんと痺れている。
いつの間にか空は白んで、辺りは明るくなっていた。
長い夢を見ていた気がするが、内容はもう思い出せない。けれど、何か大切なものを取り戻したような感覚が残っている。
父と母の真相は確かに辛かった。それでも──思い出せてよかった、とエレンは静かに思う。
過去は変えられない。けれど、これで少しは前に進めるはずだ。
「大丈夫。新たな一歩よ、エレン」
小さく呟いたその瞬間、腹がぐうと音を立てた。
「……どんなときでも、お腹は空くのね……」
キッチンへ向かい、鍋でコーンスープを温めた。
ふわり、ふわりと立ちのぼる湯気が、朝の光に溶けていく。
その一口を含んだ瞬間、コーンの豊かな甘みと、じんわりとした塩気が舌の上に広がった。
それは冷え切った身体の奥にまで染み渡るような、そんな温もりだった。
その感覚に刺激され、古い記憶が呼び覚まされる。
「……ああ、そう……だわ……マティルデ……」
湯気の向こうに、雪の中で自分を見下ろしていた女の姿が浮かんでくるようだ。
空からは音もなく雪が舞い降りて、幼いエレンは、凍えた身体を抱えて歩き続けていた。
どこへ向かうでもなく、ただ遠くへ、遠くへ。
その足が止まり、ついに崩れ落ちたとき、一人の女が現れた。──それが、マティルデだ。
『おや、こんなところで寝ていたら凍え死んでしまうよ』
マティルデはエレンを連れ帰り、コーンスープをご馳走した。その出会いからしばらくの間、二人は共に暮らした。
マティルデと送った数ヶ月の静かな共同生活。泣いてしまったときに黙って隣にいてくれたこと、彼女がバッグを贈ってくれたこと――いくつもの記憶が、エレンの脳に鮮やかに浮かんでくる。
しかしある日、彼女は行き先も告げず、エレンを車に乗せて遠くへ向かった。
辿り着いた先で待っていたのは、ファティマという名の女だった。慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、どこか底の見えない静けさをまとっていた。
『まあ、なんて愛らしいの。今日からあなたは“エルフリーデ”。そう呼ぶわ、さあ、返事をして』
その瞬間、名前は奪われた。
子供心にもファティマの静かな威圧感ははっきり感じられた、そう、恐ろしかった。声を出すことすらためらわれた。
エレンが気がついた時にはもう、マティルデは一度も振り返らず車に乗って去っていったのだった。「行かないで」と言う暇すらなかった。
「……結局、マティルデは私を救ってくれたけれど、ファティマの元に置いていった……。マティルデ……貴女は、どうして私を──」
スープカップを置くと、エレンは静かに呟く。
「はじめから、ファティマに引き渡すためだったのかもしれないわね……そう、仲介人……それがマティルデの役割だったのかも……」
幼い頃のエレンは、どこかで信じようとしていた。
たとえ引き渡したのが事実でも、マティルデの中に──あの数ヶ月の温もりに、ほんの少しでも“優しさ”があったのではないか、と。
だが、今のエレンにならわかる。そんな残酷なビジネスがこの世界にあるということが。
エレンは指先をそっと組み直した。その仕草のあと、遠い記憶がまたひとつ浮かび上がるのを感じた。
「そのあと、そのあとは……そう、それで私は“エルフリーデ”という名で、ファティマの元で暮らすことになった……」
まるで教会のような、石造りの静謐な施設。施設の
皆と一緒に暮らした記憶がぼんやりとあるくらいで、その施設がどこにあるかすらエレンには思い出せない。けれど、確かにそこで育ったという確信はあった。
銃の撃ち方、車やバイクの運転方法、爆薬の扱い、ナイフを使った接近戦の方法。いま自分が知っているすべては、あの場所で訓練として教え込まれたのだ。
「そう、私たちはあの施設で──傭兵……というよりも……暗殺者にされるために育てられた」
年のいかない子供、さらに女の子であれば周囲に警戒されにくい、そのため暗殺に適しているのだと、ファティマがよく皆に言い聞かせていた。
女の子たちは従順な操り人形だった。施設が立てた計画に従い、美しい服を着せられて、暗殺という“お仕事”を与えられるのだ。
エレンの“初仕事”は、父の銃で行われた。空の薬莢が落ちる音が、今ここにあるかのように思い出せた。
父の形見である、スイス製の銃。唯一ともいえる家族との繋がりだ。だから、エレンは決して銃を手放すことはなかった。
施設で暮らしながら、エレンはいつも思っていた。片時も思わないことはなかった。両親に会いたい。だが、温かい父の手も、母の胸も、もう記憶の中にしかない。
もうどこにも戻れない。だから、父の最後の言葉を守り、ただ生きるためにその引き金を引いた。“エルフリーデ”として、施設の命令によりいくつもの命を奪ってきた。
「……施設にいたときのことは、よく思い出せないわ……。姉妹たちのことも……。
そして、なぜ、私は施設を離れてロアナプラへ来たのか……」
ただ、必死で走っていた記憶だけが残っている。荒すぎて苦しい呼吸と喉の焼け付くような渇きを、はっきりと思い出せた。
あの日、彼女はこれまでにないほど全力で、死に物狂いで逃げ続けていた。
たしか──仲間を殺されたと信じている者たちに追われていたのだ。計画にどんなミスがあったのか、今となっては分からない。
背後から飛んできた弾丸が、腕を掠めて服を焦がす。痛い、ではなく熱い、エレンはそう感じた。そしてその瞬間、これまで押さえつけていた思いがバネのように跳ね返って飛び出してきたのだ。
(──もう、嫌だ)
(──人を殺すのは、もう、嫌だ!!)
(こんなふうに生きる意味なんて、ない!!)
初めて強くそう思った。
思い出さないようにしていたのに、殺してきた人間たちの顔が次々と頭の中に浮かび上がってくる。
死の間際の様々な顔──それは、なぜ自分がといった驚きの表情、憎々しげに睨みつける瞳、こうなることをどこかで解っていたような諦めと、安堵が混じったような笑み──
ある男が血の泡を吐きながら言った最期の言葉が、エレンには信じられなかった。
「やっと……死ねる……、天使が、迎えに……ありが……とう……」
その声が途切れた瞬間、エレンの胸の奥で何かが音を立てて軋んだ。息が詰まり、心が引き裂かれるように痛む。銃を握る手がわずかに震えたことまで、はっきりと思い出してしまった。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!)
走り続けながら、心の中で繰り返し叫ぶ。
頬から飛んだ涙が、暗闇の中で小さな軌跡を描いた。まるで切れたネックレスから散らばる真珠みたいに、彼女の後ろへと消えていく。
そして、いつの間にか港へと辿り着いていたエレンは、一番近くにあった船に忍び込んだ。何もかもから逃げたいという思いが、無意識に船を選ばせたのかもしれない。暗くて狭いその場所にうずくまっていると、どれくらいぶりか心が静かになるのを感じ、優しくゆりかごのように揺れる船に身を預けてエレンは静かに目を閉じる。
──もう、疲れた。
次に目を開けたら、父の、母の笑顔に会えるようそう願って──
目を覚ました時には、何もかもが霞がかったようなぼんやりとした思考だけが残っていた。これは夢なのか現実なのか、境界線すら溶けてしまったような気分だ。
港に降り立って辺りを見回せばムッとした南国の熱気と、辺りに響く罵声、銃声──
父と母はもういない、帰ってこない。でもどうしてかは覚えていない。忘れてしまった。なぜ?
信じられるのはその手に握る父の銃だけだった。
──まったくこの街はイカれてる。少し歩いただけでエレンにもはっきりとわかった。
エレンがいた場所から遠く離れているであろうこの南国の街は、おかしな人間ばかりだった。みんな銃を携帯している。安い屋台でヌードルを啜る連中も、港で小舟に揺られてるジジィも、誰も彼もが銃を持っていてしかも、あろうことか目の前で人が撃たれても気にする様子すらない。警官ですら、昼間から街の人間と一緒になって酒を飲み馬鹿騒ぎする始末だ。
取りあえず腹ごしらえをしようと思っていたら、これまた銃を持った男に路地裏に引きずりこまれそうになったので、エレンは蹴りをかまして、銃の台尻で後頭部を一発殴ってやった。そうしたら仲間とおぼしき男が出てきて、エレンの横っ面を殴り飛ばした。地面に叩きつけられ、土が口の中に入り血の味と混じって不快な感触がしたのを覚えている。
こちらを見下ろしながら、男は懐の銃に手を伸ばす。
だが、男よりも早く、エレンは引き金を引いていた。放たれた鉛の弾は、男の眉間を貫いた。
エレンがこの街に降り立って十分以内の出来事だった。
前のめりに倒れて来る男の死体を足で蹴り、エレンはヨロヨロと
──ああ、なんて酷いところ。
──こんな街、
行く宛もなく走り出したエレンの頭上から、 強い雨が降り出した。
そして、あの場所で、エレンは
『ここはロアナプラ。硝煙と暴力の都だ。歓迎するぜ、お嬢ちゃん』
この腐った街に歓迎すると、 張は──そう言った。
スープはすっかり冷めていたが、エレンは最後の一口を飲み下す。
彼に会わなければ、この街に居着くこともなかっただろう。
「こういうのを、運命って言うのかもしれないわね……なんて」
そうだ、霧は確かに晴れはじめている。
まだ思い出せないことはいくつもある。施設での生活、姉妹たちの顔、細かな日々の断片。
だが、今はそれでいい。これから先、残りの記憶もゆっくりと姿を現していくだろう。
張のことを思い出すと、そう信じてもいい気がするほどに穏やかな気分になるのだ。
***
エレンの様子は驚くほどいつも通りで、張はかえって戸惑いを覚えるくらいだった。彼女を
「……あー、もういいのか、その……調子は」
どことなく遠慮がちに尋ねる張に、エレンはあっさりと答えた。
「ええ、いいわ。まったく、あんなことで仕事をもらえなくなるなんて御免ですからね」
自嘲めいた声とともに、張の咥えていた煙草を取って深く吸い込む。案の定むせ込むその様子は、どう見てもいつものエレンだった。
「そうか。……俺の考え過ぎならいいんだ」
「え? なに、
「……いや、何でもない」
突然、朗らかな声が背後から響いてきた。
「──あ、エレンさん……
振り返ると、
その顔を見た瞬間、エレンはほんの一瞬だけ戸惑いを覚える。けれど、それ以上に気になったのは──その呼び方だった。
「……“大姐”って、私のこと?」
「はい! 目上の女の人を呼ぶ言葉なんですよ」
劉は屈託のない笑顔で頷く。
「
思わず頬が熱くなるのを感じながら、エレンはちらりと張の方を見やった。
彼は肩をすくめてみせる。否定する気はない、そんな表情だ。その仕草に、エレンの胸がわずかに温かくなる。始まったばかりの道の先で、ほのかな光が灯ったような気がした。だが、劉の笑顔はもっと眩しかった。あの夜、自分に想いを告げてくれた彼が、今こうして何事もなかったかのように笑っている。
──彼だって、傷付いたはずなのに。
それでも、劉は笑っている。
(……みんな、何かを抱えて生きてるんだわ)
ふと、そんな思いが胸をよぎる。
張も、劉も、そして自分も。互いに知らない重たい荷物を、それぞれが抱えている。
それでも前を向いて歩いていくしかないのだ。
(だから、私も──前を向かなきゃ)
そう思った瞬間、エレンの背筋は自然と伸びていた。胸の奥に、小さな灯りがまたひとつ揺れた気がした。
「ね、張。わざわざ呼びつけたんだから、仕事の一つくらい依頼してくれるんでしょ?」
「まぁな、
そうして仕事を受け取ったエレンは、足取りも軽く、意気揚々と出かけていくのだった。
**
調子に乗って悪いことを企ててしまった男を、懲らしめてくる。簡単な仕事だ。エレンは足取り軽くチャルクワン・ストリートを南へゆく。そして一軒の家の前で立ち止まると、軽快にドアをノックした。
「
数回ドアをノックしても、返事がないので勝手に開けた。
「李さん、お邪魔するわねー」
「ひっ!」
部屋の隅で男が身体を震わせ振り返った。両腕に抱えて持っていたものを辺りに散らして、床に落ちている銃を拾いあげようと慌てて手をのばす。
すかさずエレンはヒールの靴で銃を蹴り飛ばし、李の前に屈むと笑顔を見せる。これ以上ない程の恐怖に歪んだ李の顔は、エレンと対照を成していた。
「何の用で来たか分かるわよね? 李さんたら、
必死に後退りつつ李が声を張り上げる。
「ひっ、知らねぇ! おれぁなんもしてねぇっ!!」
「ふーん、意外と強情なんだ」
エレンは立ち上がって、李を見下ろした。そしてホルスターから銃を引き抜く。
「ひえっ! 嫌だあっ! 死にたくなぁいっ!!」
エレンは美しい唇に微笑を浮かべて、李へと銃口を向ける。
『認めんようなら脚の一本くらいぶち抜いて構わん。命までは取るなよ?』
張に言われた言葉を思い出す。──大丈夫よ、張。殺したりはしないわ。言われた通り、脚に風穴を空けるだけ──
引き金にかけた指に力を込めた。
「うひぇっ!! やめてぇ!!」
その瞬間だった。
エレンは動きを、ぴたりと止めた。
「ひいっ……え?」
李が恐る恐る顔を上げると、エレンは微動だにしないまま立ち尽くしていた。微笑の名残だけを残して、表情を凍りつかせている。
見開かれたヘイゼルの瞳の奥には、暗い影が揺らめいている。
部屋の空気が、ひどく静まり返った。
エレンの頭の中では、澄んだ少女の声が反響していた。
『──
「お、おい?」
李の震えた声など、今のエレンにはただの遠い響きでしかなかった。
そのまま硬直した姿勢で、彼女は喉をごくりと鳴らした。冷たい汗が一筋、背中を流れる。
改めて銃を構え直し、今度こそ引き金を引こうと、一気に指に力を込めた。
──が、指が動かない。引き金が、落ちないのだ。
こんな、こんなこと──!
エレンは舌打ちをして悪態をつく。
──こんなこと、一度だってなかった!
「お…………おい、なんだよぉ!」
李の声に我に帰ったように、エレンの瞳がすっと色を変える。
次の瞬間、彼女のつま先が李の顎を鋭く蹴り上げた。
「ぐはあっ……!」
うめきながら床に転がる李の腹を突きやり、足をかけて完全に動きを封じる。銃をホルスターに戻しながら、エレンはいつもと変わらぬ涼やかな口調で告げた。
「ミスター張から伝言よ。“次はない”……用心することね」
**
携帯電話を取り出し、 ボタンを指先で押し込む。
「······もしもし、張? ええ、済んだわ」
電話の向こうで張が微かに笑った気配がした。
『そうか。ご苦労。今夜はたっぷり
「……ばか」
『冷たいぞ、エレン。……何も、問題はなかったんだな?』
エレンの歩調がゆっくりになり、やがて止まる。
「ええ。何も。……何も問題はないわ、張」
熱河電影公司ビル、社長室から見えるロアナプラの街は、ネオンが疎らに灯り始めている。エレンとの通話を終えた張は、電話機を彪に渡した。
張の目は僅かに細められている。薄々、エレンの様子に感づいていた。何かがおかしい、それが何かは彼には分からなかったけれど。
張は口元から煙草を離すと、天井へ煙を吐き上げた。白い煙がゆっくりと広がり、薄膜のように灯りを曇らせる。
「……まァ、あいつはそんな──心配するほどヤワじゃないはずだ」
それはどこか、自分に言い聞かせるような口ぶりでもあった。
**
空き缶を五つ、等間隔に並べた。
そして、三十メートルほど離れたところで、エレンは銃を構える。
一発、二発、三発。
弾丸は空き缶を凹ませ、地面へ転がしていった。
五発目の銃声が空へ吸い上げられて、辺りは静かになる。エレンはゆっくりと腕を下ろし、それから銃を握る手を見つめた。
(──大丈夫。撃てる。さっきのは、たまたまだったのよ)
言い聞かせるように心の中で呟くと、波音に誘われるようにエレンはその目蓋を閉じた。
海に夕陽が沈み、辺りを薄闇が包み始めていた。
___
(Le gioie, i dolori col tempo avranno fine;)
(喜びも苦しみも、いつか終わりをむかえるでしょう)