「先生、これが恵方巻き?」
「そうそう」
任務疲れで机に突っ伏していたイオリの目の前に差し出された皿の上に盛られているのは、ペットボトルよりも一回り小さい、頬張るには少し大きい巻き寿司。断面からは玉子、きゅうり、それに魚の赤みなど色とりどりに飾られていて、なかなかに立派なものだった。
エプロンで手を拭きながら先生がスマホを取り出す。
「私の生まれた場所だと、これを決まった方角に向いて食べるんだ。一気にね。」
「これを…なんで?」
「さぁ?私も分からない。」
「あ、でも最近は一言も喋らずに食べ切ると願い事が叶うって言われてるらしい」
今年は東北東だって
「ふうん。」
「それじゃ私は配る分も作ってくるから、先に食べちゃっててもいいよ。」
くるりと踵を返し、調理に戻っていく先生の背中を見届けた。突っ伏した体をそのままに、肘を軸に、だらりと項垂れた右手でつんつんとついてみる。ノリは幾分か乾いていて、先ほど作られたばかりなのが伺える。
(願いが叶う、か)
グローブを脱いで皿から一つ、小さめのものを手に取った。比較的ズシリとした恵方巻きの先端が折れそうになり、慌てて両手で持ち直す。
(あっ…!)
持ち方が悪かったのか、さらに先端がだらりと地面に向く。いけない、このままだと先っぽから中身が溢れてしまう。
どうする。手で抑えるか
いやだめだ、今手を離すともっと酷いことになりそう。
足で受け止めるか
却下、だめでしょ。
皿まで戻してはどうか
姿勢が悪い、体をそこまで捻れない
どうしよう どうする どうーーーー
・
・
・
(むぐぐ)
口を大きく開き、恵方巻きを頬張ったイオリの姿がそこにあった。落とさなくて済んだのは良かったが、咄嗟だったので口が少し苦しい。それに勢いよくかぶりついたから、すでに噛みちぎりそうだった。口端から垂れる涎を器用に啜りながら、左手で携帯を操作しコンパスのアプリを開く。机の上に置き、ぐりぐりと動くコンパスが指す東北東の方向はーーーー
「むぐぅ…」
コンパスの先には調理中の先生の姿があった。追加の恵方巻きを巻いている先生は、幸いにもこちらに気づいていない。もう普通に食べようかと一瞬迷う素ぶりを見せるが、先ほどの言葉を思い出す
“願いが叶うって言われてるらしい”
別にそれを信じるほど子供ではない。
でももし、本当に願いが叶うのであれば私は何を願うだろうか
少し考えてからスマホを顔から離し、正面を向き直す。
大きく開いた口をあぐあぐと動かして恵方巻きを少しずつ、少しづつ小さい口の奥に収めていく。
見つからないかとヒヤヒヤしながらじっと前を見つめる。
食事の姿というのはあまり見られたくない。こんな大口を開けている姿なんて、特に意中の男性には。
最初はどう食べればいいのか分からなかったが、少しコツがわかってきた。
唇を窄め、口内で咀嚼して砕けたそれを味わうように舌の上で転がす。
こちらの気など知りようもなしと言わんばかりに、見つめる視線には気づかない。
両頬に詰まった食事を喉を鳴らして嚥下する。
また少しずつ咀嚼し、飲み込む。
願い事を忘れぬように、じっと前だけを向いていた。
先生の調理が終わる頃にはすっかり食べ終わり、指についた跡をペロリと舐めとる。
あれだけの物を咥えていたせいで顎に疲労感がじんわりと広がるし、結構ボリューミーでお腹が重い。熱烈な視線にようやく気づいたのか、先生がこちらに向かってくる姿が見えた。
***
ようやく10本目も作り終わろうか、というタイミングで自身を見つめる熱い双眸に気づいた。横に目をやるとお腹を撫でながら椅子に佇む彼女の姿が目に入る。
「ごめんごめん食べづらかったよね、今包丁持って…あら」
彼女のもとに駆けていくと、皿の上の恵方巻きが1本なくなっている。食べてくれたんだ
手作りだったから気に入らなければどうしようと考えていたが、1本丸々完食してくれたらしい。彼女に食べてもらえて、ちょっと嬉しい気持ちになる。
でもあれ、食べてくれたってことはだ。
「もしかしてお願い事とかしてたりする?」
「…まぁ、そう言ってたし。」
「へぇ〜!なになに先生気になるな。」
膝を折って合わせた目線を彼女が逸らす。何を願ったのだろうか。彼女の恥ずかしがるような顔をもっと見ていたいが、どちらかというと生徒のお願いを個人的に叶えてあげたいという思いがあった。私が生徒を頼るのだから、私だって生徒に頼られたい。あと単純に気になる、彼女たちが普段何を望んでいるのかが。
口元を隠した彼女の重い口が開かれる。
「…今年は」
「うんうん」
「今年は怪我がありませんように ってお願い。」
「え」
うんうんと頷く首がぴたりと止まる。
瞑っていた目を開けると、人差し指をこちらに指したイオリが立っていた。
「…私?」
「うん。」
「ーーーーー」
てっきり何かねだられるとか、変態な行動をするなとか、そういうことを言われると思って構えていた自分には、予想を大きく外れた回答に言葉が出なかった。
しばらくお互いに沈黙が流れて、先に口を開いたのは彼女だった。
「それだけ!もういいだろ、先に食べちゃったから私は帰る!お疲れ様!」
「えっああうん、お疲れ様ーー…。」
乱暴に扉が閉められ、壁かけのホワイトボードに留めていたカレンダーがばさばさと床に広がった。
***
1分か、2分か、フリーズした頭に血を巡らせて散らばったカレンダーを拾う。胸がドキドキしている。その瞬間、血が巡り出すのと同時にぐわりと頭を揺さぶられる感覚がして、足元がふらついた。その足で窓に体をぶつけるように背を預け、膝からがくりと落ちる。
すぐに震える指先でポケットから袋を取り出し、中身を噛み砕き飲み込んだ。苦かったり、甘かったり、辛かったり、ざらついた感触に気持ち悪さを感じながらも次第に楽になっていく感覚に安堵する。
息が整ってきた頃、背を預けた窓におでこを当てる。冷えたガラスが心地いい。
まだ春には早い2月、寒空に駆け出す彼女の姿が窓から見える。
まだ小さい背はぐんぐんと遠ざかっていき、やがて曲がり角を曲がって見えなくなった。
疼く背中が体を蝕む。
この世界には私のような人間向けの病院はないから確証はないが、なんとなくわかる。
手元のカレンダーに目をやり、残っていた1月のページを破った。
2月が顔を出し、空白の予定を埋めてくれと言わんばかりにまっさらなページを曝け出す。
今年か。
「…もう少し、頑張ってみようか。」
あんな顔をして、私を想う生徒を残してどこかになんていけやしない。
長いようで短い時間。1年の1ヶ月が終わった。