──ジタンの芳香。
張の声が呼びかける。
──これは夢? 唇に柔らかいものが押し当てられる。触れた唇からかすかに紫煙の匂いを感じた。
「────張……」
はた、とロックの動きが止まった。
──今の、聞き違いじゃないよな。エレンの額のタオルを代えて、買い込んできた食料を安っぽい紙袋から出している最中に聞こえた声に、 思わず息を潜めた。
エレンの言葉を待つように動きを止め、少し離れた場所から見守る。
まだ呼吸は荒いが、昨日より少しばかり熱が引いてきたようで、彼女はほとんど目を覚ますことなく休息を貰っていた。
ロックは立ち上がり、 エレンの側へと歩みを進めた。
サイドテーブルの解熱剤が一つ減っていることに気づいて、薬を飲むことができたのだと少し安心した。
身をかがめると、彼女の顔のわきに力なく投げ出されているその手に、なんともなしにそっと触れてみる。
思ったよりも柔らかく、華奢なこの手であの銃を振り回すのか、と枕元のサイドテーブルに置かれた彼女の愛銃を見ながら思う。
「──張………………」
うわ言でその名を呟いたエレンをロックはしげしげと眺めた。
──二人の間になにがあったんだろうか。
ミスター・張が彼女を救った。あの怪我のまま放置していたら確実に死に至っていただろう。 あの張がなぜ一端の殺し屋に目をかけるのか。──もしかして。
かぶりを降って浮かんでくるつまらない考えを頭の隅へと押しやった。そもそも、ロックはエレンに怪我を負わせた人物さえ知らないのだ。
興味本位な考えを振り切って、静かにエレンの側から離れた。
窓際に立つと、 ロアナプラの街からは相変わらず銃声が聞こえた。
──俺はいったいなにを考えているんだろう。
友達だとはいっても、エレンのことはほとんどと言っていいほど知らない。果たして彼女に尋ねたら、答えてくれるのだろうか、張とのことを。
「……レヴィに話したら、一蹴されるんだろうな」
そう思っている自分に気がついて苦笑する。
ロックはポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。
窓から南国の街並に視線を投げながら、大きく紫煙を吐き出すと、ロックはエレンと初めて会った日のことを思い出していた。
***
「こんばんは。貴方、
イエローフラッグ──この街の酒場である──で、カウンターに座っているロックに声をかけてきた女がいた。
長い亜麻色のウェーブヘアに、白い肌。一見すると白人なのだが、なぜかロックの故郷の──日本の面影を持つ、整った顔立ちの女だった。
「ええ、まあ。そんなところです」
曖昧に応えながら、目の前のその女をこっそりと観察するように見つめる。
その女の顔に見覚えがあるような気がしたが、どうも思い出せない。元ビジネスマンのロックにとって、人の顔を覚えるのは得意中の得意だ。しかし、目の前のその女は、どことなく懐かしく感じるのだが、どうしても思い出せない。
「私はエレン。エレン・リーフェンシュタールよ。貴方の名前は?」
ドイツ系の苗字だ。まだ頭の中の記憶を辿りながらも、ロックは差し出された手を握り返す。
「ええと、ロックです」
と答えると、エレンと名乗った女はにっこりと微笑み、隣いいかしらと聞いてきた。
「どうぞ」
「ありがとう。──お酒にはあまり興味がないの」
酌をしようとするロックを遮ってエレンは言う。
「へぇ。じゃあ、なにしに来たんだい?」
「そうね、ちょっとした依頼でね。それと、人を探しているの」
──―依頼。そうか、物騒なことがらに程遠そうな目の前のこの女性も、いわゆる裏稼業の人間なのだ。
それがこの街、ロアナプラだ。
ロアナプラに来て日の浅いロックにとって、それは新鮮な驚きであった。
「なるほどね。それならここはうってつけかもしれないね」
「ええ、ここにはいろんな情報が入ってくるもの。もちろん、良い情報ばかりではないけれど」
「確かに、ね」
そこで会話は途切れた。しかし、気まずさはなく、むしろ不思議と心地よい沈黙だった。
「ねぇ、ロック。私の探してる人ってね──貴方のことなの」
突然の言葉にロックは一瞬戸惑った。
「──俺を? なんでまた」
エレンは、美しい形をした唇を吊り上げて微笑んだ。
「貴方に興味があるからよ」
ロックは思わず眉をひそめた。
「え?」
「だって、貴方、
一息に弾むようにそう言うと、エレンはロックの手を取ると自分の方へと引き寄せる。
エレンから漂う甘い香りと、間近で見る美しい顔に、ロックはほんの僅かにたじろいだ。
「──あ、ああ、そうなんだ。
そうか、だから……俺、あんたとどこかで会ったことがあるような気がしたんだけど、日本の血が流れてるからなんだろうな」
「そうかもね」
そう言って肩をすくめた彼女はロックの目を見つめてくる。ガラス玉のように透けるヘイゼルの瞳だ。
「それにしても、噂通りだわ……その格好。貴方はどんな経緯があってこの街に来たのかしら」
ワイシャツにネクタイというロックの服装に目をやり、不思議そうに尋ねる。
「あぁ、まあね。何というか、色々あったのさ」
曖昧なロックの言葉に、エレンはそれ以上深く聞こうとはしてこなかった。
「──そう。大変だったのね。……それで、ロック。この街では何をして生きているの? 殺し? ……ううん、殺しをしそうには見えないわね。……情報屋かしら? それも違うみたい」
ロックはその言葉に苦笑しながら首を振った。
「いやいや、しがない水夫見習いってとこだよ」
「ふぅん。そうなんだ……」
そう言って、エレンはグラスを傾ける。その中では何やら炭酸がパチパチと小さく弾けているのが見えた。
ロックもつられて、手の中のグラスを口元に運んだ。
「ラグーン商会、ってわかるかい? この辺りじゃ有名なはずなんだけど……」
「ええ、知ってるわ。私も仕事の関係で関わったことがあるから」
「へぇ、そうなのか。じゃあ話は早いかな。俺はそこの雑用係兼、水夫ってとこなんだ。といってもまだ見習いなんだけどな」
そう言って笑うロックを見て、エレンも笑みを浮かべた。
「そう。……じゃあ、今はラグーン商会で働いているのね。良かったわ」
「ああ、まあね。……このロアナプラじゃ、俺みたいな人間はどこかに属さないと、とてもじゃないけどやっていけないからな」
ロックは肩をすくめて見せた。
「そうね……。ここはそういう街だものね」
「ああ。──ところで、レヴィっていう人を知ってるかい? 俺はあの人に拾われたんだ」
「レヴィ、“トゥーハンド”でしょ? あの怒りっぽい娘ね」
そう言ってエレンは何かを思い出したようにクスクスと笑っている。
「以前、仕事で顔を合わせたことがあるの。そのときの彼女はとっても機嫌が悪そうで、ぷりぷり怒りながら、ガツンガツン音を立ててコンテナを蹴っていたわ」
レヴィらしいな、とロックは思った。
「でも、あれでなかなか頼りになるんだよ。ちょっと乱暴だけどね」
「そうでしょうね。“トゥーハンド”レヴィのことならこの街みんなが知ってるもの。彼女のことを尋ねれば、きっと皆が知っていることを教えてくれると思うわ。いい評判も、……悪い評判もね」
エレンはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ふふ、勘違いしないでね。私は彼女のこと嫌いじゃないの。素晴らしい
「へぇ、そりゃすごいな。じゃあ、そのうち機会があるかもしれないな」
ロックは素直に感心した様子を見せた。そして、そんな彼の顔を見ながら、エレンは思うのだ。
──彼はとても純粋ね。
拳銃遣い同士が勝負することがあったとすれば、それはどちらかが死ぬときだ。それを完全に想起しないわけでもあるまいに。
それでも、こんなにも無邪気に喜ぶことができる。
彼はまだこの街のことを──この世界のことを良く知らない証拠だ。
そのことに少しの羨望を覚えつつ、しかし同時に、気付いたときには銃を握っていたエレンには、彼のような時間は永遠に訪れないのだということもわかっている。
──だからこそ、彼を知りたいと思った。
「ねぇ、ロック。今夜、付き合ってくれないかしら? 貴方のこと、日本のことをもっと教えてよ」
ロックは、意外な申し出に面食らいながらも、「別に構わないけど……」と答えた。
それから二人は、とりとめのない会話を続けた。ロックは日本での暮らしのことを話し、エレンはそれを興味深げに聞いていた。
「……そんなに電車が混むの? 毎日、怪我人や死者が出たりするんじゃないかしら?」
エレンは真面目な顔をしてそう言う。ロックは苦笑しながら、手元のグラスを揺らした。
「いや、死にはしないよ。……でも、ある意味死んでいるようなものなのかな、満員電車の中では。心を殺して、無になるんだ。何も感じないようにね。そうして目的地までひたすらに耐えるんだよ」
ついこの間まで毎日繰り返していたその生活が、遠い昔のことのように感じられる。
「ふぅん。……なんだか、トーキョーで暮らすのってハードなのね……私には無理そう」
「慣れればそうでもないさ。……それに、そういう生活をしてると、だんだんそれが安心するようになってくるんだよ。考えるのをやめて、死んだように生きることが、自分にとって一番安全な生き方なんじゃないかってね。──ただの現実逃避なんだけどな」
頭の中に、今は遠い日本での日々が思い浮かんで、ロックは自嘲気味に言った。
「……俺はこの街に来て、よかったと思ってるよ。もちろん、最初は戸惑ったし、今もまだすっかり馴染めたってわけじゃないけれど。……でも、ここには俺の居場所があるような気がする」
「……そう。──その気持ち、わかるような気がするわ」
エレンは小さく息をつくと、優しい微笑みを浮かべた。
「私もね、この街に来て居場所を見つけたの。ある人が、私に……居場所をくれたのよ。その人の言葉で、私もここで、生きてみようって思えた……」
そう言ってロックを見つめる彼女の瞳は、どこか幸せそうだった。
「……」
ロックは黙ってグラスを傾けた。
そして、少し間を置いてから、それを問うべきか迷いを滲ませたまま、静かに口を開いた。
「……なぁ、エレン。あんたは、どうして……殺し屋なんかやってるんだい?」
エレンはほんの数秒、考えるそぶりを見せたが、すぐに答える。
「そうね……。私にできることと言えば、これだけだったから、かしら」
***
「……できることが、これだけだったから、か……」
窓際から室内を振り返るロックの背中を、南国の熱い風が舐めるように吹き下ろす。
ベッドに横たわるエレンに視線を投げた。
まだ若く美しい女の子が、銃を握ることしかできないなんて、一体これまでの彼女の人生に何があったのか。自分には考えも及ばない。
なんだかんだ平和な日本に生まれていれば、エレンも今頃、大学にでも通って友達とアイスクリームショップで彼氏の話なんかしながら
だが、それは考えても仕方のないことだ。
取り敢えず今は、張からの依頼を──エレンの怪我が良くなるまで、こうして見守るだけだ。
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(Ma raison d'être)(私の存在理由)