死にたがりの讃歌   作:椿芽

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第9話 幻に恋した愚か者のこと (抗争の際の話/張視点)

 1993年、11月

 

 ──傷が痛む。

 

 “彼女”の放った弾丸は俺の左肩と左脚に風穴を空けた。

 我ながら情けない話だが、ロシア人の連中が引き上げたのを確認したあと、体が動かなくなってしまった。思ったより深手だったようだ。傷の痛みはこれまでの人生でも五本の指に入るほどのものだが、痛みのおかげで意識が保てているようなものだ。

 “彼女”に撃たれた傷は幸いにも急所を外れていたが、出血がひどい。失血で徐々に意識が朦朧とし始めるのを感じていた。

 ──まったく、俺も焼きが回ったもんだ。

 

 鮮血が止めどなくあふれ出る。

 

 これを止めなければ確実に死に至るだろう。 肩をやられて動かない左側とは反対の、右手で脚の銃創を押さえれば、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。息も絶え絶えで、呼吸する度に身体のあちこちがずきずきと痛んだ。

 

「ああ……、 クソったれ……」

 

 いつの間にか、視界が揺らめき始めたのに気付いた。押さえていたはずの右手にすでに力は入っていない。まるで血と一緒に体温まで流れ出ているようだ。

 

「……あーぁ、こりゃダメだな」

 

 独りごちて苦笑する。いよいよ限界らしい。目蓋が急激に重くなる。だんだんと、痛みも感じなくなってきた。

 これは、ついにこの世におさらばするときが来たようだ。

 

 まぁ、これといってこの世に未練はない。後のことは兄弟たちがうまくやってくれるだろう。

 それまで体に入っていた力を抜くと頭がゴトリと地面に落ちる。

 

 もはや痛みも感じない。

 視界は霞み始めたし、さっきまで聞こえていた波の音だって、もうしなくなった。

 

 桟橋のど真ん中で天を仰げば、暗い夜空に白銀の月がぽっかりと浮かぶのが目に入った。

 

 ──なかなかどうして、洒落た最期じゃあないか。

 無意識のうちに、笑っていた。

 あばよ、ロアナプラ。

 

 ────だが。

 

 女の声がする。

 その声に呼ばれるように目を開けた。

 唇に、誰かの唇が触れている。伝わってくる体温がひどく心地よかった。

 ──ああ、やっぱり俺は死んだのか。これは死神のキスというやつかもしれない。不思議と悪くない気分だ。

 それは、今までに経験した中で最も甘い口づけだった。不思議と気分が穏やかになる。

 

 唇が離れて、温かな感触が残ったのを感じた。

 自分の唇から漏れた吐息が、温かいことを感じる。

 ……温かい? 

 ……なんだ、まだ生きてるじゃないか。

 

 ──―俺を間近で覗き込むのは、女だった。

 白く光る月を背負って、亜麻色の髪がぼんやりと発光している。美しい女だと思った。

 まるで聖母のように慈悲深く見つめてくる顔には見覚えがある気がする。彼女の紅い唇が動いて、俺に向かって何かを話しているようだったが、この耳は何もとらえることができない。白い指先が俺の顔に触れて、慈しむように頬を撫でた。

 温かなその手が、とても、心地良い。

 

 どこかで会ったことがあるような気がする。

 ──だが、こんな女神さんがいるってことは、──ここが“天国”か。

 女神さんが顔を寄せてきて、柔らかな髪が頬をくすぐる。

 

「こ…………は、」

 

 思わず尋ねようとしたが、うまく声が出なかった。

 女神さんからいい匂いがする。おまけにとびきり甘い微笑みを見せられ、まったく愉快な気分になってしまった。

 

 女神さんはさらに顔を近づけてきた。そして、また口づけされるのかと思っていたら、今度は耳元で囁かれた。やはり言葉は聞き取れなかったが、女神さんの吐息がくすぐったくて、俺は思わず身を捩ってしまった。すると彼女はフッと笑って離れていく。

 

「……ん…………く、……か」

 

 ここは天国か、そしてあんたは女神だな? そう言おうとした────ところで、身体中を再び痛みが襲った。

 ああそうだったな。忘れちゃいないさ。俺は撃たれたんだよ。

 

大哥(アニキ)!」

 

 この声は、(ビウ)じゃないか。そうか、お前は無事だったんだな。

 声のした方を見ると彪が銃を構えている。その照準は、──女神さんに向いていた。

 だが、その女神さん本人は慌てる様子もなく、 膝立ちのまま彪に向かって何か話しかけているようだ。

 

 ──彪、その女は、白人の女だが、ホテル・モスクワじゃないぞ。そう伝えたかったが、相変わらず声が出ない。

 

「待てっ!!」

 

 彪が叫び声を上げるより早く、女神さんはその姿を消していた。

 

「──彪、──」

 

 ようやく振り絞った声で、我が腹心を呼ぶ。

 

(チャン)大哥!無事だったんですね……」

「あ、あ…………、」

 

 それだけ答えるのがやっとだった。

 

 彪と話をしている側から、車から降りた三合会の連中が集まってくる。

 

「大哥、よくぞご無事で……!」

「傷の手当を……」

「おい、早く運べ! 大哥を医師のところへ──」

 

 先程まで鈍っていた聴覚が、だいぶ戻ってきている。

 ──お前ら、少しは静かにしたらどうだ。怪我人の前で、騒々しいぞ──

 

 思ったことは言葉にはならず、意識と一緒に闇に飲まれていった。

 

 

 その後は、あれよあれよと言ううちに病院に担ぎ込まれ、俺は治療を受け、結局、一命をとりとめたのだ。

 ──―暫くは集中治療室で体中チューブだらけという有様だったが。

 

 

 俺が再び意識を取り戻したとき、最初に目に入ってきたのは見知らぬ天井だった。

 次に感じたのは、左肩と、脚を走る激痛。

 あまりの痛みに思わず顔をしかめる。そこでようやく、自分がベッドの上に寝ていることに気づいた。

 起き上がろうとしてみたが、身体中に走る痛みのせいで、満足に動けない。無理もない。何せあれだけの大怪我を負っていたんだから。

 

「くそ……」

 

 悪態をついて再び横になる。すると、すぐ近くから人の気配がしてそちらへ顔を向けた。

 

「気が付かれましたか、張先生(張さん)

 

 そこに立っていたのは、白衣姿の壮年の男──三合会タイ支部お抱えの医師、(ファン)だった。

 

「……ここは?」

 

 俺が訊ねると、彼は静かに答えた。

 

「病院です。あなたはあの後ここに担ぎ込まれてきたんですよ」

「そうか……。俺は助かったんだな……」

 

 安堵のため息をつく。どうやら、まだ生き長らえることができたらしい。

 それにしても、よく死なずに済んだものだ。運が良いのか悪いのかわからないな、まったく。

 そんなことを考えていると、突然扉が開かれて誰かが部屋に入ってくる音が聞こえた。足音はそのままこちらへと近づいてくる。

 

「張大哥、目が覚めたんですね」

「良かった」

 

 口々に言いながら部屋に入って来たのは、部下たちだ。彼らの姿を見た途端、俺は自然と安堵のため息を漏らしていた。

 

「お前たちか」

「はい! お加減はいかがですか?」

 

 心配そうに見つめてくる部下たちの顔を見ていると、不思議と温かい気分になった。思わず口元が緩む。

 

「……ああ、見ての通りだが……、お前らが無事で良かったよ」

 

 俺の言葉に全員が嬉しそうな声を漏らす。

 

「ええ、おかげさまで!」

「大哥のおかげです」

 

 口々にそう言いながら、彼らは次々に感謝の言葉を述べた。そんな彼らを、俺は視線だけで見やる。

 

「しかし……、死神のやつ、てっきり迎えに来たもんだと──」

 

 ──そうだ。思い出した。死神なんかじゃあなかった。

 あの時……、女神さんとキスした時に感じた心地良さ、唇の感触も温かさも思い出せる。

 あれは現実だ。一体、何だったんだ? 

 

「あのとき、あなたに応急処置を施した人間がいたのですよ」

 

 黄大夫(医師)が静かに言う。

 

「あぁ、そうだ……女だ」

 

 白く光る月を背負って、優しげに微笑む女神さんの姿が、脳裏によみがえる。

 

 黄大夫は、見た目にたがわぬ温厚な性格をしていて、滅多なことでは表情を変えない男なのだが、このときは酷く険しい顔をしてこう言ったのだ。

 

「その女性が処置をしていなかったら、張先生(張さん)、あなた死んでいたでしょうね」と。

 部下の一人が、呟くように言った。

 

「……その女性は、誰だったんでしょうね?」

 

 彪が思い出したように続ける。

 

「──そう言えば、俺も見ましたね。張大哥を見つけたとき、側に女が──白人の、髪の長い女でした」

 

 あの亜麻色の髪の女神さんの顔……そして唇の感触は今も覚えている。彼女の姿を頭の中に描いて、記憶を探る。

 

「あの女、本当に女神だったのかもしれないな……」

 

 冗談半分で口にすると、部下たちが一斉に笑い声を上げた。黄大夫だけが呆れた顔で俺を見ている。

 

「まったく、あなたは……死にかけていたというのに」

 

 黄大夫がため息をつくのを聞きながら、俺は目を閉じた。瞼の裏に映るのはあの白銀の月夜のこと。まるで夢のような出来事だったが、こうして無事に生き延びている以上は現実だったのだろうと思うことにした。

 邪魔で仕方ない酸素マスクの下で、誰に言うともなく呟いた。

 

「だが、──―どこかで会ったことがあるような気がするんだがな」

 

 ──彼女は一体何者なんだ? あんないい女、一度会ったら忘れないだろうに。そんな疑問を抱きつつ、体力の回復していない俺は長い眠りについたのだった。

 

 

 それから一週間ほど経った頃、ようやくベッドから離れることを許された俺は、黄大夫に連れられて病室を出た。

 

 ──そういえば、そろそろ退院の許可が出る頃だと言っていたな。

 廊下を歩きながら、黄大夫が振り返る。

 

「張先生、あなたにはいくつか訊きたいことが……」

「わかっているさ、黄大夫。だが、今は勘弁してくれないか。せっかく外に出られたんだから、ちょっとくらいシャバの空気を味わわせてくれ」

「わかりました。ですが、くれぐれも無理はしないでくださいよ。あなたはまだ安静が必要な身なんですから」

「ああ、ありがとうよ、黄大夫。ところで、俺がいない間に変わったことはなかったかい?」

「いえ、特に変わったことはありませんよ。

 ……強いて挙げるなら、あなたを救った女性の正体がわかったみたいです」

「ほう、それは是非とも知りたいところだな」

 

 まだ怠さが残る身体を壁に預けると、煙草に火を点ける。黄大夫に叱られるかと思いきや、彼は何も言わなかった。

 

「詳しくは彪先生(ビウさん)から聞くといいでしょう。あとで、あなたの元へ行くと言っていましたよ」

「そうか、分かった。じゃあ、後でゆっくり聞かせてもらうとするかな」

「ええ、そうした方がいいですね。では、張先生。ご無理はなさらないよう」

 

 それだけ言って、黄大夫はその場を離れた。

 俺も、ゆっくりと歩みを進める。

 

「さあて、女神さんの正体はいったいどんなもんだろうなぁ?」

 

 口にくわえた煙草の煙とともに、独りごちる。

 期待に胸を膨らませながら、俺はやけに遠く感じる病室へ向かって、再び歩きだした。

 

 ***

 

「──張大哥、こちらが例の女の詳細データです」

 

 彪はそう言って、封筒を俺に向けて来る。

 

「ああ、どれどれ──」

 

 封筒の中身を取り出すと、写真が数枚、それから彼女についての簡単な報告書らしきものが一枚。そこには、こう書かれていた。

 “エレン・リーフェンシュタール、人種:おそらくヨーロッパ系白人、国籍不明、年齢:20代前半と思われる、出自不明、……組織に所属しない殺人代行者”

 

「……エレン? エレン・リーフェンシュタール……エレン、エレン……」

 

 その名前に、聞き覚えがあった。そうだ、確か、──

 

「──ああ、思い出したぞ」

 

 女の声が頭の中にこだました。同時に、自分を強く見据えるガラス玉のような大きな瞳が、目の前にあるかのようにはっきり思い出される。

 

『私はエレン。エレン・リーフェンシュタールよ』

 

「エレン・リーフェンシュタール……あぁ、あのときのお嬢ちゃんか──」

 

 そう呟くと、俺は自分の顔がほころぶのを感じた。

 

「おい彪、この女を探せ。そして──、 俺のところに連れてくるんだ」

「はい、分かりました、大哥」

 

 ──さて、あの女神さんに礼をしなくちゃならないな。

 そう考えながら、俺は手元の写真に目を落とす。

 

「ふふ、ずいぶんと成長したもんだ。──いい女になったな」

 

 そこには、亜麻色の髪を靡かせた女神が写っていた。

 _____

(Tes lèvres sont plus sucrées que le nectar d’une fleur.)(貴女の口づけは花の蜜よりも甘い)

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