「へ、エレンが? あいやー、あの子ドジ踏んだね、
その女性──シェンホアがそう言いながら首を傾げると、腰まである長い黒髪がさらりと肩を滑り落ちた。
紅色の
「私、ここのところエレン会わないだったら、これ大変なってたか」
情報屋から話を聞き終えると、シェンホアは溜息をつきつつ、目の前のテーブルに置いてあった白磁のカップを手に取り、茶を啜る。
賑わう屋台が連なる大通り、その一角に構えられた小さな茶店。シェンホアはそこで、情報屋からエレンの安否に関する報告を受けていたのだ。
「それで、今エレンは?」
「さあ、そこまでは知らないね」
情報屋が首を横に振ると、シェンホアは再び溜息を吐く。
「ま、よかたね、生きてたならそのうち会えるですよ」
独り言のようにそう言うシェンホアの手元で、カップの中のジャスミンティーがゆらゆらと揺れる。
「……あの子ならきっと大丈夫ですだよ。あれなかなか強い子ね」
人混みの中に消えていく情報屋の背中を見送りながら独りごちて、彼女は再びカップに視線を落とす。
「あー、久しぶりにお茶飲みたくなるね、エレンと……」
そう呟いた彼女は、エレンのことを思い出しているように視線を遠くに投げた。
***
私がエレン・リーフェンシュタール(なんて発音しにくい苗字なのでしょう)と出会ったのは、さて、どれくらい前でしたか。
熱河電影公司ビル──三合会の事務所ですね。そこに、
報告を終えた私は、ロビーに降りるエレベーターを待っていました。
夕方の陽の光が、大きな窓から差し込んで、エレベーターホール一帯を包んでいます。眼下に見下ろすロアナプラの街のなにもかもを
嗚呼、今日も一日よく励みました。
今回のお仕事は少々骨が折れるものでした。なにせ対象が、やたらと逃げ足の早い男でしたから。しかも口が硬く、片手を切り落としたところでもまだ、頑なに仲間の行方を話そうとしないのです。
出血多量で死なないように気を使うのもなかなか面倒なものでして、ようやく情報を吐かせた後には、こちらも少々疲れたものです。ま、結局最後には死んでもらうのですが。
残りの仲間たちも全員始末したころには、私の愛用している柳葉刀は脂ですっかり汚れてしまいました。
まあ、それでも最終的には、なんとか片付いたのですから良しとしましょう。家に帰ったら自分を労ってゆっくりと寛ぎたいものですね。
そんなことを思いながら景色を眺めておりましたら、ふと耳にエレベーターの到着音が響いてきました。
そのドアが開いたとき、ちょうど降りてきた女性がいたのです。それがエレンでした。
歩調に合わせて揺れる、大きなウェーブのかかった彼女の長い髪から、ふわりと優しい香りが漂って来ます。
あら、いい匂いだこと。
よく見ると唇にも紅が引かれていて、なんとも艶やかな口元をしているではありませんか。
このようなタイプの女性がここに出入りするのは初めて見ました。まあ、私も四六時中このビルに出入りしているわけでもありませんが。
ここに来るということは、彼女も張大哥かそれにごく近い人間にご用があるのでしょうが、服装などを見たところホステスや娼婦の類でもなさそうですし、となると仕事関係の知り合いでしょうか?
なんとなく興味が湧いた私は、彼女に声をかけました。
「姉ちゃん、それ口紅いい色ですだね、どこのか?」
英語圏で暮らすようになってから結構な時間が経つというのに、未だに流暢に操ることのできない私の英語を聞くと、あからさまに怪訝な顔をする人間も少なくはないのです。ですが、どうやら彼女は気にしていないようでした。彼女は私を見て立ち止まり、微笑みながらこちらへ近づいて来てくれたのです。そしてこう言いました。
「ありがとう。この口紅はね、──」
それは、私も知っているブランドの名前でした。
それからまた私の目を見ながら、ゆっくりと喋ってくれたのです。
「貴女のネイルも、素敵な色ね」
その笑顔はとても美しく、まるで女神のように輝いていました。
「あら、嬉しいね。一番気に入ってる色ですだよ」
彼女が手を伸ばしたので、思わず握手をしてしまいました。そのついでに彼女をそれとなく観察したところ、腕の筋肉の付き方から推測するに拳銃遣いのようでした。
なるほど、フリーの殺し屋というわけですか。彼女もまた、張大哥から仕事の依頼を受けている一人なのでしょう。いわゆるご同輩ですね。
私は少しだけ警戒心を解いて彼女に尋ねました。
「あんたも、張大哥にお仕事もらうの人か?」
「えぇ、そうよ。貴女も同業者ってとこかしら? 私はエレン・リーフェンシュタール。よろしくね」
「私はシェンホアいうね。よろしく頼みます」
「“シェンホア”? 綺麗な響きね! 私のことはエレンって呼んで」
この出会いが期になって、私とエレンはたまに会って話すようになりました。
「ねぇ、シェンホア。見て、今日の口紅、似合うかしら?」
「おぅ、似合てる似合てる。あまり見るないね、それ色。すこし冒険したか?」
私もお化粧は大好きですし、自分なりには上手だと自負しています。しかしエレンのそれはまた違う美しさがありました。もちろん私だってそれなりに自信はあるのですが、人種の違いのせいもあるのでしょうね、エレンのようなタイプとは根本的に化粧の仕方も違いますしね。
「そうなの! 派手かなと思ったんだけど限定色だったから──」
「限定言われるます、これ弱いね。うんうん」
いつも他愛のない話ばかりです。
お気に入りの化粧品の話や仕事の話、最近飲んだ美味しい台湾茶の話──
裏社会の人間だというのに、はしゃぐエレンはまるで普通の女の子のようです。
「……わあ、いい香り……! なんだか甘い香りがするのね。美味しいわ、とても」
「美味しか? これ、東方美人いうお茶よ」
「知らなかったわ。こんなに美味しいものならもっと早く飲んでみればよかった。……お茶なのにこんなに華やかな香りがするなんて……シェンホア、今度淹れ方を教えてくれる?」
「任せるよろし。私の淹れる、なかなかうまいですよ」
エレンと一緒に過ごすのは、なんとなく心地いいと言いますか、ひょっとすると彼女とは相性がいいのかもしれません。不思議と話しやすい人間って、たまにいますものね。
「シェンホアの髪は艶があってとっても綺麗ね。黒髪って神秘的だわ」
「おぅ、嬉しいね。髪は女の命ですだよ」
「なんだか不思議な感じがするのよ。アジアンビューティーって言うのかしら。東洋的な魅力があると思うわ」
「どうもありがと。アンタの髪もなかなか素敵よ。ふわふわしてるますそれ、どっかのお人形みたいですだよ」
「そう? ありがとう」
私達はお互いに褒めあって、笑いあいました。
「サラサラの髪って羨ましいわ。私はくせ毛だから……寝癖もひどいのよ」
言いながら、彼女は自らの大きなウェーブのかかった髪を一房掴んで、しきりに撫でています。
「そんなら、結んで寝るいいね、三つ編みにでもしたら絡むないですだよ」
私の言葉を聞いて、早速、髪を編み始めたエレンですが、三つ編みどころか、五つか六つ編みでもしたようなデコボコの束ができました。不揃いに飛び出した毛先が、笑いを誘います。
「おまえ、あんがい手のかかる奴ですね。どれ、……」
触れてみると、見た目通り柔らかな髪でした。彼女の長い髪を三つ編みに編んであげて、手鏡を渡しました。
「わあ、いいわね! これならきっと絡まないわ。ありがとう、シェンホア」
「お安い御用ですだよ」
エレンは嬉しそうに手鏡を見つめながら「私もシェンホアみたいなストレートヘアになりたいなぁ」なんて言っていました。
おそらく私よりは若干歳が若い彼女は、思いのほか感情表現が豊かで、よく笑い、素直に怒り、時に落ち込んだりして、接しているうちになんだか妹のように思えてきたものです。
見た目からは想像しにくいですが(失礼ですね)、エレンは心優しい子でした。
私が拙い文法で話す言葉をじっと待っていてくれたりします。それも、私に気を遣わせないようにという心遣いが感じられるのです。
それに、彼女は聞き上手でもありました。私の話を最後まできちんと聞いてくれて、「うん、うん、それで?」と相槌を打ってくれるのです。
だからつい調子に乗って喋ってしまいます。
「柳葉刀、新しくしたよ。今夜試し切りするますの、一緒に来るか?」
「え、いいの? 武器が刀って格好いいわよね、一度実際に見てみたかったの!」
標的の首を切り落としたときも、物陰で見ていたエレンは大層はしゃいでいました。
エレンのエモノは拳銃ですから、私の柳葉刀が珍しいらしく、興味深そうに見つめています。
「格好いいわ! 持ち方はこうかしら?」
手近の箒を手にして振り回す姿を見る限り、彼女が中国武術を理解するのにはあと千年くらいはかかりそうですね。冗談ですけど。
でも、そんな風にエレンと過ごしているうちに気づいたことがあります。
それは、彼女の視線です。
時折、エレンは遠くを見ているような目をすることがあるのです。まだ見たことのないものを夢想するような、あるいは遥か昔に失くしたものを懐かしんでいるかのような、そんな眼差し。
そういう時のエレンの顔にはどこか憂いがあって、女性同士ですが、とても美しいと感じてしまいます。
その横顔に見惚れていると、エレンはすぐに我に返り、そして見られていたことに驚いているような表情にコロッと変わって、目を真ん丸にして私を見つめてくるのです。
「どうかした、シェンホア?」
なんでもないと首を横に振れば、それ以上は何も訊くことはありません。こういうところが、彼女の優しさなんでしょうね。
しかし、こんなにも綺麗な顔をしているのに、エレンはどうして殺し屋なんかやっているのでしょうか?(まあ、見た目に関しては私も似たようなことをよく言われるのですが)
そんなことを、エレンに尋ねたことがありまして。
彼女は自分の過去のことを「覚えていない」と言いました。なぜ殺しの技術を身に着けているのか、どこで習得したのかを覚えていないというのです。
始めこそ、話したくないのだと思ったのですが、どうも本当に記憶がないようなのです。
私にも忘れてしまいたい記憶の1つや2つこそありますが、果たして記憶をなくすことが幸せかと言えば、そうではないでしょうね。あのときのエレンはとても寂しそうな表情をしていましたもの。
ときどき彼女が見せたあの物憂げな眼差しは、そのせいもあるのかもしれません。
そんな話を知ってしまったからこそ余計に、私は、彼女を気にかけるようになっていったのです。袖振り合うも多生の縁ですからね。
そういえば、彼女が初めてロアナプラに降り立ったその日、一番はじめに言葉を交わしたのが張大哥だったという話を聞きました。それがきっかけで、この街に腰を据えることにしたとか。どんな話をしたのでしょう? 何事もご縁ですね。
──ああ、ひとつ思い出しました。張大哥といえば──
ある日、彼を訪ねてきたエレンとたまたま鉢合わせたときのことです。
私が張大哥のオフィスに向かって廊下を歩いていると、ちょうどエレンが帰るところだったらしく、オフィスのドアが開きました。
「それじゃあな、エレン」
そこから出てきたエレンと共に、張大哥の姿もありました。わざわざ見送りに席を立ったのでしょうか? 珍しいこともあるものです。
「ええ、またね、張」
「ああ」
軽く手を挙げて答える張大哥。
エレンはというと、そのまま立ち去るのかと思いきや、なぜかその場に留まっています。そして、張大哥をじっと見つめているのでした。
「ん? なんだ、まだ用事でもあるのか?」
「あ、ううん……」
なんとも歯切れの悪い返事です。いつもの彼女らしくありません。
「んん? 可笑しな奴だな」
「そうね……そうかもしれないわ」
そう言って、エレンは小さく笑いました。まるで悪戯がバレてしまった子供のような笑顔でした。
そのときのエレンを見る張大哥の眼差しが──なんというか、少しだけいつもと違って見えたのです。
それが何だと言われるとはっきりは言えないのですが、今まで見たことのないものでした。──どことなく温かいような、優しいような。そんなふうに思わせるような、穏やかな眼差しでした。
そこにどんな感情があるのかは計れませんが、大哥がエレンに目をかけているのだということは私にもわかります。
そしてエレンが張大哥に向ける瞳もまた、何とは断言はできませんが、他とは違う特別な想いが見て取れるような、真っ直ぐに見つめる瞳は輝いて、それは確かに信頼に満ちたものでありました。
この二人の間には、どんな余話があるのでしょうか。
いつかエレンは話してくれるでしょうか?
その日を、私は密かに待っているのです。
ともあれ、早く怪我を治して、また元気な顔を見せてほしいものです。
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(beyond the gaze)(視線の向こう側)