あれから──
19歳になったばかりのエレンは、張と会ったばかりの頃に比べ、すっかり成長し見違えるような女性になっていた。
顎くらいの長さで切りっぱなしだった癖毛は、背中まで長く伸ばし、癖を活かしたウェーブヘアに変わっている。背丈もすっかり伸び、手足もすらりと長く、豊かな胸元とそれを引き立てる見事なくびれのウエストがメリハリのある曲線を描いていた。服装も女性らしいものを好むようになり、身体のラインが美しく出るノースリーブのトップスに、スラックスとパンプスが彼女の定番だった。
未だ三合会の張からの仕事を受ける機会はなかったが、銃のスキルを活かして食うに困らないだけの稼ぎは得ている。
その日も、受けた依頼を果たすため、街に出ていたエレンの耳に入ってきたとある話。
香港三合会と、最近この街にやってきたロシアンマフィアの話である。
「ホテル・モスクワと三合会が?」
エレンは聞き返す。
「ああ、今、あそこは一触即発の状態だからな」
男は頷いた。
「と言っても、一方的に新参者のモスクワが絡んでいるんだがな。おかげで、三合会は連中に手を焼いていた」
エレンもそれは知っていた。
つい最近、この街に事務所を構えたばかりのロシアンマフィア──ホテル・モスクワ。
トップに女ボスを据えるこの組織は、この街に確実に勢力を伸ばそうとしていた。
事実、エレンの知る限りでも、すでにホテル・モスクワは街の至る所にフロント企業をかまえており、この街で活動するあらゆる業種に手を出し始めている。
だが、香港三合会は、ロシアンマフィアが進出してくる以前からこの街を縄張りとして来た古参の組織なのだ。当然、ロシアンマフィアのことを快く思ってはいなかっただろう。
そんな中で起きたのが先日の事件である。ホテル・モスクワが三合会の縄張りで派手に暴れたのだという。
そのせいで大きな揉め事に発展したと男は話を締めくくる。
そう、ホテル・モスクワはこの街を牛耳っていた香港三合会に喧嘩を売ったのである。
おかげで毎日のようにあちこちで小規模な抗争が起きて、力を持たない者たちは恐れおののくしかない。
両組織は互いに睨み合っていて、一触即発の状態だという。
「なぜこんなことが?」
エレンは尋ねた。
「なに、簡単なことだ。モスクワはこの街を支配したい。ロアナプラを自分たちのものにするつもりなのさ。──イワンの連中、ずっと派手に暴れているだろう。三合会は、そんなモスクワに反発してきたが、一向に解決する様子もない。
三合会だって、新参者にデカい顔されるのは面白くないだろうよ」
男は続ける。
「この間からバチバチと火花を散らしてやがったが、ついにやりあうみたいだな。
──今夜、三合会とホテル・モスクワ、敵同士の幹部連中が会議を開くことになったらしい──ロアナプラヨットハーバーで、だ」
──幹部──。
エレンの脳裏に、張の姿が浮かぶ。
「なるほど、事情は分かったわ」
「ああ。今日は出歩かない方が無難だな」
そう言われたところで仕事をキャンセルするわけにはいかない。エレンは内心ため息をつく。
「きな臭え匂いがするぜ……」
男は呟いて、空を見上げた。どこからともなく、ヘリコプターの飛行音が響いていた。
***
男と別れ、めっきり
エレンは反射的に路地裏に身を隠す。
すると、通りを武装したロシア人たちが走り去っていく。彼らの歩調は見事に揃っていて、少しのブレもない。
(……あれは、ホテル・モスクワ……)
そんなロシアンマフィアの行進を覗き見るエレンの目に、装甲車が飛び込んできた。
マフィアというより、これでは軍隊だ。ホテル・モスクワという集団は、一体何者なんだろうか。
──三合会は──張は、どうなるのだろうか。
エレンが心配してもどうなることでもないのだが、チクチクと心を刺すようで仕方がなかった。
***
数時間後。
依頼を終えロアナプラに戻ったエレンは、そこに立って、注意深く辺りを見渡していた。
──
そんな静けさに反して、桟橋は破壊の限りを尽くされ、見るも無惨な姿であちらこちらから黒い煙を上げている。
硝煙の匂い、血の匂い、赤い色の靴跡、くすぶり燃える橋の木材の匂い、辺りに転がる無数の薬莢、空のマガジン、それらは確かに争いの跡だった。
ただそれらを見ても、争いの顛末は不明のままだ。
どこかにその答えを探して、神経質に暗闇に目を凝らすエレンの視界に入ってきたのは、倒れている人間──黒いスーツの、東洋人の男だ。穴だらけの胴体は、ひと目見て死んでいるのだと分かる。
ドキンと心臓が跳ね上がった。
──いや違う、きっと違う。
恐る恐る近寄って、顔を確かめる。
(違う……張じゃ、ない……)
ホッとして顔を上げたその視線の先にも、男が倒れている。
ひとりひとり張ではないことを確かめていると、いつの間にか桟橋の先へ先へと進んでいた。
大きな月が、煌々と辺りを照らしている。波の音だけが場違いに静かに囁く。
──桟橋のど真ん中に、男が倒れている。
エレンはその姿を目にしたとき、ひと目で気づいた。
「
(嘘。嘘でしょう?)
そこには横たわる張の姿があった。思わず駆け寄って、傍らに膝をついた。
今にも消え入りそうな呼吸に揺れる彼の身体の下には、大きな血溜まりができている。命の危険があるとわかるくらいの出血量だ。──死んでしまう。
そう思った瞬間、エレンの胸は今までで一番、ドクン、と大きく脈打った。
「ねえ、貴方、張維新でしょ!? 私の声が聞こえる? しっかりして!」
思わずその頬を叩く。
サングラスに手をかけ外してみるが、暗いレンズのその下の双眸は、やはり固く閉じられていた。
張は左肩と左大腿部を撃たれているようで、そこから未だ出血が止まらないようだ。
(血を止めなきゃ──)
エレンは辺りを見回すと、心のなかで謝りながら、遺体となって倒れている人のネクタイとポケットチーフを抜き取る。
張の元に戻ったエレンは、彼の左腕にネクタイを巻き付けると、きつく縛った。
彼の名前を呼びながら、出血のひどい左の腿を強く押さえ止血を試みるのだが、動脈からの出血は圧迫ごときでは止まらない。
すぐに血に染まってしまった布切れを投げ捨てて、再び紐状のものを探して辺りを見渡すエレンの瞳には悪夢のような光景が映る。
──人が死んでいる光景など、この街ではもう見慣れたはずだけど、こんな規模は今までになかった。
これではまるで、──戦場だ。
張は瞳を閉じたまま動かない。辛うじてある呼吸は苦しそうで、脈も速くなっている。出血性ショックを起こして血圧が下がっているのだろう。早く何とかしないと、彼は死んでしまう。
「ダメ、死なないで……」
辺りを見回して、木の切れ端を見つける。この大きさならちょうどいい……急いで向かい、木の端を手にするとエレンは彼の元に戻った。出血している左の腿にきつく布を巻き縛ると、さらに木の切れ端を布に巻き付け縛る。
──これできっと止血できる。
浅く早い呼吸を繰り返す彼の顔色は青白く、エレンを焦らせた。
「……一人前になったら、
焦る気持ちがエレンの額に汗を滲ませる。拭ってもすぐにまた流れる水滴を感じた。
ここ、ロアナプラヨットハーバーで少し前に起きた出来事。香港三合会とホテル・モスクワの
一通り殺し合って引き分けたのか、ホテル・モスクワが勝利したのか。今ここに倒れているのは東洋人ばかりだから、どっちの可能性もあり得る。
「ねぇ、頑張って……死なないでよ……」
声をかけながら張の胸に耳を当て心臓の音を確かめた。
「──!」
音がしない?
エレンは慌てて、両手を重ね彼の胸へ押し当てると、 体重をかけ圧迫して律動を繰り返す。
動きに合わせて彼女の額からは汗が滴り落ちた。
合間に、人工呼吸を試みる。何度か繰り返しても彼に動きは見られない。ジリジリと焦燥感が高まって、エレンは彼の冷たい頬を叩いた。
「張維新!! 私、エレンよ! 死なないで! 約束、忘れたの? ──戻ってきて、戻ってきなさいってば!!」
思い切り息を吹き込んだ。
その時、唇にふっと生暖かい風が触れる。
「あ……」
思わず声が出た。呼吸が戻ったようだ。ほっとして身体中から力が抜けた。
彼の目がゆっくりと開き、虚ろな黒い瞳がぼんやりと宙をさ迷う。その視線がエレンとかち合ったとき、彼の唇が微笑むように微かに動いた。
「何? 言いたいことがあるの?」
耳を寄せる。 吐息に交じって聞こえてくる声にエレンは目一杯、感覚を澄ます。
「こ…………は」
「“ここは”? ここはヨットハーバーよ。もう大丈夫だから、安心して」
彼に向かって微笑んでみせる。
──おそらく、三合会からそろそろ応援がくるんじゃないか。あまり長居して、ホテル・モスクワが戻ってきたり、敵勢と間違われて三合会に撃たれたりすることは避けたい。自分の見た目だと三合会の仲間には見えないだろうから、とエレンは思う。
「……ん……く、……か」
「いいのよ。喋らないで」
まだ何か喋ろうとする彼の唇に手をやって制すると、顔を上げて立ち上がろうと……した。
至近距離にぽっかり空いた黒い穴の、暗い暗いその闇をエレンはただ見つめることしかできなかった。銃口が、彼女に向けられている。
黒いスーツの長髪の男性が銃を向けて、何かまくし立てているが、中国語のためエレンにはわからない。恐らく三合会の組員だろう。
──これはまずい状況だ。エレンは口の中の唾液を飲み込む。
「ねえ、早く病院に連れていった方がいいわ」
そっと両手を上げて、攻撃の意志がないことを示してみたけれど、目の前の人間は興奮状態にあるようで、一向に銃を下ろしてくれる気配はない。
(──こういうとき、 私はどうすれば)
その時、張が微かに呻き声を上げた。
長髪の男がそちらに気をとられたようで張の方を振り向く。
──三十六計逃げるに如かず。
エレンは身を翻すと、手すりを乗り越えて暗闇に身を踊らせる。亜麻色の髪がふわりと宙に舞った。
「
その声を背後に聞きながら、彼女は海へと飛び込んだ。
***
(張維新──あの日、この街に歓迎すると言ってくれた──私に居場所をくれた人)
だから、死んでほしくなかった。
初めて見た彼の黒い瞳が、不思議とエレンの頭の中に残った。何故か特別なものを見た気分だった。
一仕事終えた気分で、 濡れた服を絞る彼女はどこか上機嫌そうで、その足取りは軽やかだ。一歩歩くたびにぐしゅぐしゅと濁った音がして靴の中の海水が溢れ、地面を濡らしていく。
「お腹空いたな……」
屈託のない調子で、エレンは呟いた。
(まず食事をするとして、──今夜はパーッと飲もう。そう、コーラでも)
ひとり頷いたエレンは、足取り軽く夜のロアナプラへと消えていった。
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(Sie haben mich angelogen!)(約束したはずでしょ!)