誤字してたのであげ直しです。恥ずかしい
夕刻、赤く腫れた廊下を歩く影があった。目当ての扉を前に
「失礼します」
いうが早いか、ドアノブに手を伸ばし扉を開ける。ガチャリという音と共に開かれた部屋の明かりで、伸びた影は小さく縮む。カーテンが閉められた部屋で、白い蛍光灯が広い部屋を目いっぱいに照らしている。
「あら、いらっしゃい。」
季節感のない部屋で分厚いファイルをそのままに、ひらひらと手を振りながらこちらに顔を向ける人が一人。普段とは違う、大きな眼鏡をかけている姿はどこか新鮮だった。
◆
「先生って眼鏡かけるんだ。」
「細かい文字を読むときはね。負担が少ないんだ。」
メガネを外して目頭を押す先生の膝下には、先ほどまで開いていた分厚いファイルが広げられている。遠目に見える几帳面に揃えられたリストと数字から察するに、この時期ならきっと経費精算と来期の見積だろうか。相変わらずワンマンな仕事ぶりには驚愕する。
「先生ってもしかして、見た目は若く見られるタイプ?」
「うぐ、そりゃ生徒と比べればおじさんですよ私は…。」
先生は傍目に見ても明らかに年が離れているようには見えない。しいて言えば体を動かすときの節々の動きが生徒と比べて鈍重なくらいだ。だからこそ眼鏡をかけるだけで知的な雰囲気を出せるのか、遅い動きは雰囲気も相まって大人の余裕にも見て取れる。
「嘘だよ。なかなか似合ってる。こう、“大人”って感じ?」
「えっかっこいいって?照れちゃうな、ありがとう。」
「そこまで言ってない。」
大人のように見えて幼なげな感情表現、褒められ上手とでも言おうか。そんなところは結構可愛いと思う。なるほどこれは。大人の魅力と子供の素直さを上手に使い分ける先生に、お熱な生徒がいるのも頷ける。私だって少なからず自覚はあるし、これで変態的な行動さえなければ理想の…いや、アレがあったからこそ今の先生との関係が成り立ったんだった。そう思うと頭ごなしに否定はしきれない。
「まぁ」
「実はそんな余裕ないんだけどね。」
目を合わせてきた先生が先ほどよりもずっと優しい笑顔を向ける。大きい眼鏡のせいだろうか、いつも見えていた目の下のクマの代わりに整った顔だちが目立つ。対照的に白い肌、瑞々しさはないくせに肌荒れが見えない顔。婉容な表情に思わず胸がきゅうとなる。
そんなふうに瞬間、数えても1秒もないくらいに思考を奪われて、しまったと思った。この人やばい時ほど優しげに笑うタイプの人だ–––
赤い双眸にささりと携帯の画面を見せられる。
【締切厳守】
【再提出】
【申請書差戻し】
・
・
・
…画面にはこれでもかとReメールが並べられており、そのどれもが赤く色づいている。意識高くフォルダ分けされた未読件数にはもはや突っ込まない。
「…一応聞くけど、何これ。」
「今日中に返信しなきゃなメールと書類群。」
メールの件数に目を奪われた私だが、どんよりと曇る先生の顔も見逃さなかった。
◆
「お願い!助けてイオリ。私だけじゃ仕分けるだけで今日が終わっちゃう。」
「やだ、手伝わないぞ。私は書類を渡しに来ただけだ。」
「そこをなんとか!お礼はするから!あ、書類は貰っとくね。ありがとう。」
「お礼ってそんな物で釣ろうなんて…」
私はそんなに安くない という前に口を噤んだ。今日は3月14日、ある種生徒たちにとっては当日が迫るテスト期間より心がざわつく日。きっと先生からすれば終わるめどのない仕事に悩殺される1日。
自分からお返しをねだるなんて夢がない。どうせならこう、先生の方から渡してほしい。ロマンチックでなくとも良い。ただの一言でもいい。あなたの気持ちが知りたい。嬉しそうにしていた顔を思い浮かべては耳の辺りが熱くなって、2月の寒風に当たる日もあった。
バレンタインデーにチョコを贈ってから今日に至るまで、薄ぼんやりとそんなことを考えていた自分の乙女思考に心の中でため息を吐く。何かしら期待していたのは間違いではない。朝いつもより丁寧に髪に櫛を通して、メールですむ内容をパトロールのついでと理由をつけて、ゲヘナを出る前にちょっといい香水を振って、先ほどまでドア前で前髪を直していた。そんな程度の期待。
そこまでしたけれど、どうやら期待していたことは起きなさそうだと、半ば諦めていたところ。胸の中でぽっかりと穴開く隙間を埋めるのに”お礼“というのは実に都合が良かった。思い描いたものには遠く及ばないが、そこはこの際目を瞑る。先生がよく言うところの“妥協”というやつ。
「…まぁ、少しくらいなら手伝ってあげる。」
絞り出した声は思ったよりも息も多めに上擦って変に意識してしまう。だと言うのに先生は全くいつも通りで、ぱっと顔を上げて期待に満ちた目を向けてくる。
「ありがとう本当に助かる!それじゃ早速で申し訳ないんだけどデータ入力をお願い。フォーマットはあるからこの資料のここの数字を–––。」
「待って待って、急に言われてもわかんないから!」
まるで警戒心ゼロの犬猫のように急速に距離を詰め、矢継ぎ早に言葉を浴びせる先生の胸元に手をやって無理やりスペースを確保する。腕一本分の距離感に感じる温度差にドギマギしつつも胸中で文句を垂れる。私の心はそこまで切り替えが早くないんだ!
「先に飲み物入れてくるから、一旦落ち着いてくれ。」
今はこの場から離れた方が良い。業務的にも、私的にも。
「じゃあその間に席の片付けしとくね。隣でいいかな。」
「わかった。こっちはコーヒーでいい?」
「イオリの好きなの入れてきていいよ。いつもの戸棚に色々あるから。」
◆
少し離れた給湯室で手が届く戸棚には、キャンディだったり、ちょっとお高めの饅頭だったり、貰い物であろうラベルのお菓子だったりが乱雑に所狭しと並べられていた。あれ、ここら辺に飲み物系はまとめられていたはずなんだけどな。
手で戸棚を辿っていると、その中でも一際綺麗に積み上げられた部分に目が止まる。テトリスのように規則的かつ効率的に並べられたそれがバレンタインのチョコだとはすぐにわかった。個包装に規則性がないし、何より他のお菓子よりも可愛らしいラッピングが施されているものが多い。
(…)
それはそうか、大人だからといって贈られたチョコをすぐに食べ切れるわけもない。何より量が量だし。まあ、ある程度の保存期間があるから計画的には食べているのだろうけど。
(……ふぅん。)
興味本意で目を走らせる。私の贈った靴墨、もとい受け取らせたチョコはあるだろうか。別に既製品だし、元々長期保管ができるがゆえに賞味期限は長いから、別に気にしないけど––。
電気もつけずに暗い中、目が慣れた頃に見つかった。個包装もなく、また市販品がゆえに無機質な箱は少し上の方に鎮座している。背を伸ばして指先で突きながら器用に手中に収めると、思ったより軽い。箱を開けてみれば中はすっからかんで、代わりに付箋が貼ってある。
“X年 2/14 銀鏡イオリより、2/14食済”
走り書きのようだが確かにそう書いてある。目を丸くしていた私は一旦蓋を閉め直して、再び開けてみた。先ほどは気付かなかったビターチョコレートの苦みが鼻腔を擽り、日付を反芻した心に追いつくように心拍が駆け出す。箱は綺麗に保管されていたようで、ほこりも被っていない。耳に脈打つ音が聞こえてきて、誰もいないはずの給湯室の温度が上がった気がした。
◆
しんとした部屋に内線が鳴り響く。びくりと肩を震わせた私は急いで受話器をとり、跳ねた心臓を落ち着けようと胸に手を当てる。ひっきりなしに叩かれた胸が少し苦しかった。
「はい、こちら給湯室…」
『イオリごめん言い忘れてた!飲み物はいつもの戸棚じゃなくてそこから2個隣の方に移動してたんだった。そっち探してみて。』
「…わかった。」
『それだけ。じゃ待ってるね。』
「あちょっと…ってもう切れた。」
受話器を壁にかけ直して手元に視線を戻すと、そこには潰れてしまった箱の姿。
慌てて蓋を外すと、中の付箋も折れ曲がりがあったものの深くはない。ほっと胸を撫で下ろす。しかしどうしようか。両手で折り目を戻しては見るものの、ついた傷は鉄板を折り曲げたかのように非可逆で、どうやっても元には戻りそうにない。あそこまで箱が綺麗に保存…してあったと思われるのだから、こんな状態で知らんぷりして戻すのは流石に気が引ける。
うんうんと唸り続けて、そのうち…
なんか、無性にムカついてきたな。
初日に食べきったのなら何かあってもいいじゃないか。
せめて一言くらい、何かあってもいいだろ。
箱まで大事そうに取っておいたくせに。
こんな付箋にしてメモ書きまでしておいて。
そもそも何で私がこんなモヤモヤした気持ちでいなきゃいけないんだ。
意気地なしの甲斐性なしの変態め!
荒れた思いで2個隣の戸棚を開くと先生の言った通り、前に来たときよりも随分と種類が増えている。紅茶やココアは前から用意されていたが、今では抹茶や煎茶等そちらの方も多く揃っている。場所を選ばなければカフェすら開けそうな勢いだ。きっと面倒を見る生徒も増えたのだろう。緩やかにしかし確実に増える生徒たち。
手当たり次第に漁ると取り出してみる。
お、ちょうどいいのがあるじゃないか。
◆
用意している間にお礼の内容でも考える。
それにコイツの分も。
業務のお礼だけでは割に合わないくらいのものを。
自分からお礼をしたくなるくらいなモノを持っていってやるからな。
覚悟しとけよ先生。
その眼鏡が曇るくらい熱く
その舌が痺れるくらい苦く
そして
この思いが伝わるくらい甘い一雫を織り交ぜて
どうかあなたに伝わりますように。
◆