『なあ、エレン。銃が撃てないお前に、どんな価値があるっていうんだ? ずっとそれしかしてこなかったのに、いまさら他に何ができる?』
そう言って彼は、冷たい眼差しでエレンを見下ろす。
『そんな……私……違うの! たまたまだったのよ、次はちゃんと撃てるわ!』
『そうかい。俺はもう付き合いきれん。サヨナラだ、エレン』
『維新……!? 待って、そんな──』
エレンは喉が裂けるほどに声を張り上げて、彼の背中へとぶつけた。
『行かないで! 行かないで、
だが、叫びは虚空に吸い込まれ、張の足を止めることはできない。
みるみるうちに、彼の姿は霧の向こうへと溶けるようにして消えていった。
もう、彼は去ってしまった。置き去りにされた、ひとりぼっちで取り残されたという事実だけが、ただその場に残る。
エレンはもう立っていることができずに、膝から地面に崩れ落ちた。虚無感が全身を蝕んで、ひどく身体が重い。
やるせなさと寂しさに奥歯を噛み締めても、涙はじわりじわりと滲んでくる。こめかみの辺りがひどく脈打って、軋むように痛んだ。無意識に、湿った土を指先で掻きむしるようにして握りしめた。
『おねがい……貴方まで私を……置いて行かないで……! 維新……、維新……っ……!』
泣き声とともに、震える吐息が漏れて空気を震わせる。
すすり泣く声だけが、ただ、辺りに頼りなく響いていた。
***
「──レン、エレン。……エレン!」
名を呼ぶその声で、やっとエレンは目を覚ます。
「維新……」
自分を覗き込む張の顔を見て、エレンは先程まで見ていたものが夢だと知る。と同時に、彼が側にいることに泣きたくなるほどの安堵を覚えた。
「酷くうなされていたぞ。……悪い夢か?」
「……、ええ……」
「酷い汗だな」
そう言って張は、エレンの額に滲んだ汗を指で拭った。
「……いま、何時……?」
「ん? ああ、零時を回ったところだ。ずいぶんと早くから寝入っていたようだな?」
「……そうみたい」
ベッドから上体を起こしたエレンは、ふと自分の身体が冷え切っていることに気づく。先程までの嫌な夢と混ざり合って、胸の奥に残った冷たさがじわじわと広がるような不快感が加速した。
「寒い……服が濡れて、気持ち悪いわ……」
「寝汗で身体が冷えちまったんだな。熱い風呂にでも浸かってくるか? お前の好きな、ラベンダーだかローズだかのバスオイルを入れてきてやるよ」
屈託なく微笑む張を見ていると、目覚めてもなお残っていた黒いものがゆっくりと溶けていくようだった。彼がいつもの彼であることが、エレンの心を軽くするのだ。
「ありがと……維新……」
**
やわらかな湯気と、ふくよかなローズの香りが浴室内に立ち込めている。
浴槽にたっぷり張ったお湯は、肌に触れた瞬間とろけるような感触でエレンの全身を包み込んだ。冷えていた身体に一瞬で熱が染み渡り、凝り固まった全身がじんわりとほどけていくようだ。
いつもと違う夢だった、だけど今日の夢の内容ははっきりと覚えている。
(──なんて、怖い夢なの。彼が、張が──私を……捨てて、──)
夢の断片を思い出すだけで胸がざわつき、 不安に駆られてしまう。
心臓のあたりが冷たい手で掴まれたように強く縮こまり、エレンは無意識に自分を抱きしめるように腕を回した。
湯に包まれているはずなのに、胸の奥だけはひどく冷たかった。その冷えがじわじわと広がっていくのが怖くて、エレンは大きな浴槽の中で小さく身を縮めた。
そんなふうにしてしばらく湯に浸かっていると、不意に張の声が聞こえた。
「エレン。寝てないだろうな?」
「起きてるわ」
心配して様子を見に来てくれたのだろう。脱衣所からの声に答えると、湯気で曇ったガラス戸の向こう側で彼がほっと息をついた気配が伝わってきた。
「湯加減はどうだい」
「ちょうどいいわ」
「そりゃ良かった。──どうだ、たまには俺が背中を流してやろうか」
「あら、本当? 嬉しいわ。お願いするわね」
「任せておけ」
少しの間の後、ドアが開くとそこにはタオル一枚だけを腰に巻いた彼の姿があった。
「──!? ちょっと! ……どうしてそんな格好をしているの?」
「おいおい、背中を流すと言ったらこうするのが普通だろう?」
「そ、そうかしら……。別に貴方は脱がなくていい気がするけれど……」
口ごもるエレンに、張は笑みを浮かべたまま近づいてくる。明るいところで見る彼の体つきは、なぜかいつもよりずっと逞しく見えてエレンの頬を赤くさせた。
湯気の向こうで浮かび上がる、鍛えられた肩と胸板。 左肩に残る古い銃創の痕が、淡く光を反射する。
エレンはふと気づく。左肩に残る丸い痕は、あの夜──ヨットハーバーで彼が倒れていたときの傷だ。
湯気に濡れた皮膚の上で、その痕だけがまるで古い記憶のように白く浮かび上がっている。
ここに、あの夜の記憶が確かに刻まれている。彼の生きてきた証が刻まれている。その事実が、エレンの胸をきゅっと締めつけた。
「なんだ? まるで、初めて俺の裸を見たような反応だな? ……もしかしていまさら照れているのか?」
「ち、違うわよ……」
思わぬ張のツッコミに、考えていたこともすっかり忘れて、エレンは頬を赤くしながらむっと唇を尖らせた。
「ふぅん? そうなのか?」
「そうなのっ!」
「じゃあそんなに目を逸らす必要ないだろ? ……まあ、どちらにせよ関係ないけどな。ほら、後ろ向け」
相変わらず自分のペースに巻き込むのが得意な張は、言いながらさっそくボディーソープを泡立て始めている。
「……わかったわよ。お願いするわ」
諦めたようにため息をつくエレンだったが、それでもまだ抜けきらない恥ずかしさに頬を染めていた。
ベッド以外で彼の裸を見るなんて、どうにも落ち着かない。そんな彼女の気持ちなどお構いなしに、張は泡を背中に乗せる。
張の手が、彼女の肌の上をゆっくりと滑っていく。
「ん……ちょっとくすぐったいわ……」
細い首筋に触れるときは、泡を乗せた手でそっと撫でるように。滑らかな肩を、艷やかな背中を、順番に撫でながら、張はしみじみと呟いた。
「こんな頼りない背中で、銃を振り回しているとは──にわかに信じがたいな」
「ふふ、そうかしら……」
首筋、肩甲骨、腰回り、太股の付け根──まるでマッサージのように優しく撫でるその手つきがくすぐったくて、エレンは思わず身を捩ってしまう。
「こら、動くなよ」
「だって……貴方が変な触り方するから……ぁあっ」
不意に脇腹をなぞられて、エレンの口から吐息が漏れる。
振り返ると、意地悪そうな顔で笑う彼と目が合った。
「──まったく、困った奴だな。身体を洗ってやってるだけなのに、そんな悩ましい声を出されちゃ、こっちが困っちまう」
「……もう、わかったから続けてさっさと終わりにしてちょうだい」
一通り洗い終わると、張は静かにシャワーをかけた。背筋から腰、そして柔らかな曲線を描く尻へと、泡がゆっくりと伝い流れていく。その様子を、張はまるで芸術品でも眺めるように見つめていた。
エレンが満足そうに呟く。
「何かをしてもらう、ってとっても気持ちいいものなのね。……心が満たされるようだわ」
「そりゃ何よりだ。さ、これで綺麗になったぞ。ついでに髪も洗ってやろう」
言いながら、張はシャンプーをボトルから豪快に押し出し、手のひらいっぱいに受け止めた。そして、そのままエレンの濡れた髪にべったり塗りつけると、容赦なくガシガシと泡立て始める。
頭を前後左右に揺さぶられて、エレンの視界がぐらぐらと揺れた。
「もう……もう少し優しく洗ってくれない?」
力強い手付きに文句を言いながらも、触れた手から思いやりのようなものを感じて、いつの間にかエレンの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……何かあったのか?」
髪を洗いながら、張がぽつりと尋ねる。
「え……?」
「いつもなら、もう少し威勢がいいはずだろう? お前が妙に大人しいような気がして……なんだか調子が狂ってな」
エレンは小さく鼓動が跳ねるのを感じていた。
まさか、撃てなかった自分を見透かされたのでは、という思いに胸がざわつく。いや、気づいているはずがない──そう必死に自分に言い聞かせ、努めていつも通りの口調を保つ。
「ああ……それはね……」
小さく苦笑いしたあと、エレンは膝の上の水滴を指先でそっとなぞった。
「……さっき、貴方の夢を見たのよ」
「俺の?」
「ええ……。貴方が私の元を離れていく夢。私を置いて、遠くへ歩いていってしまうの。……怖かったわ。
……ねぇ、もしもこの先……夢と同じように離れ離れになってしまったら、私、どうすればいいのかしらね……。そのときはせめて……貴方がくれた言葉だけは、覚えていようと思うの」
口が軽くなりすぎたのは、この心地よい湯気のせいか。
喋っているうちに弱気な自分が顔を出してしまうのを止められずに、胸の奥の不安がそのまま口をついて出てしまう。
「エレン……」
「あの時私に言ってくれた、『お前が好きだ、愛してる』って言葉を、ずっと忘れずにいられたら……。そうしたらまた、生きていけるかしら……独りに、なったとしても……」
「……」
張は無言のまま、シャワーのコックに手を伸ばす。
頭上から降り注ぐ湯が二人の身体を温かく濡らすのを待ってから、そっとエレンの肩を抱き寄せた。まるで、冷えた心までも包み込むかのような仕草だった。
「……維新?」
「生憎だが、お前を一人にするつもりはないさ」
「──ありがとう」
張の胸に抱かれたまま、彼女はそっと瞳を閉じた。
すると、額から流れてきたシャンプーがつうっと目蓋を伝い、目の端へと滑り込んだ。
「──痛たた……目に、……」
「おい、大丈夫か?」
「ん……。ごめんなさい……」
「ほら、擦るなよ。目を閉じておけ」
涙を浮かべて目を擦ろうとする彼女を宥めると、張はその目蓋にキスをした。
「……ん、っ」
「もう目は開けなくて良い。……全部、任せておけ」
「……うん」
エレンは張の首に手を回すと、ぎゅっ、としがみついた。背中に回る彼の腕の重み。体温が重なるのがとても心地良かった。
「愛してるわ……維新」
「俺もだよ。……愛してるぜ、エレン」
あれ以来久しぶりに言ってくれたその言葉。思えば、初めて言われたときは驚きすぎて噛み締める暇などなかった。心に染み渡ってくるような響きだ。エレンは幸せに身を浸しながら笑みを浮かべた。
「嬉しいわ……。ねぇ、もう一回言ってくれない?」
「ん? ……何をだ?」
わざととぼけた口調で張がそう言うのに、エレンはむくれたように頬を膨らませた。
「わかっているでしょう? ……お願い」
「やれやれ、しょうがないな。今夜は特別だからな? ──」
耳元で囁かれる甘い声、エレンが望んでやまない愛の言葉。優しい手つきで髪を撫でられる感覚に身を委ねながら、エレンは幸せそうに微笑むのだった。
*
「……ねえ、維新……シャンプーがまだ……だいぶ、残っているのだけど……」
額に垂れ落ちる泡を鬱陶しそうに払いながらエレンが口を尖らせる。
「ん? ああ、すまんすまん」
張は再びシャワーのコックを捻ると、彼女の頭にゆっくりと湯を流し始めた。指の腹で頭皮を揉むようにしながら、泡を丁寧に流していく。
「どうだ? 痒いとこはないか?」
「……ないけど……もうちょっとだけ、強くして欲しいわ……」
こんなふうに誰かに頭を触られるのが、こんなにも心地いいなんて知らなかった。エレンは思わず目を細める。
「こうか?」
「んっ……もっと……」
張は、濡れて絡まる亜麻色のウェーブヘアを指でそっと掻き分けて、地肌にまで湯が届くようにゆっくりとすすぎ流していく。
「こんなもんか? ……長い髪ってのは、また大変なもんだな」
「そうよ。女の子はみんな苦労しているわ。……でもね、こうして貴方に触れてもらうために伸ばしているのかもしれないわね……」
「俺も、お前のこの長い髪が好きだぜ。こんなふうに濡れてるのもまた趣がある」
「ふふ、嬉しい……」
エレンは甘えるように頭を擦り寄せると、上気した顔で彼を見上げた。温まったために頬はぽっと火照り、しっとりと濡れた唇は微かに開いている。
「おい、そんな目で見るなよ」
「あら、どうして?」
悪戯っぽく笑うその表情に、張は苦笑する。
「──本当に、悪い女だな」
「ふふ、知らなかった?」
二人はしばらくお互いを見つめ合ったあと、どちらからともなく唇を重ねた。
「ねえ、維新。ちょっと寒くなっちゃったわ」
「そうだな。熱い湯に浸かるのがいな」
「一緒に入りましょう」
「ああ」
──結局、その日は二人で風呂に入ることになった。
「──なあ、エレン」
張は手慰みに掬った湯をエレンの背中にかけている。
「なぁに?」
「俺は、お前と一緒に居られて良かったと思ってるんだぜ」
「急に改まって、どうかしたの?」
「いや、別に大したことじゃないんだがな」
エレンが首を傾げると、彼はどこか照れたような笑みを口元に浮かべながら続けた。
「なんというか……お前といると落ち着くのさ。それに、愉快なこともたくさんある。……だから、これから先も可能な限り、俺の側にいてくれないか」
「──! ……もちろんよ」
普段は軽口ばかりの彼が、こんなふうに素直な気持ちを口にすることは滅多にない。小さな驚きのあと、エレンは嬉しそうな笑みを浮かべ、張の手に自分のそれを重ね合わせた。
「私も……貴方と出会えてよかったわ。貴方のおかげで、私は救われたのよ」
「救うなんて、大げさな奴だな。そんな大層なことはしちゃいないさ」
「ううん、貴方は私に居場所をくれたの。この街で生き抜いて、いつか貴方に仕事の依頼をもらうんだって思って──それが私を救ったのよ。……ねぇ、覚えていて。私はいつでも貴方のことを想っているわ。だから……ずっと私のそばにいてね?」
「ああ」
「嬉しい……大好きよ、維新」
エレンは彼の腕の中でくるりと振り返ると、そのまま首に手を回した。そして顔を近づける。
「……」
そっと彼の唇に自分の唇を触れさせて、彼女はとろけるような笑みを浮かべた。
「さて、そろそろ出るか。のぼせちまうと大変だ」
「ええ、そうしましょう」
「……っと、そうだ。エレン、こっち向けよ」
「え?」
エレンが振り向いた瞬間、ぱしゃっと軽い音を立てて温かい雫が頬に散った。
「きゃっ……もう、何するのよ!」
張は手先で器用に水鉄砲を作り、子供のように楽しげに笑っている。
「ははっ、間抜け面だぞ」
「失礼ね! ……えいっ!!」
エレンも負けじと手のひらで湯をすくうと、ざばっと勢いよく張の顔めがけてかけた。
「……ぶ、っ。おい、それはさすがにやりすぎだろう」
張の顔は一瞬でびしょ濡れになっていた。黒髪から滴る水が顎を伝い、ぽたぽたと湯面に落ちていく。張は濡れた前髪を指でかき上げながら、呆れたように息をついた。
それでもエレンの反撃は止まらない。
「まだまだっ」
張は顔にざばっと浴びせられた湯をそのまま受け止め、顔を顰めている。
「……まったく、お前ってやつは。加減ってモンを知らないのか」
やれやれ、と肩をすくめながら、張は手のひらで顔を乱暴に拭った。けれどその目は、どう見ても楽しそうだ。
「そんなに嬉しそうな顔して言われても説得力ないわよ?」
「こいつ……黙らないとこうだぞ」
「きゃっ! ちょっと! ずるいわよ、維新!」
張はそのままエレンの腰をぐっと引き寄せ、勢いよく抱きしめる。湯面が大きく跳ねて、辺りに温かい雫が弾け散った。
エレンは笑いながら身を捩り、懲りずに湯をすくおうとする。
「ほら、捕まえたぞ。俺から逃げられるとでも思ったか、エレン?」
「もう、離してってば! 私の番なんだから!」
張の腕の中で暴れながらも、エレンは楽しそうに笑い続けていた。その顔には、憂いなどどこにもない。
それからしばらくの間、浴室には楽しげな笑い声が響き渡るのだった。
**
「──ん……。もう朝?」
カーテンから差し込む光にエレンは目を覚ます。隣では、まだ張が寝息を立てていた。
(……そういえば、昨日は遅くまで起きちゃってたんだっけ。お風呂、楽しかったわ……)
こめかみに鈍い痛みを感じて、無意識に指先で触れる。高い天井を見つめたまま、エレンはぼんやりとした頭で考えていた。
また、幸せな記憶がひとつできた。彼と過ごす日々はどうしようもなく愛しい。だが、この胸の奥の冷たいものは──いつか、消えることがあるのだろうか。なぜこんなにも、不安になるのだろう。
彼女は小さくため息をついた。
そして、隣で背中を向ける張にそっと近づいた。広い背中は、規則正しく揺れている。
エレンはそっと腕を回すと、彼のその背中に頬を押しつけ瞳を閉じた。ざらりとしたTシャツの感触と彼の匂いがエレンの心を慰め、心がじんわりと温まっていく。彼に触れているだけで、不安が少しずつ溶けていくのがわかった。
夢の欠片が刺さる胸の痛みも、張の呼吸に合わせているうちに、やがてゆっくりと薄れていった。
──そうしてエレンが再び眠りに落ちた後。張はゆっくりと目蓋を開き、彼女の腕の重みを感じながら、小さく息を吐いた。
何かを抱えているのはわかっている。だが、今はただ眠らせてやることしかできない──
エレンの腕を手のひらで撫でると、彼はそっと目を閉じた。
***
窓枠を揺らすほどの、素っ頓狂な声が響いた。
「……蛤!?
椅子から立ち上がったシェンホアは、目をまん丸にしていた。そのまま勢いよく距離を詰め、エレンの肩をがしりと掴む。
気づいたときにはシェンホアの顔がすぐ目の前にあって、エレンは思わず身を引いた。
「驚いたます、まさかそんなことなってたか!! ……いつから恋人なってたか!?
どっちから言うた!? まさか無理やりないだろうね!? 張大哥、エレン泣くさせるないね!? ほんとに大丈夫ね!?」
シェンホアはそのままエレンの肩を掴んで、がくがくと揺らした。その勢いに、エレンは圧に押されながらも頬を赤くしている。
「やぁね、シェンホア。そんな心配することじゃないわ。……ちゃんと相思相愛、だもの。……なんてね! ふふっ」
幸せいっぱいという風に微笑むエレンを前に、シェンホアはしばし驚きに反応を忘れたあと、ふっと我に返ったように息をついた。
「いやー、でもあれね。あんたの顔見る、張大哥大好きなの誰でもわかるましたよ、うんうん」
「えぇっ!? 私、そんな……!?」
慌てふためくエレンとは対照的に、シェンホアはにやにやと意地悪く笑っている。
「あんた、完全にあれね……“恋する女”の顔してるよ、まったく!」
「もう! からかわないでちょうだい!」
シェンホアにまでからかわれるとは思わず、エレンはむうっと唇を尖らせる。
だがそれも束の間のことで、すぐに視線を逸らして、恥じらうようにまた頬を染めた。
「それでね、今度維新に……彼に作ってあげたいの……“ギョーザ”っていう料理を。シェンホア、教えてくれる?」
両手を頬に当てて照れているエレン──彼のことを想うその姿はまさに初々しい乙女だった。初めて見る彼女の表情に、シェンホアは一瞬言葉を失っていた。目をぱちぱちと瞬かせ、呆気にとられている。それでも、すぐにいつもの調子に戻ると、紅の塗られた唇を吊り上げた。
「……仕方ないね。そこまで言うなら、トクベツに教えてあげるますよ。張大哥、胃袋つかまれるね、こりゃ」
言いながらシェンホアが笑うと、その明るさに釣られるようにして、エレンの唇にも自然と笑みがこぼれるのだった。心がふっと軽くなるような、あたたかい感覚をエレンは覚えていた。
胸の奥にひっかかった棘のような感覚は、張の前ではどうしても言葉にならない。だからこそ、こうして友人の顔を見ると、エレンの心はほんの少しだけ緩むのだった。
シェンホアの部屋は、いつもどこか温かい。その温度に触れると、胸の奥に沈んだ不安が和らぐ気さえした。
**
まだ、胃袋がいっぱいだ。
シェンホアと一緒に試作した餃子をたらふく食べて、お腹も心も満たされたエレンは深く満足げなため息をついた。料理をするのがこんなに楽しいと思ったのは、初めての経験かもしれない。
すっかり夜も更けた薄暗い部屋の中、二人は布団に潜り込み、他愛もない話をぽつりぽつりと続けていた。
来客用の布団に包まりながら、こうして女同士でのんびり過ごす時間がどこか懐かしいような気がして、エレンは胸がきゅっと締め付けられるのを感じていた。何かを思い出しそうなのに、でも思い出せない──遠い記憶の端に触れるような感覚があった。もしかすると、施設にいたころに
ロアナプラの喧騒が遠くに感じられるほど、ここだけはあたたかい空間だった。
ふと話題が途切れたとき、その静けさに背中を押されたように、エレンの口からぽつりと言葉が零れた。
「……ねぇ、シェンホア。もしも……もしもよ? もしも、貴女が、刀を振るうことができなくなったとしたら……どうする?」
「……は?」
シェンホアは一瞬きょとんと目を瞬かせた。
意外そうな顔をしながらも、エレンの声の揺れに何かを感じ取ったように眉を寄せる。
「刀振るうできない? エレン、あんたいきなり何言うますか。
刀できないでも殴る蹴る噛みつくまだあるね。ヒトの身体は不滅よ。心配ないですだよ。やり方変わるくらい、どうってことないね。人間、手足動くなら、またいくらでも別の稼ぎ方あるます」
「……そう。そうよね……別のこともできるわね……」
エレンは自分に言い聞かせるように静かに呟いた。
その沈んだ声に、シェンホアは一瞬だけ目を細めた。そして弱気を払うかのように、わざと語気を強めて言葉を返す。
「この街に住んでるだったら誰でも、それ知ってるよ。生きる方法ね。それでご飯食べてるます、できないだったら他探す、それだけよ。この街で生きるの、そういうことですだよ。誰も甘えたこと言うないよ」
エレンは黙りこくった。シェンホアの言葉は正しい。だが、なぜだか胸の奥がひりつくように痛んで、何も言葉を返せない。
その沈黙に気づいていながらも、シェンホアはあえて触れることなく、いつもの調子で話を続けた。
「私らはね、エレン。危ない橋渡るのばっかでしたよ。でも、それ“生きてる”感じる瞬間でもあるね。おまえもそうないか?
刀振れないようになったら? 別の道探すだけですだよ。私、田舎で
退屈に埋もれて死ぬより、命賭けるしてロアナプラ
エレンはしばらく黙った。
胸の奥に小さな棘のような痛みがひっかかって、言葉が出てこなかった。
「……そうね、そうよね……、私たち、ずっと……こうして生きてきたんだもの。この先だって同じよね」
やっと発したその声はどこか頼りなく、すがるような弱々しさがあった。そうあってほしいという、願いのような響きすらあった。
「もう、おまえさっさと寝るいいね! いつまでも起きてるだから変なことばかり思うだよ! さ、さ、寝た!」
シェンホアに叱られて、エレンは思わずくすりと笑った。彼女の不器用な優しさが、胸の奥の痛みをほんの少しだけ和らげてくれた。
「……そうね、ごめんなさい。お休みなさい、シェンホア」
「はいはい……まったく……」
目を閉じた後も、エレンはすぐに眠りにつくことができずにいた。心の中に浮かぶのは、たった一つのことだけだ。もしも、もしも──銃が撃てなくなったとしたら。
──それでも、こんなふうに強く生きられるのだろうか?
____
(I saw a bird unknown to me cross the sky, its shadow gliding across the ground.)
(名も知らない鳥が空を横切り、その影が地面を滑るのを見た)