死にたがりの讃歌   作:椿芽

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一言でも嬉しいので感想待ってます!ここすきも超嬉しいです。あーこの文すっごい考えて書いたんだよな〜気に入ってくれた人がいるんだ〜と思えて嬉しいのです。


第18話 かつて足掻いた命のために(エレンを崇拝するモブ女子が張のペントハウスに押しかけてくる話)

 ──やっと見つけた! 

 

 エレンの後ろ姿に、熱い視線を投げる人物がひとり。太陽を受けてキラキラと光を放つ亜麻色の髪──そのきらめきに視線を奪われたまま、少女は立ち尽くしていた。

 ──ああ……やっぱり綺麗。

 うっとりと陶酔したように目を細めたかと思うと、少女は()き動かされたように走り出した。

 

「エレンさん!!」

 

 振り返ったエレンの視界に、勢いよく飛び込んできたのはひとりの少女の姿だった。その少女は、まるで抱きつく寸前で急ブレーキをかけたかのような、そんな距離感でぴたりと立ち止まる。

 

「……嬉しい、やっと会えた!」

 

 弾む息を抑える様子もなく、目を爛々と輝かせながら少女はそう言った。

 

「──貴女、……誰?」

 

 全く事情が飲み込めないエレンは、ただ、目の前の少女を見つめた。

 十代半ばくらいだろうか。そばかすの目立つ顔に、ブロンドヘアー、まだあどけない顔に唇だけが艶々と光っている。そしてその唇が、ぱあっと大きな笑みへと形を変えた。

 

「アタシ、マイラっていいます! いきなりだけど弟子にしてください!!」

 

 **

 

「──ということがあったのよ」

 

 リビングの高い天井に、エレンのぼやく声が吸い上げられる。

 (チャン)の膝の上に半ば無理矢理に座らされたエレンは、気恥ずかしさを紛らわせるためか、しきりに自分の髪を指で梳いていた。風呂から上がったばかりの彼女はキャミソールにタップパンツという簡素な出で立ちだ。

 張はというと、バスローブを身に纏い、深々とソファーに身を沈めゆったりとウイスキーを()めている。彼はグラスを置くと、愉快そうな笑みを唇に浮かべた。

 

「そりゃ見上げた執念だな。お前の仕事を一度見ただけなんだろ?」

「そう、言ってたわ」

 

 ──昼間の少女──マイラは言った。

 

「アナタがあの男を始末するところを見たの。すっっごくカッコよかった!」

 

 エレンの眉がピクリと動くのに気づく間もなく、マイラの額には冷たい銃口が向けられていた。

 

「──え……」

「私の仕事を見たの? じゃあ生かしておけないわ」

 

 エレンは静かにそう言って目を細める。少し脅かすつもりだった。

 ──だが、恐怖に強ばった表情のまま、マイラは絞り出すように声を発した。

 

「──、り」

「え?」

「やっぱり、素敵……」

 

 うってかわって、うっとりとした表情になったマイラに、エレンは困惑したように目を(しばたた)かせる。

 

「思った通りの(ひと)だわ!! 美しくて、強くて、……アナタはアタシの憧れなの。前にアナタを見てからずーっと会いたくて、探してたの!」

 

 エレンは訳がわからない、といったように呆れた表情を浮かべ、銃を下ろした。すると、マイラは屈託なく笑って、頭を深々と下げた。

 

「というわけで、アタシはまだ半人前だけど……エレンさんみたいになれるように頑張るから、お願い、弟子にしてください!!」

 

 *

 

 張が愉快そうに、喉の奥で低く笑う。

 

「なるほど、お前の熱心なファンってわけか。 ──しかしなかなか度胸があるじゃないか」

 

 エレンは張の肩口に額を擦り寄せて、ため息混じりに呟いた。

 

「いきなりそんなこと言われても、……びっくりしたわ」

 

 その後、追いかけてこようとするマイラを撒いて、エレンはやっとのことで張の家に帰ってきたのだ。

 

「妙なヤツに好かれたもんだな」

 

 言いながら張が、指でエレンのうなじから背中を撫でる。彼が触れる指先から、甘い疼きがゾクゾクと背中に這い上がって、エレンは身を少しだけ固くした。

 

「……んっ、もう、維新(ウァイサン)

 

 顔を上げたエレンの顎をつかまえて、張は彼女の唇を捉える。ゆっくりと軽く吸ってすぐに放すと、今度はエレンの方から強請(ねだ)るように唇を合わせてくる。張は彼女の柔らかな亜麻色の髪に指を通しながら、自分の方へと引き寄せた。

 しばらく互いの唇が触れ合う感触を楽しんだあと、湿った音を立てて二人の唇がゆっくりと離れる。

 

「──まァ、 いくらなんでもここまではついて来られないだろうさ」

「──ん、……、そうね」

 

 張の手のひらがエレンの頬を包んで、離れた唇はまた重なる。互いの呼吸が混ざり合い、二人の熱はゆっくりと、そして確実に高まっていった。

 

 ──その時。

 

 来訪者を知らせる軽快なチャイムが、二人の動きを止めた。

 張の自宅であるこのペントハウスは三合会の組員がきっちりとガードしているため、滅多な来訪者などあるはずがない。

 ──とすると、仕事絡みか。張は内心舌打ちする。

 

「──やれやれ、少しは時間を考えて欲しいもんだね」

 

 ため息を付くと張は、腕を伸ばしてテーブルの上のサングラスを手に取った。

 

「──……っと。悪いな、退いてくれ」

 

 そして、膝の上のエレンの尻を軽く叩いて促すと、自分もソファから立ち上がる。

 

「維新っ〜……」

「まあ待ってろ。すぐ戻るさ──」

 

 不満げなエレンの声を背中に浴びながら、張は玄関へ向かって足を進めた。

 

 

「──あ?」

 

 ドアを開けた瞬間に思わず間の抜けた声が出るほど、そこには意外な来訪者の姿があった。

 ──少女だ。十代半ばほどに見えるブロンドの少女が、大きな旅行鞄を両手で持ちながら立っていた。

 

「こんばんは!」

 

 小首を傾けながら、来訪者は悪戯っぽく笑う。

 

「お前、どこから──」

「すみません、大哥(アニキ)

 

 言いかけた張に、部下の一人がきまりの悪そうな表情を浮かべ近づいてくる。

 

「その子が、エレンさんの知り合いだから、エレンさんに会わせろときかなくて……武器になるようなものも持っておりませんでしたし……」

「だからってなあ、……」

 

 張は部下に向かって、不満を目一杯込めた大きなため息をついてみせた。

 

「アタシ、マイラっていいます! アナタは──エレンさんの──カレシ……?」

 

 彼らの不穏な空気を気にする様子もなく、マイラは張の頭のてっぺんからつま先までを無遠慮に観察してからそう言った。

 あまりに想定外な言動に面食らった張の、その後ろからエレンが顔を覗かせる。そして、マイラの姿を捉えると同時に、ほとんど呆れた声で言い放つ。

 

「貴女──! もう! こんなところまでついて来るなんて!」

 

 その言葉で張は理解する──この少女が例の。

 二人の間に挟まれた張は、マイラと名乗った少女とエレンを交互に見比べた。ニコニコと嬉しそうな笑顔を浮かべるマイラと、対照的に目尻を吊り上げたエレン。

 

「さっきも言ったでしょう、弟子なんて、私はそんなことは──」

「じゃあ! まずは使用人とかでいいです! だから、エレンさん、お願い! 側において欲しいの! アタシ、ほんとにアナタに憧れてて……」

「できないものはできないわ。他を当たってちょうだい」

「ええ! だってアナタじゃなきゃ意味ないのに!!」

「そんなの知らないわよ!」

 

 そこで、黙っていた張が我慢しきれなくなったというように笑い声を上げた。

 

「いやはや……なかなか面白いじゃねえか、お嬢ちゃん。見上げたもんだ、エレンに会いたくてこんなところまで来たってのか」

「うん! 街の人に聞いたら、エレンさんは最近ここにいるからって」

 

 まだこみ上げる笑いを堪えて、張は言葉を続ける。

 

「お前さん、ここがどこで、俺が誰だか知ってるのかい?」

「えーと……街の人が言うには……この街では知らないヤツはいないって……三なんとか会の……、……アタシ、この街には来たばかりで知らないんだもん!!」

 

 その言葉に、張はまたしても笑いを堪えきれなくなったようだ。

 

「維新……」

 

 エレンが張を突っつく。

 ──早く彼女を追い帰して。そうエレンの瞳は訴えている。だがエレンの願いとは裏腹に、サングラスの下の張の口許は不敵に吊り上げられていた。

 

「面白れぇ、俺は構わんぜ? OKだ、雇ってやろう」

「な、維新っ!?」

 

 虚を突かれたエレンは慌てて張の顔を見る。

 一見いつもと変わらないような笑みを向けてきたが、もうエレンにも分かってきた。──こう言うときの彼は何か企んでいる。彼にとってとても愉快なことが起こることを待っている──そんな顔だ。その“愉快なこと”というのは大体のところ、エレンが困ったり怒ったりすることなのだから、彼女にとってはたまったものではない。

 

「この家の主は俺だ。だから俺の言うことが聞けないときには、直ちに出ていってもらうからそのつもりでな」

「はいッ!!」

 

 ぽかんと口を開けたままのエレンが言葉を挟む間もなく、弾む声でマイラは返事をした。そして張に向かって勢いよく頭を下げると同時に、やはり元気いっぱいにこう付け加えた。

 

「ありがとう、オジサン!」

 

 **

 

 こうしてマイラは、張の家の家政婦になった。月曜から金曜の朝九時から夕方五時まで、あらゆるハウスキーピングサービスを行うという契約だ。

 張の悪ふざけに、エレンはブツブツと文句を垂れていたが、自身もなかば居候の身なのでそれ以上は何もできず、諦めて大きなため息をつくだけだ。

 

 やっとエレンの近くに辿り着けたマイラは、機嫌の良さを隠すことなく鼻唄まじりにモップをかけている。

 リビングのソファには、キャミソールにホットパンツ姿でゆったりと脚を投げ出したエレンが、自身の銃をメンテナンスしていた。

 ちらちらと、マイラの視線がエレンへと向かう。

 

 ──う〜ん。すてき。

 

 ホットパンツからすらりと伸びた、キメ細かな光沢の浮かぶ白い脚。キャミソールの下は恐らくノーブラなのに、豊かな胸は瑞々しいハリに溢れ重力に負けていない。細かく分解した銃を元通りに組み立てる指先はほっそりとしなやかで、どこまでも繊細だった──

 

「ねえ、そんなに見つめられると穴が開いちゃうわ」

「えっ、あ、気付いて……た?」

「そんなに熱い視線を送られて、気付かないほうがおかしいわよ」

 

 ため息をついて、エレンは組み立てた愛銃をテーブルの上に置いた。

 

「それで? どうして私なの?」

「えっ……あっ! あのっ!」

 

 突然の問い掛けにマイラの声は上ずった。

 

「なんで私のことなんか気に入ったのかしらって思ったの。私なんて、ただの殺し屋よ」

「そ、それはわかっているけど……。でも、アナタほど美しい人は初めて見たんだもん」

 

 頬を赤らめながら、マイラは答えた。

 

「それに、アナタは優しいし」

「私が優しい?」

「うん。だって、アタシみたいな得体の知れない女を雇ってくれたんだもん」

「雇ったのは私じゃないわ。張維新(チャン・ウァイサン)──この家の主の男よ」

「それでも、こんな見ず知らずの女を追い出さないでいてくれるなんて、優しい証拠だって!」

「……ふぅん。そういう考え方もあるのね」

 

 エレンは頬杖をつくと、どこか興味なさげに言う。

 

「ただ面倒なだけかもしれないわよ」

「またまたぁ〜」

 

 この少女には何を言っても無駄そうだ、そう長くもない会話で悟ったエレンは、そっと口を閉ざした。するとマイラは何事もなかったように作業に戻って、モップを床に擦り付ける音がリビングに響き始めた。

 

 しばらくの沈黙の後、エレンは静かに口を開いた。

 

「……マイラ。貴女はどうしてロアナプラに来たの?」

「えっ? ……あぁ。仕事のためだよ。……ううん、仕事が嫌で逃げ出してきちゃったんだ。アタシ、傭兵として雇われて来たんだけどさ、……人を殺すのがイヤで」

「……」

「逃げ出してきちゃった」

 

 マイラは苦笑いを浮かべている。

 

「……傭兵……」

「うん。孤児だし、これまで生きるためならなんでもやってきたんだ。……まだ、殺しだけは、したコトないけど……」

 

 エレンは黙ってマイラの言葉を聞いている。

 

「ねえ! アナタが初めて人を殺したのって、何歳のとき?」

「──そんなこと聞いてどうするの?」

 

 マイラにもわかるほど、エレンの声がひやりとした冷気を帯びた。だが、マイラとしてはここで引き下がるわけにはいかないのだ。

 

「お願い! 聞きたいの、教えて!」

 

 真剣な眼差しで懇願すると、エレンは目蓋を伏せて、大きなため息をついた。

 

「──覚えていないわ」

「そう……。でも、やっぱり小さい頃から訓練してないとダメなんだろーね……。アタシそうじゃないから、どうせ捨て石にされるんだよ、きっと」

 

 落胆を隠しきれない様子でマイラは肩を落とした。

 どこか視線を遠くに投げながらエレンが重く口を開く。

 

「私が……初めて人を殺したのは──たぶん、十四歳……だったわ」

「えっ!? 十四歳で!? すっごーい!!」

「──すごくなんてないわ。……そうするしかなかったから、やっただけよ」

「それでもすごいよ!! ねぇ、どうやって殺したの?」

 

 身を乗り出すようにして尋ねるマイラに、エレンは顔をしかめる。何かを振り払うように顔を背けた彼女の頭の中では、冷たい記憶が這い上がっていた。耳の奥で薬莢が転がる音がかすかに鳴るようだ。それを打ち消すように、エレンは口調を強めた。

 

「知らないわよ。もう忘れたわ」

「そっかー。残念……。エレンさんの初めての殺しの話、聞きたかったのに」

「人を殺さないと生きていけないような生活は、しないほうがいいと思うわよ」

「う〜ん。そうなんだけどさぁ。アナタの仕事を見たとき、ビビッと来ちゃったんだよね。殺しが嫌で逃げ出したくせにさ、アナタの姿をみたら、アタシも殺しとかやってみたい! って思えちゃったの。

 アタシどうせ居場所なんてないしね。だったら堕ちるとこまで行ってやろって思ったの」

 

 そこまで話すと、マイラは自嘲気味に笑う。

 

「……引き返せるうちに引き返した方がいいと思うけれど」

 

 静かにそう言ったエレンはマイラを見ることなく、視線を床に落としている。

 

「だから、まずはアタシ、アナタみたいに美しくなりたいの」

「──どういう意味?」

 

 やっとエレンがマイラの方を見る。それに力を得たマイラは、嬉しそうに言葉を弾ませた。

 

「アタシ、まずは娼婦になろうと思うわけ。身体売って金稼いで、それで男共を手玉に取りながらこの街で生きていくつもり。そうやって生活しながら、アタシまだまだ未熟だから、殺しの技術も学んでいこうと思ってるの。殺し屋になったら、二つの顔を持つオンナってやつ? カッコよくない?」

「……」

「ねえ、アタシ、アナタみたいにいい女になれるかな?」

 

 そう問われたエレンの目は、どこかマイラを通り越して別のところを見ているようだった。そのヘイゼルの瞳は、暗い色をした影に覆われている。

 

「──わからないわ」

「ま、そうだよね。……だから、アタシ諦めてないよ。アタシはアナタの弟子になってやるんだから!

そんでいつかきっと、アナタみたいな素敵な殺し屋になるわ! アナタはアタシの憧れだもん!」

 

 そこまで聞いて、エレンの表情がふっと緩み、呆れたような笑みを浮かべた。

 

「……貴女って、変な子ね」

「えっ? それって褒めてくれてるの?」

「どうかしら? 少なくとも、私は貴女の師匠にはならないわ」

 

 マイラは口を尖らせる。

 

「えぇ~? そんなこと言わずにさぁ……」

「はい、この話はここでおしまい。

 ──買い物にいきたいの。貴女、付き合ってくれない? 荷物を持つのよ?」

「いいよ! 行く!」

 

 思わぬ誘いに表情を明るくしたマイラは、元気よく返事をすると、手に持ったままのモップを片付けるために踵を返した。

 

 **

 

 張の家を出たふたりは、通りへと出た。

 昼下がりのロアナプラの街は相変わらず騒々しい。行き交う車の間を縫うように歩く。

 

 雑踏の中、マイラは隣を歩いているエレンを横目で見た。

 陽光の下で輝く亜麻色の髪。お人形のようにカールした長いまつげ、滑らかな肌に、ふっくらとした紅い唇。そしてなんといっても、砂時計のようなシルエットのボディーライン。必要な部分にはメリハリがあるのに、四肢はすらりと長く、佇まいまで美しい。

 

 ──もう、本当にきれい。

 マイラが見惚れていると、エレンは不思議そうに見つめ返してきた。なんとなく照れくさくなって、慌てて視線を外す。

 マイラは改めて思う。この人は、こんなに美しいだけでなく殺しのスキルだって一流だ。まるで──そう、死の女神様。この人の側にいれば、自分にも価値があるようにすら思えるくらいだ。

 ジメジメしたこの暑さだってどうでもよく思えるくらい、マイラは浮き立つような気持ちを感じていた。

 

 やがて、通りの外れまで来てエレンは立ち止まった。そこはちょっとしたマーケットだ。

 立ち並ぶ屋台には色とりどりの野菜や果物が積まれていて、エレンはその中のひとつを真剣に眺めていた。

 マイラが視線を追うと、その先にはよく熟れたトマトがたくさん──ひとつひとつが瑞々しい光沢に満ちていて、食べごろだとひと目でわかる。

 

「……トマト入りのギョーザ、なんてあるのかしら……どう思う、マイラ?」

「えっ? ギョーザ……、ってあれだよね、中華料理」

 

 少し考えを巡らせるような仕草をしたあと、マイラは不思議そうに首を傾げた。

 

「……ていうか張さんって中国の人だよね? 張さんに教えてもらえばよくない?」

「駄目よ。……こっそり作って驚かすんだから」

 

 その理由に、マイラは思わず目を丸くした。

 

「へぇ……健気なんだぁ、エレンさんって」

「……もう。からかわないでちょうだい」

 

 トマトを手のひらで転がしながら、マイラは何気なく尋ねた。

 

「別にわざわざ知らない料理作んなくても、エレンさんの得意料理を作ってあげたらよくない?」

 

 エレンはワゴンの中の野菜を吟味しながら、短く答えた。

 

「そうね、それでもいいけれど……たまたま見たのよ、テレビで。“ギョーザ”って料理をね」

 

 パンパンに詰まった買い物袋をマイラに押し付けると、エレンは空を仰ぐように顔を上げた。

 

「彼と恋人同士になってからは特に、彼に関係のありそうなものばかりに目が行くの。彼のルーツに触れたくなるっていうか……。

 不思議よね。これまで興味のなかったものでも、彼に関係のあるものなら、大切なものに変わってしまうわ」

 

 その眼差しは、彼のことを思っているからかとても穏やかに凪いでいる。だが、その瞳の輝きに見え隠れするのは、ほんの少しの照れと恋のときめきだ。

 それに気づいたマイラは、外見からは想像もつかないエレンの初々しさに微笑ましくなったのだった。

 

「……エレンさんって殺し屋なのに、意外とフツーの女の子みたいなんだね」

「普通……!? 私が?」

 

 何気なく言ったマイラの言葉に、エレンは予想外に大きな反応を見せた。驚いたように目を丸くしている。

 

「え、ごめん! 気を悪くしたなら謝るよ」

 

 慌てた様子のマイラを前に、エレンの表情は、どこかもの哀しげなものに変わっていった。

 

「……そうじゃないの。ただ、……」

「ただ?」

「ううん。なんでもないわ」

 

 首を振ったエレンは、もう笑みを浮かべている。

 

「ねぇ、お茶でもしていく? 美味しい烏龍茶が飲めるカフェがあるのよ」

「えーっ、行くー!! ってか、出た! 烏龍茶ってまた張さん絡みじゃん! エレンさん、可愛いー」

「もう、だからからかわないでって言ってるでしょう!」

 

 **

 

 いつの間にか日が傾き始めた。ロアナプラの真上から照らしつけていた目に痛くなるような太陽の光も、穏やかな光へと色を変えていく。

 

 カフェでデザートまで堪能した二人は、帰路につく。

 マイラは荷物持ちの役目を果たしながら、エレンと並んで歩いていた。

 

 荒々しい足音がこちらに向かってくることに気づいた次の瞬間、突然、張り裂けんばかりの怒号が響く。

 

「死ねぇッ! リーフェンシュタ──ル!!」

 

 男が路地の奥から飛び出し、銃口をエレンへ向ける。

 叫んだ男が発砲するよりも早く、エレンの身体は反射的に動いた。ホルスターから愛銃を抜き、男に向かって照準を合わせると、引き金を引こうと──した。

 だが、その視界を遮るようにして、躍り出てきたのは──マイラの背中だった。

 エレンは反射的に、銃を下げた。

 

「マイラ、──!? 」

 

 エレンの声とほぼ同時に響いた、乾いた破裂音。

 

 マイラの身体が大きく揺れ、電池の切れた人形のように地面へ向かって崩れ落ちていく。その一瞬のことが、エレンの目にはまるでスローモーションのように緩慢な動きに見えていた。

 

「……っ!」

 

 エレンは咄嗟にマイラを抱きとめた。どしゃり、と買い物袋が地面に叩きつけられて、中のトマトが転がり出て辺りに散らばった。

 エレンの腕の中で、マイラの腹部に赤い染みがじわりと広がっていく。

 

「エレンさん……っ、だいじょう……ぶ……?」

 

 頼りなく揺れる声と血の匂い──それを感じたとき、エレンの瞳は大きく見開かれる。

 脳裏に何かが、閃くように一瞬だけ、映像のように浮かんだからだ。

 

「な、なんだよこの女……! 急に飛び出してきやがって……!」

 

 男は、別の人間を撃ってしまったことに動揺しているようで、情けなくもその場に立ちすくんでいた。

 すかさずエレンは滑り込むように男との距離を詰め、その手首を掴む。抵抗しようとした男の指が引き金を引き、発砲された弾が地面をえぐった。

 エレンは膝を蹴り上げ、男のみぞおちに思い切り叩き込む。痛みにうずくまる男に、エレンは彼が落とした銃を拾い、ぴたりと銃口を向けた。

 

「ぐっ……! 覚えてろよ!!」

 

 男は足元をふらつかせながら、慌てて逃げていった。

 それを見届けたあと、エレンは再びマイラに駆け寄る。

 

「マイラ! どうして……こんな馬鹿なことを……!」

「エレンさん……守ろうと……、でも、痛い……やだ……死にたく、ない……」

 

 血にまみれたマイラの細い指が、腹部辺りをぎゅっと握りしめる。その手は紙のように白く、血の気がない。

 

「──これくらいの傷じゃ死なないわよ。──ほら、しっかりして。立つのよ」

 

 その瞬間──またしても、エレンの脳裏に誰かの面影が閃く。それは、古い映画を見ているかのような不鮮明なイメージだった。

 血まみれの手、華奢な身体、自分の腕の中で命の火が消える寸前のその少女の姿──確かに存在した記憶の欠片だ。

 

(……誰……? あれは……誰……?)

 

 記憶を辿りかけたエレンは、マイラの声で現実に引き戻される。

 

「アタ、シ……、居場所なんてない、から……アナタの姿を見て……アタシ、やっと……生き方を……見つけ、たって……気が、して……た……んだ……。

 でもアタシ──悪いこともたくさん……してきたけど、っ……こんな、死に方……したく……な……っ……」

 

 マイラの目蓋がゆっくり下りていく。

 

「……マイラ? マイラ? …………」

 

 女の子の手、血まみれの姿。エレンの脳裏には、これとよく似た、だけどはっきりとは思い出せない光景が浮かんでいる。

 

(一体何? これは私がしたことなの?)

 

「目を開けて……マイラ!!」

 

 エレンの声が裏路地に響いた。

 

 

 **

 

「……あはは! お騒がせしましたぁ〜!」

 

 病室の白いシーツの上で彼女が笑うと、頭上にある点滴のパックも一緒に揺れた。

 

「もう、心配したのよ。……かすり傷なのに大げさにするから」

「だって血がいっぱい出るんだモン、あんなの死んだ! って思うじゃん」

 

 サイドテーブルに小さな花束を飾ると、エレンはベッドの縁に腰を下ろす。そっとマイラの額にかかった金色の髪を払ってやると、マイラは照れくさそうな笑みを浮かべた。

 

(……誰かの同じような姿を、見たことがある……)

 

 ──あれはなんだった? 脳裏をかすめた記憶、血まみれの誰か、女の子。そのときなにがあったのか、エレンにはまだ思い出せなかった。

 

「エレンさん」

 

 その声に、思案にふけっていたエレンは顔を上げた。

 

「アタシ、やっぱりこの街じゃやってけそうになくて……。恥ずかしいけど、……怖くなっちゃったんだ。だからもう、ロアナプラから出ていくよ。どうでもいいやって思ってたけど、アタシやっぱまだ死にたくないって気づいちゃったから……。アタシみたいな意気地なしじゃ、エレンさんみたいにはなれないもん。

 短い間だけど、お世話になりました」

「マイラ……」

 

 命の危機に瀕して初めて、生への執着を取りもどす。それは、かつてのエレンと同じだ。

 エレンは、花の香りを感じながら静かに目を閉じる。

 

「……それがいいわ」

 

 **

 

 朝のロアナプラ港、朝日が波を黄金色に染め上げている。船べりに跳ね返る小さな波が、次々に砕けては光を散らしていた。雲間から吹き下ろす、湿った海風が帆をはためかせている。

 低く響く汽笛が空へと吸い上げられ、海鳥は滑るように大空を横切る。

 

 マイラはタラップの途中で、振り返って大きく手を振った。

 

「また会おーね! アタシ、どっかで生きてるから!」

 

 その声は明るい。エレンは静かに頷き微笑んだ。

 

「ええ。……死なないでね、マイラ」

「うん。エレンさんもね!」

 

 そのとき、どこからともなく低い男の声が響いた。

 

「──おいおい、嬢ちゃん。家主に挨拶もなしで去るとは、とんだ恩知らずだな。それからエレン。朝の散歩なら俺も誘ってくれよ」

 

 そこには、張がいた。彼は海風にコートの裾を煽られるままに、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。

 

「張さん……! ごめん、アタシ……お世話になりました」

 

 マイラは一瞬だけ目を丸くし、それからいつものように屈託なく笑って、張に向かってぺこりと頭を下げた。

 

「……それにしても、よく生きてたじゃないか。この街で死なずに済んだってのは、運がいい証拠だな」

「へへ……」

 

 張の吐いた紫煙は、風に流されて朝の光に溶け込むように消えていく。

 

「ここを発つのは正解だ。お前さんみたいな若者が無駄に命を落とす必要なんざ、これっぽっちもないからな」

 

 そう言うと張は煙草をくわえ直し、わざとらしく肩をすくめてみせる。

 

「こんなひっどい街見たら、アタシこれからどこでも生きていけそうだよ」

「その意気だ、嬢ちゃん。……生きてりゃ、エレンともまたどこかで会うこともあるだろうさ」

 

 船の汽笛が再び鳴る。

 マイラはタラップを上り切ると、鞄をどさりと床に降ろす。そして、最後にもう一度だけ振り返った。

 

「エレンさん、張さん──ありがとね!」

 

 船がゆっくりと遠ざかり、マイラの姿が小さくなっていく。それでも彼女はいつまでも手を大きく振り続けていた。

 

 エレンはその姿を見つめながら、胸の奥に残る欠片を繋ぎ合わせようとしていた。

 そして、施設で生活しているうちに何人かの姉妹(シュヴェスター)が途中で姿を消したことを、ふと思い出して、エレンはマイラのその姿に姉妹たちを重ね見た。

 雪解けのように蘇る記憶は、エレンの心にじわりと染み渡って冷たく濡らした。

 

 そして、頭に残るのは──血にまみれた、誰かの小さな身体。命が燃え尽きる直前の微かな呼吸を、腕の中で感じた記憶が確かにある。

 

「……あれは、……誰……なの……?」

 

 迷うように呟いたエレンは、水平線の彼方へ視線を投げている。とても懐かしいものを眺めているかのように、ぼんやりとした光が宿る眼差し。

 張はそのエレンの様子をしばらく眺めたあと、咥えていた煙草を海へと弾き、それから彼女の隣に肩を並べた。

 

「……私ね、こんな別れを、何度か経験した気がするの。それっきり、誰にも会えなかったわ……」

 

 張は何も言葉を返すことなく、ただエレンの頭の上にぽんと手のひらを置いた。

 

「──帰ろうぜ、エレン」

 

 エレンはゆっくりと張の方を見ると、素直に頷いた。

 

 港の風が、二人の背中を押すように吹いている。

 __________

 

(Ich warte auf den Moment, in dem dieses Lied dich erreicht – und auf den Moment unseres Wiedersehens.)

(この歌が届く時を、その再会の時を待っています。)

 

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