──ロアナプラに、雨季がやってきた。
どんよりとした雲が空を埋め尽くし、雨が絶え間なく降り続いている。その分厚い雲の隙間を時折照らす、短く鋭い光。唸るような雷鳴が、遠くで断続的に響いている。
エレン・リーフェンシュタールは、ソファの背もたれにその身をそっと預けた。ひんやりとした滑らかな革がわずかに沈んで、身体がいつもの位置に収まる。そのまま何を見るでもなく、窓ガラスの向こうのロアナプラの街にぼんやりと視線を投げていた。
部屋の主である
廊下の向こうでは、三合会の組員が何かを言い合いながら忙しなく行き来している。言葉の意味こそ分からなくとも、いつになく尖った緊張感が漂っていることだけはエレンにも感じ取ることができた。
街のざわめきから最も遠いこの場所は、エレンにとって心地いいはずなのに、今は違った。雨に閉ざされたこの空間が、まるで世界から取り残されたようにすら感じられている。
膝の上に置いたままの本に視線を戻すのだが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
「……二羽……の銀色、の小鳥、が……? ……やっぱり、中国語って難しいわね」
そう呟いて、本を閉じる。光沢のあるハードカバーの表紙が、照明に反射し鈍く輝いた。
──張の“昔話”を聞いてから、もう幾度となく想像したもの。エレンが知る今の彼からは想像もつかない、正義に焦がれて警官になったという若き頃の
彼が語ってくれたあの話を思い出すたび、胸の奥がツンと痛んだ。自分には仲間がいた分、まだ幸せだったのかもしれない。きっと、針のむしろのような日々だったのだろう。
それでも過去を越えて今ここに立つ彼を想うと、尊敬に近い感情すら湧いてくるのだった。
雨音が窓ガラスを叩く音が、どこか遠くに聞こえていた。
途切れた思考の合間にふと思い出す──このところ街を騒がせている、ある殺人鬼の話を。
ロアナプラでの殺人など、今さら珍しくもないことだが、今回のものは少し様子が違う。
──ホテル・モスクワの郎党が殺されたという。それもこのひと月の間に六人も、である。
さらに他のマフィアにも被害が出ている。張の率いる香港三合会に二人。そして、イタリアンマフィアであるヴェロッキオ・ファミリーにも。いずれの事件も、どうやら同じ殺人鬼の仕業らしいと囁かれている。
この街を支配するマフィアの、その構成員が殺されるという状況。その意味するところは一つ。
すなわち──この街の均衡を、誰かが意図的に崩そうとしている、ということだ。
ロアナプラは綱渡りの街だ。だからこそ、マフィアたちは微妙な牽制のしあいでバランスを保ってきた。
──こんなことは、本来あってはならないのに。エレンは小さく息をついた。
「……」
この街の誰もが、いつになくピリピリと神経を尖らせている。怒号や爆発などよりもずっと、こういった静かな殺しのほうが街の空気を乱し、神経を逆撫でしてやまないものだ。
それでも、エレンのように権力のない住民はただ見守ることしかできない。そう、
それがロアナプラで生きるための流儀──手法であり、心構えであり、そしてたった一つのルールなのだから。
***
気分転換にと、エレンが足を運んだのはイエロー・フラッグだ。
街の荒くれ者たちの憩いの場であるこの酒場は、あいも変わらず、けぶる空気と酒の匂いで淀んでいる。
ただ、いつもと違うのは、店内の雰囲気に妙な刺々しさが混じっていることだった。銃を腰にぶら下げた客たちの視線は、一様にギラギラした嫌らしい光を宿している。それは、例の殺人鬼が街を荒らしていることに関係があるのだろうか。
そんな店内の様子を見回していたエレンは、ひときわ目立つ真っ白なワイシャツの背中を見つけた。
傍らにはポニーテールの二挺拳銃レヴィ。そして、私服姿のエダもいて、緩みきった姿勢でカウンターに上体を預けている。彼らは店主であるバオを囲んで、なにやら話をしているようだった。
「珍しいわね、みんなお揃いで。楽しいお話かしら? 私も混ぜてほしいわ」
エレンが声をかけるとロックは振り返り、挨拶のようにグラスを軽く揺らした。胸元のグリーンのネクタイが照明を受けて、淡く光る。
「ああ、エレンか。例のパニッシャー……殺人鬼の話をしていたところさ。知ってるかい?」
ロックから語られた情報は、断片的だったが十分に不穏だった。
今朝早く、ブラン・ストリートにある“カリビアン・バー”が襲撃を受けた。店はほぼ壊滅状態まで破壊され、死者も多数。しかも今回は、店を訪れていたというバラライカの直属の部下を狙った犯行であるという。
そして、生存者が目撃したというその殺人鬼の正体は──子供であった、と。
「……双子の子供……? その殺人鬼の正体は……子供なの……?」
その瞬間、エレンの心臓は叩かれたように大きく脈を打った。
子供、女の子、銃──
胸の奥に突然、氷のように冷たい感覚が広がって、息が詰まる。
「……っ、……!」
「……? どうしたんだい、エレン?」
「……なんでもないわ」
エレンの動揺に気づいているのかいないのか、ロックは持っていたグラスに向き直ると、独り言のように呟いた。その表情には僅かに困惑が滲んでいる。
「……そんな子供が、どうして人殺しなんか……理解できないよ」
その声は、エレンにはやけに遠く聞こえていた。
***
熱を孕んだ空気は僅かの間に、潮が引くかのごとくきれいさっぱりなくなってしまった。
すっかりずれてしまったシーツと、ピローの位置をさり気なく戻しながら、エレンは張の背中に視線を投げかけた。
「……今日はどうしたの?」
「何がだ?」
背を向けたまま、張は煙草を吹かしている。手に持った煙草から白煙が立ち上って、まっすぐに天井へと昇っていく。
彼の感触がまだ肌に残っているようで、エレンは俯き、指先をそっと這わせた。皮膚の赤くなった部分が、じんと熱を持っている。
「いいえ……貴方が、なんだかイライラしているような──そんな気がしただけ……」
灰の長くなった煙草を灰皿に擦り付け、ベッドサイドに乱雑に散らばった服を拾い上げると、張は手早く身支度を整え始めた。エレンは黙ってその背中を眺めている。
「気のせいだろう」
その声は短く、どこか余所余所しい響きがあった。振り返る気配はない。張は黙ったままネクタイを結び始めた。滑らかな布の擦れる音だけが、静かな室内に響く。
その
「……子供、なんですってね、例の殺人鬼」
カフスボタンを掛けようとしていた張の指先の動きが緩慢になって、やがて止まる。
だが、エレンがそれを見咎める前に、彼の指はいつもどおりに動き始めた。
「なんだ。お前も聞いたのか、その噂」
張のその
「……どうしてそんな子供が、この街で……人殺しなんてしなきゃ……いけないのかしら」
張が短く息を吐く音が、重い空気を僅かに揺らめかす。
「さあな。まったく喜ばしい話でもないが、そこに至る理由はいくらでもあるだろうさ。
だが、詳細は俺たちの知るところじゃあない」
仕上げとばかりに乱れた髪を撫でつけたあと、張はスーツの上着を羽織る。
エレンも無言でキャミソールを被って、腕を通した。胸や背中が布に包まれると、いかに身体が冷えていたかということがようやく分かるようだった。
先ほどから、近寄りがたい雰囲気が張から滲んでいるような気がしてならない。見えない壁があるような、なんとも言えない居心地の悪さを感じる。
エレンは自身の乱れた亜麻色の髪を、手櫛で静かに寄せ集めた。そして指先にそのウェーブヘアを弄ぶように巻きつける。
今口を開けば、心の中にある言葉が次から次へと飛び出してきそうだ。そしてその言葉たちを、恐らく張は歓迎しないだろう。そんな逡巡が、結果的にエレンに沈黙を選ばせた。
そんな気配を察したのか、張は背を向けたまま、わずかに視線だけをエレンの方に動かした。
「……エレン。お前はこの件にあまり深入りするなよ」
「……どうして?」
ベッドに座り込んだまま、エレンは自分の方へと歩み寄ってきた張を見上げていた。
「どうしたことか、お前は
下手に肩入れしたところで、あとで碌な目にあわんぞ。あのガキどもとお前は違う。理由なんか考えるだけムダだ。
……つまらん同情はするな。わかったな?」
張は人差し指でエレンの胸元をトン、と叩きながら、やや強い口調で言い聞かせるようにそう言った。
それからスーツの襟を軽く引き上げると、そのまま部屋の出口へ向かう。
「……今夜は遅くなりそうだ。先に寝てろ」
それだけ言い残すと、張は部屋を後にした。
**
お気に入りのカップを満たす白い液体を、そこから次々に立ちのぼる湯気を、エレンは黙って見つめていた。カップの中に落としたひとかけらのチョコレートは、沈んだきりミルクの色を変えることもない。
「憐憫……私、そんな感情あるかしら……」
自分のことだというのに、どこか他人事のようにしか考えられない。張のいない社長室で、エレンはぼんやりと過ごしている。
ふいにエレンは無意識に眉間を寄せ、こめかみを押さえた。ここのところ、鈍い痛みの頭痛が続いていた。雨季のせいかもしれないと、大して気にしていなかったのだが、どうも回数が増えてきたようだ。
張のチェアに背中を預けると、彼の面影を感じて心地よい。頭痛すら少し楽になるようで、エレンは安堵のため息をこぼす。そして、何を考えていたのだっけ、と記憶を探る。そう、殺し屋の正体についてだ。
「子供、男の子と女の子の双子……、チャウシェスクの落とし子……その子たちも、孤児……だったのね……」
孤児から殺人稼業するようになったという点は、エレン自身と同じだ。そのせいで、どうにもシンパシーを呼び起こされてしまっている。
こんな人生しか選べないことは可哀想だ。双子たちのことは素直にそう思った。
だが、施設で殺人を教え込まれて育てられたエレンは──自分自身を可哀想な子だとは思っていないのだった。それは、結果的に張と出会うことができたおかげなのか。
エレンは傍らの板チョコを、またひとかけら折り取った。そして今度は、口の中へ。
そう、自分にできることがあったからこそ、今ここに立っていられる。
──だから仕方ないじゃない、人を殺すことはビジネスよ。エレンはそう言い聞かせるように心の中で呟いた。それなのに、父親を奪ってしまった
そのとき自分を呼ぶ声が聞こえて、それまでの思考も、そしてチョコレートの余韻もいっぺんに拭い去られてしまった。
「ミス・リーフェンシュタール。ちょっといいですかね? あんたに話したいことができた」
ノックから大した間もおかず顔を覗かせた
──彪の報告は、こうだ。
ついさっき、ヴェロッキオファミリーが例の双子の殺人鬼の襲撃を受けたこと。
そして、張もその場へ赴いていること。
それを聞いたエレンは、全身の血の気がすーっと引いていくのを感じていた。
まさか、張が巻き込まれたりしていないだろうか。最悪の可能性を一瞬で思い浮かべてしまうと、胸の中に大きな氷の塊を落とされたように身体が冷たくなった。
「彪さん、張が、張は……っ……!」
言葉が上手く出ない。
「ミス・リーフェンシュタール。落ち着いてくださいよ。俺たちも現場に向かうところです、あんたも同行すりゃいい」
そうして彪の運転する車で、事件現場へ向かうことになった。
低く唸るエンジン音の合間に、エレンはただ祈るしかなかった。誰かの無事を祈るなんて、いったい何年ぶりだろうか。だが、今のエレンにはそれしかできなかった。
(彼ほどの人が死ぬわけなんかないわ……)
そう自分に言い聞かせるが、あの双子の殺人鬼は、これまで何人ものマフィアを殺してきたような存在だ。子供とはいえ、侮れない。
だからこそ、張の無事な姿をこの目で見るまではとても安心できなかった。エレンの心はずっと不快な胸騒ぎに支配されていた。
車は走り、車窓の向こうのロアナプラの夜景は後ろへ後ろへと流れて消えていく。
やがて、いくつものストリートを通り抜けて、車は事件現場近くへと到着する。
ドアを開けるのももどかしいくらいだ。車からつんのめるようにして飛び出したエレンは、せわしなく視線を彷徨わせて張の姿を探す。そんな彼女の視界を、パトカーのライトの赤色と青色が交互に煩く横切った。
張はすぐに見つかった。
彼はボンネットに座り、煙草を吹かしていた。
まるで自宅のソファで寛いでいるかのように緩んだ姿勢でいる彼の周囲には、銃撃戦の跡が色濃く残っていた。
地面に散らばる無数の薬莢。彼が腰かける車体には黒く焼け焦げた弾痕が点々と残り、警察が遺体を運び去った場所には、白いテープがいくつも貼られていた。
「よお、エレンか。迎えに来てくれるとは嬉しいね」
場違いなほど呑気な声、でもそれは間違いなくいつも通りの張だった。彼のコートの裾は破れ、ところどころ砂ぼこりで汚れている。
エレンはゆらゆらとした頼りない足取りで、一歩ずつ彼に近づいていく。
それを見ながら張もボンネットから腰を下ろした。
「わ、私……貴方が、し、死んでしまったら、どうしよう、と……思っ…………」
張を見つめながら、エレンは震える声でやっと言葉を紡いでいた。途切れ途切れの言葉の間に、その目から大粒の涙が次々に落ちてきていることに彼女は気づいていない。
張はサングラスの下で、少し驚いたように目を瞬いた。
エレンの頬を伝い落ちる涙の粒が、赤と青の光に交互に照らされてはきらりと光る。
「お前──泣いてんのか?」
呆れとも戸惑いともつかないその声には、張自身も気づいていない微かな動揺が滲んでいた。
エレンは肩を小刻みに震わせて、唇を真一文字に結んだまま張を見つめている。
頬を転がり落ちた涙が胸元にぽたり、ぽたりと落ちては染み込み、服にいくつもの小さな模様を作っていた。
それを見た張は、短く息を吐く。
「……やれやれ」
そう小さく呟いてから、張はただそっとエレンの肩に手を置いた。
「心配かけちまったようだな。……悪かった」
エレンは唇を震わせながら、掠れた声で言う。
「……ばか」
「……ん?」
「ばか、ばかっ……!! ……!!」
言葉の最後は嗚咽に混じって消えてしまった。
人目もはばからず泣きじゃくるエレンを、張は呆れたようにため息をついてから、自分のコートに引き入れて隠すように包み抱いた。
「おいおい、恥ずかしい奴だな。みんな見てるぜ」
笑いまじりに軽口を叩きながらも、腕はしっかりとエレンを抱き寄せていた。その腕の力は、安心させるかのように、いつもより少しだけ強い。
エレンは彼の温もりを感じながら、泣き続けた。彼がまだここにいる幸せを、噛み締めるように思いきり抱きしめ返すのだった。
しばらくして、やっとエレンは張の胸元から顔を上げると、そっと張の頬にキスをした。
「……帰ってきてくれて、よかった……。おかえりなさい……、
泣き腫らした赤い目も、鼻先も頬も真っ赤なまま、それでもエレンは微笑む。
張はその顔を見て、ほんの少しだけ表情を弛めた。
「ああ。……ただいま、エレン」
エレンは張の胸元に寄り添ったまま、ゆっくりと周囲を見渡す。まだ涙で濡れた長いまつ毛が、周囲の光を反射して光っていた。
「……貴方は、会ったのね……あの子たち……双子に……」
「ああ」
張は短く答えた。その声はいつも通りの調子なのに、深い疲労が滲んでいるようだ。
エレンは小さく息を吸い、まだ少し震える声で続ける。
「……私、……このままじゃ終われない。やり残したことがあるの……」
張は黙って聞いている。
「……あの子たちに……会いたいの。ただ、会って……話をしてみたい……。あの子たちの姿を、この目で見てみたいの……」
「……そうか」
短い返事だった。けれどその一言は、張なりの理解の証だ。エレンにはもうわかっている。
張は持っていた煙草を指で弾いた。
それは水たまりに落ち、すぐに光を失った。
**
なんと言っても、街中が狩りに興じている夜だ。
ひと気の少ないところといっても限られてくる。だから、エレンはここにいた。そして、すぐにそれが正解と知ることになる。
──足音だ。アスファルトを叩く靴の音。歩幅からすると、子供。
反射的に握り込んだ銃のグリップも、すぐに離してしまった。
「あ、貴女……」
白銀にも見えるプラチナブロンドの長い髪が、さらりと少女の肩を滑り、闇夜に浮かび上がる。
フリルのついたスカートの裾が華奢な足首をかすめ、ふわりと流れた。彼女の身体を包むゴシック・テイストなワンピースは、あらゆる光を吸収する漆黒。
彼女が大事そうに抱えている、布に
「こんばんは、お姉さん」
首を傾げて挨拶を述べるそれは、愛らしい仕草だった。だが、彼女の整った顔からは感情のようなものは見えなかったし、その瞳の奥には獰猛な光が宿っているのが、エレンにもわかった。
「貴女……、“グレーテル”、ね……?」
童話になぞらえて双子につけられた呼び名。誰かがつけたその名前を、エレンは口にした。
「銃を抜かなくてもいいのかしら? それとも、驚いて忘れてしまったのかしら」
その大きな瞳に妖しげな光を滲ませ、少女──グレーテルは、艷やかな唇を笑みの形に吊り上げた。
その声は、溶けかけた砂糖菓子のようと形容したくなる甘ったるい響きがあり、舌っ足らずな話し方と相まって、それだけが唯一の子供らしさとして機能しているような妙な違和感があった。
「銃は必要ないわ。私は、ただ……貴女たちに会いたかっただけ……」
改めて見ると、こんな小さな女の子が街中の人間に追われているとは。彼女の犯した罪も忘れて、エレンは思わず、キョロキョロと辺りを確認する。
「この街のみんなが、貴女たちを捕まえようとしてるわ」
「ええ、知っているわ。たくさんお金が貰えるんでしょう?」
グレーテルの返答は、まるで他人事のようだ。
「け……、怪我は、ない……?」
皆が血眼で彼女らを追いかけているし、先ほど張とやりあったはずの痕跡だってエレンは見た。あれほどの銃撃戦をくぐり抜けたのに、目の前の少女は──まるで何事もなかったかのように立っている。
見たところ傷ひとつない。それどころか、服も乱れていなければ、息すら上がってはいない。
その事実に、エレンはぞくりとした。
かつての自分と同じような、戦うことしか知らない子供が目の前にいた。
「……まあ! 怪我はないか、ですって。そんなことを聞かれたのは、初めてだわ」
安否を問われたことがないなんて。その事実に、エレンの顔は哀しげに歪んだ。
「貴女一人なの? “ヘンゼル”──お兄さんは? 一緒じゃないの?」
どうやら質問に答えるつもりもないようで、グレーテルは作りもののような微笑を張り付けたまま、小首を傾けてエレンを見上げてくる。
「お姉さんも賞金が欲しいのかしら?」
「……お金なんて、要らないわ。私は貴女を……貴女たちをどうにかしようなんて思ってない」
「ふぅん、変わってるわね」
「ただ……、貴女がどんな人なのか、会って……みたかっただけ……」
エレンはそう言って、そっと視線を落とした。その静かな佇まいが、グレーテルには不思議に映ったのだろう。
グレーテルはエレンのことを、足の先から頭の天辺までゆっくりと見た。まるで新しい玩具を観察するような、無邪気で残酷な視線だ。
「お姉さんは……なんだか、不思議な人ね。
……この街の人なのに、他の人たちとは、違う感じがするわ。なぜかしら」
エレンは無意識に顔を背ける。ホルスターの中の銃がわずかに揺れて、ガンブルーの光を反射する。その重みが、やけにずしりと響くようだ。
「……違わないわ。私だって人殺しよ。人を、殺して生きてる……」
「それがどうしたの?」
即答だった。
悪いことでもなんでもない、あたかも当然のことだと言いたげに、グレーテルの
「……悪いことよ」
「なぜ?」
心底不思議そうに首を傾げる。グレーテルのその姿はさながら、ちょっとした悪戯を叱られた子供のようであった。
「なぜって……」
困惑に、エレンは思わず眉間を寄せた。
「殺された人を大切に思う人がいたら、その人を不幸にしてしまうでしょう?」
父と母のことを、そして自分に父親を奪われたあの女の子のことを頭に浮かべながら、エレンは絞り出すようにしてそう言った。
ところが、グレーテルは小さな肩をすくめて見せた。
「それは仕方のないことだわ。誰でも最後は神様の元へ行くものよ、遅いか早いかの違いでね」
「そんな……貴女だって、お兄さんがいるでしょう? それならわかるはずでしょ? 彼がいなくなったら哀しくないの?」
「ちっとも。だって、私たちは死なないし、決して離れ離れにならないの。いつも一緒なのよ、兄様と二人で、ずっとずっと生きられるんですもの」
話の内容はエレンには到底理解できず、二の句が継げなくなってしまった。一方のグレーテルは不思議そうに首を傾げている。
「変ね、お姉さん。まるで嫌々やってるみたい。人殺しをしたくないのならやらなければいいのに」
唇を尖らせて心から怪訝そうな問いを投げるグレーテルの表情には、こんなに楽しいことをしたくない人がいるなんて信じられない、というような純粋な不信感が浮かんでいる。あたかも、自分が満喫している美味しいものを食べないの? と訊いているかのようだ。
「……でも……私、それしか……選べなかったの。辛くても、そうすることでしか、生きることができなくて……。
貴女だって、そうなんでしょ……?」
言いながら、目の前の少女にすがるような視線を向けていることにエレン自身は気づいていない。
そんなエレンをよそに、グレーテルは先ほどまでとはうって変わって生き生きと話し始める。
「あら、違うわ。選べなかったわけじゃないの。私たちは自分で選んだのよ。だって、これは神様が私たちに下さった役だもの。
この世界はみんなそう。みんなが神様の作った役割を演じているの。殺す人、殺される人。それしかないの。そうして世界は回っているのよ。
私たちが選んだ役割はこれよ、殺すの。だって、殺される役はやりたくないもの、ね?
──楽しいわよ。お肉を裂いて、骨を砕くの。
血って、とっても綺麗でしょう? 真っ赤な薔薇のお花だって、本物の血に比べたらちっとも赤くないわ、とても敵わない、それくらい綺麗だもの。
そうそう、骨の折れる音も素敵よ。
骨を折るにはね、
何をすればいいのかわかってからは、とっても楽しいわ。素敵なものがたくさん見られるんだもの。
ねぇ、お姉さん。骨を砕く音を聞いたことがある?」
微笑むグレーテルの様相は、いつの間にか不気味な色に塗り替わっていた。
瞳の奥には不気味に濁った光が揺らめいていて、笑みの形の口角から覗く小さな歯列すら、禍々しいものを感じさせた。
──それは、闇に染まった人間そのものだ。
グレーテルの言葉を聞いて、その表情を見たエレンは──強烈な無力感に襲われた。地面に引っ張られているみたいに、身体の力が抜けていくのを感じていた。
(──ああ、壊れてしまったのね)
この子たちがどんな経緯で人殺しをするようになったのかは分からない。
けれど、歪められてしまったことだけは分かる。
きっとこの子たちだって、生まれながらに狂っていたわけじゃない。真っ白な心に、大人たちが濁った絵の具を垂らした。どろどろの悪意を垂らした。
状況は違うかもしれない、けれど、置かれた立場はきっとかつての自分と同じだ。
殺さなければ生きられない。自分の命が、存在が脅かされる。そんな状態に追い込まれたのだ。
それを受け入れなければ、生きてこられなかった。
それでも、自分たちだけがこんなつらい目にあっているなんて、そんなの哀しくて、悔しくて、そんな不公平なこと到底納得できない。
だから“みんな同じだ”と信じたい。
自分のしていることは異常じゃない、
(──私も、この子のようになっていたかもしれない)
殺人を楽しむような、肯定するような。大したことじゃないと信じ込んでしまうような。
強く信じるうちに、エレンは本当に何も感じなくなってしまった時期があった。
自分が殺される立場に立たされて、危険に晒されて、はじめて“人を殺すのは嫌だ”と思えた。
心に固く蓋をしていなければ、とても耐えられないほど辛い生活だったのだから。
それでも、思わずにはいられない。
この子たちが、違う人生を歩めていれば、そのきっかけが与えられていたとしたら。
かつて幼かった自分と、この子が重なって仕方ない。
どんな小さなものでも、抜け出せるチャンスがあれば──
(──この子は、もう一人の私だわ)
エレンはぎゅっと瞳を閉じた。
時間にすればほんの一秒足らずのことだった。目蓋を開けると、グレーテルと視線が合う。
「……辛くないわけ、ないでしょう……? 私は、……辛かったわ……ずっと……」
そう言ってしまったらタガが外れたように、感情が溢れ出した。内側から押されるようにして、エレンの言葉は止まらない。
「貴女たちも……!
そんなこと言わなくても、そんなこともう、しなくていいのよ……!
辛かったこと、二度と戻りたくない思い、貴女たちが辛い目にあってたくさん泣いたこと、苦しかったこと、その事実を……この先も私が、覚えているわ……! 覚えている限り、あのときの貴女たちの気持ちは消えたりしない。だから、だから…………」
言葉尻は洪水のような衝動に押しつぶされて形にならなかった。
自分でも何を言いたいのかわからない、感情が胸にこみ上げてきて上手く話せない。この言葉は誰のために言っているのか?
大粒のキャンディーのような艷やかな、透き通る色の瞳で見つめてくるグレーテル。その瞳を見ていると、エレンは何もかも見透かされているような気分になるのだった。
熱を込めたエレンの話など興味もないらしいグレーテルはといえば、荷物にぶら下げたぬいぐるみのマスコットを退屈そうに弄っている。
「お姉さんとお話をするのも悪くないのだけれど、そろそろ行かないといけないのよね」
「……そう、わかったわ。ごめんなさいね、引き止めてしまって……。さっきも言ったけど、私は貴女をどうこうするつもりはないわ。だから、……さよならね」
エレンは避けるように視線を落とす。
グレーテルが微笑んだような気配がした。
そして──靴が床を蹴る音がした。グレーテルのプラチナブロンドが揺れ、エレンの視界を光の残像がかすめる。その次の瞬間には温かな感触がして、抱き着かれていることに気が付いた。
腰に回る細い腕の力、胸に預けられた小さな頭。それは、確かに生きている人間の体温だった。
「……っ……」
グレーテルの肩に触れる直前で、エレンの指先は硬直したように止まってしまった。
ためらっているうちに、少女が顔を上げる。
「いい匂い。お姉さんは、なんだか“お母さん”みたいね」
「……え?」
「お母さんは優しくて、いい匂いがするものなんですって。テレビの中でしか知らないけれど、ね」
エレンの顔は、この上なく哀しく歪められていた。
「そんな顔をしないで、優しいお姉さん」
少女は、まるで慰めるように微笑んだ。先ほどの狂気の滲むような笑みではない、年相応の少女の笑みだった。
「さよなら、お姉さん。またどこかで会えるかもしれないわ。その日まで、お元気で!」
別れを告げる手を振ると、長いスカートを翼のように翻して、そのままロアナプラの闇の中へと溶けるようにして姿を消した。
エレンはグレーテルが去った方角を──いつまでも、見つめているのだった。
***
ロアナプラを騒がせた双子の事件はそのあとすぐに終わりを迎えた。
ヘンゼルは、ホテル・モスクワとの衝突の最中に命を落とし、グレーテルもまた、ロアナプラからの逃亡の途中に命を落とした。
彼らが街に現れてから消えるまでの時間は、まるで蜃気楼だった。
ロアナプラの各々は、まるで一つの演目が終わったかのように、それぞれの日常へと戻っていった。
**
ロアナプラを見下ろす薄暗いリビングルームに、
張は窓の外に投げていた視線を、エレンへと移した。
「まだその調子か。……あの子らのことか?」
膝を抱えてソファーに座るエレンの隣に、張も腰を下ろした。すると、ようやくエレンが口を開いた。
「どこかで道を間違っていたら、私もあの子たちのようになっていたかもしれない……。それは、何かが違えばあの子たちだって、私のように生きられたかもしれないのと同じことだわ」
「仮定の話はやめておけ。無意味でしかねえ。それに、お前のような生き方があの子らにとって望むものかどうか、そりゃまた別の話だ」
張は気だるげに煙を吐き出した。そんな彼に、なおも言葉を強めてエレンは噛み付いてくる。
「なら、
最期は……たった一人の家族とも会えずに……一人で……、
あんな……あんな最期しか迎えられなかった子供たちが、私より幸せだって、貴方はそう言うの?! 」
彼が隣にいる幸せが、それをどこか後ろめたく感じる思いが、エレンの口調をますます強くトゲのあるものにしていった。
「だったら、お前があの子らをどうにかできたとでも言うのか? 驕るなよ、エレン。今のお前が言ってるのは、ただの独り善がりだ。
どうすれば正解だったかなんて、俺にもわからん。お前にはわかるのか? なら教えてほしいね」
「私は……!!」
勢いよく言ったものの、張の言葉に反論できない。心の中であまりにもたくさんの思いがうずまいている。そもそも本当に、彼女らのことを悲しんでいるのか。それさえも今はもうわからない。
エレンは奥歯を噛みしめた。もう、何を言っても間違っているような気がしたのだ。
重苦しい空気を裂いたのは張の声だ。
「……なんにせよ、これ以上考えても仕方のないことだ。
なぁ、エレン。今のお前にできることは、ひとつだけだ。──さっさと忘れろ」
きっぱりと言い切った張の言葉は、エレンには無慈悲にも聞こえた。自分自身が見捨てられたような気分になって、初めて双子に自分を投影しすぎてたことに気づく。
だが、それに気づいたとして今更なんになるというのだろう。
「そんな……! 私……私、は……、っ……」
感情がほどけたように涙が溢れてきた。
あとからあとから止めどなく、大粒の涙がボロボロと転げ落ちる。
何が哀しいのだろう? 知らない子供がこの街で終わりを迎えた、ただそれだけのことなのに。
エレンは声を上げて泣いた、しゃくり上げるくらいに泣いた。
隣で張はもう何も言うことなく、そっとエレンの肩を抱き寄せ、慰めるかのように何度か頭を軽く叩いた。
「ねぇ、維新……」
ひとしきり泣いたあと、まだ涙声でエレンが呟いた。
「あの子達は、──いっときでも幸せと思えた瞬間があったのかしら……、
せめて
遥か地上のロアナプラの街はいつもと何一つ変わらず、ただまばゆい光を滲ませているだけだ。
______
(Der Schatz der Meerjungfrau, der Wunschbrunnen, der glückliche blaue Vogel.)
(人魚の宝物、願いの叶う泉、幸せの青い鳥)